天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

ついには、Eテレ「おかあさんと一緒」等について考える(中途から、多少罵倒)。 その2

2017-02-24 21:09:23 | 映画・テレビドラマなど
先ごろから、日曜日の朝、BSプレミアムの「わんぱこホテルシリーズ」を観ております。架空の「わんぱこホテル」におとずれるお客さんを迎える、ホテル支配人親娘と、「ワンワン」という犬の着ぐるみキャラが、スタッフとして、ホテルを仕切ります。
 先ごろから、どうも、このホテルが、Eテレ「おかあさんと一緒」などのさまざまな番組の主演者(主演着ぐるみ又は人形の方)をゲストとして迎える、過去から現在までの、良質なEテレ番組の回顧・総括番組となっています。
 これだけ、無作為に、新旧入り混じり、種々雑多(?) な着ぐるみが集まり、番組を仕切り、進行するのには、やはり実力が要るものであろう、と推測できます。それをこなすのが、MC役の(支配人)の「ほのぼのさん」という地味めなキャラクターです。見た感じは、めがねをかけ小柄でおとなしげな様子ですが、彼が、どのキャラクターとも丁々発止とやりあい、時にはこども番組を逸脱するところまで、そのやり取り拡大し盛り上げてくれます。娘キャラも、かわいいだけの存在ではなく、自己主張が強く、今風に周囲に厳しいキャラでもあります。「ほのぼのさん」は、その娘と正面からやりあい、それを、調停役として、受身・温和キャラとして振舞わざるを得ない「ワンワン」が受けます。
 近年、特に、NHK着ぐるみ女子キャラも、時流に応じ野獣化を遂げたのか、目立ちたがりで、自己主張が強い、こととなっています。「いまどき、流行の女の子」なのでしょう。また、一方で、最近の着ぐるみ男子キャラが変質したのでしょか、この前久しぶりに見た山猫のじゃじゃ丸ですら粗暴キャラに見え、周囲もその扱いに困るような雰囲気もあります。このあたりの、雰囲気も興味深いところですが、「やんちゃな」、「少し粗暴な」男の子は、現在ではテレビに受け入れがたくなったのか、と思うところです。最近のキャラクターは、動物のみならずロボットの着ぐるみさえ出ているし、いわゆる、昔ながらの男の子は、生彩がなくなるばかりなのですね。さすがに、「現在」を反映しています。
 そうなれば、男の子は、口が達者でないと対抗できないのですね。ほのぼのさんはそのロールモデルを見せてくれます。また、強硬に見え、微妙に、嫌われないところでその達者な口舌をとどめます。いわゆる、悧巧なんですね。彼は、状況に違和を投げ込む行為を含め、どうも自分のいいたいことは言っているのでそれでいいでしょう。やっぱり、にやっと笑ってしまいます。そして、幼児にも人気があるというのもそれはそれでたいしたものです。
わんわんも、最近達者になって、ほのぼのさん相手に一歩も引きません。そのうえ、彼は他番組の主要・人気キャラと、体を張って張り合わなければなりません。連綿と続いている、Eテレのキャラたちのラインアップは豪華なものです。それぞれの彼らにも「わが、番組こそ・・」という意欲もあることでしょう。
彼らをみていると、殊に、着ぐるみキャラの身体能力はすばらしいものですね。彼らは、舞台で、周囲を十分に見渡せないのに、どのように、群舞をしつつ、それぞれ性差を着けながら、みなで合わせて、踊ったり歌ったりするのは、実際、見ていて驚異的というものです。そして、着ぐるみと不可分の、わんわんの声優さんですが、どうも中年(?) の男らしく、アドリブでせりふをやりとりするとき、時々、そのオヤジ感覚に、笑ってしまいます。


さて、ここらから、変調します。
先ごろ、BSのディズニー専用チャンネルだったと思いますが、懐かしい「トムとジェリー」という、アメリカ発の、どたばたのアニメをみていると、私には、まったくつまらなくなっているのに気がつきました。
日本では、昭和39年から放送し始めたとのことであり、最初は白黒放送であり、小学校から、中学校にかけて写りの悪いテレビで、懸命にみていた覚えがあります。確か、あの高名なアメリカのS&G(サイモンとガーファンクル、1941年生まれ)という音楽家たちも、高校時代には「トム&ジェリー」という名で活動していたとのことであり、当時アメリカでも人気のアニメだったのでしょう。
 毎回、猫のトムとねずみのジェリーのスピード感あふれるライバル間の張り合いにより、おっかけ、戦い、だしぬきあい、最後は、彼らの上位者、ブルドックや彼の家の主人にトムが屈服するというパターンでしたが、ミッキーマウスのようなディズニーアニメよりは知的でしたが、スラップスティックというのか、叩きつぶされても瞬時によみがえり、またやり返す、やられたらやり返す、という繰り返しに、いま観ると本当につまらないのですね。こんなアニメを、「反復継続して、こどもにみせるのはどうかな」と倫理的な裁断すらしそうになります(昔、自分が見ていたことはさておきですが)。時代的な制約は当然あるにせよ、日本の過去のアニメなどに比しても、文化や、社会構造の差異をも考えるところですね。実際のところ、昔経験した、「古いもの」に過剰に期待するのは愚かなことですが、その後の、貧困の減少や、教育水準の向上(?) 時代的な推移で、文字どおり水位が上がり、笑いの質や、娯楽の質は明らかに向上するのですね。

