天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

再々々度考、06:55(引き続き「さらば・・・」シリーズについて語る。)

2016-08-30 21:11:46 | 映画・テレビドラマなど
私、引き続き、ウイークデイ午前6時55分からのEテレ「0655」を愛視聴しております。
 文字通り興味深い企画で毎度楽しませていただいておりますが、8月29日の月曜日より、先の人気(?)新企画「失恋ソング」の続編がスタートしました。
 ムード歌謡グループ、ロスプリモスによる、今週のご当地ソングは、「さらば高円寺」、「さらば豊橋(とよばし)」に続くこのたびの第三弾「さらば宝塚」ということになっています。
 このシリーズは、NHKのEテレ番組内で、ことあるごとに「人気シリーズ」とあおってくれましたので、私以外にも愛好者が数多くあったのでしょう。
 復習しますと、最初は、JR高円寺駅が登場し、南口そばの純喫茶で、別れ話の末、彼女(みよこ)に平手打ちをくらい置き去りにされた、黒ジャケット、黒ぶちのロイド眼鏡の彼が、傷心ののち、思いで作りに高円寺駅の界隈を歩けば、本当に「高円寺(徳川家由来の名刹)」に出くわす、おお「エウレカ」(われ発見せり)と、隠された真理に逢着(でくわす)し、少しうれしくなる(その後、彼は、すぐにふさいで、ぶすっとしてしまいますが)逸話でありました。
 続いて、第二弾は、静岡県豊橋市役所前の路面電車の駐停車場の前に無表情のカップルが無言で並んで電車を待っております、やがて、路面電車がやってきて、無表情の女の子が乗り込みステップの上の段から、男の方を無表情に見返します。もう語ることなど何もない、との状況でしょうか。ムード歌謡に沿いながら、「(彼女と別れて傷心の)僕はここに二度と来ないだろう」という歌詞が流れます。「そして、最後の思い出作りに街を歩きます」、という説明がされ、よく知らぬ街を漠然と歩いていきます。そこで、彼は、「われ、発見せり」ということで、豊川(とよかわ)という河に架かった豊橋(「とよばし」と発音するみたいです。)という橋を発見して、思わず手を叩くわけです。「豊橋市」という市名の市には、ちゃんと「豊橋(とよはし)」が存在したのであると、それは、一級河川「豊川」に架かる全長180メーターの「とよばし」であると。腑に落ちた彼の、その発見が、彼を少し喜ばせます。
いずれのバージョンも、ムード歌謡ロスプリモスのボーカルの手慣れた歌唱と字余りの奇妙な歌詞、また、素朴で、あか抜けないドラマとのミスマッチに相まって、大変笑えます、というのが前回までです。
 今回は、東京、静岡と、西進し、兵庫県宝塚市となります。地域の均衡を重視するNHKということなのか、今度は西日本とバランスを取ってくれます。
個人的なことを申し上げますと、かつて40年以上も前になりますが、私、当該宝塚市に沿接する西宮市にあった(今もある)私学のK学院の受験に失敗しまして、日本で最も美しいという芝草で覆われた美しいキャンパスの印象とあいまって、青春の挫折以来、鬼門と信じ、足を踏み入れておりません(失恋したようなものか。)。その後私の入った(入れた)私学のキャンパスの汚さとあいまって、K学院なんて、金持ち学生ばっかりで、すかしてやがって(これは東京弁か?)と思っておりました。しかしながら、このたび彼が絶縁される場所は、宝塚劇場前の阪急電車の宝塚線駅前広場であり、かの大学は同じく阪急今津線、甲東園駅という名でありました。また、阪急沿線は、神戸線を含め、高級な住宅地として有名でした。また、大阪人の友人から、小豆色の阪急電車は、品のいい地区を走ってるんやで、と教えてもらいました(どの電鉄会社と路線が品がないのかは省略します。)。
 閑話休題
 第三弾のこのたびは、例の黒いジャケット、デイパック、白いハイネック、黒縁メガネの彼は、駅前で、ネックレスの縦長の箱を突き返されます、ちゃんとリボンがかかった箱です(絶対に、彼女は中身を見て値踏みしてます、と私は確信します。)。あれはショックですね。男とすれば、「俺に帰すつもりならばすててくれ」(「ルビーの指輪」から引用、ルビーの指輪ならまだしも、ネックレスもさすがにほかでは使えないからなー。)と思っていますが、普通(?) の女性とすれば、後日のトラブルを避けるため、必ず払うべき注意と手順なんですね。
 ショックを受けた彼は、いつものように、せめての記念に、周辺を散策し、市の名前の起源としての「宝ノ塚」記念石碑を発見します。思わず手を打ち、感動する姿、また、塚は、宝塚市の縁起であると同時に、ほかにも様々な古墳などあるところです。「宝ノ塚」に感動した彼は、せめてもと、他にも様々な古墳・遺跡を見て廻ります。また、「塚」の前には、お「宝」が落ちているという地元の伝説があり、テレビで実写される石積み塚の開口部の前には、なんとなくお宝が落ちている、雰囲気があります。塚が、墓所なのか、貯蔵庫なのか、素人にはわからないところですが、高台に登った彼は、宝塚市の一覧景色を眺め、彼の残念な体験を振り返ります。少し明るい顔になった彼は、石段を降りつつ、伝説のとおり、古風な古びた鳩笛(?) らしきものを拾います。
 失ったものの替わりに、彼は、今回本当に「もの」を拾いますが、招福のしるしとして思えるのか、微妙なところです。斎藤環流にいえば、「女は更新し、男は保存する」、と言いますが、このたびの伝説の成就により、彼がうれしいのか、むなしいのか、思い出の一つとして綴じ込めるのか今一つわからない、ところです。まあ、具体的な「もの」は、手の中にあるわけですが。
 前作までは、「真理」に出会った後は、彼はふたたびふさいだ暗い顔になりますが、このたびは手の中にものが残ったためなのか、見た目では、前ほど暗くはありません。こんな体験を経た際に、西欧流に「もっと深く絶望せよ」が本来正しいかどうなのか、良くわかりません。そこはそれ、日本流に(?) 人に福を授ける、何者かの手配として、何となく受け入れるのが、「幸せ」なのか判断が分かれるところですね。本来、私たちは、予測不可能で、不条理で、あるいは理不尽な契機で、別れや出会いを繰り返すわけですから。
 今回においても、たとえば「一般的に」、「鳩笛」、「それがなんなのよ!!」と断じられたら、やはり挫折した男とすればそこまでということですが・・・・・。
 このパターンが、いつまで続くかはわかりませんが、そして、今回も人気が出るのかどうか、そこはそれ、次は、どこの地名がテーマになるのか、とても楽しみです。
 やはり、西進するのでしょうか?
 まだまだ、パターンがありそうですが。

