天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

トランス・ジャパンアルプス・レースについて(その2)

2022-01-04 19:45:04 | 映画・テレビドラマなど

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 お正月の、茶の間で、スポーツ番組をみるのは、それなりに根拠があるものかも知れない。初詣も、寒くていやだ。それなら、あったかいところで、他人が、困難な状況に立ち向かうのを見ているのが、私にとって、ずっと、ましである。
 かって、表記の、本当に個人的な、変わったレースを見て、私は、いたく感動した。
 二年に一度の開催と聞いていたが、コロナ変則開催となり、昨年は、3年ぶりに、8月7日に開催されたという。
 レースは、南糸魚川市から出発し、身一つで、北・中央・南アルプスを縦断登山し、上高地を経由し、最後は最後は、太平洋の海浜に至るレースである。
 「名誉や栄光のためでなく」、ではなく、ほぼ不眠不休で、3000メートル級の高山を縦断するタイムレースであるから、皆、命がけではある。しかし、その、仲間内での栄誉も、名誉も、大したことではないと、私には思える。そのうえ、賞金もない。
 前回、前々回とみていたとき、生活破綻者(悪いとは全く言ってない。)のような人も多かった。貯金を切り崩し、レースに参加する人、昔の歩荷(ぼっか)時代の栄光(?)が、忘れられない人、自分の人性に行き詰まりと、虚しさを感じる人、そんな人が、とても多かった。
 中には、支援の妻・家族に土下座して、参加したひともいただろう。
 この番組は昨年10月くらいに、初回、放映したらしいが、私はまったく知らなかった。
 丁度、私は入院して、それどころではなかったのである。
 この番組が、興味深いのは、それぞれ、参加のエピソードと、彼を囲む、社会的環境が、取材のうえ、レースに付加して放映されることだ。
 ひたすら楽しい話などどこにもない。様々な、挫折や、失望の人性が語られる。
 元社会的引きこもりの刑務官、兵庫県警の暴力団担当刑事、挫折した銀行員、様々な人がいるものである。それぞれが、それぞれの理由と事情を抱え、参加している。
 仕事に恵まれた(?)人も、数多くいるわけではない。前々回の、チャンピオンは、山岳レスキューのスタッフだったが、前回のチャンピオンは、家具職人だ、そして、全員が、フルタイムの仕事に就いているわけではない。
 日々の鬱屈と、生活の不如意を超えて、2年、3年越しで、このレースに参加しているということだ。そして、予選も、巌に存在し、容赦なく振るい落される。
 今回は、若い人は少なく、平均43歳、また、50歳を超えた人は、あまりいない。
 何度も参加して、標準記録に達しなかった彼らは、その後どうなったのかと、他人事ながら心配になるのだ。
 おまけに、今回からルールが変わり、山小屋の利便利用(食事)ができなくなった。
 これは、ちょっとひどいなと思った。
 自分の食料を、行動食(あられとかチョコとか田中陽希君が持っているあれです。)も、常食、自分で準備しなくてはならなくなった。しかし、荷物の重量を増やすことは、場合によっては、命に係わるのではないか?
 山小屋の利用も、なぜ、問題になるのかわからない。
 前回は、低体温症になった選手が、山小屋でうずくまっていた画面も見た。山小屋のスタッフは、それを遠くから見守っている。個々の意識的な選択は、それほど重いのだ。
 しかし、それこそ、レース参加者と山小屋の相互依存、心的な交流がないと、レースのアマチュア性が失われるのではないか。私はそう思う。
 前回、前々回、南アルプスからふもとにたどり着いた選手たちが、地元スーパーの好意によって呵々大笑しながら、よしず張りの座敷で、いかにも愉快そうに、スイカをほばっている画面を見た、まことに、良い場面だった。これが、あたかも、人性ええあるという言うように。
 なぜ、そんな、相互交流を止めるのか。

 前回のチャンピオンは、家具職人だった。彼は、前回のレースに満足していない。今度こそ、実力を発揮したいと考えている。そのための、努力は惜しまない。
 このたび、とても優秀な選手が参加していた。
 朴訥で、身の程知らずの大言を語る人でない。冷静で柔和な人だ。

 彼は、一人きりで、今までのレースで、絶対チャンピオンといわれた、山岳レスキューのチャンピオンの記録を、大幅に塗り替えていた。半日以上のリードをしていた。
 アルプスを越え、平地に出てきた以上、まず、彼の勝利は動かない。

 しかし、事故は起こった。
 台風9号の影響で、レースは中止となった。
 メール一本で、その結果は、各参加者に伝えられる。
 山頂で、レース中の男が人前かまわず泣き出した。
 ここは、安全じゃないですか、どこに台風が吹いているんです。
 彼の号泣はひつこい、見苦しいまでもつづく。
 彼が、準備してきた、何年にもわたる努力が、無に帰するのだ。

 しかし、最も、ショックだったのは、暫定チャンピオンだったと、私は思う。
 平地のトンネルから出てきた、彼に、放送スタッフが、責任上伝える。
 「今年のレースが中止になりました。」
 彼の、顔色が変わる。
「何か事故があったんですか(誰か死んだんですか?)」、「台風の悪化です」、「それなら、まだ良かった」、私には、彼の言葉が忘れられない。
「人間性は、何と善なるものか」と、思った。
 このたびの彼の努力と、幸運が、次にまた、あるかどうかわからない、現実とはそういうものだ。
 しかし、自己の名誉と、他人の安全とを、はかりにかけて、他者を思いやれるのは、まさしく、勇者の所業だ。
 その時、私は、彼のような若者が、ここにあり、彼なりの修練、努力をしているのを誇りに思う、と思った。
 暇つぶしにテレビを見ていて、尊いものを観た。
 彼は、本職は、大阪市の、レスキューの隊長であるという。
 まさしく、彼の社会生活が、彼の人格を善導し、引き上げたのだ。
 彼の姿が、かつての東北大震災の救護者と重なって感じてならない。つい、こちらも涙ぐんでしまった。

 そのうち、彼も、長時間にわたった彼の準備段階と、今までのレースの苦労が、フラッシュバックしてきたのか、そして、こみ上げてくるものがあったのか、言葉少なになってしまった。

 追い上げに入っていた、前回チャンピオンも、中止勧告を冷静に受け止めた。
 しかし、スタッフに誘導され、山小屋のベンチに座り込むと、頭を抱え込んで、最後まで動かなかった。

 台風による中止はやむを得ないことだろう、と私は思う。
 もし、事故があったならば、このレースに次はない。冒険という行為は、公序良俗を装う俗物たちから、袋だたきにされるのだ。
 それは、極めて少ない個人にしか、栄誉が生じず、危険な自然を相手にするレースだから。

