天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その6)(あらゆるところで猛威を振るうコロナファシズム迷走とどう戦うのか。)

2022-01-31 15:49:29 | 時事・風俗・情況
 
 遅ればせながら、令和4年正月の、妻の心尽くしです。
 昨年は、色々なことがあり、この日がよく迎えられた、と二人で、安堵しました。
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以前この件について、コロナを契機にした、かつての仲間との決別のいきさつを書いた。
「若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その5)(あらゆるところで猛威を振るうコロナファシズム迷走とどう戦うのか。)」2021.3.25 付け https://blog.goo.ne.jp/koheitendo550815/e/1e163d1d5db3bebf6282255c7f4a7d95
 読み返してみて、当時のブログ原稿と、現在の状況が、ほとんど変わっていない、いや、ますます悪くなっていることに、愕然とした。

それは、職場における、「コロナ」解釈の食い違いによって、「見えない関係が見え始めた」ことに気付き、私の、仲間グループ(英会話同好会)の解散をした話である。
 これは、私の仕事に関わる個人的な「倫理性」と、常人の「倫理性」が真向から対立し、それに私がこらえきれなかったという話である。
 その後、この経験は、私のような人間にも結構応えた。
 彼女との活動は、かれこれ、10年以上は続いたので、悪い思い出だけではない。
 しかし、許せないことは、私にもある。
 それを検証する。
 私は、おおよそ、三年を超える、コロナ下の勤務で、再任用職員として、専ら、窓口業務をこなした。例えば、常時、不特定の市民に接する場面であり、救急消防職員のように、職務中に、コロナに、り患しても仕方がない、と思っていた。
 運が悪ければ、り患するかも知れないし、死病になっても、しようがないじゃないの、しかし、自分の仕事に手を抜かない、と、自分に決めていた。それは、おかしいだろうか?
 幸い、前述したように、地元の心ある化学会社(㈱トクヤマ)が、カウンターに設置する、プラスチックの衝立を寄贈してくれていたので、客が老人の時は、マスクをずらして、よく聞き取れるように、大声で、話をした。
 その件において、苦情を受けたことは、一度もない。
 ババアに絡まれたことはあったが。

 しかし、決別した彼女といえば、自己の被害を想定してからなのか、コロナ下での、客との接触を、心底嫌悪していた。
 それは前に記したした通り、彼女が実父母と同居し、巻き添えをくらわすリスクとの思いやりの考えだったかもしれない、とジジイは想像していた。
 彼女と議論をしたときに、じゃあ、なぜ行政職として工夫して、ネット申し込みと、本の個別引き渡しで、開架サービスをしないの、下松市図書館はちゃんとやっているよ、というと、理不尽にも、本気で怒った(彼女は周南市立図書館の会計年度職員である。)。
 その怒りは、どこから、来るのか、よくわからない。企画も提案も通りにくい、彼女の、会計年度職員という待遇で出すぎ、といじめられるのが、単に嫌だと思ったのか、これ以上、仕事とリスクを増やすなんて、と思ったのか、わかりにくいところだった。

 下松市の図書館は、閉館時間が6時半である。周南市の図書館は、閉館時間が一館を除き、5時半である。これはひどいと、かつて、彼女に言ったことがある。周南市の行政部門として、明らかに、市民サービスの努力を怠っている。
 だいたい、夕方5時半までに、職場を離れられる職場がどこにある。パートの母親でも、何をおいても、まず、こどもを迎えに行くだろう。それが、趣味、生きがい以前に、人の道だ、それに意識的でないだけで、失格だ。

 開館時間を言うならば、公立図書館は暇なじじいが、早朝から、新聞を読む場所ではない。
 聞き及べば、自分より前に他人が新聞を読んでいれば、なぜ、一番に俺は新聞が読めないのか、と怒るそうだ。腐ったジジイは、早く死ねよ、と、ジジイの私ですら思わないでもない。
 彼が執着する、その新聞が、ハイブロウな、朝日かどうかは、聞いていない。

