天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

おじの葬儀について、また、その後私の「老後」を考えたこと(「思い出すことなど」番外編)

2017-11-06 20:25:26 | 日記
うちの孫の愛読書です。

 以前に、かれこれ7、8年前ですが、うちの父方のおじの葬儀の写真を見せてもらったことがありました。
 おじは、昭和一桁の前半生まれでしたが、当時の貧しい家の例にもれず、戦後、警察官を目指し、以来警察に奉職し、また同様に望まれて養子に行きました。父のすぐ下の弟で、こつこつした努力家であり、私の父はできの悪い総領ながら、父と仲が良く、いつも年長を立てているような具合でした。私自身もよくかわいがってもらい、何度か泊りがけで祖父母と遊びに行き、歳の近い従姉弟たちともよく付き合いました。自分の名が檀家寺のお坊さんに命名されたということで、坊主くさい(?) ことが好きであり、その後、尺八を趣味として、弟子のとれる師範(いろいろ能書きを聞いたのですが、実際の演奏を含め、すっかり忘れました。)にまでなったらしいのですが、趣味が高じ、自分で製作して、由緒ありげに、その楽器の命名もしておりました。
 私には、是非、警察に入れ、といっていましたが、それだけはお断りしました。

 父のなくなった後でもあり、私もおじの葬儀には参加したのですが、その縁で、後日寡婦となったおばに会いに行った際、その葬儀のスナップ写真を見せてもらったところです。
 とても、びっくりしたのは、おじの棺を皆で押しはさみ孫一同が号泣していたことです。
 私のいとこは、姉弟の二人で、その子供たちは、前妻の子を含め、六人いますが、成年に達した子を含め、棺をとり囲むようにして、顔をゆがめて泣いていました。おそらく、孫ども皆が泣いているので、親戚連中が何かを感じて、その光景を写真に撮っていたのでしょう。

 われわれには歴史が浅いながら、祖父母という位置は楽なところがあります。それは「責任がないんだから」と、常日ごろうちの妻も述懐しているところです。ただ、加齢のおかげか、実父母にたりないところに目が届くところがあるし、「ひたすらやさしい」ことも赦してもらえるところもあります。
 われわれは、彼らが自分で思いつくままに(恣意的に)、こどもにも、孫にも、便利に使われるところがあります。それを笑って済ませるところも必要なことでしょう(実際のところこどもに対しては、なかなか笑えないが)。
 一般的に、こどもに対する関係づけについては、親として妻と連帯して「関係の絶対性」(血族の絶対的被拘束性)というところがあって、とても密接で切実な関係であり、愛憎を含めて子を拘束したし、強く拘束されたことがあり、今は立場が弱くなったこちらが、たとえ心底不満であったとしても、「ぐう」の音も出ない、ことはよくあることです。
 孫との関係は、結構自由なところがあって、うちの幼い孫に現在は私たちに全面的に依存していますが、いずれは躊躇なく離れていくだろうところです。
それこそ、私自身は、自己の残年数を数えながら、無意識に家族全体を離れて観ているようなところは確かです。

 私自身も、そのおじが好きだったことを含めて、おじのために、孫一同そろって葬儀に参列し、死をいたむ光景は、なかなか感動的なものでした。おじは、おそらく、味わい深い「正しいおじいさん道」を歩き続けたのでしょう。

 おばが言うには、仕事柄、転勤が多いおじは、当然に、家族がついてくることとして、居宅があっても、狭い官舎に引っ越すことを前提としていた、とのことであり、さすがに姉弟とも、口に出しては反抗しなかったらしいが、全く新しい場所への転校は、学業は別にしても、殊に人間関係の構築では、とても不満だったらしく、父思いの娘ながらそんな彼女の日記をみつけた、と思い出語りをしていました。
 そういえば、私と同年の、彼女は、転校先の閉塞性について、不満を述べており、女子高でもあり、「女子の生きにくさ」について「なるほど」と思ったことがあります。
どうもおじは、「父親」としては、遠慮はしなかったのかも知れません。しかし、酒好きであったおじは、盆や正月など、気の置けない酒席では、一人娘については、べたほめだったとのことで、それが人性の機微というものかもしれません。

 それはそうとして、後日、私が、別の孫を持つことになるとしても、私の葬儀で泣いてもらうことまでは望まないが、お互いの気持ちの交流と、行く末を案ずるだけの近況報告くらいはどうしても欲しいところです。今後、うちの親が味わったように、苦い失望や幻滅は今後も生じるかも知れませんが、いずれ有限の、人性の中で、それだけは、できればあって欲しいところですね。

 ところで、私にとって、孫や子の将来を思いやることは、彼らの生きる社会や、私たちをも含む社会についても思いやることも、私にとっては自明なところです。

 何度も繰り返しますが、「私個人」の射程にある歴史や社会は、父祖の生きた明治期の、近代日本にまでは思い描くことができるところです(それ以前には想像力が及ばず、実感として個人的な責任が感じられない。)。
 それならば、それは、同時にそれ以前の、伝統や、歴史に強く拘束されていることも確かであり、それこそ、小林秀雄ではないですが、私も日本国の歴史のその総和の一員として「個々」と「全体」とそれを観ていくだけの「眼」と事に当たる見識を持つことも、やはり必要なことですね。
 今後、私の境涯がどうなっていくか(?) 、興味は尽きず、またなかなか予測がつかず、詮のない話*ではありますが、失望や幻滅にめげず、孫や子のために、大多数であるところの国民大衆を軽視し顧みない愚かな政治や、愚かな思想、そして無考えな、また狡猾で悪辣なその支持者と戦っていくことは、わが使命であります。

(註)山口弁で、「せんない(詮無い)」というと、「面倒くさい」、「つまらない」という意味になります。昔、小学校時代、朝ドリルをしなかったことに詰問されたとき、劣等生であった私は「せんないからしませんでした。」と答え、担任(恩師)に、火の出るような勢いで厳しく叱られたことがありました。本来は、軽く、「うっとおしい」とか「わずらわしい」という意味で使います。

ワケギを植えて楽しむこと(思い出すことなど番外偏)

2017-09-28 07:45:42 | 日記

私は、小規模な農民(百姓でも農業者でもいいですが)の子に生まれ、農業従事者の祖父母、父の農業生活は、身近で、つぶさに(そこまでではないな)見てきましたが、自らは農作業にはきわめて冷淡で不熱心でありました。後年、父が加齢で弱りつつあり、収穫時や米の運搬などには多少手伝った覚えはありますが、重い、暑い、長時間労働である、などの理由で、できるだけ忌避しておりました。
 ところで、わが父は、退職後、大々的に野菜を作っておりました。
 勤めの傍らでは、いまいち気が乗らなかったのか、それまではいわゆる自家用程度しか野菜を作っていませんでしたが、その後、我が家の孫など、身近に消費者が生じたこともあり、トマト、インゲン、キャベツ、白菜など、思いつくままに作っておりました。
私は、前述したように、父から、教育とか訓育など受けた覚えが全くないところでした(そのせいなのか、影響なのか私自身の「父の不在」を強く妻に指弾されたことがありました。)が、野菜作りは父の得意技だったのですね。わが家の、豚児が育っていく中で、ほぼ、父によって野菜はまかなえておりましたので、その「贈与」が「教育」であったかも知れず、後智恵ではありますが、今思えばありがたいことでした。
「モノを作るのは菩薩道(菩薩にいたるみちゆき)」と、父を、時々おだててはいましたが、今思えば、毎年、インゲンやピース豆など、その時々の初物をおいしく食べるのは、我が家において、大きな幸せでした。殊に、私の好んだ完熟トマトを思うさま、枝から集荷するのは、今ですら、実際、楽しい思い出です。