 次のレースは、2023年になる。
 私も、どうにかして、次のドラマを見てみたいものだ。




シン・エヴァンゲリオン私見(中二病の発展的終焉)

2021-05-09 15:11:18 | 映画・テレビドラマなど
テレビ版の、最終回からです。シンジの回想(夢想)シーンですが、私が世界の中心であったら、なんと幸せだろうということでしょうか。彼の気持ちはよくわかります。
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新世紀エヴァンゲリオンの完結編が完成し、封切られると聞いたのはずいぶん以前のことのように思います。
 その後のコロナパニックで、それこそ、オタク、中二病文化の担い手たちが、社会的活動を制約された中(国民皆制約されたというかもしれないが)で、封切られるのは、興行的には、大変お気の毒な話である。
 しかしながら、コアなファンはありがたいもので、「この時期に」と危ぶまれたにもかかわらず、映画館は盛況だった(4月11日までで、74億以上売り上げ、観客484万以上、シリーズ新記録)(5月6日で、82.8億以上売り上げ、観客542万以上)、と、年若い友人は言っていた。

 したがって、コロナ性うつ病により、現実的に「社会的」参加を怠っているわが身とすれば、是非に行ってみたいと思ったわけである。
 私が行ったのは、4月6日(水曜日)であり、私が見たのは12時5分の二回目の上映であったが、入場者の数は、一時の狂騒状態は終わったのか、20,30人くらいの観客だった。
 私のそばに、30代くらいのカップルがおり、二人とも、「エヴァ」(以下こう称する。)の上映に入るのかと思うと、短髪の男のみ、エヴァの方に入り、シネマコンプレックスというやつで、女の方は別のところへ行ってしまった。
 どうも、男の方は、まなじりを決して、妻の意に反し、完結編といわれるエヴァを見て、少年時代から続く、エヴァ幻想にけじめをつけるのだろうか、あっぱれなものである。
彼らの間で「なんで私のいうことを聞かないの」、「あんな暗いアニメはいやよ」というやり取りはあったかもしれない、そして、今回だけは、男は折れなかったのかもしれない。
ま、皆、私の想像であるが。

映画館での観客は、中段から、上部の2、3列に集中して並ぶ。
私は、中段から上に三列目の左端の席である。
平日であるからなのか、一人の客が多い。2、3列空けて、私の左隣にお姉さんが座る。一人だけである。私の上段の中央に例の短髪のお兄ちゃんが座っている。
少しして、下の女二人カップルがペチャクチャやりだした。
幕間なのでやむを得ない、とめどなく続く会話に我慢していた。
そのうち、予告上映が始まった。
シン・仮面ライダーとか、シン・ウルトラマンなどの予告もある(興味があるのは私だけかもしれないが。)。
瞬間的に、シン・ウルトラマンのカットにひやりとした。
ぞくぞくという感覚である。
これは、見に行かずにはおれまい。
その間も、女二人のカップルは止まらない、年おいて短気な私は、「うるさい、静かにしろ」と一喝した。

それで静かになったのは、重畳である。
あれらは、それぞれの家庭で、オヤジに注意されたこともないに違いない。
不幸な生い立ちである。

それから、後は快適に映画を見ることができた。
 
友人が言うには、ほぼ三時間あるので、中途でトイレに行かなくてはもたない。
「一病息災」の私とすれば、その言葉を実証した。なんせ、ほぼ三時間である。
しかし、皆、席を立たない。集中して、まるで修行の場にいるようだ。
エンドロールを見ながら、確かにこれは完結編だ、と思った。

どうもこの映画は、「謎」の完結というより、錯そうした「人間関係」の完結なのだ。
誰もが、自己の人性を、社会的存在としての自己、につなげられるのは幸せであると、思う。
 この映画の主調音は、まさしく、そこを目指していた。
それは、厨二病の終焉と、その帰結か、といわれれば身もふたもないかもしれない。
しかし、それは、試みとして、決して悪い出来ではないと思う。それこそこのドラマは、最初のテレビ放映から起算すると、ほぼ四半世紀が経過している。

 思い起こせば、東京テレビの深夜アニメ(1995年)で始まったこのアニメも、うちのこどもたちが、小学生のころ(現在30代後半)であり、ある意味、国民的アニメであろうと思う。
今でも、NHK、BSの深夜アニメで、当初の作品が放映されている。何度も、繰り返し、繰り返しである。
ほぼ、主調音(?) は、テレビシリーズで出尽くしていると思われるので、世代を超えた、新しい世代のファンも出てきたのかもしれない。
その後、作られた、序・破・急の劇場版シリーズにおいては、際立った印象は、私には少ない。
それを抜きにして、テレビシリーズから、この、完結編につながったとしても、特に違和はない。
エヴァというドラマは、大河小説というべきもののような、長い長い長編であるが長編であるが、この映画では、最初からの、ドラマの流れをなぞってくれる。
 わかる奴は解れ、と、難解で、突き放したように、なぞはなぞとして、ガイドブックも幾通りも出た、従前までのつくりに比べ、親切なつくりである。

 今、テレビシリーズのエヴァを何度も再放送している、NHKのスタッフにもアニメオタクは多いらしく、特番などもつくられ、結構なことであると私は思う。

 今見ても、これはとてもよくできたアニメである。
 それこそ、神話・オカルト、ドイツ語の使用、政治状況、家族の問題、戦争・軍事、ロボット、アドレッセンス(発情期)の男の子の問題、思春期のあらゆる過剰が一堂に会している。
 私たち中二病患者としては、なんと豊かな題材だろうか。

私の居所は、なにぶんいなかなので、直営放送局がなく、九州キーの深夜アニメで、発見して以来、はまってしまい、よく映らないテレビはあきらめて、ビデオ化されたあと、レンタルビデオ屋に日参した。
製作者(庵野氏など)のオカルト趣味なども十分に発揮され、それこそ厨二シンドロームの大合作であった。したがって、演出、キャラ、アニメ画、あらゆる部分がとがっていた。
エンド部分の裏の主題歌、「FLY ME TO THE MOON」も、私の頭の中に深く刻まれてしまい、シナトラヴァージョン、女性歌手バージョン、様々なものを、猟集した。
私のカラオケナンバーになったのも、果せるかな、ということである。

男女の性愛を巧妙に描いたようなこの曲を、若き中二病患者たちはどのようにとらえたか。

このシリーズは、テレビアニメ、劇場版アニメ、漫画とみな違った展開をする。
 私には、「みんな違ってみんないい」としか言いようがない。
金子みすずと同様に、多少無責任にではあるが。