 あれは、うちの娘が愛好する、年末のダウンタウンの「笑ってはいけない」と同質のものではないでしょうか、あれらは、皆が、貧困で、笑いや、気晴らしに飢えていた、その当時の時代なら受けていたかもしれないが、これだけお笑いの高度化や各人の考え方の差異が広がった現在では、陳腐化し、いまさら見たくはないところです。
うちの娘は愚かだ、と口に出しては言いませんが(おざなりな態度でみているようなので)、私は、あの番組は、金をもらっても(実は金額にもよりますが)、見るつもりはありません、ビートたけしの定式化した、まるで大家(たいか)のようにふるまう能のない芸と一緒で、見ることは、はっきりと不快です。もし、こと挙げて、嫌悪と、不快の表明をすると、家庭内で十字砲火を受けますので、当面は行いませんが。

 NHKの総合のEテレで、日曜日の朝、「おさるのジョージ」というのを放映しています。
 これは凡庸な作品であると思われ、以前は、何の気なしにみていましたが、あれは、アメリカ版の、幼児対象の番組なのですね。いわゆる、「人間」とは違ったおサルの、行動と、考えをナレーションで入れながら、大人ではない、幼児の考えや、行動の原基みたいなものを、みせてくれるのですね、はらはらしつつも破綻のない冒険で、さるといういたずらものが、いずれ保護者(飼い主)の元に帰っていく図式です。
アメリカではどのような進行となっているのかよくわからないところですが、向こうでも、幼児ながらも、身につまされる冒険なのかも知れない。たぶん、アメリカでは、人気番組なのでしょう。それを上手に扱うのがNHKのすぐれたところなのかもしれませんが、これであれば、日本でも受けるかもしれません。

 日本国で類比してみれば、Eテレだけを見ていても、Eテレの朝のテレビ体操以降、幼児を対象にした上質な番組がめじろ押しです。
 あれを見ていれば、日本のアニメ、というか、幼児からこどもにかけての教育・娯楽番組は、本当に上質で、世界に誇れるものですね。

これらは、NHKのつまらないバイアスのかかった、世界的な視野や現状認識、あるいは想像力の欠如した記者、解説委員、御用評論家などがでっち上げる、一部報道・時事番組に比して、なんと優れまさった番組でありましょうや。

ついには、Eテレ「おかあさんと一緒」等について考える。 その1

2017-02-17 21:30:26 | 映画・テレビドラマなど
私、Eテレこども向け番組を好んで愛視聴しておりますが、さすがに明らかに幼児が対象となるように思える番組には手を出しておりませんでした。理由を考えてみると、やはり、「「幼児が惹かれる」部分にあまり興味が惹かれなかったのではないか」、と疑われます。しかしながら、「幼児が惹かれる」部分が何なのか、と考えることは興味深いことではあります。
 
 先に、うちの外孫(1歳2月)をあやしていた妻が、ユーチューブの「ブンバ・ボン」を見せるとおとなしくなる、といっており、「ブンバ・ボン」とはいかなるものかとの何がしかの興味はありました。
 
 先日、家に来ていた、ぐずる外孫をあやすため、Eテレの番組を観せようとしたとき、初めて「ブンバ・ボン」の実態を見ることとなりました。

 今の、「おかあさんと一緒」は、男女2組のMC(番組進行役)がいるのですね。それぞれ、たいそう(体を動かすのが主体なもの)、うた(歌の主導が主体のもの)と分かれて、それぞれが主催します。
私のこどものころは、「うたのおねえさん」と、「たいそうのおにいさん」で、「おにいさん」は帽子とトレーニングウェア姿で、体操専従の人であり、「・・・おおきく、おおきく、おおきくなーれ、大きくなってぞうさんになーれ、ちいさくちいさく、小さくなーれ、ちいさくなってアリさんになーれ・・・」というあれですが、あれは確かに興味深いものでしたが、当時、おねえさん、おにいさんにとって、分業はそれはある意味とても楽であったと思われます。
現在では、どちらの担当も、歌って踊れなくては勤まりません。場合によっては、器楽演奏も必要となるようで、その複数の多様な才能をも必要とされるようです。今は、まさしく、きれいで、明るく楽しく、歌って踊れるおねえさん、おにいさんたちなのですね。彼らが、どのように採用されるのか、わかりません(どうも志望者を集めたオーデションがあるようですが)が、とても優秀な方々です。部分・部分で、彼らがセンターからサイドに廻ったとしても、同じように歌い踊ります。やはり、それなりの修養が必要です。

