天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(わが義父について)  その8

2018-05-31 16:01:07 | エッセイ
思えば、当該ブログは、社会・思想の区分けで、登載しており、私とすれば、「志を高く」、できれば「質も高く」、展開していきたいと、強く、思います。
しかしながら、きわめて、恣意的に、興味本位(私に何が面白いかについて)に終始しているところでもあり、そのあたりは、読み飛ばしていただければ、と思っています。

ということで、先に「同窓会」などに深入りしましたが、引き続き、私的な思い出をつづりたいと思っています。

私は、大学を卒業と同時に、運よく就職でき、故郷(山口県)に帰京し、いなかならではの事情で、27歳のときに見合い結婚(あの年齢では、是非結婚したい、そういう時期がる。)し、その後は中間省略し、現在の私があるわけです。
それはきわめて、平凡な人性でありますが、それはそれで、春秋に富み、山坂もあります。

当時(1980年代前半)、いなかでも、見合い結婚は、珍しい部類となっており、マッチメーキング(媒酌人による男女双方の組み合わせ)(ボクシングの試合と同様の英語であり、笑えるところです。)の働きにより、どこの長男とどこの長女とがとか、家柄とか貧富(?) とか、それなりの瑕疵(かし;キズ・欠点)とか、ハンディキャップ(?) とか、いろいろ考えられた組み合わせがあり、事情通の地区の名士などのベテランのマッチメイカーが、事前調整し、「あそこのあの人」と「あそこのあの人」がと、斡旋をするわけです。
今思えば、これは、どうも、「お礼」とかの損得とか、感謝されたいとかより、歳をとって、「知り合いの子弟に、よい人にめぐり逢わせたい」、「若い人のお世話がしたい」という、純粋な好意に基づき働かれたようです。
その方々は、とうに鬼籍に入られ、いろいろ毀誉褒貶もあった方ですが、いまなら、その気持ちと善意が感じられるところです(かつて触れた、内田康夫の「浅見光彦シリーズ」で、浅見家に持ち込まれる、二男光彦に対する縁談のようなものですかね、おばちゃんになった人が、半ば自分の回春の夢を見るかのように、男女の世話焼きをしたがる、という話です。)。
昨今の「婚活市場」の厳しい話を聞くにつけ、日本政府の無策による貧困の問題を別にしても、現在の若者たちの寄る辺のない境遇にかわいそうな気がします。経済的貧困や、多忙や気持ちなどの余裕のなさによる社会的孤立は、個々の若者たちに「社会的関係の貧困」を招来するしかないように思われるからです。
今となれば、もし、身近に例があるなら、私も、世話焼きがしたいですね。若者よ、「一度くらいは結婚しろよ」、というところです。「世の中には、すべき苦労と辛抱はある」、と思います。

