山口県周防大島から見る瀬戸内海日の出です。どうしても、逆さにしか掲載できません。お許しを、中央の島は、愛媛県に属する「ダッシュ島」だそうです。
昨年の夏、半世紀ぶりの小学校の同窓会を行いました。私は本来「むつかしい」人間ながら、このたび、思うところがあったので、世話役を務めさせていただきました。
加齢により、高潔な人格となれば幸せですが、いまさら、わが人格を陶冶(とうや:よりよき様に直すこと)することはできかねるので、このたびの参加の際、もし、「あいつが幹事代表なら嫌だ」と思われた方には、参加できずお気の毒でした。うちの妻なら「今からでも、悪いところは直せばいいじゃないの、特に私に対する態度」と、言い出しかねないところです(数年前、私は苦し紛れに、今後私の余生は、「正義の実現」のために生きる、と宣言して失笑されました。)。
できれば、私は「できれば謙虚に振る舞いたい」とは思いますが、昔はやった「自己否定」などと愚かなことはいたしません。私は、自分にも他人にも思想的誤びゅう、と、「誤った倫理性」を強い、また求めることは好まない、のです。自分のだらしなさを棚あげにして、他者に、過剰な倫理性を強いるのも、一般大衆の悪癖です。商業新聞など、それを面白おかしく煽動するやつはもっとたちが悪いわけですが。
ところで、時節柄、お約束の脱線をしますが、かつて、私が30歳代のころ、「夫婦間の信義」を破った妻に、逆上して、平手打ちをくらわし、妻の鼓膜が破れ、その後で、「あ、これ以上やったら暴行罪だ」と思い、頭がすっと冷えた覚えがあります。それ以上に行かなかったのは、お互いにとって幸せでしたが、それより前に激昂した妻によって、無防備で寝ていた私は、足で顔を踏まれたこともあり、このような経緯はなかなか外(夫婦以外)からは理解不能なところです。それは、人間(人と人の間)の闇はたぶたぶと深い、というところかも知れませんが、かつて読んだ文豪たちの著作物の中にも、夫婦についてもっとすごい話があり、私のような小人のでる幕ではないでしょう。小林秀雄のように、「(偉そうにしていても)俺は、お前がどんなインチキな夫婦喧嘩をやっているかよく知っているぞ」とうそぶくのが正しいのかもしれません。
この一節は、意図として、尊敬すべき経済評論家、M氏の事件や事実を矮小化するわけではありませんので、それは、別途お断り申し上げます。
しかしながら、更年期となったわれわれは、妻から日常的に「あなたは若いころからどうだった」という一方的に、真偽を問われない「言葉による虐待」を受けており、どうも同世代の、友人たちも、異様に妻を恐怖しており、憮然(ぶぜん)たる思いではあります。昨年、11月に放映されたNHKの総合テレビのドキュメンタリー、「なぜ急に妻は怒り出すのか」などを見ていると、登場した夫婦の実際の映像を見つつ、数万年(?)にわたる人類史の歴史と、それを、狩や育児といった、生き延びるために分業により強いられた男と女の役割分担とそれぞれ観念の歴史というか、それぞれの生き延びる努力とその不可避的な関係の差異の歴史の説明を受けていると、妙に納得します。われわれの性格や観念、性格のありどころまで、女の良いところも、男のよいところもきちんとあり、しかしそれは圧倒的に隔絶しているのですね(昔(1970年ごろ)、はやり歌に「黒の舟歌」というのがありましたね。皆の希望があれば、久しぶりに唄います。)。
何度も書いて恐縮ですが、「更年期になると、男は女になり(おとなしく温和・受動的になる。)、女は気が狂う(病気である。)」という認識は、男にとって救いであり、それを事実として、認め救いあげられる男は、救いの端緒に佇っているものと、私は断言します。「現在」という情況の中で、男は、お互いの安心・安全(家族の安寧と融和の)のために、冷静に戦略を立てるべきなのですね。
