天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

グローバリゼーションの現実から旅館業務(日本人顧客サービス)を健全なナショナリズムの立場で考える その2

2019-10-26 21:07:59 | 旅行

 先日、国内旅行について論じましたが、また、このたび秋の旅行(10月4日、5日)に行くことが出来ました。いろいろと、ありがたいことです。
このたびは、隣県の、広島県の廿日市市です。

私は、兼ねてから折に触れ申しあげているとおり、隣県広島県に良い印象を持っておりません(広島県人が山口県に良い印象を持っていないとしてもそれは自由です。)。しかしながら、特に、特定の広島県民に、個人的に被害を受けたことはないところです。

 学生時代、学生寮に住んでいた(すなわち当時のパヨク運動に組した)、私たちに比較的友好的(?) なサークルの中に、広島県民の知り合いは居りました。
 彼の問わず語りによれば、彼らも一年中、闘争(?) をしているわけではなく、京都の春の宵に浮かれ、桜の名所、銀閣寺道あたりに、皆カストロジャンパー(例の緑色のやつです。)などをまとい、バンカラを装い、街に繰り出したことがあったといいます。
 飲めるヤツも、飲めないヤツも、おのおの、一升瓶を手に持ち、銀閣寺道の疎水にかかった(幅 1 mもないだろう)石橋にとおりかかったとき、「俺がわたる」と最初に渡った男がポチャリと落ち(高さは3mくらい、水量はあまりありません。)、「どじなヤツだ」と、足元のあやしい他の男どもも追随し、ポチャリ、ポチャリと、誰もわたれなかった、という落ちのある、与太話を聞いたこともあり、時に、徒党性とは面白いものであります。当時は、京都では、石を投げたら学生に当たるというような、実態であったことを申し添えます。
一度、彼の寮近く(左京区岩倉というところでした。)の、サークルの友人たちと、近所の安い焼肉屋に皆で行ったとき、当該経営者は、学生たちには優しい、気さくなおばちゃんだったと思われます。
学生らしく、青臭い議論を続けていたとき、おばちゃんは、在日の人だったらしく、出来上がってしまい、「私たち、朝鮮(ちょそん)人民は・・・・」とやり始め、行きつけの、寮学生たちは、黙認、あるいは、次からこれなくなると思ったのか、ひたすら黙っています。
 しかし、わがサークルの同僚だけは、「そうじゃないんじゃないか」とか、何度も、穏やかに反論を試み、相手は決して納得しないと思われますが、辛抱強く、会話・対話を繰り返していました。
 あれで、後の勘定が高くなったとは思わないが、思えば、良いサークルでした。

 閑話休題、広島県民といえば、反核・反原発(あれは決して「脱」ではないですね。)・反米軍基地運動の、三大お題目を掲げる、パヨク・市民運動、高教組などの、いまだに頭の悪い偏向団体は、つぶれてしまえ、と、心底思っております。

 ただし、広島流お好み焼きと、おたふくソースは、広島県民が生んだ偉大な発明と思っております。まあ、お好みやきについては、似て非なるものが多いので、失望したり、腹立たしい思いをすることもあるので、選択するに当たっては、その質(似非店舗)には、十分気をつけなければならないところですが。

 そして、また、少ない球団予算でありながら、短打と機動力などという戦略に基づき、一流の選手がいないという欠点などにもかかわらず、一時、セリーグに君臨した広島東洋カープも、決して嫌いではありませんでした。
 その後、いつものように、金の力で、他チームの有力選手を引き抜く巨人軍の薄汚い戦略を経て、当該組織も瓦解してしまい、いくらプロはお金の問題であるとしても、鼻白み、バカらしくなったので、最近は試合を見ていません。