「ブンバ・ボン」を観つつ、うちの孫は、明らかにうれしそうに、手を振り、何かつぶやいていました。
彼も楽しいのは確かなのですね。
そうなれば、その「ブンバ・ボン」とはいかなるものかということですが、正確には「ブンバ・ボーン体操」というようです。
「たいそう」のお兄さんが、センターで、「ブンバボンボンボ ブンバボン」というテンポのよい掛け声と、掛け声をかけながら、跳んだり、はねたり、汽車に乗ったり、楽しく踊ります。この体操は、たぶん、こどもの運動に何が必要か、とか、きちんと検討され織り込んであるのでしょう。昔の体操と同様に、動物のまねをしたり、とか、連関した移り変わりの移動があります。「かわいい系」の、ひよこ、ぱんだ、アルパカと、形態模写ならぬ、まねっこ遊びの体操となります。
衝撃的(?) なのは、途中で、もともとのかわいい系動物が、瞬間的に別動物(トリックスター)に変換することです。「アルパカ ぱっかぱっか ちょっと オカピー」という繰り返しにより、画面合成の上部のアニメで、かわいいアルパカが瞬間的に変身し、オカピーが、にやっと笑います。瞬時に、また、アルパカに戻るのですが、これは秀逸ですね。
「とても、おかぴー」と、親父ギャグを飛ばしたくなります。

とりあえず、オカピーを調べてみましたが、コンゴに住むキリン科の希少種の動物らしく、足としりがしまうまそっくり、最初はシマウマの仲間だと思われていたそうです。樹木の葉っぱなどを食するため、森林に棲むらしいですが、アニメでは立ち上がって、トリックスター(引っかきまわし役)として、瞬時に登場し、こちらも思わずニヤリとする、ユーモラスな姿です。
引き続き、アルパカといえば、私は高級毛織物しか連想しておりませんでしたが(昔、近所に同名のジャズ喫茶があったのだが)、南アメリカの高山部に生息する、したがって、毛足の長い、らくだ科かラマ科の草食動物のようです。首が長く、いわゆる、もふもふの体毛が、顔をのぞいて、体全体を覆っています。目はパチッとして、草食動物特有の長いまつげの愛くるしい感じです。私が行ったさまざまな観光地のさまざまなところの動物園で見たので、この愛好嗜好(?) は、グローバル化しており、こどもにも、大人にも人気もののようです。みたかんじ、どうも、性格も温和そうです。
体操の他の箇所のバージョンでは、背筋を伸ばしたミーアキャットが、そのまま瞬間的にフラミンゴになったりします。
さすがに、現在のこどもたちは、知識性は豊富でしょうから、製作側からも、世界中からいろいろな、バラエティに富んだ動物たちを総動員なのですね。この、体操は、実は、隠れた人気番組なのかも知れませんが、私は、このたび、初めて知りました。
見ているうちに、ああこれは、幼児と一緒に楽しく体を動かすという体操であり、基本的には昔と変わってないのだな、と私にも理解でき、中途からは、現在の童謡とダンスから、昔の良質な童謡に変化させていき、踊りも当時とは変わった振り付けですが、工夫してあり、飽きさせません。
とても質のいい、幼児番組ですね。