 テレビシリーズは当初に、物語性が単独で完結していた。
 最後は物語性すら解体し、アニメのセルまでに、戻してしまい、これでもアニメ表現なのかと、野心的な作風をこれでもかと、展開して見せた。
物語は、なぞを含んだ有機的ロボット(実は有機的な新人類ということなのだろう)アニメで、操縦する、思春期(発情期)の、少年、少女の葛藤と、それを取り囲む、開発者との軋轢、さらに彼らを指嗾する社会の支配層との闘争など、盛りだくさんの内容だった。
 
 しかしながら、登場人物のすべてが、家族や親子、男女間に欠損や、きずを抱え、愛する者への執着と憎しみの間で葛藤しているという、実に暗いアニメであった。
 このくらさは、私のような中年男(当時)にも、ちゃんと、届いたのだ。

 これが、よくぞ、学童にまで支持されたものだと思う。
 解けない謎や、解釈が様々に生じ、今作まで引っ張ったということなのだろうか。

 子を愛せない大人と、したがって、親を愛せないこども、生まれながらの資質だけで、社会の安寧と存続のために、戦士になる、戦士にならなければならないこどもたち、また、親とすれば、こどもよりは、男・女の葛藤が大事、なかなか、厳しい主題である。

 今回の展開も、基本的に、男どもは、みなマザコンである、というところにある。
 主人公の、碇(いかり)親子は、お互いに、妻と母親という対立軸をめぐり、対立し、葛藤する。
「妻がすべて」という碇ゲンドウ指令のなんとみっともないことか。やだねえ、男は、と私も思う。
綾波レイという、母親の遺伝子から作られたクローン(人工的に誕生させられた)少女に、一歩的に愛され、骨抜きにされ、甘えるしかない、碇シンジ、これもみっともない、こと、この上ない。
 母親に愛されず、目の前で自殺された、惣流・アスカ・ラングレー(以下「アスカ」という。)、母との葛藤を克服し、自己への自負心をばねに、孤独な戦士の道を歩む姿、こちらの方が、社会人(大人)としてはるかにましに描かれている。

 裏話をひとつ、彼女は、劇場版アニメシリーズから、常時、左目にアイパッチをしており、あれは何だろうと、皆、疑問に思っていた。
 このたび、最終決戦で、アイパッチを開放し、邪気眼のエネルギーを開放し、彼女の攻撃を不退転のものにすることと、なった。まさしく、彼女も、中二病であった。

 今作では、皆、高校生だった登場人物が、それぞれ、大人になり、結婚して、劣等生だった彼らが、医師になり、あるいはエンジニアになり、ぼろぼろになった、生き残った地域社会で懸命に戦っている設定である。
 一人、碇シンジ君だけが、自分が、かつて、引き起こした、サードインパクト(市民が数多く死んだ大災害)にこだわり、めそめそ、落ち込んでいる。

 一人、綾波レイだけが、いまだに、シンジを見捨てず、シンジに付きまとい、かまう。
 彼女は、クローンなので、幼児体験も、生活体験もなく、社会的な生活もへていない。
 「私には何もないもの」ということである。
 今回、生き残った社会で、無理やり、農作業や、親子や、同胞たちの共同生活を経験し、社会的存在としての、人の生き方を学び、なにがしか充足し、そして消滅する。
 これが、綾波レイの、社会的な「人間として」の救済の物語である。

 そして、かつては頼りのなかった、シンジの友人たちは、災害後の欠損と不自由の中で、大人としての社会的な役割をきちんとこなしながら、「仕方がないよ」、「待ってやろうよ」、と、最初から最後まで、シンジを徹頭徹尾、かばうのである。

 映画のイメージでは、エヴァンゲリオンたちが戦っている世界は、生き残った人たちが生きている社会と、アクリルボードのような境界で隔てられている。
 したがって、彼らは、少々の戦闘による影響くらいでは、日常に影響は受けない。
 なるほど、究極には、大規模戦闘の影響を受けるかもしれないが、アスカやシンジが属する、戦闘世界は、いうなれば、中二病患者の夢の中のようなものか。
 戦闘シーンの、見事な映像と描写は相変わらず際立っているが、戦闘の意味が少し変わってきた。
 戦闘者として生きるのと、無力ながら生活者として精一杯生きるのと、どちらが大切なことのかという、庵野秀明監督の問いかけである。

 若者たちは、時間の経過(うまくいけば成熟)とともに、青春のそのつまらない思惟や失敗さえ、ずるいけれどそれは後知恵になるが、時間と距離をとってみれば、たとえそれが貧しく、恥ずかしい取り組みであったとしても、それなりに評価することができるのではないか、という、現在の庵野氏の認識が、かいま見えるような気がした(外したかもしれないが)。
 私たち個々の思考は究極、個の思考でしかなく、いずれ現実に打ち砕かれる。
これは不可避の道行きであり、個々の思惑や思考とは別に、たとえそれがすぐれた思考だとしても、それをも飲み込み、総体関係存在としての、人間の思惟や社会、歴史は継続、進展していく。
 私たちの、挫折体験など、たかだか、その程度のものなのかもしれない。
 君たちはよく戦った、と。
 やっぱり、本作は、救済の物語なのだろう。

 シンジは、綾波レイの消滅を契機に、戦士としての、自らの社会的役割を果たそうとする。
 それは、彼にとって都合のよかった「母親的なもの」への感謝と、併せて温和な決別、父親との、本来的な対決である。
 先に息子の方が、マザコンから立ち直り、父母を相対化する視点を持ったわけである。
 そして、いまだにマザコンや、男親としての自らの立場を意識下できず、行動できない、碇ゲンドウ指令と戦うことになる。
 母親や、父親を、距離を置いて見れるようになった、シンジは、強い。
 自らの傾向性(思想性)と計画・行動で、多くの人々を死に追いやった、碇ゲンドウは、自己の蹉跌(主にマザコン性)を認識したうえで、死んでいくしかない。
それも、若者たちの未来のために。としか言いようがない。

シンジの理解者であり、唯一の味方だった、葛城ミサト指令も、恋人加持を失いながらも、最終決戦から生き残る。
 同様に、アスカも、赤木リツコ副指令も、その他の仲間たちも、皆、生還する。

 そして、成熟した(?) 青年となった、シンジは、初恋(?) の相手、アスカと決別し、アスカの保護者であり、エヴァの新搭乗者であった、メガネ女子、真希波マリ(マキナミマリ)に、男として認められるのである。
 よくある、初恋の人との別れと、成年者としての選択ということだろう。

