天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

引き続きNHKEテレの愚挙について申し上げる(「英語化は愚民化」味読すべし)

2017-04-20 09:05:13 | 時事・風俗・情況

どう考えても、「えいごであそぼ」が、朝のEテレに編成替えとなったことに今も納得できない。
 朝、あの番組が、とってつけたように挿入されるのが非常に不快である。
 この番組は、いわば余剰の知育の問題であって、Eテレの朝番組には決してそぐわない。
 最近は時間を間違えてあれを見るのがとても嫌で、「にほんごであそぼ」も見なくなってしまった。
 レイモンド・チャンドラーの比ゆを借りるならば、「エンジェル・ケーキ(白く美しく作り塗られたケーキ)に乗ったタランチュラ(舞踏蜘蛛)のように人目をひいた。」(村上春樹訳「さよなら、愛しい人」、私は清水俊二氏の訳の方がよかった気がする。)ように、この番組は、前後の番組と無調和で、見るものに不快を感じさせてくれる。
 そういえば、最近、NHKはあらゆる番組で、異様に英語を偏重する。あたかも、「英語を話す外国人 → 英語に堪能な日本人 → 英語と英語を話す人が好きな人 → 英語とカタカナ日本語を好む人」、など、日本人に階級を割り振って、無知な日本人を教化していきたいのかと思える時がある。
これは、われわれ視聴者は、さながら、今は亡き妻により、「必ず(高級存在の)英語を話せ」と、終生にわたる無用な重圧を与えられた長嶋茂雄氏が感じたような混乱のようなものではないのか(本当にお気の毒です。)。
わが国はいつから、英語植民地になったのか、母国語を奪われたり、母国語を使用することを禁じられるような骨身にしみる厳しく悲しい体験を、幸か不幸かわが国の国民は知らない(ここで、団塊の世代以上は、太平洋戦争中の日本国による同致化政策を歴史的事実と指摘するであろうが。)。多くの日本人たちが、その体験が身に入っていないため、英語圏の人間が、ときたま、日本語を話せば、過剰に迎合する。野坂昭如ではないが、徹底的にやられた(敗北した)日本人は、今もなお従僕のように、今は落ち目になったが旦那にすり寄り、丁稚としての喜びにうち震えるのだろうか。
例を挙げれば、アメリカ人の演歌歌手など論外だ。当該歌手のその技能習得にかかる努力は認めるにせよ、しかし、私には、彼と私が、当時の時代状況と生活体験を今感覚的に共有できるとは思えない。それはフォニイ(いかさま)である。今となれば、日本人同士でさえそれは困難であると考えられるところでもある。しかし、彼を主役としたコンサートが、いなかのわがふるさとにまでやってきたのには驚愕した。それも決して安くない入場料と引き換えにである。
やはり、お人よしの日本人は、一等国米欧の人間が、私たちの民族語で、演歌を歌ってくれれば、それだけで相好を崩すのだろうか、本来、人の嗜好に容喙したり棹差すのはおろかなことかもしれない、しかしこれはどうも不可解である。
近年、日本人ではいわゆる演歌を好む人が少なくなり、当該演歌の感興を共有したいという少数者の感性は身内の中では満たされず、日本語が達者な外人が擦り寄ってくれれば、大喜びという図式なのかもしれない。それはそれで感覚的には理解できる。
これは、実のところ、韓流(かんりゅう)ドラマに合い通じるものがあるのかもしれない。試みにドラマをいくつか見るだけは見てみたが、しかし、それは私の情動を刺激しない、つまらない、としか言いようがない。かつて見た、外国にも輸出された「おしん」が大衆ドラマでなかったとは言わない、しかし、あのドラマは時に、極貧の東北の寒村とそこで生き抜く人たちの現実の苦闘をきちんと描いていた。あれらは、いわば、日本のつまらない現代ドラマに飽いた、「反動」文化のように思えてしまう。

