画伯は、野草を描くのも好きなようで、左手は、素描「つゆ草」(水を張ったコップに入れているだけで成長します。)、右側は、溝蕎麦(溝蕎麦:ミゾソバ:油絵)二つとも、田んぼの畔に生えるような野草です。画伯は、こんな平凡なしかし自立した花が好きだったのでしょう。マチエールは、おなじみの、黒と茶の二重だと思われます。
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この五月末、10年ぶりくらいに、長門市の香月泰男美術館に行きました。
その内容については、再度、稿を改めたいと思います。
画伯の主な画業は、シベリアシリーズとして、山口県立博物館に遺贈され、ここは、彼が愛した郷里(大津郡三隅村:現在は長門市三隅)に遺族の希望で作られた、公立の美術館です。
田舎にある美術館は、展望台からの借景を含め、田植えどきの緑が本当に美しい。
しかしながら、外壁に、シベリアシリーズのモチーフ(ラーゲリに運ばれる兵士の貌の群像)がデザインされ、うちの妻は、かつて、美術館に入るのを拒否した。当然、私には異論があった。
シベリアシリーズは、山口県立美術館に遺贈されてここにはないと、理を説いても伝わらない。私だけで行くこととした。
観覧を終わって、絵葉書を選んでいると、おばちゃんたちが、なだれ込んできた。
しかし、いわゆる、女性団体の猛々しさも、過度のけたたましさもない。
平日なので、忙しい人たちではないのだろう。
窓口とのやり取りで、香月画伯の教え子の団体であることが判明した。
画伯はシベリアからの復員後、1947(昭和22年)下関高等女学校に復籍し、翌年深川高等女学校に赴任しているので、憶測すれば、当時の彼女たちの推定年齢は15歳として、現在、サバ読みして、85歳くらいである。
活力は不断にあるので、仲間たちの車いすを、ちゃっちゃと、手早く用意する。
皆おしゃれで、元気がいい。
久しぶりの、郷里での会合なのだろう。
香月画伯はハンサムだったので、当時、美術教師として、大人気であったろう。
彼女たちの内面では、あこがれの君だったかもしれない。
いわゆる、新制高校前の、お嬢様たちのグループである。
コロナ性うつ病の私とすれば、彼女たちは、うらやましい限りである。
彼女たちは、残年数を数える努力などしていないかも知れない。
「いいなあ」、と心底思った。
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今回のブログは、スーパーの、一部レジババアとの、神経戦を扱います。
最初に、よいおばあさんたちとの出会いを書けたので、うれしく思います。
教養ある、したがって自省心があり、自己の感情に抑制のきく、おしゃれなおばあさん(きわめて優良に人間的な)女性たちを、私はとても好きです。
若い娘も、昔ほど好きではないので、若くても、あたまの悪い、傲慢な彼女たちにも、あまり興味がなくなりました。
それこそ、ロス・マクドナルド(邦訳:魔のプール)の、リュー・アーチャーではないですが、年を取れば、年齢の近い女性に惹かれるんです。
私の男としての業の故でしょうか。
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昨年三月末に完全退職(?)して以来、晴れてプータローの環境となった。
嬉しいことに、意に反する、生活のための苦闘が、当面ないので(要は贅沢さえしなければどうにかやっていけるということだ。)、それは、小幸福である。
ユーチューブ動画などを覗くと、女性により、年金・遺族年金などで足りず、アルバイト、投稿の放映料(報奨金)(?)を足しに、かつかつやっているという、投稿がいくつもある。
生活費に補填するため、止むを得ず、ユーチューバー(投稿者)に転身したという。
彼女たちが扱うのは、こちとらも周知の、平凡で少ない種類の、決して上質でもない食材ではあるが、長年の家事スキルと教養で、手際よく夕食を作り上げる。
どうもその光景は、意味もなく反復される日常生活のように、視ているものを、沈静化させるような効果があり、こんなことでも、ひとは癒されるのかと、私には興味深いところでもある。
その過程で、彼女たちの個食の原因、離別、死別、夫婦、家族間のトラブルなり、彼女の抱える後悔や、屈託、ルサンチマン(怨念)などが、問わず語りで説明されていくわけである。