 最後は、山口県内の、JR宇部線、宇部新川駅から、二人が手をつなぎ、走り出すシーンでエンディングとなる。
 あの駅は、宇部マテリアルの本拠地であり、宇部市は、もともと炭鉱都市であるので、雑然としていて、決してきれいでない、疲れたような地方都市である(また、それは庵野氏の出身地でもある。)。
 しかしそれは、若者たちの出発に希望を添える。どのような時代でも、どのような場所でも、若者たちには未来がなくてはならない。
 自分で、意識的に選択したと思える未来であれば、それは何よりだ。
 私には、この結末がとてもよかった、と思う。

 私たちの思春期は、もともと、いわば閉ざされた屋根裏部屋の思考であり、「いつか世界的な〇〇を成し遂げる」という夢想から始まる。
厨二病は治まらない。
 しかし、その後の試練や挫折はお決まりであり、最後に思うのは、「私はこのような仕事をしてきた」という、自ら社会人としての成した自己の仕事の肯定とその評価である。
 すなわち「私はこのように、(社会が求める)自分の職責をきちんと果たした」、と証明することしか、私たちには残すものも誇るものもないのではないかと思う。
 これは、今になれば、とてもよくわかる思考である。
 エヴァから出発した、庵野氏は、前作「シン・ゴジラ」で、素晴らしい達成を見せたと思う(ブログにも書いた。)。
 今後も、彼は、シン・ウルトラマンや、シン・仮面ライダーと、自らの、生涯を賭けた、大事なアイコンを賦活させる準備にあるようだ。
 私には、彼が、自らの社会的達成を果たし続けることを、できれば高い水準で達成することを、願って止まない。 

「天気の子」を見て、併せ「異常気象(?)」 について考える

2019-10-15 20:10:38 | 映画・テレビドラマなど
今年も分葱を植えました。残念ながら、植え方が悪いと指導を受けましたが。雨が降り続けば、やはり、ネギが芽吹くことはないんじゃないのか、と思われます。
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 歳若い友人の勧めで、新海誠監督の標記のアニメを見に行きました。
前作の「君の名は」というアニメの出来が良かったので、その後の、新海監督の新作アニメも見てみたい、と思ったわけです。
前作の「君の名は」については、先にブログでも触れましたが、かつての、多大な犠牲者を出した、東北大震災にかかわる多くの国民の切実な記憶と、もしそれが防げていたならば、という、切ない試み・仮想を背景につくられていました。
東京と被災地(設定では彗星の落下により町全体が破壊され巨大なクレーター状になった場所)に居住していた、そして遠く離れた東京に在住する、何かによってあらかじめ選ばれた一組の高校生のカップルの純愛(?) の物語を起点に、もしその時間の引き戻しが出来るならばという、哀切な、また最後は希望のある話が描かれ、メロドラマとしても、また、最期に救いがあるドラマとしても、大人にも十分に見ごたえのあるアニメでした。
そのあたりは、本来当初の「君の名は」は、ラジオドラマであり、個々の運・不運、偶然に引き回される一組の男女を描いた連作のメロドラマでしたが、その背後に、大東亜戦争でそれぞれの運命を翻弄された、大多数国民大衆の同情や共感が支持したことは明らかなところです。
後日、新海監督が、新作のインタビュー時に、旧作(「秒速5センチメートル」という三部作)での厳しい悲恋(?) というか、男女間の破局という結末)の方が作品としては優れていたのではないかという質問に対して、「今回の作品は、ハッピーエンドでなければならないと思った。」と答えており、私も、そのとおりだろうと思いました。

その大成功作に続いた作品とするならば、新海監督においては、このたびは分の悪い勝負であったかもしれません。

率直に言って、前作には及ばない出来でした。
8月下旬に、当該映画が封切られた際、行ってみようかどうだろうかと思いましたが、おっくうになり逡巡しましたが、テレビで特集の番組があり、ゲストで出た新海監督が、その制作意図として、「現在の危機としての「異常気象」の状況を語り、それに振り回される、関東圏(舞台はどうもそれしかないようだ。)に在住する主人公とその周辺の人間たちのドラマを描きたい」という話をしていました。
 首都圏の「異常気象」というか、「異常気象」私には、それが、現在の危機として、あまりぴんと来ず、現在の若者たちにはそうであるのかと、「へー」と思ったばかりです。
地方は地方でやはり異常気象ではあるわけですが・・・。

 というような心持ちでしたが、会場は、若いカップルたちというよりは、休日だったせいなのか、若い親子連れ(ただし、全て女児)が多く、おとなしく、画面に見入っていました。
 それこそ「ロマンス」は低年齢化するのでしょうか?なんとなく納得してしまいます。

 大変申し訳ないですが、簡単にあらすじを述べさせていただきます。
 何年にもわたり、常時、東京都圏は、雨が降り続いています。
 その東京都において、都下の島しょ部から家出してきた男の子が、アルバイトをしながら小学生の弟と二人で暮らしている身寄りのない女の子に出逢います。
 男の子は、島の暮らしに厭いたのでしょう、昔の家出(都会で自己実現をしたい、というような)のパターンです。島に、彼の居場所がないわけではないようです。東京圏は、雨が降り続いたとしても、都市機能や、商業施設は生きていることとなっています。
 相手の女の子は、病気によって母親を失った際に、廃ビルの屋上にあった、水神・竜神(でしょう)から、その不幸の代償でしょうか、「晴れ」をもたらす超能力を与えてもらいます。しかし、その奇跡の行使においては、やはり、代償が伴うことを示唆されます。
男の子と女の子は生活費を稼ぐために、局地的天気を晴れさせる、「お天気屋」を始めました。
 現代ですね、HPを作成し、営業を始めます。このあたりは、愉快な展開です。
 様々な人たちが、晴天を希望し、小幸福を手に入れます。そういえば、私自身、近年、晴れの日になれば、気持ちが晴れるような気がして、屈託なく、晴れた日を楽しめることは、とても貴重なことです。
 映像として、お天気屋によって晴れた夜、旧東京タワーと、新東京タワーの間で、花火がうちあがるシーンがあり、なかなかすばらしいシーンでした。
 少年がたまたま、ゴミ箱で拳銃を拾い、警察から追われるようになってから、運命は暗転していきます。少女が、実は15歳であることが判明し、幼い弟と一緒に、少年と同時に児相からも追われることとなり、逃避行が始まります(それでなくては、彼らの状況に危機が生じず、ドラマの狂言回しが展開しないようです。)。
 彼らのドラマのカタルシスの直前に、彼女は、自らを犠牲に最後のお天気召喚を行い、代償として、異界に閉じ込められることとなります。
逃げ延びた少年は、ビルの屋上の神社から、異界(?) にダイブし、彼女を救い出します。
 「君の犠牲で成り立つ晴れであれば、雨が永遠に続いてもいい」という決意を述べます。
 そうして、二人で現実に回帰します。

