天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

別府旅行記追記「中共語化(朝鮮語化)は更なる愚民化=奴隷化」である(西日本高速道路運営会社にもの申す。)。 (罵倒編12のその2)

2020-10-31 15:20:17 | 罵倒シリーズ
 このたび、再度、別府に行った。
 例の、「GO TO トラベルキャンペーン」を利用しての話である。

 近頃、人性の黄昏時(本当はよくわからないが)に差し掛かったせいか、妻が、生き急いでいる。
 それは、自分がどこまで元気で動けるか、という危機意識である。
 彼女には、もともと、引退したら、外国旅行をする、という宿願がある。
 自身の学友たちは、おしなべて奥様になり、ほしいままに、海外旅行等行っていて、なぜ懸命に働きつづけた私は割を食うのか、というのがその主張である。
 うちのパートの従業員も同様にしている、という。
 「本当にそうなのか」と、こちらが疑義や理屈を説いても無駄である。
 私は、今まで家族の犠牲になった、この際、つけを返してもらう、という。
 いわば、これはルサンチマンのようなものであろうか。

 また、その姿は、名著「オニババ化する女たち」(三砂ちづる著)の現実形態のようなものなのか、うちの妻も、自己利害の全面追及と、他者に対する寛容さとかや思いやりとかを償却しながら、経年劣化していくばかりである。
 彼女も、同様に、私をののしるだろうが、それは彼女の権利である。
 私たちは、対等であり、それぞれの立場で愛憎の歴史をもっている。

 ところで、私のような境遇にいると、官庁主導の陰謀「男女共同参画運動」は、つくづくと、本当に腹が立つ。
 私の見るところ、世の多くの男どもも、同様な見解であろうと思う。
 あの、パヨク・フェミニズム主導の能天気な主調音がどうにも許せない。
 学生時代、周囲にいた新左翼や政党・労組同伴者と、その愚かな承継者たちに感じたものと同様で、虫ずが走る。

 夫婦間のトラブルが「犯罪」まで行きつく深刻な場合は別である(犯罪としてさばけばいい。警察は家族内の犯罪にも介入してくれるようになった。)。

 今、国家・政府が、無理やり男女問題の解決をすると強硬に主張するのは、女性の低賃金労働者就業への勧奨と、LGBT推進政策とタッグを組んだ、自国民の分断と外国人労働者の過剰流入を合理化していくことにある。
 男女共同参画大臣設置など、政府はどこまでおバカなのか。
 おまけに、一事不再議の原則に照らしても違法である、国民間の意見聴取でも決着した、夫婦別姓の問題を、なぜ今更蒸し返す。
 腐った、大阪市維新勢力の推進する「都構想」と同質の政治手法ではないか。
 私も、大多数大阪市民大衆にとっての良い方向で、決着することを望んでいる(すなわち維新勢力と新自由主義による大阪市の食いつぶし謀略が破綻すること)。

 それこそ、パヨクが思うほど、政府はバカでないのなら、それは、明らかに大多数国民の利害に対する敵対行為である。すなわち確信犯である。

 いずれまた蒸し返すが、学会合意決着の10万円ばらまき以外に、政府・財務省は経済対策として、国民に何をしてくれた?
 デフレ・コロナのダブルパンチに、国内景気復興対策に何の手をも出さない。あきれて論じることもできないほどに。
 その合間で、新自由主義、売国奴竹中平蔵が、内閣ブレーンで活躍する。福祉の制限の公言と、日本国の宝、国内中小企業は日本国にいらない、という。さすがに、自己利益の徹底追及と無慈悲な資本主義を体現するだけあって、あの童顔も、近頃、悪相になってはいないか。
 したがって、敵国中共に走る、国内大手売国奴企業が輩出する。
 国民所得が、すでに南鮮にも劣るというのなら、まず、国家間の経済戦争に私たちはすでに負けているではないか、政府、一部特権者たちは、腐ったグローバリズムにどこまで加担・奉仕するのか。

 もともと、「男女共同参画」というのなら、それは「心や意識の問題」などという上等な問題ではない。
 私にも割り当て研修があり、仕方がないので、まず協賛企業に対して、いわれのない男女の賃金格差の解消を働きかけるべきでないのか、それを抜きにして何も語れないと、私は何度も、啓発研修の市の担当者に提言した。ナシのつぶて、である。そうであろう、本気でないから。

