天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

阿部真央作「いつの日も」などを聞いて涙したこと

2019-07-05 19:03:25 | 歌謡曲・歌手・音楽

私、いなかに住んでいるので、恒常的に、車による移動をしています。
 運転する際に、全く無音であるということでは、落ち込んでしまうこともあり、まず絶え間ない状態で、車に附置のナビのハードディスクにCD音楽の取り込みをしたり、携帯のブルーツースを利用した、音楽サービスを利用します。
 昔、懐かしい歌はもちろんのこと、あたかも、加齢に追われ、義務感(?) (焦燥感か?) に狩られるように、新しい歌も聴きます。
 しかしながら、若いときのように、のめりこむように、新たな音楽に引き込まれるかのような体験はだんだん少なくなり、近頃は、加齢による感覚(感性)の鈍磨というものはあるものであろうか、と思われます。
 友人に聞くと、彼は、最近演歌を聞いたら、「いい」と思えるようになった、ということであります。もともとは、ロックのプログレッシブを愛好していた男だったのですが、これも転向というべきものでしょうか。
そういえば、うちの妻は、カラオケで、「徳山ワルツ」という、とんでもない、ど演歌を歌っていたことがあり、その中に、「コンビナートの火のように私の恋も燃えたのよ」((註)徳山市というのは昔石油化学コンビナートで有名な場所であり、当該石油精製プラント内の余剰原料を焼却する焼却塔があって、いつぞやはそれが爆発し大事になった。当該焼却塔から空に立ち上がる炎は地区住民にすっかり見慣れた光景である。)という一節があり、いくら接待などでの歌唱とはいえ、「理系というのはバカだなー」と、つくづく思いました。

 閑話休題、最初は、NHKの朝ドラや、NHK特別の支援(?) 番組で応援している群舞アイドルの楽曲を聴いていましたが、彼女たちは基本的に合唱であり、群舞と一緒でないと、見栄えが悪い。あたかも、北鮮の大将軍様になったような、心地がしない。
そのうちに、世代的に言えば、それらが、昔日の、盆踊りの合いの手のように思われ、憮然としますが、私とすれば、楽しいといえば楽しい訳です。
当初、私が聞いたのは、秋元康プロデュースのグループであり、あまたのグループのうち、彼が、基本的に歌詞を提供する、いくつかのグループがあり、曲の傾向として、乃木坂とか、AKBとか、坂グループ(乃木坂・欅坂とか)当方には判別できないグループもたくさんあるわけです。
彼が傘下に対し、付与するその歌詞も、その作詞傾向を、グループごとに微妙に分けており、へえ、と思うわけです。しかし、中には、こりゃだめだ、というのはあります。
うちのおばが、NHKの朝ドラのテーマになっていた曲、AKB48というグループの「365日の紙飛行機」という曲を、メモ用紙に書き取り、ドラマの放映と一緒に歌っていましたが、何度も聞いてみれば、そのうち、なるほど、いい曲かも知れない、と思えてくるわけです。
それらのいくつかのグループで選択して、ときにAKBの歌は聴きますが、先に題名にひかれ、自分で覚えた「上からマリコ」というのは面白い歌でした。とうとう、私のカラオケナンバーに入れてしまいました。
曲名の名づけかたから意外性があり、かつての佐野元治のアルバム曲、「月と専制君主」とか、「ジュジュ」(違った意味で好きな曲です。)などとの出来を比べても、遜色のない出来ですね。
年下の男の子が、年上の彼女にふりまわされるという曲ですが、彼女のその甘えと媚態の様は、年下の彼女の方が適当かもしれない、とも思われます。甘え上手でかわいい彼女と、年下でうぶでありながら、しっかりしたまじめなボクという図式です。
しかし、その歌詞には、どっちが主導権を握っているかは別だよという含みがあります。彼女は、ラノベ読者(中高生男子)たちが気弱く指摘するいわゆるビッチかも知れず、その言動はそれなりに興味深く、実際のところは、かわいいかどうか別にしても、怖いといえば、怖い話です。

 年上の君は 自由奔放で
 次の行動が 僕にも読めない
 人ごみの中 急に振り返り
 君は(僕に)キスをせがんだ

 上からマリコ サディスティックなヤツめ
 愛の踏み絵みたい 無茶振り

 何でいきなり?
 何で目を閉じる?
 君は本気なのか?
 ジョークなのか?
 (後 略)

 昔日の、キャンディーズの、「年下の男の子」などと比べると、女と男と、語りの主体は違いますが、この歌の方がはるかに高度にうまく、現在の、若い彼らの現実感と情感を掬い上げている(「オヤジらしい表現」ですね。)と思われます。テンポと展開がよく、聞いていて、思わず笑ってしまうところがあり、面白い曲です。
それこそ「無茶振り」という言い回し表現はオヤジには新鮮であり、また、「自由奔放で」とはオヤジが好む言い回しですね。それが巧妙に折衷・連結できる、やはり、秋元康は実力者なのです。

再度、閑話休題、最初の話にもどって、私の傾向性に基づいて、音楽サービスの、女性単独のアーチストの対象曲をあさっていました。女性ボーカルの、家入レオとか、大原桜子とか、なかなかの実力者は多いものです。
しかし、選曲サービスの中で、図抜けて多いのが、阿部真央の作品です。それらはドラマや、コマーシャルに使われることも多く、とても人気がある、実績のある人と思われます。
彼女のギターの弾き語りから始まる標記の歌を、なんともなしに聴いていると、彼女のかすれた声と、それは決して奇をてらった歌詞ではなく、その詠嘆が切々とこちらに伝わってきます。
基本的に、女から男に伝えるラブソングなのですが、だんだんに楽器を増やし、情感を盛り上げていく演奏の中で、こころうたれる瞬間があり、思わず涙していました。
何の気なしに、こんな様(ざま)になるのは、男を引退しつつある、当方にとって、珍しいことであり、たまたま助手席に乗っていた、妻にばれないようにするのが大変でした。
自分でも、現役(?)の若い娘(彼女はどうもデビュー10年経過の30歳くらいの人らしい。)の歌でこれほど動揺するとは意外であり、改めてびっくりしたところです。
どうも、私のその有様は、妻にも見抜かれていたようですが、それが妻に受感できるのも、私と同様に歌を聞いたことによる妻の感情の動きであり、彼女の歌の功績ではあります。しかしながら、「いい年をして、バカが」と思われても反論できない、訳でした。

例え その心揺らぐ日が来ても
側に居たいの
出逢ったその日から ただ一人の愛しい人
いつか互いの生きる毎日に慣れてしまっても
愛し合えた奇跡 それだけは忘れたくはないよね
(中 略)