閑話休題、妻の実家は、中小企業を経営しており、二女の配偶者については、転勤のない公務員(私は地方公務員)を希望していたようです。今思えば、自分たちに相性のよい二女を、手元におきたかったような、義父母の思惑であったようです。
私も、二男で、二男・二女のカップルであり、比較的に「家」の呪縛からはのがれ易く、しかし、義父母たちは、わが父母と同様に、大家族の長男・長女であり、今思っても、世代的に、一貫して「割をくったような」、人性をおくっていました。
わが父は、長期の不在や、やはり偉い祖父のわりを食ったのか、こどもたちの扱いにどうも足りない、欠落したところがあり、私とすれば、その代わりにではないですが、今は亡き義父に、いろいろ教わったことは多いところです。
私の住むK市は、都市形態とすれば、商工業都市であり、農業もまだ十分に行われている、地方都市ですが、戦前から、茨城県が本社のH製作所が存置しています。現在は、車両部門(先ごろ英国に鉄道車両を輸出しています。)がほとんどですが、関連企業や、子会社、下請け企業の組合など、地元経済に大きな影響を与えています。
もともと、義父の会社は、戦後、家具製造業から出発していますが、H製作所の協力企業として、当該車両車体工事や、その艤装などの仕事を主にまかなうようになり、農家の長男が始めた初代の義父が兄弟などの親戚や、その家族や社員を含めた規模の企業になっていました。
生まれは、ちょうど大正二けた代で、それこそ、百田尚樹が言うように、三人のうち一人が戦死しているような厳しい世代です。
お酒が好きな人で、夕方の晩酌に行きあわせると、不出来の婿にも、さまざまな昔語りをしてくれました。
小学校の高等科を出て、家具の職人となり、従軍体験もあり、広島の原爆投下の翌日に、広島に入り、遺体の収容と、瓦礫などの撤去作業に従軍しています。原爆投下の日に現地にいなかったのは僥倖であったことである、と言っていましたが、今でも当時の戦友たちから、原爆手帳の申請の証人になって欲しい、と連絡がある、と述懐していました。幸い、義父には、めだった原爆症の発症は無かったようです。
話好きであったことも確かで、興が乗れば、戦争体験のことから、親会社との付き合いから、業者間の競争と戦いなど、自らの様ざまなクロニクル(年代記)を愉しく語ってくれ、それについても議論もたくさんしたところです。
酒の上での話なので、その話題は多岐にわたり、払えなかった税金のため、商品の差し押さえを受けた話(赤札をはられたそうです。)から、接待の効果で、一晩で仕事をもぎ取った話など、気持ちよく話は進みましたが、逆に、会社の後継者がちゃんと控えていたので、部外者の私とは、話しがしやすかったかもしれません。
基本的に、よい酒であり、ひょう逸で、楽しい話が出来ました。
進取の気性に富む人でもあり、私の知る限りでも、太陽熱温水器への投資(現物はうちでもらいうけました。)をしたり、アルミ素材による、新造船(漁船)を作ってみたりと、いろいろ、試行をしていました。
それこそ、命からがら復員したら、荒廃した国土や疲弊した家族が残っていた、という世代であり、どのようにして、戦後を生き抜いてきたかという話と、運よく(と言っていまた。) 右肩上がりの時代に生き合わせ、会社と社員を守ってきたかという話に尽きていました。アメリカ風に言えば、まさしく正統的な「ビジネスマン」(一代創業者)なのですね。
当時、「松下政経塾」という松下幸之助さんが創設した私塾(?) が評判を呼び、それに応募する若者たちに対して、私が批判的な言動をしたとき、「僕はそうは思わない」、「企業家として幅広い人材育成は当然必要なことだ」といい、さまざまに議論を仕掛けてきました。

今思えば、私たちの身近な、普通の生活者の中にも、優れた、敬すべき人がいるということもよく理解できます。

同業者の間でも、H協同組合の理事長を長く務め、商工会議所の副会頭もやっています(以前、商工会議所が盛んなころは、工業部会・商業部会からそれぞれ副会頭を選出していたようです。今はどうも、規制緩和によって商業部会の会員は、激減し、どうも組織として成り立っていないらしいです。)。
創業期当時の中小企業は、人材の確保が大問題であり、義母も運転免許を取得し、県内各地から、人手を集めてくるのに、おおわらわであったと聞いています。
景気のいい時代は、新卒者は誰も中小企業を相手にせず、当時も、懸命に集めた中卒の子など、地元の工業高校の夜間部などに通わせながら、寮のようなところで面倒をみており、生活指導などもしていたようです。
しかし、そんな子が、一人前になったら、辞めていってしまう、との話でもあり、それが採用試験など夢のような中小企業の実態です。近所の人に頼まれ、仕事のない、高校中退者なども、預かっていたようです。
後年、さる人が、その人は、私が、義父の関係者であると承知おいた人ですが、その家庭が母子家庭であり、母親に泣きつかれ、父の会社に就職したが、仕事が嫌でいつもいつも逃げ出そうとしていた。しかし、義父の指示で、従業員がチームを組み、おっかけてきて、逃げ出すのに往生した、と懐かしげにかたり、思いもよらず、義父の遺徳を偲んだところです。
結局、勤めは続かなかった人であり、偏屈そうな人でしたが、不思議に、親切にしてもらえました。
あるとき、会社の操業中、作業機械の操作ミスで事故となり、右腕を切断し、労災事故と、家族との間で裁判ざたとなり、大損害だったという話を聞いたこともあります。
その際、義父が、「君も、体が不自由になったのなら、勉強をして、他の道を目指したらどうか」、と助言したが、「どうも通じなかった」、とも言っており、中小企業の経営者の言葉として、含蓄のある言葉です。自己利益を出すばかりが、人として、なすべき仕事(人間としての社会的生活)ではないのですね。