 閑話休題、その後、野菜を育てる意欲も、辛抱もない私は、近頃では、主に日本国農業及び農協支援のため、農協の組合員の出荷によるJA直営店で、野菜を買っております。当該売り払い手数料が、組合員出荷のため安いため、個々の組合員から出店が多いそうです。私も晴れて準組合員となり、その扱う商品が手にとれ、品も新しく、安価であることも多く、個人的には、生産者と消費者で対当に、商品と価格との調整が判断でき、共存共栄になればよいと思っています。旬の新鮮な食材を安く入手し、工夫して調理することが普通の生活者としての楽しみなのですね。
ところで、このたび、県内に小旅行(萩市)をした際に、道すがらの野菜の直販店(個人家族経営)をみていますと、そこには新しいものから、うらなり(時期を過ぎた野菜)のものまでさまざまな野菜と、興味深いもの(?) がたくさん陳列され、それが、手製の木彫から、かずらのかご、何のためにか、烏瓜(からすうり)(野草)のようなものまでも売っています(前に、200円ポッキリで地元の小スイカを手にいれ、その旨さに驚いたことがあります。)。そのとき、ワケギの苗(球根)を見つけました。例の、たまねぎと葱の合いの子みたいな野菜で、薬味などで重宝するあの野菜です。「どうやって植えるの」と聞くと、直ちに、栽培指導をしてくれます。「物好きが」と、妻の冷たい視線にめげずに、ひと包み150円で買ってしまいました。というのも、私、朝顔の栽培さえ失敗してしまう人間ですが、唯一、ワケギだけは栽培体験があったわけです。
 当面、二週間、放置の後、ネットでマニュアルを確認しつつ、めでたく、プランターに植えつけました。
 前回の栽培のとき、なかなか根づかず手古摺ったのですが、このたびは、種が良かったのか、時期が良かったのか、すくすくと芽が出て、写真のとおりです。しまいには、うちにある、あらゆる不ぞろいのプランターを総動員して、植え込みをしました。
かつて、農民として、うちの、祖父母や、父は、ワケギを植えるのに、畑に畝を作って、まず石灰をまき、肥料を漉き込み、植えていましたが、やはり父が一番上手であったように覚えています。
 茶色い球根から、緑の茎がすくすく伸びる様は、気持ちが和み、慰められるような気がします。茶色い球根から、濃い緑の茎が生えていくのが、心底、不思議に感じられます。
近年、花を見るのもとても好きになりましたが、野菜を育てるのも良いものですね。ワケギは、伸びれば茎の部分をちぎり、球根の勢いがある限り、何度も何度も生え変わります。強い野菜なのですね。
それは、きわめて自分勝手の考えながら、自力で、何がしかの有用物を栽培することは、自己の人格を陶冶されるような心持ちになるようです。
また、私たちが体験する動物や植物に対し働きかけてなかなかうまくいかない体験は、その一方で、普段は目立たぬ人でも、人にはさまざまな特技や「人を喜ばせることができる特性」もある、ことに気づくことでもあり、それに気づかせてもらうのは、ありがたいことではあります。

しかしながら、わが家族の思惑は別にして、私には、父のように、野菜栽培の熟練者というか、達者になるような、覚悟はまだやってきません。

 知り合いに、「ワケギの苗をあげようか」とか言うと、「うちにもいっぱいあるわよ」というので、これは、誰もがやっている、貧しく、つましい、栽培体験なのですね。それに、長年気づかなかったというのは、うかつで、「恥づい」、体験ではあります。

特別編集 思い出すことなど(昭和42年度花岡小同窓会・卒業後文集)H29.8.12

2017-08-14 20:27:50 | 日記

先ごろ、T.T子さんより、追加投稿いただきました。
 長文にわたるため以下に掲載します。
 私の足りない部分を補っていただき幸せます。
 併せ、追加コメントさせていただきます。

   小学校の同窓会を終えて思うこと    T.T子
 今年の夏、小学校を卒業して半世紀という節目の同窓会が実現し、ずっと疎遠になっていた方々と本当に久しぶりにお会いし、昔を思い出し懐かしむ機会を得ることができました。長い年月の間にそれぞれ波乱万丈な生活があったことでしょう。(私を含め)でも、小学校の頃に戻り、楽しいひと時を過ごすことができました。
 改めて私の小学校時代を振り返ってみると、私は二年生の始めに、防府市立富海小より転入、低・中学年の頃の記憶はほとんど残ってないのですが、四年生の時にできた合奏クラブに入ったのが、大きな思い出です。指導者は林惇先生、NHK学校音楽コンクールに出るために、夏休みも毎日のように練習していたのですが、林先生が、こともあろうに日本脳炎にかかられて入院され、その年の出場は叶いませんでした。
 実は私の父が釣り好きで先生に島田川での鮎かけを教えてさしあげ、それがきっかけなのか、先生も炎天下の中度々釣りに行っておられた様子、それが原因の一つではなのではと、我が家で話題になったように覚えています(日射病ではないから、関係ないかもしれませんが。)。
 先日、林先生のお宅に伺った時、「私はあの、日本脳炎にかかった時から少し頭がおかしくなってね。」と言われ、びっくりしてしまいました。回復されるまで、大変だったかも知れませんね(岩国市周東町在住、82歳、我が家から近いのに初めて伺い、薄情な私を反省しました。)。
 私が合奏クラブに入ったのは、下手ながらピアノを習っていたことと、やはり音楽が好きだったのでしょう。私はソプラノアコーデオン、五年生の時は「インドの女王」、六年生の時は「カルメン序曲」を演奏し、件大会で最優秀校に選ばれ、中国大会では優秀校でした。夏休みもほとんど毎日練習がありましたが苦にならず、お母さん方が交替でお茶を用意してくれたり、先生が度々アイスクリームを奢ってくださったりしたのが、懐かしい思い出です(林先生はハンサムで若く、お母さん方はみなファンだったのでは?私は子供ながらに、いつもアイスを買ってくださる先生はお金持ちだなあと思っていました。)。今でもカルメンのメロディを右手が覚えています。実は林先生には山大の教育学部3年の時の光付属小での教育実習で、音楽の指導教官でお世話になりました。
 前に述べましたが、同窓会前に林先生がお元気でいらっしゃるか是非お会いし、ご様子を皆さんにお伝えしなければと思いお電話をしてみたら、とても喜んでくださり、お宅を探してお邪魔しました。ご高齢になられたものの、とてもダンディで、昔とあまりお変わりない様子にびっくりしました。持病はおありのようで、余り遠出はできなくなったとおっしゃっていましたが、「ミュージックカフェ」と名付けられたご自分の部屋に嬉しそうに案内してくださり、ハイドンを聴き、独学のピアノで今もショパンを弾いておられる生活には驚くばかりです。本箱には、先生が編曲して書かれた合奏用の楽譜がびっしり、先生にとって音楽は歴史であり、人生そのものなのだなあと改めて感じました。帰りに、ご自慢の畑や木工室も見せていただき、充実した老後を送っておられるお姿に触れ、とても感動し勉強になりました。
 今年4月に、6年1組の担任だった富田先生が急にお亡くなりになりました。先生には同窓会に出席していただく予定でしたので、とても残念です。林先生には、まだまだお元気でいていただきたいものです。これからも、時々伺わせていただこうと思います。
 小学校の同窓会の幹事をやらせていただいたことで、何十年と疎遠になっていた同窓生との繋がりが復活し、私の老後の楽しみが一つ増えました。これからも、小学校時代の思い出を共有し、懐かしみながら、長くお付き合いしていただければ嬉しいです。お互いに刺激しあいながら、残りの人生を豊かなものにしていければと思うこのごろです。


