本日は、昔からフォローワー(便利な言葉ですね。)を続けてきた内のひとり、瀬尾育生さんについて触
れたいと思います。
彼は小浜逸郎さんとは少しスタンスが違い、直接敵に、ポスト3.11について、真摯に語っている人でもあ
ります。
当時、この本は、我々に対する「状況への発言」と読みました。東京圏の人の意見もなかなか伝わりませ
ん。西日本も、まだらのうちです。
また、この本は、質問者の佐藤幹夫さんに、瀬尾育生さんが答える内容となっています。
是非、原著に触れられることを強く勧めます。
************************************************
吉本隆明の言葉と「のぞみなきとき」のわたしたち(瀬尾育生)に係るレジュメ(P45まで)
その1
*時間と場所で色合いを変える「3.11」言説
関西圏などでは他人ごとではないのか。
3.11直後、意識の誤差やずれが生じていた。
社会的な、生活的なというより、「存在的な」打撃だった。
メルトダウン(炉心崩壊)が予測され、逃げるべきか、とどまるべきかの選択をせまられた。(私註:村上
龍も同様のことを言っていたと思います。)
その選択は、①生活の基盤がそこにあったかどうか、②周りの人が逃げないのに逃げられない、ディグニテ
ィ(尊厳)の問題(踏みとどまるという)、があった。
EX)全共闘の時のバリケード内の問題(怖ければ逃げてしまう。)
逃げずに済むものなら逃げない方が良かった。
原発に近い人には、別の選択がある。地域的な「まだら」の問題、時間的な「まだら」の問題、があった。
*高度成長と「東北(地方)」という問題
なぜ東北だったのか?という問題
太古の昔からの繰り返し(「カネ・人・もの・資源・情報」を大都市圏に集中する。)
都市圏のキーワード、「少子高齢」、「限界集落」、「貧困・格差」、派遣切り、正規・非正規」、・・・
・おしなべて、60年、70年の東北での恒常的な現象高度成長期に、都会の繁栄や豊かさは地方(東北)の衰退
に依存していた
EX)原子力発電所問題
原発はとめろ、汚染物質は一切持ち出すな、しかし都市生活の快適さと安全性は確保せよという
(身勝手な)論理(まったく市民主義ですねー)
*まだらと「均質化」という問題
意識状態の正常さのレベル自体が、社会の恒常性、定常性を想定しにくいレベルで来ている。
加齢によるまだらボケ、世代による思惟の落差
空間的な不均衡
福島被害は、必ず西に生じる不均質
EX)テェルノブイリは、被害をモスクワに及ぼさないため、ベラルーシで雨にした。
顕在化した不均質は、経済・産業・経済構造、ましては個人や世代地方性に還元できない。大規模な人類学的な事態の
象徴である。・・・放射能の飛散がなくとも、理不尽な「まだら」がどこにでもある。
あるときから自己責任みたいな理念がいわれ格差はあえてつくられるようになり、(国際的な安定状態は作ることがで
きるようになったけれども)世界ではあえて不均質が作られ緊張状態が作られ、敢えて殺戮は行われる。その場合の、格
差や差別や対立はかつて自然発生的にできていたものとは一味違う。
それは、メディア的な均質や、技術的に強制される均質さに、現実の実存的な、フィジカルなファクターが二枚重ねに
なった時に現われてくる構造的な不均質であって、そういう動向を測定しようとすれば、テクノロジーとか金融市場とか
の最高レベルが加算されなければならない。
個々人が、あるいは個々の共同体が避けたいと思っても、そのことが人類的に選択されている。今回の原発事故はそう
いう世界段階の象徴であって、倫理とか人間の主体的判断によって対処されるものではない。
地方のなかにもまだら状、都市へのあこがれ「繁栄」、「一億総中流」、などがあったが、階層化された地方では、山
村や僻村のように、「限界集落」、「消滅集落」がすでにあった。
また、都市の中での「地方」は、「山谷地区」(東京)、寿町(横浜)、「釜ヶ崎」(大阪)であった。
EX)都市住民に対する「ホームレス」、「貧困生活者」
健常の中の「障害」、「発達障害」
