本郷和人氏は、最近、テレビでよく見ることが多く、人気のある(?) 歴史学者であろうかと思われます。色白のめがねの先生ながら、あごひげを生やした風貌で、本来「武家の歴史」が専門であるならば、意識的にその武将らしい容貌を目指しているのかもしれません。ただ、その黒プラスチックフレームの丸めがねが、大江健三郎氏のめがねと酷似しており(テレビは、ほぼそれで出ている。)、まるでバカサヨク(パヨクというのか。)のようであり、それは、たとえば気持ちの奥底では、手放しで、同型の眼鏡のジョンレノンなどを好きなのかどうか、もし、好んで着用するのであれば、どうも思想的近親性を著わすように見えるので、「止めたら」、と申し上げます。
しかし、著者は、精力的に新書など出版され、天皇制の歴史を扱ったり、ついては現代の情況論にも言及していることでもあり、われわれしろうとに、歴史家として、歴史を平易に知らしめる努力をされているように思われます。
私、歴史には全く素人ですが、現在の世界情勢の現状を見ていると、われわれ「庶民」でも自国のその歴史ととても無縁ではおられず、またわが国の歴史を知らずして、適切な国際・外交問題など語れないような情況であり、無知とか、無関心とかいえない、現在は、厳しい段階と思われます。
われわれが抱く日本国の歴史も、われわれが何の気なしに教わったことも、実際は、ずいぶんバイアス(特定の思想によってゆがめられた認識)がかかり事実とは乖離しているようであり、朝日新聞の組織的な虚偽で下劣な報道など、改めて、敗戦後の「占領軍史観」の罪深さと、それに積極的に迎合し悪乗りするサヨク学者、サヨク文化人たちの曲学阿世ぶりに、腹立たしい限りであり、私は非力ながらも、鉄槌をくだしてまいりたいと改めて決意します。
先に、日本国の歴史がとても好きな人と知り合いましたが、彼は「本気で」歴史が好きであるらしく、「古事記」と「日本書紀」の違いを話してくれ、とお願いして、しっかり叱られました。歴史家(?) というには、どうも、専門家(?) として、専門外とか、しろうとの容喙(ようかい:口をはさむこと)など許してくれないところがあって、「思惟の手段」として、あるいは単に好奇心で歴史を学びたいというのは、なかなか理解してもらえない、ところです。
著者は、自分で書いているように、「武士」の歴史の専門家であり、専門外においても、しろうとを対象とする新書などで、多くの歴史本を出しています。
われわれが読む歴史書は、結構、はやりすたりがあるらしく、それは私にも覚えがありますが、私が30代の頃(かれこれ30年前ですが)中世史において、亡き網野善彦氏の著書ですが、絵図面などを駆使して、農耕民から外れた職能民などの(非農耕民)や中世の被差別民までのさまざまな職種の人々とその実相を論じた興味深い著書で、歴史の見直しというか、大ブームを起こしたところです(私はそのように承知しています。)。しかし、それが極端に傾くと(ブームになると)、偏頗な左翼史観ではありませんが、あたかも、歴史は、権力者(為政者)によってではなくて「大衆」、「被支配民」の動静によって動いているというような、硬直化した極端な言説となります。
そこで、本来の「歴史」の原動力とはなにか、という問いに戻るとすれば、この著者の主張とすれば、当時あれほど膾炙した、「被支配民」史観からの歴史のみならず、政変の参画やと直接武力を担う「武家」の視点からの歴史もあるだろうということです。それがバランスの取れた事実に近い考え方だと、思われます。
その意味で、この本では、日本国の現在にも多大な影響を与えたと思われる歴史的に重要な政変(戦争)を取り上げます。