 それからというもの、雨が降り続き、東京圏は、埋立て前の江戸期に回帰するように、多すぎる雨によって、都心の多くは、水浸しになってしまいました。

 それから、時間が経過します。
 島に連れ戻され、高校を卒業した少年は、東京で児相の世話なのか、高校生になった彼女に会いに行きます。
 雨ばかり降り、下町は水面下になってしまいましたが、先にお天気サービスを利用した独居のおばあさんも、「何とかなるものよ」と、今はマンションに住んでいます(「天気難民」とか出ないのだろうか。)。
 それよりは、光合成が出来ない植物抜きで、都市部の食料をはじめ、経済活動の停滞により、都民の生活の維持と再生産が可能なのか、と思ってしまいます。
 少年を支援してきた、怪奇現象ライターのおじさんも、今では、人を使う身です。雨が、間断なく降り続いても、幸福な未来は、実現可能であったということなのです。

 降り続く雨、異常気象と列記されると連想してしまいますが、私は、先ごろの、心ある少女、スウェーデン人トウェンベリちゃんのエピソードをNHKテレビ、日曜夕方のこどもバラエティニュースで観ました。
 「二酸化炭素放出は、全人類の危機に手をかすことになる」、という彼女の主張を、当該報道は「たった一人の(少女の)主張で世界が変革できる」と、喧伝し、盛り上げていました。
 NHKの報道ってつくづくバカですね。一時代前の、西欧発の、「真実」を、護持・賛美するわけです。間違いなく、「洋魂洋才」(自国の文化・歴史・伝統を無視し時におとしめて、当該理念の本質検討もしていない、偏見、バイアスのかかった理念を信奉・迎合する、「植民地文化人」)の持ち主であり、まぎれもないバカです。
 中共・アメリカ・ロシアとか、強国は、協定も、信義も、国家の利害や戦略のためなら、平気で踏みにじるわけで、誰もいうことを聞かない、核兵器の廃棄などと同様で空疎なスローガンであり、いつものように、バカで、お人よしの日本人などを、だましていればいいわけです。
こういう、古くは大航海時代から繰り返されている、グローバリズムという西欧発のダブルススタンダード論理で騙されるナイーブな後進国の国民、殊に、日本人を欺し続ける詐術を、なぜ、NHKは報道記者として摘発しないのか。少なくとも、NHKの運営受信料は、英語も出来ず、貧困で、お人よしの大多数の国民によってまかなわれている。
 なぜ、大多数貧困国民の立場に立った、報道をしないのか。それは、報道者としての退廃ではないのか。

 他国から、反論をくらい、涙ながら抗弁するトウェンベリちゃん、あなたの想像力以上に悲惨な情況はどこにでもあります。
 「豊かであるはずの」日本国においては、バカの日本政府と、腐った財務省のおかげで、デフレが長引き、景気低迷により、国民全体が厳しい貧困状態におちいりました。
 貧困により能力低下した親から、貧民の子弟は、まともな食事も与えられずに、食事贈与ポストからの配食を待っているような、そんな厳しい情況にあります。なんと愚かしく、恥ずかしい「戦後民主主義」の帰結なのか。
 彼らの状況からいえば、二酸化炭素対策より、まず自分たちが自立して、「食っていける状態」にして欲しい、というでしょう。それが、まっとうな考えです。
 彼らが、飢えるのは、日本国政府に、直接的な責任があります。
 ただ、まっとうに世界の情況を考えれば、国家間の越えがたい格差や、各国民国家には、覆すのが困難な特権階級やそれを支えるシステムが厳然として存在しているので、それをまず認識・指摘し、ついでにということで、地球温暖化リスクを主張すべきでしょう。
 あなたの家族が、あなたの思い込み、視野の狭さを善導していただくのが一番ですが、視野狭窄、考えの足りなさ(バカということです。)は、長幼、男女、国籍の区別なく、一定数存在するものでもあります。
 つまらないことはおやめなさい、ちゃんとバイアスのかからないお勉強をしなさい、ということです。グローバリズムの首魁の一握りの富者によりもたらされた、大多数の深刻な貧困と絶望の解消がまず第一義の問題であるということで、そこに言及しない論理は、現在、何の意味もありません。

 東京都圏の、異常気象が、地球温暖化の影響かどうか、監督は触れていません。さすがに、芸術家として、そんなつまらない理念と原因を想定することは出来なかったのでしょう。
 しかし、間断なく降り続く雨で、国民の安心・安全な生活が、ついでに恋物語が支障なく営まれる、とは決して承服できません。
異界から生還した後、彼女は、警察・福祉の手により、彼は家出した家族のもとで、卒業まで過ごすというのは、ずいぶんな、ご都合主義ではないでしょうか。

 私には、「異常気象」や苛酷な「自然」が敵とは決して思えません。
 「自然」に働きかけ、改変し、人間存在に役立つように、働きかけて、類として生き延びてきたことが、現在までの、自然と、人間の付き合い方です。
 それを、政治的に覆そうとするのは、反動そのものです。
 自然現象や災害を奇禍として、政治・経済的に利用するそんな、卑劣で、狡猾な政治権力や経済権力も今世には存在します。
 効率のよい、また、環境に悪影響を与得ることが少なく、他国の侵略にも強い、原子力エネルギーを使うのもいいでしょう(バカは反対するかも知れないが、トウェンベリちゃん、きっとあなたはその合理性を認識すると思っています。)。

 新海監督、あなたの作品を、矮小化し、貶める意図はまったくありません。
 この作品が、つまらない、政治的イデオロギーに流れることは、きちんと避けられています。

 しかし、前々作、「言の葉の庭」の中で、雨の新宿御苑で、崩れかかった女教師と、男子生徒の出会いと心の交流と再生により、淡い恋の物語をつむいだ、あなたの優良な作品に比べて(その主題歌の「レイン」は、カラオケで、しばらく私の持ち歌になりました。)、この作品は粗雑であり、もう少しその深度と踏み込みが足りないのではないでしょうか。
 新海監督のファンとして、次回作に期待したいと思います。

 この作品を通じ、新海監督による、いつものように、都会とそこで営まれる人間の生活へのオマージュというべき、都会の街並みや通行人、都会に降る雨の描写は、何と言っても、美しいものです。

