天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

阿部真央作「いつの日も」などを聞いて涙したこと

2019-07-05 19:03:25 | 歌謡曲・歌手・音楽

私、いなかに住んでいるので、恒常的に、車による移動をしています。
 運転する際に、全く無音であるということでは、落ち込んでしまうこともあり、まず絶え間ない状態で、車に附置のナビのハードディスクにCD音楽の取り込みをしたり、携帯のブルーツースを利用した、音楽サービスを利用します。
 昔、懐かしい歌はもちろんのこと、あたかも、加齢に追われ、義務感(?) (焦燥感か?) に狩られるように、新しい歌も聴きます。
 しかしながら、若いときのように、のめりこむように、新たな音楽に引き込まれるかのような体験はだんだん少なくなり、近頃は、加齢による感覚(感性)の鈍磨というものはあるものであろうか、と思われます。
 友人に聞くと、彼は、最近演歌を聞いたら、「いい」と思えるようになった、ということであります。もともとは、ロックのプログレッシブを愛好していた男だったのですが、これも転向というべきものでしょうか。
そういえば、うちの妻は、カラオケで、「徳山ワルツ」という、とんでもない、ど演歌を歌っていたことがあり、その中に、「コンビナートの火のように私の恋も燃えたのよ」((註)徳山市というのは昔石油化学コンビナートで有名な場所であり、当該石油精製プラント内の余剰原料を焼却する焼却塔があって、いつぞやはそれが爆発し大事になった。当該焼却塔から空に立ち上がる炎は地区住民にすっかり見慣れた光景である。)という一節があり、いくら接待などでの歌唱とはいえ、「理系というのはバカだなー」と、つくづく思いました。

 閑話休題、最初は、NHKの朝ドラや、NHK特別の支援(?) 番組で応援している群舞アイドルの楽曲を聴いていましたが、彼女たちは基本的に合唱であり、群舞と一緒でないと、見栄えが悪い。あたかも、北鮮の大将軍様になったような、心地がしない。
そのうちに、世代的に言えば、それらが、昔日の、盆踊りの合いの手のように思われ、憮然としますが、私とすれば、楽しいといえば楽しい訳です。
当初、私が聞いたのは、秋元康プロデュースのグループであり、あまたのグループのうち、彼が、基本的に歌詞を提供する、いくつかのグループがあり、曲の傾向として、乃木坂とか、AKBとか、坂グループ(乃木坂・欅坂とか)当方には判別できないグループもたくさんあるわけです。
彼が傘下に対し、付与するその歌詞も、その作詞傾向を、グループごとに微妙に分けており、へえ、と思うわけです。しかし、中には、こりゃだめだ、というのはあります。
うちのおばが、NHKの朝ドラのテーマになっていた曲、AKB48というグループの「365日の紙飛行機」という曲を、メモ用紙に書き取り、ドラマの放映と一緒に歌っていましたが、何度も聞いてみれば、そのうち、なるほど、いい曲かも知れない、と思えてくるわけです。
それらのいくつかのグループで選択して、ときにAKBの歌は聴きますが、先に題名にひかれ、自分で覚えた「上からマリコ」というのは面白い歌でした。とうとう、私のカラオケナンバーに入れてしまいました。
曲名の名づけかたから意外性があり、かつての佐野元治のアルバム曲、「月と専制君主」とか、「ジュジュ」(違った意味で好きな曲です。)などとの出来を比べても、遜色のない出来ですね。
年下の男の子が、年上の彼女にふりまわされるという曲ですが、彼女のその甘えと媚態の様は、年下の彼女の方が適当かもしれない、とも思われます。甘え上手でかわいい彼女と、年下でうぶでありながら、しっかりしたまじめなボクという図式です。
しかし、その歌詞には、どっちが主導権を握っているかは別だよという含みがあります。彼女は、ラノベ読者(中高生男子)たちが気弱く指摘するいわゆるビッチかも知れず、その言動はそれなりに興味深く、実際のところは、かわいいかどうか別にしても、怖いといえば、怖い話です。

 年上の君は 自由奔放で
 次の行動が 僕にも読めない
 人ごみの中 急に振り返り
 君は(僕に)キスをせがんだ

 上からマリコ サディスティックなヤツめ
 愛の踏み絵みたい 無茶振り

 何でいきなり?
 何で目を閉じる?
 君は本気なのか?
 ジョークなのか?
 (後 略)

 昔日の、キャンディーズの、「年下の男の子」などと比べると、女と男と、語りの主体は違いますが、この歌の方がはるかに高度にうまく、現在の、若い彼らの現実感と情感を掬い上げている(「オヤジらしい表現」ですね。)と思われます。テンポと展開がよく、聞いていて、思わず笑ってしまうところがあり、面白い曲です。
それこそ「無茶振り」という言い回し表現はオヤジには新鮮であり、また、「自由奔放で」とはオヤジが好む言い回しですね。それが巧妙に折衷・連結できる、やはり、秋元康は実力者なのです。