最初に「律令制下の行政区画」の図面が添えられ、しろうとにはありがたいところです。殊に、広い東北地域は、出羽と陸奥の二国だけであり、あらためて、西日本と比べ、中央の直接統治や何より関心のなさという、西国に比して、その冷淡な扱いと支配の不均衡が目につきます。
古代の重要な政変「壬申の乱」(大海人皇子、大友皇子との内戦、勝者の大海人皇子は天武天皇となり、これ以降「天皇」、「日本国」という名称が位置づけられた。)、中世の「青野ヶ原の戦い」(貴族の政治権力の代表者後醍醐天皇勢力と武家の政治権力室町幕府が最期に戦った内戦)、最期の内戦「関ヶ原の戦い」(武門の覇者豊臣家と徳川家が覇権を争った戦い)という三度の重要な戦争について、なぜ、いずれもが、ほぼ同じ場所で戦われたというのかについて、大変興味深い考察がされています。
古代では、山間の狭隘地である軍事拠点、不破の関につながる、和蹔(わざみ:関ヶ原の古名)という場所(戦略上の重要ポイント)で戦い、大海人皇子が勝利し、この場所がその後につながっていく東国との戦略拠点となったと論じられています。当時の国家は、不破の関、それに連なる鈴鹿の関、愛発の関などのライン以西の西日本でしかなかったことが理解できます。東国は、当時、別の国家だったのですね。
中世においては、後醍醐天皇の意を受け、陸奥から立ち上がり、鎌倉を攻略・経由した、神速の勢いの高畠顕家と、足利家の執権高氏などの決戦が行なわれたのも、京都側から防御しやすい青野ヶ原(現の岐阜県大垣市、残念ながらこの本には当該位置図がついていない。関ヶ原近接の一連の地形らしい。)になりますが、それぞれその戦争の実態は、足利側は、本来の幕府由来の御家人ではなく、楠木氏、赤松氏などに連なる悪党(もともとは寺社などの私兵)勢力がその主流でありその故に強かった、という記述がされております。
高氏が敗残した行き場のない悪党を引き取ったのではないか、という話や、高畠顕家(神皇正統記を書いた北畠親房の息子ですが)は、天才的な軍事の指揮官とされていたが、実際は文官貴族で、文武両道の戦の天才といったものではない、と私が読んだ小説本(歴史小説)とは全く違うようです。実際は、戦上手で、荒事を厭わない新興武門勢力が歴史を動かしたのですね。建武の新政以来、天皇勢力が、これらの一連の戦いで、強者で実力のある武門勢力に、その実態的な政治権力を奪われるという、歴史の潮目があるわけです。
最期の、関ヶ原(関ヶ原=不破の関)に連なる戦いですが、犬打つ童も知っているような、「天下分け目」の戦いです。つい最近も、NHKBSの番組「英雄たちの選択」で、徳川家の宿将、井伊直政の論考をしていましたが、東軍と西軍、それに連なる戦国の大名たちの思惑と、武門の意地など、著者の言う、戦略と戦術の差が論評されていたところです。
そして、古代から近代に至るまでに、当該地域がいかに、その時々の、国内の勢力地図を左右する場所であったのかがよく理解できます。そして、古代からの「都」(みやこ)と「鄙」(ひな;いなか)という対立の発想の根強さ(今でも、それぞれの地方住民の「共同幻想」を呪縛していますね。)現在の歴史という学問が、兵たんの規模や優劣、兵士の数、それぞれの軍事的・経済的拠点、またそれぞれの味方の勢力や利害の考察など、大規模に、周到にくみ上げられていることがよく理解できます。
また、同時に、後輩の歴史学者(ベストセラー「応仁の乱」の著者)を敢えて批評して、誰が敵で誰が味方か混迷を極めた場合においても、その戦争(政争)の勝者と敗者、またそれがいかなる変革・変換を促したかについて、時代的な・巨視的な、また何より現実的(経済的側面、個々の利害・感情の相克など)の視点を忘れるな、という教訓を語らせています。実は、この気鋭の歴史学者は、NHKBSの「英雄たちの選択」にも出ており、その受け答えの軽さに、「何だ、こいつは本当に考えてしゃべっているのか」、と思った覚えがあります。