きっと 貴方に出逢う為
そして愛される為 私生まれてきたの
次に生まれ変わっても 貴方を捜すから
もう一度見つけて

ずっとその手に抱き留めて
もう何も見ないで 私だけを見つめて
二人共に生きた今日を
その胸に刻んで いつの日も思い出して
いつの日も笑って
いつの日も愛してよ

「現在の相愛の気持ちと瞬間を全肯定する」というわけになりますが、そのときの私にとって、不思議に、将来の破局とか、時間の経過による気持ちの離反などと、茶化す気になれず、「時よとまれ」ではないですが、瞬間が永遠であるということもある、という素直な気持ちにもなるわけです。
とりもなおさず表現者として優秀な人なのでしょう。その歌詞は、平易なことばが使われ、中島みゆき大先生のように、こちらの内面をえぐられるような迫真力はありません。しかしながら、昔のギター弾き語りの系譜をひくような歌手でもあり、聞いていてとても懐かしい心持ちがします(中島みゆき大先生も出自はご同様でした。)

彼女には、「always」とか、「そばにいて」など、男女の親密で自然な性愛の肯定やその破局を歌う、良い曲もあり、曲としての出来とすれば、そちらの方がよいかもしれませんが、やっぱり、この曲は、私にとって特に惹かれる曲です。

同時に、彼女には、「私は早口をなおしたい」とか、こちらの自意識をくすぐり、思わず笑ってしまうような、面白い曲もあります。
結局のところ、女性として、男女間や、個々の対他的な人間関係にわたる経緯というか、そのいきさつに敏感で、とても意識的なわけです。それこそ、(現役の)彼女にとって、彼女の作品はおしなべて、いわゆる対幻想((一対一の人間関係とそれにまつわる様々な情動・観念の総体)(註)天道)に、その興味と主題が純化されているのでしょう。
そのようなもの(?) に疎い私にとって、彼女が友人となっていただければとお願いしたいような心持ちです。興味深い、楽しい人なのでしょう。今も昔もムリかも知れませんが。

貴方がそこに居るだけでこの胸は軽く弾むのです
会えないと不安で寂しくてせつなくなるんです
ずっと笑っててください 横顔を見せてください

私を傷つけるのも癒すのも貴方だけなんです
些細なひと言に舞い上がり、沈んだりするんです
そのとおりだと思います これこそ恋だと思います

貴方がどんなに自分を嫌いでも、
他の誰かには代えられないから

私は貴方がいいのです 貴方がダメだと思うところでさえ
この心愛しさで満たすのは十分なの
でもこんなことは口には出せません だって怖いから
追えば貴方が遠くに行きそうで 少し怖いから
ずっとそこに居て下さい どうか どうか どうか
   (後 略)

一般的に言えば、現在のように、これだけ自意識でがんじがらめにされた(ゆえに挫折が許されない)、現在の若者たちにとって、恋をすることは大事業なのでしょう。彼女の歌にも、人間関係に対する過剰な執着があり、その齟齬に対する予兆や恐怖があります。
上記の「私は貴方がいいのです」という曲は、いじらしい、いい歌です。ある意味、中学生のラブレターのように切れ目なくつづられる長い文章を、彼女は、その歌唱力と表現力でつなぎ、最期に、愛の賛歌に結実します。
そして、最期に、女の子は、人性を通じて、女の子なんですね、という、真理にたどりつくのかもしれない。古代から、男と女は違った観念(幻想)の歴史を生きるのが不可避であり、その真理に、自分にはない、女性性を肯定しつつ、男どもは、共感・感動するのです。

こんな歌に感動しつつも、何度聞いても不快な、「男女共同参画」とか「LGBT」などという害毒ある政治的なテーゼを、「スターリン・レーニン主義系譜のパヨク主義」とか、「毛沢東民族覇権主義」と同様に、廃棄・駆逐したいものです。
(このたびは政治的発言をしないようにしていましたが、また、最期にしくじった。)


カラオケ、クロニクル(時事放談を含む。)  その1

2018-01-12 18:31:27 | 歌謡曲・歌手・音楽

 山口県周防大島から見る瀬戸内海日の出です。どうしても、逆さにしか掲載できません。お許しを、中央の島は、愛媛県に属する「ダッシュ島」だそうです。

 昨年の夏、半世紀ぶりの小学校の同窓会を行いました。私は本来「むつかしい」人間ながら、このたび、思うところがあったので、世話役を務めさせていただきました。
 加齢により、高潔な人格となれば幸せですが、いまさら、わが人格を陶冶(とうや:よりよき様に直すこと)することはできかねるので、このたびの参加の際、もし、「あいつが幹事代表なら嫌だ」と思われた方には、参加できずお気の毒でした。うちの妻なら「今からでも、悪いところは直せばいいじゃないの、特に私に対する態度」と、言い出しかねないところです(数年前、私は苦し紛れに、今後私の余生は、「正義の実現」のために生きる、と宣言して失笑されました。)。
できれば、私は「できれば謙虚に振る舞いたい」とは思いますが、昔はやった「自己否定」などと愚かなことはいたしません。私は、自分にも他人にも思想的誤びゅう、と、「誤った倫理性」を強い、また求めることは好まない、のです。自分のだらしなさを棚あげにして、他者に、過剰な倫理性を強いるのも、一般大衆の悪癖です。商業新聞など、それを面白おかしく煽動するやつはもっとたちが悪いわけですが。

 ところで、時節柄、お約束の脱線をしますが、かつて、私が30歳代のころ、「夫婦間の信義」を破った妻に、逆上して、平手打ちをくらわし、妻の鼓膜が破れ、その後で、「あ、これ以上やったら暴行罪だ」と思い、頭がすっと冷えた覚えがあります。それ以上に行かなかったのは、お互いにとって幸せでしたが、それより前に激昂した妻によって、無防備で寝ていた私は、足で顔を踏まれたこともあり、このような経緯はなかなか外(夫婦以外)からは理解不能なところです。それは、人間(人と人の間)の闇はたぶたぶと深い、というところかも知れませんが、かつて読んだ文豪たちの著作物の中にも、夫婦についてもっとすごい話があり、私のような小人のでる幕ではないでしょう。小林秀雄のように、「(偉そうにしていても)俺は、お前がどんなインチキな夫婦喧嘩をやっているかよく知っているぞ」とうそぶくのが正しいのかもしれません。
 この一節は、意図として、尊敬すべき経済評論家、M氏の事件や事実を矮小化するわけではありませんので、それは、別途お断り申し上げます。
 しかしながら、更年期となったわれわれは、妻から日常的に「あなたは若いころからどうだった」という一方的に、真偽を問われない「言葉による虐待」を受けており、どうも同世代の、友人たちも、異様に妻を恐怖しており、憮然(ぶぜん)たる思いではあります。昨年、11月に放映されたNHKの総合テレビのドキュメンタリー、「なぜ急に妻は怒り出すのか」などを見ていると、登場した夫婦の実際の映像を見つつ、数万年(?)にわたる人類史の歴史と、それを、狩や育児といった、生き延びるために分業により強いられた男と女の役割分担とそれぞれ観念の歴史というか、それぞれの生き延びる努力とその不可避的な関係の差異の歴史の説明を受けていると、妙に納得します。われわれの性格や観念、性格のありどころまで、女の良いところも、男のよいところもきちんとあり、しかしそれは圧倒的に隔絶しているのですね(昔(1970年ごろ)、はやり歌に「黒の舟歌」というのがありましたね。皆の希望があれば、久しぶりに唄います。)。
 何度も書いて恐縮ですが、「更年期になると、男は女になり(おとなしく温和・受動的になる。)、女は気が狂う(病気である。)」という認識は、男にとって救いであり、それを事実として、認め救いあげられる男は、救いの端緒に佇っているものと、私は断言します。「現在」という情況の中で、男は、お互いの安心・安全(家族の安寧と融和の)のために、冷静に戦略を立てるべきなのですね。
 ただ、最近、「これは明らかに狂人ではないか」という女性を、街で、頻繁に見受けますが(私の主治医に言わせると「異常かも知れないが狂人(?) ではない」、そうです。)、それがカップルで居るのを見れば、傍目でも痛々しい限りです。もし、「女になりきれない男」であれば、いつか夜中に妻を衝動的に絞め殺してしまいはしないかと思ってしまいます(劇場版「エバンゲリオン」にも、碇シンジ君が、泣きながらアスカを絞め殺そうとするそのような描写があったな。)。
 いずれにせよ、「若いころから更年期ではないか」という私が観察する身近な女どもも、私は、指を折って数えることができますので、いずれあれが多数となれば、「女の原像」として、わが思想に繰り込む必要があるやも知れません。「量質転化」というヤツですね。

