天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために) その3

2016-05-25 20:05:42 | 日記
引き続き、わが、父方の祖父母について申し述べたいと思います。
私の曽祖父は、行政単位が「村」という時代に、家のそばを流れる河から堰を設け取水し水車などを利用し、当時製麺業などの商売をやっており、当時は内福であったらしく、田舎のノーブレス・オブリージュではないですが、村の世話役をやっておりました。
以前に祖父の除籍を見たとき祖父の兄弟に早世した子が大変多く、当時の保健衛生を考えればさほど珍しいことではなかったかもしれませんが、そのせいかどうか、曽祖父は村営の尋常小学校の育成・運営に務め、学校林(学校の維持、運営経費をねん出するために、植林し、林業の利益を還元する資産、私の通った高校にもまだ、当時ありました。)の造営に力を注いでいたそうです。その過程で、地区民の共同での山仕事の中で、植林をするための山焼きで火を放った際に、不注意でふもと側から誤って放たれた火に巻き込まれ、曽祖父を含め3人くらい焼死したといいます。のちに、叔父の一人に聞いたところ、遺体に焼け残っていたのは金時計だけだった、との話でした。その後も聞き語りになりますが、その死にざまが極端だったせいか、曾祖母は、物心とも、檀家(今も変わっていませんが)信仰に入れ込んだそうです。私にもその気持ちが理解できないこともないのですが。
そのてん末を、祖父から直接聞いたことはないのですが、祖父が生業に教育職を選んだことになにがしかの影響があったのかも知れません。
前述したとおり、祖父の兄弟には夭折が多かったため、それが余計に村営の小学校の運営に対し曽祖父が入れ込んだ訳かもしれませんが、生後祖父はとても大事に育てられたようです。結局祖父には兄弟がおらず、そのかわりに、後日、自分のこどもが男5人、女2人の計7人の多人数の兄弟であったのはご同慶の至りです。
私の祖母も、当時の大家族から嫁入りしたようです。当時の祖父の所帯は小規模の自作農であったので、一応水稲栽培(稲作)、畑作はありましたが、薄給のもとで、大家族を抱え、やりくりは大変であったろうと思います。繁忙の祖父に替わって、牛を使って田んぼの代かき(しろかき:耕作泥土の掘り起し)までもしていたとも聞きました。男女の分業が明確だった当時では、叔父の話によればこれは快挙だったらしいところです。
当時の営農家は、頑迷で扱いにくい牛や馬を使役することができるかどうかが、大きなポイントだったんですね。また、祖母は祖母で、肝心な時に働かない祖父に不平がなかったわけではないのですが、明治生まれの妻であり、面と向かって、それは言えなかったのでしょう。
祖母は、立ち居振る舞いも優しく、性格的にも受け身でひたすら優しい人でしたが、私としては兄弟二人の末子としては最後の育児のように面倒をみてもらったような覚えがあります。母方の祖母は、理に勝った人でしたが、祖父同士と同様にまったく肌合いの違う人で、そののち、それぞれ娘たち(双方の叔母たち)にも同じような性格や雰囲気が伝わるのは興味深いものですね。やっぱり、奇妙なほどタイプが違います。祖母は、「青い、渋い、固い」タイプの、融通の利かない傾向の祖父に比べ、近所でも、人気者だったようですが、行き会う人に、また話の相手に、安心感を与える人でした。祖母に、私たちのこども(ひ孫)に会わすことができたのは幸せでしたが、祖父母とあまりに長い時間(通算して26年間くらい)一緒に暮らしていたので、「こ
うしてあげればよかった」とか、「もっと優しくしてあげればよかった」と、悔いを残すのも、いわゆる「世間」の家族と同様のことでしょう。
しかしながら、80歳代後半で祖母を先に亡くし、90歳代前半まで存命した祖父は、その後、大変落ち込んでしまい、「(みんな亡くなって)友達もいなくなった」と言いつつも、私に対してどこかで目にした自分の知らない新しい言葉の意味をたずねてみたりとか、ときどき生き死にがわからない囲碁を始めたりと(対局した私もくたびれました。)、新たな取り組みで、自分を鼓舞しよう、鼓舞しようとしているのが見えるにつけ、同じ男として、気の毒なところでした。「(祖母が死んで)さみしい」とは、私には、決して言いませんでしたが、人性とは辛いものですね。
叔父、叔母にとっても、殊に遠くで暮らす叔父たちにとっては、母親は別格だったらしく、急逝したため連絡が遅れ、祖母の死に目に会えなかったことをなじるような話もしており、男にとっては、厳父よりは、先に早世した優しかった母親がより大事であったと思われ、ました。仕方がないにせよ、これもさみしいものですね。
いずれにせよ、私にとって、祖父母の死というのは、在りし日を含め、私にとって大変鮮明に思い浮かびますが、まだ、父母については、まだそれだけ距離がおけないせいなのか、それだけくっきりした印象が浮かびません。
父は、祖父にいろいろな事情で頭が上がらなかったせいか、「曽祖父(父にとっては祖父)は本当に優しかった」としみじみと述懐したこともありましたが、それは、どちらかといえば祖父母に親近感が強い、私たち「夫婦」としては、人情の機微というか、感情の不可解さというか、説明に窮するところです。まあ、本当のところは、妻にはよくわからないでしょうが・・・。