著者は武家の研究者ではありますが、地勢的に関ヶ原一帯が戦略拠点になり、また時代的に武士勢力が政治の中心になるのも歴史の過程であろうかと思いますが、「それも一つの特殊な要素である」こととして、その視点は柔軟で、流動的な発想を持っています。
もし、歴史に「普遍性(それがあるものであれば)」や、その「本質性」があるのであれば、という意味で、著者の希望により、哲学者、西洋哲学、ヘーゲル研究者の竹田青嗣氏、西研氏と対談しており、日本史だけの研究者だけにとどまる(それをかてに更に自己の考察に深みを目指していくことかも知れないが)つもりではないようです。その点では、この本の跋文(「戦場の地点がすべてを物語る。久しぶりに面白い歴史書を読んだ。」)を書いた、磯田道史氏とも通底するものがあるかも知れません(ところで、磯田氏は、推薦をしたことだけで本が売れるほど人気の歴史家なんでしょうか)。
著者に添ってたどっていけば、「関ヶ原の戦い」以降、東と西の分岐点、関ヶ原はその戦略的重要性を失う、ということとになり、それはなるほどと思われます。その後、徳川政権は、新開地江戸に拠点を移し、海外進出を考えることもなく、鎖国により、内政重視の政策で、武士勢力も安定し、それによる経済的安定も出てきて、住民の大虐殺や、宗教戦争も生じなかったという、江戸期の長期にわたる安定が招来されるのです。
そのあと、明治以降について、江戸期の封建的停滞を打ち破る、「当然のグローバリズムの招来」として称揚するかと思いましたが、著者は、慎重に言及するところです。これらの一連の戦いは、西側の中央政府に対する東からの脅威であることが共通(幕末の黒船来航も含め)していると語り、壬申の変では、その前題に白村江の戦いの惨敗、青野ヶ原の戦いでは元寇による幕府の疲弊と混乱、関ヶ原の戦いでは、朝鮮戦役の敗北など、他国との戦争、侵略戦争などがその遠因にあることが前提です。明治維新、大東亜戦争の敗北など、日本国内の騒乱のみならず、時代が変われば、日本国・内外から、いくらでも戦争が起こる可能性があることも、著者の視野に入っているようです。読者とすれば、著者が、今後も、つまらないイデオロギーや風潮に足をすくわれないように願うばかりです。
江戸期においても、軍記ものの読み本は、しろうとにも大変好評であったということであり、現在の私たちにも、「事実の歴史を知りたい」、「歴史というものは興味深い」と江戸庶民と同様に実感できるところです。また、封建・反動時代の代表であるかのような260年の江戸期のあり様が、決して、軽薄なグローバリゼーションの信奉者などによって、誹られるものではないことをも認識し、現在の日本国の国力や国民性のその安定性はわが国の「誇るべき歴史」であることを再度認識し、私たちは、現在のグローバリズムという米欧から仕掛けられた「国難」に対処すべきでしょう。
ついでに与太話をひとつ、私、昔(1970年代から1980年代ころまで)、新幹線で東京に行く際に、関ヶ原(現在の岐阜県大垣市ですか)を通過する際に、晴れた日を見たことがなく、常に、薄暗い曇天か雨の陰鬱な天気でした。例の、「つわものどもの夢のあと」かも知れず、気味の悪い思いをしたことがあります(しかし、晴れない日はない、ということでもあります。)。ためしに友人に聞いたところ、「天気が悪いところだよね」ということでした。
わが、愛読書、水木しげる氏の、「ゲゲゲの鬼太郎」にも、「妖怪関ケ原」という利害の異なる妖怪仲間同士により、正邪(?) をめぐった天下分け目の闘いがあり、しっかり、「東西の、天下分け目の合戦」というのは、つくづく日本人の心に根付いているわけですね。