 また、そのうえで持ち上げますが、うちの孫が愛好する、広島市内の、路面電車は、とてもすばらしいものです。
 しかし、地下鉄も、ろくに高架鉄道もない、都市計画が非常におそまつである、と広島市民が言うのであれば、反論はしません。
 路面電車については、乗り換えや、精算のわからなさ、などいろいろ問題はあるにせよ、さすがにごく希ですが、昔の京都の市電車両が走っていることもあり、古くて地味ながら、私には、懐かしいところです。

 しかしながら、広島県は、自民党総務会長、南鮮に虚偽の土下座外交をした、売国奴大臣、岸田文雄氏の地盤であり、目先の自己利害のために、国民を貶め、信義も、歴史もゆがめる彼の態度を思い出せば、今も怒りを感じます。
 やはり、「反核・反原発(あれは「脱」ではないですね。)・反米軍基地運動」という、自国の利害と安心・安全を他国に売り渡す運動に積極的である県民が数多いのであれは、理不尽も、不合理も、サヨク迎合をも、進んで受け入れる素地があることは十分に、県民性なのでしょう。

 ところで、媚中政治家、自民党二階幹事長の地元、和歌山県白浜町には、重要な日本中共政治手段、ちゃんとパンダが展示され、「わざわざ上野まで行かなくていい」、と県民に感謝されているようで、結構なことであり、和歌山県民も、ずいぶんなものだ、とバカにする必要もない、のかもしれません。
 しかし、大衆ろう絡手段「パンとサーカス」のうち、「サーカス」の受益は県民で、覇権国家に対する朝貢外交、媚中の付けは、国民大衆が払うというのは、寝覚めが悪くはないですか、「そんなことを考えれば、政治家なんぞやってられないヨ」、ということなのでしょうか。
わが、愛読書、「吾輩は猫である」の作中、語られるのは、「実業家というものは「三角術」というものがあり、それが要諦である」ということです。
 それは、主人公、中学校教師苦沙弥(くしゃみ)先生の元書生、愛すべき九州人、多々良三平君が、先輩の金田氏から教わったという逸話であり、「義理を欠く、人情を欠く、恥を欠く」わけです。
 政治家にそれを応用したならば、つまり「恥をかく」(恥を知る政治家など見たこともない。)などという上等なものではなく、最後は、目先の自己利害と権力奪取のためには、「国民を欠く」という応用となるのでしょう。まことに、つまらない話です。


 笑福亭釣瓶(つるべ)の落語ではないですが、わがブログも、まくら(前置き)の方が面白い、という話もあり、おそまつさまでした。

 閑話休題、このたびは、広島市の隣接廿日市市の、「石亭」(せきてい)という日本旅館に泊まりました。
 ここは、瀬戸内海、宮島を借景に、本土の、小高い丘のうえに建てられており、瀬戸内海の島々と、漁船や商船が行き交う、穏やかな海峡になっています。
 私たちの泊まった部屋は、一番良い部屋ではないようですが、二階となり、前庭の広い池と芝草に覆われた築山を越え、瀬戸内海が一望できるようになっています。
 部屋は、サンルームと、掃きだしの廊下、総ヒノキ張りの大きな風呂が附置されています。すのこまでヒノキ造りで見事なものです。広い和室部分とあいまって、結構な客室です。当然、テレビはBS対応です。
 前回の旅行の教訓から、先日から和式旅館には懐疑的な気持ちで臨みます。
 旅館入り口近くの、アメニティルームには、コーヒーやジュースの接待もあり、夜は、お汁粉の接待、それ以降は、前庭の夜景をさかなに、アルコールの接待(有料)と、前庭を前にしたアメニティルーム(サンルーム)は、いろいろ工夫がされています。
その部屋には、オーディオセットがありましたが、そこには、選ばれたようなクラシックとジャズのコレクションがおかれ、部屋に持って帰っていいという説明です。
 懐かしい、チェットベイカーとかのコレクションが、数多くあり、私ジャズなどの門外漢ながら、オーナーは、音楽の趣味がいい人ではないかと思われます。さっそく、借り出しました。
 各客室にも、旅館の標準装備らしく、サンルームに、書架と、CD用オーディオセットが設置されているようです。