どうも米欧初のグローバリズムというのは、全世界が英語を話し、英語圏の価値観を無原則に受け入れることを意味するのかと思ってしまう。この番組を見ていると、NHKはそれを無原則に首肯しているようにも見える(私の好きな「シャキーン」にも、なんの必然性もなく欧米人が幾らも出てくるではないか。)。それは、承服しがたいし、歴史的には誤びゅうであり、英語圏以外の国民国家の住民大衆にとって受け入れがたい結論である。あの、「小利口で尊大なフランス人」(私の偏見です。)が、断固、英語を使わないのがよくわかる。安易に、他国語を使うことは、「負け犬」の立場に自国をおとしめることだ。日本国、近代以降の、われわれの先哲たち、私たちの直接的な父祖の苦闘と努力を思えば、無考えの英語の偏重は、まさしく、世紀の愚策ではないのか。

われわれは、英語に堪能でなければ、仕事すら得られない、アジアの開発途上国ではない。私たちは、明治期、当時の帝国主義国家の言語を一身に解明し、必死で自国語に翻訳・研究し、換骨奪取し、同時に列強に対等に伍することに努め、出遅れたアジア・アフリカなど他国民国家の住民たちの尊敬を勝ち得た(そうしない国は勝手であるが)、あるいは、当時、奇跡のような自主自立を成し遂げた尊敬されるべき国家及び国民の末裔である。
現在の無原則な英語教育、あるいは不必要な英語使用の愚かしさは、日本の国益を簒奪しようとする経済社会権力の保持者たちと、われわれの無考えの政治的代表者たちの合作による世紀の愚策である。かつて「英語を公用語にすべし」と主張したという明治期の森有礼の愚挙に引き続くような、いつか来た道ではないのか。今回も過去に学ぶことなく、いずれ「あのときやめればよかった」ということになりはしないのか。君たちには、自負心も、日本国の一人の国民としての自恃の心もないのか、自国の歴史と言語また独自の文化、それらに敬意を表さないもの、誇りを持たないものは、世界規模において心底軽蔑されるぞ、と私は思う。
由あって、私は現在もつたない英会話の勉強を続けている。それは、私の目的意識に沿い自己努力で行っている、それをすべての他の国民におしつけることはしない、また、私より劣った(あまりいないかも知れないが)英語能力の持ち主に優越する気持ちもない、私は、何よりまず、自国の歴史や文化、それを表出する、日本国語が、いまだに、私には、十分に使いこなせていないことを愧じる。また、国益や我が国の未来世代に対し、その対応を冷静に考えることなく、浅薄で軽薄な英語偏重が日本国で受け入れられていることが大変恥ずかしい。

皆さん、「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる」(施光恒氏著)(集英社新書)をきちんと読み通しましょう。
これは、表紙の跋文にあるとおり、現在の日本人にとって、きわめて大事な本です。

NHKの番組担当者よ、時には、上司に抵抗しなさい。常に、であれば処分されるかもしれないので、せめて、このたびは譲って欲しくなかった。もし、そういうことではなく、あなたが、「にほんごであそぼ」と「えいごであそぼ」が同格で、並立することが適当で、意義ある、Eテレの番組編成と思っていれば、あなた、それは、真性のバカです。
いずれにせよ、戦略的に英語教育を強いる勢力に対し、国語を守り継承する立場として、無考えで、軽薄な輩(本当は日本語を憎む確信犯かもしれないが)、そのようなやつバラの恫喝に屈することなく、時には、節義を通しなさい。