(補遺分)
 このたび、台風19号の災禍により、お亡くなりになった方、けがや、その財産などに甚大な被害を受けられた方に、謹んで、お見舞申し上げます。
 気候の変動は、私たちに、生き延びるために新たな努力を強いるところです。「国土強靭化計画」ではありませんが、今後、私たちは、財力と技術を結集して、災害に耐えきる、人間的な「自然」を構築するしかありません。
 3.11を経て、また、このたびの被災を経たうえで、今後なすべき災害防止政策に対し、それに抗する、パヨク、公共事業反対論者は、反動で、恥知らずであることを、私たち大多数の国民は、この際深く認識すべきです。

宮藤勘九郎の出自を言祝ぐ(ことほぐ)ことについて

2019-08-18 20:11:25 | 映画・テレビドラマなど
妻によれば、本年のNHKの大河ドラマの視聴率が低く、宮藤勘九郎ドラマが苦戦しているという話を聞きました。
実は、私、この番組を、最初は見ていましたが、ビートたけしを見るのが嫌で、いつの間にか見なくなっていました。
かつての、NHKの朝ドラ「あまちゃん」は、ほぼ欠かさず見ていたので、心情的に、「悪かったな」とか、「義理を欠いた」ようなところです。
このドラマは、彼が属する劇団「大人計画」の怪優(?) たちが大挙出演しており、最初は、実際のところ、誰が、誰の役をするんだろうと、興味深く見ていました。
 NHKは、どうも、この劇団と相性が良いらしく、先に、NHKは、「朝まで大人計画」という、深夜から早朝までの6時間を超える番組があり、劇団の主催者の松尾スズキの俳優・劇作家としての出発からの顛末を、宮藤の入団から、劇作家としての独立、看板スターの安陪サダヲなどの入団の経緯を扱い、劇団の年代記ならず、何段階かにわたる、俳優たちの入団の経緯とその相互関係付けが、腹入りしたところです。
観ていると、問わず語りのうちに、「役者なんて変人ばかりだ」という先入観がさらに強化されます。
 実際、定期公演の番組で、劇中の彼らを見ていると、何を考えているのかなあ、俳優というのは変わった人たちだなあ、と思っていましたが、楽屋落ちでの実態を見ていると、得心が行くところがあり、とても変わった人(わりと好きです。)たちや、どうも、通常の市民社会では生きにくい、やっていけないような人も、ある程度いるようです。
 ワンマン劇団らしく、当該、芸名も、松尾スズキが独断で決めるらしく、それは、動物シリーズとか、昆虫シリーズとか、非常に恣意的で、場当たり式のその場の雰囲気的なものでもあったらしく、どういう理由なのか、中には、芸名を、何度も変えられた俳優もおります。
ずっと前に、NHKの太宰治の連作短時間ドラマの中で、名短編「カチカチ山」を扱ったドラマが、ふたり芝居で行われ、満島ひかりのウサギ役と、「大人計画」の怪優、皆川猿時(さるとき:これは、動物シリーズの命名らしい。)のたぬき役で演じられました。
 この劇は、意欲ある実験的な作品で、素顔の猿時氏が、台本を読みながら、役作りをし始めてから、メーキャップをしながらの、本番までの様子を多角的に流しており、素人すれば、とても興味深いものでした。
作品の出来も、子悪魔が本質の満島ひかりのうさぎが、本領発揮で、愚鈍で、お人よしで、ひとりよがりで、ついでにすけべーな、男代表として、大人計画の怪優、皆川猿時が熱演したところの、たぬきの、その無神経、気の利かなさ、他者の気持ちが読めない鈍さを、十二分にいたぶりました。
 当時の、満島ひかりは初々しく新鮮で、殊に皆川猿時は好演で、しまいには哀れにも思えるところであり、その芸名と共に、強く印象に残りました。
 悲劇なのか、喜劇なのかわからない。誰も、悪くはない、「性格の悲喜劇といふものです。」と、太宰治が、うそぶく作品であり、どうも、それは、男と女の本質性に迫っているところです。

 この俳優が、大人計画の俳優を見た最初の経験になりますが、先のNHKの特別番組を見ていると、「大人計画」は、リーダーの劇作家松尾スズキが、自分で脚本を書く場合や、座付き作家として、宮藤が書く場合もある、しかし、おおむね、そのドラマの中で、座付き役者として、松尾も、宮藤もほぼ出演(それは劇団営業上の理由であるからなのか。)するようです。
 松尾スズキも、斜に構えた人で、「子供時代がいいなんて少しも思わなかった、早く大人になりたかった」と劇団の由来を語り、群立する小劇場の劇作家たちのように、幼児・子供体験などに過剰な意味合いをつけずに(強いて言えば幻滅を覚え)、それに拠らない出発をした人です。
 ただ、劇団も、様々な人たちの集まりであり、中には、劇作家や、他劇団の主催者なども含まれており、人間の集まりはそれ自体で別の大きな動きを持つこともあり、それはそれで、大変興味深いところです。

 宮藤ドラマを最初に見たのは、民放の「タイガーアンドドラゴン」(2005年)からで、アイドルグループの二大男優を使い、人気テレビドラマの枠をはみ出す、やくざと落語家の絡みと、やくざで落語の新弟子として長瀬智也が毎回、きちんと語る落語が放映されており、宮藤得意の人間関係の大錯綜とともに、とても面白いドラマになっていました。
 借金に追われる落語家と、落語家に弟子入りしたやくざにより、取立て屋と弟子が瞬時に入れ替わるやり取りが面白く、今までにない民放ドラマでした。久しぶりに、落語家役で、西田敏行が好演していました。また、いつもながら、層が厚く、個性あふれる、魅力的な脇役は、宮藤ドラマの定番です。
 それ以降、私が見る範囲で、NHKでは、「あまちゃん」と、民放では、「ごめんね青春」(先にブログアップしました。)と、優良なドラマが続いています。