 そのくせ、図書カードから、性別表記をなくそう、とか、フルタイムの図書館職員は、バカな、LGBTの信奉者だ(田舎ではLGBTとはそんなものです。脅迫に応じ性差を隠すだけ、それが正しい。それがすべてです。理念などない、ご機嫌取りです。都会もそうなのか。)。
 そして、浅はかで、短慮な、藤井律子市長に、おもねることは、決して忘れない。
 それが、彼等の脳中で、藤井市長の、ジェンダーフリーとか、共同参画とかに直結するんだろう。
 バカな政策だ、国レベルでは、それを国民分断政策に使っている、反目でも、立憲など、国内労働運動を奪い取った、在日・反日勢力がいくらもいるからな。国民国家について、きちんと考えたことがないから、まともな理念も、視野も、展望もない、ひたすら、反日、共産覇権勢力に迎合するばかりである。民主、社会党右派、左派の系列は、皆そうなった。
 笑い話だ。
 また、このたび、政府首班にも、日本国の地方自治にも、多国籍の住民の意見を反映さすべきという狂った政治家、茂木幹事長が出て来た、私は耳を疑った。
 さすがに、自分の使いかけの歯ブラシを、初対面の女性に差し出すという、変態の考えることは、常人にはわからない。
 痴性派の私にしても、彼の行為は、何の暗喩なのだろうか、わからない。
 じじいの想像力を駆使すれば、口唇期に退化したので、おねーさん、一緒に吸ってちょうだい、ということなのか。
 しかし、私の逸話であれば、社会関係的に、セクハラ、変態で、社会的に葬られるが、さすがに、政治家は常人とは違う。大したものだ。

 そこまでバカではないかと思うが、まさか、藤井律子さん、職員採用に、国籍条項を外したり、狂した武蔵野市長に連帯し、周南市民の利害に直結・相克する、重大な問題に、大きな支障と危険をもたらす、頭の空っぽな、政策を今後も継続するつもりはないでしょうね?
 市有地の売買に、なぜ、国籍条項を付け、他国の食い物にならないようにすべきなのかも、すでに私の立場で、何度も進言しました。
 だいたい、中共覇権国家の超限戦、山陰、山陽で積極的に進められる「日本買い」の実態をあなたは、知っているのか。周南市の市議会議員さんに進言しましたが、あなたの立場では、それを認識するのは当然のことです。
 徳山大学の外国人(中共・韓国しかいないが)の有害な学費免除は、周南市の将来に禍根を残します。

 仕方がない。
 せめて、藤井律子市長が、徳山大学の公立化のように、まったくの自己都合と、自己の利害のみで、国民分断、国家破壊工作に、手を貸していないことを、私たちは祈ろう。周南市民のために。

 閑話休題、私は思うのだが、この、コロナの閉塞状況で、家で読書するのは、人間としての楽しみであり、救いでもある。それのみならず、私のように、SNSにはまるのも、例外ではあるのだが。それは、人それぞれの、人間としての、フリーダム(積極性自己知性の選択活動)の表れでもある。
 それを認めず、長期間業務停止して、現実との折り合いを欠落しながら、自己の職責に、努力と改善を怠る行政職は、何度もいう、引退しろ。それこそ真正のバカだ。

 もともと、周南市の図書館は、吹き溜まりである。私のような無能な者がいうのも僭越(?)ではあるのだが、一般行政職で通用しなかった職員や、産休職員の配属が極めて多かった。定数減や、自己によって強いられたストレス、無能で悪辣な市長や上司に追い詰められた職員たちは、病気になれば、図書館行きの、モラトリアムルートがあった。甘い話ではあるが。
 みんな、喜んで、図書館に配属になった。せめて、楽ができると思ったのだ。
 図書館勤務の実務は、結構重労働らしいが、フルタイムの仕事とすれば、最良であるかも知れない。
 さすがに、私は申告しなかったが(すればよかった。私なりに戦い方があったかもしれない。)、人事課に対する自己申告に、出世(?)は外れても、「図書館に行きてえ」と書いた、男どもも多かった筈である。
 しかし、現在は、図書館の多くの事務は、会計年度職員に担われている。身分の不安定な彼らに、図書館業務の政策決定権には、容喙できないのだろうな、とは思う。

 私の居住する、下松市の、図書館長と話をしてみると、彼女たちは、行政職との人事交流はないのだといっていた。
 司書専業としては、いいことだと思うけど、行政職との人事交流がないと、図書館業務は、偏波とか、近視眼にならないのかな、と思ったことを話した。彼女は、いまいち、ピンとこないようだった。だって、ただの、市民が思うことを言うだけだもの。
 おそらく、彼女は、現在の図書館サービスの質を考慮すれば、行政職員としても優秀な人なのだと思う。しかし、私は、そんな優秀な人が、図書館長として、何代も続くとは思えないのだ。そんな準備は、あらかじめ、しておくべきであろうにと、ジジイは思うのだが。
 下松図書館には、色々、恩義を感じることがあり、実は、応分の喜捨をした。
 それを相談した時、妻は、なぜか怒ったが、知ったことじゃない。私は、妻に、夫として、家族として、すべきことはしたのであるから、残年数は、私の理念によって行動したい。