「よしもとばなな」氏のエッセイ「すばらしい日々」について、以下のように申しあげたい。

2017-04-14 22:29:17 | 時事・風俗・情況
「よしもとばなな」様、私はあなたの優良な読者ではありません。
 私は30歳台の始めであなたのデビュー作「キッチン」に出会いましたが、当時これは「とても新しい小説」なのだと思いました、それについて友人たちの意見を聞きましたが、等しく「新しく興味深いことは確かだ」と一様に答え、「あの」吉本隆明氏の娘さんであることとは別にしても、当時の斜に構えた男どもにも、おおむね好意的な感想でした。
そして、あっという間に、いわゆる「洛陽の紙価を高める」ほどのベストセラー作家となられましたが、それ以降、積極的にフォローワーを続けては行きませんでした。あなたが後年好きだと公言された、村上春樹氏のそのデビュー作「風の歌を聴け」以降の連作に対する感慨とは異なり、「キッチン」から後の小説については、私はそれほど熱心な読者ではありませんでした。
 その後は折にふれ、あなたのエッセイなどを読むことがありましたが、若い(相対年齢のことです。)女性としての情報やその見解はなかなか興味深く、いろいろ触発されることが多いところでした。
 作家として順調にキャリアを積まれていく中で、著作が翻訳化された後も、殊にイタリアなど多くの国で若者たちの人気を集めていたように記憶しています。
 実際のところ、当初私の興味は、当時敬愛していた、父君、吉本隆明氏との間の経緯などを、求めていたのは確かですが、小説家を離れても、対談などでは、きちんと自分の見解を示され、小説家としても着実にその表現の高みをめざし、精進されていると思っていました。特筆すれば、「三砂ちづる氏」との対談(「女子の遺伝子」)で扱われた、「母性」の独自性、生理的存在としての女性の隔絶性(無論、「生理」の話もありましたが)についての議論は大変興味深いもので、凡百のフェミニズム議論(男女同質、相対差異を認めない原理主義)を退けるものでもありました。

 ところでこのたび、あなたのエッセイ集、「すばらしい日々」(幻冬舎文庫)を購入したところです。
 当該エッセイ集の冒頭に、「きらきら」という小編(掲載雑誌の紙面の関係でしょう。)がありました。
 愛犬にかかわる感情を表したものですが、放射能測定の話から始まり、「高い数値が出るのはやっぱり怖い」、「放射線の吸収を少なくする食品を摂取」など、とかかれているのにびっくりしました。
どうもそれは、3.11の自然災害(東北大地震)により引き起こされた原発事故により引き起こされたものの余波を指しているのではなかろうかと推定されます。

ところで、それは事実なのでしょうか?
もし、そのような「共同幻想」が膾炙(かいしゃ)しているとすれば、それは一般的に、東京都下、あるいは関東圏在住の多くの普通の女性の「共同主観性」なのかと、あるいはそれはごく一般的な、食品に対する残留農薬への恐怖とか、有機栽培作物に対する信仰(?) とか、よくわからない感情のおりのようなものだろうかと、戸惑いつつ、とてもびっくりしました。

私事で恐縮ですが、私が、かつて、2011年の3.11後、同年7月に福島県いわき市に、事務支援者として赴任した際、当該市の職員に聞いたところ、事故後に、放射能(?) を恐れた、妻がこどもを連れ東京の実家に帰って、音信がない、と語っており、その後ずっと、その非日常が日常になったような彼の立ち位置に心から同情申し上げたところです。しかしながら、他の所帯では、東京に帰るすべがないのか、あるいは、家族で一緒に過ごすことを至上と考えたのか、そのまま、家族で寄り添うケースもあるようでした。それは、当時、各家族で熟考する問題であったろうと思います。実際のところ、「僕は仕事があるから(逃げられないから)、きみは実家に帰ってろよ」という選択があったかも知れない。しかし、それは、県外に戻れる実家がある幸運な人のケースでしょう。いずれにせよ、それは、東北圏、関東圏に在住した家族にとっては忘れられない記憶でしょう(それがもし私であれば、私はその時の家族の振る舞いと態度を決してその後も忘れない。)。
武田邦彦氏の本で読めば、事故後の放射線の拡散は、その日あるいは翌日の間に、偏西風などにより福島以西の東北・北海道地区に拡散してしまったと聞きました。