(格差や、差別という問題は、)文明的に、人類的に、構造的に不可避という面がありはしないか。神経症的な、平等、
均質、への志向と、経済的な実態、動かしようもない、物理的・地理的条件などを重ね合わすと、全体が干渉しあって錯
綜したまだら模様が出現する(ピリピリしたものすごく嫌な時代になっている)。
*「人類」の終局の課題に直面し始めている
このような状況に言及しないで、ツイッターが言論の機会を平等にするなどとは馬鹿話である。現在では無意味に近い、
民主主義の理念を、テクノロジーの有無を言わさぬ強制的均質化につなぎ合わせているだけである。(私見:例えば、
「アラブの春」、「ウクライナの問題など)
人間は、強制的な均質化に対して、倫理にも意思にもよらない、オートマチックなリアクションとして、個人としてより
は人類として、いたるところに微細な格差や差別を作っている。平穏のなかに悲惨をあえて作っている。(私見:例えば、
宗教国家などの国民生活に対する締め付け、抑圧など)
技術の問題は人間の主体にも、政治にも、権力にも帰属していない。まさに、そういう意味で、人類に帰属している。
現在でも唯一絶対的な解はないと考えられている問題は多い。
たとえば、「地球温暖化の問題」
意見の対立があり、しろうとでは判断できない。
ただし、もしそうならばということであれば、考察を行っておく必要がある。
EX) 炭素会計入門(橋爪大三郎)
現在では、「放射能汚染」の問題がある。
しろうとは、勘で判断する。
専門家の悪いところは、わからないということを言わない。
人類が全体としてどうなるかは、なるようにしかならない。個人として、悪くなるかどうかは、「運」次第である。
技術の問題は基本的にそれだけである、と思う。
倫理は介在しない。
本質的になるようにしかならないものを、わかっているようにしゃべったり、個人的に倫理的責任を謝罪してみたり、
誰かを悪人として仕立て上げそれを告発したりすることが、無責任だし、倫理的に悪だと思う。正解はない。正常もない。
聞き手(佐藤幹夫)が、いうように、汚染された世界を後世に残す、とか子供たちに申し訳がないとか、いうことに
ついて、(瀬尾は)自責として自分で考えることはない。原理的にそうでない筈だ。
(私見)この論理は、全盛期の(?)吉本からもらったものだと思います。晩年は、「オーム問題」や、「大衆問題」
に執着し、バイアスがかかる以前の吉本です。大変に明快でハッとします。また、どれだけこのように明快に答え
る人がいるのか、と思ってしまいます。倫理は、いつの時代でも、正しいような顔をして、人をからめ捕るのです。
できれば、我々も、自分を律したいものです。
*文学者が「反省」すること-----加藤、村上(春樹)両氏の発言をめぐって
加藤、村上(春樹)の主調音は、「取り返しのないことをした、深く反省し、自分の考え方の方向を変えなければなら
ない」ということだった。
核エネルギーに対して、漸進的に「廃絶」という理念を打ち出しているように感じた。そこには、何か根本的な態度変
更があるように感じた。
「「反核」異論」の時代(80年代の初め)、一番の前提は、核の「廃絶」などというものは、原理的にありえない、と
いう共通了解だったと思う。核「廃絶」は、ありえない理念だ、架空の、あえて言えば虚偽の理念だ、そういう理念から
普遍的な倫理を作りだすことは誤りだ、ということだったと思う。それが、今回、核兵器でなく、原発の問題として語ら
れだした。しかも、それを動機付けているものが、ある倫理的な負荷のようなものとして語られる、それに、とても戸惑
う。
(私見:最初に、福島原発事故の際に、広島反核兵器反対団体から、原発指弾の論調がでて、「あほかお前らは(お前
らは兵器と道具の区別もつかんのか。バカの便乗主義)」と思ったのが、私の実感でもあります。現地で、技術者
大衆が、天災の後始末に必死で取り組んでいる中で、(今では、「反戦、反核」というシュプレヒコールがその実
態ですが)、バカで、安い、始末に困る市民主義の末路を見たように感じたからです、この論理に異和をもたない