そういえば、昔、京都に住んでいた時は、私は「東京の奴らのいうことなんか聞けるかよ(自分らが世界の中心のような顔をしやがって)」と思っていました。皆もそうであったらしく、(酒を飲むととても盛り上がったが)、集合的無意識というのか、共同幻想というべきか、その敵愾心・対抗心は、とても根強いものですね(笑い)。
しかし、著者は、精力的に新書など出版され、天皇制の歴史を扱ったり、ついては現代の情況論にも言及していることでもあり、われわれしろうとに、歴史家として、歴史を平易に知らしめる努力をされているように思われます。
私、歴史には全く素人ですが、現在の世界情勢の現状を見ていると、われわれ「庶民」でも自国のその歴史ととても無縁ではおられず、またわが国の歴史を知らずして、適切な国際・外交問題など語れないような情況であり、無知とか、無関心とかいえない、現在は、厳しい段階と思われます。
われわれが抱く日本国の歴史も、われわれが何の気なしに教わったことも、実際は、ずいぶんバイアス(特定の思想によってゆがめられた認識)がかかり事実とは乖離しているようであり、朝日新聞の組織的な虚偽で下劣な報道など、改めて、敗戦後の「占領軍史観」の罪深さと、それに積極的に迎合し悪乗りするサヨク学者、サヨク文化人たちの曲学阿世ぶりに、腹立たしい限りであり、私は非力ながらも、鉄槌をくだしてまいりたいと改めて決意します。
先に、日本国の歴史がとても好きな人と知り合いましたが、彼は「本気で」歴史が好きであるらしく、「古事記」と「日本書紀」の違いを話してくれ、とお願いして、しっかり叱られました。歴史家(?) というには、どうも、専門家(?) として、専門外とか、しろうとの容喙(ようかい:口をはさむこと)など許してくれないところがあって、「思惟の手段」として、あるいは単に好奇心で歴史を学びたいというのは、なかなか理解してもらえない、ところです。
著者は、自分で書いているように、「武士」の歴史の専門家であり、専門外においても、しろうとを対象とする新書などで、多くの歴史本を出しています。
われわれが読む歴史書は、結構、はやりすたりがあるらしく、それは私にも覚えがありますが、私が30代の頃(かれこれ30年前ですが)中世史において、亡き網野善彦氏の著書ですが、絵図面などを駆使して、農耕民から外れた職能民などの(非農耕民)や中世の被差別民までのさまざまな職種の人々とその実相を論じた興味深い著書で、歴史の見直しというか、大ブームを起こしたところです(私はそのように承知しています。)。しかし、それが極端に傾くと(ブームになると)、偏頗な左翼史観ではありませんが、あたかも、歴史は、権力者(為政者)によってではなくて「大衆」、「被支配民」の動静によって動いているというような、硬直化した極端な言説となります。
そこで、本来の「歴史」の原動力とはなにか、という問いに戻るとすれば、この著者の主張とすれば、当時あれほど膾炙した、「被支配民」史観からの歴史のみならず、政変の参画やと直接武力を担う「武家」の視点からの歴史もあるだろうということです。それがバランスの取れた事実に近い考え方だと、思われます。
その意味で、この本では、日本国の現在にも多大な影響を与えたと思われる歴史的に重要な政変(戦争)を取り上げます。
最初に「律令制下の行政区画」の図面が添えられ、しろうとにはありがたいところです。殊に、広い東北地域は、出羽と陸奥の二国だけであり、あらためて、西日本と比べ、中央の直接統治や何より関心のなさという、西国に比して、その冷淡な扱いと支配の不均衡が目につきます。