それを思えば、東京は、地震を除けば特筆すべき被害はなかったのかも知れない。直接被害も、風評被害もほとんどなかったのではないか、長期滞在の予定の外国人ビジネスマンや、旅行者たちは、そそくさと自国に逃げてしまったかもしれない。その一方で、東京圏に避難した、福島県人のアパート入居が断られた、とか、福島ナンバーの車がいたずらされるとか、極めて不快な話はいくらも聴いたところですが。それについては、当事者であった東京都下の方々は、十分にご承知おきのことでしょう。

「なんとなく怖い」、とか、「怖いかもしれないものはせめて家族のために避けたい」というのは、女性としてごく一般的なものかも知れない、しかし、多くの読者を持つ表現者とすれば、それについて無考えなことを披瀝することはどうなのでしょうか。
あなたの好きな村上春樹さんも、3.11後に、「われわれは誤った選択をした」と、原子力発電・原子力の平和利用についても、それは誤りだったと、安全な外国から、西欧社会に向けてコメントされました。私は、それは、間違った判断だと思います。
それこそ、資源に恵まれず、当該資源の分配が、政治的なあるいは国家防衛の手段に使われるような現在において、日本国民の生活・経済活動の維持・進展において、原発の維持は避けられないと思うからです。
ロシア、チェルノブイリの人災事故を引くまでもなく、今後、覇権国家中共が、東シナ海に縁接した沿岸部で、不十分な科学技術のもとで原発建設を強行し、放射能漏れを起こしたなら、わが国に与える被害は、このたびの自然災害による原発事故の比ではないでしょう。どこも、いまさら戦略的に、原発建設をやめる国などないのです。
あなたの父君、吉本隆明はこの点明快であり、「ひとたび素粒子が発見(開放)されたら、もとにもどすこと(なかったことにすること)はできない」、「これから人類は暗い道をとぼとぼわたっていくことになる」とコメントされましたが、実際のところ、我々にはそれしか道がないように思われます。
現実的に考えて、今後、国民国家日本の総力を挙げて、「より安全な、原発の平和利用」を目指すしかないのです。
例えば、上野千鶴子さんのように、「これから日本人は、清貧に甘んじなくてはならない」、と勝手に考えれば、違う選択があるかもしれない。しかし、官立大学の名誉教授まで勤めて、結婚しなかったあの方(本当はしたかも知れないが)が、いわゆる結婚できない目安の年収300万円と貧乏とは思えないので、本当に貧しい大多数に対し、その気持ちを忖度することもなく「清貧」を強いるなど、恥知らずで、卑怯な言い分だと思いませんか?
そういえば、かつて、「清貧の思想」という本を著わされた、偽善と思い上がったいい気な作家がいたと思いますが、上野氏と同様に、彼らは、一般大衆が豊かになり、自分たちに比肩し、自己欲望を追及できる余力を持つことを決して望まないのです(この点についても、あなたの父君の正しい指摘があったと思います。)。
ところであなたは、国民の大多数が、年収も上がらない、それどころか安定したフルタイムの仕事すらもない若者たちが、現在、景気浮揚を望んでいないと思っていますか?
現在も、原発代替エネルギーとしてのLNG(液化天然ガス)の輸入増加が、政府財務省の無策とあいまって、景気動向を圧迫しています。あなた自身と、あなたの大事な友人たちを含め、経済的余裕どころか、国民の経済生活、景気浮揚を阻害し、景気後退による分配の不均等を、多くの国民に対し、理不尽にも押し付けているのです。
私は、優れた人、恵まれた人が、外国で暮らそうが、高価な安全な健康食品を摂られようとまったく関与する気はありません。そのようなことは、青汁を飲もうと、クロレラ入りのものを愛好しようと、個人の恣意でしかないからです。しかし、現在でも、社会的な影響力がある方が、出自のあるいは責任の所在がわからないような金融商品などの募集に無原則に加担したら、その結果責任はきちんと問われます。