ただ、最近、「これは明らかに狂人ではないか」という女性を、街で、頻繁に見受けますが(私の主治医に言わせると「異常かも知れないが狂人(?) ではない」、そうです。)、それがカップルで居るのを見れば、傍目でも痛々しい限りです。もし、「女になりきれない男」であれば、いつか夜中に妻を衝動的に絞め殺してしまいはしないかと思ってしまいます(劇場版「エバンゲリオン」にも、碇シンジ君が、泣きながらアスカを絞め殺そうとするそのような描写があったな。)。
いずれにせよ、「若いころから更年期ではないか」という私が観察する身近な女どもも、私は、指を折って数えることができますので、いずれあれが多数となれば、「女の原像」として、わが思想に繰り込む必要があるやも知れません。「量質転化」というヤツですね。
閑話休題、つらつら考えるに、私は、現在の自分の行動の推力とは、主に「好奇心」と思っておりますが、このたび、同窓会の打ち合わせ、行事を通じて、かつての学友たちにもいろいろ興味深い言動や、さまざまに感心する認識や体験が多かったところです。
このたび事務局として、司会進行を行い、ほぼ時間中、立ち上がって司会をしておりましたので、昔、懐かしい面々と、話しこむということはできませんでした。
そのような経緯と実態であり、皆で語り合い、日を改め、同窓会の世話役を対象に打ち上げをおこなうこととなりました。
晴れて、打ち上げとなりましたが、和気あいあいの一次会を過ぎ、二次会に入りましたが、当該世話役メンバーと行ったのは、しっかり、カラオケスナックでした。
私の大学生時代(1974年から1978年まで)には、カラオケなどというものは、まだ、存在していませんでした。
高歌放吟というのは、昔日の、暇な、特権的な学生のたしなみであったかも知れず、そういえば、わが若きころは自作自演として、シンガーソングライターなどもごく一般的ではありましたが、楽器演奏の素養もなしに、ふつーのおにいさん、おねーさんが、あるいはおじさん・あばさんが安直に酒席で歌を楽しむことは、それほど昔からの歴史ではなかったのですね。人前で歌を歌うのは行儀が悪い、というのもあったかもしれません。
今思えば、私が運よく就職(昭和53年(1978年))できて、その数年後くらいから、スナックなどで、にわかにカラオケが膾炙しだしたように思います(話は変わりますが、また、同時期に、いなかでも、貸しレコード屋というのが始まりました。みんながあのかさばるLPレコードを一日賃貸でやり取りしていたのです。)。
カラオケというあれは、利用者に、根拠のない自大感(うぬぼれ)の感覚と、自己に対する酩酊感があり、本当によく流行りました。当時、場合によっては、マイクの奪い合いなども生じ、迷惑な酔漢などの、たちの悪さを改めて認識させられたところです。
それほど飲めない私も、職場の付き合いで、二次会などで同道し、「酒を勧められるよりはいいや」と、言われるままに振舞うこととし、「歌を歌え」、といわれ、「けっ」と思いながら、演歌や、つまらないので、時にすかした(場違いなという意味です。)歌を歌えば、「陽気なヤツ」とか、「雰囲気の合わせられるヤツ」と認めていただいたこともあったかもしれません。しかし、そのうちに、「病膏盲に入る」というやつで、すっかり取り込まれてしまいました。
そういえば、わが世代の、カラオケに対する含羞のない態度とか、臆面のなさはこの頃から始まっているのですね。
昔日においては、「私は、不調法で」、「歌は不得手で」など婉曲に、マイクを断る人は、少なくはなかったところです。酒席では、酒肴や気の置けない会話を楽しむほうがいい人は多いことです。私自身、その際に取り交わされる楽しく、含蓄のある話や興味深い話は当然好みます。しかし、常に、楽しく、興味深い宴席があるばかりではなく、義理ずくの酒席でなどで周囲と話したくない場合は、カラオケに逃げられることもあることです。
そして、今思えば、かつて、宴席の二次会は、それまでの職場の「反省会」や「助言を与える場」という、ことであったかも知れませんが、カラオケの大流行で、ある社会的な関係や組織の中での二次会の良質な役割りがすっかり影を潜めてしまったところです。