 いい年をして、市民に対し「家事の男女間の共同負担」とか提言して、お前たちは恥ずかしくないのか。基本的に、市民をバカにしている。
 「俺は、お前たちが、(裏で)どんなインチキな夫婦喧嘩をしているかよく知っているぞ」と、喝破した小林秀雄のように、バカな公式、愚劣問答を繰り返す彼らをののしってやりたい。
 国家や政府が、夫婦(男女)間で作り上げる個々の生活・観念世界(対幻想)に口を挟むなど、余計なお世話である。
 そんなアホらしいことは、さすがに古代から為政者もやってこなかった。

 一組の男女間での「愛の直接性」とか、片面的なことは言うまい。当然のことだ、子育てやらなんやらの際に、少々壊れかかった夫婦にもそれは確かにある。
 それより何より、制度の不備と貧困によってそれが阻害される、虐待やネグレクトを私は許さない。
 それは、多くの国民大衆たちも、同様な見解であると思う。
 現在、何より問題なのは、「国民の貧困」の問題なのだと。
 先に、小浜逸郎氏に教わった、京大教授、美学学会会長、吉岡洋氏のブログ、「ひるねのたぬき」(chez-nous.typepad.jp)、を引用する。
 「日本国民の貧困化を継続しさらに助長することになるすべての政策に対して、党派やイデオロギーの違いを越えて大同団結することが(今)最も必要であると考えています。(学問の自由について) 
 「国民の貧困」は、学者であろうが、一般大衆であろうが、あらゆる側面で、進められ、私たちは分断されている。
 この認識と、当面、個々の側面での戦いを私たちは、喫緊の問題として共有し、戦って行かなくてはならない、と私も思う。

 ここからは、「男と女に係る」個人的な感興(各論)に戻る。

 しかし、それ(愛の直接性)が長く続いていくとは限らない。
 そもそも、開闢(かいびゃく)以来、一連の男と女は、相互で不断の闘争をしている。
 それは、男女のどちらが、何らかの方法で、相手へのヘゲモニー(支配への同意)を握るかというところに尽きている。
 更年期に差し掛かり、ラカンの指摘を待つまでもなく、折に触れ、妻は狂騒状態になる、何をしても言っても、何も受け付けない、あれは演技をしているのではないかとひそかに私は疑っている。
 一方、同様にご指摘のとおり、「女になった」はずの私は、昔の攻撃性(?) は収まり、昔より温和になった。
 性を媒介にした関係も、お互い衰えてしまえば、融和への道筋はできる、よくしたものである。
 私たちも、通常であれば、決定的な破綻まで行かない。
 仕方がないので、その前で、お互いに損得と今後の様々なリスクを測る。
 そんなものである。あらゆる関係は、闘争の果てに生じたものであると。
 嘘がつけない男女間できれいな口を利くことはない。殊に、根っからのリアリストである女性とすれば、男女共同参画など、屁みたいなものだろう。
 それが理解できずに、否、それを政治的な運動に引っ張り込もうという女は、心底、下衆(げす)だ。言っておかなければならないなら、男も下衆だ。私の敵だ。

 かの「文化大革命」の際、流行ったという、「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのもみんな私が悪いのよ」と、以前私は、ゆるやかに妻に抗弁したことがありはしないか。

 おそらく、我が家の子や孫を入れてしまえば、彼らは、私より妻の延命を望むであろう。
 それは十分に理解できる。妻の方が、将来、役に立つのだ。
 平均年齢は、一般的に女が長い、自然の摂理はそうできている。
 私は、妻よりは先に、従容(憤然)として、死んでいこう、それはひそかな決意である(本当のところはよくわからないが。)。
 妻は、逆に、私が生き急いでいるという、なかなか鋭い指摘だ、優れた対立者というのは、身内にもいる。


 閑話休題、前振りはここまでにさせてもらう。長くなって申し訳ない。
 逆らったら、はけ口・標的となるので、基本的に逆らわない、どこに行くといわれても、喜んでお供をさせていただく。それが幸せというものだ。
 さすがに南極に行きたい、というのは断ったが。

 ということで、このたびも妻が皆仕切ってくれる。
 ありがたいことである。
 私も好奇心は、まだ尽きないので、旅行に行けば楽しい思いはできる。
 このたびは、大分県日出町の、二階堂美術館の所蔵品で開催されている横山大観展を見に行くこととなった。
 地方で、大家といわれる人の作品を見る機会は少ないので、大変うれしかった。

