天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

追悼:安倍晋三氏が凶弾に倒れた!!

2022-07-12 07:02:52 | 時事・風俗・情況
身延山、久遠寺、前庭にある山百合(?)です。
私には、安倍氏に対する供花に思えました。
法華経の総本山を訪れるのは久しぶりのことです。
安倍氏の冥福を祈るとともに、わたし自身の社会人として、日本国に対する使命を果たす、お約束を申し述べました。
********************************
 安倍晋三氏が、なくなった。
 路上で、テロリストに、犬のように撃ち殺された。
私たちは、決して忘れないだろう。令年4年7月8日のことを。
私は、午前11時過ぎに、友人のSNSの画面で見た。デマかもしれないと思った。
NHKを観たが、テロップすらなかなか出ない。
奇妙な静謐が漂う。元首相のテロリストによる、襲撃は、国民にとっては、心配でしょうがないが、NHK(他の放送メディアを含む。)には他人事なのか。そのうち、「事実」の報道だけ始めた。選挙遊説中の、安倍首相らしき人が、路上で襲撃され、血を流し倒れ、病院に運ばれた、という「事実」報道である。
 そこには、暴漢に対する怒りも、理不尽な現実に対する悲しみも、国民に対する共感も、何も感じられない、意識してそう振舞っているのか。
これが、公正なメディアなら、そんなものは、私たち日本人に要らない。

死者は便利である。
反論の機会を持たないから、生者の側から好きに言説できる。
それはまた、安倍晋三氏の敵の側からも同様である。いかに有能で、いかに優れた、そして、実は自分の味方であったかと、政治的に、自由に利用できる。昨日までの宿敵が、今日から、つよい味方なのだ。
敵は、本当に惜しい人を亡くした、日本国の将来について、大変残念だ、と、沈痛な顔をして見せればよい、後は、誰かが、勝手に、物語を紡いでくれる。

安倍氏の、享年67歳という報道に、再度衝撃を受けた。
奇しくも、私と同年である。
したがって、安倍氏と共著があり、親しかったであろう、百田尚樹も、同級で、私と同窓(彼は中退したらしいが)である。
彼が、自分のSNSで、ショックと失望、やりきれなさを、嘆いたのはよく理解できる、安倍晋三氏は、政治家として、極めて危険な、厳しい場所を歩いていたのだ。
それがよくわかる、百田直樹は、安倍氏の孤独な戦いと、報われることのなかった厳しい道行きを、やりきれない、と嘆いて見せた。
その、気持ちを私は共有する。https://blog.goo.ne.jp/koheitendo550815/e/9cdbba60d6fc9857625e1f4ca11ce841
「永遠のゼロ」の出版後の講演会に、百田直樹の講演会に、私は参加したことがある。
彼は、復員傷病軍人の、街かどでの、かど付けしている光景について言及していたが、まったく同じ光景を私も見て、当時、ショックを受けている。昭和30年生まれの私にも、戦争が一部で終わっていない、という、それこそ衝撃だった。
彼が言う、三人に一人の割で戦死者が出たのは、まさしく、私たちの父の世代である。
それによって、夫を得られないような割を食ったのは、まさしく私たちの母の世代である。
おまけに、彼らが、運よく帰還した時には、国土は焦土であり、家族は被災し、明日食うものはないという時代だった。
その中で、徒手空拳の中で、奮闘に奮闘を重ね、戦後の平和と繁栄を創出したのは、まさしく、私たちの父の世代である。
私たちは、その事実を誇りに思う。

百田尚樹は、ウクライナとロシアの内戦の認識で、私とは、違う認識に至ってしまった。
それは、残念だが、彼が、その認識を変え、それこそ、シモーヌ・ヴェイユの言う、「いかなる戦争においても、指導者は、最初に、老人、こどもたちのような社会的弱者を、敵の前に差し出す」という、きびしい事実を認識すべきである。
そして、安全な後方から、国民に死ね、という、グローバリストの手先、ゼレンスキーの恥知らずを認識し、NATO、バイデンの戦争操作の図式と、正義を装った、知的迷妄から覚めて欲しい、ものである。

私は、自分でよくわかるが、家に長くいなかった父の代わりに祖父の影響を受けている。
安倍氏も、実父を早く亡くされ、その祖父、岸伸介氏の大きな影響を受けていることは、よくみて取れる。
それにより、60年代の安保延長に依るいうなれば当時の日本国において、歴史的に不可避な道行きに立ちふさがり、敗北したという、つまらない左翼体験を、自らの安いルサンチマン(弱者の怨念)と結びつけ、三代にわたり、岸=安倍路線を攻撃していることである。
しかし、岸氏には、理念があった。
武力によって押し付けられた、進駐軍憲法を、国民憲法に制定し、アメリカ支配体制を、日本人自身による、自主、自立体制を打ち立てることである。
それは、非常に、明確で、当たり前のことだったっが、歴代の政治家たちは手が出せなかった。
そこに、自主憲法の制定という帰結に、敢然として挑んだ、安倍氏の功績は計り知れない。

このたび、安倍晋三氏の死という、事実で、自民党は、参議院選挙に勝利したということだが、必ずしも、真正の保守は、そんなことは望んでいなかった。

昨年9月の自民党の総裁選から、「第二の政治の季節」に出くわした私とすれば、このたびの選挙は、保守とえせ保守とを切り分ける選挙だった。
いわば、自国民の安心安全と、自国の文化伝統を尊重すること、いわばグローバリズムの対極を目指した、安倍元首相、高市早苗総身会長のラインと、えせ保守、岸田文雄首相、茂木幹事長、林芳正外務大臣を切り分ける重要な選挙だった。
非力な私は、自分の貧しいブログで、数度にわたり、参議院議員選挙について、柄にもなく言及し、友人たちの間を回り、意中の候補者に対する政治的な協力を依頼してきた。
まさしく、それは、生まれて初めての経験だった。
この事件は、安倍氏が、我が身を惜しまず、若手の支援に奔走した選挙中のことである。
その、安倍晋三、高市早苗ラインが、理不尽な権力と暴力よってつぶされたのは、まさしく断腸の思いである。熱い夏が、暗い陰惨な夏に思えてきた。

私とすれば、日本国を御するのに、岸田文雄は問題ないが、安倍晋三氏は邪魔になる勢力によって、ケネディ事件以来と思われる深刻なテロが行われたのであろう、と考えるしかない。
安倍氏は、それだけ重要な政治家だったのだ。

私は、先の政権で、安倍氏の政策に全面賛成するわけではない、アベノミクスにも批判軸はある、しかしそれを超える、政治的理念と、国民ファーストという、彼の理念には深く賛同するものである。

無力感にさいなまれつつも、7月9日。前から決まっていた、私自身の信仰のたびに出発した。体調を壊して以来、久しぶりの旅行だったが、毎回苦しむ暑さも、今年は少なく、とても楽な修行の旅だった。
機会があって、私は、若い友人たちと、徹底的に議論した。
国政のこと、コロナのこと、デフレのこと、ウクライナのこと、進駐軍憲法のこと、世界の支廃体制のこと、政治に深く加担する創価学会=公明党のこと、アメリカを中心にしたDSの活動のこと、知らず知らずのうちに、自分が、癒されていくことを感じた。
他者との関係の中で、自分を取り戻すのは、本当に、ありがたいことである。
私は、この体験を生涯忘れまいと思う。
安倍氏の思い出として。
それこそ、安倍氏のおかげだろうか。例年暑さに苦しむ旅が、涼しい風、好天のもとで、楽に旅行ができた。