古代の重要な政変「壬申の乱」(大海人皇子、大友皇子との内戦、勝者の大海人皇子は天武天皇となり、これ以降「天皇」、「日本国」という名称が位置づけられた。)、中世の「青野ヶ原の戦い」(貴族の政治権力の代表者後醍醐天皇勢力と武家の政治権力室町幕府が最期に戦った内戦)、最期の内戦「関ヶ原の戦い」(武門の覇者豊臣家と徳川家が覇権を争った戦い)という三度の重要な戦争について、なぜ、いずれもが、ほぼ同じ場所で戦われたというのかについて、大変興味深い考察がされています。
古代では、山間の狭隘地である軍事拠点、不破の関につながる、和蹔(わざみ:関ヶ原の古名)という場所(戦略上の重要ポイント)で戦い、大海人皇子が勝利し、この場所がその後につながっていく東国との戦略拠点となったと論じられています。当時の国家は、不破の関、それに連なる鈴鹿の関、愛発の関などのライン以西の西日本でしかなかったことが理解できます。東国は、当時、別の国家だったのですね。
中世においては、後醍醐天皇の意を受け、陸奥から立ち上がり、鎌倉を攻略・経由した、神速の勢いの高畠顕家と、足利家の執権高氏などの決戦が行なわれたのも、京都側から防御しやすい青野ヶ原(現の岐阜県大垣市、残念ながらこの本には当該位置図がついていない。関ヶ原近接の一連の地形らしい。)になりますが、それぞれその戦争の実態は、足利側は、本来の幕府由来の御家人ではなく、楠木氏、赤松氏などに連なる悪党(もともとは寺社などの私兵)勢力がその主流でありその故に強かった、という記述がされております。
高氏が敗残した行き場のない悪党を引き取ったのではないか、という話や、高畠顕家(神皇正統記を書いた北畠親房の息子ですが)は、天才的な軍事の指揮官とされていたが、実際は文官貴族で、文武両道の戦の天才といったものではない、と私が読んだ小説本(歴史小説)とは全く違うようです。実際は、戦上手で、荒事を厭わない新興武門勢力が歴史を動かしたのですね。建武の新政以来、天皇勢力が、これらの一連の戦いで、強者で実力のある武門勢力に、その実態的な政治権力を奪われるという、歴史の潮目があるわけです。
最期の、関ヶ原(関ヶ原=不破の関)に連なる戦いですが、犬打つ童も知っているような、「天下分け目」の戦いです。つい最近も、NHKBSの番組「英雄たちの選択」で、徳川家の宿将、井伊直政の論考をしていましたが、東軍と西軍、それに連なる戦国の大名たちの思惑と、武門の意地など、著者の言う、戦略と戦術の差が論評されていたところです。
そして、古代から近代に至るまでに、当該地域がいかに、その時々の、国内の勢力地図を左右する場所であったのかがよく理解できます。そして、古代からの「都」(みやこ)と「鄙」(ひな;いなか)という対立の発想の根強さ(今でも、それぞれの地方住民の「共同幻想」を呪縛していますね。)現在の歴史という学問が、兵たんの規模や優劣、兵士の数、それぞれの軍事的・経済的拠点、またそれぞれの味方の勢力や利害の考察など、大規模に、周到にくみ上げられていることがよく理解できます。
また、同時に、後輩の歴史学者(ベストセラー「応仁の乱」の著者)を敢えて批評して、誰が敵で誰が味方か混迷を極めた場合においても、その戦争(政争)の勝者と敗者、またそれがいかなる変革・変換を促したかについて、時代的な・巨視的な、また何より現実的(経済的側面、個々の利害・感情の相克など)の視点を忘れるな、という教訓を語らせています。実は、この気鋭の歴史学者は、NHKBSの「英雄たちの選択」にも出ており、その受け答えの軽さに、「何だ、こいつは本当に考えてしゃべっているのか」、と思った覚えがあります。
著者は武家の研究者ではありますが、地勢的に関ヶ原一帯が戦略拠点になり、また時代的に武士勢力が政治の中心になるのも歴史の過程であろうかと思いますが、「それも一つの特殊な要素である」こととして、その視点は柔軟で、流動的な発想を持っています。