トランス・ジャパン・アルプスレース(なんと訳すのだろう。「全・日本アルプス縦断レース」くらいですかね。)について

2017-02-09 15:42:59 | スポーツその他
この「世の中」には、「とても自分ではできないなー」と思うスポーツや娯楽もいくらもあるわけです。それは要するに費用がないせいなのか、能力・技術不足のせいなのか、もう費やす時間がないせいなのか、またはその複合原因であるのか、一番大きいのはその「やってみたい」という熱意と意欲が絶対的に不足しているのかも知れません。
そのひとつが、この番組であつかわれる、高所登山レースです。
体力に自信のなくなった現在の私の視点から、というのは当然ながら、私には北アルプス、中央アルプス、南アルプスと、アルプスと名のつくような登山経験はあまりありません。しかしながら、「海と山とどっちが好き」といわれたら、「山」と答えてしまう自分ではあります。
標記のレースは、2年に一度行われるそうであり、日本海側の富山湾から、太平洋側の静岡県の海岸に至るまで、総距離415km、八月初旬からお盆をまたぐまで、8日間を限度に、昼夜を問わず軽装備(ザックひとつに水を除いた一切の装備を用意、重量5キロ程度)で、駆け抜けるタイムレースです。
山好きといいつつ、日本アルプス連山などといえば、確かひとつくらいは家族で登ったな、と思う程度の人間が、こんなレースについて言及するのはおこがましいかぎりではあります(納得)。
このレースは、素人にも明らかに過酷と思われるレースで、標高3000m級の山々を、何箇所も登り降り、各アルプスの移動間は、それぞれの何十キロもある一般道路を走りぬき、いわば本土で一番急峻な山々を、独力で、登ったり降りたり、自己判断で休息もとらず徒歩で横断するわけであるので、厳しくないはずはないのですが(もし、万一死者が出たら「形式的・人命・人権・平等性尊重団体」(別名「腐った民主主義団体」)から「中止せよ」と圧力がかかるだろうな、という厳しい日程です。)、何回もつづけられています。
さすがに、予選があり、フルマラソンのタイムとか、登山や露営の技術などが試されるらしく、その参加の意欲や熱意だけでは間に合わず、事前にふるいにかけられるらしいところです。
今回が8回目(2002年開始)とか言っていましたので、すくなくとも、今まで15年以上は続いているようです。賞金などまったくなく受けるのは名誉だけ、という、無償のレースであり、したがって、事故があっても、たぶん任意保険は利かず、その参加費用は持ち出しになるはずですが、それでも第一次選考を経た、30人弱の参加者たちが、参集し、常連の参加者も確かにいます。やはり、業界(?) 、 仲間うちでは権威ある、大きなトロフィーなのでしょう。
 そうであれば、次にどんな人が参加しているかが、興味深いところですが、一番多かったのは、かつて山小屋などで、「歩荷(ぼっか)」というのでしょうか、ふもとから山小屋まで資材運搬などを勤めていた人たちでした。私のかつての少ない登山体験で、背中の背負子に数メートルの高さの荷物を背負い、厳しい登山道を歩き始める彼らを見て驚嘆したことがあります。参加者たちは、おおむね、30代から40代、若くて20代の後半、最高齢が50歳代の前半の男性、しかしながら、50歳代で完走を果たした人は今までいないそうです。女性も数名参加しています。
 この番組が好評だったせいでしょうか、私が見た範囲では、様々な印象深い参加者たちが参加にいたるまでの経緯や、それにいたる人性についても、別に特集された番組もありました。
レースはやはり、前回のチャンピオン(S県山岳救助隊の隊員)と、前回次席の選手(元山小屋勤務の競技者)を中心に展開されることとなりました。彼らはお互いにけん制しあい、一緒に歩いたり、一緒に露営したり、また別に出発したりと駆け引きの連続です。おそらく彼らは、競技者として別格の存在であろうと、見ていて理解できます。
しかしながら、一流のアスリートでも、節制というのはまことに困難らしく、熱暑の中を歩いてきた次席の選手は、自動販売機の前で立ち止まり、あっという間に、ジュースとか缶コーヒーとかあらゆるものを一挙に飲み干し、その後内臓をやられてしまいます。その後で彼はようやくたどりついた、中央アルプスの山小屋で、「もし、何も食べられなかったら、もう棄権する」、といい、のびてふやかしたカレーヌードル(高カロリーでくせのあるなんとすごいものを食べると感心しました。)を前にして、時間をかけて必死で食べていました。
次の日に、カメラが彼を捕らえると、彼はすっかりピンピンしており、すでに小走りにコースを走っています。「この立ち直りができる、というのもレースの醍醐味ですから」という彼のコメントに思わず笑ってしまいました。
いずれにせよ、どの選手も、2年をかけ、このレースのために、修練し、調査し、節制してくるようです。
40代後半のいかにもお人よしそうな参加者がいました。
彼は前回完走できなかったため、仕事をやめてしまい、準備のため心肺トレーニングをはじめ、あらゆる鍛錬と、コースの事前調査をしています。どうも、独身生活らしく、貯金を取り崩して生活しているということで、若からぬその風貌と、そのおっとりとした話し方から、現世的な競争(万人の万人に対する闘争)からは外れた(?) 少し変わった人ではあるようです。温和で、攻撃的でもないような様子の彼も、前回のレースで中途棄権した結果が悔しくて、このたび捲土重来を目指すようです。
「普通の主婦である」と自称する、30代の女性もおりました。
彼女が、レースの途中で、立ち止まって板チョコをかじっており、「板チョコ一枚、完食なんて普通の生活じゃありえないでしょ」と、あっけらかんと、と答えていましたが、細身の女性にもかかわらず、女性というのは、(容姿を維持するため)あらゆる状況でひたすら、辛抱・我慢と節制の人性なんですね、と、まったく関係ないところでこのたび感心しました。
もう一人挙げれば、最年長の50歳代前半の男性がおりました。彼も同様に、山小屋勤務か、 「ぼっか」か、若いころ長く山岳人性(?) を送っており、そのとき(若いとき)になだれで遭難し、死にかけて、登山者に救出されたという体験を経ています。このたび、自分の残年数(人性の)を数えながら、当該場所を再訪し、再度自分の人性に係る士気を鼓舞したい(?) と考えているらしく、妻の心配そうな表情と裏腹に、レースに参加したようです。いまだに、50歳代では、今までに完走者がいないという厳しい現実ではありますが、この方も、少し憂き世離れ(?) したところがあります。