再度、閑話休題、最初の話にもどって、私の傾向性に基づいて、音楽サービスの、女性単独のアーチストの対象曲をあさっていました。女性ボーカルの、家入レオとか、大原桜子とか、なかなかの実力者は多いものです。
しかし、選曲サービスの中で、図抜けて多いのが、阿部真央の作品です。それらはドラマや、コマーシャルに使われることも多く、とても人気がある、実績のある人と思われます。
彼女のギターの弾き語りから始まる標記の歌を、なんともなしに聴いていると、彼女のかすれた声と、それは決して奇をてらった歌詞ではなく、その詠嘆が切々とこちらに伝わってきます。
基本的に、女から男に伝えるラブソングなのですが、だんだんに楽器を増やし、情感を盛り上げていく演奏の中で、こころうたれる瞬間があり、思わず涙していました。
何の気なしに、こんな様(ざま)になるのは、男を引退しつつある、当方にとって、珍しいことであり、たまたま助手席に乗っていた、妻にばれないようにするのが大変でした。
自分でも、現役(?)の若い娘(彼女はどうもデビュー10年経過の30歳くらいの人らしい。)の歌でこれほど動揺するとは意外であり、改めてびっくりしたところです。
どうも、私のその有様は、妻にも見抜かれていたようですが、それが妻に受感できるのも、私と同様に歌を聞いたことによる妻の感情の動きであり、彼女の歌の功績ではあります。しかしながら、「いい年をして、バカが」と思われても反論できない、訳でした。

例え その心揺らぐ日が来ても
側に居たいの
出逢ったその日から ただ一人の愛しい人
いつか互いの生きる毎日に慣れてしまっても
愛し合えた奇跡 それだけは忘れたくはないよね
(中 略)

きっと 貴方に出逢う為
そして愛される為 私生まれてきたの
次に生まれ変わっても 貴方を捜すから
もう一度見つけて

ずっとその手に抱き留めて
もう何も見ないで 私だけを見つめて
二人共に生きた今日を
その胸に刻んで いつの日も思い出して
いつの日も笑って
いつの日も愛してよ

「現在の相愛の気持ちと瞬間を全肯定する」というわけになりますが、そのときの私にとって、不思議に、将来の破局とか、時間の経過による気持ちの離反などと、茶化す気になれず、「時よとまれ」ではないですが、瞬間が永遠であるということもある、という素直な気持ちにもなるわけです。
とりもなおさず表現者として優秀な人なのでしょう。その歌詞は、平易なことばが使われ、中島みゆき大先生のように、こちらの内面をえぐられるような迫真力はありません。しかしながら、昔のギター弾き語りの系譜をひくような歌手でもあり、聞いていてとても懐かしい心持ちがします(中島みゆき大先生も出自はご同様でした。)

彼女には、「always」とか、「そばにいて」など、男女の親密で自然な性愛の肯定やその破局を歌う、良い曲もあり、曲としての出来とすれば、そちらの方がよいかもしれませんが、やっぱり、この曲は、私にとって特に惹かれる曲です。

同時に、彼女には、「私は早口をなおしたい」とか、こちらの自意識をくすぐり、思わず笑ってしまうような、面白い曲もあります。
結局のところ、女性として、男女間や、個々の対他的な人間関係にわたる経緯というか、そのいきさつに敏感で、とても意識的なわけです。それこそ、(現役の)彼女にとって、彼女の作品はおしなべて、いわゆる対幻想((一対一の人間関係とそれにまつわる様々な情動・観念の総体)(註)天道)に、その興味と主題が純化されているのでしょう。
そのようなもの(?) に疎い私にとって、彼女が友人となっていただければとお願いしたいような心持ちです。興味深い、楽しい人なのでしょう。今も昔もムリかも知れませんが。

貴方がそこに居るだけでこの胸は軽く弾むのです
会えないと不安で寂しくてせつなくなるんです
ずっと笑っててください 横顔を見せてください

私を傷つけるのも癒すのも貴方だけなんです
些細なひと言に舞い上がり、沈んだりするんです
そのとおりだと思います これこそ恋だと思います

貴方がどんなに自分を嫌いでも、
他の誰かには代えられないから

私は貴方がいいのです 貴方がダメだと思うところでさえ
この心愛しさで満たすのは十分なの
でもこんなことは口には出せません だって怖いから
追えば貴方が遠くに行きそうで 少し怖いから
ずっとそこに居て下さい どうか どうか どうか
   (後 略)

一般的に言えば、現在のように、これだけ自意識でがんじがらめにされた(ゆえに挫折が許されない)、現在の若者たちにとって、恋をすることは大事業なのでしょう。彼女の歌にも、人間関係に対する過剰な執着があり、その齟齬に対する予兆や恐怖があります。
上記の「私は貴方がいいのです」という曲は、いじらしい、いい歌です。ある意味、中学生のラブレターのように切れ目なくつづられる長い文章を、彼女は、その歌唱力と表現力でつなぎ、最期に、愛の賛歌に結実します。
そして、最期に、女の子は、人性を通じて、女の子なんですね、という、真理にたどりつくのかもしれない。古代から、男と女は違った観念(幻想)の歴史を生きるのが不可避であり、その真理に、自分にはない、女性性を肯定しつつ、男どもは、共感・感動するのです。

こんな歌に感動しつつも、何度聞いても不快な、「男女共同参画」とか「LGBT」などという害毒ある政治的なテーゼを、「スターリン・レーニン主義系譜のパヨク主義」とか、「毛沢東民族覇権主義」と同様に、廃棄・駆逐したいものです。
(このたびは政治的発言をしないようにしていましたが、また、最期にしくじった。)