 広島市は、外国人を見ることが結構多く、原爆ドームの周辺や宮島には多くの欧米人などがたむろしています。今では、国籍不明の人々も数多いところです。
 この旅館も例外でなく、一家族の滞在者があり、似合うかどうかは別にして、浴衣を着てくつろいでいます。
 旅館には、他にも、浴衣を好まない人のためか、作務衣をきることができたり、バスローブが付置してあったり、なかなかにサービスは行き届いています。
 この旅館は、宮浜温泉という温泉地に建てられ、瀬戸内海よりの温泉であり、泉質が良いとは思われません。しかし、ヒノキ仕様と、石で葺かれた露天風呂と、何様かのたくさんのの露天風呂が設置され、一日中入浴できるようになっています。男女入れ替わり、客の趣向をそらさないつくりとなっています。
 後で、施設概要を見ていると、平日は、宿泊客以外の入浴を受け入れることとなっています。事業拡大の意欲も十分あるようです。

 食事は、各部屋のテーブルに配膳され、その内容は、掲載のとおりですが、改めて、見た目の美しさは、日本料理が世界一(?) と思えるような出来です。珍味佳肴というべきか、味わったことのないようなものも、出てきます。
 私は、食用のほおづきが、なかなか美味しいものと初めて知りました。
 いずれにせよ、器の美しさと料理をどのように見せるかとの努力と工夫です。
 残念ながら、私は大食漢でもあり、もっと量が欲しいというのは、やはり、下品(げぼん)であり、ないものねだり、というべきことでしょう。
 そのために、夜の、お汁粉サービスなどというものがあるやも知れません。
 食後、夜になって、デッキチェアに座り、緩やかにライトアップをされた前庭と、明かりをつけた船の往来を見ながら、若いときとは明らかに質が変わったと思われる、ヘレンメリルの晩年のアルバムを聞いていると、くつろいだ愉悦の時間というものはこんなものかなあ、と思えてきます。
 
 翌朝は、チエックアウトの時間一杯まで、旅館に居残り、朝日の中で、においが香る部屋のヒノキ風呂に入ったり(もちろんBGMはバッハです。)、露天風呂を再訪したりと過ごしました。
 朝食は、羽釜炊きの白米や、小豆かゆなど、のそれなりの贅を尽くした朝食を堪能したところです。
 その後、気持ちよく、旅館を出発しました。
 後から調べれば、旅館のHPもとても充実しており、身内の祝いから、見合いの手はずまで、日帰り入浴・食事のみならず、感服する出来です。
 また、客から要求がなければ何もせず放置してくれる、という客あしらいの要諦もきちんと踏まえられてあります。

 翌日は、久しぶりに、宮島の弥山(みせん)に登る予定にしていました。
 宮島口から渡船で宮島にわたり、もみじ谷から、山頂を目指します。
 この道は、何度かとおりましたが、渓流沿いの、石段の道であり、段差があるので、老人や、こどもには少し厳しい道です。日かげのルートであり、涼しくていいのですが、夏場は蚊が寄ってきます。
 山頂まで、2.5kmくらいの距離ですが、1.8kmくらいの坂道と、後は、尾根道のアップダウンくらいです。
 先の、由布岳登山から、山登りに自信がなくなってしまい、降りてくる、ほとんどが欧米系の外国人たちを交わしつつ、低い山なので、お互いに、「こんにちは」とかあまり言わないところですが、そこは、お互いに、人としての、儀礼と教養の範囲で、応対します。
憔悴して、とうとう尾根道までたどり着きましたが、平日ながら、登山客は多く、宮島の底力を感じさせます。
 弥山は修験道の霊山であり、山頂には、花崗岩の巨岩がいくつもそびえ立ち並び、独特の景観を作っています。白い岩の割れ目に、松の木がそびえ、見栄えがしています。島の発生の成り立ちでしょうが、山頂部全体が、巨大な花崗岩の山塊であるかの様です。
 頂上には、展望台が設けられ、瀬戸内海の海と連なった島々が一望できます、四方から風が吹き渡り、実際、気持ちのよいものです。