もし、歴史に「普遍性(それがあるものであれば)」や、その「本質性」があるのであれば、という意味で、著者の希望により、哲学者、西洋哲学、ヘーゲル研究者の竹田青嗣氏、西研氏と対談しており、日本史だけの研究者だけにとどまる(それをかてに更に自己の考察に深みを目指していくことかも知れないが)つもりではないようです。その点では、この本の跋文(「戦場の地点がすべてを物語る。久しぶりに面白い歴史書を読んだ。」)を書いた、磯田道史氏とも通底するものがあるかも知れません(ところで、磯田氏は、推薦をしたことだけで本が売れるほど人気の歴史家なんでしょうか)。
著者に添ってたどっていけば、「関ヶ原の戦い」以降、東と西の分岐点、関ヶ原はその戦略的重要性を失う、ということとになり、それはなるほどと思われます。その後、徳川政権は、新開地江戸に拠点を移し、海外進出を考えることもなく、鎖国により、内政重視の政策で、武士勢力も安定し、それによる経済的安定も出てきて、住民の大虐殺や、宗教戦争も生じなかったという、江戸期の長期にわたる安定が招来されるのです。
そのあと、明治以降について、江戸期の封建的停滞を打ち破る、「当然のグローバリズムの招来」として称揚するかと思いましたが、著者は、慎重に言及するところです。これらの一連の戦いは、西側の中央政府に対する東からの脅威であることが共通(幕末の黒船来航も含め)していると語り、壬申の変では、その前題に白村江の戦いの惨敗、青野ヶ原の戦いでは元寇による幕府の疲弊と混乱、関ヶ原の戦いでは、朝鮮戦役の敗北など、他国との戦争、侵略戦争などがその遠因にあることが前提です。明治維新、大東亜戦争の敗北など、日本国内の騒乱のみならず、時代が変われば、日本国・内外から、いくらでも戦争が起こる可能性があることも、著者の視野に入っているようです。読者とすれば、著者が、今後も、つまらないイデオロギーや風潮に足をすくわれないように願うばかりです。
江戸期においても、軍記ものの読み本は、しろうとにも大変好評であったということであり、現在の私たちにも、「事実の歴史を知りたい」、「歴史というものは興味深い」と江戸庶民と同様に実感できるところです。また、封建・反動時代の代表であるかのような260年の江戸期のあり様が、決して、軽薄なグローバリゼーションの信奉者などによって、誹られるものではないことをも認識し、現在の日本国の国力や国民性のその安定性はわが国の「誇るべき歴史」であることを再度認識し、私たちは、現在のグローバリズムという米欧から仕掛けられた「国難」に対処すべきでしょう。
ついでに与太話をひとつ、私、昔(1970年代から1980年代ころまで)、新幹線で東京に行く際に、関ヶ原(現在の岐阜県大垣市ですか)を通過する際に、晴れた日を見たことがなく、常に、薄暗い曇天か雨の陰鬱な天気でした。例の、「つわものどもの夢のあと」かも知れず、気味の悪い思いをしたことがあります(しかし、晴れない日はない、ということでもあります。)。ためしに友人に聞いたところ、「天気が悪いところだよね」ということでした。
わが、愛読書、水木しげる氏の、「ゲゲゲの鬼太郎」にも、「妖怪関ケ原」という利害の異なる妖怪仲間同士により、正邪(?) をめぐった天下分け目の闘いがあり、しっかり、「東西の、天下分け目の合戦」というのは、つくづく日本人の心に根付いているわけですね。
そういえば、昔、京都に住んでいた時は、私は「東京の奴らのいうことなんか聞けるかよ(自分らが世界の中心のような顔をしやがって)」と思っていました。皆もそうであったらしく、(酒を飲むととても盛り上がったが)、集合的無意識というのか、共同幻想というべきか、その敵愾心・対抗心は、とても根強いものですね(笑い)。