 しかし、私は、周南市立図書館にそんな思い入れはできないし、義理もない。本音とすればとても残念である。ウソではない。

 再度、閑話休題、その後、私には、女と男の差異とは、コロナの問題一つを取り上げても、まったく考えが違うのではないか、と思われはじめた。

 さる集会で、皆が並ぶ会場の前で、マイクを取り上げ話そうとしたら、遣りてババアに、まずマイクを消毒しろといわれた。こちらは、ある決意性をもって話す予定であり、場慣れもしていないので、完全に、逆上してしまった。
 その後「コロナ時代にそんな配慮もせずに人前で話すのは不見識だ」とまで、追い打ちをかけられた。
 私も、さすがに、衆人の前で、「くそババア、覚えていろよ」と、尻をまくることもできず、竜頭蛇尾の結果になってしまった。
敵を作っていた覚えはなかったが、どうも、裏うちでは皆、私に同情してくれたような塩梅だったらしい。しかし、コロナの威勢のもとに、皆、間違ってもそんなことは言わないが。
 彼女は、間違いなく、ここに参集している、大多数おばはんの、共通感情を掬い上げていたのだ。

 その後、私は、しばらく、憤懣やるかたない様態であったが、これは、似ている、図書館の彼女の思考及び言動がそっくりだ、と思いいたった。
 まさしく、男の倫理性と、女の倫理性の壁と差である。
 男は、自己の社会生活で、仕事を通じ、自分の経験と判断をもとに、最善の自己の倫理を通そうとする。それによって、自己が、多少被害を被っても、それはやむを得ないと思う。
 理は理で通すべきと考えるからである。

 女の本質は、畏友、Hさんに言わせれば、自己に対する生涯を賭けたナルシシズム(自己愛)だという。確かにそれはそうだと思う。
 この場合に則していえば、彼女たちは、コロナの影響で、まず自分の容貌、健康が第一で、自己が損壊(?)するのがまったく嫌なのだ。

 私は、還暦を過ぎ、年金受給者になれたので、自分が早く死ぬのは、運が悪いなと、思おうとしている。デブは、事情により止まったので幸せ(?)だが、ハゲは相変わらず、進行している。
 頬は垂れ下がるし、加齢の衰えで、相変わらず、貧相で、しお垂れた人性ではある。

 しかし、じゃあ、君たちはどうなのかと問う。長生きしてどうするの、そんなに自分が大事なのか、それこそ、傍目八目では、嫁かずか、離別か長期別居かは知らないが、君たちに、先行き、そんないい人性が続くとは、思えないがなあ、と茶々を入れたくなる。王子様に、死ぬまでお目に係れまい。
 そうだよ、君たちもきっちり衰えているよ、そこは、男であって敏感ではある。

 私も、さすがに近代人の自由の運用原理、「自由の相互承認」は、そうだろうと認めるので、君たちの人性の自己決定権の自由は尊重するが。
 それは、とても、あさましく、醜いという思いはするが。

 実は、うちの妻は女である(笑い)。
 男であれば困るが(更年期を迎え女になりつつある過程であるとは言え、私であれば、男同士で、がち、戦うかもしれない。)、前述した彼女たちとは違うとはいいたいが、しかし、違わない部分もある。
 周囲に対する「関係意識」が、私とは、ほぼ違う。
 私が、「仕事で病気になったらしょうがないじゃないの」といっても、即答はしない。孫や娘に、コロナが移ったらどうするの、といいたいらしい。どうも、無法者に直答しても、仕方がないと思っているらしい。
 彼女の論理は決まっている、再任用の職員なら、危険を回避すべきということである。

 そこは、彼女たちと、似通っている、まず、自分の存在と、自分の家族を、至上のものと、無限肯定する。それが大事なのだ。

 私とて、私の通院を契機に、孫どもが、ウイルスなどの空気感染を媒介にする病気になるのは望まない、彼らの親の判断で会えないのは仕方がない、と思っている。
 しかし、私は、まず、自己の成すべき仕事と責任を果たし、そのうえで、身内をかわいがりたいと思っている。
 その仕事が、身内への情と相克するなら、彼らに会わずとも、黙って、死んでいこうと思う。もし、巻き込むことがあれば申し訳ないが、そこは反社会的人格であるよりましでしょうと、自己弁護する。
 自己の成すべき仕事の責務と、家族との情愛が、どっちもできるという選択はある。それも、知恵ある男の仕事である。