 閑話休題、つらつら考えるに、私は、現在の自分の行動の推力とは、主に「好奇心」と思っておりますが、このたび、同窓会の打ち合わせ、行事を通じて、かつての学友たちにもいろいろ興味深い言動や、さまざまに感心する認識や体験が多かったところです。
 このたび事務局として、司会進行を行い、ほぼ時間中、立ち上がって司会をしておりましたので、昔、懐かしい面々と、話しこむということはできませんでした。
 そのような経緯と実態であり、皆で語り合い、日を改め、同窓会の世話役を対象に打ち上げをおこなうこととなりました。
 晴れて、打ち上げとなりましたが、和気あいあいの一次会を過ぎ、二次会に入りましたが、当該世話役メンバーと行ったのは、しっかり、カラオケスナックでした。

 私の大学生時代(1974年から1978年まで)には、カラオケなどというものは、まだ、存在していませんでした。
 高歌放吟というのは、昔日の、暇な、特権的な学生のたしなみであったかも知れず、そういえば、わが若きころは自作自演として、シンガーソングライターなどもごく一般的ではありましたが、楽器演奏の素養もなしに、ふつーのおにいさん、おねーさんが、あるいはおじさん・あばさんが安直に酒席で歌を楽しむことは、それほど昔からの歴史ではなかったのですね。人前で歌を歌うのは行儀が悪い、というのもあったかもしれません。
 今思えば、私が運よく就職(昭和53年(1978年))できて、その数年後くらいから、スナックなどで、にわかにカラオケが膾炙しだしたように思います(話は変わりますが、また、同時期に、いなかでも、貸しレコード屋というのが始まりました。みんながあのかさばるLPレコードを一日賃貸でやり取りしていたのです。)。

 カラオケというあれは、利用者に、根拠のない自大感(うぬぼれ)の感覚と、自己に対する酩酊感があり、本当によく流行りました。当時、場合によっては、マイクの奪い合いなども生じ、迷惑な酔漢などの、たちの悪さを改めて認識させられたところです。
それほど飲めない私も、職場の付き合いで、二次会などで同道し、「酒を勧められるよりはいいや」と、言われるままに振舞うこととし、「歌を歌え」、といわれ、「けっ」と思いながら、演歌や、つまらないので、時にすかした(場違いなという意味です。)歌を歌えば、「陽気なヤツ」とか、「雰囲気の合わせられるヤツ」と認めていただいたこともあったかもしれません。しかし、そのうちに、「病膏盲に入る」というやつで、すっかり取り込まれてしまいました。
 そういえば、わが世代の、カラオケに対する含羞のない態度とか、臆面のなさはこの頃から始まっているのですね。
昔日においては、「私は、不調法で」、「歌は不得手で」など婉曲に、マイクを断る人は、少なくはなかったところです。酒席では、酒肴や気の置けない会話を楽しむほうがいい人は多いことです。私自身、その際に取り交わされる楽しく、含蓄のある話や興味深い話は当然好みます。しかし、常に、楽しく、興味深い宴席があるばかりではなく、義理ずくの酒席でなどで周囲と話したくない場合は、カラオケに逃げられることもあることです。
そして、今思えば、かつて、宴席の二次会は、それまでの職場の「反省会」や「助言を与える場」という、ことであったかも知れませんが、カラオケの大流行で、ある社会的な関係や組織の中での二次会の良質な役割りがすっかり影を潜めてしまったところです。

 私、もともと関西で「自己形成」を遂げたので、あらゆるところで、押しなべて割り勘定の習慣になじんではおりましたが、酒席でいくらでも飲むやつと割り勘定では分が悪い、と思って、自分ではカラオケでバランスを取るつもりでおりましたが、飲み、食い、歌うという、行儀の悪いやつもおり、閉口しました(次は一緒に行かないぞ。)。
 バブル前のことになりますが、上司の付き合いでクラブへ行ったときは、8(エイト)トラックの安いカラオケ装置の変わりに、プロ(プロだろう。)の専属ピアニストの演奏で舞台上の歌唱であり、「おお、これは」と思ったことがありました(しかし誰も聞いてないだろうね。)。
スナックでは、そこは商売で、「お客さん上手ね」とかほめられ、そうなれば、互酬ということでスナックのおねいさんに歌っていただくこととなり(例の「スイートメモリーズ」などですね。)、お互いにほめ合うこととなります。
 いろいろありましたが、その後結婚し、スナックで、「ママ」、「ママ」などというのもなんとなくわずらわしく、バカらしくなり、とうとう撤退しました。
 しかしながら、飲む席で、会話のキャッチボールというか、それほど頻繁に、「他者」と又は「他女性」と楽しい会話を過ごしていない私は、酒席のあとの人間関係を含め(?) 人性の楽しみや醍醐味を味わっていないと、いまさらながら自分で思われ、損をしているところでしょう。「歴史は夜作られる」かもしれないが、そういう社会的関係に参加できなかったことは今もって極めて残念です。
 「ふざけるんじゃねえ」とか、かつて、学生時代以来の宿あとして素面でも、激烈な議論をしていた私たちは、やっぱり、青い・渋い・硬いなのでしょうか。しかしながら、そこはそれで、当然に、「これはどうだ」とか、「歌詞」などの論功行賞はきちんとやっていましたが。
 そのうち、こどもができ、音楽を聴く習慣すら失せ、「カラオケ」冬の時代が続きます。
ただ、こどもの歌にも、われわれが聴いて楽しい良い歌があり、レコードからテープに落とし、彼らのために、もっぱらカセットで流していましたが、「みんなの歌」の中で、「北風小僧の寒太郎」、「山口さんちのつとむ君」、「恋するニワトリ」など、秀逸なアニメとともに、「みなみらんぼう」や「谷山浩子」などの印象深い歌も数多いところです。
 だんだんに、こどもたちが、ものごころつくころから、世間での新しい歌も耳に入るようになり、カラオケボックスがごく一般的になり、家族でカラオケに行くようにもなったし、時に、祖父母(義父母)を含め一緒に行くこともあり、流行り歌を皆で共有できた、思えばあの頃が、一番楽しい時期ではありました。
 