最後が、あのチャンピオンです。彼は、このたび、いままで実現できなかった5日間で完走、という驚異的な高い目標を掲げており、そのため、仕事や、鍛錬など、たぶん結婚しないなど、節制した厳しい人性を歩んでいます。次点の選手が、ジュースを飲みすぎるなど甘いところがあるに比べて、隙のない、まじめな(?) アスリートです。カメラのインタビューも上手くあしらいます。
  アルプス踏破のあと、一般道に入った山合の集落が彼のふるさとであることが明らかにされます。近所の人が総出で応援に出ていて、軽トラに乗った母親も駆けつけます。微妙に恥ずかしそうな彼の顔と、「今年はまだ余裕がありそうですね」と、いう母親の心配そうな顔が興味深いところです。
 レースが進むにつれ、個々の能力差が明らかになり、大きな差がついていきます。
 個々の年齢差、日常的な鍛錬の差、また、運不運にいたるまで、レースがすすむにつれ、競技者たちはひたすら苦痛のような時間となります。カメラを回す側からの、ある意味無神経なインタビューにも、全員が誠実に答えています。この番組の焦点は、だんだん今までに経てきた彼らの個々の人性につながっていきます。なかなか興味深いところです。
 しかしながら、みな、謙虚で、温厚な人ばかりです。まさしく日本人らしい、ということですね。なぜそうなのかと考え、その様子をみていると、あたかも、「登山道(とざんどう:とざんの教え)」というような言葉が思い浮かびます。彼らは、登山を通じて、登山者として、求道者として、自己の人格を陶冶し、周囲とその相互の融和と人格の向上を図っていくのですね。
 また、そそり立つ日本のアルプス地帯の絶景はさることながら、朝焼けも、夕焼けも、赤や、水色や、オレンジ色など、その色彩のグラデーションは、這い松などの眼にしみるような緑や、尾根道の花々の色々とあいまって、息を呑むような美しさです。
 しかし、それは見ているものには絶景であっても、急ぐ競技者には、ちゃんと見えているのだろうかと疑わしいところではあります。
 ただし、この厳しいレースにも祝祭みたいなものはあるんですね。経営者の芳志なのか、道沿いの、とあるスーパーで、ビニルトタンばりの小屋みたいなところで、皆がバケツで足を冷やすなどくつろぎながら、差し入れらしき、スイカをぱくつきます。つかの間の休息でしょうが、心和む光景ではあります。

 さすがに、最後の市街地に入り、順調に移動していたはずのチャンピオンが疲労し、ペースが極端に落ちてきました。しかし、それと認めた、道そばの観衆たちが声援を送り始めました。そうしたら、走れるのですね。「長距離ランナーの孤独」(それが自ら求めた孤独、孤立の覚悟が自己の推力になるという意味であれば)とか、あれは、うそっぱちですね。周囲の、大多数の人々の、他者承認の態度とか、声援とかあれば人間どうにかなるのですね。彼は活力を取り戻し、とうとう、5日(4日と23時間50数分くらいだったと思う。)ぎりぎりで、見事、優勝と驚異的な新記録を達成しました。
 次点の、Kさんが見せ場を作りました。
 疲労困憊の末、最期の市街地では(残酷な) カメラの問いかけに反応しなくなり、ひたすら、前のみを見て歩き(走り)続けることになりましたが、とうとう、海浜に設けられた、ゴールラインにたどり着きました。そのとたんに、涙ながらに、「どうも申し訳ありません」と謝罪し始めたのにびっくりしました。レース終盤で、カメラの無遠慮な質問にこたえなかったことに耐えきれなくなったのですね。非常に自罰的で、喜びより、倫理的な反省をするなど、やっぱり、この人も「登山道」の求道者ですね。
 本来、日本には、山岳信仰はあるかも知れないのですが、現在では、登山はスポーツと考えるとしても、今も、大多数の「日本人」の心の動きとすれば、そのようなものなのかもしれません。
 彼は、40歳になり体力的に今年が最後といっていましたが、きちんと妻の支援もあるようで、なかなか興味深い人でしたので、結局は、このたび自己記録を更新したことでもあり、二年のうちに気持ちを切り替えて、「また、出ました」と次回、是非参加して欲しいところです。

 「普通の主婦である」と自称する、30代の女性も、足のつめをはがしながらも、8日以内に無事ゴールしました。他にも、鼻血を流したまま、鬼気迫る形相で走っていた人も最後にはゴールでき、見ているほうは、「ああ、よかった」とも、興味深い(?) ところでした。
 このレースを「人性の目的」にして、離職までして臨んだ40代後半のいかにもお人良しそうな参加者も、無事、時間内に完走しました。
結果として、30人弱の参加者で、25人完走ということであり、今年(2016年)はすばらしい結果だったということです。