 東九州自動車道に入って、前回に罵倒した、今川PAに入る。
 徹底した合理化で、コンビニ、インターが併設であるあわただしい場所である。
 まことに息苦しい。
 注意深く聞いていると、中共語、朝鮮語放送がない、先に立ち寄った(9月上旬)時、なぜ、コロナ下で意味もなく、こんな売国放送を繰り返す、と投書したので、私たち利用者の意見も、聴取し、採用するのだとうれしかった。
 したがって、お礼の言葉を投稿しようと、はがきを取り上げた。

 あにはからんや、帰路の、対に設置された今川PAに立ち寄った際である。
 きちんと、中共語、朝鮮語放送が、放送されているではないか。
 要は、下り路線は、音声の故障だったのであろう。
 引き続き、立ち寄り者もいないはずの場所で、売国放送を繰り返す。

 もし、政治的に日本国に住在する中共人があれば、日本国民は、習近平のご威光のもとに、変わらず臣従している、愉快、愉快と思ったであろう(中共で習近平が尊敬されているかどうかは別問題である。)。
 反日国家の南鮮人であれば、あれだけなじっても、バカにしても日本人はバカだ、そんなもんだ、バカはバカだ、バカにしていれば、今までとおりでなんの問題もない、と思うだろう。

 続いて、「めかりPA」に寄っても同様である。閑散とした、パーキングに、放送ばかり響いている。
 このたび、検証しなかったが、関門海峡の対岸にある下りの「下関PA」においても、同様の扱いなのかもしれない。
 下関市は、観光商業地の唐戸魚市場で、中共人を原因とするコロナ被害で大損害を受けたであろうに、と思う。

 民族語、日本語は、日本人の誇りである。
 日本国では日本語を使いこなす(西欧文明を翻訳・理解し自国の安定のもととしたということである。)文化国家であるが、今後とも、殊に、世界平和の脅威である中共、反日国家の南鮮に、侵略され、また侮られて、いずれ植民地国家の座に頽落(たいらく)するのか。
 日本国が経済的に占拠され、今までも、日本国の文化・伝統を軽視、侮蔑する行為は、島しょ部、周辺部など、警備の薄い、日本国の各地で行われてきた。
 それを言えば、私は、東京の名門百貨店でも、同様な光景を見てきた。
 要は、教養のない、覇権国の、元貧民たちは、他国に行っても、素で下品な行為を繰り返すということである。

 いずれにせよ、中共が日本国の敵国として対立すれば、ウイグルと同様に、悪辣な同化政策をとるのは明白である。
 反動革命、文化革命で、伝統・文化を否定し、父祖を否定し、家族すら否定することを強要し、反抗的な指導者・国民を、公開処刑してきた、パヨク国家の人民抑圧は、今も、健在である。
 悲惨な反動革命は、カンボジアでも、南米でもいくらもあった話ではないか。
 それを擁護する、西欧・日本国の病的な狂信パヨク勢力も、益々健在である。

 なぜ、西日本高速道路運営会社は、利敵・反社会的行為を改めないのか、それとも、すでに、その経営は、中共の管理下にあるのか。

 九州には、名著「英語化は愚民化」の著者、施光恒氏もいるはずである。
 九州では、親中共、親南鮮の気風・雰囲気があるといえば、それまでであるが、九州人は、なぜ、こんな仕打ちに怒らない?

 このたび、私が旅先で出会ったのは、皆、至極まともで健全な人ばかりであった。
 彼らは、「GO TO トラベルキャンペーン」をありがたいといい、自社の利潤率の減少を覚悟で、親切な対応をしてくれた。お土産までもらった。

 私が感じたところでは、今回、旅行者は思いのほか多い。どこでも日本語が聞けて良かった、ところである。

 しかし、このたびも、深く、思ったのは、疲弊した観光地・商業地を復活するためには、まず必要なのは、国民経済の健全な復活ということであり、そのため、なぜ、消費税を凍結しないのか、という、率直な疑問である。
 消費行為は雰囲気である、デフレ、コロナとマイナス原因が続くのに、誰が積極的に消費をするというのだ。消費が振るわないのに、誰が、積極的に、商品開発をしたり、製造・販売が活性化するというのか。
 「GO TO トラベルキャンペーン」などでは明らかに不十分である。
 私は、地元の商業者、製造業者のみならず、一般国民大衆を、側面支援したい。
 私たちは、貧困から抜け出す権利がある。「自己努力」とか上等なものではない。
 政府が、怠り続けた、効果ある経済政策を成すべきである。