私にも、目標ができた、どこまで生きられるかはわからないが、安倍氏の求めた大義を、私自身の社会的な目標と重ね、敵対勢力と戦って行こう。
私は、本来、文学や芸術が好きな人間である。しかし、こうなった以上、それだけでは済まない、それこそ、Pick up the torch ( 衣鉢を継ぐ。ともしびを掲げる。 )、を選びたい、私ごときが、大変おこがましい話だが。

末筆ながら、私の推した、参議院議員候補が、ほぼ、全員当選しました。
私の貧しいブログを見て、同感していただいた方には、お礼申し上げます。
大変喜ばしいことです。彼らが約束した、国民憲法の制定、抑止力としての核配備、日本国の富国強兵を図るための原発再会、財務省の意に反する有効な経済政策の実施、消費税の廃止など、覇権国家中国との戦いの確認、いくらもあります。今後もきちんと監視しましょう。


「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」のバカバカしさ(学齢期ワクチン接種という愚挙) 緊急質疑

2022-07-02 12:53:33 | 時事・風俗・情況

この、フードポストの存在が、何度もいうが、悔しくてならない。
 資源の無駄を避けるため、余った商品を、足りないところで、助けあう。ウソを、つくな。
 行政が、なぜ、こんな偽善に手を出すのか?
 多くの市民が、私たちの父母が、決して私たちに見せなかった、裏の貧困が、かつては、いくらもあったことを覚えている。
 現在、国も、県も、市も決して、その理不尽な、その事実を認めない。頑として、認めない。
 資源のむだつかい、そんなものはない。私の行くスーパーなど、食料品など、その日でも、最期は半額でうるぞ、それに、群がる老人、貧困所帯たち、私だって、並ぶ。
 社会的な要請には従わずには、いられないと思われる、流通業者たちも、さすがにあきれたか、行政を嗤っただろう。
 その程度の、デフレと、賃金低下に痛めつけられた大多数国民の苦衷がわからない人間は、政治家の看板を降ろせ、ということだ。
 おまけに、この品のない、ドラム缶が、各官庁出先ののトップに、平然と設置されてあるといういう、恥知らずな事実、とどのつまりは、炊き出しでもやるつもりか。
 それなら、まだ、芽がある。
 場所を決め、市の運営(すなわち市発注の業者にまともな方法で管理運営してもらうということだ。)配食まではできないが、窓口で、こどもにでもだれでも、希望者に、弁当配布をするということだ。
 配布者に、意識的に、きびしい、しばりは設けない。
 おかわいそうにと、贈与はできる。それが、日本人の倫理観というものではないか。
 図書館の本の贈与・貸与を全国にしている、なら、今すぐにでもできるではないか。
 昔の人はよく言って、いる。
 衣食経って礼節を知る、と。
 いずれ、制度の恩恵を受けた、こどもたちが、その意味を、考え始める、だろう。
 それが、最も良い。
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女性政治家は、徹底的に名前を惜しむ(文語表現は要らない。すなわち、権力と権威が欲しい。)らしい。すべての女性政治家とは言わない。例外もある。
私たちに、相互の性差、女性を忘れさせる、優れた政治家もある。私たちが異なった性を、意識化しないことはないが、議論の中に、性差の支障のない、議論と政治の時空が成立する、そのように、人間はできている。

しかし、そんな本質を逃した、LGBTなど、何の意味もない。
バイアスかかった女性は目も当てられない、それこそ、劣化した男だ、武蔵市長のような方ですな。

再度、繰り返すが、すなわち、女性政治家は、自分の名を挙げよう、名前を印象付けようとするためには、なんでもする。
 小池都知事は、格好のロールモデルである。
太陽光発電、その採算性、将来に対する有害廃棄物化に対する危険性、都民どころか、都庁職員からさえ、事業効果性に反対が出ているのに、平然と事業推進を強行しようとする。
私は、都民、日本人ではない、西欧の環境狂信者の政策、すなわち、他国侵奪を目指す、グローバリズム活動家の正義に連動しているのよ。
コロナファシズムにより、都政が混乱、疲弊し怨嗟の声すら生じ、病気にもなった。
神宮外苑の再開発に伴う、樹木の大量伐採を批判され、都民ファーストの前提をくずされ、「小池百合子ファースト」が暴露され、彼女は今さら、何を、目指すのだろうか。
しかし、マスコミに出るのだけは、止めない。
「死に至る病」という哲学的な悩みではなく、通俗的に、「死んでも止めない」、権力への渇望とでもいうべきだろう。

周南市のコロナの取り組みについて、先に言及した。
私たちは、在職中、私たちの仕事に就いて、押しなべて、事業評価を求められた。
決められた、自己の担当する、事業の、妥当性と、成果を、求められる。
そんな都合のいい、見栄えのいい仕事があるわけがない。
目立たぬ、重要な仕事はいくらもあるのだ。
上司は、日常業務がいっぱいあるので、そんな、やっつけ仕事に、部下が、乗れるはずもないのをよく知っている。したがって、仕事の内容もわからない指導人間のやっつけ仕事になる。

このたび、さきの、私のもと同僚、藤井律子市長の事業から、時間がたったし、実害も生じているらしいので、誰もやらないのなら、私が、事業・実績評価をしてみる。
 あなたは、いつも、市民に受けそうなテーマには、ネット通信署名入りで文書送付する。
 典型的な、リアルポリティシャンである。
今回は、是非、回答してもらいたいものだ。
 前回の提案はこうだった。

 「このたび、文部科学省は、政府が強行する、学齢期から、ワクチン接種の義務化を、任意設置で実施する、ガイドラインを全国に通知した。
 同時に、ワクチンを大量発送したわけである。
自己責任を前提で行われる、個々のワクチン接種を個々の親の判断にゆだねるという指導である。
本来、ワクチン接種では、副作用は生じない。生じないのであるから。副作用が出たら、副反応と呼ばれる。救済はない。自分のリスク意識と判断で、ということになる。

試しに、先に二回行われた、ワクチン接種の、実施資料で、厚生省職員のワクチン接種率(2回目までである。)が10%、国会議員が、30%弱、驚くべき達成率であった。
どうも、ワクチン接種は危険であると、NHKその他のメディアがあおった80%から90%の国民接種達成率から比較して、官僚・政治家は、その安全性を疑い、自分は決して打たないと、その本音を隠していたわけである。
60歳以降の、免疫低下の世代にインフル同様に犠牲者が出るのは、残念であるとしても、ウイルス被害で、ほぼ毎年2万人超の死者の数に比べ、著しい低下である。
おまけに、PCR検査を経た人間が死ねば、皆、死因はコロナ死と判定されるという、とんでもない話だ。
現在、壮年世代の、若い世代に死者が出ているのは、どうも、ワクチン接種の副作用(断じて副反応ではない。)と取りざたされているところである。
私も、そんなものじゃないかと思っている。
しかしながら、こどもに死者はほぼいない。
なぜ、犠牲者もいない世代に、ワクチン接種を強行するのか?」