 海中の大鳥居から始まり、厳島神社の丹塗りの本殿や、板張りの通路など、日本人のみならず、多くの外国人が好む景色であり、多くの人たちがおとずれます。
 ためしに聞いてみると、知り合いの外国人たちも「何度も行った」、友人や家族と(接待で)行った」、とか反応は多いところです。
 小説家内田康夫さんの、浅見光彦シリーズでも、「箱庭」という作品で、宮島を扱っており、白砂青松と、赤鳥居という組み合わせの島の光景が、いかにも日本的美意識に適うのでしょう。

 帰りは、体の命ずるとおり、ロープウェイを選択しました。急しゅんな角度なのか、中途で、一度乗換えがあり、最後はゴンドラに座ることとなります。
 以前に利用したときは、確か、1500円くらい運賃がかかりましたが、このたび、1000円に値下がりしていました。
 世界遺産指定・運営においては、適切な運賃を求められるわけですかね。
 前回も、足弱な参拝・登山者に対し、過剰な負担はあんまりであり、「ちょっとひどいな」と思ったので、それが是正されたことは結構なことです。

 また、宮島に行くたびに、日帰りの温泉に寄っていました。このたび、二箇月振りによったら、日帰り入浴はやめました、といわれ、とても残念で、少し不快なことでした。
 妻に言わせれば、JALの指定旅館になったので、そうするんだろう、ということであり、格式を上げるとか、営業上の理由であれば、それは愚かしいことです。

 そもそも、外国人は、高い温泉など好まないし(そもそも温泉のない、中共・南鮮人は好むと聞いた。)、活動して汗をかいたあと入浴したい、とか、日本人の入浴客だけであり、それを断るのは、グローバリズムの戦略として、浅薄で、悪手であるようなところです。
 あの、「石亭」が、平日は、日帰り入浴を認めて、おそらく、市場の開拓を図っており、巧妙で、良い狙いであろうかと思われます。

 宮島は、大変観光客が多く、にぎわっているようであり、目抜きの商店も、新たな、奇を凝らしたような店がどんどん出来ています。流行には、即時に対応するようです。
 しかし、外国人たちの行動を見ていると、カフェは、ドドールとかにたむろしており、せいぜい、立ち食いの露天店で、買い食いをするくらいですね。
 そのあとで、宮島口の、「広島流お好み焼き屋」で、ひとり食事する欧米人(男)を見かけましたが、「通」の人なのでしょう。

 どうも、金を落とすのは、やはり日本人であり、当該日本人の顧客サービスに配慮しなければ、先行きはないようです。
 せっかく、歴史と伝統、美しい自然と、絶好の観光資源を持ちながら、先行きを読めないことと、それに関する注意と努力を怠れば、やはり、商売に未来はないですね。

 閑話休題、このたび、私は、「石亭」に、時期を変えてまた行きたいと思った(料金は高いけど)のは事実であり、今の、サービス以上に、どんなことをはじめるのかは、興味深いところです。
 宮島観光と含めて、今後も、グローバリゼーションの試練に耐えていけるような気がします。
 しかし、景気の低迷と、旧態依然にあきた日本人客を逃がしてしまえば、やはり未来はないものでしょう。