者が、国民の過半数を超えたら、日本はどうなるのか、と思いました。しかし、後で述べられる村上春樹も(ノー
ベル賞候補作家のバリバリの文化人であったはずの)同様なことをいっている。これは、彼の小説も駄目になって
いく兆候ではないかと、思いました。)
加藤の論理・・・核技術そのものは廃絶不可能だが、原発は廃絶できる。
村上春樹の行き方・・・問題を不当に倫理的に追い込んでいる。広島・長崎においても、今回の震災においても、我々
は被害者であると同時に被害者である、と倫理的なカテゴリーを超えるものを無理矢理、不当に倫理に追い込んでい
る。このようなものの言い方の嘘に一貫して敏感だったのが、これまでの村上文学だった。
こういう嘘は、敗戦後、60年安保後、全共闘後あらゆるところで聞いた。
それは、言葉の本質を決して言わない、倫理的な人間であるように見せようとするだけである。
文学というものは、本質的に世界は破滅してもいいという自由を常に確保しているべきものであるし、それは最初から
村上春樹の文学の中には明確にあったはずである。今回は核エネルギーの廃絶に向かう倫理を作るのに文学者は参加でき
るはずだ、と言っている(私見:ほとんど、80年代の反核署名文学者、大江健三郎、昔の高橋和己と同じですね。小林秀
雄を引くまでもなく、自分の文学者の側面を離れたら、唯の人(凡人であることもありうる)であるという、自明の前提
を意識化できないことにおいて。)。
更に、村上春樹は、効率性を批判している。「こうなったのは、効率を選択したからだ」、と。もし、「効率」が選択
可能であれば、この言い方は成り立つかも知れないが、生活感覚からいえば、個人的には携帯もパソコンもない世界に生
きたいとは思えない。(私的揶揄:今後、村上はパソコンで書かずに、ペンか鉛筆で小説を書くのか?それすら供給がな
ければかけないだろうに。)
こうなったのは、無批判に、携帯もパソコンも受容し、享受したためか、われわれが意志して、効率至上主義を反省し
ていれば高度資本主義にならないし、金融商品市場に左右されない世界になったのか、そんなことはあり得ないことであ
る。
村上は、もともと人間の意志的な選択でないものを、人間の選択に追い込んで、現実でありえない倫理を作り出してい
る。
一般的にいって、文学者はもともと時代の固有性の限定の中で仕事をしている。この限定があるから、その時代の歴史
的な必然を体現することができる。その限定がないのなら、文学というものははじめから成り立たない。
だから、自分がやって来たことが間違っていた、とか、いま状況が変わったから態度を変える、と言った過去への言及
の仕方は、文学者にはあり得ない。
小林秀雄は、戦後になって、「・・・・・俺は馬鹿だから反省などしない」といった。
どんなに心が痛んでも「反省しない」と発言することで、思想や文学のための場所を断固として確保した。
文学者は反省する必要はない。かつてと同じ構えで、同じ自分の存在を賭けて、今いえることをただいえばいい。
かつての考えは間違っていたと「言う」とか、反省すると「言う」のは誠実に見えるかも知れないが、一人の文学者と
すれば、自らの過去を切断すると同時に、これから自分がいうことも、いつ反省して変更するかも知れない、ということ
になる。これは一人の文学者としてとても危険なことだと思う。
大きな発言力を持った人には必ずフォローワーがいる。
フォローワーたちは、ある文学者や思想家が言っていることを頼りにして、自分の言論を組み立てていく部分が必ずあ
る。
(私見:確かに、3.11を経て、私は、吉本や小浜や竹田青嗣、橋爪大三郎の状況論を懸命に探した覚えがあります。この
瀬尾の評論は、私が承知おいている中で最も興味深いものの一つでした。)
その人が、それまで誰も開いたことがなかった思想の地平を切り開いて見せたとすれば、歯を食いしばってもその場所
を動かないでいてもらいたい。決して軸足の位置を動かすようなことをして欲しくない。僕たちはそれを支えにしている。