「しかし、そのうち、話は変わる。
なぜ、国レベルで、学齢期児童のワクチン接種は、効果があるとは、疑わしい、と、指示があったのに、周南市も、学齢期接種を強行するのか。
それとも、全国でやっていることだから、うちも、やればいい、とでも思うのだろうか。
私の倫理コードに照らしてみれば、私が社会生活を務めている間は、当局から強いられれば、ワクチン接種はやむを得ない、と思っていた。
所詮、私の個人の命である。
直接介護にあたる医療従事者、国土・国民の安心安全を守る自衛隊員ですら、ワクチン接種が義務化されている現実である。
まだ、パンデミックの実態がわからない段階で、窓口公務員の私が、市民のリスクを排し、職責を貫徹するためなら、信念を曲げ、ワクチン接種をすることも止むを得ない、と思った。
後日、パンデミックは大嘘が判明し、在職中に、やらずに済んだのは、僥倖であった。
ワクチン薬禍の中で、最初に犠牲になった、医療従事者、自衛隊員などに、哀悼と、お礼の言葉を申し上げる。
現在、強行される、安全性が極めて疑わしい、第三次接種など、現在、基礎疾患のある私は、接種する気持ちなど全くない。
 ウイルスの世界的な、伝播状況、日本国のり患状況、あるいはワクチン接種の副作用状況、勘案して、まったく、メリットがないという判断をしている。
しかし、学齢期以降のこどもは違う。
彼等には、自己決定権がない。
しっかりしない、親が、望めば、今後、どんな健康被害が出るかもわからない。
大多数の親たちは、忙しいので、情報収集もできない。
今は、そう、中小企業に勤めるどころか、フルタイムの職員もおぼつかない様な、不安定な状況で、我が家の家族の命をつないでいる。
そんな方々に、自己決定を強いるのは、間違っている。
公言しているように、「こどもたちの未来のために死んでいくのは、われわれ老人の役目ではないのか」、と、私は、マジで、思っている。
要は、あなたとか、私が、未来ある子供たちのために、先に死ぬ方が、人間の倫理として、間違っていない、そちらの方が、価値がある、ということです。
そうなれば、こども支援部を作る前に、こどもの生命、安心・安全、健やかな発達を支援するように、全力を尽くさなくてはならない。
そのためには、政府の政治的な思惑を排し、まともな、文部科学省の官僚の意見を、誠実に、取り入れなくてはならない。
圧力はかかるだろうな、しかし、それが、政治的な責任であるということだ。」

(「    」内は、前述した内容になります。)

私が申し上げたのは、こういう、提言だった。
私は、周南市に行くことはなくなったので、周南市の年齢別罹患率も、被害の実態も知らない。
しかし、ワクチン接種が始まって以来、下松の小学生から、多くの発症者が生じたことは聞いた。
同様な話が周南市にないとは、言わせない。
藤井市長は、国井下松市長に比べ、疱瘡神(平易にいえば、おにがわらみたいなもんです。)ででもあるのか。そうであろう、新年会では、すてきな、装束を召されていた。あれは、悪魔払いの、縁起物だったのだな。
私は、友人に、周南市の気骨ある小児科医の話を、聞いた。
こどもに発生のない、ワクチンを打つのは愚かな選択ですよ、という助言をする医師の話である。ワクチンはわからない、突然変異も早いし、陰謀説すらもある。それをさておいても、時間を経てどんな症状が出るかまだ、まったくわかっていない。
そのうえで、この酷暑である。学校の帰りまで、マスクを外せないこどもを見ていると、涙が出そうになる。
すでに、外部では、マスクを外すべきという、国に連動した、医師会通達まで出ている筈だが。
周南市では、皆マスクを外しているのだろうか。
公用車で送迎される、あなたは、知ったことじゃ、ないだろうが。
岸田文雄は、実に愚かな選択をしている、それに追随するのはバカ者である。
それも、あなたは、市民の健康を第一に考えていますよとという、偽善の言葉で。
政府から、圧力はかかるだろうな、しかし、それが、政治的な責任であるということだ。
しかし、それは、名もなく、貧しく、負けずに正しいことを行いたいたいという、はるか昔の「青年団」の理念だ。
この際、やめてしまいましょうよ。
ワクチンの結果が、支障をきたした、彼らが、成長し、思春期にでも至ったら、私は、彼らの、目が、恥ずかしくて見れない。


       それでは質疑を始めます。

1 あなたの孫は、小学生と聞いた。
彼はワクチン接種をしたのか?

A それは決してさせたくない。
B それは、彼(彼女)の父母の判断である。私は政治家として関与しない。
C 私は、全世帯の父母に自己判断を求めている。結果は、個々の家庭で負って欲しい。
 この世はすべて自己判断と、自己責任である。私は、良い結果があることを信じている。
D その他(自由異見)


2 そもそもあなたは、ワクチン接種を何回目までしたのか? それに対して、市民に望むことは?

A 皆さんの前でパフォーマンスはしていないが、ちゃんと( やった・やってない )(二択)
B 私はやっていないが、市民の皆さんは、パンデミックが怖いので(実は大ウソだったな。)、国にしたがい、やるべきだ、と信じている。
C 基礎疾患があるので、やらない。某国家政治家のように、人前で、パフォーマンスまでやらない。 私は私の判断と、自己利害と・信念で生き
 ている。
D 市民の間では、ワクチン接種をこどもにしないと登校できないという声もあるが、そんなことは、私は知らない、前述したように、個々の家
 族で決めて欲しい。
  自業自得という言葉がすきなのは、日本人の美徳だと思う。
E その他(自由異見)

  
3 他市の自治体議員のマスク外したうえでの公用が政治問題にまでなったが、周南市市議会議員及び市幹部(当面課長以上と想定する。)のワクチン接種率は、どのようになったのか。

A 先生方は、先生方の判断があるので、私の知ったことじゃない。実施者がゼロだと、見栄え、聞き映えが悪いな、という認識ではある。被害
 がふえれれば、いずれ、発表しなければという認識はある(報告義務があるかな?)
 いずれにせよ。国の、仕事であり、義務である。私に、責任も、権限(勇気)もない。
B 市職員については、個々の判断を求めている。大人の対応ということだ。しかし、長期にわたり、休まれるのは、実務が困る。これも、議員
 さんと同様で、同じく、見栄え、聞き映えが悪い。
  自己責任、これも、多くの日本人と同様に、私の好きな言葉だ。
C (自由異見)

4 学童期児童に、下松市並みに、副作用(副反応でもいい。)は出ていないのか。

 (この辺りはいくら何でも、周南市議会の管事項でしょう。まともな議員さんの対応を望みます。)



 以上のことについて、あなたは、政策実行者として、市民に答える義務がある。
 なぜなら、市民にも、全体職員にも、まともに応えていないから。

 政府の、バカな節電策で、市民はダブルパンチではないのか。それは、あなたの責任じゃ、ないのか。政治家の前に一人の人間として、道義的な責任はないのか?