 このたびは、後半に入る、その大河ドラマのてこ入れのためなのか、宮城県出身の宮藤勘九郎の、出自と、その一族にかかわる番組が放映されました。
 宮藤という姓は、その出身が神官の家柄らしく、室町時代にまで、家系がたどれる家ということです。宮藤家は、跡継ぎがおらず、そのままだと絶家する傾向があり、何代にもわたり、他家から養子を迎えているようです。
 宮藤の母というのが、ものごころもつかないうち(1歳未満のうち)に、他家から養女にもらわれ、母親の問わず語りでは、とても大切にされたようです。
 宮藤家は、家業として文具店を営んでおり、今も、母親と姉が店番をしながらインタビューに答えますが、すぐそばに、勘九郎の姿がプリントされた長い旗がおかれてあり、息子に「大概にしろ」といわれたと、笑って話します。
 母は柔和な人で、明るく語りますが、そばの姉も含め、どうも女兄弟ばかりということで、末息子として、さぞかしかわいがられたのでしょう。
 父親は、小学校の教師で、やはり、養子に来ていますが(いわゆる「とり子、とり婿」ということです。)なかなかの傑物です。
 小学校の教師として、郊外活動まで指導し、中には、「先生がむつかしい婚家に交渉に行ってくれた」という教え子もおり、最初の担任のクラスは、卒業以来連続して、50数年引き続き、毎年クラス会をしている、という極端な話です。
 お見合いで知り合った、父母ですが、独身時代、父親は将来の妻にあて、10数通の手紙を書き、母が、それを、大事に保管していました。とても、びっくりしました。当然、写真とか、思い出の品も数多く、保管されているわけでしょう。
 父母とも、陽性の人で、また、女系に男の子が生まれたということで、祖父が大変に喜んだということであり、可愛がられ、大変、良好な家族関係で生育したように思われます。
 よく考えれば、宮藤の父も母も養子から始まったわけで、まず養家と関係を作り上げていかなくてはならないわけです。ものごころつかないこどもにおいても、実家は秘されているにせよ、察知し、実母・実家が恋しく、それは変わらないと思われます。やはり、それなり傷つき、悲しい思いはあるはずです。
 その後養子としてやってきた夫は、その境遇を、妻のために改善したいと思ったのか、独断で、妻の実家と、交流を始めて、また深めて、その親睦宴会サービスのためなのか、裸姿で腰のまわりに座布団を巻いた相撲劇の、写真が写されます。陽性で、象牙の塔(?)をいつでも降りられ、周囲を思いやる、すばらしい人だったのですね。過剰なサービス精神も子に対する遺伝でしょうか。
 それが、父が唱え実践したという、「人と人の関係を大切にしなさい(周囲と相和し人は育つ。)」、という、宮藤家の家訓ということになりますが、飽くまで陽性で、周囲に人間関係を作り続けた、勘九郎の父の生き様は、家族にも大きな影響を与えたように思われます。私には、日本版「拡大家族」ということばを連想します。大家族も良し悪しかも知れませんが、どこかに、落ち着く、親和的な居場所があることは、ありがたいことでしょう。

 勘九郎が進学のため、上京し、「大人計画」に入ることを決め、大学中退の報告を手紙で書き送ったとき(それもきちんと母親がしまいこんでいます。)、その不退転の決意を、理屈をつけていろいろと述べつつ、「・・・どうか、見捨てないでください。」という結びに思わず、笑ってしまいました(自分を思いやっても、なかなかこうは書けない。)。
 つくづく、家族に愛された人であろう、と思われます。

 どうも、宮藤作品を見ていると、どうやって、自分のドラマの端々に、「大人計画」の団員たちに役を振るのか、腐心しているところがあります。
 「あまちゃん」の劇中でも、「わかる人にはわかる」と、イギリスのロックグループ、クイーンのボ-カル、フレディ・マーキュリーの仮装をして出演した、「伊勢志摩」というふざけた芸名の女優など参入しましたが、このあたりは小劇場出身の強みなのか、ドラマの筋書きには、まったく関係なく、異質な出演者も出てきます。
 NHKに偏在する、一部のしごくまじめな人には、彼の奇想天外なドラマは、気に入らないかも知れません。それが、同時代や、過去のみならず、国境を越え展開する、宮藤ドラマのめまぐるしいしい動きについていけずに、また、阿部サダヲなどの攻撃的でエキセントリックな演技が、不評であれば、私は「しょうがねえなあ」と思うばかりですが。

 奇しくも、宮藤の姉が、宮藤劇には、どんな人にも居場所を与える、人間関係の中に取り込んでしまう、という述懐をしていましたが、彼の描くテレビドラマにもそれが当てはまります。
 大学中退をしてどんな仕事をしているんだろう、と、夫婦で劇団の公演劇を観にいき、父親が、「(息子の言うとおり)本当に面白い」と喜んで、しかしやっぱり迷惑だから、と楽屋にも寄らず、帰ったという、逸話もあり、その後、物故されたようです。
 しかし、今でも、脈々と続く父親を囲む同窓会には、毎年、母親が、「副担任」として出席し、踊りを披露している、との話で、あり、これも、天晴れというしかない、話です。
 世の中には、いろいろな、家族があるものです。
 宮藤劇で、なぜ、あれほど、変わった人に執着するのか(好奇心を及ぼすのか)という点で、想像力を養い、目を外部に開かせた、という点で、彼の家族と生育環境に大きな恩恵をこうむっていると思えるのです。
 このドラマが、今後さらに、面白く展開していくことを願います。出来れば、成功例になって欲しい、ところです。

記憶の切実さとそのあいまいさ(NHKBS「こころ旅」)について その3

2018-05-16 21:50:38 | 映画・テレビドラマなど

 
 今年は、3月末から家事でいろいろ忙しくしており、いつの間にか春に乗り遅れてしまい、桜も知らないうちに、先日の大雨でつつじが朽ちていくのを漫然とみているような、今日この頃です。
また、本日、発色は、いまいちながら、アジサイの花が道そばに咲いているのを見つけました。

さる4月から、標記の「こころ旅」春期編が今年も始まりました。
俳優の火野正平が、視聴者が応募した手紙などにより、それぞれの思い出の場所をたどることとし、サイクリングで日本全国を旅する番組ですが、今年は沖縄から始まったようです。
現在は、九州地方が終わり、中国地方に入っていく見込みです(現時点ではもっと進んでいるのかもしれない。)。

この番組で放映される景色は、なかなか興味深いものもありますが、時に、閉ざされたシャッター商店街や、田園の中や小さな空き地に唐突に設置された小規模太陽光発電の施設など、見慣れたような似通ったような景色が映ります。
そこはそれで、嫌な景色も、心地よいような景色も映りますが、荒れ果てた休耕田や、先の、間に合わせの太陽光発電(なんと政府の無策よ!)施設など、厳しい現実もあります。
その一方で、まだまだ元気な農業者(?) たちが畑や、田のあぜなどで作業しており、手入れの行き届いた田園風景を見ていると、ほっとするような気持ちになります。
どうも、観ている私たちにすれば、それぞれ、すでに深く進行している、悪しきグローバリズムに迎合し、規制緩和の美名のもとでの零細な商工業者の没落させたこと、このたびの日本国の農協を解体し、農業者たち、地方住民を窮乏に追い込もうとする政府・中央政党の無能で悪質な政策の影響を視てしまいます。
その渦中にある地方の生活者たちはどうしているのか、決して豊かではない筈では、と思い、また、皆、どのように生活をつなげているのかと、私たちの想像力は、その光景を、ひとごとながら、身につまされるように、無意識に追っていくのですね。