「記憶 3月11日HAND DOWN東北」という文集を介してのお礼 その3 (私的な礼状)

2016-05-23 20:46:41 | 読書
S Yさん、S Aさん、
このたびは、本当にありがとうございました。
 今回お逢いして、あなたたちは、明るく、勁い(つよい)人たちだなー、との率直な感想でした。
それは、お二人とも3.11以来、震災後の厳しい試練を経てきた結果だろう、と思いいたりました。
それは、太宰治ではないですが、「噴火した火山の後の静けさ」、といったものかもしれません
(法学部文芸学科の出身なもので)。また、失礼ながら、どうしても父親の視点になってしまいますが、あなたたちの立居振舞は礼儀正しく、粗飯にも素直に喜んでいただき、ほほえましく大変うれしい思いでした。

 このたび、あなたたちとの話の中で、ナショナリズムの話になりましたが、以前、私が「BSフジ動画」を見たときの話ですが、時事問題の対談番組で、覇権国家中国が、尖閣列島を手始めに国境を侵犯し(現実的にいつでもある話ですよ。)戦時体制になったらとの話で、出演していた大学生(一回生)(あとで「YM」さんというK大学の学生さんでもあることを知りました。)の女の人だったと思いますが、「私は、前線には出られないので、後方から支援する」と言ったのに対し、某名門官立大学出身の若手社会学者が「ぼくは逃げる」、「成熟した近代国家では、そのような自由が許される筈だ」と発言し、視聴者の失笑(嘲笑) を買ったそうです。
彼は、「知識人」(そのような場所に出れば当然です。)として、現在国家間の戦争が現にありうること、もし、国家間の紛争があれば、まず、弱者、老人・婦女子が犠牲を払う(シモーヌ・ヴェイユが言っています。)ことなど、考えたこともないのでしょう。全く、知的に退廃しているというべきです。

 お話したように、まず、「健全な」ナショナリズムの立場で考察すれば、中野剛志ではないですが、身勝手な「東京」のために、野菜や肉や様々な食料品、労働力を供給し、使用電力の3分の1といわれた電力を供給していた(もちろん福島です。)東北地域が、未曾有の災害に襲われれば、政府の義務を抜きにしても、首都圏行政委員会、住民は、当然、心から支援し、復旧に全力をささげるべきだった、ということなのです。これは、国内の他の地方・地区にも波及していく、政府は別にして、日本全体の問題なのです。心ある日本人は、「脱・原発」とかいう、極端な利己主義、愚劣な論理破たん・責任逃れに加担したり、国民国家全体に飛び火する重大なエネルギー問題を矮小化すべきではないのです。私の敬愛する知識人たちは、東北大震災の際に、村上龍を含め、「(外国や西日本などに)逃げなくて良かった」(逃げないことで同国民としての責任と尊厳が保たれた)といっていました。