「福原愛選手」礼賛 リオ・オリンピック瞥見(べっけん)(追記) 

2016-08-26 21:17:13 | スポーツその他
8月22日付けで、リオ・オリンピックが閉幕しました。
 もっとも印象的な、「福原愛選手」については先に考察しましたが、その他の選手についても併せ印象記を申し述べたいと思います。

ア 男子卓球 水谷隼(みずたにじゅん)選手について
彼は、このたびのオリンピックが、彼の絶頂期に当たるかと意識化しつつ、最初で最後かもしれない自分にとって最大のチャンスであることを自覚し、個人戦予選から、自己の世界ランク上位者に対し、ねばり強く勝負し、その過程で自分を高め、たびごとに声を出し、自分を鼓舞することにより、殊に個人戦準決勝では地力に勝る世界ランク第一位をフルセットまで追い詰めました。同じく、三位決定戦では、とうとうメダル獲得することができたのは、祝着至極というところです。実力と、それを生かすチャンスを引き寄せ、勝ち取るという、運動選手として、最大級の成果と達成を見せていただきました。このたび、テニス競技で、宿敵、巨漢マレーにこのたびまた敗退した錦織君より、世界トップへの道行きは近いのでは、と感じさせてもらいました。
彼の試合は、大多数の中でたった一人で戦うという「男子の本懐」であるかのような見事な内容でした。
 彼の、自身を鼓舞する雄叫びが、忘れられないところです。
 しかし、かつて日本の景気が右肩上がりの時代に、当時とても強かった日本卓球はオリンピックでメダルを取っていたのかと思っていましたが、それはなかったんですね、改めて日本卓球チームの長い道行きを思い、彼の達成を言祝ぐつもりになりました。
 また、女子卓球と同様に、彼も、団体戦では切替えました。
優秀で、強いリーダーに遭遇した、2名のメンバーも実力以上(?) のものを発揮し、それは他の二人の選手たちの優秀な指揮官に対する忠誠心(ロイヤルティ)のようなものを感じましたが、フルセットもなんのその、たたかれてもたたかれても奮起し、ついに勝利を呼び込むリーダーに追随して、見事決勝にまで上り詰めました。
 決勝では、実力に勝る、中国に地力の差で完敗しましたが、水谷選手は、「今までに勝ったことのない選手に勝てた。」とコメントしていましたが、時を得たすぐれた競技者の戦いは、聴視者を歓喜させる試合ぶりでした。解説者が、「もう一人水谷君がいたら中国に勝てる」と言っていましたが、それはさすがに、ないものねだりでしょう。