敗戦後、戦争から帰ってきた男たちは、生家は貧困で、学歴もなく、生きていくため必死で働きました。その妻たちも同様で、しゅうと、姑、夫の兄弟などの世話に忙殺されました。うちの妻に言わせれば、子供のとき、遊んでもらった記憶など、ほとんどない、と言っています。

その厳しい奮闘の中で、戦後の経済的安定を勝ち取りながら、ひるがえって言えば、その受益を十二分に受けながらも、現在の不見識な政治家たちは、グローバリズムにうかうかと乗せられ、国益に反する、規制緩和、TPP、農協解体、行政部門民営化など、反動・背信政策に終始し、財務官僚は、国民の利害など眼中になく、自省の利害に終始し、経済の病、デフレ政策に全く手を打たず、バカ左翼・マスコミは、大多数国民大衆に明確に敵対する、反日勢力に加担し、八方ふさがりです。
今にして思えば、政治にも、経済にも、知識と造詣があり、視野の広い、国家や大多数の大衆を思いやる人材は、本当に必要なことです。
左翼バカはどうしようもないにせよ、見識のある、国民国家日本の真正のナショナリストの系譜は、政治家にも、官僚にも、企業人にも、途絶してしまったのか、と思えるところです。

わが義父も、晩年、体調を崩し、生涯を通じ、海外旅行など、一度も行っていません。本当に、お金をかけて遊ぶことの出来なかった、世代です。
しかしながら、義父の棺の前で、孫一同が、号泣していたことは、記憶にあります。

私も、同年生まれの、百田尚樹ではないですが、先に彼岸に行ったとき、われわれの父祖に愧じないよう、申し開きできるように、今後も、どうにかして、工夫して、我が国、内外の敵と、闘っていきたいものです。

記憶の切実さとそのあいまいさ(NHKBS「こころ旅」)について その3

2018-05-16 21:50:38 | 映画・テレビドラマなど

 
 今年は、3月末から家事でいろいろ忙しくしており、いつの間にか春に乗り遅れてしまい、桜も知らないうちに、先日の大雨でつつじが朽ちていくのを漫然とみているような、今日この頃です。
また、本日、発色は、いまいちながら、アジサイの花が道そばに咲いているのを見つけました。

さる4月から、標記の「こころ旅」春期編が今年も始まりました。
俳優の火野正平が、視聴者が応募した手紙などにより、それぞれの思い出の場所をたどることとし、サイクリングで日本全国を旅する番組ですが、今年は沖縄から始まったようです。
現在は、九州地方が終わり、中国地方に入っていく見込みです(現時点ではもっと進んでいるのかもしれない。)。