 広報か、周南市ネット通信で、早急に、応えて欲しい。
 




2022年参議院議員選挙を契機に、高市早苗議員を応援しよう(山谷えり子候補、山田宏候補など)

2022-06-22 19:34:55 | 時事・風俗・情況
 
 このたびに参議院選挙は、岸田文夫首相の、中間総括と言っていいと恩顧います。
 あまりひどいので、個人的に、総裁を辞任してもらいたいと思って、います。
 その件につきましては、別ブロブでアップ沿いたいと思っていますが、一日も早く、岸田文夫氏が辞任することが、日本国に有益であり、 まともな保守政治家として、高市早苗氏を中心とした、保守の再編成を望みます。
 尊敬できない政治家など、日本国には、必要ないのです。                                                              *****************************************************
このたび、山谷えり子候補の支援をしようとしたことに、ついて、以下のように説明していきます。
私のブログに読者の方は、どんな方たちか決めかねていますが、読み、考え、書くことを好まれる方々とは認識できます。
私は、50歳前からブログを始めました。
書くことの、楽しみは覚えましたが、書くことの厳しさには、いまだになかなかたどり付けません。すなわち、学生時代から冷めやらぬ、ある型の典型的なオヤジです。
 そうです。私は、学生当時から、大学がミッション系だったので、キリスト教関係のサークルに居ましたが、サークルの中では典型的なアジテーターと言われました(笑い)。
 とてもイデオローグ(理論的指導者)などという、偉いものではなかった訳です。
そこは、仲間内にも、組織、社会的、あるいは無意識の死を賭けた戦い(笑い)があっての分業であり、それなりに、アジテーターにも、存在意義があったと、今は、短い自分の残年数を数えつつ、思い返しています。
大衆化した、大学でも、バカは、バカなりに、正義感・倫理感の成長や、組織内での社会的な修行があったわけで、そこはあらゆる人たちと同じ道行きです。

最初に、ブログの質が良くない、というお断りをしているわけではありません。
このブログは、私にとっては、必要なライフラインであります。
学生時代、様々な出会いをし、共感し、意気投合し、やがて時間の流れで終結し、再会しても、どこか食い違う、気高い「観念の騎士」の成れの果てです。
残念なことに、私は、著述家ではないので、私のブログは、実のところ、その頃の友人たちを、多くターゲットにしています。
 そうは言っても、若い人とか、それ以外の方々が読んで、楽しんでいただければ、望外の幸せです。

 昨年の9月から、自分の疾病にかかる、二箇月にわたる検査入院で、私にとって重要な政治的事件に遭遇しました。
 当時、これは、第二の政治の季節だ、と自分で思いました。
 言うまでもなく、自民党の総裁選です。

白眉だったのは、候補者の高市早苗氏の演説です。
そのご、河野太郎の中国との癒着、野田聖子の偽善者ぶり、売国外務大臣岸田文夫の政治家としての無能、無個性が、次々に明らかにされていく中で、高市早苗氏の優秀さと、思慮の深さが、国民にも十分理解できました。
 長い人性で、学生時代の私の短い左翼体験を考えても、他人のアジ演説などに感動したことはありません。
 書籍とすれば、マルクスの、初期著作「経哲草稿」、「ドイツイデオロギー」などは別ですが。

大学に入学して、戦中派の典型であり、我々の父の世代、吉本隆明氏の著書を通じ、かつての同胞たちと、グローバリズムという理不尽なものに敗北した(形を変えて出現した、現在のグローバリズムに、私はまだ敗北したと思っていない。)明治期以降の日本国の歴史と、その苦闘、彼の戦後の原理的な思考、その自己に対する厳しい対処と努力には、感動したことは確かです。
 同世代として、百田尚樹の父祖に対する愛憎は、よく理解できます。
 彼が、通俗的な世の保守派とともに、ウクライナ問題でつまずいたとしてもです。

 しかしながら、吉本にも、いずれ、左翼が、すなわち形を替えたグローバリズムが、現実には国境を超えた金融資本が、世界規模で、特定のイデオロギーで世界支配、世界の経済支配を目指し、
個々の国民国家を席巻し、支配を貫徹するために、埴谷雄高ではないが、その死滅を目指しているという発想はありませんでした。
そのあたりの問題意識は、吉本の批判的継承者である、小浜逸郎氏などの著書に依ります。

今になって思えば、なぜ、私が、グローバリズムをあれだけ嫌悪するかということの原因がよくわかります。
欧米人は、ちょっと違いますが、中国人、韓国人には、他国の伝統や歴史に対する敬意がない。
これは、知性とか教養とかの問題ではない。
中国共産主義は、モンゴル、ウイグル、チベットでやったように、彼らは、平然と、他国の文化や伝統を踏みにじり、歴史を改ざんするだろう。
毛沢東に組織された、紅衛兵が、その尊敬する父祖を、民衆の前で、そのこどもたちに裁かせ、つるし上げ、私刑を行ったように、それが中国の国民性である。
それに言及しない、日本パヨクは、共産主義の味方かも知れないが、DS(アメリカの真の支配者といわれる多国籍金融資本家連合)と同様に人類の敵である。
観光地での、振る舞い、買い物でのふるまい、ホテルでの振る舞い、彼らの非常識な、あさましいふるまいをみていると、終いには、たとえ、小金持ちになっても、人間存在とはなんと哀しいものだろうという、感慨もわく。
日本国は、歴史ある、文化や伝統に誇りがあり、国民性として、温厚で、節義もある、まともな、国民国家なのだ。
それを侵すことは、なにびとにも許されない。
その、中国人、韓国人の異常行動も、集めれば、ブログのネタになるほどなるが、日本国を侵奪する、彼らの国を挙げての侵略と、組織的な暴挙になぜ、バカでお人よしの日本人は耐えているのかと思う。
中国、韓国からの侮辱にも、ヘラヘラ笑いの岸田と同様に、である。
岸田首相の場合は、例のODA利権のように、中国・韓国に、利権でもあるのかと、勘繰ってしまいます。
そして、なんと恐ろしい国家のそばで、私たちは暮らしているのかと、思う。

そのうち、当時の友人とも、いつの間にか、「思想」は語れなくなり、すなわち、当時、まだましと思えた、ロシア、トロツキー派の継承者、最終形態は、ユダヤ人DSグループたちによる、世界プロ独、窮民革命、永久革命などの欺瞞性に、バカらしくて、ついていけなくなったのです。
要は、今になって、革命など、一部の異常者を除き、誰も支持しない、ということです。

言い換えれば、温和な資本主義の道行きとして、各国民国家の、国家、政府の政治権力がまともであれば、国民は経済的に安定し、また、分配がある程度平等であれば、国民が苦しむ必要がない、ということです。
どうも、吉本隆明のいうとおり、1980年代「飢えずに食うだけの問題」は、日本国という、まともな資本主義の国民国家の繁栄の中で、とうに片付いていたのです。

この辺りから、パヨク(劣化したサヨク)は変質します。
自国に深刻な貧困がなくなり、貧困国の権力闘争革命の失敗により、自国産業すら振興できない、中国、朝鮮の貧困を、高度資本主義国日本国による収奪とすり替え、日本国は中国、朝鮮の収奪している、ODAだけでは足りない、時に応じ、謝罪せよ、漢江の奇跡に技術を無償提供せよ、バカな教条の羅列です。
 そのうえで、自国民を、差別者、収奪者と脅迫する。
それが、アメリカの、日本支配コード、マスコミ支配に忠実に沿ったものであり、太平洋戦争の勝者国に絶対逆らうな、理不尽な行為にも戦うな、身近に敵を作る、属国操縦の手口です。
政治家として、理念も、節操もない岸田文夫は、民主党バイデンの指示により、この売国行為を今後も繰り返すらしいが、それは、今後、別に扱います。