イ 女子バトミントン(ダブルス戦)に団体戦について
  女子バトミントンチームは、「高・松コンビ」と称され、高橋選手(25歳)と、松友選手(23歳)のペアです。彼女たちは、一学年違いの、高校時代から続くペアで、高橋選手はハードヒッター、松友選手はコースと緩急の差を狙う技巧派と、後衛、前衛とその持ち分を分けています。どうも、そのあたりは結成が長いペアらしく、双方に十分に納得ずくらしく、競技中も彼女たちのやり取りが自然で緊密な時間が流れているように思われました。また、同時に、彼女たちは、世界ランク一位のペアらしいですが、彼女たちのスポーツは、身長や、手足の長いことはとても有利なんですね。
  高橋選手は、観戦・応援中の同じく競技者の妹さんがいましたが、どちらかといえば体育会系の熱血タイプに見えました。一方、松友選手の方は、冷静で、クールビューティ(?) という感じで、ほとんど感情を外に表しません。それは、スポーツ選手として、大事な資質と思いますが、負けて動ぜず、勝って動ぜず、スポーツマン=戦略家として、今までの日本人の競技者にはいなかったタイプで、私には、見ていて大変頼もしい気がしました。彼女たちの優勝インタビューで、インタビュアーから、前回のロンドンオリンピックでの日本チームの雪辱とか、投げかけられて、「試合、見てません」と正直に回答し、その正直な応対と、彼女たちのオリンピックは個人技でしか(彼女たちは前回国内予選で敗退し、出られなかった。)ないことがよくわかりました。また、競技によっては、世界選手権優勝の方が、オリンピックよりさらに重要視される競技も多いことも理解できたところです。
 メダルの獲得が全部でいくつと言い募るのは、観客席であり、競技(「見世物」とまでは言いませんが)を見守る国民ばかりなんですね。

ウ 柔道・レスリングについて
  バトミントン競技と比べれば、瞬間瞬間であれほどの僅差を争う壮絶な柔道やレスリング競技などで、三位になった選手が、「銅メダルですみません」と、異様に自罰的に(?) ふるまうように思えたのとは対照的でした。その差を考察すれば、柔道はもともと武道であろうし、レスリングも同様に、本来生死を巡る戦いであったかもしれず、スポーツとして、それを観戦・応援する立場とすれば、相対的に軽い(?) 他の競技と比べ異和を感じたのかも知れません。日本人とすれば、当然「柔・道」とか、「レスリング・道」とか考えてしまうのは確かな気がしますが、それを現在のスポーツとして、ポイント制で戦うというのはもともと無理なのかもしれません。殊に、武道の時代を知っている日本人としては、その点理解しにくく不満なところです。競技が世界規模になれば、適正な共通ルールは必要でしょう。しかし、このたび優勝した100kg超級の男子柔道フランスの黒人チャンピオンなどは、オリンピック巧者であって、良い競技者(武道家)とは思えませんでした。
 先のロンドンオリンピックで、女子柔道57kg級で優勝した松本選手は、当初予選から武道家の顔つきであり、その目つきからしてめらめらと青白く殺気が漂うようでした。見事金メダルを獲得した後、「野獣ちゃん」と揶揄(やゆ:からかうこと。なぶること。)され、その後、年頃の女性としては、色々傷ついたようです(現在27歳)。このたび、銅メダルで終わりましたが、なかなか、武道家であり続けること、金メダル獲得の栄典だけで、競技者として自己を律し、体調と、精神を維持していくことは大変なことなのですね。このたびの彼女は、試合前から、あの凄みは消えていました(飽くまで私の主観ですが)。やはり、頂点というものは一瞬なのですね。「時よとまれ、君は美しい」というオリンピックの記録映画がありましたが、それは一瞬が永遠であるかのように、真理をついていると思います。
 このたびも、世界で戦うのなら「求道者」ならぬ「競技者」で仕方ないと思いましたが、日本の選手の中では、女子レスリングの吉田選手ではないですが「競技が人間を作る」ケースも多いことでしょうし、日本の女子レスリングの選手たちなどのその錬成の過程から見れば、彼女たちも、武道家に近いのではないか、と思われました。
 いろいろ、興味深いものでした。猛暑をしばらく遠ざけられたように、思えました。

「火葬場の少年」をめぐり、今年も考える。   その2

2016-08-24 22:26:47 | 時事・風俗・情況
( 8月です。お盆の月ですので、いつものように、皆で死者について考えましょう。 )

さとうきび畑  作詞・作曲 寺島尚彦     

( 全体的に長い曲なので、意味がとおるように、歌詞の良さがわかるように、部分的に掲載します。)

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる
夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
むかし海の向こうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた
夏の陽ざしの中で
    ( 中 略 )

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声をさがしながら
たどる畑の道
夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんと呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このまま緑の波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしの中で
    ( 中 略 )

ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
波のように押し寄せる
風よ悲しみの歌を
海に帰してほしい
夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない

 この歌は、私が中学生の頃(昭和40年代前半)流行った歌で、森山良子が歌っていました。作成の経緯とすれば、沖縄復帰(昭和47年5月15日)前の、昭和40年当時、沖縄に旅行した寺島尚彦さんという方が、その印象で作詞・作曲した歌を昭和42年に初演し、当時カレッジフォーク(学生が支持する歌というべきですかね。)を歌っていた森山良子が昭和44年に初演し、その後持ち歌として歌っています。
 森山良子さんは当時、ギター弾き語りスタイルのいわゆるシンガーソングライターで、同時に若く美しい良家の清純派お嬢さんとして、その美しい声で、団塊世代の、殊に男どもに熱狂的に支持された大人気歌手でした(現在の姿と比べどうこう言うつもりはありませんが、皆に等しく時間は流れる、ということで。)。
 この歌の歌詞は、「ざわわ ざわわ」と、さとうきびの群落に押し寄せる風と、美しい海に打ち寄せる波の音を連想させる擬音の繰り返しでさわやかで、政治的なアジテーションも薄いように思われ、「 忘れられない悲しみが 波のように押し寄せる 風よ悲しみの歌を 海に帰してほしい夏の陽ざしの中で 」と、今世で逢えなかった父に対する情感があふれるなかなか良い歌であります。昭和39年の作とのことであり、敗戦日に出生した彼女の実年齢は、まだ、春秋に富む、父に対する哀惜を抑えきれないまだ若く美しい女の人かもしれません。長い歌なので、部分的に、NHKの「みんなの歌」(私、当該番組、愛視聴してます。時に、他にも「みんなの歌」のいくつかを、時に愛唱します。)の一曲として、採用されたようです。
 他に、彼女の持ち歌、「愛する人にうたわせないで」(昭和43年)という、戦争未亡人が(いつの戦争なのだろう?)遺児に対し戦死した夫について語りかけ、結果的に「戦争責任者」(誰でしょう?ちゃんと突き詰めれば良いのにそれができないのは、ダメであるゆえんですが、当時の雰囲気に基づき、無責任に言えばベトナム戦争の遂行者かもしれませんが)に間接的に問いかけ告発する、というバイアスのかかった歌より、この歌は、はるかにましな良い歌です(昔の日本のフォーク・ソングや「反戦歌」の多くはその程度のものだったわけですが)。
 しかしながら、「 むかし海の向こうから いくさがやってきた 」とか、いうのは、いささか不適当(傾向性のある発言)ではないのでしょうか。いってしまえば、南国の農業を主にした桃源郷のように平和な島に、よそ(外国)から、戦争の遂行者が現れ、その巻き添えになった無辜(「辜」は罪の意。罪のないこと。また、その人。)の島民は、親子が引き裂かれ、今も消えぬ塗炭の苦しみを味わった、ということになるのでしょうか。ただし、その島に、その島なりの貧困や、所得格差や差別はなかったのかということは不問になっています。
 また、当該「いくさ」が太平洋戦争であれば、それこそ薩摩侵攻(1609年)、明治期の琉球処分(沖縄版「地租改正」(「沖縄の不都合な真実」(大久保潤・篠原章)に拠ります。)以降、国家近代化の歴史を経て、日本の近代から、太平洋戦争の敗北に至るまで、沖縄は、日本国として、同じく日本国民の一人としてそれぞれの現実で総力戦を戦ったはずであり、それは九州であろうと本州・北海道であろうと同様であろうし、「不見識な見解」ですね。沖縄の一部の人と、それに迎合する一部の人たちについては心地よい見解かもしれませんが。過剰で、偏頗(へんぱ:かたよっていて不公平なこと。また、そのさま。)な地域ナショナリズムの手放しの賛美と、その賛同者の合作のように聞こえてしまいます。
 「 あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 」という一節も、徴兵によって、戦地に行った、あるいは別の局面かもしれませんが、百田尚樹の言葉を借りれば、兵士大衆の一人として、大正二桁前後に生まれた男たちの三人に一人は戦死しているわけですが、それぞれの局面で死んでいった兵士には語れぬ想いと、他者には説明しがたい理不尽な死があり、無念な思いが、またその家族には他者に説明しがたい理由や悲しみがあるわけです。
 うちの父は、大正13年生まれでしたが、幸い(?) 死に至る兵役に行かずに済み、戦後一時育児放棄の時代もあり、歌詞の主人公(彼女は今年で満71歳になられますが)のように最初から不在ではではありませんでしたが、私は、今、別の意味で、(奇しくも私8月15日生まれです。)戦後を生き抜いてきた私の父にかかわるその人性とその死の意味を考えています。それは、歌の中の彼女もふくめ、それぞれで、自己の人性の深化とともに、盆・暮れなどに、個々に自らの先祖からの「詣で墓」にまいり、その死の意味を、個々に思い押し測っていくことです。
 テレビ番組で見ましたが、沖縄の墓は墳墓というべきか、家族が広い墓前に参集し、美しい自然の中で、皆で、祖霊のために歌い踊り宴をとり行う、ということで、良い習慣であると思ったことがあります。