 このたび、誘っていただいた方々は、皆さん、カラオケがお好きな方ばかりでした。
 何の根拠もないことですが、われわれの世代で、勧められて、やはり、カラオケを断る人はほとんど見ていません。皆上手に、アドレッセンス(思春期)、青年期の習い覚えた歌を歌います。このたびは、幸いに、演歌シリーズとか、デュエットシリーズとかなかったわけで、まだ、彼らの人性では、安い共同幻想(?) への迎合とか、デュエットへの強要とかおやじ体質の選曲がなかったわけです(本当はもう少し酒が入らないとよくわからないが)。
いわゆる、私にもなじみの、ニューミュージック(?) 系の選択が多く、それはそれぞれに思い入れのある曲でしょうが、ここで批評が働きます。彼、彼女たちは卒業以来どんな人性を経てきたのかと、こちらの想像力が働くわけです。その選択を通じ、彼・彼女たちの学生時代以降の過ごし方とか、その後の社会生活・結婚生活を想像し、いろいろ感興やら、同情、共感などがわくわけです。ついでながら、歌詞や、曲調に対する、思い入れをあわせ語っていただくとなおさら、興味が尽きないところです。

 殊に、幼児期のテレビ番組の記憶は鮮烈なのですね。
 それは、他に娯楽がなかったかも知れず、男女をとわず、「エイト(8)マン」とか「スーパージェッター」とか皆きちんと歌えます。今もって「ひょっこりひょうたん島」(あの井上ひさしが放送作家を務めた、彼の唯一の功績です。)のテーマも歌えないことはないところです。ああ、あれが国会議員になったよな、死んじゃったよなと思いながら。
 その合間に、「異化効果」として、私が「ドロップスの歌」(まどみちお作詞)とか、「アイスクリームの歌」(佐藤義美作詞)などを交え、場合によって、デュエットを強要します(一回目は「まあ」という感じで赦してもらえます。)。
 最後は大合唱となり、大団円を迎えるわけですが、中途で私とすれば、時により、聞きたくない歌が排除できるように、工夫します(嫌な性格ですね。)。
しかしながら、歌を歌うことは、他の付き合いも含めて、望み・望まず社会的な数多くの局面においてあり、家族のみならずわれわれの人性のさまざまな場合に、場合場合において参集したメンバーによって、異なった付き合いと関係とがあることは確かであり、そのたびごとに、違った自己表現もあるものでしょう。また、その、多面的で相互複層的な人間関係がないことも、本当はさみしいところでしょう。
うちの妻がよく、「「ひとりカラオケ」に行け」、とアドバイスしてくれますが、私は、共生としての人間存在を何よりも肯定しますので、はっきり言って嫌です。
 それならそれで、孤立老人の支援のために組織された、お金を払って、同行サービスを利用しても、カラオケに行きたい、ところです。


大瀧詠一(1948-2013)に対する私的なオマージュ

2017-09-13 20:45:27 | 歌謡曲・歌手・音楽
大瀧詠一氏がなくなられて、しばらく経ちましたが、かつて、私も、私なりに彼を偲ぶこととして、彼の曲及び彼の活動していた時代についての思い出と、彼の達成について謝意を表するため一文を草したことがありましたが、文案がどこかへ行ってしまいました。
このたび、久しぶりに、彼の曲を聞くことがあり、やはり、私には、彼の歌曲はいまだに色あせてないように思われました。
一昨年は、東京国際フォーラムで、彼の属した、「ハッピイ・エンド」というグループについて記念コンサートが開かれたとも聞きました。テレビで見ていても、当該「ハッピイ・エンド」に係るオマージュ行事として、その後の、歌手・グループの追悼番組も催されており、必ずしもファンは私だけでないと、思いいたりました。

以上のような経緯で、以下のように述べてみたい、と思います。
私が、最初に、「はっぴいえんど」を見たのは、中学生(昭和40年代後半)の頃くらいだと思いますが、彼らは、当時政治的フォークソング(?) の大看板、岡林信康のバックバンドをやっていました。岡林信康のことについては別の機会に述べることがあるかも知れませんが、その後の彼らの身の処し方(?)を見ていると、彼らに政治的な背景は薄かったように思われます。
むしろ、その後の彼らの発言、「日本語でロックをやりたい」などと、あわせて考えれば、政治的な時代ではあったが、私が思うに、やはり「音楽のための音楽」を、と主張できる、独自に音作りや好みに合う音楽を好む、スタジオミュージシャンへの過渡期のミュージシャン(音楽家)であったように思われます。
ということで、私は、いなかに住んではいましたが、4歳上の兄の影響だったのか、グループでおこなうフォークソングとかは一応聞いていました。ボブ・ディランとかは難解でしたが、PPM(ピーター、ポールアンドマリー)とか、ジョーン・バエズとかですね。そのときの日本人のコーラスグループといえば、今聴くのも嫌なグループはいくつもありますが、それらに当時それほど入れ込んでいなかったのは今思えば幸いです。
その後の、アメリカのウッドストック(ロックの野外コンサート)などの影響か、ヒッピー・ムーブメントの影響なのか「中津川フォークジャンボリー」など、泊りがけ野外コンサートなどが盛んになされ、多くの若者たちの間で流行に乗った、大音響の音楽、例の「ラブ&ピース」が流行った時期でありました。しかし、アメリカの国内運動としてのベトナム戦争(アメリカの若者には切実だったでしょう。)反対などに比べ、政治的な目標が希薄な日本では、それはたいそう、うそっぽく聞こえ、当時、意味もわからず付和雷同しつつ、いまいち盛り上がりを欠いていたのは確かです(一部馬鹿な若者(老人もいるか)たちが支持している、現在のグローバリズム運動と一緒です。)。
当時の、その出演参加メンバーのうち、今、覚えているのは、斉藤哲夫くらいです。当時、彼は、弾き語りでとても難解な歌を歌っていました。しかし、後年、友人に教えていただき、何度も愛聴した、彼の優れたアルバム、「グッドタイムミュージック」(1974年)には、心底、感銘を受けました。当時の大衆学生の生活感性とその実態にまさに同致するような、また詩情のあるアルバムで、良い音楽がそうであるようにアルバム全体が大きな統一と調和の中にあるようでした(たぶん、このアルバムは、ビートルズの名盤「サージエントペッパーズロンリーハーツクラブバンド」をも強く意識しています。)。斉藤哲夫の高音部のコーラスは絶品で、不遜にも私が歌おうとしても(カラオケはないのですが)どうしてもついていけません。私が歌おうとすると、うちの妻は心底嫌がりますが、今でも、CDで時々聞いています。一度、このアルバムを、あの小田和正が好きだ、と聞いたことがあり、「へー」と思ったことがあります。

