天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「国民の安心と安全」を守るのは政府ではなかったのか(私たちは中共政府及び中共民の奴隷なのか)?

2020-03-11 23:02:53 | エッセイ
 
 私たちは、日常の中では、一人の「生活者」としてあるしかない。
 すなわち、「生活の幅は政治の幅ほど狭くない」のである。
 日々、私たちはその生活のために、自分に仮託された、その社会的な、家族的な役割を果たしていくのがいっぱい、いっぱいである。
人は、それぞれ、関係に強いられたものか、自己に強いられたものか、選べなかった場所の中で、日々のために、精一杯苦闘するしかないものである。

 そうであれば、私が、国家の中の一人とすればどうなるだろうか。
 私は、国民国家日本国のうちのただの一人であり、頼りにするべき国民国家がどうもあてにならず、他国に媚び、無考えであり、わが国が近代国家になって以来の営々と築いた国富を、差し出すものであれば(いわば自民党の多数が目指すグロ-バル政策を信奉・実行するのであれば)、私の命運は一体どうなるのだろうか。
 他の、同胞大衆と同様に、他国政府、他国民に侮られ、小突かれ、下僕のように扱われるしかないものである。
 これは、いやも応もなく、弱小国家の、大多数庶民の、古代からの運命である。

 それが証拠に、わが首班政府代表は、某強国の大統領に「あれは俺に媚びるばかりだ」と言われているし、派遣国家中共政府に至っては、あれは、どうも、非力な属国に対する対応である。バカな話である。

 明治期に、独力で、近代国家になる道を選んだ、誇りある国民国家はどこへ行ったのか?

 私たちは、是非、明治期のように国民が奮起するものとして、孫子(まごこ)のために、他国の食い物にならないように、危機意識をもって、まずは、富国強兵をめざして、そのあとで、気高い文化国家を目指すべきであろう。

 
 閑話休題、私もブログをやっている以上、どうも、普通の生活者以上のものを、自己に仮託する。
 その理由は、すなわち、今は、多少余力があるので、生活だけで、いっぱい、いっぱいの今では連絡も取れない元同胞たちのために、自己の余力と余生を、大多数国民大衆の利害や正しい義の実現のためにささげたいと思っている、からである。
 他人には、「余計なことである」と、言われるかもしれないが、まったくそのとおりである。

 私は、政治の世代と言われた、70年の半ばに学生時代を送り、その後は、自分の生活のために苦闘しつつ、馬齢を重ねたばかりである。
 しかしながら、今、当時の若者たちのその主張の当否は棚上げにしても、敵対した当時の日本国の政治の指導者や、政府当事者は、もう少し賢かったか、まだ人柄がよかったか(国民の実態を知りその立場を思考した。)ように思われてならない。

 どうも、利権擁護のためなのか(?) 世襲にならざるを得ない政治家は、あほボン(関西でいうダメな後継者)に代替わりするしかなかったか。
そんな、印象批評に何の意味もないよ、と言われるかもしれないが、私の個人的な感想でいえば、90年代以降、政治家はひたすら馬鹿になり、人間性も下劣になってしまった、ように思われてならない。
 なぜ、これほど、日本国の政治家が、馬鹿で、無能で、卑しくなったのかと思っても、それに比較しても、国民の方が知的に上昇し、賢くなったとも思えない。

 私は、当時から非政治的な馬鹿な若者であったが、その後の世界史の激動期、共産主義・社会主義の歴史的・壊滅的な敗北、左翼の頽落、資本主義。ことに金融資本主義の隆盛、グローバル時代における少数者による大多数者の、国境を越えた支配など、の大変動のいくつかは、自己を生きる同時代性として、よく認識している、と、仕方がないので、自画自賛する。

 現在の政治家たちは、ほとんど、私と同年代か、少し若い世代である。
 「テメーラ、学生時代以来なんの勉強をしてたの?」、と思うばかりである。
 政治や社会の不勉強はともかくも、どうも小選挙区制になって以来、アホぼんとして当選は必然であるためなのか、国民の利害や苦衷を、政権与党の有力政治家には考えたり、忖度する必要がなくなったのかと、と思われる。
 あほボンとすれば、自分の住民票だけ、選挙区において、東京で、家族とともに、都市生活を満喫して、地盤故郷田舎の大多数の住民の苦境を傍観していればよいわけである。

 また、彼らは、戦後の我が国の繁栄期で生育しているため、飢えの体験はなく、国民の飢えの実態を知らず、現在労働人国の4割が、不安定な派遣社員であり、現在の多くの人々が深刻な貧困状態にあり、困窮し、自己や家族の生活すら、十分に守れていない事態は、想像の枠外にしかないのであろう。

 そのくせ、パヨク世界史観、安易なインターナショナリズムや安い市民主義の影響で、近代を経た国民国家、日本国の、その国家としての重要性に無自覚であり、国家の廃絶とか国境を超える世界など馬鹿な理念を宿あとし、他国の侵略に対抗する意欲すらなく、国防意識、国家の衰亡に無自覚で無関心でもある。