この番組で放映される景色は、なかなか興味深いものもありますが、時に、閉ざされたシャッター商店街や、田園の中や小さな空き地に唐突に設置された小規模太陽光発電の施設など、見慣れたような似通ったような景色が映ります。
そこはそれで、嫌な景色も、心地よいような景色も映りますが、荒れ果てた休耕田や、先の、間に合わせの太陽光発電(なんと政府の無策よ!)施設など、厳しい現実もあります。
その一方で、まだまだ元気な農業者(?) たちが畑や、田のあぜなどで作業しており、手入れの行き届いた田園風景を見ていると、ほっとするような気持ちになります。
どうも、観ている私たちにすれば、それぞれ、すでに深く進行している、悪しきグローバリズムに迎合し、規制緩和の美名のもとでの零細な商工業者の没落させたこと、このたびの日本国の農協を解体し、農業者たち、地方住民を窮乏に追い込もうとする政府・中央政党の無能で悪質な政策の影響を視てしまいます。
その渦中にある地方の生活者たちはどうしているのか、決して豊かではない筈では、と思い、また、皆、どのように生活をつなげているのかと、私たちの想像力は、その光景を、ひとごとながら、身につまされるように、無意識に追っていくのですね。

その応募の手記も短くそっけないものから、周到で長いものもありますが、どうしても書きたかった、と、観るものの心を動かすものや、私にとって強く印象深いものもあります(よろしければ、このシリーズ、その1、その2を参照してください。)。
それは、行間を読み解いていくしかないのですが、思いのほか、神社や、仏閣などにまつわる記憶や思い出が多く、それが郷土(ふるさと)との一体感や、思い入れと重なるなど、当時の自然や家族・友人たちとのいきさつを含め、それぞれの投稿者を強く拘束していることが分かります。
それならば、そんな光景を見ていない、都市生活者や、こどもたちはどうなるのか、ということとなりますが、そこはそれ、うまくできているもので、旅先や、何かの滞在時に、それぞれに、思い入れのある風景を、それこそ、自己に強いられて、選択しています。
その記憶は、改ざんされたり、美化されたりするかも知れませんが、記憶の中でろ過され、それぞれ、切実な風景になるのでしょう。
いずれにせよ、投稿者は、その記憶を、他者と共有し、共感されたいと望むわけです。

ときに、高齢者(仮に80歳以上とします。)の投稿で、決して愉しくない記憶と景色の投稿もありましたが、厳しく、悲しい記憶もあります。
見ているほうには、感動的で、記憶に残る光景になるのですが、なまなましくてつらい記憶も、歳月を重ねれば、それなりに、その人の人性の中で落ち着いたようで、改めて人間の可塑性というか、つよさを感じ入るところもあります。
このあたりは、画面の景色の明るさとともに、自然光の中でのサイクリングによる追体験を経れば、その感情の澱のようなものも、徐々に消えていくような印象も受けます。

最近において、印象に残ったものについて、言及します。
先の、佐賀県の白石町(有明海干拓地)の風景です。
 その手紙は、ていねいな字で書かれており、15年前、長く勤めた事業所を早期退職(文面から読めば50台半ば) して、地元のたまねぎ生産農家に、転職した(現在は69歳の女性)ということです。行間で、仕事のみならず、どうも人性での大きな転機であったらしいことが、語られずとも、想像されます。
 それはなかなか厳しい労働であったらしく、一面の、干拓地農地は十分に利用され、とても美しい景色です。聞いたところによれば、薄い緑は麦畑、濃い緑はたまねぎ畑、と火野正平が補足します。
 たまたま、番組作成が、投稿者の見た景色と同時期であり、見渡す限り、畑と緑のグラデーション、それらしか見えません。麦畑に居つくのでしょう、ひばりのさえずりがずっと続きます。
 その麦畑(及びたまねぎ畑)のはるかかなたに、地平線のように、大規模水門の構造物が、空と農地を分かつかのように設置されています。ただ一面に遠くまで広がる田園風景ですが、その構造物に、唯一、小さな矩形の切れ間が見えてきます。
「あれは何だろう」と、カメラと同時に、こちらも気づきます。