 また、本日(8月24日)も、北朝鮮の日本海に向けた潜水艦発射弾道ミサイル発射のニュースでもちきりです。潜水艦の可動域でミサイル発射が可能であれば、日本国にとって、これは大変な脅威です。
 オリンピック期間を含め、覇権国家中共は、引き続き、自国の勢力拡張を図っています。
 彼らの、愚かな、また他国にまで自己の支配下に置こうとする中共「軍国主義」の策動を、私たち一人一人は監視し、自国民に対する安全の侵害と、経済的な権利の侵奪を許さないように、われわれの政府を含め、良く見張る必要があります。どうも、それを怠る政治家すら、存在しているらしいですから。

 もう少しして(明日のことはわかりませんが)、私が祖霊の一人になるとすれば、その時は、死して銀河系の素粒子の一つになるかもしれませんが、願わくば怨霊(?) にならずして、日本国及び日本国民が、他国の侵略に合わないように、また、孫や子が、分に応じ努力して、その生の総和の結果として、「幸せ」(?) に暮らせるように望みますが、われわれの祖霊たちの多くもそのように考えているのではないですかね?

 今年も、8月においてそのように決意いたします。

「福原愛選手」礼賛   ( リオ・オリンピック瞥見(べっけん))

2016-08-17 20:00:18 | スポーツその他
今年の夏は、殊に西日本は7月中旬の梅雨明け以降、連日、波状の熱波で、耐えがたいところであり、極力、日中は戸外に出ないようにしていましたが、おりしも、8月5日より、リオデジャネイロ・オリンピック大会が始まり、自然自然に、自宅で当該競技の様子を見守ることとなりました。

 私、中学校時代は運動部におりましたが、当該活動においても華々しい結果は残せず、毎日放課後部活になるのを友人とともに呪詛するような気持ちであり、3年間ほとんど本の一冊も読めず、俺はバカになった、と思っておりました(実際のところあまり差はなかった。)。 高校に入って、一学年上の2年生に、同じ運動部の勧奨をされ、丁重にお断りして、舌打ちをされました。その後、ほとんど運動体験がありません。
今は、「おばあさん」(私は「じいさん」でいいです。)にまじって、プールを歩くくらいです。
高齢女子の話は、それは実のところ、なかなか興味深く、私は、時に「フィールドワーク」と呼んでいます。

 さきごろ、家に帰って、何気なくテレビをつけると、野球番組であり、画面下のテロップで、「 中 ― ソ 」という表示が出ており、「なんで、中国 (中共) とソ連(ロシア)が野球の試合をするんだろう」とふと思いましたが、どういう意味か、しばらく気が付きませんでした。
セリーグ、パリーグの恒例のリーグ交流戦の頃です(お粗末さまでした。)。

 「スポーツは、模擬の戦闘行為である」ということは、得心が行きます。
 すぐれた運動選手は、自己の戦いについて戦略が必要です。相手のコンディションを見通す観察力、相手のチームの状態を見通す洞察力、審判の判定の癖や、競技全体あるいは会場の雰囲気を瞬時に判断し、自己の演技・競技に反映しなければなりません(皆、普通にやっています。)。
 また、競技の中で、勝負は不断に反復しつつ行われるわけですから、瞬間瞬間での敗北からの切り替えと、集中が不断に要求され、競技に合わせ自己をコントロールする集中力と精神力も必要なのですね。
 また、競技者として常時勝者という人は、きわめて少ないところです(オリンピックに出るような選手はほとんどそれまでに天才と呼ばれた人かもしれませんが)。自己の能力、培ってきた技術で、どのようにしてか折り合いをつけ、相手の弱点を突き、集中して叩く必要があるのです。それは、同
時に消耗戦であり、間断のない精神の集中力と我慢が必要であり、攻撃に耐え、このときにこそと、一瞬で強い競技者を叩かなくてはなりません。すぐれ勝った競技者たちの、その厳しいやり取りと、緊張、そして勝利と敗北というカタルシスに私たちは感動する、ともいえます。やっぱり、国際大会なれば、競技者に対し共感と、強いナショナリズム(同胞意識といいます。)を感じるのですね。小柄で決して体格的に勝っていないわれら日本人が、懸命に闘い、厳しい勝利を勝ち取る姿に、同国民としての感動と喜びを感じるわけです。