当時のヒーローについて言及すれば、後年、狂人に射殺される直前のジョン・レノン(1940-1980年)のインタビュー記事を雑誌(月間プレーボーイ「日本版」)で読みましたが、彼らの先駆者としての偉大性や、貧困層から出た彼らの出自や苦闘、ビートルズの内部での葛藤、その後のそれぞれの生き方の違いは理解できたような気はしましたが、彼が語るすばらしい日本人女性(名家の出身らしいですが)オノ・ヨーコ(オノ・ヨーコさんが何の芸術家なのかよく知らないのですが)さんとの出会いや、彼女の主張はどうしても理解できなかったところです(今もですが)。当時、「優れた」芸術家同士のカップルでの相互影響と芸術的進展ははあったというかも知れませんが、私には信用できません。
遅れて参画したビートルズファンとして、率直に言わせてもらえば、解散後の、ジョン・レノンのアルバムは、隙が多くて本当につまらないですね。結果として、優れた対立者として親友ポール・マッカートニーたちと、憎みあい、格闘しながら作り上げたアルバムの方がはるかに優れているのは皮肉なことです。

その後、むしろ、「はっぴいえんど」は、自主制作で、スタジオ録音がしたかったのか、オリジナルのレコードを出すこととなり、「 Happy end 」とか「風街ロマン」などのアルバムが出ました。このあたりは、アルバムもちゃんと買っています。「風をあつめて」、「ほうろう」とか「氷雨月のスケッチ」など懐かしい曲です。さきごろ、「はっぴいえんど」オマージュのアルバムも出ていましたので、どうも先駆者として後進の(?) アーティストたちにも人気があるようです。
リーダーが、ベース、キーボードなどの細野晴臣、リードギターが鈴木茂、サイドギターとボーカルが大瀧詠一、ドラムスが松本隆でした。みな、後年大変有名になった人ですが、ロックのリズムに、日本語が載らないのかと、いろいろ実験的なことをやっていました。
 今も印象に強いのは、大瀧詠一のボーカルのよさです。眠たげな顔をした、ベストボーカリスト、大瀧詠一が、あの細い目で(あくまでイメージです。)「12月の雨の日」とか「風をあつめて」をうたっているのが、今も目に浮かぶようです。あの時代の、松本隆の作詞も、その後の商業作詞家(それも大事なことです。)に転進する前の、興味深い歌詞をいくつも書いています。
 その後は、才能ある方々の宿命でしょうが、それぞれが、自然自然に自分の得意分野で働くこととなります。

 大瀧詠一が、もっとも、音楽的・商業的に成功したのは、「 A Long Vacation 」(1975年)でしょうか。
 彼らの出自は明らかに団塊の世代であり、そのヒーローは、ビートルズやアメリカのフォークソングやロック、ポップスなど戦後最初にラジオで聞いた世代でしょうから、当時を考えれば、「豊かで自由なアメリカ」というイメージが出発にあるのでしょう。累計で、170万枚売れたということで、本当に時代にあったアルバムだったのですね。今回改めて聞いてみて、全体の曲調や音作りがスタジオで実験のようにされていて、全曲大瀧詠一と松本隆の合作とはいえ、相互扶助なのか他の細野や鈴木茂やその他のミュージシャンも同時に音作りに参加していて、親しみやすい明るい、楽しい曲調と雰囲気がこちらに伝わるようです。これは、当時、大変珍しい光景であったかもしれません。
 この、「 A Long Vacation 」の、アルバムもそのデザインが、明るく楽しく、暗さなど微塵もない美しいアメリカのリゾート(それがうそかまことか誰にもわからなかった。)を連想させるイラストで、是非ポスターで部屋に張りたいように思えた出来でした。作詞はもちろん、全曲ゴールデンコンビのかたわれ、松本隆です。
 A面の最初は、①「君は天然色」、という曲で、これぞアメリカンポップスという作品で、今は去った彼女への追想の曲で、「ディンギー(一人乗りのヨット・貧しい若者のヨットスポーツらしい。)もやった」、「夜明けまで長電話もした」、めくるめく楽しい時間を過ごした後で、彼女はその心のままに去ってしまう。セピア色の写真だけ残ったが、今も忘れられない、当時のように、美しく思い出はよみがえって欲しい、という曲です。「天然色」ということばはまさしく昭和ですが、当時の流行先端的なヨットに乗ったりと、それなりに青春を謳歌していたはずの彼らカップルも破綻し、心のままに行動する女の子は去っていく、という、いわば、きざで、気取った明るい光景です。たぶん、こんな歌は今までなかった新しい歌でした。三曲目は、③「カナリア諸島にて」、ということで、リゾートのビーチで(カナリア諸島らしい)くつろいでいる情景であり、70年代後半になりつつあったころでは、こんな歌も一般的になったということでしょう。続いて、④「Pap-pi-doo-bi-doo-ba 物語 」、というのは、彼女との恋の駆け引きのやり取りで、「言うことミーニングレス、やること羞恥レス」とかのユーモアや、「ひとこと言ったいったその日から、恋の花散ることもある」などと、警句も織り込まれ、捕まえようとしたら、その瞬間、身をひるがえし、逃げちまう、という話です。⑤「わが心のピンボール」、失恋の歌ですね、軽く流したという感じですが、村上春樹の初期の小説にもピンボールが出ていましたが、ピンボールマシンというのは現在の若い人には理解不能かも知れませんが、コインゲームであり、中高時代は遊技場の出入りが禁止されていましたので、当時は多少いかがわしいものであり、それに入れ込む若者は正統派(?) の若者ではないわけですが、やれば楽しく、それに入れ込むこともよくわかり、皆、ビリヤードの傍ら、最高点を目指し、やりこんでいました。盤面は、アメリカ流の悪趣味なイラストと、電光彩色、効果音がビンビンなり、まことにアメリカ的(?) でキッチュ(安ピカもの)なゲーム機です。それは、今の、ゲーム機遊戯に、きちんと引き継がれているかもしれません。ただ、歌詞にまったく出てこないのがわかりません。
⑥「雨のウエンズディ」、別離の場面ですが、古いフォルクスワーゲンの中でお互いに別れを予期した心理戦の話で、何食わぬ話しを続ける男女の会話で、おお、男は未練があるのですね、スミレ色の(春先の雨)の中で、当面抱き合っているしかないや、という情景であり、彼らの公休なのでしょう、水曜日の話です、つらいけど、じっと軽くやり過ごすという失恋の洗練された話です。私思うに、その後も、特に良い車とは思えない、旧式のフォルクスワーゲンがその後ももてはやされたのは、この歌に付加されたイメージがあるんじゃないですかね。現在の、ドイツ帝国のフォルクスワーゲン社は、実は、環境適合基準捏造の立派なブラック企業でした。⑦「スピーチバルン」、スピーチバルンというのは、英語であり、日本の漫画で言うセリフの吹き出しのことだそうです。港の岸壁での別離の情景ですが、間違っても演歌の俗な別れにならず、男女の悲しみが内向し、立場が岸壁とフェリーでわかれて、それぞれその悲しみと痛みを静かに感じ耐えているという情景で、「(出航を祝う)想い出のブラスバンド(の演奏)が耳元を過ぎる」とか、「投げたテープが絡まり気まずさだけが伝わって」とか、小道具もふんだんに用意され、永の別れを告げる詠唱のようで、もちろん、私のカラオケナンバーです(なかなか地味で静かな曲なので皆に受けませんが)。
⑧「恋するカレン」、この曲は、究極の失恋の歌であり、そのときの気持ちでいかようにも生きていく女の観念と、それがわからない男の観念との永遠のすれ違いの歌ですが、「恋の終わり」に、とどめをさすように、新しい彼に身を任せ踊る元かのじょに、壁際で、元カレが、詠嘆するという曲です。
何十年もカラオケで歌ってきて、しみじみ思ったのですが、最期には、これはまるでストーカーのように付きまとう、元カレに対する、彼女の心ある(?) 荒療治ではないかとも思われるわけです。「無理なものは無理」ということはなかなか男には理解できないところです。韓国には、「十度おして倒れぬ木はない」ということわざがあるそうで、韓国の男は、失恋しようが何であろうが、いくら既婚者であろうとくじけず言い寄る、とのことだそうです。いさぎよい、粘液質でないような(?) 日本人とすれば、そこまでは無理として(肌合いが違う)、「君は、本当の愛(本当かどうか実のところはよくわからないが)を棄てて、偽りの目先の幸せにすがりつく」と、嘆くしかないわけです。しかしながら、気持ちとしては、「良くある話だね」ではなく、「自らの愛が至上のものである」という男の気持ちに感情移入できないわけではありません。
中島みゆき大先生の歌では、時に相手の日本人の実名が入り、なかなか、生臭くなってしまいますが、この「恋するカレン」に対してであれば、いわば虚構として「永遠」が誓えるのではないでしょうか。結果として「男の自己愛」といえばそこまでではありますが。実例として、この曲は、さまざまな人がカバーしており、私は大瀧詠一以外のバージョンはあまり好みませんが、最期は、「 そうさ 哀しい女だね 君は 」で唐突に終わり、余韻を残すこの曲は、私、今も愛好しているところです。⑧「Fun × 4」、はめずらしくも得恋(そんなことばがあったのか)の愉快な歌で、彼女ができてその後一緒になすことなすことうまく行く(太田裕美のせりふが入ります。)という歌で、おもわずにやっとして、聞いているのがとても楽しい曲です。
 ⑨「さらばシベリア鉄道」、については、大田裕美のあまりに有名なヒット曲であり、いまさらことばを要することはないかも知れませんが、この曲は、どうも、姿を隠した恋人を、女側から追っかける歌みたいで、それが悪いというわけではありませんが、流行歌としては、「女が男を追っかける」というパターンが好まれるのかも知れません。