思想家とか文学者とかはそういう存在だと思う。
れたいと思います。
彼は小浜逸郎さんとは少しスタンスが違い、直接敵に、ポスト3.11について、真摯に語っている人でもあ
ります。
当時、この本は、我々に対する「状況への発言」と読みました。東京圏の人の意見もなかなか伝わりませ
ん。西日本も、まだらのうちです。
また、この本は、質問者の佐藤幹夫さんに、瀬尾育生さんが答える内容となっています。
是非、原著に触れられることを強く勧めます。
************************************************
吉本隆明の言葉と「のぞみなきとき」のわたしたち(瀬尾育生)に係るレジュメ(P45まで)
その1
*時間と場所で色合いを変える「3.11」言説
関西圏などでは他人ごとではないのか。
3.11直後、意識の誤差やずれが生じていた。
社会的な、生活的なというより、「存在的な」打撃だった。
メルトダウン(炉心崩壊)が予測され、逃げるべきか、とどまるべきかの選択をせまられた。(私註:村上
龍も同様のことを言っていたと思います。)
その選択は、①生活の基盤がそこにあったかどうか、②周りの人が逃げないのに逃げられない、ディグニテ
ィ(尊厳)の問題(踏みとどまるという)、があった。
EX)全共闘の時のバリケード内の問題(怖ければ逃げてしまう。)
逃げずに済むものなら逃げない方が良かった。
原発に近い人には、別の選択がある。地域的な「まだら」の問題、時間的な「まだら」の問題、があった。
*高度成長と「東北(地方)」という問題
なぜ東北だったのか?という問題
太古の昔からの繰り返し(「カネ・人・もの・資源・情報」を大都市圏に集中する。)
都市圏のキーワード、「少子高齢」、「限界集落」、「貧困・格差」、派遣切り、正規・非正規」、・・・
・おしなべて、60年、70年の東北での恒常的な現象高度成長期に、都会の繁栄や豊かさは地方(東北)の衰退
に依存していた
EX)原子力発電所問題
原発はとめろ、汚染物質は一切持ち出すな、しかし都市生活の快適さと安全性は確保せよという
(身勝手な)論理(まったく市民主義ですねー)
*まだらと「均質化」という問題
意識状態の正常さのレベル自体が、社会の恒常性、定常性を想定しにくいレベルで来ている。
加齢によるまだらボケ、世代による思惟の落差
空間的な不均衡
福島被害は、必ず西に生じる不均質
EX)テェルノブイリは、被害をモスクワに及ぼさないため、ベラルーシで雨にした。
顕在化した不均質は、経済・産業・経済構造、ましては個人や世代地方性に還元できない。大規模な人類学的な事態の
象徴である。・・・放射能の飛散がなくとも、理不尽な「まだら」がどこにでもある。
あるときから自己責任みたいな理念がいわれ格差はあえてつくられるようになり、(国際的な安定状態は作ることがで
きるようになったけれども)世界ではあえて不均質が作られ緊張状態が作られ、敢えて殺戮は行われる。その場合の、格
差や差別や対立はかつて自然発生的にできていたものとは一味違う。
それは、メディア的な均質や、技術的に強制される均質さに、現実の実存的な、フィジカルなファクターが二枚重ねに
なった時に現われてくる構造的な不均質であって、そういう動向を測定しようとすれば、テクノロジーとか金融市場とか
の最高レベルが加算されなければならない。
個々人が、あるいは個々の共同体が避けたいと思っても、そのことが人類的に選択されている。今回の原発事故はそう
いう世界段階の象徴であって、倫理とか人間の主体的判断によって対処されるものではない。
地方のなかにもまだら状、都市へのあこがれ「繁栄」、「一億総中流」、などがあったが、階層化された地方では、山
村や僻村のように、「限界集落」、「消滅集落」がすでにあった。
また、都市の中での「地方」は、「山谷地区」(東京)、寿町(横浜)、「釜ヶ崎」(大阪)であった。
EX)都市住民に対する「ホームレス」、「貧困生活者」
健常の中の「障害」、「発達障害」