 「非国民」といわれるがいやで、旅行にもいかない人が、いくらでもいるではないか。
 早急に消費税凍結(廃止)し、どこに居ようと、国民の大多数が、共存共栄し、日本国の安心安全が護持できるようにすべきであろうと思う。

 「西日本高速道路運営会社」よ、そのためにも、意味のない、いや、非常に害のある、売国放送を即座に停止せよ。

ねこ騒動てんまつ、併せ、ものの美醜を問う

2020-10-15 18:10:44 | エッセイ
ひょんなことから、我が家に、のら(だと思う。)ネコが居ついたが、家族の反対により、エサやりだけやっている。
どうも、人間以上に、ペットも、その面貌(アウトルッキングというやつです。)が、やはり、その性格より、外見で判断されるようだ。

ねこ嫌いのうちの妻ですら、かわいい幼猫は構いたがる。
「かわいくないねこ」には、気の毒といえば気の毒であるが、そこはそれ、われわれと同様に、ねこにとっても「運命」というものですね。

お定まりの脱線だが、例のLGBT運動や人権擁護運動に、醜女と醜男の支援という項の新設はないのだろうか、と思った。
人はその生まれに責任を持たない、したがってもって生まれた当該醜貌の優劣(?) により差別を受けるのは、どうも社会的に許されない、したがって、ブス又はぶ男の人権を守れ、と。
性的し好の尊重なら、ぶさいくな人間にも、救済の必要がありはしないかと思ったわけである。
もし、当該不公正を補償する、補償金でもあれば、私はそうであるというカミングアウトが生じ、社会的不公正を是正する、登録者も生じるかもしれない。
しかし、人間の心理は微妙なもので、もし、個々において、「私はブスではない、ぶ男ではない」、という個々に自負心や自恃の心あるいは思い違いでもあれば、そんな項の新設は必要ないのかもしれない。
前向きな精神以上に、うぬぼれ・虚栄心の存在や、現状認識の甘さというネガティブな心性・劣性は、個々に救いをもたらすものかもしれないからである。

それでも、「見た目が第一」と考えるなら、美容整形大国、南鮮で手術を受ければよい、金の力でそれなりに自由は獲得できるのだ。
いずれにせよ、自己の直接責任はないにせよ、自己のマイナス面と思われるものを外部の責任に転嫁して、際限のない補償(同情・憐憫など)を求めるのは間違っている。政治的にも、人倫的にも。

 それから、敷衍して見れば、男女共同参画もLGBT運動も相当いかがわしい。
 それこそ、まず理由のない賃金格差、とか、国民国家としての自国民ファーストとか、他国の政治の失敗・退廃とか、感情以外に別の社会的な媒介項を入れずに、あおられた露骨な政治的な引き回しに肩入れし、ナイーブ(つまりバカ)な大衆を引き回している。
 お人よしの善意(?) に付け込み、脅迫するような手段と募金の強要と同様、個々の国家の政治的な失敗や、人権抑圧、自分たちに都合の悪い事実を隠蔽し、国籍を問わず他国のそれなりに貧しくお人よしの大衆たちまでを騙す、ユネスコやアムネスティなどと同様であり、下劣で、いやな奴だ。

 また、我が国の行政機関がまるでグローバリズムの先兵のように、LGBT運動・男女共同参画問題取り上げるのは、政策的な意図があるのだろう。少数者(?) の外国人と問題をすり替え、外国資本・外国人による侵略を抵抗なく導入する手段である。あわよくば、国境も、国民国家の仕組みをも解体しようという、強固な主張(いや陰謀)がある。

 そもそも、LGBTも、男女共同参画も、前提として、それを保証する、健全な国民国家が背後に控えているという前提があってのことである。まず、「自国民、いや日本国民ファースト」となぜ言えない。
 それを主張することすら禁忌にする、覇権国家、反日国家、それに加担する国内パヨク・売国奴勢力など、敵は、いくらもいる。

 ということで、私は、太宰治流に言えば「あかぐろいぶおとこ」であり、かつ老境(前期高齢者)に入り人並みにハゲ(うちの妻が嫌がらせに頭頂部の写真を撮ってくれる。汝自身をしれ、ということであろう。ありがたい話である。)で、糖尿で、高脂血である。
 自慢ではないが、加齢臭もありつつ、見た目がすべてという世間知からすれば、性的にも社会的にも禁忌・阻害される被差別対象に該当する。