こんな女性たちの生き方もある。
多種多様を誇っているわけではない。生きるために、生活のために苦闘している。
一方、男による、投稿は、身につまされ、なまなましく、慰藉にもなりにくいところがある。
ときに、人によっては、男のきびしい状況をうれしがる人がいれば別だが、同性の私がみていて、非常にきつい場合もある。
本人がどう思っているかは別にして、男の孤独と孤立は、奈落のように、際限がないような気がすることもある。
その意味で、私の、ブログを読んでいただく人には、改めてお礼を申し上げなくてはならない。
また、ブログの更新をしばらく怠っていることにも、お詫び申し上げます。
「一遍くらいわらってみなさいよ」、妻によく言われることである。
確かにそうだ、前向きな男として、苦しい時は笑って見せればいい、しかし、笑えない。
ひとのせいにするわけではないが、私見とすれば、私の慢性うつの常態は、これは、どうも、コロナファシズムに因することだ。
最近、日々、起きるたびに、毎日のルーティンワークに、イライラする。
友人の妻が、「うちの夫は一日中テレビの前でじっとしている」という。彼女にとってそれが、とても嫌なのだ、おそらく。
彼の気持ちはよくわかる。
しかし、妻の気持ちはもっとよくわかる(という気がする。)。
再度、しかし、皆がそんな、思いやりある妻と、恵まれた環境にいるわけでない。
一般的に、男どもは、生活のために苦闘しているし、家族の中で、その役割を懸命に果たそうとはしている。
おれが食わせてやっているという、前提も、主張ももう駄目なのだ。
しかし、男としてのその努力は、常に足りない。
自分が思うほど他者は評価しないし、寛容ではない。
事情があって、かつて、私も、五年間くらい自炊したことがある。
料理本も、料理ネット放送もあまり役に立たない。
参考になったのは、かつて観た、妻の料理手順だけである。
自分でやってみて身についた。
もちろん、一流を目指さないからである。
教養というものは、こういうものだと、素直に思った。
田舎ならではの事情で、うちは、結婚は早かったし、妻が理系で、フルタイムで忙しい仕事はしていたが、こどもたちの自立が早かったので、夫婦二人だけの生活は結構長い。
当時、近所のスーパーなどへの買いものは、妻の仕事もあって私がほとんど行っていた。
それこそ、パリでの貧困時代のヘミングウェイがいう、自分はセーヌ左岸第一のポアロねぎの目利きである、ではないが(アリス・B・トクラス自伝)、JA下松売店の葉物野菜の目利きは私に任せて欲しい(笑い)。
しかし、合理的に買い物すること(すなわち当面不必要なものを決して買わないこと)には、多大な時間と努力を要した。
要は、家族で食するおかずの構想力と、計画性、不時の必要、その応用ができないものは、買い物をすべきではなかったのだ。
それは、今でもそう思う。
閑話休題、私は、普段、市内二箇所の、アルクというスーパーを利用する。
なぜ、利用するかについては、いろいろ理由があるが、通常、それ以外に、行くことはない。
うちの近所には、イーオングループというスーパーがある。
店舗の場所によって、施設に発電パネルを設置する、あそこである。
そこには決して行かない。
中国系の商品が多く、自社系列の商品しか置いていない、からである。
その徹底は見事なものだ。
しかし、客に、商品選択の自由をあたえない、というのは、商人として、見下げはてた行為である。
私が行くアルクというスーパーは、へきすう地(失礼)、山間等、周辺地に、サンマートという、小規模スーパーを展開している。
かつて、山登りをしていた時に、たまたま、そこに立ち寄ったら、アルクとまったく同様な商品を、その目玉商品をまったく同様な価格で販売している。
商人が、どのような商品を、どのような価格で売るかは、勝手である。
しかし、その地区に在住する、経済的弱者、すなわち、老人たち、あるいは運転免許を持たぬものにとって、どれだけ、この商店施設が有益であるかは、よく理解できた。ここは、へきすう地のライフラインなのだ。
スーパーの地域密着型というけれども、その実現はむつかしい。
採算の採れない地区では、移動販売車を派遣した方が、はるかに合理的である。
このスーパー展開は、これは私企業として、善の仕事である。
どれだけの人間が恩恵を受けているか、いわゆる、不自由な自己の、選択の自由を拡大し、その恩恵を受けているかは、計り知れない。