よしもとばななさん、あなたは、作家であることにより、その表現にわたる労苦・懊悩・努力を尽くしていることとは別にして、あなたのエッセイでは、子持ちの主婦としての生活感性を手放さないように意識的に努力されているということが、私のようなものにもよく理解できます。
その一方で、あなた以外の作家連中のあまりにも多くが、無考えの村上春樹さんと同様に、つまらぬ「脱原発運動」や、現在の緊迫した東シナ海の軍事情勢下での、日本国土の安全保障の緊急事態の中で、つまらぬ「憲法9条護持」団体に秋波を送り、いかにも「正義」を装うことに愧じないことにまたその不見識に心底いらだっています(彼らの小説を読む気がなくなってしまうのです。)。
私は、あなたの父君が孤軍で奮闘された、「反核異論」の時代以上に、この「現在」に、危機感を抱いています。
あなたは、意識的に「脱原発」や「憲法9条護持」問題に安易にコメントされたことはなかった、と私は認識しています。
しかし、表現行為の中で、無考えに、雰囲気だけでコメントしたり、根拠なくおびえてみたりするのはやめて欲しいと望みます。それは、かつての「反核異論」の際に、一部軽薄な文学者たち及びスターリニズムの支持者たちと、また、先の、3.11の時期に、国内の脱原発の反動勢力、バカ左翼、バカ商業新聞たちと、不可避的に戦ったあなたの父君が、もっとも嫌ったことだと思うのです。
優良な表現者としての、あなたには、あなたに追随する、あなたに忠実な読者に対し、その本来の説明責任は必ず生じるのです。日本国民の大多数は、この国を離れることができないのはもちろんのこと、喫緊の安全保障問題、そして早急な経済復興なしには、将来生じる厳しい所得格差とそれによる国民の大きな分断と、持てぬ者たちに絶望が蔓延することが予測されてなりません。
あなたは、村上氏のように、海外に拠点を移すことはないかもしれませんが(一部の恵まれた方々は外国の逃れることができるかもしれないが)、大多数の人間は日本国で暮らしていくしかないのです。


Eテレ「英語であそぼ」のこのたびの編成変えについて罵倒すること

2017-04-04 21:05:01 | 罵倒シリーズ

この4月から、NHKEテレの番組編成が変わりました。
あらかじめ、番組編成の変更は予告されていたことですが、このたび非常に奇異な感じと疑問を持ちました。以下、私の所感を申し上げます。
先に申し上げたとおり、私は、毎日、朝の条件が許すかぎり、NHKEテレ「にほんごであそぼ」から、「0655」、「シャキーン」に至るまで、一連の番組を愛視聴しておりますが、このたび、「にほんごであそぼ」から、「06:55」の間に、10分枠で、標記の「英語であそぼ」が割り込まれました。
とても唐突で、なぜ、「朝からこんな番組」と思いましたが、私は、定例のニュース番組に突如「韓流ドラマ」が乱入したようで、少なからぬ違和感を感じました。

本日は、「英語であそぼ」について言及します。
「なぜ」と考えるのは、「人性」においてきわめて本質的である人間的行為と思いますが、再度「なぜ」、朝のEテレのラインにこの番組が入ったのか、まず「庶民」として考察します。
日本の、初等教育に、「英語が必須科目となった」ので、「なぜ、Eテレは英語教育を積極的にしないのか」という父兄からの圧力があったのでしょうか、また、今の政府機関が、NHKに番組編成を直接指示するとは聞いておりませんので、仮に政府機関において、「グローバリズムに配慮したEテレの番組作成」というようなガイドラインがあったとして、Eテレ番組制作責任者が過剰に迎合して、「日本語であそぼ」の後は、米欧に配慮・媚びる、「英語であそぼ」を同一時間枠で放映することとしたのでしょうか。などと、要らざる想像をめぐらせます。