 いずれにせよ、このアルバムは、曲名の選択を見ていても、ビーチボーイズとか、ビートルズとか、米欧の良質なポップスの達成を、彼らが、豊かになりつつあった日本と、現代の日本の現実(相対安定期)を日本語で新たになぞってみようとする試みがあり、日本ポップス(断じて演歌でない。)の金字塔のようなもので、私を含め、多くの若者たちに支持されました。また、若き日の、大瀧詠一氏と松本隆氏のタッグマッチというところで、幸運な出会いでありました。
 このアルバムは、当時、空前の170万枚を売り上げましたが、過剰な人気は「ナイヤガラトライアングル」とか、自前のレコードレーベルを立ちあげるほど実力のあった、大瀧にしても、その後やりにくくなったことがあったかも知れません。先駆者の苦しみですね。その後、弟子筋に当たるような、佐野元春なども、彼の実績を足がかりに、新たな彼独自の音楽活動を始めましたが、それにつけてもすばらしい達成ですね。
 ずいぶん前ですが、FM放送の山下達郎の番組で、ゲストとして、大瀧詠一が招かれていたとき、「次のアルバムはいつ発売の予定ですか」と山下が尋ねたとき、「私もひとたびは天才と呼ばれた男、ですから」と、「天才(天災)は忘れた頃にやってくる」と、冗談めかして自らの(苦しい)心境を語っていましたが、当時の名声が、その後の彼の活動について大変な重圧もあったことも確かでしょう。

 その後も、「熱き心に」や、「夢であえたら」など、他の歌手に、楽曲を提供したりしていますが、やはり、私にとって、まず懐かしく忘れられないのは、このアルバムですね。
 その、大瀧氏が家族との会食の中で、急病で亡くなられてしまったというのは寂しい限りですが、演歌の藤圭子さんをはじめ、柳ジョージ氏、淺川マキ氏など、こちらの若き日によく聞いていた音楽家が、われわれの加齢と同様に次々なくなられてしまいましたが、引き続き、カラオケで追悼したいと思います(実は藤圭子さんの歌は歌う自信がないのですが)。