 まさしく、投稿者も、作業をしながら、それをいつも疑問に思っており、ある日、昼食のまかないを断り、弁当を持って車を走らせます。
 ちょうど、その境界を越えたとき、一直線のコンクリート構造物のすぐ目前に、一面の干潟が広がり、有明干潟・例の泥の大平原が視界一面に広がります。はるか遠景に、雲仙普賢岳がかすみにたなびくようです。
 一面の、緑の平原から、門扉の切れ目を越えれば、一面の泥の平原となります。
 この風景に、なんともいえない開放感があり、どうも、あれは、自己の転機にあたって、奇跡に遭遇したかの様な光景(体験)であり、その景色は、自己の人性への内省を強いるような心持ちになるのではないか、と思われます。
 現在は、たまねぎ収穫パートからは引退されたようですが、その鮮烈な印象は、大きな過渡期に、光を与える(?) ような体験だったのでしょう、よく理解できます。
 たくまずして、出来上がった、(人間が手を加えた)自然の景観が、私たちの「精神」にも影響を与えるという例なのですね。

 もうひとつは、少し前に投稿されたものですが、北海道の士幌町というところの居住者(女性)の投稿です。
 25年前に北海道にやってきた、という家族です。
 父に少し痴呆が出た、という人であり、介護する娘と孫と三人のスナップが同封されています。父と娘の顔つきがよく似ており、血族の同一性がよく感じられるようです。
 毎朝、父親は、「永いことお世話になりました。今日はこれで帰ります。」といい、かばんを持って出発しようとします。娘の方は、「もっと長く居ればいいのに」と引きとめますが、無理にはとめません。
 ころあいを見て、迎えに行きます。
 その頃には、歩きつかれたのか、お迎えの車椅子におとなしくすわり、登園する園児や、あたりの景色を見ながら一日を過ごしたといいます。
 「大好きだった父と一緒に」という説明が流れ、父の介護をしながらその晩年を一緒に平穏に過ごせたことの幸福の確認と、現在の投稿者(娘(59歳)の)喪失感が述べられます。
 私には、冒頭の、「永いことお世話になりました。今日はこれで帰ります。」という父親の独白が深く心に残ります。まるで、日々日々において、別れを告げ、今世を去っていく覚悟のように思われます。かばんを持って出て行くというのは、長年にわたった、厳しく、たゆまぬ勤め人人性が、体に染み付いているのでしょう。
 私は、「男は、一生、ひとりの過客(旅人) なり」といいたいのかもしれません、が、彼の人は、日々の覚悟をして、誰にでも、過度にお世話にならぬよう、毎朝、家を、出て行くのでしょう。
 実際のところ、それは、老人性の妄想のひとつのタイプというべきかも知れませんが、無意識にでも、安逸には限りがある、それに安住してはいけない、厳しい生活に入っていかなければならない、と、年老いても自己に強いているようでもあります。
 謙虚で、温和であり、家族にも愛された人かも知れませんが、その様な晩年に、頭が下がる思いです。
 投稿者の実年齢を考えれば、その父親はちょうど大正二桁台の生まれくらいで、それこそ全ての男のうち、三人に一人が戦死し、その後敗戦の動乱期に直面したという、あの厳しい世代の人かもしれません。
 自分ではそうはなれないのはよく理解していますが、さまざまな人性があるものです。
 あじわい深いものですね。

うちの孫の混乱と煩悶(はんもん)(併せて、「機関車トーマスは好きになれない!」ことの表明)

