どう考えても、「えいごであそぼ」が、朝のEテレに編成替えとなったことに今も納得できない。
朝、あの番組が、とってつけたように挿入されるのが非常に不快である。
この番組は、いわば余剰の知育の問題であって、Eテレの朝番組には決してそぐわない。
最近は時間を間違えてあれを見るのがとても嫌で、「にほんごであそぼ」も見なくなってしまった。
レイモンド・チャンドラーの比ゆを借りるならば、「エンジェル・ケーキ(白く美しく作り塗られたケーキ)に乗ったタランチュラ(舞踏蜘蛛)のように人目をひいた。」(村上春樹訳「さよなら、愛しい人」、私は清水俊二氏の訳の方がよかった気がする。)ように、この番組は、前後の番組と無調和で、見るものに不快を感じさせてくれる。
そういえば、最近、NHKはあらゆる番組で、異様に英語を偏重する。あたかも、「英語を話す外国人 → 英語に堪能な日本人 → 英語と英語を話す人が好きな人 → 英語とカタカナ日本語を好む人」、など、日本人に階級を割り振って、無知な日本人を教化していきたいのかと思える時がある。
これは、われわれ視聴者は、さながら、今は亡き妻により、「必ず(高級存在の)英語を話せ」と、終生にわたる無用な重圧を与えられた長嶋茂雄氏が感じたような混乱のようなものではないのか(本当にお気の毒です。)。
わが国はいつから、英語植民地になったのか、母国語を奪われたり、母国語を使用することを禁じられるような骨身にしみる厳しく悲しい体験を、幸か不幸かわが国の国民は知らない(ここで、団塊の世代以上は、太平洋戦争中の日本国による同致化政策を歴史的事実と指摘するであろうが。)。多くの日本人たちが、その体験が身に入っていないため、英語圏の人間が、ときたま、日本語を話せば、過剰に迎合する。野坂昭如ではないが、徹底的にやられた(敗北した)日本人は、今もなお従僕のように、今は落ち目になったが旦那にすり寄り、丁稚としての喜びにうち震えるのだろうか。
例を挙げれば、アメリカ人の演歌歌手など論外だ。当該歌手のその技能習得にかかる努力は認めるにせよ、しかし、私には、彼と私が、当時の時代状況と生活体験を今感覚的に共有できるとは思えない。それはフォニイ(いかさま)である。今となれば、日本人同士でさえそれは困難であると考えられるところでもある。しかし、彼を主役としたコンサートが、いなかのわがふるさとにまでやってきたのには驚愕した。それも決して安くない入場料と引き換えにである。
やはり、お人よしの日本人は、一等国米欧の人間が、私たちの民族語で、演歌を歌ってくれれば、それだけで相好を崩すのだろうか、本来、人の嗜好に容喙したり棹差すのはおろかなことかもしれない、しかしこれはどうも不可解である。
近年、日本人ではいわゆる演歌を好む人が少なくなり、当該演歌の感興を共有したいという少数者の感性は身内の中では満たされず、日本語が達者な外人が擦り寄ってくれれば、大喜びという図式なのかもしれない。それはそれで感覚的には理解できる。
これは、実のところ、韓流(かんりゅう)ドラマに合い通じるものがあるのかもしれない。試みにドラマをいくつか見るだけは見てみたが、しかし、それは私の情動を刺激しない、つまらない、としか言いようがない。かつて見た、外国にも輸出された「おしん」が大衆ドラマでなかったとは言わない、しかし、あのドラマは時に、極貧の東北の寒村とそこで生き抜く人たちの現実の苦闘をきちんと描いていた。あれらは、いわば、日本のつまらない現代ドラマに飽いた、「反動」文化のように思えてしまう。
どうも米欧初のグローバリズムというのは、全世界が英語を話し、英語圏の価値観を無原則に受け入れることを意味するのかと思ってしまう。この番組を見ていると、NHKはそれを無原則に首肯しているようにも見える(私の好きな「シャキーン」にも、なんの必然性もなく欧米人が幾らも出てくるではないか。)。それは、承服しがたいし、歴史的には誤びゅうであり、英語圏以外の国民国家の住民大衆にとって受け入れがたい結論である。あの、「小利口で尊大なフランス人」(私の偏見です。)が、断固、英語を使わないのがよくわかる。安易に、他国語を使うことは、「負け犬」の立場に自国をおとしめることだ。日本国、近代以降の、われわれの先哲たち、私たちの直接的な父祖の苦闘と努力を思えば、無考えの英語の偏重は、まさしく、世紀の愚策ではないのか。
われわれは、英語に堪能でなければ、仕事すら得られない、アジアの開発途上国ではない。私たちは、明治期、当時の帝国主義国家の言語を一身に解明し、必死で自国語に翻訳・研究し、換骨奪取し、同時に列強に対等に伍することに努め、出遅れたアジア・アフリカなど他国民国家の住民たちの尊敬を勝ち得た(そうしない国は勝手であるが)、あるいは、当時、奇跡のような自主自立を成し遂げた尊敬されるべき国家及び国民の末裔である。
現在の無原則な英語教育、あるいは不必要な英語使用の愚かしさは、日本の国益を簒奪しようとする経済社会権力の保持者たちと、われわれの無考えの政治的代表者たちの合作による世紀の愚策である。かつて「英語を公用語にすべし」と主張したという明治期の森有礼の愚挙に引き続くような、いつか来た道ではないのか。今回も過去に学ぶことなく、いずれ「あのときやめればよかった」ということになりはしないのか。君たちには、自負心も、日本国の一人の国民としての自恃の心もないのか、自国の歴史と言語また独自の文化、それらに敬意を表さないもの、誇りを持たないものは、世界規模において心底軽蔑されるぞ、と私は思う。
由あって、私は現在もつたない英会話の勉強を続けている。それは、私の目的意識に沿い自己努力で行っている、それをすべての他の国民におしつけることはしない、また、私より劣った(あまりいないかも知れないが)英語能力の持ち主に優越する気持ちもない、私は、何よりまず、自国の歴史や文化、それを表出する、日本国語が、いまだに、私には、十分に使いこなせていないことを愧じる。また、国益や我が国の未来世代に対し、その対応を冷静に考えることなく、浅薄で軽薄な英語偏重が日本国で受け入れられていることが大変恥ずかしい。
皆さん、「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる」(施光恒氏著)(集英社新書)をきちんと読み通しましょう。
これは、表紙の跋文にあるとおり、現在の日本人にとって、きわめて大事な本です。
NHKの番組担当者よ、時には、上司に抵抗しなさい。常に、であれば処分されるかもしれないので、せめて、このたびは譲って欲しくなかった。もし、そういうことではなく、あなたが、「にほんごであそぼ」と「えいごであそぼ」が同格で、並立することが適当で、意義ある、Eテレの番組編成と思っていれば、あなた、それは、真性のバカです。
いずれにせよ、戦略的に英語教育を強いる勢力に対し、国語を守り継承する立場として、無考えで、軽薄な輩(本当は日本語を憎む確信犯かもしれないが)、そのようなやつバラの恫喝に屈することなく、時には、節義を通しなさい。