 それこそ、現在の日本国は、経済的、軍事的、文化・歴史的に、あるいは思想的にも、日蓮宗に言うところの、「他国侵逼(たこくしんぴつ)の難」の時期である。

 ああ、なんと日本人は馬鹿になったか。
 ああ、なんとわが世代は、歴史に残るほど出来が悪いのか。
 戦中派、戦前派(こんな用語は無効になったか。)の、呆けたじじ、ばばは仕方がないにせよ、まだぼけるには早い、団塊世代、ポスト団塊われわれの世代は、現在の、国民国家日本衰亡の当事者ではないか(私と同年の百田尚樹と同様に、私もそう思う。)。
 
 昨日(三月上旬)、ネットニュースを見ていて、ようやく、日本政府が、中韓からの入国者に入国待機をかけた、というニュースを見た。
 それまでには、売国奴自民党幹事長二階俊博の中共摺寄り施策で、都所有である、ウイルス防護服の卑劣な便宜供与の申し込みと、都民の安心安全に無自覚で将来を見通せない馬鹿な都知事のスタンドプレーの八百長芝居は見た。
 しかし、腐った党とは、一応は独立するはずの政府の、ウイルス輸出国に対する、この度の後手すぎる対応と、媚中政策優先で、国民を顧みない、日本政府の、卑劣さ、拙速に、改めて強い怒りを覚える。

 独裁者習近平、プーチンとも、政権、国家を揺るがすあらゆる危機には非常に敏感である。自己の保身がまず第一だからである。今回、ロシア人は、幸せであった。

 しかし、少なくとも、恥ずかしながら(本当に恥ずかしい)近代を経た民主主義の国民国家の政府が、自国民の安心安全と、自国の利害をまず目指さなければならないのは当然のことである。
 それが、政権の第一義にならないのは、国民に対する、重大な背信行為である。

 政権を支える、首班政党の中には様々な、腐ったやつも、下劣な奴も、やる気のないやつも存するのはいくらもあることである。それは、あらゆる結社において。
 また、それが臆面もなく放置できるということは、選挙区民及び国民大衆が、心底なめられているということでもある。

 我が国の発症者が、4桁になったというのは、大変残念なことである。
 今のところは、悪辣な中共発のコロナウイルスは、歴史を揺るがした、ペストや天然痘スペイン風邪のような、激甚性で、伝播性も非常に強い、というわけではないようである。
 しかし、ウイルスは、ミューテーションというのか、突然変異の進化が非常に速いとも聞き、そうなれば、今後の進化で、国家や、他国を揺るがす、日本初の、激甚性ウイルスに代わっていくかもしれない。
 そうなれば、世界中で、日本国の不手際を、中共自体も、日本人は、馬鹿だ、無責任だ、といいだすだろう。

 どうも、日本国政府は、危機に対応する覚悟がなかった。
 二度と、不手際を、この度の原因者である腹黒国家中共及び中共民の入国停止という手段を怠ってほしくない、まずは、自国民の生命と安心・安全である。

 折しも、現在の国会では、日本国の自営農民を死滅させる、「種苗法の廃止」を提出している。
 当該法律については、あまりにも、農業者や国民大衆に対する影響が大きいため、ここでは触れない。
 ウイルス対策以前に、この大事な時期に、グローバリズムという腐った政策の中で自民党首班政権の国民に対する背信と売国行為を行うその体質を、私たちは共有すべきである。
 小浜逸郎氏のブログ、「ことばの闘い」、「3月に上程されるとんでもない種苗法改正案(2020年2月18日掲載)」(https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a1f1b693a0a0fa0e173f40fc2d499fc5)を、まず読んで欲しい。

 宇宙人と言われた、東大卒の政治家、元首相鳩山由紀夫氏は、「日本国は日本人のためだけにあるのではない」と、驚くべき迷言を吐いた。
 迷妄政治家と、本来立場が違うはずの自民党は、同様に、「日本国家の(国民の努力の成果の優良な)種子を全世界に開放する」、と、妄言を実行している。
 さすがに、ことの重大さに気づいた心ある地方公共団体は、条例措置で、世紀の愚策に対抗しようとしている。

 パンデミック対策の不手際のもとで、二枚舌、三枚舌の、自民党は、売国政策を、全世界に公表し、実行しようとしている。

 もう、日本国は、ダメなんじゃないかと、真剣に思う、ところです。


 閑話休題、この度の騒ぎで、私の田舎の故郷にも飛び火し、私の窓口での対応は、マスク着用で行うこととなった。
 しかし、マスクの配布はされない。身銭を切ることは別にして、マスクの欠乏にはどう対応するのか。
 他国におもねり、防護服を渡す余裕はあっても(これを売国的行為という。)、我が国の力では、自国民に、有料で、マスクを売ることすらもできないのか?