2018-05-02 20:36:43 | エッセイ
嫁に行った(結婚しただけ、と強く主張するかもしれない。)うちの娘が第二子を授かり、4月の初旬からわが家に里帰りしていました。
長男の二歳と数月の孫息子も一緒です。
3月末が臨月であったため、それまでは、フルタイムで働いている我が家は手が出せず、早くから、婿の実家に、日中ほとんど預けており、婿が、行ったりきたりで、めんどうをみていたようです。
おそらくそれまでの欠落感や、自分なりに堪えていたもの、飢餓感のようなものがあったのでしょう、彼が、病院で、弟に出会った際、母親に近寄ろうと、何が何か分からなくなって、大泣きをして暴れたそうです。
退院後、わが家に母親と一緒にやってきましたが、日ごろは、元気で前向き(?) であるような彼も、なかなか、われわれに近寄って来ず、「○○君、因循(いんじゅん)(ぐずぐずして煮え切らないこと)になったねー」と、つい言ってしまい、周囲から、「止めて」と小言を食らうような状態です。
そのうち、少しずつ気持ちがほどけたのか、われわれにも、タイミングを選んでまとわりつくようになりました。
しかし、娘が授乳するときとか、母親が赤子の世話にかかると、大声を出してむしゃぶりついて、必死で邪魔しようとします。それが、とても切実で、こちらが引いてしまうような状態です。こちらも懸命に阻止しようとしますが、なかなか、引き離そうとするのも大変です。
私の子育てははるか以前のことで、記憶のかなたではあったのですが、これだけ、感情をむき出しにするこどもを見るのにびっくりして、思わず「ほー」と感服してしまいました。
まさしく、「愛」というものは、強く排他的であり、同時に反目の「そねみ」、「しっと」とかも、負けずに強い感情であり、三つ子の魂ならぬ、二歳児でも、これだけ、強い感情の嵐があるのですね。この歳になって、とてもびっくりしました。まあ、今になって振り返る自分自身の幼児期体験や、育児体験は、全く棚上げにしてです(それは私の記憶の鈍磨かもしれません。)。
振り返ってみれば、どうも、これは、私自身の、生きる活力のようなものが逓減していってしまい、思春期から、恥の多い若き時代に至るまで、ほれた、腫れた、愛した、しっとしたなどの強い感情からはるかに離れたことの証拠なのかもしれません。
それは、仏教的には、執着が衰え、楽になり、お浄土へ近づいた(?) かもしれませんが、どうもそれはさみしいことではあります。
しかしながら、これから先、私自身、生の残照を味わうかのように醜く狂態をさらすこととなるかも知れず、いつものように、人性、先のことはわかりませんが、と申し上げます。

閑話休題、うちの孫にも、流行があるようで、あれほど「ぞうさん」に打ち込んでいながら、今は全く、「ぞうさん」について、言及しなくなりました。
そのかわりというか、彼の好きだったものをたどっていってみれば、自動車→電車→新幹線、その間に親が連れて行ったJR山口線のSL(スチーム・ロコモーティブというのか)見物をはさみ、彼の内面で進化していった結果、今は、「機関車トーマス」に夢中です。
どうもこのアニメも、長い放送の歴史があるようですが、このドラマの設定も、蒸気機関車がディーゼル機関車と張り合ったり、機関車トーマスの雇い主が、シルクハットをかぶって登場したりと、時代がいろいろ錯綜しています。
うちの婿がこども時代(20年から30年前)も、このアニメはあったというので、製作者側からもいろいろ変更・変遷の歴史はあったと思われまが、 現在の設定では、イギリスの架空の島で、彼らの生産(営業)活動は行われているようです。
さすがに、欧米のアニメであり、出てくる機関車やディーゼル機関車たちは、自分の意欲や欲望・野心を平然と口に出し、かつその目的に沿って行動します。それは、どうも、幼児の自己主張を肯定し、積極的な個性を見につけさせるという構えた教育的方針とは思えないので、英国では、ごく普通の脚本なのでしょう。
どうも、説明の文章(ナレーション)が多く、説明的でアニメの展開としては面白くないですね。
比較しても、日本の幼児番組の方が、このあたりの演出はずっとうまいと思われます。
番組の背景をみてみると、蒸気機関車と新興のディーゼル機関車たちの間には根深い対立があり、相手が悪いんだとお互いいに主張しあい、また、蒸気機関車の間でも、それぞれの優位性をめぐって闘いがあります。日本人の好きな「みんな違ってみんないい」などという価値観とは、はっきり齟齬するようです。
そこは欧米・外国産のアニメであって、対立し戦い合って、合意に達し、対当の立場で友情を取り結ぶということとなり、いわゆる、自立、できれば相互を尊重した並存型の共生を目指すこととなっています。
これはどうも、国家や民族など厳しい対立の中で、一致点を見出そうとする、欧米の思考であり、巧まずして、こどものうちから、知らず知らずのうちにそれを刷り込んでいこうとするのでしょう。
機関車の中には、公爵家所有の機関車などというものも出てきて、階級社会英国の現実や、その階級社会における鉄道事業に係る国民の実感はこんなものであろうかと思われるところです。また、同時に、アニメをとおしてでさえ、私たちにも、蒸気機関車発明の祖である英国の誇りと自負も、見る者に知らず知らずに感じとれるようになっています。