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「卒業後文集」に係る趣旨説明
 このたび、小学校の同窓会を行うということで、私にとってその目的としたのは、「当時の自分自身を知りたい」、という強い思いがあったのは確かでした。
 それは当時嫌であったこと(うれしかったことはあまり記憶に残っていません。)に対しては、その後何度も(悩み)考え、今ではほぼ説明がついて、自分自身を納得させることができた、という達成感のようなものがあります。また、それ以外に悩みの種はいくつもあったかも知れないが、それは、現在の「自己」(意識でいいです。)と、当時の「自己」のすり合わせの努力によってその解決が可能ではなかったのか、と今は思えるところです。そうであれば、その認識を、当時の「自己体験」(自分がそうであったと考えるもの)を相対化して考えてみたい、再度客観視(正しいものかどうか判定したい)したい、とこうなります。
 しかしながら、このたび、同窓会の準備の過程で、同志の方々と話していて、自分の記憶や思い出が実に不確かであり、いつの間にか、自分自身が自己の記憶をずいぶんと改ざんしていたことに思い当たり、憮然としたこともありました。
 また、同時に、その記憶の追及が同時に当時の同級の相手を交えて行えば、きわめて楽しい、ことにも気づきました。どうも学童期の記憶は、その後の友人との親和力より、もっと強いところがあります。たぶん、みな、そのあたりを目指して、同窓会とか試みるわけですね。
 実のところは、私は、その後の自己意識における記憶の操作で、半ば神聖化するように、クラス担任の先生がたも、そのよいイメージを付加したかも知れません。
 それは、このたび、先生たちに関する女性たちの厳しい批評も聞いたうえで、なるほどと思い、いわば私の記憶がこのたび修正・相対化できたようなところもあります。しかしながら、人性において、他者の無償の親切など、尊く美しい姿は瞬間のものであり、決して永続化するものではないのも、確かなことでもあります。同時にその「無償の」親切を決して軽んじていいものではないわけですが。
 このたびの、参加者の問わず語りで、少なくとも、悪かった先生より、よかった先生の思い出が上まわったのは、われわれがその後、人並みの苦難を経て、それぞれ人格の陶冶(とうや)を経て、品格を向上(?) した結果であることなのか、そうであれば幸せなことです。

 また、どうも、みなの先生にかかわるその話を聞いていると、(私が思った)出来の悪い生徒ほど、後々から、先生方の目が届いていたらしい、というのは、関西弁で「アホな子ほどかわいい」(失礼)というか、私たちが今思えば理解できる「なるほどな」という、人性の機微というか醍醐味ではあります。
 また、もう一つ、少なからぬ時間を一緒に過ごした同級生(長くは幼稚園から高校まで一緒に過ごした)彼らに死ぬまでに一度あいさつをしたい、というのはひとつの目的でありましたので、お互い先行きを知らない身ですが、このたび、みなの記憶をたどり、あらたに「なるほどな」とか、みなの当時のそれぞれや、その後の決して楽でなかった状況に思い至り、感慨深い楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがたいことではありました。

 どうぞ、皆様、「卒業後文集」に投稿してください。


卒業後文集           (H29.8.12)        
◎始めに
まず、私たちの卒業アルバムを前に、卒業当時の小学校の現状(?) を振り返ってみたいと思います。
私たちは、昭和42年度の下松市立花岡小学校の卒業生です。したがって、昭和43年3月に花岡小学校を去ったこととなります。当時の友人にお借りした「思い出」というアルバムをひも解いていきますと、最初に卒業記念の時計台の写真が貼ってあり、どうもあのアルバム作成に間に合わなかったようで、糊で貼付してあります。当時、塔の造作まで負担できたとも思えず、設置した時計の裏面に昭和42年度卒業記念との記載があるのかもしれません。
アルバムに戻ります。
最初に、職員室棟と、講堂の左方向から見た写真が載り、花壇とあの懐かしいソテツの植え込みが見えます。遠景ですが、新築間もないあの輝ける学校プールが見えます。職員室棟は、木造モルタルの二階建てで、決して新しい建物ではありませんが、授業の合間に職員室に呼ばれたことなど、その際の不安と期待のないまぜになった、当時の自分の気持ちにいつでも戻れるような気がします。
かの棟の二階には、当時は学校方針として努力してその充実を目指したのでしょう、小学校にはもったいないほどの規模の図書室がありました。その校舎の写真の右上には、すかした(私の主観)K校長の写真が載っています。
続いて、当時の教職員の集合写真となります。
教職員全体で23人です。当時私の学年だけでも、2クラス100人弱くらいであり、単純に考えて全校600名弱として、この人数で学校経営をしていたのですね。30人クラスなど夢のまた夢です。6学年、各2クラスとして、最低12人の先生が必要になるとして、また、23名のうち、校長、教頭を含め、男職員が8名しかいない、というのにはびっくりしました。現在と比べれば相対的な評価にしかならないかも知れませんが、人数配分を見ると当時の小学校も激務だったのですね。先生方の顔ぶれを見ていれば、当時の同窓の皆様には、それぞれの先生方にまつわる、それぞれの数だけ思い出があるものかもしれません。
続いて、6年1組の集合写真です。総員で43名です。
さすがに懐かしい顔が並びますが、幼稚園以来ずっと顔ぶれが変わらない同級生たちも多く、学童期の顏つきを見ていると懐かしい思いです。我々の担任学年2人と特殊学級(当時の呼称)の担任、校長、教頭が付き添います。児童たちのなんとそのかわいいことか、卒業後、中学校・高校と引き続き相まみえることとなりますが、ここまで時間が流れ、今の私たちと年齢がかい離すると、「おー、偉い、偉い」と、抱き上げたくなるようなところですね(嫌がるでしょうが)。
続いて6年2組の集合写真です。総員が46名であり、私にとってやはり、より懐かしい友人たちです。
思えば、良いことも、悪いこともあった。今思えば、それ以降に膨大な時間が去り、それぞれの距離が近かった分だけ、愛憎が多い様で、より、懐かしい思い出です。