その官立大学出の若手社会学者(例のF.Nです。最近はバラエティ番組にも出てるんですね。)
が、はるかに若い世代に、完膚なきまで敗北しているということに意識的でないならば、彼の学者としての命運は尽きている、というしかないような気がします。社会学者としては、個人としては、現在の日本の政治的な状況、国際的な状況と現状分析、その中で自分がどう働けばいいのか、〈世界〉に対し説明できるまじめな視野と考察が出来ていなければ、人間として恥ずかしいことです。
彼が仕事でかかずらっており、あなたが在学する大学創立者の、「一身独立し、一国独立す」という福澤諭吉先生の遺訓にも背いてもいます。

このたび、お二人にお会いして、私は18歳の時に、20歳の時に何をしていたかと、恥ずかしいような思いでした。
あなたたちが、中学生に話された、① 何気ない日常生活の幸せを意識して欲しい、② 感謝の言葉を亡くなった家族に伝えられない悔い、③ そのまま変わらず続くと思っている日常に何が起こっていくかは全くわからない、私たちの体験をきっかけに(家族で)よく話し合ってみて欲しい、という話は、体験談としてよく理解できる、感動的な話でした。

自然災害のみならず、現代の、アメリカ発グローバリズムは、世界中に紛争ばかり引き起こしています。その中で、前述した彼女のように、視野を高く持ち、まず自国の平和を希求し、自国・世界を見据える、大人の視点を持つことは本当に尊いことです。あなたたちのひととなりにも、同様なものを感じました。しっかりとした意見と態度を持つ若い人に会うのは楽しくうれしいものです。
今後、日本全体が、国民国家日本の国民が、どのような困難に遭遇しようが、直接立ち向かうのは、あなたたちの世代になって行きます。政府に過ちを犯させないように、無責任なつまらない知識人や浅薄な意見に振り回されないように、お互いに勉強していく必要があります。

ところで、PHP出版という会社がありますよね、その意味をご存知ですか?
昔、生意気盛りだった高校生の頃、私は、資本家が何言ってやがる、と思っていました。
しかしながら今この言葉を思い返せば、このPHPとは、「Peace and Happiness through Prosperity 繁栄を通じ、平和と幸福を」、という松下幸之助さんの言葉に由来します。利益追求が全てでないという理念の実現のために、彼は出版社を設立したのです。
現在の、「持つもの」と「持たざるもの」の果てしない断絶という今の世界状況をみれば、これは、正しい理念ですよね。明治の人は偉いと思います。また、PHP新書には個人的に、いろいろお世話になっています。

「教育の目的は、(知育とか徳育とかではなく)、自立心を培うことと、視野を広め他者世界に対する想像力を養うことであり、一方が他方を互いに支えあうことある」、と私の好きな批評家(小浜逸郎)が、福澤諭吉論(「日本の七大思想家」)の中で言っていました。(私も、自己教育についてそうありたい、ものです)。視野を高く持ち、自分や〈他者世界〉に前向きの人間には、他者を誹謗したり、中傷したりする暇はないのです(議論は別でよ。)。

ナショナリズムは「感情」から始まる、とも言います。あなたたちの体験に涙し、共感する経験は、西日本の私たちにとっても決して軽いものではありません。
また、あなたたちが言っていた、近くの川で遡上する鮭を、それぞれが捕まえ、みんなで調理して食べる、という体験は、私たちにとって夢のような話です。豊かな自然に囲まれたそれぞれ地区地区での住民のエートスというか、改めて、「日本」に対する愛着がわきます(私、「新日本風土記」ファンです。)。
今回は短い時間でしたが、私はあなたたちと色々な、意見の投げかけ、対話をしました。
今後も対話が成り立つように希望しています。
今までで、承服できない点、疑問点、いつでも返してください。
「右であれ、左であれ、わが祖国」、といいますが「東であれ、西であれ、わがふるさと日本」なのですから。           
                      天 道 公 平 