(格差や、差別という問題は、)文明的に、人類的に、構造的に不可避という面がありはしないか。神経症的な、平等、
均質、への志向と、経済的な実態、動かしようもない、物理的・地理的条件などを重ね合わすと、全体が干渉しあって錯
綜したまだら模様が出現する(ピリピリしたものすごく嫌な時代になっている)。
*「人類」の終局の課題に直面し始めている
このような状況に言及しないで、ツイッターが言論の機会を平等にするなどとは馬鹿話である。現在では無意味に近い、
民主主義の理念を、テクノロジーの有無を言わさぬ強制的均質化につなぎ合わせているだけである。(私見:例えば、
「アラブの春」、「ウクライナの問題など)
人間は、強制的な均質化に対して、倫理にも意思にもよらない、オートマチックなリアクションとして、個人としてより
は人類として、いたるところに微細な格差や差別を作っている。平穏のなかに悲惨をあえて作っている。(私見:例えば、
宗教国家などの国民生活に対する締め付け、抑圧など)
技術の問題は人間の主体にも、政治にも、権力にも帰属していない。まさに、そういう意味で、人類に帰属している。
現在でも唯一絶対的な解はないと考えられている問題は多い。
たとえば、「地球温暖化の問題」
意見の対立があり、しろうとでは判断できない。
ただし、もしそうならばということであれば、考察を行っておく必要がある。
EX) 炭素会計入門(橋爪大三郎)
現在では、「放射能汚染」の問題がある。
しろうとは、勘で判断する。
専門家の悪いところは、わからないということを言わない。
人類が全体としてどうなるかは、なるようにしかならない。個人として、悪くなるかどうかは、「運」次第である。
技術の問題は基本的にそれだけである、と思う。
倫理は介在しない。
本質的になるようにしかならないものを、わかっているようにしゃべったり、個人的に倫理的責任を謝罪してみたり、
誰かを悪人として仕立て上げそれを告発したりすることが、無責任だし、倫理的に悪だと思う。正解はない。正常もない。
聞き手(佐藤幹夫)が、いうように、汚染された世界を後世に残す、とか子供たちに申し訳がないとか、いうことに
ついて、(瀬尾は)自責として自分で考えることはない。原理的にそうでない筈だ。
(私見)この論理は、全盛期の(?)吉本からもらったものだと思います。晩年は、「オーム問題」や、「大衆問題」
に執着し、バイアスがかかる以前の吉本です。大変に明快でハッとします。また、どれだけこのように明快に答え
る人がいるのか、と思ってしまいます。倫理は、いつの時代でも、正しいような顔をして、人をからめ捕るのです。
できれば、我々も、自分を律したいものです。
*文学者が「反省」すること-----加藤、村上(春樹)両氏の発言をめぐって
加藤、村上(春樹)の主調音は、「取り返しのないことをした、深く反省し、自分の考え方の方向を変えなければなら
ない」ということだった。
核エネルギーに対して、漸進的に「廃絶」という理念を打ち出しているように感じた。そこには、何か根本的な態度変
更があるように感じた。
「「反核」異論」の時代(80年代の初め)、一番の前提は、核の「廃絶」などというものは、原理的にありえない、と
いう共通了解だったと思う。核「廃絶」は、ありえない理念だ、架空の、あえて言えば虚偽の理念だ、そういう理念から
普遍的な倫理を作りだすことは誤りだ、ということだったと思う。それが、今回、核兵器でなく、原発の問題として語ら
れだした。しかも、それを動機付けているものが、ある倫理的な負荷のようなものとして語られる、それに、とても戸惑
う。
(私見:最初に、福島原発事故の際に、広島反核兵器反対団体から、原発指弾の論調がでて、「あほかお前らは(お前
らは兵器と道具の区別もつかんのか。バカの便乗主義)」と思ったのが、私の実感でもあります。現地で、技術者
大衆が、天災の後始末に必死で取り組んでいる中で、(今では、「反戦、反核」というシュプレヒコールがその実
態ですが)、バカで、安い、始末に困る市民主義の末路を見たように感じたからです、この論理に異和をもたない