私たちの、小学校の在籍の担任の先生方を下記のように列記します。実は私の記憶が定かでなく、問い聞きで作成しましたので、誤記載、錯誤はご容赦ください。
 1年生  K野先生    Y野井先生
 2年生   YT先生  I先生
 3・4年  M永先生    F岡先生
 5・6年  T村先生    T田先生

 それぞれ、かけがえのない懐かしい先生方ですね。

◎富田賢士先生に係るインタビュー
先生おひさしぶりです。
 昭和42年度花岡小学校卒業の、天道公平といいます。
 先に同窓会をして以来、また、20数年も経過してしまいました。
 長年の無沙汰をお詫びしますとともに、このたびお会いできる機会をいただいてありがとうございました。
 つきましては、これから、いくつかご質問させていただきたいと思います。
 私たちも還暦を過ぎ、この試みを考えたわけですが、先生と行き来があるということでT田(旧姓U)T子さん(以下「Tさん」と略称します。)に同行をお願いしたところです。男の年齢曲線とすれば、多くは、仕事を引退し、過去の総括と、自分の今後の残時間(死
ぬまでの時間です。)を計算し、体勢をたてなおす猶予時間(甘いといわれても実感というものは後でやってくるものですよ。)であるような段階になっています。
また、多くの女性たちは夫の引退を経て、(これは個人的な見解ですが、)夫はうざいと思いつつ、老親の監護は別にして、子育ての方では一段落してほっとされた時期とも思われます。
そんな時期であり、先生にお会いしたいという気持ちをにわかに思いつき、誠に勝手ながら、われわれの前思春期を知る、先生とお会いし、当時のお話を聞かせていただきたいと思います。
先生同様、私たちにとって思い出深いT村K子先生は残念ながら先にお亡くなりになったということです。

残念ながら、私は、先生とずっと一緒のクラスというわけにはいきませんでした。その分、当時6年2組担任の同僚、T村K子先生について多めに語っていただければ、私たちもうれしいところです。
また、今日は、始末の良い、Tさんのおかげで、当時の卒業アルバムも用意しております。私たちと一緒に、記憶をよみがえらせていただければと思います。
 それでは、始めます。

Q 私たちは、昭和43年(1968年)3月に(昭和42年度)下松市の花岡小学校を卒業させていただいた、6年2組の生徒ですが、私たちの記憶とすれば、クラス替えが少なく、持ち上がり(5年、6年)だったため、先生と児童(私たちの)関係がとても密であったように思います。そういったところで、何か印象に残っていることがおありですか。
また、私たちの卒業当時の先生の年齢を教えてください。
A 昭和9年生まれで、ちょうど33歳くらいですね(現在は満年齢で82歳となる。)。
(ということであれば、T村桂子先生は、10歳年長と聞いているので、43歳くらいとなります。そのお二人の当時の年齢を聞いて、改めて現在の私たちは、胸を突かれるような思いでした。)
Q 先生は確か我々が6年間在学中に一度Y川小学校へ異動され、また復帰されたように思います。当時の思い出(もう時効ですからいい思い出でも、悪い思い出でもどちらもOKと思いますが)があれば、カミングアウトされてもいかがですか。私たちとすれば、特にもう一人のT村桂子先生と、ダンディで音楽指導について定評があり、女子児童とお母さんがたにもきわめて人気の高かった、音楽のH先生が、強く印象に残っていますが。
A 下松市米川小への異動については、当時K校長が、異動内示があったがどうするか、高森か米川だ、という話があり、高森は嫌だったので、米川にしてもらいました。
 また、当時の私の在任中に事故で亡くなられたM校長先生も印象深いですね。
Q 当時通勤については、花岡小時代は岩徳線で花岡駅まで通勤し、米川時代は、その後花岡駅からバス通勤していました。
(人事異動についてはもう少し生臭い話を予想していましたが・・・。Tさんたちは、後述のH先生の指導のもとで、猛練習の末、合奏コンクールに出場され、見事、県大会で優勝されたそうです。音楽が好きだったK校長先生は、夏休み中の練習中にも、よく、後ろの方で、皆の練習を見守ってくれたそうです。
K校長の前任のM校長については、国道二号開通の間もないころで、スクーターでの交通事故で亡くなられ、私は当時「先生だって死ぬんだ」、と強烈に思ったことを覚えています。)
Q T村K子先生については、
A 熱心な先生だったという覚えがあります。
  当時、学年主任としておられたと思います。
(私とTさんは、5年、6年と田村先生に教わり、Tさんに至っては、後年、下松小学校の新任教員時代に、一緒に勤務し、先輩として指導を賜ったそうです。生涯、現場を選ばれ、最後まで、子供たちと向き合い担任として生き方を貫かれたようです。なかなか厳しく、狷介なところもありましたが、個人的には、「読書」への意欲を教えていただき、それについてほめられ、とてもうれしかった記憶があります。私のように、運動神経も鈍く、学校の勉強もあまりできなかった子でも伸びるところは伸ばす方針だったのでしょう。
長く教わり実際のところ「恩師」といえばこの方かなと思いますが、常に、きちっとスーツを着こなされ、背筋を伸ばした方でした。そういえば、このたび私たちの卒業アルバムの寄せ書きに、「本を読む生活を」と書かれていたことをこのたび現認し、「やっぱりな」とほほえましくも納得しました。(ちなみに、T田先生の寄せ書きは、「誠実」(アルバムを虫眼鏡でみて見ます。となっています。)
Tさんが言っていましたが、T村先生は、後年、大活字の書道を始められたそうであり、そういえば、市美展出展や、私も広報で見たような覚えがあります。自己の目標とそれに向かう努力を怠らなかった方であり、かえすがえすも、何故、20数年前の「美沢(みさわ)」同窓会で、なぜもっと長くお話しできなかったか、と、今でも後悔しています。「T村先生」と聞けば、今でも、背筋を正す思いがします。同窓会会場に広報に扱われた先生の記事を掲示します。)
A H淳先生については、
 H先生は、下松の米川から養子に行かれた方と聞いています。
 光付属小で音楽専科として後進の指導、その後岩国市の小学校の校長として勤められましたが、早期に教職を退職され、周東町で家業のガソリンスタンド経営や、不動産業に携われたようです。
(Tさんは、光付属小での教育実習で、H先生に巡り合い、合奏部以来、厳しくも懇切丁寧な指導を受けたといいます。二度も指導を受けられた幸運な方です。
私自身、一時家業であった、薬局屋のおやじをやっていた時、買い物に来られたことを思い出します。本当はあらかじめ、知っておられたのか、こちらから、「先生、お久しぶりです」と話しかけたら、ニコッと笑われました。もし、私が分かるなら認めようと思われたんでしょうね、どこかで見守っていただける先生とは有り難いものです。
Tさんは、H先生は校長にまでなられ、順調な教員生活をされていたのに、なぜ、辞められたのかね、と話していました。)
A その他の先生については、
 K口虎雄先生((注)伝説の教師でした。)から、私自身はまったく泳げないのに、花岡小にプールが設置された年に、水泳部の副担当に指名され、陸トレやなんやらに動員され大変でした(とても苦痛だったという言外の意味あり。)。