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斜体部分は、後日付け加えました。          

思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために、また農協に及ぶ考察) その2

2016-05-17 21:03:17 | 日記
再度申し上げますが、わが祖父は、二人とも全くタイプの違った人でした。共通するのは、明治生まれであることであり、それぞれ、不出来な孫を叱ることがすくなかったことです。
 父方の祖父母は、私が結婚して家を出ていくまで、20数年にわたり長らく同居していましたが、もともと父の兄弟は、指を折って数えなくてはなりませんが、男5人、女2人の7人兄弟であり、したがって、大家族でした。また曽祖父はある事情で壮絶な最期を遂げており、若くして家督を継いだ祖父は、退職するまで学校の教師を勤めました。
 戦前(もちろん太平洋戦争のことですが)は、一般的に教師は清貧の代表者であったとも聞いており、長男から数え、二男、三男を養子に出し、退職後は、生業の農業に務め、戦後も貧しい生活を続けておりました。長男であったうちの父は腰が定まらず、祖父に選んでもらった職業を放擲し、あちこちを転々として働いており、私の幼児期にほとんど父の記憶がありません。その後、前非を悔いて(?)、地元の中小企業に就業しましたが、私の幼年期の記憶は、祖父母に負っているものがきわめて大きいところです。
また、後日、うちの母親が、父の晩年にきわめて冷淡であったように思えたことも、なんとなく、理解できるところです。ただし、私自身とすれば、成人に至るまで、父親をあまり好きでなかったのはよく覚えています。そのような内訌のもとが、我が家が破たんせずに済んだのは、当時の時代のせいなのか、祖父母の恩恵のせいであるのか、よくわからないところです。しかし、手前勝手ながら、私も、その後家庭を持ち、父親としてすべきはずのことができない(「責任が取れない、必要な時にいうべきことが言えない」)と妻になじられたとき、私の成育史(?) になにがしかの原因があるようにも思われるところです。
 それはさておき、かつて祖父は、鉄拳制裁も辞さない父親であり、戦中の軍国教育にも積極的に加担していた、というのはのちに聞いた父親の述懐でした。
 当時、私たち兄弟に対し、不在の父に代わり、からめ手から教育を行ったのが、祖父の役割だったでしょうが、成人に至るまでほぼ孫の私を全面受容してもらった優しい祖母に比べても、鉄拳制裁とは程遠く、ひたすら褒めて育てられたように思います。祖父は「青い山脈」という流行歌を好んでおり、戦中での自分の行為に伴う煩悶、後悔は言わないまでも、「日本は文化じゃけん」という「青い山脈」の校長先生の決め台詞に同感であったのかもしれません。ゆえに祖父から、戦争の話はほとんど聞いていません。これは祖父にとって多分に意識的なものであったと思えます。
 話せば、たとえば吉田松陰、児玉源太郎とかの話とかしたのかもしれません。よく、覚えているのは、祖父が「人の世話をするよう、人の世話にならぬよう」という、後藤新平の言葉を引用していたことです。祖父が、「後藤新平じゃぞ」と、教えてくれたかは記憶にないので、後年調べました。
 祖父にとって座右の銘かもしれませんが、実のところ、明治人かつ元教育者として、「人の世話をするよう」に、行動指針を直ちに実行する人でしたが、「人の世話」などと出歩くことも多く、嫁などからは、必ずしも歓迎されませんでした。
 明治青年として身の処理の潔さ、それなりの開明性、間違ったことは正す勇気、この辺りは、まったく手前味噌ながら、まさしく祖父に教わったように思います。今でも、思い起こすたびに、懐かしい思いがします。
  (続いて、以下は、「協同組合」について、所感を申し述べます。)
 今回は、祖父たちが作った「協同組合」について、祖父の記憶とともに申し述べたいと思います。先に、わが「社研」では、三橋貴明氏の「亡国の農協改革」を皆で読みました。
 その中で、若い参加者には、「協同組合」の実態(現実の姿)が理解しにくいらしいことがよくわかりました。おそらく、資本主義の歴史の中で、他国の例もあるにせよ、著者の描く、なぜ協同組合が必要となったのか、いかに資金力がなく社会的な権力に無縁な自営業を営む大衆にとって、当該組合が味方になれたのか、についての理解がなかなかできにくいのだと思われました。また、日本においても、著者が「(1948年)当時全国で1万6千弱もの農協の設立がされた」と指摘されたように、昭和20年、30年代において、いかに多くの組合が作られ、整理・統合・消滅して行ったのか、理解したいと思いました。