閑話休題、私は、中央部にあるアルクと、少し、離れたところにある、別支店と、交互におとづれる。
それぞれ、私にとってメリットがある。
一方の駐車場が、売り場にやや近い。利用料無料のキャッシュディスペンサーがある。コピーサービスが使い易い。商品種類が多い。様々な理由がある。
なかんずく、キャッシュディスペンサーについては、地元の性悪の地銀山口銀行が、手数料無料の機械を次々廃止してしまった。したがって、当該機械の存在は、今では、この地区で、非常に貴重なものである。
また、二店あれば、客としても商品価格も比較しやすい。
顧客にとって非常に合理的なのだ。
しかし、片方の店舗(生野屋という別支店)については、従前(かれこれ10年くらい前から)何度も嫌な思いをしている。
要は、二店のレジカウンターサービスのおばちゃんの顧客対応の差が厳としてあるのだ。
中央店の、レジカウンターの対応は、とても良い。親切で、人による配慮を試みる。
どちらの店舗も、スタッフは「笑顔で応対」という、ネームプレートを下げている。
中央店で、今まで、嫌な思いをしたことはあまりない。
いらっしゃいませ、という言葉を欠かされたこともない。
世の中にはいろいろな人間がいるもので、中央店で歌うようにレジを打つ(おばちゃん)を私は知っている。それが、彼女の天職なのか、愉しいのだろうな、とこちらも想像する。
生野屋の店舗にも、客に対し丁寧な扱いを好む、レジのおばちゃんを何人も知っている。
要は、あらゆる窓口において、私たち日本人は、人間的な付き合いを求める。
そして、どうもそれは、日本人だけではないと思われる。
英語のイディオムに、「クイックバック・セールスマン」という用法があるという。
契約(販売)がおわりしだい、無駄話もせずに逃走する合理的思考セールスマンは、嫌われ、次がないという。
西欧も同様に、商売に、人間的な付き合いを重んじる。
ロシアは知らない、しかし、共産主義国家、中国では、いかにもありそうな話ではないか。自分以外はすべて敵という、国家では、こんな話はいくらもあるだろう。
あの、お笑い、北京オリンピックをみていれば、思い上がった中国人の利己主義と、他国民に対する、理由のない優越と反感が、隙さえあれば、ずるを決め込むその国民性が、私たちによく理解できたではないか。
中国は、異質な国家である。
要は、言葉を惜しみ、愛想(?)すらもないようなサービスに、本来、日本人は慣れていないのだ。
「思いやりと察し」という言葉は、そのものの発露であり、画一性をすべてに押し付けるグローバリズムに正反対の、日本国の誇るべき伝統文化ではないか。
コロナ下で、常時不快の状態で、口数も惜しむようなじじいにも、そのレジ対応の良さは伝わる。
何度もいうが、マスクの常時着用で、被害者意識と伝わらない思いに、苦り切った親父にも、きちんと伝わるのだ。
私は、晩年の仕事場で、窓口を担当したが、来客者に対し、常時、いらっしゃいませ、くらいは言った。
サービス業で、至極当たり前のことである。
しかし、コロナ下で、日本国民のこの良習がどんどん失われる。
人を見ればコロナと思えという、相互不信と、いわれのない、他人に対する偏見や敵意は、悪意と、利己主義の容易な温床となる。
マスク越しに、くぐもった声で、プレート越しにやり取りをしていると、話が伝わらず、それに対する、スタッフの配慮がないと、終いには、我慢できず、客が切れる。
片一方の、アルク生野屋店には、それが欠落している。
あるとき、最初から一言も言わない、レジのおばさんに、とうとう私は切れてしまった。
「なぜ、いらしゃいませ、と言わないのか」、と注意した。
そのババアは、「ちゃんと言った」と言い張り、私を質の悪いクレイマーをみるように、にらみつけた。
「客に、聞こえなかったら、何の意味もないだろうが」と、私は言ったが、ババアは引き下がらない。
仕方がないので、「聞こえなかったら、何度も注意するよ」、と、その場を収め、引き下がった。
そのババアは、しばらく、私の顔を憎々しげに見送った。
なかなか、ガッツのある、ババアである。
私は夫婦げんかで負けたことはないと、自慢しそうな女である。
お前の亭主の貌が見たい、こちらも捨て台詞でも言いたいような雰囲気である。
次に、行った時も常習者のほかのババアが、まったく、同じことを繰り返したので、止むを得ず、まったく、同じ注意をした。