本日(4月3日)の当該番組は、「魚」という英語を、「原音に忠実に発音」してもらう取り組みでした。
なぜ、日本語も定かでない幼児に、英語の正確な発音をさせなければならないのか?
私は、商業英語教育の水準を知らないが、こういうのを、砂に水をまく、というむなしい努力ではないのか?
理解に苦しむところですね。
「英語であそぼ」という番組は、何も今回が新規の番組でなく、Eテレで、この時間帯以外で放映しているのは何度か見たことがある、ところです。それなりに工夫がされ、英語版の幼児番組より、はるかに質の高い番組ではあります。中学生くらいが見ても役に立つものかもしれない。
そうであれば、この番組について、その意義をついて強いて無理やり根拠を作り上げるならば、大人に比べ、聴力に優れた幼児期は発音重視の英語教育があれば効率がよいかもしれない、しかし、日本語の修練さえ不十分な時期にそれが必要なのか、と疑問に感じるところです。
一般的に申し上げて、現場(?) に行って、幼児に対し、「魚」(さかな)の実態と五感に触れる体験と、日本語としての「ことば」を教えることがはるかに重要であると思う。
つまらない英語単語教育は、「社内公用語は英語でやり取り(英語くらいはしゃべれよ。)」という、かのカリスマ経営者の会社に入社するには役に立つかも知れない(バカらしい。)。

うちの英会話クラスの前任のケニア人教師は、先に、千葉の全教科英語教育の私立学校法人に行ってしまいましたが、富裕層を対象にする都会の実験教育ではあるいは必要なのかも知れない(金があっても俗なやつらだなと私は思うだけですが)が、しかし、貧富、社会的階層(?)を超えて、幼児期から、当面、不必要な語彙を増やしたり、外国語の発音を問題にする英語教育をする必要があるのか、きわめて疑問なところです。皮相ではなく、流行などに流されない、それが、本来の知性というものではないのでしょうか。

「英語化は愚民化」、まさにこんな場合に当てはまる、命名化ですね。
資力と、理念(?) がある階層上位の家庭は、是非、私学でも、あの有名なインターナショナルスクールででも子弟の教育を励めばよい、あるいは外国のエリート養成校に送り込めばよい、しかし、大多数の、資力も、理念もなく、あるいは見識のある家庭にとって、先行きがわからず、こどもも望まないような、早期語学教育に何の意味があるのか、と思わないのだろうか。

ところで、私事ながら、かつて、私、NHKのラジオ「やさしいビジネス英語」に大変お世話になりました。
主催者の杉田敏(さとし)さんのそれこそ、日本人が外国のビジネスの世界に出て行くときに何が必要なのか、適切で興味深いテキストの選択を含め、自身の米国ビジネスマン体験を踏まえ、文化間の差異とその意味、あるいは心情の差異とその問題点など、架空であるところの国籍をまたいだ会社(例のエコロジービジネスを提唱した「Body Shop」という会社がロールモデルらしい。)を通じて、仕事、家庭、価値観などを論じた教材は大変興味深く、聞き込んでいけば杉田氏の人間性すらほうふつさせられるようで、興味深く、今も、なお、週末の再放送で録った語学テープを保存しています。
  内容が厳しく、ついていくのが大変なので、「「やさしい」というのを取ってくれ」という、不見識なやからもおりましたが、そのような輩は「馬鹿者」と一喝して、このような質の高い番組を運営してくれた、NHKの番組スタッフに対し、今でも感謝したい思いです。

 当時、私が、英会話修行を始めたのは、初めて外国旅行に行き、語学が通じないことで面白みのなかったこと、あるいは文化の差異に関する毛唐どもの頑迷さと夜郎自大な思い上がりに対し、心底いらだったからであります。「やられたらやりかえせ」というのは、わが若き日の教訓であり、たとえ相手側の土俵に立っても、不可避的に戦わなければならないときは戦わなくてはならないわけであり、近代明治人たちは、徒手空拳で、飢狼のような欧米人たちと、「相手方の土俵で」戦ったではないか、と思われるところです。人性では、必要があれば、自己を強いても勉強は自分でするのです。それが、すべての人に必要とは思えない。
 それが、今の「グローバリズム」という安い空疎な共同幻想で、あたかも世界を並行につないでゆき、それがいつの間にか共通語になった「英語化」によって、「平等で公正な」世界の実現に繫がっていくような迷妄の宣伝はいい加減にして欲しいですね。