 一般的に、男の優れた対立者である女性は、家族の将来にとって、それなりに、ありがたいものである、といいたい。
 しかし、灰になるまで、女性は、自らの帰属(自己愛の実現)の危機に敏感である。
 マイクを拭き、マスクをあて、検温して、それで、カタルシスが免れると思っている。
あの二人の背後には、「イワシの頭も信心から」、という、ババアどもの女性独特の信仰がある。自己利害のためには、命がけなのである。
 彼女たちに、過去の、インフルの致死率を説いても理解しない、できない。

 せめて、そのためには、加齢を取りやめ、持病を持つなよ、というしかない。
 無理なのだ。施設で、囲われない限りは、自分で家のそとへ出るのを控えるしかない。
 しかし、皆が外に出ることをやめられるのか。無理である。それは理屈ではないのだ、自己以上に、他人に強要しても、バカな話だ、ということを頑として認めない。
 太宰治のいうところの、百姓のクソ意地というやつである。

 ここからちょっと違うが、一部の自己愛だけの男どもを除き、多くの男は違う、身を盾に、危険を測りつつ、長年、社会で直接敵と競争、張り合ったのだから、それなりの知恵はある。
 皆、「しかたなかろ」と思っている。「私の方が先に死ぬから」と、妻に、とっくに主導権を渡している。
 先の例でも、多くの女性は、それを当然と思っているらしい。

 いずれにせよ、コロナ以降、個人主義が徹底し、ニヒリズムも横行し、みんな他人の境遇や不幸に冷淡で、思いやりと察しの文化も希薄になった、憂うべき事態である。
 ニヒリズムや、自暴自棄が日常となれば、他人を巻き添えに、死んでやる、という人間も出て来る。
 もっと、ひどい奴は、自分の感情で、他人に死ねと、言うだけならいいが、実行する。
 それらは、反社会的な性情、過度の攻撃性を持つ男がほとんどだろうが、貧すれば鈍すかもしれないが、本当は、それはわからない。
 せめて、制度の方から、彼らの数を増やさない、社会的弱者の国民を守る、セフティネットを構築すべきだある。
 ほら、男って、こんなもんだよ。

 私が、今、何より深刻と思うのは、下層サービス業に従事する、女性労働者が、失職、ただでさえ、安い賃金すらなしに、デフレによって、そして到来する、悪質インフレの中に放り出されていることだ。
 コロナ失職の中で、賃金や待遇に劣った、弱いひとり親家庭はさらに重責がます。どう生きていけばわからない、という状況になる。自殺者も出る(注意深く見ていると思うが、被庇護者を含めた巻き添え自殺もあるのだろうか)。
 昔読んだ、網野義彦の「中世の星の下に」などを読むと、中世ヨーロッパで、社会の最後の下支えをした人間は誰なのか、という話があり、それが、父親知らずのこどもを持った、最下層の女性だった、という記述があった。
 ヨーロッパの父権制(キリスト教)に支配された時代は、本当に、差別と排除がきつかった。日本国など甘いものであったらしい。
 しかし、当時、最下層の女性が自殺まですることがあったとは、資料があったとしても、とても信じられない。
 おそらく、皆が貧しい社会だったから、まだ我慢できたのだ。

 現在では、所得格差の拡大と、下層労働者の困窮は、一義的に、コロナを理由に、経済政策を放棄している、政府にある。
 しかし、本当のところは、日本国政府は、日本国を、中共、アメリカなどのグローバリズム強者に売り渡すために、外人経済難民を導入し、中小企業をつぶし、大企業の力を弱めているようにおもわれる。
 セフティネットすら制約し、奈落を、そこを見続ける多くの国民の困窮を決して見ない。国内での、棄民政策なのだ。

 国内では、新自由主義の竹中平蔵に主導された効率主義が、社会的弱者を、さらに弱め、中間層を弱者に追い落とす。その中に苦闘するものは、疑心暗鬼になった、誰も、信用できないというのが、大多数国民大衆の本音だろう。

 妻にそんなことを説いても、政治的意見の表明は、うちではできない。
 彼女が許さないからだ。

 しかし、目の前に生じた不幸や、理不尽な扱いに、直接心を動かされるのは彼女の方ではある。
 私は、決して理念の奴隷ではない。
 不幸な人が決して立派でないことも知っている(学生時代の友人が「貧乏人は汚い」ことを忘れてはいけない、といっていたがそのとおりだと思う。)。
 しかし、想像力と、倫理性を失ったら、あるいは、他者の不幸を思いやる契機を失ったら、私たちには未来はない。
 それは、男として、言わせてもらう。