「天気の子」を見て、併せ「異常気象(?)」 について考える

2019-10-15 20:10:38 | 映画・テレビドラマなど
今年も分葱を植えました。残念ながら、植え方が悪いと指導を受けましたが。雨が降り続けば、やはり、ネギが芽吹くことはないんじゃないのか、と思われます。
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 歳若い友人の勧めで、新海誠監督の標記のアニメを見に行きました。
前作の「君の名は」というアニメの出来が良かったので、その後の、新海監督の新作アニメも見てみたい、と思ったわけです。
前作の「君の名は」については、先にブログでも触れましたが、かつての、多大な犠牲者を出した、東北大震災にかかわる多くの国民の切実な記憶と、もしそれが防げていたならば、という、切ない試み・仮想を背景につくられていました。
東京と被災地(設定では彗星の落下により町全体が破壊され巨大なクレーター状になった場所)に居住していた、そして遠く離れた東京に在住する、何かによってあらかじめ選ばれた一組の高校生のカップルの純愛(?) の物語を起点に、もしその時間の引き戻しが出来るならばという、哀切な、また最後は希望のある話が描かれ、メロドラマとしても、また、最期に救いがあるドラマとしても、大人にも十分に見ごたえのあるアニメでした。
そのあたりは、本来当初の「君の名は」は、ラジオドラマであり、個々の運・不運、偶然に引き回される一組の男女を描いた連作のメロドラマでしたが、その背後に、大東亜戦争でそれぞれの運命を翻弄された、大多数国民大衆の同情や共感が支持したことは明らかなところです。
後日、新海監督が、新作のインタビュー時に、旧作(「秒速5センチメートル」という三部作)での厳しい悲恋(?) というか、男女間の破局という結末)の方が作品としては優れていたのではないかという質問に対して、「今回の作品は、ハッピーエンドでなければならないと思った。」と答えており、私も、そのとおりだろうと思いました。

その大成功作に続いた作品とするならば、新海監督においては、このたびは分の悪い勝負であったかもしれません。

率直に言って、前作には及ばない出来でした。
8月下旬に、当該映画が封切られた際、行ってみようかどうだろうかと思いましたが、おっくうになり逡巡しましたが、テレビで特集の番組があり、ゲストで出た新海監督が、その制作意図として、「現在の危機としての「異常気象」の状況を語り、それに振り回される、関東圏(舞台はどうもそれしかないようだ。)に在住する主人公とその周辺の人間たちのドラマを描きたい」という話をしていました。
 首都圏の「異常気象」というか、「異常気象」私には、それが、現在の危機として、あまりぴんと来ず、現在の若者たちにはそうであるのかと、「へー」と思ったばかりです。
地方は地方でやはり異常気象ではあるわけですが・・・。

 というような心持ちでしたが、会場は、若いカップルたちというよりは、休日だったせいなのか、若い親子連れ(ただし、全て女児)が多く、おとなしく、画面に見入っていました。
 それこそ「ロマンス」は低年齢化するのでしょうか?なんとなく納得してしまいます。

 大変申し訳ないですが、簡単にあらすじを述べさせていただきます。
 何年にもわたり、常時、東京都圏は、雨が降り続いています。
 その東京都において、都下の島しょ部から家出してきた男の子が、アルバイトをしながら小学生の弟と二人で暮らしている身寄りのない女の子に出逢います。
 男の子は、島の暮らしに厭いたのでしょう、昔の家出(都会で自己実現をしたい、というような)のパターンです。島に、彼の居場所がないわけではないようです。東京圏は、雨が降り続いたとしても、都市機能や、商業施設は生きていることとなっています。
 相手の女の子は、病気によって母親を失った際に、廃ビルの屋上にあった、水神・竜神(でしょう)から、その不幸の代償でしょうか、「晴れ」をもたらす超能力を与えてもらいます。しかし、その奇跡の行使においては、やはり、代償が伴うことを示唆されます。
男の子と女の子は生活費を稼ぐために、局地的天気を晴れさせる、「お天気屋」を始めました。
 現代ですね、HPを作成し、営業を始めます。このあたりは、愉快な展開です。
 様々な人たちが、晴天を希望し、小幸福を手に入れます。そういえば、私自身、近年、晴れの日になれば、気持ちが晴れるような気がして、屈託なく、晴れた日を楽しめることは、とても貴重なことです。
 映像として、お天気屋によって晴れた夜、旧東京タワーと、新東京タワーの間で、花火がうちあがるシーンがあり、なかなかすばらしいシーンでした。
 少年がたまたま、ゴミ箱で拳銃を拾い、警察から追われるようになってから、運命は暗転していきます。少女が、実は15歳であることが判明し、幼い弟と一緒に、少年と同時に児相からも追われることとなり、逃避行が始まります(それでなくては、彼らの状況に危機が生じず、ドラマの狂言回しが展開しないようです。)。
 彼らのドラマのカタルシスの直前に、彼女は、自らを犠牲に最後のお天気召喚を行い、代償として、異界に閉じ込められることとなります。
逃げ延びた少年は、ビルの屋上の神社から、異界(?) にダイブし、彼女を救い出します。
 「君の犠牲で成り立つ晴れであれば、雨が永遠に続いてもいい」という決意を述べます。
 そうして、二人で現実に回帰します。