私より少し年長の元大農家の方が述懐しておりましたが、米・味噌・醤油などは自家製造できるけど、外から物を買う現金がなかった、との話であり、当時の農村の事情が推し量れるところです。
 当時、農業者に資金を貸すような金融機関はあるはずはなく、私に記憶があるのは、頼母子講(無尽)(たのもしこう、 金銭の融通を目的とする民間互助組織。 一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行したという制度だそうです。安全な庶民金融がない時代の産物なんですね。)(わが県にも「無尽」から創立されたという、第二地銀もあります。)というものなどはあるにせよ、新たな事業を興そうとする際に、まとまった資金を調達するすべもないまま、新進の気象に富む祖父は、当時、組合員の出資金に基づく、畜産協同組合を作ったようです。当時の地区農協の勧奨があったかどうかは、残念ながら祖父に聞いてはいません。
 近所の農業者と語りあい、最初に固定経費のかかる乳牛の協同飼育の畜舎を作り、当該搾乳施設などを協
同管理として設置し、出荷や、飼料購入、肥育に至るまで、組合の施行でやろうとしました。
 しかし、その後当該収益が思うように上がらず、母方の祖父と異なり、経済・実務的な能力に欠けていた祖父は、当該追加運営経費について自分の農業所得と恩給(年金)以外、資金の当てもなく、しばらくして立ちいかなくなったようです。結果として、規制のかからない田んぼを宅地として求めた母方の叔父に売り、帳尻を合わしたようです。それがまさに、嫁(母) の愚痴の対象になったわけですが。
 しかしながら、富の蓄積がない当時の農村で、貧しいながら、個々が出資金を出し、組合員が経済的に利得を得、協働の結果、出資に応じ当該利益を受け取り、自己及び家族の生活の向上に資する、自主自立の制度というのは、今思っても、当時の農業者にとっては、夢のような話であったでしょう。また、これは、進駐軍の後押しによる戦後政府が画した自作農創設政策(農地解放)により、自営農民が創出されたことなどによる意識の発揚、戦後の混乱期に労働力はたくさんあったとしても、農村に賃労働などの仕事も少なかったなども前提の話ですが。
 私は、現在、都銀とも、山口県を基盤とするY地銀ともお付き合いはありませんが、当時から銀行が限られたもの特権的なもののための存在であったことはよく理解できます。
 現在でも、当地では、多くの住民が、自己の便益のためには多少遠くても農協や郵便局を利用します。
殊に高齢者など、感覚的(生活感性的)に、銀行を信用していないんですね。ご承知のとおり、銀行も、一部高額所得者を除き、高齢者とのお付き合いはしてくれませんが。
今後も、限界集落など、明らかに、高齢的、経済的弱者しかいない地区において、近傍の農協、郵便局に是非頑張ってもらいたいと思います。金融資本、特定産業の保護と効率追求のみ求め、国民のライフラインとしての日本農業の将来と、日本独自の誇るべき組織農協を、平然と無慈悲な外国資本に差し出し、自己利害のみ図り、弱者の存在を認めず、国民国家の国民の利害に配慮しない、わが日本政府の政策と、その推進者新自由主義者に、強く反対します。
ついでながら、私も、「亡国の農協改革」著者、三橋貴明氏の主張に与みして、安倍首相の出身地(長門市油谷町)の美しい棚田を当該著書の印税(プラス我々のカンパで)買占め、自然に悪影響を及ぼすかも知れない合理性のない太陽光発電のパネル設置をするなり、グロテスクな風力発電のプロペラ装置を設置(下関地区に洋上設置の反対運動があります。あの実態は、「無考え宮崎駿」氏のアニメのフォルムですね。)するなりして、当初日本独自の営農の素晴らしさ気質の良さを賛美していた、彼の政策の一貫性のなさを糾弾したいと思います。
今後も、私は、明治人わが祖父の遺訓に習い、どのようにして「人のお世話をするように」かにつき模索・熟慮しつつ、日本の多くの国民大衆の利害に寄与する、現存する農業協同組合の支援に努めてまいります(私、現在のところ営農は好みませんが、現在、今後も、日本国にとって必要であろうと思われる、農協の準組合員、共済会員、預金者を兼ねております。また、営業のお兄ちゃんに、発破をかけています。)。