 しかしながら、例の50歳過ぎの男性は、苦闘の末、時間内にクリアーができずに、中途棄権ということとなりました。彼は、道路上でずっと待ちわびていた妻に、「どうも申し訳ありません」、と、感極まり、涙ながらに、謝罪します。わがままを通したのでしょうから、やむを得ない、ですね、しかし、彼らのやり取りをみていると、妻が夫の身を確かに案じているのが見るほうにもよく伝わってきます。彼のその振る舞いには、どこか愛嬌があり、近所の人が、彼を鼓舞するため、手製の大きなのぼりを作ってくれたとのことでもあり、いわゆる「世間」との折り合いはキチンとできる人なのでしょう。
 「もう、次はないな」、というのが、見る側の率直な感想ですが、本当のところは、同じおやじとして考えれば、本当に次回をどうするのかは、よくわかりません、ね。

 たぶん、私が死ぬまで、眼前で、もう肉眼で見ることはないであろう日本のアルプスの峻険で孤高な自然の美しさは別にしても、この番組は、大変興味深く、現実に動いている人たちの人間模様というか、まさに面白いドラマでした。つい、今でも、何度も見返してしまうところです。

(私の観たのがBSプレミアムの再放送であり、次回の放映はわかりませんが、3月24日にDVD発売がされるそうです。)

思い出すことなど(わが父方の親戚について)     その7

2017-02-04 19:18:50 | 日記

今回は、わが親戚のおじ・おばについて申し述べたいと思います。
 私は、3年前に実父を、昨年実母を見送り、その葬儀で、久しぶりに、それぞれのおじ、おばに会ったところです。父方のおじたちはすでになくなり、養子などに行き、疎遠になったことも確かなのですが、近くに住む2名のおばたちは元気にしています。一方、母方のおじ、おばたちは、むすびつきが強いのか、このたび、遠方からも集い、葬儀などお世話になったところです。
 今後、すくなくとも、親戚との付き合いは、われわれの代ですることとなり、このたびその結びつきと、結果的に、このたび、いとこたちとも、久闊を叙することとなりました。
 父方の女兄弟は、2人だけですが、年齢がある程度はなれています(7歳)が、どうも、今も仲のよい姉妹のようです。
 一番下のおばが、ちょうど私と18歳くらい年齢に開きがありますが、もの心がつくかつかないころ、まだ家におり、よく面倒を見てもらったそうです。
 そのおばが嫁いだのが、隣の市の島しょ部(小さな島が本土と大きからぬ橋によって繫がれていました。)であり、当時、夫のおじは、本土のすぐそばにある地元企業でサラリーマンをやっておりました。
この島は、漁師たちが好むのか、昔から猫の数が極めて多かったのですが、漁師達が引退したり、瀬戸内海の魚が減り、生業として成り立ちにくくなった今になっても、島のあちこちでいくらも見かけられ、NHKのBS放送の朝放送の「世界ねこ識」にあのレンガ塀の上を跳ぶ猫が放映され評判となった場所でもあります。
うちの家から、おばの嫁ぎ先までは、家からローカル鉄道駅まで歩き、到着した鉄道の駅からバスに乗り継ぎ、海に開けた細い運河そばの道や海沿いの曲がりくねった海岸線を一時間くらいかけて、本土から橋がかけられた小さな島まで行っていました。こども心に、離合が困難なような狭い道であり、バスは、道路を踏み外さないだろうかと、毎回気を回し心配していました。祖父が、バスに弱い人だったので、いつも祖母に連れられ、長い道のりながら二人で遊びに行っていました。
その当時、こども心に、地の果てに行くような思いであり、今、思えば、海も知らないような農家から嫁いだおばは、さぞかし心細い思いをしたことでしょう(後年になってもそのことはなかなか本人に聞けません。当時、帰れる場所もすでになかったでしょうから。)。
 その嫁ぎ先は、おじ(夫)の父が早世し、元気だった大祖母、義母と一人息子の女所帯で、嫁入ったおばは、当時は大変であったろうと思います。しかし、兄弟のいなかったおじは、「うちは親戚が少ないから」といっており、いなかの人らしく、おじの祖母、義母たちは、われわれの訪問を喜んで歓迎してくれました。