 それからというもの、雨が降り続き、東京圏は、埋立て前の江戸期に回帰するように、多すぎる雨によって、都心の多くは、水浸しになってしまいました。

 それから、時間が経過します。
 島に連れ戻され、高校を卒業した少年は、東京で児相の世話なのか、高校生になった彼女に会いに行きます。
 雨ばかり降り、下町は水面下になってしまいましたが、先にお天気サービスを利用した独居のおばあさんも、「何とかなるものよ」と、今はマンションに住んでいます(「天気難民」とか出ないのだろうか。)。
 それよりは、光合成が出来ない植物抜きで、都市部の食料をはじめ、経済活動の停滞により、都民の生活の維持と再生産が可能なのか、と思ってしまいます。
 少年を支援してきた、怪奇現象ライターのおじさんも、今では、人を使う身です。雨が、間断なく降り続いても、幸福な未来は、実現可能であったということなのです。

 降り続く雨、異常気象と列記されると連想してしまいますが、私は、先ごろの、心ある少女、スウェーデン人トウェンベリちゃんのエピソードをNHKテレビ、日曜夕方のこどもバラエティニュースで観ました。
 「二酸化炭素放出は、全人類の危機に手をかすことになる」、という彼女の主張を、当該報道は「たった一人の(少女の)主張で世界が変革できる」と、喧伝し、盛り上げていました。
 NHKの報道ってつくづくバカですね。一時代前の、西欧発の、「真実」を、護持・賛美するわけです。間違いなく、「洋魂洋才」(自国の文化・歴史・伝統を無視し時におとしめて、当該理念の本質検討もしていない、偏見、バイアスのかかった理念を信奉・迎合する、「植民地文化人」)の持ち主であり、まぎれもないバカです。
 中共・アメリカ・ロシアとか、強国は、協定も、信義も、国家の利害や戦略のためなら、平気で踏みにじるわけで、誰もいうことを聞かない、核兵器の廃棄などと同様で空疎なスローガンであり、いつものように、バカで、お人よしの日本人などを、だましていればいいわけです。
こういう、古くは大航海時代から繰り返されている、グローバリズムという西欧発のダブルススタンダード論理で騙されるナイーブな後進国の国民、殊に、日本人を欺し続ける詐術を、なぜ、NHKは報道記者として摘発しないのか。少なくとも、NHKの運営受信料は、英語も出来ず、貧困で、お人よしの大多数の国民によってまかなわれている。
 なぜ、大多数貧困国民の立場に立った、報道をしないのか。それは、報道者としての退廃ではないのか。