Q 小学校の先生であるので、当時まだ専科というのはなかったと思いますが、先生が最も好きであり、あるいは最も得意であった、また逆に、嫌いで、苦手とした学科を教えてください。
A 社会科でしたね(即答)(苦手については言及なし。)。(そういえば、T田先生は、「歴史クラブ」の顧問でした。
 高学年では、直接指導は受けませんでしたが、中学年時に、T田先生の授業は、社会科が最も楽しかった覚えがあります。
当時は、熱血青年教師でしたが、宗教文学者「宮澤賢治」に傾倒され、学芸会で、「シュプレヒコール「人間の手」」というのを上演され、「手、手、人間の手」と、舞台から身振りを加え、全員で客席に叫ぶ、前衛劇のようなそれは、私にとって今も強い印象があります(後年、宮沢賢治全集などを探したのですが結局見つけることができませんでした。)。
20数年前料亭「M沢」(KNさん経営)で再会を果たした際に、「宮澤賢治がお好きなんですか」と私が聞いたとき、富田先生は「なぜだかわかりますか、彼は、農民文学者だからですよ、私も農民ですから」というのが、その時の答えでした。その後、私も、宮澤賢治フリークを続け、実際に花巻市主催の「宮澤賢治祭」まで行ったこともあり、やっぱりこの先生にも、多くを負っている、とこのたび思いました。)(今では、好きな賢治と、そうでもない賢治とわかれてしまいましたが。)
Q 花岡小学校以後の、その後の先生の勤務地など、差支えなかったら教えてください。
A まず米川小に赴任し、周東町内の小学校、それから周東町教育委員会に勤務しました
(玖珂小学校の校長で退職され、最終的には、周東町の教育長を長く勤められたそうです。このたび会場掲載写真の教育功労の叙勲に奥様と一緒に出席されていました。)。
Q 皆が気にするかもしれませんので、先生のご家族と、先生の現在の状況を教えてください。
A 男2人と女一人の子供たちがいます。長女は広島で、息子たちは、熊毛(清光台と思われます。)と、光に住んでいます。一遍、行ったけど、団地の中で、良く所在がわからなくなったですね。
( 実は、先生は、数年前に奥様をなくされたそうであり、思えば大変な時期にお邪魔してしまったわけです。これは申し訳ないところです。
しかし、なぜ、あの20数年前に、まだ玖珂小の校長をされていた現役の教育者であり、退職間もないころのT村K子先生を含めて、元気であった、両先生に、もっとよく、話が聞けなかったかと、悔ゆるばかりです。)
Q 先生について、私の最も大きな思い出は、小学校低学年時に、クラス全員で自転車に乗って、米川高垣(こうかけ)地区の秘境、白雲(しらくも)の滝を観に行き、その後滝つぼのそばで、皆で飯盒炊さんをしてとてもうれしかったことですが、そのほかのことでも、先生何か記憶がありますか(当該白雲の滝は、現在末武川ダムに取り込まれています。希望があれば案内します。)。
A そのことはよく覚えています。
( 私は、当時、忙しい親に一緒に遊んでもらった記憶がほとんどなく、大変うれしかったことを、今も忘れられません。先生も、まだ、30歳前の熱血教師でしたが、たぶん周囲の反対を押しきって実行されたであろう、その恩義とか、人としての親切のようなものは今も忘れられません。やはり、先生はありがたくも、一生先生なんですね。

 たぶん、わが同窓たちも同様に、またほかにもさまざまで、異なった良い思い出がたくさんあると思います。是非、個々に語っていただきたいところです。)

◎おわりに
このたび、当該原稿を書くのに、花岡小学校へ行ってみました。
下手の法静寺側の市道から、正門をおそるおそる入ってみると、全校活動日らしく体操服姿の子供たちがグラウンドで遊んでいます。見とがめられずそのまま進むと、講堂のそばを流れる小川があり、その後の土木工事の成果、水辺への遊歩道が作られています。かつては、あの川でアヒルを飼い、夏休みもアヒル当番というのありましたが。
校内をあちこち徘徊することは、先生方の目もあり断念しましたが、現在の「コミュニティスクール」という方針なのか、一時期よりは、外来者に寛容なのがありがたいところです。
グラウンドには、まだ、あの藤棚が残っています。
時間を経て、変わるものと、変わらないものがあるのは確かなことですが、それはそれぞれの時間の流れに差があるためなのかもしれません。私の通学路である校庭の西門のそばに植わっていた、むくの木(本当のところ樹種がよくわかりません。)の巨木はすでになく、さみしいところです。思えば、花岡八幡宮、重要文化財多宝塔や、中がうろになったせんだんの大樹もあった花岡公園と、寺社に囲まれ、花岡小学校は、本当に良い環境に、存置したのですね。
低学年時、石垣によってグラウンドに沿接する、法静寺及び同級生のK君の家のそばまで、石垣を乗り越え、近道をしていましたが、あれほど高いと思っていたあの石垣が、今下側から見ると、私の目の高さで校庭内が容易にのぞけるのは、拍子抜けです。グラウンド側から、間を縫って(槇の植え込みがあったと思う。)、何度も法静寺側へ飛び降りたことがあり、今思えば迷惑なことでしたね。そのあたりは、見逃していただいた先代の住職さんに感謝するところですが、思えば私の人性も、幼稚園から小学校へと、引き続き隣接する場所で過ごせて、ありがたいことでありました。
もし、卒業後、私が、近所に住んでいれば、私のこどもを連れて立ち寄ったかもしれませんが、そのような機会がなかったことも今思えば残念なことです。
しかし、私たちがいなくなっても、連綿と、花岡小学校は続いていたし、また、続いていくだろうということで、なんとなく納得してしまいます。
 
◎追記
ところで、大変残念ながら、さる4月中旬にT田先生が、突然に逝去されました。
私が、通夜に参列いたしましたが、当日は大雨洪水警報が発令され、さながら、なみだ雨という状態でありましたが、100人以上も列席者があり、盛大なものでした。
奥様に先立たれ、やはり気落ちされたことがあったのでしょう・・・・。
三月に、肝臓の病巣を発見され、早すぎるご逝去でありましたが、長患いとならなかったのは、幸いであったと申し上げるべきでしょうか。
在りし日の先生が、地元の教育長退任後、大賀ハスを育てる地元活動に尽力されたことや、平成20年に叙勲されたことなど、会場に設置された写真スライドで見せていただきました。お二人で、大変晴れがましく、また、楽しそうな表情でした
(この写真は、当日会場でご覧ください。)。
このたびのわれわれの同窓会に、先生をお呼びできなかったことは大変残念ですが、T村K子先生と同様に、このたび、胸に手をあて、在りし日の先生の姿と思い出をしのびたいと思います。