「昭和枯れすすき」及び「赤色エレジー」についての考察(俗は俗のままに)その2

2016-07-25 20:19:19 | 歌謡曲・歌手・音楽
引き続き「赤色エレジー」について述べさせていただきたい、と思います。
かの歌謡曲「赤色エレジー」は、昭和47年(1972年)に発売されており、作詞者兼歌い手あがた森魚が、触発されたという、原作林静一さんの漫画「赤色エレジー」は昭和45(1970年)年から46年にかけて、漫画誌「ガロ」に連載されました。田舎で、「ガロ」とか読む人はきわめて少なく、またこの漫画は私の「青の時代」と微妙にすれ違い、連載期間も短かったので当時漫画で読んだ記憶がありません。この歌は、原作の良さに魅せられた、あがた森魚の、原作に対するオマージュ(讃歌)ということになるのでしょうか。
私にとっては明らかに逆引きですが、当時、民放テレビの歌謡曲ベストテン番組(おお!!昭和)で、ギョロメで色黒の、Tシャツ、Gパン穿きの、また特筆すべきは素足で赤い鼻緒の下駄を履いたあがた森魚が、この曲を歌うのをはじめて見ました。街角の辻音楽を意識したかのように、哀調のあるピアノ伴奏をバックにギターの弾き語りをする、破調で歌う高い音域の彼の歌にとても惹かれました。当時、私にとって新しい歌で、印象深かったのを覚えています。
かつて、吉本隆明が、資本主義の「往相」(?) の例として「最初、Gパン、下駄ででていた、彼がいつの間にか、他の歌手と同様にきらきらのラメのシャツやパンタロン(?) で歌っている」と揶揄したことを覚えていますが、テレビの番組に詳しかった吉本を含め、彼のデビューは最初は、お茶の間に異和というのか衝撃を与えたのではないかと思っています。これは、演歌というものであろうと思い、その出自は明治からのものなのか、大正からのものなのか、舞踏会の思い出であれば、欧化主義の明治の所産でしょうし、昭和余年といえば大正時代の系譜をひくものであり、昭和後期に書かれた漫画も、その曲も、歌詞もそれぞれそのイメージを曳くものなのでしょう。
私にとってこの歌は、当時はやった五木ひろしなどとは異質な、実態としての演歌というもののように思われました。

   赤色エレジー  作詞 山田孝夫 作曲 むつひろし

あなたの口からさよならは言えないものと思ってた

 愛は愛とて何になる
 男 一郎 まこととて
 幸子の 幸はどこにある
男 一郎 ままよとて

 さみしかったわ どうしたの
 お母様の 夢みたね
 おふとん も一つ欲しいよね
 いえ いえ こうして いられれば

昭和余年は 春も宵
 さくら ふぶけば 花も散る

あなたの口からサヨナラは 言えないものと思ってた

 裸電燈 舞踏会
 踊りし 日々は 走馬灯
 幸子の幸は どこにある

愛は愛とて何になる
 男 一郎 まこととて
 幸子の 幸はどこにある
男 一郎 ままよ とて  

 幸子と一郎の物語
 お涙ちょうだい ありがとう

この歌も、一人の歌手によって歌われるにせよ、男女の掛け合いの形式をとっています。
最初に歌われる「あなたの口からサヨナラは 言えないものと思ってた 」という一節で、ことの暗喩として、このカップルが破たんすることが暗示されています。
「おかあさま、の夢をみた」、のであれば、世間に反する道行きでカップルが成立した後ろめたい、男女の状況が思い浮かびます。また、貧困の中では、せめて布団の一枚もあれば、寒さがしのげると希望の表明です。いや、多くは望むまい、こうして一緒にいられるだけでいい、やがてきたるに違いない男女間の破たんにおびえながらの社会の片隅での沈滞するような、まさしく、性的な親和性の破たんを予測させる歌です(歌うのは嫌ですがあの「神田川」のようなパターンですね。)。歌の構成とすれば、現在から、物語として、「昭和余年」に移行することとなっていますが、昭和余年が舞台であれば、世相は、大震災後の不景気の、不安定で、不安な時期の世相であり、「ままよ」という受け身性が身につまされるような状況です。
ただこの曲は、原作の「赤色エレジー」の作家林静一(しずいち)の作品に拘束されているところがあり、原作者のイラスト作品などを、和えかに、はかなげにまた退廃的に見える女性像など(抒情画家竹久夢路の再来などといわれました。)、それが当たっているかどうかは別にして、あがた森魚が目指した歌のイメージ(大正ロマン:今はない大正時代への追慕)につなげることとなっています。
せっかくの機会なので、このたび「赤色エレジー」(林静一著)(小学館文庫)を、読んでみました。
あがた森魚の作った世界とは多くの点で違いました。当時、「ガロ」に掲載された漫画であり、意識的に省略された動きが少ない絵柄と情感を高めるためか会話の少ない黒単色の構成で、当時流行った同棲しつつある売れない漫画家たちの男女の行き違いとデカダンスを描いたものでした。ところどころ、「つげ義春」の絵を連想させ、今、読むのはきわめて苦痛(時代も状況もまったく変わり、私もおやじになった訳で)ですが、当時の若者の悩みや劣等感や、生活への恐怖や、嫉妬や男女の関係と気持ちの行き違いへの苦しさがよく書かれています。おお、これこそ「ガロ」掲載の漫画、と納得できるような漫画でありました。
同時代に一世を風靡したというように流行った漫画として、「同棲時代」(上村一夫著)がありましたが、これは通俗的(なぜ通俗的かと書くのも嫌ですが)で、当時、若き「由美かおる」の主演で映画化されています。
いずれの漫画も、今の私にとっては、おはに合わない(肌に合わない)訳ですね。
著者の林静一さんは、その後アニメーターとして成功され、商業デザインなどとしては、ロッテ製菓の「小梅ちゃん」のイラストがきわめて有名で、後年、大正時代に美人画を書いて大人気だったといわれる竹久夢二に比され、昭和の「竹久夢二」と、賞揚されたようです。
この漫画自体の背景は、主人公の職業からしてもアニメーションがビジネスになりつつあった戦後の繁栄期の前期にあたる時代であるので、作詞者の、あがた森魚が、「裸電灯、舞踏会」あたりは、あとで付け足したものでしょうね。「お母様の夢みたね」没落した斜陽族ではないですが、彼が付加したイメージと思われます。通俗的といえばその通りですが、歌謡曲として、ふくらみを持たせたかったのであろうと思われます。あがた森魚自体、1948年生まれですから、この漫画が生まれたときに20歳のはじめということになりますが、彼は、前述したように、大正期から昭和の初めに仮託して、想像力を膨らませたこととなります。

現在では、決裂した、幸子と一郎は、それぞれ、別の場所で、それぞれ別の屈託をかかえ、「年金」の少なさと貯金がないことにおびえ、不機嫌に、いや、「幸せ」に生きているかもしれず、それはわからないことです。
いずれにせよ、歌謡曲は歌謡曲として、虚構は虚構として、きっちり、現実とは割り切り考えるのが、我々のような一般大衆です。
しかし、「裸電球」、寒い時期の「薄い布団」とかの実態を、多くの人が知らないことになったのが、現在であるとするならば、貧困とか、「三畳一間の小さな下宿」というのも、私の学生時代では確かにあったぞ。苦しかった、「青の時代」や、貧乏だったそんな時代と場所に二度と帰りたくない、というのはよくわかりますが。
現在も、政府や、経済社会構成に強いられたことに若者たちの「貧困」は確かにあると思いますが、それでも、時代を超えた「苦しいうた」や「悲しいうた」は、一般的にならないのですかね。そんな「感動できる」歌を待ちわびています。