そこには、国民国家日本に対する、尊敬も、敬意もない、ひたすら、敗北者に対する、脅迫と、恫喝がある(勝者が、敗者を裁くなら、そもそも戦争犯罪など成り立たない筈である。)。
さすがに、国連の欺瞞性(勝者連合)には、古い世代は気付いているので、あんなものが、正義の具現などとは、誰も信じていないが。

 いまさら、バカな、パヨク戦士には、私たちはついていけない。
 これは、大多数国民の実感だと思われます。
 その認識が、現在では、より多くの大衆像を掬い上げた「大衆の原像」というものかも知れない、わけです。
 そんなものが、全世界規模で実現するはずはないので、各国民国家では、中野剛志氏のいうように、当面「富国強兵」を目指すしかない、国民の均質性が近い日本国家は、それが一番合理的で、それこそ、資本主義社会の世界史のあるロールモデルになれる、と思っています。
 反動、既成左翼は、敗戦後から、まともな国民の足を引っ張っており、彼らをバカサヨク、バカサヨクメディアとして、パヨクと蔑称するのは、当然のことです。
韓国、反日韓国勢力が、左翼を仮装し、社会、民主勢力、立憲を通じ、反日行為に腐心している。
最近、在日、中国覇権勢力、在日反日勢力と結びつき、国民国家日本国を食い物にする、立憲、共産、公明党、何より、自民党反動勢力、殊に、自民党宏池会が、わたしたち国民に立ちふさがる、真の敵であることは、議論を待ちません。

そこは、腐った戦後の「民主主義」体制に絶望した、私の個人的な考えです。

総裁選の、高市早苗氏の演説に戻ります。
当時の、高市氏には、それこそ、日本国民を第一の価値と考える、彼女の真情がきちんと語られていました。
それは、後知恵になりますが、私が描く、アメリカのナショナリスト(国民国家支持者。日本国よりもっと大変な状況でしょう。)トランプ氏の言葉にも、通底するものを感じました。祖国の、国民国家の肯定なしに、健全な政治的国家はないわけです。
 言葉に真情が乗せられない政治家に、人は感動し、動かされることはない、当然のことです。
当時、「個人的にも」身体に支障を抱え、様々に思い悩んでいた、私にも、彼女の言葉は、きちんと届いたと思われます。
案外、他の方々の著書を覗いても、たとえば、馬淵睦夫氏の、この演説に対する評価は高いものです。京都出身の彼の出自を考えれば、日本国の独自の伝統と文化の尊重がまず、前提となる。
この辺りは、田舎者の私も同様である。
日本国への、ナショナルな視点が欠落した、視点に何の価値があろうか。
そのあたりは、私の闘病記で触れました。

実際のところ、若いころは、私も、思い上がっており、政治など、おれに関係ない。「見るべきほどのものは見つ」と考え、恥ずかしながら、結婚するまで、国政選挙を含め、選挙というものにいったことはありませんでした。
 さすがに、結婚し、こどもを持つようになると、人並みに選挙に行くようになりましたが、しかし、私にとって、当時、公選挙が特におおきな意味はなかったところです。
 まだまだ、甘い時代だったのですね。
 しかし、無駄だと思っても、公選挙にはいかないと、まともな政治状況は変わらない、それが、その認識が、私の、長い青春の終わりでした。
 苦い認識ではありましたが。

 それまでは、いずれ、社会的矛盾・階級意識に覚醒した大衆たちが、世界同時革命、永続革命、大衆が目覚めるまで待つ、正義の騎士として待つ、などと漠然と考えていました。
しかし、そんなことは起こりもしなかった。
皆、虚妄で、詐欺だった。
古本屋で、トロツキー全集、左翼文献を叩き売ったとき、トロツキーはまだ売れる、と親父は言っていました。
知的な、迷妄に、まだ付き合う人間はいるのですね。バカな話だが。

百万単位(推計された死者の数を累計すれば容易に千万単位になる。数すら公式発表していないのだから。)で、民衆を虐殺した、ソビエト共産主義、中国共産主義、後進国の独裁者ポルポトなどの恥知らずを考えれば、何と甘い認識でした。
その理不尽、非人道性を、飽きずに支援する、日本国朝日新聞などの左翼メディア、このくだらない、日本パヨク(劣化した左翼よりもっとバカ。)の根拠のない、病的なロマン主義で、腐った共産主義が支えられていると、すれば、イデオロギーに媚びる人間存在とは、いかに卑しく劣った存在かと、思いませんか?
 その代わり、何が起こったか。
 世界規模の共産化です。
トロツキーなどの弟子が、グローバリズムを通じて、アメリカ民主党や、NATOなどの勢力を利用し、世界の分割統治を始めた。当面、国境を超える金融資本を通じてですが。
いつの間にか、優れ勝ったものによる、世界統治、世界プロ独(窮民どころか、いつも間にかすり替わった少数富裕者たちによる全世界規模での人民の分割統治を目指した、トロツキーのような革命家非人間の継承者)のような奴が顕在化してきた。
 彼らに、なめられ、屈服する前に、腐った共産主義の信奉者は、シン・ウルトラマンに出て来るメフィラス星人に笑われる素地はいくらもあるのです。
 思考停止して、優秀な人間にすべて任せなさい、と。
 人間がダメなら、もっと、宇宙人の方が、効率的ですよ、と。
 さすがに、庵野監督はよく理解している。
 悪魔の誘惑というやつですね。

 当時の高市早苗氏の演説を引用します。
「日本の国は、今を生きている私たちのものだけではありません。
長い歴史の中で、田畑を耕し、産業を興し、地域社会と伝統を育み、時には尊い命を懸けて美しい国土と家族を守って下さった祖先たちの国でもあります。そして、これから生まれて来る子供たちの国でもあります。
一時代をお借りしている私達には、偉大な祖先から受け継いだ精神文化と価値を守り抜き、「美しく、強く、成長する国を作り、次の世代に確かな未来を贈る責任があります。」
 実に平易に、直截に、私たちの、共同主観性を汲み上げていると思いませんか?
 「私は、究極の使命は、「国民の皆様の生命と財産」「領土・領海・領空・資源」「国家の主権と名誉」、を守る抜くことだと思います。」
「私は、「未来を拓く」ために、雇用と所得の拡大につながる「大胆な成長投資・危機管理投資」、「分厚い中間層を再構築する税制改正」「人材力の強化」と、「全世代の安心感の創出」に資する諸政策を、力強く実施します。」
ほら、当時とまったくぶれがないですね。
高市氏の力量がよくわかります。
私が、推薦する候補は、高市総裁選挙において、最初に推薦した方です。
家族問題、拉致問題にも大きな功績を残された方です。
このたびの、参議院選には、落としてはならない候補者が、幾人もおられます。
比例区の山田宏議員、山谷えり子議員、青山繁晴議員、片山さつき議員、岡山地方区の、小野田紀美議員、公選挙ですので、誰を推すかは、国民の自由です。
 いずれにせよ、総裁選以降、その業績(?)をみてきましたが、えせ保守、岸田文夫首相には、政治家の資質はないと思います。
 今後、高市早苗氏、安倍晋三氏の真の保守派を中心とした、国民国家日本の生命線を賭けた、自民党の、分割再編成を望みます。山谷候補も、活躍していただけると思っています。