 しかし、倫理を直接に、語らない彼女が、当然、一定の限度のうちだが、彼女が親切で、他人に慕われるのはよくわかる。
 私に対し、「最初のあなたは、ほう、この人は」、と、皆に思われるのに、次からは、それっきりじゃないの、ということも、私は笑って、「そうだな」、と、答えられる。
 それはありがたいことだ。
 身内の批判者は、ありがたい慶すべき存在だ。

 しかしながら、男には(それは女にはでもいい。)すべき仕事がある、理不尽を憎み、不合理を指摘しそれを下支えする、批評と知恵と判断力を持ち、それを鍛えることを忘れないことだ。
 何度も言いたいが、私たちは、自己利害をひとまずおいてでも、不正を憎み、自己の社会的役割を果たす、倫理性を持つことだ、とおもう。

 具体的な話をしよう。
 私が、泊りがけの通院から帰ってきても、彼女は私に近寄らない、風呂に入れ、洗濯をしろ、と距離を取った、指示をする。
 一時、コロナ下のもとで、医療従事者の家族が、食事は別、なべ料理も禁止という、家族対応を聞いて、私は、当時憤激した。ほかに、家族として、違ったソフトランディングはなかったのかと思えたのだ。
 しかし、どうもこれが現在の社会が強いる、最良の規定路線なのだと、妻は思っている。
 自己利害しか思わない女性たちと、まったく同一ではないが、私たち以外の家族の利害には、常に、細心の反応するのが、彼女の冷静な正義なのだ。
 男も、女も、お互いの、いい部分も、悪い部分もある。
 我慢できることは我慢するし、我慢できないことは我慢しないこともある。
 それが、「更年期になると女は気が狂い、男は(少し賢くなって)女になる」というのが、今のところは、私の考えである。
 やんぬるかな、そう呟いて、また考える。




トランス・ジャパンアルプス・レースについて(その2)

2022-01-04 19:45:04 | 映画・テレビドラマなど

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 お正月の、茶の間で、スポーツ番組をみるのは、それなりに根拠があるものかも知れない。初詣も、寒くていやだ。それなら、あったかいところで、他人が、困難な状況に立ち向かうのを見ているのが、私にとって、ずっと、ましである。
 かって、表記の、本当に個人的な、変わったレースを見て、私は、いたく感動した。
 二年に一度の開催と聞いていたが、コロナ変則開催となり、昨年は、3年ぶりに、8月7日に開催されたという。
 レースは、南糸魚川市から出発し、身一つで、北・中央・南アルプスを縦断登山し、上高地を経由し、最後は最後は、太平洋の海浜に至るレースである。
 「名誉や栄光のためでなく」、ではなく、ほぼ不眠不休で、3000メートル級の高山を縦断するタイムレースであるから、皆、命がけではある。しかし、その、仲間内での栄誉も、名誉も、大したことではないと、私には思える。そのうえ、賞金もない。
 前回、前々回とみていたとき、生活破綻者(悪いとは全く言ってない。)のような人も多かった。貯金を切り崩し、レースに参加する人、昔の歩荷(ぼっか)時代の栄光(?)が、忘れられない人、自分の人性に行き詰まりと、虚しさを感じる人、そんな人が、とても多かった。
 中には、支援の妻・家族に土下座して、参加したひともいただろう。
 この番組は昨年10月くらいに、初回、放映したらしいが、私はまったく知らなかった。
 丁度、私は入院して、それどころではなかったのである。
 この番組が、興味深いのは、それぞれ、参加のエピソードと、彼を囲む、社会的環境が、取材のうえ、レースに付加して放映されることだ。
 ひたすら楽しい話などどこにもない。様々な、挫折や、失望の人性が語られる。
 元社会的引きこもりの刑務官、兵庫県警の暴力団担当刑事、挫折した銀行員、様々な人がいるものである。それぞれが、それぞれの理由と事情を抱え、参加している。
 仕事に恵まれた(?)人も、数多くいるわけではない。前々回の、チャンピオンは、山岳レスキューのスタッフだったが、前回のチャンピオンは、家具職人だ、そして、全員が、フルタイムの仕事に就いているわけではない。
 日々の鬱屈と、生活の不如意を超えて、2年、3年越しで、このレースに参加しているということだ。そして、予選も、巌に存在し、容赦なく振るい落される。
 今回は、若い人は少なく、平均43歳、また、50歳を超えた人は、あまりいない。
 何度も参加して、標準記録に達しなかった彼らは、その後どうなったのかと、他人事ながら心配になるのだ。
 おまけに、今回からルールが変わり、山小屋の利便利用(食事)ができなくなった。
 これは、ちょっとひどいなと思った。
 自分の食料を、行動食(あられとかチョコとか田中陽希君が持っているあれです。)も、常食、自分で準備しなくてはならなくなった。しかし、荷物の重量を増やすことは、場合によっては、命に係わるのではないか?
 山小屋の利用も、なぜ、問題になるのかわからない。
 前回は、低体温症になった選手が、山小屋でうずくまっていた画面も見た。山小屋のスタッフは、それを遠くから見守っている。個々の意識的な選択は、それほど重いのだ。
 しかし、それこそ、レース参加者と山小屋の相互依存、心的な交流がないと、レースのアマチュア性が失われるのではないか。私はそう思う。
 前回、前々回、南アルプスからふもとにたどり着いた選手たちが、地元スーパーの好意によって呵々大笑しながら、よしず張りの座敷で、いかにも愉快そうに、スイカをほばっている画面を見た、まことに、良い場面だった。これが、あたかも、人性ええあるという言うように。
 なぜ、そんな、相互交流を止めるのか。