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大変申し訳ありません。
 笠智衆が、「日本は文化じゃけん」というのは、「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督)の内容でした。
 お詫びします。

 祖父は、この歌を非常に好み、おかげで、学齢期の前に覚えてしまいました。
 褒められるため、何度も歌った記憶がありますが、(当然、歌え、といわれば今でも歌いますが)、祖父母が惹かれた、明るさ、楽しさは、私にも共有されます。

 思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために)その1

2016-05-16 19:36:28 | 日記
わが祖父は、父方、母方と二人とも全くタイプの違った人でした。共通するのは、明治生まれであることであり、不出来な孫を叱ることがすくなかったことです。
 母方の祖父は、へき地の決して豊かでない農家から、同じく山奥の村部の運送業者に婿養子に入り、家付きの娘のそばで、家業を継ぎながら養父母に孝養を尽くしたらしいことです。背が高く、頑丈で体が大きく、ほおぼねの張ったいかつい顔をしていました。
当時の私とすれば、母親の盆暮れの里帰りに連れられ、母親になだめすかされ、山あいの狭い砂利道を、一時間近く(最初は)ボンネットバスに揺られ、車酔いになりそうになりながら、通っていました。こどもの頃は、なぜ、こんなつらい無理をして、母の実家に帰郷しなければならないかといつも思っていましたが、今(私は還暦)になったらよくわかります。当時の社会常識では、兄弟姉妹という拡大家族としても、遠く離れても相互の安否を気遣い、思いやることを繰り返し、気に留めていることは、家族として必要なことだったのですね。おそらく、当時(昭和30年代)、多くの家族において、ごく普通のことであったように思いいたります。実家については、いとこ同士で、年齢、実力の順序で、仲よく、遊んでもらったり、遊んでやったりしていました。
私の母は、男3人、女5人の8人家族で、へき地の例にもれず、都会に働きに出たり、嫁入ったりの叔父・叔母が多かったのですが、いずれも仲が良く、ことに女姉妹は、いずれも頭がよく口が達者で、こども心に感嘆(?) していました。両親の方針なのか、当時では珍しく、彼女たちは、いずれも女学校(その後一部「新制高校」)へ進学させてもらっており、田舎であるので、学校寮に入寮か、学校近くに下宿をさせても
らうなど、子供たちに対し、当該教育費用は惜しまなかったようです。
前から思っていましたが、彼女たちの口達者は、当然厳しい社会生活を経るうちに醸成された訳でしょうが、賢い、やり手の家付き娘の祖母に由来するものではなかったか、と今になって思いいたります。母の姉妹は、右肩上がりの経済状態の時代でしたが、皆、気前よく、お年玉、こずかいをはずんでくれ、私はしばらくお金持ちとなり、ほくほくの思いで、近くの駄菓子屋で豪遊できました。当該実家の所在は、わが家より少し高地にあり、我が家近辺にはいないヒグラシが、夕暮れ時にカナカナとさみしげに鳴き、蝉取りが趣味の私としても、なかなかこどもの手にはかからなかったとはいえ、私の本来の地元とは違った自然がありました。
母の実家は、流通業者(?) として、副業に精米業などもやっておりました。納屋自体が、精米装置であるような建物で、機械装置の間を米がわたるそのすさまじい音にすくんだ思い出があります。山間の集落とすれば、小さいながら、青果業、酒屋、雑貨屋、薬屋、農協などの金融機関など、ひととおりそろっており、例の角形ガラスケース完備の駄菓子屋までありました(前述のように恩恵を被りました。)。