「昭和枯れすすき」及び「赤色エレジー」についての考察(俗は俗のままに)その1

2016-07-07 11:12:11 | 歌謡曲・歌手・音楽
「悲しい歌」、というか、人間相互の「関係性」の齟齬(そご:くいちがい)・挫折の歌というべきか、わが春秋に富んだ若き時代(当面1960年代から1980年代までを仮に指定します。)(以下「青の時代」と称します。)にあれほど膾炙(かいしゃ:広く世間の人々の話題となること。)していたはず「悲しい」歌が、最近、傾向として、なぜはやらないのか、かねてより疑問でありました。「悲しいこと」、「苦しいこと」、「うれしいこと」などに、気持ちが揺るがないのはわれわれの精神の貧困ではないかと思えるからです。
 昔も今も「悲しく、苦しく」、時として「うれしい」人性は、引き続き、時を超え、人を替えても、反復継続(?)するはずである(私は、人間存在はその感興を制約を超えて共有するという立場に立ちます。)ので、社会的存在として、男女間であれどうであれ、私たちに共感されるべき、悲しいことや、つらいことは不断にあるものであるので、人性の渦中にある感情の機微として、なぜ「はやり歌」にならないのか、一般的に貧困問題が大きな主題でなくなり、個我意識がすすみ、性愛の一般性・共通受感性(?)など「共同幻想」として成り立ちにくくなったのか、やはり、よくわからないところです。
 わが「青の時代」において、私の資質に合った、思い起こす「悲しい」歌では、標記の二曲があげられます。試みに、ユーチューブでひいてみると、より再生回数、関連投稿が多いのは、デュエット曲「昭和枯れすすき」(1974年当時、男女デュオ:「さくらと一郎」によって歌われた。)の方ではあります。色々なバージョンがあり、特筆すべきは、投稿の中に、進行が女性のみのパートのバージョンがあり、曲の進行と、歌詞の文字案内により、視聴者の男は、ユーチューブに合わせ、自分のパートを自己カラオケ(?) で歌えることとなっています(笑)。私も、一度やってみましたが、この歌について、普段、一緒に歌ってもらったり、聞いてもらえる機会がなければ、小幸福です。
 また、その再生件数は関連を含め膨大なものです。おやじの再生利用が多いのでしょか。そういえば、80年代のカラオケブームで、当時、スナックのおねーさん方に、カラオケでデュエットを強要(?) していたおやじが数多くいたことを思い出します。

  昭和枯れすすき        作詞 山田孝夫 作曲 むつひろし

(男)貧しさに負けた
(女)いえ、世間に負けた
   いっそ きれいに死のうか
   力の限り 生きたから
    ( 中略 )
(男)花さえも咲かぬ
(女)二人は 枯れすすき
( 二番の歌詞は略 )

(男)この俺を捨てろ
(女)なぜ こんなに好きよ
   死ぬときは一緒と
   あの日決めたじゃないのよ
   世間の風の 冷たさに
   こみ上げる 涙
(男)苦しみに 耐える
(女)二人は 枯れすすき

 この歌の面白いところは、男女の掛け合いにあり、それぞれの感興を、異なった音域で、掛け合いとしてやりとりするところにあります。この歌は、「己(おれ)は河原の枯れ芒 同じお前もかれ芒 どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れ芒(船頭小唄:大正10年(1921年)、野口雨情作詞・中山晋平作曲)」という曲にその原型を借りています。原型とあいまって、昭和版のこの歌は、「私はこの世では、花咲く(あらかじめの貧困などの自己責任以外の理不尽な理由で自己実現性を開花する)ことができない」、という、多かれ少なかれ誰にも生じる疎外感や、被害者意識をうまくすくいあげるところにあり、大多数の人たちの情緒に訴えるところがあります。人性は、出自が、まず不公平であり、特定の者に「不運」や「不幸」も、恣意的に起こ
りうる現実を、歌い手も聞く側も誰もが苦く承知していることが前提の話ではありますが。
 歌詞に重複する「世間」というのは、「社会的な関係性」と言い換えるべきなのかもしれませんが、どちらかといえば、このカップルが周囲から望まれぬ形(不倫・駆落ちなど)で成立したのであろうかと暗示されています。それなりに淫靡(節度がなく、みだらな様子)で親和な情感のやり取りがあります。
 人性、その理不尽さや負い目に対して、お前と俺のカップルで立ち向かうというのが、歌謡曲としてのこの歌の主題となるでしょうが、世間を代表に周囲に対する無力感が強く、とても受け身型なのです。そして、最後に残るのが、女の立場からの、「(不遇のときでも)、(たとえあなたが無能力でも)あなたについていくわよ」という気持ちの表明であり、男の立場から言えばまだ希望的(?)な歌です。
 先のバブル崩壊後、一部民間企業が行った中・高齢者を狙い撃ちした冷徹なリストラで、失職した夫に、狂乱した(?) 妻が落ち込んだ夫に即離婚を突き付けたという話より、はるかに温和な話ですね。

 昔、我が家全員でカラオケに行っていた時代、私がよく裏声交じりで歌った、「貧しさに負けた、いえ、世間に負けた」というさびの部分の繰り返しに、当時小学校高・中学年のうちの子供たちは腹をかかえて笑い、それ以降、彼らの受けを狙って歌うこととなりました。確かに、よく考えれば、どことなくおかしみが感じられる歌詞でもありますが。
 思えば、原曲の「船頭小唄」は、関東大震災の直前の世相の不安定な時期の傑作というべきでしたが、この「昭和かれすすき」は、ちょうど、政治の時代の退潮と終焉の頃と記憶しています。個人的に言えば、大学もまだ学生運動の余燼(よじん;燃え残っている火、燃えさし)というかロックアウトなどでもめていた時期で、擬制(ぎせい:実質は違うのにそうみなすこと。)のような生活をしていた学生たちにもその情感が共有できるような雰囲気はありました(決して歌いはしませんでしたが)。

 この歌の通俗的なところは、「たとえ、生活の困窮や、理不尽な運命にほんろうされたとしても、私にはお前が、お前には私がいる、ついでに無能(不幸・不運・無能力・無気力)で生活力も金もない私でも今も惚れてくれる(?) というお前がいる」、というお約束なところです。そのうえで、男にとっては、経済的あるいは男女間の決定的な破たんを伴わないような自嘲の歌は、時によれば快いものなのかもしれません。しかし、三番の末尾の男の独白はさすがにまずいですね、こんな独白は現実的にありえない、と思われます。
 決定的に厳しい場所におかれているときは、一般的に「人」はこのような歌謡曲を聞くゆとりもないかもしれませんが、こと男に限っていえば、自分が今おかれている、各自の現実の状況との差異を意識化して、自分の境遇は「まだ大丈夫や」と思えば、やっぱり、この歌を聞いたり歌ったりすることを慰藉として、その愛好者が減らないということがあるのかもしれません。
 その傾向は、一人のおやじ(周囲が規定するので、そう自称します。)として、よくわかります。
しかしながら、今はもう存在しないかのような昔風の和装の女性の、高い声で演歌の独特な節回しは、今になって聞けば、とてもいいですね。
私とすれば、今後、デュエットする相方を探したいと思っています。