者が、国民の過半数を超えたら、日本はどうなるのか、と思いました。しかし、後で述べられる村上春樹も(ノー
ベル賞候補作家のバリバリの文化人であったはずの)同様なことをいっている。これは、彼の小説も駄目になって
いく兆候ではないかと、思いました。)
加藤の論理・・・核技術そのものは廃絶不可能だが、原発は廃絶できる。
村上春樹の行き方・・・問題を不当に倫理的に追い込んでいる。広島・長崎においても、今回の震災においても、我々
は被害者であると同時に被害者である、と倫理的なカテゴリーを超えるものを無理矢理、不当に倫理に追い込んでい
る。このようなものの言い方の嘘に一貫して敏感だったのが、これまでの村上文学だった。
こういう嘘は、敗戦後、60年安保後、全共闘後あらゆるところで聞いた。
それは、言葉の本質を決して言わない、倫理的な人間であるように見せようとするだけである。
文学というものは、本質的に世界は破滅してもいいという自由を常に確保しているべきものであるし、それは最初から
村上春樹の文学の中には明確にあったはずである。今回は核エネルギーの廃絶に向かう倫理を作るのに文学者は参加でき
るはずだ、と言っている(私見:ほとんど、80年代の反核署名文学者、大江健三郎、昔の高橋和己と同じですね。小林秀
雄を引くまでもなく、自分の文学者の側面を離れたら、唯の人(凡人であることもありうる)であるという、自明の前提
を意識化できないことにおいて。)。
更に、村上春樹は、効率性を批判している。「こうなったのは、効率を選択したからだ」、と。もし、「効率」が選択
可能であれば、この言い方は成り立つかも知れないが、生活感覚からいえば、個人的には携帯もパソコンもない世界に生
きたいとは思えない。(私的揶揄:今後、村上はパソコンで書かずに、ペンか鉛筆で小説を書くのか?それすら供給がな
ければかけないだろうに。)
こうなったのは、無批判に、携帯もパソコンも受容し、享受したためか、われわれが意志して、効率至上主義を反省し
ていれば高度資本主義にならないし、金融商品市場に左右されない世界になったのか、そんなことはあり得ないことであ
る。
村上は、もともと人間の意志的な選択でないものを、人間の選択に追い込んで、現実でありえない倫理を作り出してい
る。
一般的にいって、文学者はもともと時代の固有性の限定の中で仕事をしている。この限定があるから、その時代の歴史
的な必然を体現することができる。その限定がないのなら、文学というものははじめから成り立たない。
だから、自分がやって来たことが間違っていた、とか、いま状況が変わったから態度を変える、と言った過去への言及
の仕方は、文学者にはあり得ない。
小林秀雄は、戦後になって、「・・・・・俺は馬鹿だから反省などしない」といった。
どんなに心が痛んでも「反省しない」と発言することで、思想や文学のための場所を断固として確保した。
文学者は反省する必要はない。かつてと同じ構えで、同じ自分の存在を賭けて、今いえることをただいえばいい。
かつての考えは間違っていたと「言う」とか、反省すると「言う」のは誠実に見えるかも知れないが、一人の文学者と
すれば、自らの過去を切断すると同時に、これから自分がいうことも、いつ反省して変更するかも知れない、ということ
になる。これは一人の文学者としてとても危険なことだと思う。
大きな発言力を持った人には必ずフォローワーがいる。
フォローワーたちは、ある文学者や思想家が言っていることを頼りにして、自分の言論を組み立てていく部分が必ずあ
る。
(私見:確かに、3.11を経て、私は、吉本や小浜や竹田青嗣、橋爪大三郎の状況論を懸命に探した覚えがあります。この
瀬尾の評論は、私が承知おいている中で最も興味深いものの一つでした。)
その人が、それまで誰も開いたことがなかった思想の地平を切り開いて見せたとすれば、歯を食いしばってもその場所
を動かないでいてもらいたい。決して軸足の位置を動かすようなことをして欲しくない。僕たちはそれを支えにしている。
思想家とか文学者とかはそういう存在だと思う。