 それはそうとして、英語の習得とは、外国で通じる論文を書く、とか、米欧圏でビジネスをするとか、そんな具体的な目標なしの語学勉強など、多くの日本人にとって意味がない、ということです。それどころか、「英語」及び「英語を話す人々」を祀り上げ、おかしな序列を生むし、つまらない風潮に煽動された日本国の前途有為な若者が、外国にわざわざ出て行くこともないでしょう(国連英語試験に合格して国連高級官僚になり高い給与と長期間の有給休暇を受益したい、というやつもいたが)。
 この迷妄もいい加減にして欲しい。
 私のかつて旅行で行ったアイスランドでも、30万程度の人口しかない国家でも、あるいは英国の連合国家(スコットランド、ウェールズなど)でも、みな民族語を第一言語として、懸命に愛し、維持しています。自国語すら使用が禁じられた時代もあったことでしょうから。
 アイスランド人は不必要に英語など決してしゃべらない。彼らは、アイスランド語をしゃべっていた。
 来訪時、ガイドが配ったアイスランドの英字新聞を見ていて、「イギリス人がアイスランド人の英語がまずい(英語を話すだけの教養がないという意味なのか。)」とあざけったというニュースがあり、両国間の厳しい歴史は別にしても、なるほど、言語による他国文化侵略というのは日常的にあるのだと思いました。
 自国の国語すら尊重できない国民国家が、今後、強国の侵略と軍事・経済・文化的な制圧のもとで、生き延びられようもない。まずバカにされます。

 それ、「「皆様の」NHK」は、一部の利害と目的を同一にする特権階層に奉仕するのでなく、大多数の国民と、未来を担う若者たちに、キチンと日本語の修養を積ませ(「日本語であそぼ」で文楽や能あるいは和歌について語るのはきわめて大事なことです。)、中共・米欧などの他国勢力が、世界規模で飢狼のように、他国の遅れや無防備を食いつぶしていくその現実をきちんと報道しなさい。私はまだ、先に鳴り物入りで宣伝した、NHKが独自に取材し、製作したという「パナマ文書」をめぐる」上層階級の不道徳性を告発した番組をみていないぞ。友人にも確認したが、彼らもそんなものは見ていないといっていた。
 バイアスのかかった左翼・商業新聞、民放に相乗りし、バカな尻馬に乗って、アメリカ大統領をおとしめるよりは、こころある国民の知るべき権利にきちんと応えなさい。

 その前に、わが、出勤前の朝の黄金時間に、つまらない番組を入れるのはやめろ、せっかく、「日本語であそぼ」、「06:55」、「シャキーン」と繫がる貴重な時間であるのに。殊に、「日本語であそぼ」の後は「英語であそぼ」でしょう、というような愚かな番組編成が気に食わない。その知性の欠落を思えば、非常に不愉快である。

 世の中には、「英語であそぼ」の愛好者もあれば、韓流(かんりゅう)ドラマの愛好者もあることでしょう。それは仕方のないことです。
 しかし、過剰に英語及び英語会話者に執着したり(NHKBSにはつまらぬ劇作家を司会にした英語圏の若者を集めたトーク番組があるではないか。)、出来がよくもない韓流(かんりゅう)ドラマに過剰に肩入れしたり(あんなものを本当に見たいやつがいるのかね。)とか、これは、グローバリズムという21世紀の愚かな共同幻想に取り込まれたNHKの方針なのか、つまらない、軽薄で浅薄な迷妄の産物ではないのか。

 それとも、日本国民の多くは、不見識で、教養もなく、実質グローバリズムに迎合しているので、「皆様の」NHKも、(そんなことはわからないが)多数が愚かな大衆であれば、ポピュリズム(大衆迎合)志向がなぜ悪いんだ、と居直るのでしょうか。

 「英語化は愚民化」(施光恒著、集英社新書)、見識を欠いた、お人よしで、無考えな日本人が今後どのような道をたどるのか、示唆に富んだきわめて興味深い本です。
 是非、お読みください。