 先の、親しくなった古本屋のオヤジと話をしましたが、彼は、高市氏などは認めないといっていました。
 やっぱり、左翼、団塊世代は、だめですね。
 言っても無駄だけど。


わが闘病記(広島大学病院に入院して)その4

2022-03-31 13:57:28 | 時事・風俗・情況
 泊りがけの通院から帰ってくると、テーブルの上に、ぱっとしない色の折鶴が、二つおいてある。
 どうしたんだと、妻に尋ねたら、うちの孫(6歳)が、「じじのために」、どうも、じじの病気の、快癒のため、保育園で、先生に教わり、教わり、とうとう、折り上げたそうだ。

 私は、生来の不器用で、幼稚園の工作にも、なかなか、ついていけなかった。
 やっこさんは折れたが、鶴はとうとう、最後まで折れなかった。
 皆に侮られただろうし、できの良いこどもとして、先生にかわいがられたこともない。
 ましては、他人のために、鶴を折るなど、生まれてから、したこともない。
 このたび、孫が、折ってくれた、鶴を見て、こどもを持って本当に良かった、と、心から思った。

 うちのうえの孫は、結構むつかしい男である。
 ジジイによく似ている。自分の気の向かないことは、決してやらない。
 それは、保育園の先生に、使そうされたことなのかもしれない。男児にとって、好きな先生は、やっぱり、特別であるから。
 しかし、じじが、一度も、実行できなかったことを、彼は、やすやすと、飛び越えた。
 また、他者に無償の施しができた、私から見れば、それは、偉大な達成である(じじバカと思う人は笑って欲しい。)。

 私には、彼に、施す、金も財産も、手間をかける残年数もあまりない。
 今後も、彼らは、易々と、私のできなかったことを、乗り越えていくかも知れない。

 私は偏屈かつ貧困なので、彼らに、大きなギフトはできなかった。
 しかし、後は、私の余生を使って、彼らが、悩まずにすむよう、日本国の環境整備に、努力しようと思う。
 バカじゃないの、と、うちの妻はいう。
 しかし、迂遠なところから、他者のために、私たちの社会のために闘うことを、私は心がけている。
 利口なやつは笑えばいい、しかし、それが、義を通す、偏屈ジジの生き方なのだ、というしかない。
*************************************
 病気の病状は生きているというのは、事実である。
 こちとらも生きているからである。
 生きているからには、不快も、あれば、小幸福もある。
健康というのも、そもそも、小幸福なのか、大幸福なのか、人によって、位置づけが違うかもしれない。
 しかし、それが、ありがたいことであることは、小だろうと大だろうと、当人にとって、それは確かである。

 昨年の、9月から、検査入院を経て、10月から通勤治療を受け、ほぼ、半年、経過した。
 私の病気の特性により、私は、定期的(隔週二週)で、化学療法を受け続けていた。
 もともと、頑健だったのか(?)、治療の副作用(副反応ではない。)には耐えられている。

 それは、自分で、この程度の副作用など、皆が耐えている程度に比べれば何ほどなのか、考えたからだ。
 ひと月半にわたった、検査入院の際に、いろいろな患者さんの実態を観たからだ。
 重度の患者さんも、数多く見た。当初、皆、放射線治療かと思ったが、ほとんどが、化学療法の患者さんだった。
 皆、厳しい、つらい、闘病人性だった。
 こんなことを、本来、縁なきものが、恣意的に、他人に、強いるものではない。
 ましては、一般論を、人に、押し付けるものでもない。

 個人的な事情を言えば、当初から、化学療法を通算10回くらい続けていた。
 その重みを、実感したのは、化学療法の反動と負担が、だんだん、私にとって、大きいものとなってきたからだ。
 私の病状は、今後、動脈、リンパ腺からの転移は、少ないだろうと言われていた。
 したがって、私の化学療法とは、化学療法が使える患部の進行の阻止と、縮小した患部を、関連部分臓器などと一緒に、摘出することを、第一義としている。
 しかし、患者さんとすれば、化学療法による、副作用には、習熟したが、決して愉快なものではない、このたびの、ように、急に、発熱すれば、やはり、困る。
 しかし、二週間に一回のペースの治療だが、それを外せば、ほぼ、発症前の生活の質を保てている。

 患者さんは保守的なものである。
 現状維持を好み、別の、療法の良さをすぐには理解できない。

 唯一、患者さんと治療者の両者で、治療法が合致する大きな理由といえば、生存残年数の問題になるだろう。
 ただし、術後の生存年数は、無手術と、手術後と、それほど差がない、ということだった(私の調べた範囲である。)。
 そうなれば、患者さんとすれば、逡巡するのである。
 私は、先の発症のときから、自分で自分の未来をいろいろシミュレートしてみた。
 所詮、それは、シミュレートでしかないが、考えるだけは考えた。
 今の私にとっては、残年数自体よりは、残年数の生活の質(いわゆるQOL)しか、関心を惹かれない。
 初回入院のとき、いろいろ考え、ひとまず、私の死後の世話はつけたので、実のところ、後は、お他人様のこと、と思っている。

 前に書いたように、私に先立って、うちの妻も大けがをした。
 その後、後遺症が残らず、私たちは安堵した。
 しかし、私たちが思うよりは、ひどいけがだったらしく、寒い時は、ことさら、調子が悪いらしく、予想できない、症状が出て来る。お気の毒なことである。
 そうなれば、自分がかわいい。
 まずは、自分が健康でなければ、どうしようもない、と思うのだ。
 なかなか、亭主の介護など、望めない。

 私の場合はちょっと違う。
 化学療法を外せば、ほぼ、私は、常人のように動ける。
 そうなれば、私が動くしかない。

 そのような経緯で、お互いの意見の決定的な亀裂は、お互いに避けたのだが、それ病棟の待合室で、夫婦のやり取りを聞いていると、患者さんの妻の言い分に、さすがにこっちが切れそうになる。
 きれいな夫婦愛など、みじんもない。妻は、露骨に、自己利害と自己都合を全面的に押し出す。
 今の段階で、争うのは嫌だろうから(立場の強弱は明らかなので)、そのうち、人目を愧じ、男は黙る。

 女は、ひいたら負けの個所では、人前だろうと何だろうと、決してひかない。
 結論として、看護師が、「あなたのためを思ってもことだから」、なだめるが、「しようがないわね、しっかりしなさいよ」と言外で語っているのは、ありありである。

 ということで、患者さんにも、経済的にも、親族的にも、また、病魔とも闘う、解決すべき事はいろいろあるのだ。

 激烈な、間断のない痛みというのは、判断というか、選択の余地を狭めるというのは確かかも知れない。
 その境遇でないことを幸せに思う。

 しかし、ひとたび、現在のそれなりに耐えきれる状態と、架空の救いのないような状態を、比較して考えたら、耐えきれる状況を選ぶのが、患者さんの本音だと思う。

 私は、日本人なので、勇気ある生存というようなものを信じない。
 「辛抱、我慢」という発想も、寄り添い難い。
 今さら、「苦痛は証だ」、という境遇に行きたくない。
 日々、体験し、思考することは、尊いけれども、それがいつまでも続くとも、思えない。

 それならばと、退嬰的な考えに、人として、行きそうである。
 それこそ、現状肯定と、大きな変更を好まない。
 意識的な、選択を回避しようとする。
 いくらもあることである。