今思えば、この文章は明らかに「T村K子先生」仕込の「読書ノート」であると納得しますが、私は、現在ブログ「天道公平の「社会的」参加」(blog.goo.ne.jp)というものをやっております。その中(「思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)」)において、両先生についてふれさせていただいております。
せっかくなので、このたび、(特別篇「思い出すことなど(2017小学校同窓会始末)」)を、アップしますので、今後、皆様方のうちで意欲のある方は、お二人の先生方に対する切実な思い出をコメントしていただければ大変幸せます。閲覧もよろしくお願いします。
先の中学校の同窓会以来、小学校同窓会の検討に入り、その際一緒にやっていただく幹事の方々の、小学校時のさまざまな思い出を聞くにつれ、ますます、そのありがたさ、とか懐かしさとか、記憶のあいまいさや錯誤などいくらも出てきて、これらを是非共有したいと思ったところです。(文責 T・K)


思い出すことなど(わが父方の親戚について)     その7

2017-02-04 19:18:50 | 日記

今回は、わが親戚のおじ・おばについて申し述べたいと思います。
 私は、3年前に実父を、昨年実母を見送り、その葬儀で、久しぶりに、それぞれのおじ、おばに会ったところです。父方のおじたちはすでになくなり、養子などに行き、疎遠になったことも確かなのですが、近くに住む2名のおばたちは元気にしています。一方、母方のおじ、おばたちは、むすびつきが強いのか、このたび、遠方からも集い、葬儀などお世話になったところです。
 今後、すくなくとも、親戚との付き合いは、われわれの代ですることとなり、このたびその結びつきと、結果的に、このたび、いとこたちとも、久闊を叙することとなりました。
 父方の女兄弟は、2人だけですが、年齢がある程度はなれています(7歳)が、どうも、今も仲のよい姉妹のようです。
 一番下のおばが、ちょうど私と18歳くらい年齢に開きがありますが、もの心がつくかつかないころ、まだ家におり、よく面倒を見てもらったそうです。
 そのおばが嫁いだのが、隣の市の島しょ部(小さな島が本土と大きからぬ橋によって繫がれていました。)であり、当時、夫のおじは、本土のすぐそばにある地元企業でサラリーマンをやっておりました。
この島は、漁師たちが好むのか、昔から猫の数が極めて多かったのですが、漁師達が引退したり、瀬戸内海の魚が減り、生業として成り立ちにくくなった今になっても、島のあちこちでいくらも見かけられ、NHKのBS放送の朝放送の「世界ねこ識」にあのレンガ塀の上を跳ぶ猫が放映され評判となった場所でもあります。
うちの家から、おばの嫁ぎ先までは、家からローカル鉄道駅まで歩き、到着した鉄道の駅からバスに乗り継ぎ、海に開けた細い運河そばの道や海沿いの曲がりくねった海岸線を一時間くらいかけて、本土から橋がかけられた小さな島まで行っていました。こども心に、離合が困難なような狭い道であり、バスは、道路を踏み外さないだろうかと、毎回気を回し心配していました。祖父が、バスに弱い人だったので、いつも祖母に連れられ、長い道のりながら二人で遊びに行っていました。
その当時、こども心に、地の果てに行くような思いであり、今、思えば、海も知らないような農家から嫁いだおばは、さぞかし心細い思いをしたことでしょう(後年になってもそのことはなかなか本人に聞けません。当時、帰れる場所もすでになかったでしょうから。)。
 その嫁ぎ先は、おじ(夫)の父が早世し、元気だった大祖母、義母と一人息子の女所帯で、嫁入ったおばは、当時は大変であったろうと思います。しかし、兄弟のいなかったおじは、「うちは親戚が少ないから」といっており、いなかの人らしく、おじの祖母、義母たちは、われわれの訪問を喜んで歓迎してくれました。
 その家は、貴船神社という、海に開いたお宮のすぐそばにあり、おじの祖母は夏の間は、こども会のラジオ体操に毎日参加していました。福々しく陽性の人で、近所の人たちに慕われていたようです。祖母と私と滞在しても、歓迎され、こどもとも対等に話せるように童心のあるやさしい人であったように覚えています。
 私は二男で、物怖じしなかったせいか、また多少のひいきにされたのか、小学校の低学年時に、長期(?) にとう留したことが何度もあり、私はあたかもディズニーランドに行ったような心持ちでした。盆・正月以外にも逢えることで、私の祖母も娘(おば)も、お互いに幸せな時間であったかもしれません。しかしながら、夏の夜は、海はべたなぎであり、蒸し暑さに眠れなかったことをよく覚えています。
その島には、小学校、また本土側に中学校があり、昭和30年、40年代のことであったので、まだ親たちも若く、こどもたちも数多かったところです。
 その島は、瀬戸内海の島ですが、ふく延縄(はえなわ:長く太い丈夫な糸に針とえさをつけ何キロメートルも漁場で流し食いついたふぐを巻き上げる漁法)漁発祥の地として有名で、当時、島のまそばまでが砂浜となっており、潮の引いた日は、潮干狩りも可能であり、必要があれば、離島でもどこでもおじに漁船でつれて行ってもらえました。おじの導きで、おっかなびっくり、外国籍のタンカーに乗せてもらったこともあります。
また、少しわが生家とは気候が違い、南方系のクマゼミが異様に繁殖し、そうなれば生態も凡庸(?) になるのか、普段は採集が困難な貴重で美しいクマゼミが容易に採れました。このセミは、大型種で、羽は透明、胴は漆黒であり、前足には強いとげが生えており、必死でつかんでいても、痛くて逃がしたこともあります。「わし、わし、わし」と、夏の午前中を好み、強烈な声でなき、うるさいせみでもあります。その声を聞くたびに、胸を躍らせ、捕虫網を持ち飛び出したいった覚えがあります。
ご存知のとおり、セミは夜の間に、樹木の小枝や、広葉樹の葉裏などで、さなぎから成虫に羽化します。それを偶然に見つけるのはきわめて幸運なことですが、この島では、いくらも見つかりました。自分では野外観察に飽き足らず、夜遅く羽化するまで、起きていられなかったこともあり、貪欲な私は、一度、羽化直前のせみを逃げられないよう箱に入れてしまったことがありました。せみはご存知のように最初に背中が割れ、本体が姿を現しますが、ちぢんでいた羽は体液の流れにより、その殻の強いつめでつかまっていた葉裏などから、だんだん地面に向かって伸びていき、最後にあの美しく透明な、ちから強い羽に変わるわけですが、あの美しい光景は忘れられませんが、箱に入っていたセミにはそれができず、ゆがんだ羽のセミとなり、さすがに強く悔やんだことがあります。怖くなってすぐ、くさむらに捨ててしまいました。われながら、罪な話ですね。
クマゼミは暖かい気候を好む南方系のセミだと思いますが、私的な見解ですが、海そばの潮風が吹くような環境を好むような気がします。おばの嫁ぎ先の庭は格好の採取地で、庭先で羽化する前のさなぎもたくさん採れました。桜の低木に何匹も鳴くセミの成虫の存在とともに、私にとってのディズニーランドでした。
もうひとつ、とてもうれしかったのは、この家に行くと近所のおねいさんたちが面倒をみてくれたことです。
二人とも中学校の低学年くらいの年齢だったのですが、おばの口ぞえが利いたのか、また、彼女たちにはあまり幼い兄弟がいなかったせいなのか、私は口が達者ではあったが、生意気であり、特にかわいくもなかった幼児の面倒を実によくみてくれました。
泳ぎにつれていってくれるし、頼めば、真そばの海でサザエでも何でもいくらでもとってくれます。
一時、もう少しで、たこを捕獲できたこともありました。
波打ち際で、タイドプール水族館を作った私を大変ほめてくれました。
保護され、かわいがられるばかりの環境は考えものですね、あれからおねいさんに付きまとうようになってしまいました。
二人とも、島のこどもらしく、すれておらず、やさしく親切なのですが、こども心に(クレヨンしんちゃんではないですが)きれいな方のおねいさんについていきたかったことをよく覚えています。
時間の流れは速く残酷(?) なもので、こんな時間は、私にも彼女たちにとっても、つかの間(数年間)のことではありましたが。