観察していると、どうも、うちの孫は、機関車トーマスの物語が好きというよりは、さまざまな機関車の種類と、そのキャラクターの違いに、もともとの乗り物好きが高じて、夢中になっているようです。どうも、登場するキャラクターは、日本からきた機関車の○○とか、日本国(?) の模型メーカーの意向を受け、新キャラクターが登場しているような気さえもします。
したがって、うちの孫は、さまざまな、相互接続可能な車両の模型をたくさんもっており、孫に「これは何」と聞くと、逐一名前を教えてくれ、そのうち飽きたら、答えてくれなくなります。
 孫に甘いうちの妻に、「(機関車トーマスシリーズを)買ってやらないの」と聞いてみると、「いやだ」と答え、彼女もどうも「機関車トーマス」が好きでないようであり、私と同様に、彼のコレクションに買い足す予定はないようです。
 「背景をみたら、結構厳しいアニメだよね」とたずねると、妻も同意します(彼女はスヌーピーの強力な愛好者です。)。
  実のところ、わが家のこどもたちが幼少の頃から、このアニメはあった筈ですが、うちの親子がそれに打ち込んだ記憶はありません。

 はっきり言って、うちの孫はその物語を頭に入れていません。
 孫に言うと嫌われるかかも知れないので、私はいいませんが、機関車の先頭部分に人の顔が入っておのおの会話するのが見えるのは、どうも感覚的に好きになれません。なぜなのかは私自身の問題ですが、そこは、人の好き好きですので、勝手です。

 昔、私の幼少時に、「トムとジェリー」というスラップ・コメディー(どたばた劇)アニメがあり、当時ディズニーアニメが嫌いだった私も、大変愛好しました(毎夕習慣のように見ていました。)。
 折があって、それを今になってみてみれば、今の私にとっては、確かに「過激な暴力シーン」がたくさんあり(ディズニーアニメもそれがほとんど全てだったが)、今思えば、幼児がみていいのかどうかはなんともいえません。当時のアニメの舞台は、まだ元気で活力ある豊かなアメリカ社会であったかも知れませんが、今見ていると、ワンパターンでつまらないのですね。
 まあ、漫画やアニメを倫理的な裁断で見ても不毛であることはよく理解しています。もともと、良識とか、価値あるものの息苦しさの中から、反目のように出てきた文化でしょうから。
 それを言えば、テレビの放映番組の倫理規定に厳しいといわれる(これは受け売り)(社会の秩序・治安維持とかいろいろ問題があるのでしょう。)アメリカのアニメも、昔はいくらも過激であり、暴力シーンに満ちていたぞ、と私は証言できます。

 先ごろより、わが市の美術館で、「羊のショーン展」が開かれています。
 クレイ(粘土)アニメである、かのアニメは、登場してくるそのキャラクターや舞台装置にもなかなか味わいがあり、かわいらしい登場人物たちです。
 内容は、トリックスター(いたずらもの)のショーンが農場を舞台に、仲間や地域社会を巻き添えにスラップ・コメディを繰り返すわけですが、皆が自分の思惑に忠実にもがき、衝突し、ブラックユーモアもあり、いい時代の、アメリカのどたばた劇をなぞっているようで、思わずにやり、とさせられます。
 どうも、こども時代に、アニメ・フリークエンター(強烈なアニメ愛好家)だった人が、作成しているのであろう、と思われる作です。
 うちの孫にはちょっと早いのかもしれません。