昨年末、Go to travel の最後で、松江に旅行した時、なじみの(?) 和菓子屋の「一力堂」によりました。松平不味公以来の菓子のメッカ松江ですが、文化と伝統は、まことに心地よいものです。毎度、店の商品を順繰りに、ふるまっていただきますが、伝統の味といい、松江城といい、掘割・宍道湖といい、水の都、松江は、とても好ましいところです。
わが夫婦の合意で、今は取りやめておりますが、一日でも早く旅行がしたい、本音です。
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先日から、大瀧詠一氏の復刻ベストアルバム(「Each Time」というタイトルです。 )を聴くことがあり、なつかしいことは確かなのであるが、そこはそれ、若い時とは違う感興もあり、今更ながら、いいうただなあ、と思いました。
当然、松本隆作詞、大瀧詠一作曲のゴールデンコンビです。
「バチュラー・ガール」という曲で、これは稲垣潤一のカバー版が一番ヒットしたのではないか、とは思いますが、「はっぴいえんど」のベストボーカリスト、大瀧詠一がうたうと、とても印象的で、情感あふれ、私にはなじみます。
つくられた時期が、「Tシャツに口紅」、「熱き心に」と同時期の曲であり、他の歌手たちに、盛んに楽曲提供をしていた時期なのですね。
最初の「雨はこわれたピアノさ・・」という、激しい表明が、何度となく、最初から最後まで続きます。
天つく雨のように激しい雨と、男の、強い執着と愛憎のほとばしりの暗喩なのでしょう。
当時、気になったので、うちの英会話の先生に聞いたところ、「バチュラー」の意味を、いわゆるコノテーションを、独身でハンサムなお金持ち、パーティーをにぎやかす男、という意味であると教えられたことでもありました(当然アメリカ英語ですが、いわゆる「美味しい男」ということですね。)。
ということであれば、「バチュラー・ガール」といえば、形容矛盾(バチュラー自体の女性形はあるようです。)のようなところですが、そこは、松本隆と、大瀧詠一のコンビの歌詞や楽曲に深みがあります。
この歌は、恋の歌として、定番の、失恋の歌ですが、第三連の、
「 君が欲しいとつぶやくだけで
すべてなくした
でも言わずにはいられなかった 」
というくだりで、「うーん」とうなってしまいました。
「いよっ、男の子」、というわけですが、別れの予感と、それにあらがう男の思い込み(妄想)、・自己関係づけが、いわゆる「対幻想」がまことによく理解できます。
「相手が悪いよね」というわけで、「バチュラー・ガール」とは「ともだちのままならいいけどね」という、男と女の関係までを望まない、それこそ、美味しそうな、しかし、つれない女の暗喩なのかもしれません。
しかし、男はカタルシスだろうとどうだろうと周囲をも構わず(ここら辺が女とちょっと違う。)、破滅も構わず、どうしても「告白」してしまうのですね、大変よくわかります。
すねに傷持つ男どもの一人とすれば、とてもいい歌です。
かのゴールデンコンビには、少しシニカルなセリフで、「一言言ったその日から恋の花散ることもある」(「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba 物語」、「A Long Vacation」アルバムに収録)も、あります。
それも、また、真理です。
もう一つ、彼らの作品には、「少しだけやさしくしてあげる」という曲があります。
あなたが、寂しいとき、落ち込んだとき、少しだけやさしくしてあげる、という、女の子が描くストーリーですが、同時に、それは、「すこしだけ冷たくしてあげる」という、裏腹のトリックです。
男と女は、生涯、駆け引き、なんですね。
それこそ、女性の、気持ちというか、観念(なければ感情)や振る舞いを見事に活写していませんか。
それが、いわゆる上から目線であることは確かですが、そこは性差のたわみみたいなもので、それでもいいや、と男どもに思わせるところがあります。
おさまることはおさまるのです。