 他国から、反論をくらい、涙ながら抗弁するトウェンベリちゃん、あなたの想像力以上に悲惨な情況はどこにでもあります。
 「豊かであるはずの」日本国においては、バカの日本政府と、腐った財務省のおかげで、デフレが長引き、景気低迷により、国民全体が厳しい貧困状態におちいりました。
 貧困により能力低下した親から、貧民の子弟は、まともな食事も与えられずに、食事贈与ポストからの配食を待っているような、そんな厳しい情況にあります。なんと愚かしく、恥ずかしい「戦後民主主義」の帰結なのか。
 彼らの状況からいえば、二酸化炭素対策より、まず自分たちが自立して、「食っていける状態」にして欲しい、というでしょう。それが、まっとうな考えです。
 彼らが、飢えるのは、日本国政府に、直接的な責任があります。
 ただ、まっとうに世界の情況を考えれば、国家間の越えがたい格差や、各国民国家には、覆すのが困難な特権階級やそれを支えるシステムが厳然として存在しているので、それをまず認識・指摘し、ついでにということで、地球温暖化リスクを主張すべきでしょう。
 あなたの家族が、あなたの思い込み、視野の狭さを善導していただくのが一番ですが、視野狭窄、考えの足りなさ(バカということです。)は、長幼、男女、国籍の区別なく、一定数存在するものでもあります。
 つまらないことはおやめなさい、ちゃんとバイアスのかからないお勉強をしなさい、ということです。グローバリズムの首魁の一握りの富者によりもたらされた、大多数の深刻な貧困と絶望の解消がまず第一義の問題であるということで、そこに言及しない論理は、現在、何の意味もありません。

 東京都圏の、異常気象が、地球温暖化の影響かどうか、監督は触れていません。さすがに、芸術家として、そんなつまらない理念と原因を想定することは出来なかったのでしょう。
 しかし、間断なく降り続く雨で、国民の安心・安全な生活が、ついでに恋物語が支障なく営まれる、とは決して承服できません。
異界から生還した後、彼女は、警察・福祉の手により、彼は家出した家族のもとで、卒業まで過ごすというのは、ずいぶんな、ご都合主義ではないでしょうか。

 私には、「異常気象」や苛酷な「自然」が敵とは決して思えません。
 「自然」に働きかけ、改変し、人間存在に役立つように、働きかけて、類として生き延びてきたことが、現在までの、自然と、人間の付き合い方です。
 それを、政治的に覆そうとするのは、反動そのものです。
 自然現象や災害を奇禍として、政治・経済的に利用するそんな、卑劣で、狡猾な政治権力や経済権力も今世には存在します。
 効率のよい、また、環境に悪影響を与得ることが少なく、他国の侵略にも強い、原子力エネルギーを使うのもいいでしょう(バカは反対するかも知れないが、トウェンベリちゃん、きっとあなたはその合理性を認識すると思っています。)。

 新海監督、あなたの作品を、矮小化し、貶める意図はまったくありません。
 この作品が、つまらない、政治的イデオロギーに流れることは、きちんと避けられています。

 しかし、前々作、「言の葉の庭」の中で、雨の新宿御苑で、崩れかかった女教師と、男子生徒の出会いと心の交流と再生により、淡い恋の物語をつむいだ、あなたの優良な作品に比べて(その主題歌の「レイン」は、カラオケで、しばらく私の持ち歌になりました。)、この作品は粗雑であり、もう少しその深度と踏み込みが足りないのではないでしょうか。
 新海監督のファンとして、次回作に期待したいと思います。

 この作品を通じ、新海監督による、いつものように、都会とそこで営まれる人間の生活へのオマージュというべき、都会の街並みや通行人、都会に降る雨の描写は、何と言っても、美しいものです。

(補遺分)
 このたび、台風19号の災禍により、お亡くなりになった方、けがや、その財産などに甚大な被害を受けられた方に、謹んで、お見舞申し上げます。
 気候の変動は、私たちに、生き延びるために新たな努力を強いるところです。「国土強靭化計画」ではありませんが、今後、私たちは、財力と技術を結集して、災害に耐えきる、人間的な「自然」を構築するしかありません。
 3.11を経て、また、このたびの被災を経たうえで、今後なすべき災害防止政策に対し、それに抗する、パヨク、公共事業反対論者は、反動で、恥知らずであることを、私たち大多数の国民は、この際深く認識すべきです。