 前回のチャンピオンは、家具職人だった。彼は、前回のレースに満足していない。今度こそ、実力を発揮したいと考えている。そのための、努力は惜しまない。
 このたび、とても優秀な選手が参加していた。
 朴訥で、身の程知らずの大言を語る人でない。冷静で柔和な人だ。

 彼は、一人きりで、今までのレースで、絶対チャンピオンといわれた、山岳レスキューのチャンピオンの記録を、大幅に塗り替えていた。半日以上のリードをしていた。
 アルプスを越え、平地に出てきた以上、まず、彼の勝利は動かない。

 しかし、事故は起こった。
 台風9号の影響で、レースは中止となった。
 メール一本で、その結果は、各参加者に伝えられる。
 山頂で、レース中の男が人前かまわず泣き出した。
 ここは、安全じゃないですか、どこに台風が吹いているんです。
 彼の号泣はひつこい、見苦しいまでもつづく。
 彼が、準備してきた、何年にもわたる努力が、無に帰するのだ。

 しかし、最も、ショックだったのは、暫定チャンピオンだったと、私は思う。
 平地のトンネルから出てきた、彼に、放送スタッフが、責任上伝える。
 「今年のレースが中止になりました。」
 彼の、顔色が変わる。
「何か事故があったんですか(誰か死んだんですか?)」、「台風の悪化です」、「それなら、まだ良かった」、私には、彼の言葉が忘れられない。
「人間性は、何と善なるものか」と、思った。
 このたびの彼の努力と、幸運が、次にまた、あるかどうかわからない、現実とはそういうものだ。
 しかし、自己の名誉と、他人の安全とを、はかりにかけて、他者を思いやれるのは、まさしく、勇者の所業だ。
 その時、私は、彼のような若者が、ここにあり、彼なりの修練、努力をしているのを誇りに思う、と思った。
 暇つぶしにテレビを見ていて、尊いものを観た。
 彼は、本職は、大阪市の、レスキューの隊長であるという。
 まさしく、彼の社会生活が、彼の人格を善導し、引き上げたのだ。
 彼の姿が、かつての東北大震災の救護者と重なって感じてならない。つい、こちらも涙ぐんでしまった。

 そのうち、彼も、長時間にわたった彼の準備段階と、今までのレースの苦労が、フラッシュバックしてきたのか、そして、こみ上げてくるものがあったのか、言葉少なになってしまった。

 追い上げに入っていた、前回チャンピオンも、中止勧告を冷静に受け止めた。
 しかし、スタッフに誘導され、山小屋のベンチに座り込むと、頭を抱え込んで、最後まで動かなかった。

 台風による中止はやむを得ないことだろう、と私は思う。
 もし、事故があったならば、このレースに次はない。冒険という行為は、公序良俗を装う俗物たちから、袋だたきにされるのだ。
 それは、極めて少ない個人にしか、栄誉が生じず、危険な自然を相手にするレースだから。

 次のレースは、2023年になる。
 私も、どうにかして、次のドラマを見てみたいものだ。