 殊に、このたび、少人数の団体競技で、すぐれた競技者たちの、素晴らしい競技・演技(パフォーマンスでいいですが)を見た覚えがあります。
 みなさん、その体験はそれぞれだったでしょうが、私にとっては卓球競技、殊に女子卓球競技です。
 このたび、女子卓球は個人戦で現在の日本のエース石川佳純選手(山口県出身、とてもいい子です。・23歳)が、初戦で敗退し、その際、競技中負傷してもメディカルケアも与えられなかったという私の周囲からの不満の声がありましたが、その逆風の中で、福原愛選手は、個人の競技者として集中力
を閉ざさず、一セットも失わず、きわめて高い集中力でいわば神がかりの状態で、準決勝まで勝ち残りました。
以前、石川選手が、テレビの番組で、述懐していましたが、卓球選手は、サーブの球出しで(張ってあるラバーの面などの観察などで)予測能力だけで動く(それでないと現実に間に合わない)ということを言っており、狭い卓球台で、骨身を削るような競技をしている、彼女たちの現実を知らされました。11ポイント制の3セット先取マッチというのも、他に類がないような過酷な競技でしょう。体力や個人の能力は大きくものをいうだろうし、確かにタモリのいうように、暗い、厳しいスポーツです。
 残念ながら、個人戦準決勝でみた相手方の選手は、私という素人の見た範囲では、福原選手との相性が悪く、実力的にも上のように見えました。このたびのオリンピックで、福原選手は、自己の卓球人性のすべてとチームのリーダーとしての責任を賭けてという、厳しい決意性を持って臨んでいるように見えましたが(わかるときはわかるのです。)、1セットはとり報いましたが、彼女の全能力(全実存)をかけてもとどかなかったのは、同胞として、誠に残念なことでした。たぶん、今回のオリンピックは、体力的には下降しつつ(27歳)も、競技者としての彼女にとって現在が頂点であるという覚悟と、洞察があったんじゃあないかと、思われます。
結果、残念ながら、個人戦ではメダルに届きませんでした。

 しかし、団体戦では切替えました。
 団体戦では、リーダーは、一人のみならず、三人の競技者全体を見据えた戦略が必要です。 愛ちゃんは(うちの娘より年下なのでそれでよいでしょう。)、戦略家として、十全に働き、個人戦で気落ちしたエースを盛り上げ、立ち直らせ、ほぼ全試合だったと思いますが、ダブルスの試合において、
自負心が強くまだ生意気そうな(私の主観です。)経験不足の15歳の将来の日本のエース(伊藤美誠選手)を補佐し、そのミスと気持ちの乱れをまた試合経験の不足を補い、適切な助言で、彼女の持ち味を出させ、ダブルスに勝利をもたらしました。特筆すべきは、準決勝で、エッジ(敵陣の卓球台の
端)にあたったピン球の判定に際し、(あれは私には入ったと思えました。)覆らない判定に際し、相手方との握手を拒んだことです。「握手をすれば、判定を認めたことになる」、彼女はそう言ったし、そのとおりだと私も思いますが、若くして、中共のプロリーグに参戦し(大学を中退したと思い
ますが)、連日の厳しい勝負の中で、勝負の奈落と天国を見た彼女の勝負師としての賞賛すべき態度であった、と思います(彼女には中国人のファンもたくさんいたように思います。)。
日本人は、同調圧力なのか、国民性なのか、安易に負けを認める、反省すべきですね。勝負なのだから、やるなら石にかじりついても勝たなければならない。同時に、「準決勝の敗退はすべて私の責任です」、と言い切った、愛ちゃんの潔い言葉と、チームの同僚を思いやる気持ちに感動しました。
折しも、8月16日韓国外務省が、「日韓合意」を経て、日本国の10億円の拠出(今のところは賠償金といわない。)を受けるコメントがありましたが、昨年末の外(害)務省が、アメリカの政治的圧力に屈し、日本国民に多大な苦痛を与えた、虚偽の慰安婦問題の政治決着に、岸田外相、あんたはなぜもっと厳しい外務折衝をしなかったのか「愛ちゃんを見習え」と言いたい、このたび改ざんされた歴史(国家による女部屋設置への関与)に対し、この、死者を弔うべき8月において、われわれの父祖と祖霊に成り代わり、強く抗議したいところでした。

 ところで、準決勝に登場したドイツのナショナルチームはどうなのか、皆、外国人じゃないのか、世界選手権では21歳を超え帰化した外国人選手は出場できない、しかし、一定の年数を経れば、国代表として、しっかり出場できる、との規定であり、グローバリズムの影響下で、他国から、優秀な労働者を安く買い、これはEUの中で一人勝ちの、ドイツ帝国そのままのモデルではないですか、出場した(帰化した)彼女たちは覚悟のある態度と緊張感のもとで試合をしていましたが、いったい、ドイツ国民は、国際連合軍みたいなあんな試合で、勝ったとしても、見ていてうれしいのかね。私には、体格に恵まれない、二人とも丸顔でよく似た、日本のダブルスチームが実に好ましく思われました。
いずれにせよ、どこの卓球チームをみても、中国系、韓国系(?)の選手やコーチなどがきわめて多かったようですが。

 それはそうとして、最後の三位決定戦で、見事銅メダルを獲得した、卓球女子チームであり、全員泣いていましたが、殊に最後のインタビューで、「このたびのオリンピックは、本当に本当に苦しかった」、という、愛ちゃんの本音と、清らかな涙がとても印象的でした。
 多分彼女は、自己の年齢(東京大会ではどうなるかわからない。)次の代の石川佳純さんの年齢、そして将来、全日本の中核になるかも知れないまだ幼く未熟な選手の年齢を視野に入れ、厳しい戦いを勝ち抜いたはず、なのです。それはまさしく、スポーツを通じて、人格を陶冶(とうや:陶冶とは、
もとは漢語で陶器や鋳物をつくりあげるという意味である。 転じて、人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。)した彼女の人性であろうし、それは、このたび、次のリーダー、石川選手に競技者としての自覚と決意を促したであろうし、「この三人でオリンピックに出られて本当に良かった」という、15歳の伊藤美誠選手のコメントに十分現れ、先輩たちを見習いたいという素直な気持ちの表明に表れているところです。