この曲を聞くと、悲痛な歌ながら、最後に、思わず、ニヤッとしてしまいます。
最近、よく聞いているのが、秦基博がカバーした、松任谷由美の、「晩夏」という曲です。
つまらないことはよく覚えていますが、この曲は、NHKの午後10時前に放映された、「幻のぶどう園」というドラマの主題歌であり、巧みな歌詞と、独特な雰囲気のある曲です。
アルバムとすれば、彼女の「14番目の月」に入っている曲だそうで、確か、彼女の待婚期間(?) に出されたアルバムだったと思います。
これは名曲なのに、誰かカバーしないのかな、と思っていたら、秦基博がうたっていました。
「 往く夏に 名残る暑さは
夕焼けを 吸って燃え立つ葉鶏頭 」と、
初秋の、景物が描写され、唐突に、
「 何もかも 捨てたい 恋があったのに
不安な夢もあったのに 」という、心情が読み込まれ、時間の経過がうたわれ、また、叙景に戻ります。
花や、景色をうたい、連の最期の、初秋の暮れの空の描写が、
「 空色は水色に 茜は紅に 」と、あるいは、
「 藍色は群青に 薄暮は紫に 」と、つかの間の推移とともに映る、夕焼けの陽光のグラデーションの美しさを、王朝時代の、大和歌のように、巧みに歌われます。
殊に、私には、「 銀河の降りるグランドに こどもの声は 犬の名を 繰り返し 」という、挿入される叙景は、とてもすごいものではないか、と思われます。
いかにもありそうな光景に、聞くものに、秋の訪れと寂寥を想像させる彼女の技量は素晴らしいものですね。
歌詞の歌詞の孫引きは著作権コードに触れるらしいので(私のブログも現在公開停止になっている。)、多くは引用できませんが、私には、全編書き抜いて、壁に貼りたいような、名作だと思えます。
それこそ、抑制した表現で、女の恋をうたうわけですが、埋め火のように隠された気持ちが、季節の変わり目に際し、静かな諦観とともに、うたわれるわけです。
これは、確かに、ポップスであり、恋歌でもあり、穏やかで、印象的な曲です。
どうです、男と女の恋情など、これほどの差異があり、それぞれ豊かで、「人間」を感動させるのに、それぞれの性差を尊重せず否定する「男女共同参画」など、つまらない運動だとは思いませんか?
「相互の差異」こそが価値である、と、敬すべき政治学者、ハンナ・アーレントも言っていました。
無思考の若者たちが、大人の判断(?) で、学校でのミスコンを止めたり(オニババ化した醜女たちが安い正義に基づき徒党となって責めるからなのか。)、家事の共同分担の推進とか、バカな話に、誰も疑問を持たないのか?
ハンナ・アーレントのように腰の据わった女性思想家が、再来し、市民社会の差別性、男女の言われのない、賃金差別を容認している社会を、「男女共同参画」の前提に告発しないものかと、私は願っている(それは当然現在の労働者の貧困と中間層の没落を認識したうえでの話である。)。
それ以前に、彼女が、現在の世界史レベルでの、諸悪の根源、グローバリズムを告発するのは前提の話としてである。
知り合いに聞くところによれば、私の勤務する市の高校では、昔、「ミスター○○高」という催しがあったそうである。
「ミスコン」禁止への、反発・皮肉であったかもしれないが、その審査基準が、体力、知力、容貌を競うのかどうなのか、と、どんな実態であったか、個人的に興味があるが、こんなコンテストは、たぶん男ですら磨くものである(女を磨くのは当然である。)。
人は競うべき存在である。
「ミスター・コン」の催しなど、「ル・サンチマン」を抱く男どもが出てくるかもしれないが、人性において、劣等感に悩むのも、それなりに意味がある、わけである。
それを克服するのも、男の本質であるわけでしょう。
まあ、ミスター慶応事件のように、思いあがったろくでなしが、出てこないことはないが。
人は、美しいもの、優れたものに惹かれるのが本性である。
それだけではないかもしれないが、それを否定するは間違っている。
それを、矮小な、バイアスのかかった、理念やイデオロギーで縛り、不健康なルサンチマンのもとで、徒党で貶める存在は、すなわち私の敵だ、と思っているわけです。