 私はなすべきことはした、ような気がする。
 後は、世間がいう遺徳のようなもので、余裕があれば、正義の側に組する、仕事をしたいと思う。

 閑話休題、私が、バタバタしているうちに、ロシアと、ウクライナの戦争が開始し、炎上した。
 どうも、釈然としない。
 各々において、義も、利害も、思惑も在るだろう。
 しかし、忘れてはならない。
 シモーヌ・ヴェイユが、戦争について、「戦争の遂行者(指導者)は、まず、老人、こども、婦人などの社会的弱者を、敵の前に差し出す」、と言あげたことである。この言葉は、吉本隆明に教わった。
 彼女は、彼女の思想的態度として、いつでも、紛争のただなかに、自分の身体と、思想をおく、用意はあっただろう。
 しかし、残ったのは、この、卓越した、認識と言葉である。
 自国での内戦は、決して行ってはならない、行われるように立ち回ってもならない。
 まさに、自国民を、戦争の道具にしてはならない。
 それは、政治家として恥知らずな所業である。
 今のところ、私たちに、視えて来るのはそれだけである。
 紛争が不可避である以上、抑止力としての、核武装、抑止力としての、自前の国土防衛軍を持つこと、国民国家としての日本国の富国強兵を図り、他国の紛争に安易に巻き込まれないこと、問題はそれに尽きている。
 うちの、孫たちの未来を守るために、まずそれを、実現しよう。
 大事な孫どもの、世代を、どうにかしてあげたい、それは、ジジイの切なる願いである。
 いつもながら、とんでもない結論だが。


「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」のバカバカしさ(学齢期ワクチン接種という愚挙)緊急提言

2022-03-03 06:36:44 | 時事・風俗・情況

周南市が、「こども部」を作った以上、私は、虐待問題、貧困問題を本気で取り組むことと思っていた。
県が、貧困所帯に対する食材提供を、貧困所帯に対する支援と、決して認めず、期限切れ食材の有効活用とすり替える以上、周南市として、勇気をもって、貧困所帯に対する支援体制を作り上げると思ったのだ。
しかし、それは、あてが外れた。
標記写真は、周南市鹿野地区の、社会福祉法人山口県共同募金会の、貧困家庭(決して認めない)への、ボランティア支援事業で、啓発のため、一般市民に配布されたものである。
デフレ、コロナの併存、日本政府の外国人労働者の恣意的な導入のもとで、日本国の中小企業労働者は、貧困にあえぎ、フルタイムの仕事どころか、自己のこどもに対する食事も十分に用意できない。貧困の中で、虐待が起きるのも、当然の帰結である。
啓発ビラはいただいて、カンパもしたが、ボランティアで済ませていいのかは大きな問題である。
少なくとも、周南市は、重点政策として、こども援護を目標にした。
貧困、欠食児童生徒に対し、市直営(市の直接委託契約で)で、責任をもって、給食事業を始めるべきである。
始める場所は、中学校、公民館、どこでも可能である。
地元団体との連携は重要だが、適正な衛生管理、責任の明確化、途切れなく続く、食事供給は、きちんと管理されなくてはならない。
なるほど、周南市は労働者の貧困について直接の責任はないかもしれない。
しかし、現在では、飢えたこどもに対する、間断のない給食の給付が、こども部の創設目標のひとつであり、まず、喫緊の課題ではないのか?
元実務者とすれば、こどもの医療費無料など、バカな政策である。
頭の悪い政治家が、無考えに試みる、安い、ポピュリズム(人気取り)政策である。
山口県の給付以上に単市の給付上乗せなど、愚の骨頂である。
************************************************
 先に、私立大学、徳山大学を公立化するため、いかに、バカバカしい、騒動が起こったか、書いてきた。
 それは、ショクドクトリン(緊急政治的事件の際、隠した重大な政治的案件が決められること)としてつかわれた、過剰なコロナ騒動の中で、市民に対する説明、デメリットの説明(市民にとってメリットはないので)すらなしで、利権を同様にする議会、建設業者、考えのない地元商工者の、圧倒的な支持のもとに、強行された。
 それは、事実であり、仕方がない。
 市長方針に対する反対勢力もなかったし、反対しなかった市民は、そのつけを自分たちで払うしかない。
 なぜ、問題だらけなのかは、別途、「「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」のバカバカしさ(徳大公立化の愚挙)」に書いたので書かない。
 しかし、あれだけ、市民アンケートが好きだった、周南市長、藤井律子市長が、旗色が悪いと、自己の利害を損なう、危険な手法(この場合、公立化アンケート)は、決して取らないことを、周南市民たちは、よく覚えていればよい、と思う。

 私は、行政職だったので、政治家とは見解が違う。
 ポピュリズム政治の中で、藤井市長は、やりたい放題をやっていた。
 いくらもあるが、今回は、「こども部」の設置について、記していきたい。
 足りない部分は、後日、記す。

 もともと、「こども関係の部」と総括すれば、福祉と教育と大まかに二つにわかれる。
 当然、双方とも重要な仕事である。
 しかし、さすがに、教育の実情(生徒・児童を直接教育場面で、監護・指導すること)は、いくら出しゃばりの市長でも、直接、口をはさむことはできない。それは、当然のことである。
 そうなれば、市当局とすれば、学校の、周囲環境の維持・整備、学校を離れたこどもたちの、社会的生活の支援・監護、必要があれば福祉支援を目指すところしかない。
 それなりに、限定的な、仕事である。
 しかし、場合によっては、社会的な存在でもある、こどもたちの、権利擁護、安心・安全を確保し、監護する重要な仕事である。

 このたび、文部科学省は、政府が強行する、学齢期から、ワクチン接種の義務化を、任意設置で実施する、ガイドラインを全国に通知した。
 同時に、ワクチンを大量発送したわけである。
 自己責任を前提で行われる、個々のワクチン接種を個々の親の判断にゆだねるという指導である。
 本来、ワクチン接種では、副作用は生じない。生じないのであるから。副作用が出たら、副反応と呼ばれる。救済はない。自分のリスク意識と判断で、ということになる。

 試しに、先に二回行われた、ワクチン接種の、実施資料で、厚生省職員のワクチン接種率(2回目までである。)が10%、国会議員が、30%弱、驚くべき達成率であった。
 どうも、ワクチン未接種は接種は危険であると、NHKその他のメディアがあおった80%から90%の国民接種達成率から比較して、官僚・政治家は、その安全性を疑い、自分は決して打たないと、その本音を隠していたわけである。
 60歳以降の、免疫低下の世代にインフル同様に犠牲者が出るのは、残念であるとしても、ウイルス被害で、ほぼ毎年2万人超の死者の数に比べ、著しい低下である。
 おまけに、PCR検査を経た人間が死ねば、皆、死因はコロナ死と判定されるという、とんでもない話だ。

 現在、壮年世代の、若い世代に死者が出ているのは、どうも、ワクチン接種の副作用(断じて副反応ではない。)と取りざたされているところである。
 私も、そんなものじゃないかと思っている。

 しかしながら、こどもに、コロナを原因にした死者はほぼいない。
 なぜ、犠牲者もいない世代に、ワクチン接種を強行するのか?