 その家は、貴船神社という、海に開いたお宮のすぐそばにあり、おじの祖母は夏の間は、こども会のラジオ体操に毎日参加していました。福々しく陽性の人で、近所の人たちに慕われていたようです。祖母と私と滞在しても、歓迎され、こどもとも対等に話せるように童心のあるやさしい人であったように覚えています。
 私は二男で、物怖じしなかったせいか、また多少のひいきにされたのか、小学校の低学年時に、長期(?) にとう留したことが何度もあり、私はあたかもディズニーランドに行ったような心持ちでした。盆・正月以外にも逢えることで、私の祖母も娘(おば)も、お互いに幸せな時間であったかもしれません。しかしながら、夏の夜は、海はべたなぎであり、蒸し暑さに眠れなかったことをよく覚えています。
その島には、小学校、また本土側に中学校があり、昭和30年、40年代のことであったので、まだ親たちも若く、こどもたちも数多かったところです。
 その島は、瀬戸内海の島ですが、ふく延縄(はえなわ:長く太い丈夫な糸に針とえさをつけ何キロメートルも漁場で流し食いついたふぐを巻き上げる漁法)漁発祥の地として有名で、当時、島のまそばまでが砂浜となっており、潮の引いた日は、潮干狩りも可能であり、必要があれば、離島でもどこでもおじに漁船でつれて行ってもらえました。おじの導きで、おっかなびっくり、外国籍のタンカーに乗せてもらったこともあります。
また、少しわが生家とは気候が違い、南方系のクマゼミが異様に繁殖し、そうなれば生態も凡庸(?) になるのか、普段は採集が困難な貴重で美しいクマゼミが容易に採れました。このセミは、大型種で、羽は透明、胴は漆黒であり、前足には強いとげが生えており、必死でつかんでいても、痛くて逃がしたこともあります。「わし、わし、わし」と、夏の午前中を好み、強烈な声でなき、うるさいせみでもあります。その声を聞くたびに、胸を躍らせ、捕虫網を持ち飛び出したいった覚えがあります。
ご存知のとおり、セミは夜の間に、樹木の小枝や、広葉樹の葉裏などで、さなぎから成虫に羽化します。それを偶然に見つけるのはきわめて幸運なことですが、この島では、いくらも見つかりました。自分では野外観察に飽き足らず、夜遅く羽化するまで、起きていられなかったこともあり、貪欲な私は、一度、羽化直前のせみを逃げられないよう箱に入れてしまったことがありました。せみはご存知のように最初に背中が割れ、本体が姿を現しますが、ちぢんでいた羽は体液の流れにより、その殻の強いつめでつかまっていた葉裏などから、だんだん地面に向かって伸びていき、最後にあの美しく透明な、ちから強い羽に変わるわけですが、あの美しい光景は忘れられませんが、箱に入っていたセミにはそれができず、ゆがんだ羽のセミとなり、さすがに強く悔やんだことがあります。怖くなってすぐ、くさむらに捨ててしまいました。われながら、罪な話ですね。
クマゼミは暖かい気候を好む南方系のセミだと思いますが、私的な見解ですが、海そばの潮風が吹くような環境を好むような気がします。おばの嫁ぎ先の庭は格好の採取地で、庭先で羽化する前のさなぎもたくさん採れました。桜の低木に何匹も鳴くセミの成虫の存在とともに、私にとってのディズニーランドでした。
もうひとつ、とてもうれしかったのは、この家に行くと近所のおねいさんたちが面倒をみてくれたことです。
二人とも中学校の低学年くらいの年齢だったのですが、おばの口ぞえが利いたのか、また、彼女たちにはあまり幼い兄弟がいなかったせいなのか、私は口が達者ではあったが、生意気であり、特にかわいくもなかった幼児の面倒を実によくみてくれました。
泳ぎにつれていってくれるし、頼めば、真そばの海でサザエでも何でもいくらでもとってくれます。
一時、もう少しで、たこを捕獲できたこともありました。
波打ち際で、タイドプール水族館を作った私を大変ほめてくれました。
保護され、かわいがられるばかりの環境は考えものですね、あれからおねいさんに付きまとうようになってしまいました。
二人とも、島のこどもらしく、すれておらず、やさしく親切なのですが、こども心に(クレヨンしんちゃんではないですが)きれいな方のおねいさんについていきたかったことをよく覚えています。
時間の流れは速く残酷(?) なもので、こんな時間は、私にも彼女たちにとっても、つかの間(数年間)のことではありましたが。