 しようがねえなということである。諦観は友達である。

 ところで、外見第一ということでいえば、もちろん、ポピュリズム政治家が最も敏感である。外見の差は、まさしく票に響くのである。

 かつて、うちの妻に、「学歴詐称は政治家欠格だけど、あのかつらをかぶった政治家は、選挙民をだましてるんじゃないのかね、むしろ学歴詐称より、罪が重いんじゃ」と尋ねると、彼女は「人間、外見がすべてなのよ、その努力を誉めるべきよ」と答える。
 ジェンダーの差による、政治的感覚の差異に納得した。
 
 やむを得ないので、「こちとら醜男(ぶおとこ)だが、整形もしてねえし、かつらもかぶっちゃねえよ」、「ボロは着てても心は錦(それほどでもないが)」と、私は尻をまくることにしよう。

  ひょんなことに戻る。
 私は、うちに時々やってくる、黒毛多めの三毛猫にえさを与えることになった。

 その前置きとして、それより前に、野良猫たちが、我が家のバックヤードに、子づれでやってきていた。
 たぶん、それは猫にすれば、この家で支援があるのかどうか、瀬踏みの状態であったに違いない。
 見ていて、私がこらえきれずに、えさをやろうとすると子猫は逃げる、そのうち来なくなり、最後に、さして、美しくない、少し年かさの三毛が残ったわけである。
 三毛の配色で、黒が強いのは、見栄えがよくない、かわいくない。
 そのうち、甘い家だと思ったか、大きなオスのキジねこまでがやってきたが、ふてぶてしい態度であり(私見) 追い払ってやった。それは私の気分と感情である。

 外孫たちが、我が家に来るようになってから、どうも、私は、幼猫や、飢えた雌猫に弱い。
 ねこが嫌いな妻にののしられても、孫のアレルギーを恐れる娘に決めつけられても、やっぱり餌をやるのはやめられない。

 三毛はほぼ雌猫であるということであるのだが、私の幼年時代に、我が家にもメスの三毛猫がいた。
 祖父母がかわいがっており、いわば、家に常時猫がいるのが、普通の生活だった。
 しかし、農家であったので、祖母なども甘いかわいがり方はしていない。
 ときに、縁側で、私が撫でたりひっぱったりなどして構えば、じっと我慢していた。
 祖母は、子猫が生まれれば、大雨が降った後など、家のそばの大川に流していた。
 私もそんなものだと思っていた。

 妻は、ねこの代わりに犬を飼え、という。じゃあ、散歩は誰が行くの、というと黙る。
 昔、犬を飼っていたことがあり、いい奴だったが、ひとめを忍んで出かける、毎日の散歩には心底くたびれた。
 しかし、座敷犬は好まない、猫かわいがりの犬を、私は好まない。

 以前に「斎藤洋の面白さについて論じること」というブログで、斎藤洋の童話を扱ったことがある。
 うちの子が小さいころ、斎藤洋の「ルドルフとイッパイアッテナ」という、子猫の一人語りで進む、師匠(トラねこ)の指導で、文字を覚えた猫の修行・成長物語を読み聞かせた。
 こどもたちも夢中になったし、この読み聞かせは、私の家庭へのわずかな貢献であるかもしれない。幼年向け(小学校低学年)童話であるが、「吾輩は猫である」と同様に、猫の文明批評や人間批評が面白い。
 斎藤洋氏の童話というのは、読み聞かせをするうちに、親が夢中になってしまうところがある。
 斎藤氏の著書を知ったのは良い体験であった。

 その後、最近になって、この童話が再度劇場用にアニメ化されているということを知り、試しに録画し、当時3歳の孫に見せてやると、ところどころ煩悶(?) しながらも、懸命に見入っていた。
 結局、何度も見返すこととなった。