 卓球女子団体のみなさんこのたびはおめでとうございます。
 

「火葬場の少年」をめぐり、今年も考える。   その1

2016-08-12 21:32:27 | 時事・風俗・情況


( 8月です。お盆の月ですので、いつものように、皆で死者について考えましょう。 )

この写真を、かつて、お盆の戦争特集ドキュメンタリーなどで見たことがおありでしょうか?
これを見たのは、NHKの番組で特集した、ジョー・オドンネルさんという太平洋戦争当時の従軍カメラマンが、敗戦後の日本ことに被爆後の長崎で隠し撮りしたいくつかの写真に係る物語でした。私は、統一した経緯をこの番組で、初めて知りました。
以前どこかで見かけた、この「火葬場の少年」に強い印象を受け、逆引きで、ジョー・オドンネルにたどりついてはいましたが、彼の人となりと、写真にまつわる逸話は、興味深いものでした。しかし、私の印象はNHKの主題と微妙にずれてしまい、彼がやむにやまれず撮影した数多くの被爆者たちや子供たちの悲惨な、直接的な写真に比べて、より、この写真だけにやはり強い印象を受けました。なぜなのか、考えてみました。
写真のキャプションを述べて見ますと、膨大な原爆投下による被害者を葬るための、野辺送り(そんな生易しいものではなかったかも知れませんが)野焼きの火葬場の光景です。小学生の男の子が、火葬の順番を待彼の目線は、弟を見送る悲しみと、「小国民」として死者を弔う緊張と使命感、そして家族を含め死んでいった数多くの死者に対する敬意と哀しみに見開かれています。(私には、彼があたかも死者たちに、敬礼をしているようにも思えます。)
しかしながら、本来、年を経た年長者によって行順繰りに行われるべき厳粛な葬儀が、逆に、年端の行かぬ子供の手によって、自分の父母や、兄弟姉妹の幼い幼児の葬儀を、行わざるを得ないことが、いかに理不尽で、没義道なことか、よく思い起こす必要があります。
撮影者のオドンネルさんは、戦争従軍写真家としてこれらをひそかに撮影し、戦後何十年も後に行った当時のアメリカ国内の巡回写真展で、改めて太平洋戦争の実態と原爆投下による被害の甚大さを訴えたとき、「原爆投下は当然」との世論の雰囲気の中で、在郷軍人会の反発や世論の憤激の中で十字砲火を浴びたのですが、なぜか、この写真のみが、毅然として佇立する誇り高い子供の像のみが、アメリカの、一部の人々には、賞賛され、深い印象を与えたのか、よく納得できます。
私が想うオドンネルさんもそうではないかと推し量りますが、やはり、写真の、彼(少年)の姿勢は、「人間として、死者に対しこれ以上何をすればよいのか」という、ぎりぎりの、崇高な、尊敬すべき姿なのです。
オドンネルさんの話に戻りますが、オドンネルさんは、この写真を隠し持ち、40年間封印していました。
67歳のとき、わが内なる炎(?)にせかされるように、地方の放送局や、巡回写真展を通じ、公開し、「私は、国家のために誇りを持ってたたかった。しかし、やはり、あの戦争は間違いだった。」と、写真の公開活動を始めました。その当時の反発は、前述したとおりですが、妻に去られ、息子にそむかれ、「なぜ、(外国の敗戦国のことで)私たちの家庭を犠牲にするのか」と責められたといいます。しかし、彼の気持ちは、よくわかるような気がします。自分の残年数を数え、自己に強いられ、とうとう、不可避的に語りだしたのでしょう。
彼は、再来日の際、モデルの少年を必死で探したらしいのですが、彼には結局会えなかったようです(嗚呼)。
しかし、彼はたった一人のアメリカ人として、戦争当事者のそれぞれの国家とその国民たちの立場を超え、非戦闘員たちが受けたその人道に悖るような戦争犯罪に対し、自己の良心と、理念(原則性)だけに拠り、今後の自己にひき起こる過酷な運命を十分に承知しながら、暴挙(?) に出ました。
見習いたいものですね。