祖父の容貌は、いわゆる馬面で、色が黒く、丸顔・色白を願う姉妹たちの怨嗟の的でした(よくわかります)。寡黙で控えめな人で、家業から引退したあと、農業と、肉用牛の飼育に専念していました。毎晩の少量の晩酌を楽しみにしており、私が長ずるにつれ、猪口の酒をすすめつつ、遠慮がちに近況をたずねながら、その答えにうなずき満足しているようでした。
本人の言いようでは、牛の世話が道楽だ、と言っていましたが、農作業の合間に、常時、二、三頭は飼っており、くらい牛舎の中で、大きな牛がうごめき、こども心に怖いようでした。草食の動物であり、いずれもまつ毛が長く、目の大きい黒牛で、おそるおそる差し出した草をゆっくりと食む姿はかわいらしいようでした。祖父は、当時、その牛を出荷する時が、一番悲しい、と言っていました。牛どもの飼料のために、あぜや草刈り場の草刈りが不自由になるにつれ、いつの間にか牛の飼育もやめていってしまいました。
祖母は、なかなか孫に甘いだけの人ではありませんでしたが、祖父と一緒に、大家族を制御・運営しておりました。
盆・暮れの、兄弟の寄り合いで、達者な姉妹たちの口撃の十字砲火の喧騒の中で、酒を飲むだけしかないような男兄弟は圧倒され、それでも、それぞれの配偶者を含め(うちの父親は母の里帰りに同行することを明らかに嫌がっていましたが)当該宴会(茶会)は深夜まで続きましたが、もっとも鮮烈な記憶は、部屋の中央に掘りごたつ(やぐら炬燵(こたつ)といっていました。)を切り、実際にこたつの底辺に、炭を埋けたり、練炭(いわゆる配偶者「不完全燃焼殺人事件」に使われたアレです。)を燃やしたりの、直接暖房でありましたが、当該掘りこたつを中心に、放射線状に布団をしき、皆で寝ていました。木組みのやぐらこたつ自体と、もみ殻枕の独特のにおいと、重い、硬い布団のかびくさい臭いを、よく覚えています。
祖父母にも、時代やそれぞれの人性において疾風怒濤の時代はあったでしょうが、家業をまもり、家業をたたみ、商売人としても、また、親としても様々なこどもたちの相談にも乗り、少なくとも、商売人としては、有能な人たちであったと思われます。
我が家の母は、上から二番目の二女であり、兄弟をおもんばかり、やむを得ず、言われるままに兄弟の多い家の長男に嫁入った、と愚痴をいっていましたが、その後、家族内のヘゲモニーを握った後も、愚痴の種は尽きなかったようです。義理の母も含め、まだ働きに行く場所もなく(当時、働く女性は社会的に不遇であると同情されていた要素もあります。)、終日、姑や小姑と顏を付き合わせ、当時の農村にはいくらもあったような話であったようです。後年、わが母は、フルタイムの仕事を見つけ、末子であった私は、内孫として、家を守る祖父母との関係がますます濃くなっていきました。
母の実家と我が家との、家同士の行き来も密であり、叔母などの話によると、農繁期の相互の手伝いや、子守などに動員されたということです。が、我が家の祖父は、実務的な素養がない人で、母の実家から色々助言や協力もしてもらったようです。
先日、母方の早世した長男から、二番目の順序として、わが母が物故しましたが、遠くに住んでいる高齢の長女を含め、存命の母の兄弟が全員集合したのは壮観でした。死ぬまで口が達者で元気な人でしたから、むしろ明るい雰囲気の中で葬儀は行われたところです。いみじくも、私と同級生である当日の導師(僧侶)が、母方の親戚一同を見て「みんな、同じ顔だねー」と感に堪えたように言っておりました。
誰かの話ではないですが、兄弟姉妹の関係性は、空間的な拡大にも、我々いとこ同士を含めれば、時間的な拡大にも耐えるものですね、それが私たちの代で絶えそうなのは申し訳ないところですが、それなりに、私自身と、叔父、叔母との行き来は続いています。もし、統一した家業があれば、「部族的な拡大」(笑い)にも耐えうるようにも思われます。
いずれにせよ、大家族を運営し、世間とつきあい、家業に決着をつけたのは、明治人である、祖父母の大きな功績であるように思います。孫への配慮も忘れず、個人的に及び難いと今でも思えます。
こんな感興を、後日、思いがけず、私たちに地下水脈のように呼び起こすのが、父祖や年長者の偉さなんでしょうね。