同様にこの島は、当時、活力にあふれた漁師の島でもありました。
ふぐ漁が盛んで、おじは、サラリーマンの片手間に先の延縄により、ふぐなどを採っており、そばの神社(貴船神社)の祭礼時のお祭りには、大皿に何皿もうす作りの刺身を用意していました。売れば高価な魚ですが、晴れの日には、親類縁者にもたくさん振舞われます。毒魚ですが、漁師たちは平気で調理し、刺身を引くおじにすすめられ、ためしにまだ生きているふぐの口に割り箸をさし入れてみると、噛み割ったこともあり、危険な魚でもありました。

貴船神社の祭礼の日には、贅をつくし、遣唐使(?) に使う船のような、美しく飾られた白く長いこぎ船が艇庫から20数名くらいの若者たちによってひきだされ、沖合いに漕ぎ出し、船頭に立つ仮装した若者が、全員の掛け声に合わせ、船上で奉納舞を踊るのです。
そのうち、フィナーレとして、海を渡る神輿(みこし)として有名な、神輿がひきだされ、はちまき白衣と白ズボンの格好の担ぎ手によって粛々と海の中に入っていくと、その後に、我が家の長男を肩に乗せた父親たちが、付き従います。洋上には決められたコースがありますが、ところどころ深みもあり、怖がった幼児たちが泣きわめきます。波止場の上から、観光客などが感心してみています。
それから、無礼講ということとなります。鉢巻、白装束の男たちが、とおりすがりの男たちをつかまえて、海中に放り込みます。潮によるお清めということになるのでしょうが、さすがに女性がほうりこまれることはなかったところですが、私としても、次は自分の番ではなかろうかと、「僕の番になったらどうしよう」と、心底怖くて逃げ惑ったことをよく覚えています。実際は、完全におみそ(遊びに入れてもらえないにぎやかし)だったわけですが。
今にして思えば、標的になったのは、その多くがこの島の出身者で、この地を離れた方々かも知れません。いずれにせよ、お神酒をいただき、郷土民としての一体感(?) が盛り上がり、振りがついた結果、ついでに、通行人や生意気そうなやつ(?) など、「かまうこったない」という雰囲気があったことは確かです。

また、この島は、北海道方面まで漁場開拓のため雄飛し成功した人や、一代での起業家などが出て、それを地元に還元したりという気質の島らしく、レンガ造りの居宅や土蔵など内福な家も多かったようで、各家の塀も高く立派なレンガ造りで長く続き、漁師町の狭い路地も、御影石で拭かれたようなきれいな趣のある路地が、島の居住部分一体に広がっています。
祭りの日は、男どもは、このときとばかり、その路地を伝って親類のみならず、知人宅まで飲み歩きます。まさしく祝祭だったんですね。また、まだ右肩上がりの時代でもありました。
後年になり、うちのおじが、おばとの間に生まれた長男を肩に乗せ、うれしそうに、神輿の列に参加したことをよく覚えています。

その後、おじは、本島のすぐそばにある会社のサラリーマン生活を早期退職し、漁師に専念することとなり、漁に出て長時間船上で過ごすこととなりましたが、そんな折、島の女の仕事は、畑つくりが大きな比重です。

私も、野菜などをくれるという、高齢になったおばにつき従い、背負いかごを担ぎ、迷路のようになった厳しい里道の坂道を登り、ようやく、おばが義母から譲りうけた畑にたどりつきます。
同時にここは島の女性たちのアジール(避難所)でもあり、毎日の農作業に励むかたわら、「まだまだ元気よ」と社交の場でもあります。行き交う女性たちが、口々にあいさつと言葉をかけていきます。今はまだ12月ですが、水仙が咲き誇り、蝋梅(ろうばい) の香りが立ち込めています。そういえば、おじは、畑仕事には一切手をださないようにしていました。それが知恵というものかもしれません。

この島は、海そばで、方向を変え常時風が吹いているようなところですが、この畑は、冬でも暖かい無風のところです。見晴らしの利く、畑から、本土側を見ると、企業そばの傾斜地の中腹と高台に双子のように、当時、大量のレンガを焼いたという高いレンガの煙突がそびえています。
また、正面を見ると、ほんの百メートル先に無人島の小島、岩島(いわしま)が見えます。島全体が花崗岩のような大きな一塊の白い岩で、全体を松などが覆っています。遠景に、石油化学コンビナート企業の構造物が見えますが、あたりは藍色の海の色とあいまって息を呑むような美しさです。
そういえば、向こうに見えるあの無人島岩島に、30数年前、我が家全員で、鍛錬キャンプに行くこととして、おじにつれて行ってもらったのだった、真夏の日で、まったく日陰がない島で、まずともかくと、ブルーシートで日よけを作り、私たちは暑さでまったく動けず、しばらくみなで寝転んでいました。大量の水を運んだつもりだったが、みな我慢できずに、がぶがぶ飲んでいました。日がかげるにつれ、少し持ち直し、採取した手のひら大の大きな貝を使って海鮮カレーを作るなどして、一晩をようやく過ごしましたが、忘れられない体験ではあります(蚊はいなかったが夜中、船虫の幼生に襲われた。)。

思えば、半世紀以上も前、今は亡き私の祖父母たちも、末のかわいい娘を、知り人もいない、環境も何もわからない島の生活に送り出したのは不安でさみしかったことでしょう。
私も、還暦を過ぎ、こどものころからよくかわいがってくれた、今もまだ元気なおばと、ここに立ち、穏やかな気持ちで、新たに作られた漁船の係留施設や、防潮堤、貼りつくように家々が続いている、島の営みを見通せるのは幸福なことかも知れません。今ここで、遠くまで見渡せば、私のこども時代から、ずいぶん変わった現在のありようまで、島の景色を、当時と、二重写しに見ているような気がしてきます。
「時間は誰にとっても等価である」ともいいますが、この島での穏やかな時間の流れが、私にとっては大変心地よいように思えるところです。

ところで、おばに聞いたところ、今年(平成28年)は、7月下旬、還暦を迎えた男どもが寄り集まり、久しぶりに貴船神社の海上のお祭り(ホーランエー)が復活したそうです。このたび盛り上がった彼らは「来年も、ぜひやりたい」といっていたそうなので、成り行きを見守りたいところです。