 わが政府が、義務と努力を怠ったせいで、それぞれの局面で、介護や、営業や、サービスで、我が国の国民は、その社会的使命を果たすうえで、英雄的な行為を強いられている。

 先の東北大震災で、大手バカ新聞は、なんの賞賛も、評価もしなかったが、震災後の命がけの仕事で派遣・活躍された東京消防庁、支援派遣された各地の消防隊員、出動した自衛隊員、彼らと同様の尊い、大事な仕事を私たち国民は、日々懸命にこなしている。
 殊に、北海道や各地で、無秩序に来日した中共人に対するサービス提供、観光事業に従事して発症した、運転手さんやガイドの方々、防疫対策など、当該関連事務に従事・忙殺され、殉職された、下級公務員の方々、大変にお気の毒である。

 せめて、私は、私の持ち場で、窓口事務に、立ち続けたいと思う、これは、社会人としての、まず責任を果たすこととして、たかが年契約ではあるが、職業人としての私の覚悟である。

 私たちは不必要に、自ら危険に立ち向かう必要はないが、社会的な責任として、たとえば、パートタイムなど、立場の弱い方にはお気の毒である(とうとう3月10日、派遣の女性職員が官庁の窓口で、コロナウイルスにり患したというニュースを見た。大変お気の毒なことである。)が、末端の弱者が、現場で直接に働かざるを得ないのは、この世の習いである。

 その、待遇改善や、安全管理や、本来の安心安全を確保する責任は、国及び国に指揮指導を受ける法・行政機関、そして雇用主にあるが、道義的に、直接の雇用主が、安全な対応をしなければならないわけであるが、それは当然なすべき配慮である。

 その前提に、まず、自国民を尊重した、国の、適切な、安心安全体制の実施が必要なことは言うまでもない。それができない政府は、国民が𠮟咤、実行させなければならない。

 このたび、私たち国民は、防疫問題(危機管理問題)に対する、政府の極めてまずい政策、政策の不作為により多大な迷惑を被っているわけ(今後、景気後退などとんでもない事態になるであろう。米国、中共などに付け込まれないよう十分注意する必要がある。)である。

 ところで、この度の小浜逸郎氏の新著によれば、「学問とは、現実に立ち向かう一つの「態度」であり、思考力を作動させる「構え」のことを指す。」、「まず、知識情報を蓄積し、次にその知識・情報を活用として現実に起きていることを正しく認識すること、そうして得た広い視野を、社会をよりよくするために役立てること、それがかれ(福澤諭吉)のいう「学問」だった。」(「まだ、M(現代)M(貨幣)T(理論)を知らない貧困大国日本」(徳間書店、小浜逸郎著)前文より引用)、と、思想家、福澤諭吉の立ち位置が非常に明快である。

 ということであれば、私の戦略と目標は明快であり、私の自前の「学問」(これまでの自己自身の教育・経験・世間知の集合、思考の総体)を展開するために、まず、自己の能力(半端な哲学、文学、語学その他の教養能力)を総動員し、私の「義」を、皆の利害と幸福を実現するために、同志と切磋琢磨しながら、卑劣で、巧妙な敵と戦かって行くこと、ということになります。
 どうもこれは、一時の左翼思想よりよっぽどいいじゃないかと思われます。

 私たちは、明治期の国民的思想家の福沢諭吉氏に習い、自己の学問(思想)が、現実的な効用、実益を持てるように、習い覚えた、「学問のすすめ」を展開、進歩させていかなくてはならない。
 「一身独立し、一国独立す」、おっしゃるとおりで、私たちの時代は、当時の大混乱の状況の厳しさと比すれば、少しはましであるかもかもしれない。個々の人間の資質や能力がそれほど問われないから。
 それこそ、当時の人物に比べ、学歴だけ高学歴の現代人は、自己を前向きに、作り上げ練り上げて行く必要がある。

 前述したように、明治期の、激動期・近代における初心と決意に、もう一度戻ろう。もう後がないと思われるので。

 この本は、「啓蒙の書」であり、中共のように、辺境民を見下し・教化するものではなく、自ら自発的に、自己の蒙を啓き、弱い部分を鍛え、愚かな為政者に騙されないようにするための、戦略の書である。
 平易な日本語で書かれており、私も全て、読み切ってはいないが、日本の政治家や知識人の無責任とダメさかげん、現在の日本国包囲網の苛烈さ、なかなか希望が持てない、私たちの未来について、勉強すべきである。いずれにせよ、いよいよ、滅びるにせよ、私たちは、未来を見据えなければならない。
 これから、将来がある、いや将来に厳しく拘束された、若者たちは、是非、読むべきである。
 著者の、先の著書「デタラメが世界を動かしている」(PHP研究社)と、同様に、読みやすく、文字どおり、実に「ためになる」本である。

 私の体験的に言わせてもらえば、現在における現実の不足をなじったり、現実への絶望を説くのは、どうも、若者の特権である。
 いかなる誰をもが、いつも十全な場所に居られるわけではないからである。

 おとな(になりつつあるもの)として、私たちは、年なりにしぶとく、今後は、自己努力で勝ち取るべき、希望を説こうではないか。