その応募の手記も短くそっけないものから、周到で長いものもありますが、どうしても書きたかった、と、観るものの心を動かすものや、私にとって強く印象深いものもあります(よろしければ、このシリーズ、その1、その2を参照してください。)。
それは、行間を読み解いていくしかないのですが、思いのほか、神社や、仏閣などにまつわる記憶や思い出が多く、それが郷土(ふるさと)との一体感や、思い入れと重なるなど、当時の自然や家族・友人たちとのいきさつを含め、それぞれの投稿者を強く拘束していることが分かります。
それならば、そんな光景を見ていない、都市生活者や、こどもたちはどうなるのか、ということとなりますが、そこはそれ、うまくできているもので、旅先や、何かの滞在時に、それぞれに、思い入れのある風景を、それこそ、自己に強いられて、選択しています。
その記憶は、改ざんされたり、美化されたりするかも知れませんが、記憶の中でろ過され、それぞれ、切実な風景になるのでしょう。
いずれにせよ、投稿者は、その記憶を、他者と共有し、共感されたいと望むわけです。

ときに、高齢者(仮に80歳以上とします。)の投稿で、決して愉しくない記憶と景色の投稿もありましたが、厳しく、悲しい記憶もあります。
見ているほうには、感動的で、記憶に残る光景になるのですが、なまなましくてつらい記憶も、歳月を重ねれば、それなりに、その人の人性の中で落ち着いたようで、改めて人間の可塑性というか、つよさを感じ入るところもあります。
このあたりは、画面の景色の明るさとともに、自然光の中でのサイクリングによる追体験を経れば、その感情の澱のようなものも、徐々に消えていくような印象も受けます。

最近において、印象に残ったものについて、言及します。
先の、佐賀県の白石町(有明海干拓地)の風景です。
 その手紙は、ていねいな字で書かれており、15年前、長く勤めた事業所を早期退職(文面から読めば50台半ば) して、地元のたまねぎ生産農家に、転職した(現在は69歳の女性)ということです。行間で、仕事のみならず、どうも人性での大きな転機であったらしいことが、語られずとも、想像されます。
 それはなかなか厳しい労働であったらしく、一面の、干拓地農地は十分に利用され、とても美しい景色です。聞いたところによれば、薄い緑は麦畑、濃い緑はたまねぎ畑、と火野正平が補足します。
 たまたま、番組作成が、投稿者の見た景色と同時期であり、見渡す限り、畑と緑のグラデーション、それらしか見えません。麦畑に居つくのでしょう、ひばりのさえずりがずっと続きます。
 その麦畑(及びたまねぎ畑)のはるかかなたに、地平線のように、大規模水門の構造物が、空と農地を分かつかのように設置されています。ただ一面に遠くまで広がる田園風景ですが、その構造物に、唯一、小さな矩形の切れ間が見えてきます。
「あれは何だろう」と、カメラと同時に、こちらも気づきます。

 まさしく、投稿者も、作業をしながら、それをいつも疑問に思っており、ある日、昼食のまかないを断り、弁当を持って車を走らせます。
 ちょうど、その境界を越えたとき、一直線のコンクリート構造物のすぐ目前に、一面の干潟が広がり、有明干潟・例の泥の大平原が視界一面に広がります。はるか遠景に、雲仙普賢岳がかすみにたなびくようです。
 一面の、緑の平原から、門扉の切れ目を越えれば、一面の泥の平原となります。
 この風景に、なんともいえない開放感があり、どうも、あれは、自己の転機にあたって、奇跡に遭遇したかの様な光景(体験)であり、その景色は、自己の人性への内省を強いるような心持ちになるのではないか、と思われます。
 現在は、たまねぎ収穫パートからは引退されたようですが、その鮮烈な印象は、大きな過渡期に、光を与える(?) ような体験だったのでしょう、よく理解できます。
 たくまずして、出来上がった、(人間が手を加えた)自然の景観が、私たちの「精神」にも影響を与えるという例なのですね。

 もうひとつは、少し前に投稿されたものですが、北海道の士幌町というところの居住者(女性)の投稿です。
 25年前に北海道にやってきた、という家族です。
 父に少し痴呆が出た、という人であり、介護する娘と孫と三人のスナップが同封されています。父と娘の顔つきがよく似ており、血族の同一性がよく感じられるようです。
 毎朝、父親は、「永いことお世話になりました。今日はこれで帰ります。」といい、かばんを持って出発しようとします。娘の方は、「もっと長く居ればいいのに」と引きとめますが、無理にはとめません。
 ころあいを見て、迎えに行きます。
 その頃には、歩きつかれたのか、お迎えの車椅子におとなしくすわり、登園する園児や、あたりの景色を見ながら一日を過ごしたといいます。
 「大好きだった父と一緒に」という説明が流れ、父の介護をしながらその晩年を一緒に平穏に過ごせたことの幸福の確認と、現在の投稿者(娘(59歳)の)喪失感が述べられます。
 私には、冒頭の、「永いことお世話になりました。今日はこれで帰ります。」という父親の独白が深く心に残ります。まるで、日々日々において、別れを告げ、今世を去っていく覚悟のように思われます。かばんを持って出て行くというのは、長年にわたった、厳しく、たゆまぬ勤め人人性が、体に染み付いているのでしょう。
 私は、「男は、一生、ひとりの過客(旅人) なり」といいたいのかもしれません、が、彼の人は、日々の覚悟をして、誰にでも、過度にお世話にならぬよう、毎朝、家を、出て行くのでしょう。
 実際のところ、それは、老人性の妄想のひとつのタイプというべきかも知れませんが、無意識にでも、安逸には限りがある、それに安住してはいけない、厳しい生活に入っていかなければならない、と、年老いても自己に強いているようでもあります。
 謙虚で、温和であり、家族にも愛された人かも知れませんが、その様な晩年に、頭が下がる思いです。
 投稿者の実年齢を考えれば、その父親はちょうど大正二桁台の生まれくらいで、それこそ全ての男のうち、三人に一人が戦死し、その後敗戦の動乱期に直面したという、あの厳しい世代の人かもしれません。
 自分ではそうはなれないのはよく理解していますが、さまざまな人性があるものです。
 あじわい深いものですね。