私自身、太平洋戦争が「聖戦であった」とか、「日本軍国主義の敗北」とか、信じていませんが、「最初に、弱いもの、年老いたもの、大衆を、敵の前に差し出す」(シモーヌ・ヴェイユ)戦争の不道徳性(?)は大変よくわかります。その後、恥ずかしながら、漫画で教えてもらいましたが(「とめはねっ!」河合克敏作、講談社、当該被害に学校教師として立ち会いそれを作品化した書家井上有一さんの慟哭の作品「噫横川国民学校」(群馬県立近代美術館蔵))、被害者10万人以上といわれる、東京大空襲で、横川国民学校校舎に避難していた避難児童とその家族たち幼児を含め一千名が、焼夷弾のじゅうたん爆撃により、焼死・全滅したことがあったことも知りました(ああ)。そのほかにも、戦時にしかありえなかったような、過酷で悲惨な被害はいくらもあったでしょう。同様に、当時の各国で存在したのは想像の範囲です。

また、同時に、東京裁判では決して触れられなかった、「勝者が敗者を裁く」その裁判の図式とその実態、アジアの非白人国家の近代化による苦闘とその罪障、また、敗北はしたが、欧米の植民地主義に抗して戦った、日本国の闘いが、欧米の抑圧に苦しんでいた、アジア、アフリカなどの多くの国々の独立運動や本来の健全なナショナリズムの醸成にどれほど役立ったかを、自虐史観におとしめられることなく、当時何の反証もできず、海外で不当に処断された、B級、C級戦犯たちのためにも、何よりも、300万人と推定される戦争の犠牲者のために、原爆はもちろんのこと本土空爆で死んでいったこども、老人、婦人たちのために、健全で自恃の心を持つ日本人として、また、将来の日本人たちのために、私たちは、きちんと、言挙げする必要があろうかと思い
ます。

現在、私たちが日々目にしている、米欧の一部支配階層により仕掛けられたグローバリズムによる搾取と無慈悲な資本主義の暴走(新帝国主義)に対して、その反動として、(信念対立や)宗教戦争のように現れているヨーロッパをはじめ世界各地で起こるテロや戦争、開発途上国など、持たざる者たちの差別や貧困を原因として引き起こされる、開発途上国内の戦争・内戦においてもしかりなのです。

同様に現在の日本国も、強大な(ろくでなしの)覇権国家に囲まれ、本日もまた、中共軍が、尖閣列島部分で、領土を侵犯し、軍事的、経済的侵犯への挑発を繰り返しています。彼らの戦略図は、沖縄・琉球弧を超え、太平洋へ進出する壮大なものらしいですが、旧日本軍に習い、彼らは、覇権帝国として、今後、中共「軍国主義」を展開するのでしょう。
今、どこでも見られる、厳しく悲惨な外国のテロルの惨状や軍事的状況にかかわらず、(青山繁晴氏が何度も繰り返すように)国防を人任せにした我が国は、戦勝国によって与えられた憲法で、自国防衛を他人事として、空疎な、「戦争反対」、「平和憲法の護持」をいうマスコミの大勢と、一部日本「知識人」前の反動宣伝行為の中で、国民本来の責任である、国防や、国境を防護することに無関心で、無頓着であれば、いずれ未来(現在の緊迫・緊急を考えれば未来かどうかわかりません。)の国民がつけを払うことになりそうです。そのとき、
未来の国民から、最初に責任ある毅然とした対応をしていれば、こんなことにならなかった、といわれたときに、どのような説明をするんですかね。現在、策のない政府は、当該中共の国際法を無視した軍事行動を放映していますが、われわれ国民としても、一貫性のない政府政策たとえば、バイアスのかかった官立大東大で日本人ではなく大量の中国人学生(?) の受け入れなど(「「民意」の嘘」産経セレクト、桜井よし子さんと、百地章日大教授との対談)にその記述がありました。)、びっくりするような話に無関心にならず、この重要な問題については、国民大衆のひとりとしてそれぞれの立場で、敗戦を経た国民国家において、多くの国民に対して責任ある独立国家に対し、日本が戦争にまきこまれないよう国家本来の条件整備に協力をすることは当然
のことだと思います。国際社会の、まぎれもない国家間の弱肉強食の紛争に、国民全体の生命と安全を巻き込まないのは、曲がりなりにも近代を経由した国民国家日本の政治の当然の役割だと思うからです。

オバマ大統領の広島訪問(?) を経たうえでも、一部アメリカ人の「原爆は戦争を終わらすために必要だった。」という発想には、日本人として、強い憤りを覚えます(とてもバカな一部の卑劣な日本人にも)。彼らの「想像力の貧困と欠如」、「同胞に対する同情心の欠如」、は明らかなものでしょう。

今は故人となったオドンネルさんの志に深く謝するとともに、皆さんにとって、かつての戦争とその犠牲者の問題が、また、現在の日本を囲む地勢的、歴史的状況を、日本人がいやおうなく対応せざるを得ない、覇権国家中共と、独裁国家北朝鮮の策動を、どう自己の視野に挙げていくのか、今年も、このたびおたずねしたいところです。

私たちにとって、8月は、やっぱり、戦没者や銃後の無辜の犠牲者そして祖霊たちに対して、わたしたち個々の家族の死者たちを安んじて彼岸に返していくために、「死を想え」(メメント・モリ)の時期なのです。