同様にこの島は、当時、活力にあふれた漁師の島でもありました。
ふぐ漁が盛んで、おじは、サラリーマンの片手間に先の延縄により、ふぐなどを採っており、そばの神社(貴船神社)の祭礼時のお祭りには、大皿に何皿もうす作りの刺身を用意していました。売れば高価な魚ですが、晴れの日には、親類縁者にもたくさん振舞われます。毒魚ですが、漁師たちは平気で調理し、刺身を引くおじにすすめられ、ためしにまだ生きているふぐの口に割り箸をさし入れてみると、噛み割ったこともあり、危険な魚でもありました。

貴船神社の祭礼の日には、贅をつくし、遣唐使(?) に使う船のような、美しく飾られた白く長いこぎ船が艇庫から20数名くらいの若者たちによってひきだされ、沖合いに漕ぎ出し、船頭に立つ仮装した若者が、全員の掛け声に合わせ、船上で奉納舞を踊るのです。
そのうち、フィナーレとして、海を渡る神輿(みこし)として有名な、神輿がひきだされ、はちまき白衣と白ズボンの格好の担ぎ手によって粛々と海の中に入っていくと、その後に、我が家の長男を肩に乗せた父親たちが、付き従います。洋上には決められたコースがありますが、ところどころ深みもあり、怖がった幼児たちが泣きわめきます。波止場の上から、観光客などが感心してみています。
それから、無礼講ということとなります。鉢巻、白装束の男たちが、とおりすがりの男たちをつかまえて、海中に放り込みます。潮によるお清めということになるのでしょうが、さすがに女性がほうりこまれることはなかったところですが、私としても、次は自分の番ではなかろうかと、「僕の番になったらどうしよう」と、心底怖くて逃げ惑ったことをよく覚えています。実際は、完全におみそ(遊びに入れてもらえないにぎやかし)だったわけですが。
今にして思えば、標的になったのは、その多くがこの島の出身者で、この地を離れた方々かも知れません。いずれにせよ、お神酒をいただき、郷土民としての一体感(?) が盛り上がり、振りがついた結果、ついでに、通行人や生意気そうなやつ(?) など、「かまうこったない」という雰囲気があったことは確かです。

また、この島は、北海道方面まで漁場開拓のため雄飛し成功した人や、一代での起業家などが出て、それを地元に還元したりという気質の島らしく、レンガ造りの居宅や土蔵など内福な家も多かったようで、各家の塀も高く立派なレンガ造りで長く続き、漁師町の狭い路地も、御影石で拭かれたようなきれいな趣のある路地が、島の居住部分一体に広がっています。
祭りの日は、男どもは、このときとばかり、その路地を伝って親類のみならず、知人宅まで飲み歩きます。まさしく祝祭だったんですね。また、まだ右肩上がりの時代でもありました。
後年になり、うちのおじが、おばとの間に生まれた長男を肩に乗せ、うれしそうに、神輿の列に参加したことをよく覚えています。

その後、おじは、本島のすぐそばにある会社のサラリーマン生活を早期退職し、漁師に専念することとなり、漁に出て長時間船上で過ごすこととなりましたが、そんな折、島の女の仕事は、畑つくりが大きな比重です。

私も、野菜などをくれるという、高齢になったおばにつき従い、背負いかごを担ぎ、迷路のようになった厳しい里道の坂道を登り、ようやく、おばが義母から譲りうけた畑にたどりつきます。
同時にここは島の女性たちのアジール(避難所)でもあり、毎日の農作業に励むかたわら、「まだまだ元気よ」と社交の場でもあります。行き交う女性たちが、口々にあいさつと言葉をかけていきます。今はまだ12月ですが、水仙が咲き誇り、蝋梅(ろうばい) の香りが立ち込めています。そういえば、おじは、畑仕事には一切手をださないようにしていました。それが知恵というものかもしれません。

この島は、海そばで、方向を変え常時風が吹いているようなところですが、この畑は、冬でも暖かい無風のところです。見晴らしの利く、畑から、本土側を見ると、企業そばの傾斜地の中腹と高台に双子のように、当時、大量のレンガを焼いたという高いレンガの煙突がそびえています。
また、正面を見ると、ほんの百メートル先に無人島の小島、岩島(いわしま)が見えます。島全体が花崗岩のような大きな一塊の白い岩で、全体を松などが覆っています。遠景に、石油化学コンビナート企業の構造物が見えますが、あたりは藍色の海の色とあいまって息を呑むような美しさです。
そういえば、向こうに見えるあの無人島岩島に、30数年前、我が家全員で、鍛錬キャンプに行くこととして、おじにつれて行ってもらったのだった、真夏の日で、まったく日陰がない島で、まずともかくと、ブルーシートで日よけを作り、私たちは暑さでまったく動けず、しばらくみなで寝転んでいました。大量の水を運んだつもりだったが、みな我慢できずに、がぶがぶ飲んでいました。日がかげるにつれ、少し持ち直し、採取した手のひら大の大きな貝を使って海鮮カレーを作るなどして、一晩をようやく過ごしましたが、忘れられない体験ではあります(蚊はいなかったが夜中、船虫の幼生に襲われた。)。

思えば、半世紀以上も前、今は亡き私の祖父母たちも、末のかわいい娘を、知り人もいない、環境も何もわからない島の生活に送り出したのは不安でさみしかったことでしょう。
私も、還暦を過ぎ、こどものころからよくかわいがってくれた、今もまだ元気なおばと、ここに立ち、穏やかな気持ちで、新たに作られた漁船の係留施設や、防潮堤、貼りつくように家々が続いている、島の営みを見通せるのは幸福なことかも知れません。今ここで、遠くまで見渡せば、私のこども時代から、ずいぶん変わった現在のありようまで、島の景色を、当時と、二重写しに見ているような気がしてきます。
「時間は誰にとっても等価である」ともいいますが、この島での穏やかな時間の流れが、私にとっては大変心地よいように思えるところです。

ところで、おばに聞いたところ、今年(平成28年)は、7月下旬、還暦を迎えた男どもが寄り集まり、久しぶりに貴船神社の海上のお祭り(ホーランエー)が復活したそうです。このたび盛り上がった彼らは「来年も、ぜひやりたい」といっていたそうなので、成り行きを見守りたいところです。