思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)その6 その②

2016-11-18 19:06:28 | 日記
アルバムに戻ります。
わが、6年2組クラスは、女性のT村先生の担任ですが、このクラスは、5年生から6年生、同じメンバーで過ごしたクラスで、自分では居やすいクラスでした。担任は、40歳の半ばくらいの年齢でしたが、折り目正しい、信賞必罰のタイプの方でした。当時こちらも、少しは団体生活に慣れたかもしれず、前よりは要領よく小学校生活を過ごしていました。ただ、こどもは現実家で冷酷なもので、成長期を通じて知らず知らずに付き合う友達が変わってくるんですね。このクラスにおいても、時間を経て、そのまま今も付き合っている友人もほとんどいないところです。
特に覚えているところは、T村先生は、読書が、あるいは生徒に読者をさせるのが非常に好きな先生でした。自分自身で色々な教科を教えることに自負心を持っていたと思われますが、たぶんあの先生は、国語が一番好きであったのだと今でも受感されます。それに併せて、生徒に対し、読書感想文を書くことが大いに賞揚され、たびごとに、先生の朱書で長文の書き込みがされ、生徒に帰ってきます。私自身、運動神経も鈍く、特に得意な学科もなかったわけですが、読書体験と読書感想文だけは非常にほめられ、大変うれしかった覚えがあります。私のように、くすんで見えるような子でもほめて、伸びるところは伸ばす方針だったのでしょう。こどもにも自負心が必要なんですね。当時、それをきっかけに学校生活が楽しくなっていったこともたしかです。
当時、何かのきっかけで、クラスの幾人かで、休日に先生の家に行くこととなり、皆(5~6人)でバスに乗り、先生の家に行かせてもらったことがあります。にこやかに迎えてもらいましたが、ちょうど、来訪した際に、立派な書斎に通され、授業の準備でしょうか、きちんと勉強されているようで、その広い書斎と蔵書の多さに、こどもながら圧倒されました。こども心に、初めて見た、知性ある人の姿だったんですね、今はよくわかります。
生涯、現場を選ばれ、最後まで、子供たちと向き合い担任として生き方を貫かれたよう
です。なかなか厳しく、狷介なところもありましたが、個人的には、「読書」への意欲を教えていただき、長く教わり、今思えば「恩師」といえばこの方かなと思いますが、常に、きちっとスーツを着こなされ、生徒に対し、背筋を伸ばした方でした。そういえば、このたび私たちの卒業アルバムの寄せ書きに、「本を読む生活を」と書かれていたことをこのたびアルバムの寄せ書き中で現認し、「やっぱりな」とほほえましくも納得しました。
小学校もクラブ活動を行う、ということとなり、担任の影響ではないですが私も「読書クラブ」に入りました。「読書クラブ」で、クラブ活動に係る私自身のうろ覚えの記憶を書きたてれば、当時、学芸会で、「大岡さばき」を、生徒の脚本で上演させてもらい、登場人物の魚屋が、とおりすがりの町娘の役で出演した下級生の女の子に、「ねーちゃん、いい脚してるな(だったと思う。)」と呼びかけ、「いやーね、エッチ」と答えさせる、アドリブを入れ、とても受けました(児童にですが)。創作劇を許していただいたT村先生には、ちゃんと、前思春期のユーモアを理解していただいたですね。むしろ、当時、男ども皆で、ちょっとかわいかったその下級生をなだめ、納得させるのに苦労した覚えがあります。
その後T村先生は残念ながらすでにお亡くなりになっていますが、退職後、大活字の書道を始められたそうであり、そういえば、その後、市美展出展とか、私も広報で見たような覚えがあります。水彩画も、音楽も得意で、小学校教師としての自己の目標とそれに向かう努力を怠らなかった方であり、かえすがえすも、何故、20数年前の同窓会で、なぜもっと長くお話しできなかったか、と、今でも後悔しています。しかし、今思い起こせば、その当時、何を話すべきか、考えても話す言葉がなかったんですね、もう少し時間をもらえば、その過ぎ去った時間をほぐすことは可能だったかもしれませんが、私のようなものではつい余計なことをしゃべりだしそうです。
自分の社会生活のある側面で、自己の仕事の責任以上に他人に「親切」を施すことはできる、しかしそれは瞬間瞬間のものかもしれない。実際のところ、良い出会いとはそのようなものかもしれません。小学校高学年で出会ったかの先生は、今思えば、私の社会的自立を助けていただいたんですね、生徒との間で、節度のある、また狎れないを許さないその態度を思い出すたび、「T村先生」と聞けば、今でも、背筋を正す思いがします。

高学年では、直接指導は受けませんでしたが、6年1組のT田先生に、小学年低学年時
の担任となり、その授業では、社会科が最も楽しかった覚えがあります。当時は、うちの父親の腰が定まらずあちこちで働き、今思えば、我が家に父親不在の時期で、生まれて初めて、男親から、今思えば規範意識を教えていただいたように思います。この先生の指導のもとに、私は生徒の最前列のその前の特待席に一人で座って(座らさらせて)おりました。そのうち、普通の席に戻してもらったはずですが、それが「多動性」だったのか、どこか家庭的な、あるいは人格的な欠損があったのか、それはやっぱりわからないところです。それは、それなりの熟練度が高い教育者だったらわかる問題なのかもしれませんが。
T田先生は、当時、まだ、20歳代の熱血青年教師でしたが、いわゆる宗教文学者「宮澤賢治」に傾倒され、学芸会で、「シュプレヒコール「人間の手」」というのを企画され、「手、手、人間の手」と、舞台から身振りを加え、全員で客席に叫ぶ、前衛劇のようなその劇は、私にとって今も強い印象があります。宮澤賢治の作品というのは小学生に多大な影響を及ぼします。その「過剰な倫理観」のためですかね。そういえば、高学年で、T村先生に、相互で鑑賞を求められた友人たちの読書感想文は、「よだかの星」、とか「なめとこやまの熊」とか、宮澤賢治の著書を扱ったものが多かったですね。
20数年前再会を果たした同窓会の際(まだ先生は現職だった。)に、「宮澤賢治がお好きなんですか」と私が聞いたとき、T田先生は「なぜだかわかりますか、彼は、農民文学者だからですよ、私も農民ですから」というのが、その答えでした。その後、私も、宮澤賢治フリークを続け、後年、実際に花巻市の「宮澤賢治祭」まで行ったこともあり、やっぱりこの先生にも、多くを負っている、とその時思いました。
T田先生について、私の最も大きな思い出は、小学校低学年時に、クラス全員で自転車に乗って、砂利道を一時間くらいかけて、K市、米川、高垣(こうかけ)の秘境、白雲(しらくも)の滝を観に行き、滝つぼのそばで、飯盒炊さんをしてとてもうれしかったことであり、私は、当時、忙しい親に一緒に遊んでもらった記憶がほとんどなく、大変うれしかったことを、今も忘れられません。「父」は厳しく、また、同時に、優しくあるべきなんですね。当時のT田先生も、まだ、30歳前の熱血教師でしたが、たぶん周囲の反対を押しきって実行されたであろう、その行事をしていただいた恩義とか、人としての親切のようなものは今も忘れられません。今思っても幸せな思い出であり、やっぱり、ありがたいことに、先生方は私たちの人性で、一生涯「先生」であり続けるのですね。