なかなか、彼らは、目の前で行われるショーをみて、教訓に学ぶとか、客の意見を職場でフィードバックするつもりはないらしい。
そうなれば、次は、精神消耗戦である。
また、別の日に、レジに並んでも、同じババアが何も言わないので、「あいさつ!」というと、しぶしぶ、「いらっしゃいませ」と言った。
「よし!」と褒めてやった。
まさしく、ポンチ画である。
もう一人、以前から、質の悪い窓口がいたので、「私は、アルクの中央店でこんなあしらいを受けたことはない」、と言ったら、「うちはそんな悪い対応はありません」と居直る。
さがった方が負けである。
こんな女の生き方もある。
仕方がないので、このまま、今後は、レジの悪いおばさんを選んで、百年戦争を繰り返そうと、思っていた。
現場のまずい対応のつけを、直ちに上司に苦情を言うのは、本来、私は嫌いである。
しかし、あるとき、繁忙時の際に、レジに立つ、男の店員に出会った。
この男は、パートタイムではないだろう、しかし、最初から最後まで、見事に何も言わない、ひょっとしたら、これが、窓口主任かも知れない。
ようやく、ことの一件が、腑に落ちた。
こりゃダメだ、と思った。
この腐った男が、傘下のおばはんに注意できるはずはない。
逆に、対応のいいおばさんは、自己の良い資質と自分個人の人間性と、経験則で、愚かな正社員主任のそのうえを、モラルの向上を実現していたのだ。
私は、自分の仕事に手を抜く人間は、大嫌いである。
自分次第で、どうでも解決できることについて、改善の努力をしない人間は、心底クズだと思う。
ちょっと前の話になるが、橋爪大三郎が、中国にゼミ旅行に行った際、中国のエレベータガールは、勤務中に、機械の操作もせずに、ゲーム機を使いまくり遊んでいるという。それを指摘すれば、逆上する。
どうも、つまらない、権力者とコネがあるのだ。
イデオロギーというものは、そこまで、人間を退廃し、堕落させる。
おなじ給料をもらい、参加する組織の中で、努力する人間と、努力をしない人間を同等に扱うのは、共産主義と同様である。
どうも、世の中には矯正できない人間はいくらもいるということである。
他店できちんと対応しているのに、自己店で改革できないのは、その店のモラルと、やる気のなさの表れである。
私は、買い物客として、経営店舗に侮られるつもりはない。
私が、買い物に来るたび、なぜ、不快な思いをしなければならない。
それこそ生きているだけで、私たち大衆の大多数は、不快な思いをし、それに耐えながら生きぬいているというのに。
どうも、これは、政府のコロナ対策の不備が、遠因なのは確かだろう。
しかし、私は、10年以上、窓口のババアの理不尽に耐えてきた。
自分本位で考え、老人などの弱者をあなどり、人間としての親切心も配慮にもかけ、言葉も尽くさない無礼に耐えてきた、弱者のため注意しようとも思った。
今更、引き下がるつもりはない。
善処を要求する。
なぜ、現場が、社是のように現場が対応しない。
「笑顔で対応」その通りではないか。
次に、アルク中央店、アルク生野屋店に共通する悪癖がある。
場内放送が不適切ということだ。
「○○主任、〇番に」、場内呼び出しをそこでやめる。
これは、良くない、客の方が、私たちも、こんなに粗略に扱われているのか、とおもう。
丁寧語がなぜ使えない。どれだけ、時間がかかる。
仕事上の対等なチームで、粗略な言葉のやり取りは、必ず、人間関係に悪い結果をもたらす。
是非、改めるべきだ。
せっかく、良いスーパーに立ち寄っても、悪い印象など抱くのは、お互いに損失である。
というように、私の怒りと、日々の戦いは、今日も続く。
コロナという、悪状況は、悪循環を何度も繰り返す。
岸田首相、ワクチンが医療事故を繰り返すとなぜ言えない。
小学生になぜ、医療事故が起きる。ワクチン接種から始まった以上、原因はワクチンに決まっているではないか。
いい加減、あなたの優柔不断で、アメリカ、中国、韓国など、他国民随順、国民不在の政策に飽いたが、最期に、岸田よいい加減にしろ、おれはお前を決して許さないという、結論となる。
閑話休題、アルク両店は、現場の改善を行って欲しい。
現場の自浄努力を期待する。
私は、イーオングループに行くつもりはない。在日経済人の推奨する、ペイペイを使う気もまったくない。
地域に貢献する、企業を支援したい。