 藤井律子さん、昔の話をしよう。
 あなたの、夫君、藤井真氏とあなたは、大企業の労働者ではなく、また、変革を装うサヨク共産党の支持者でなく、青年団という、田舎に居住する中小企業労働者のボランティアを進める団体の出身だった。
 大企業で働き、会社の方針によって、地区ボランティアとしていやいや働くのではなく、また、政治主義の共産党オルグに取り込まれ、腐った政治運動をするのでなく(お人よしの、私の兄は党員になった。今は知らないが。)、自己の余暇と、楽しみの一部を、地域のため、地区住民に対して、返してあげたい、と、当時思っていたのではないか。

 青年団は、地縁・血縁に根差した団体だったので、名水を使ったそうめん流しや地元子供会と一緒にやった行事などに、はんぱに参加した私のような人間ですら、いろいろ思い出がある。
 先にも書いたが、青年団の心ある保育士さんたちと行った、「ストマイつんぼ」などの、薬害啓発映画にも行った。そして、憤慨した。
 後年、聴覚障害が、いかに厳しい障害であるか、仕事を通して知った。
 幼く発症した、聴覚障害は、親子の人間関係、信頼関係育成すら阻害する、重篤な障害なのだ。
 藤井律子さん、あなたが目指した、医療従事者としての職責の、良心にも、やりがいにも、こんな団体の、地域活動は、充分に益のあったはずだ。

 私は、あなたの夫君が、青年団活動を通じ、市議会議員として、政治的に利用しつつ、リアルポリティシャンとして、組織を利用してのし上がったとは思わない。
それなりに、学歴に負けない自負心も、政治家としての良心もあったに違いない。

 夫君、没後、衣鉢を継いで、政治家になったとしても、市内の周辺地出身であり、看護師というあなたの出身母体を、今、軽んじているとは信じたくない。
 私たちは、皆、数多い中小企業労働者の子弟である。
 相対的安定期の、70年代後半に、親に無理をさせて、高等教育をうけさせてもらった。
 私たちは、特権的な大企業労働者でなく、政治的反動団体(日本共産党書記長は日中友好協会の副会長ではないか。)にも騙されず、中小企業労働者として、その良心、地縁・血縁の倫理観によって、生育され、自己形成したわけではないか。
 大多数大衆としての、良心と、大衆の利害のために生きようとする覚悟は、私たちの社会生活を通じて、実現してきた筈だ。
 私たちの究極の目標は決して、自己利害でも個人主義ではない。
 この地で職を得て、少なくとも、私は、そう振舞い、思考してきた。

 徳山大学公営化はもう仕方がない。
 周南市の未来に禍根を残す、世紀の愚策だが、利益の同一と、目的を合一にする、議会、建設業者、無考えの商工者の出来合いレースで仕方がない。
 今後、公立化すれば、答申のとおり、公試験に基づき、地元市民の子弟は、ほぼ、入学枠はなくなるだろうが、市民が、是認するなら仕方がない。未練だが、再度、書いてしまった。

 しかし、話は変わる。
 なぜ、国レベルで、学齢期児童のワクチン接種は、効果があるとは、疑わしい、と、指示があったのに、周南市も、学齢期接種を強行するのか。
それとも、全国でやっていることだから、うちも、やればいい、とでも思うのだろうか。
 私の倫理コードに照らしてみれば、私が社会生活を務めている間は、当局から強いられれば、ワクチン接種はやむを得ない、と思っていた。
所詮、私の個人の命である。
 直接介護にあたる医療従事者、国土・国民の安心安全を守る自衛隊員ですら、ワクチン接種が義務化されている現実である。
 まだ、パンデミックの実態がわからない段階で、窓口公務員の私が、市民のリスクを排し、職責を貫徹するためなら、信念を曲げ、ワクチン接種をすることも止むを得ない、と思った。
 後日、パンデミックは大嘘が判明し、在職中に、やらずに済んだのは、僥倖であった。

 ワクチン薬禍の中で、犠牲になった、医療従事者、自衛隊員などに、哀悼と、お礼の言葉を申し上げる。
 現在、強行される、安全性が極めて疑わしい、第三次接種など、現在、基礎疾患のある私は、接種する気持ちなど全くない。
 ウイルスの世界的な、伝播状況、日本国のり患状況、あるいはワクチン接種の副作用状況、勘案して、まったく、メリットがないという判断をしている。

 しかし、学齢期以降のこどもは違う。
 彼等には、自己決定権がない。
 しっかりしない、親が、望めば、今後、どんな健康被害が出るかもわからない。
 大多数の親たちは、忙しいので、情報収集もできない。
 今は、そう、中小企業に勤めるどころか、フルタイムの職員もおぼつかない様な、不安定な状況で、我が家の家族の命をつないでいる。
 そんな方々に、自己決定を強いるのは、間違っている。
 公言しているように、「こどもたちの未来のために死んでいくのは、われわれ老人の役目ではないのか」、と、私は、マジで、思っている。
 要は、あなたとか、私が、未来ある子供たちのために、先に死ぬ方が、人間の倫理として、間違っていない、そちらの方が価値がある、ということです。
 そうなれば、こども支援部を作る前に、こどもの生命、安心・安全、健やかな発達を支援するように、全力を尽くさなくてはならない。
 そのためには、政府の政治的な思惑を排し、まともな、文部科学省の官僚の意見を、誠実に、取り入れなくてはならない。
 圧力はかかるだろうな、しかし、それが、政治的な責任であるということだ。
 名もなき、貧しく、正しいことを行う、「青年団」の理念だ。

 この際、やめてしまいましょうよ。
 支障をきたした、彼らが、成長し、思春期にでも至ったら、私は、彼らの、目が、恥ずかしくて見れない。

 藤井律子さん、今後、ワクチン接種を引き金に、ストマイつんぼのような、薬害による重篤障害、運が悪くて、死亡事故でも出たらどうするんですか?
 あれは、国のやることだから、市は無罪だというのですか?
 どうも、あなたも、学齢期に当たる、孫がいるらしい。
 あなたの、孫も、ワクチン接種を受けるのですか?
 そもそも、市の執行部、議会議員のワクチン接種の実績の報告はされているのか。
 人づてに聞くと、同調圧力に耐えきれず、平の職員は、おしなべて、ワクチン接種を受けたらしいが、しかし、市幹部、議会職員が、国レベルの実施率であれば、それは、市民に対する背信行為ですよ。

 最後の倫理規定として、残年数も見えた、今の立場で、私は、自分に、国民国家日本国の国民としての倫理を問う。
 もし、自分の社会的義務と、上位からの命令の相克があれば、私は、自分の道徳律に従う。

 市職員の皆さん、それくらいなことは、人として考える義務はありますよ。
 私たちは出世するために、あるいは豊かな生活をするために公務員になったわけではない。
 私の場合は、正義を実現するためになったのですが。

 今年の、公務はじめ式に、藤井市長は、着物で出席されたそうだ。
 ご自身は、私も、まだまだ「いけてるわ」と思われたのかも知れない。
 私には、他人の気持ちはわからない。
 しかし、私には、あなたの姿は、さる廻しのサルのように思えた。
 あなたは、徳大公立化推進勢力の、利権代表の走狗のようになっているのだな、としか、言い様がない。
 それで、幸せなら、結構である。
 もし、来年、まだ、そこに、いらっしゃるなら、議場で、三番叟でも、踊られたらいい。

 しかし、お互いに、残年数は少ない身である。私の場合は、ブログで挙げたとおりである。
 今後とも、周南市の、社会的弱者のために戦いましょうよ。