 原作の中で、作者が、「(のら)ねこにえさを与えるのは絶対的に正しい」と力説する場面があり、なるほどそうかなあ、と考えたことがある。
 さすがに、私も、一時の感情で、野良犬にえさを与えるなどの、反社会的(反地域社会的)な行為に組することはない。
 しかし、それこそ、野良の状態で決して長くは生きられない(ねこ好き吉本隆明家の長女、ハルノ宵子さんの著書にそんな記載があった。)野良猫に対し、えさをやるのは、人倫に反することとは私には思えない。
 社会的責任とかいう前に、長くは生きられない害の少ない弱いものに対し、限度を超えずに、無償で贈与することは咎める必要があろうかと思われる、のである。
 世の中には、捨て猫をほっておけない人がいて、私が知る人は、公園近くのかん木林に、隠れているねこに対して、通いで、たぶん毎日えさをやっている。
 私はそこまでできないし、しかし、隠れるようにやってくる彼女を咎める気もない。
 ぼろぼろのネコを見かけたら、妻は止めるが、私は、何かしら手持ちの食べ物を探す。

 ねこが畑にふんをする、植えた種苗を台無しにする、とか知り合いからよく聞いた。
 彼のねこが、私の、大事なワケギの植え込みを荒らしたら、さすがに私も憤激するかもしれない。

 しかし、試しに聞いてみると、島しょ部に住む私のおばは、畑を荒らされたとしても、やはりえさは引き続き与えるという。
 身びいきというか、好きなものに肩入れしたい気持ちはよくわかる。
 「愛憎」や執着には何らかの理由があるものである。
 先に、畑を荒らす土鳩に、ねこいらずを食べさした、という話を聞いた。まあ、そんなものであろう。

 アニメに触発されたかどうか、うちの孫は、彼のねこに、「ねこちゃん」、「ねこちゃん」と付きまとう。幼児として、小さいもの、かわいいものは好きらしく、下の孫も同じように付きまとう。
 迷惑なねこは逃げていくばかりである。

 しかし、おばの住む、架橋された島では、もともとの漁師かたぎなのか、ねこたちは住民に優遇される。
 そういえば、NHKBSの「世界ねこ識」を見ていても、一見怖そうで武骨な外国の島の漁師たちも、ねこに魚を与える。多くの人にとって、身近なねこをかわいがることは、自然なことなのか、と思う。
 島のねこは、始終、住民たちに給餌されるのか、人をあまり嫌がらない、孫どもが、ねこちゃん、ねこちゃんと触っても、じっと我慢している。思う存分、ねこに触れて彼らは幸せである。
 しかし、ねこどもは、魚肉ソーセージで吊ろうとしても寄ってこない、ねこ用の、嗜好食品でも取り出さないと、自らはやってはこない、そんなものである。

 そういえば、「どろぼうねこ」という言葉は女性の呼称である。
 ねこを好む人に、男性も多いことも、とても納得がいくところである。

 なぜ、無責任(妻に言われる。)にもねこに給餌するのか考えてみる。
 昔、うちの飼い猫も、私が撫でてやると我慢していた。今思えば、器量の良いねこであった。長命だったので、私が結婚したとき、まだ実家に住んでいて、うちの妻が、そっと寄ってきたねこの尻尾にさわられ、「キャット」叫んだというのは笑い話である。
 実家にねこがいなかった妻は、それ以降ねこが嫌いになった、と力説する。
 それはさておき、なぜ、うちの実家が嫌いだったかは、別の原因があったと思うのだが、うちの祖父母が存命のころは、よく実家に通っていた。動物は好きなものにはなつく。私も同様である。いささか、薄情な性質(たち)ではあるが。

 閑話休題、彼の三毛猫は、愚かではないような気がする。
 私が本当に嫌うことは、どうも彼の方から避けている、ように思える。
 そのうち、よくある孤独な老人のように、つい、ねこに話しかけてしまう。

 いつも、ドライフードを給餌しているが、私が「今日はこれでおしまい」というと、どこかへ帰っていく。

 斎藤洋氏の著書の主人公ルドルフ(大きなトラねこ)ように、彼らはいくつかの給餌場と関係性を確保し、それぞれで違う名前をもっているのかもしれない。どうもそういう生活を送ることも多いらしい。

 秘密のある、自立した存在は魅力のあるものである。
 ねこを見ると、彼がいることで、どこかに、我が家の調和(?) があるように思える。
 今になって亡き祖父母と暮らせないことでもあり、非常に勝手なやり方であるが、三毛を見守りたい、と思う。

 いずれ、それ見たことかと、妻にそしられるかもしれないが、当面、成り行きを見ていくつもりである。

 夏目漱石の「行人」だったか、「この世の中には片付くことなど一つもないんだよ」という、主人公の述懐があったが、ねこに関しても、私はそう思う。