私、もともと関西で「自己形成」を遂げたので、あらゆるところで、押しなべて割り勘定の習慣になじんではおりましたが、酒席でいくらでも飲むやつと割り勘定では分が悪い、と思って、自分ではカラオケでバランスを取るつもりでおりましたが、飲み、食い、歌うという、行儀の悪いやつもおり、閉口しました(次は一緒に行かないぞ。)。
バブル前のことになりますが、上司の付き合いでクラブへ行ったときは、8(エイト)トラックの安いカラオケ装置の変わりに、プロ(プロだろう。)の専属ピアニストの演奏で舞台上の歌唱であり、「おお、これは」と思ったことがありました(しかし誰も聞いてないだろうね。)。
スナックでは、そこは商売で、「お客さん上手ね」とかほめられ、そうなれば、互酬ということでスナックのおねいさんに歌っていただくこととなり(例の「スイートメモリーズ」などですね。)、お互いにほめ合うこととなります。
いろいろありましたが、その後結婚し、スナックで、「ママ」、「ママ」などというのもなんとなくわずらわしく、バカらしくなり、とうとう撤退しました。
しかしながら、飲む席で、会話のキャッチボールというか、それほど頻繁に、「他者」と又は「他女性」と楽しい会話を過ごしていない私は、酒席のあとの人間関係を含め(?) 人性の楽しみや醍醐味を味わっていないと、いまさらながら自分で思われ、損をしているところでしょう。「歴史は夜作られる」かもしれないが、そういう社会的関係に参加できなかったことは今もって極めて残念です。
「ふざけるんじゃねえ」とか、かつて、学生時代以来の宿あとして素面でも、激烈な議論をしていた私たちは、やっぱり、青い・渋い・硬いなのでしょうか。しかしながら、そこはそれで、当然に、「これはどうだ」とか、「歌詞」などの論功行賞はきちんとやっていましたが。
そのうち、こどもができ、音楽を聴く習慣すら失せ、「カラオケ」冬の時代が続きます。
ただ、こどもの歌にも、われわれが聴いて楽しい良い歌があり、レコードからテープに落とし、彼らのために、もっぱらカセットで流していましたが、「みんなの歌」の中で、「北風小僧の寒太郎」、「山口さんちのつとむ君」、「恋するニワトリ」など、秀逸なアニメとともに、「みなみらんぼう」や「谷山浩子」などの印象深い歌も数多いところです。
だんだんに、こどもたちが、ものごころつくころから、世間での新しい歌も耳に入るようになり、カラオケボックスがごく一般的になり、家族でカラオケに行くようにもなったし、時に、祖父母(義父母)を含め一緒に行くこともあり、流行り歌を皆で共有できた、思えばあの頃が、一番楽しい時期ではありました。
このたび、誘っていただいた方々は、皆さん、カラオケがお好きな方ばかりでした。
何の根拠もないことですが、われわれの世代で、勧められて、やはり、カラオケを断る人はほとんど見ていません。皆上手に、アドレッセンス(思春期)、青年期の習い覚えた歌を歌います。このたびは、幸いに、演歌シリーズとか、デュエットシリーズとかなかったわけで、まだ、彼らの人性では、安い共同幻想(?) への迎合とか、デュエットへの強要とかおやじ体質の選曲がなかったわけです(本当はもう少し酒が入らないとよくわからないが)。
いわゆる、私にもなじみの、ニューミュージック(?) 系の選択が多く、それはそれぞれに思い入れのある曲でしょうが、ここで批評が働きます。彼、彼女たちは卒業以来どんな人性を経てきたのかと、こちらの想像力が働くわけです。その選択を通じ、彼・彼女たちの学生時代以降の過ごし方とか、その後の社会生活・結婚生活を想像し、いろいろ感興やら、同情、共感などがわくわけです。ついでながら、歌詞や、曲調に対する、思い入れをあわせ語っていただくとなおさら、興味が尽きないところです。
殊に、幼児期のテレビ番組の記憶は鮮烈なのですね。
それは、他に娯楽がなかったかも知れず、男女をとわず、「エイト(8)マン」とか「スーパージェッター」とか皆きちんと歌えます。今もって「ひょっこりひょうたん島」(あの井上ひさしが放送作家を務めた、彼の唯一の功績です。)のテーマも歌えないことはないところです。ああ、あれが国会議員になったよな、死んじゃったよなと思いながら。
その合間に、「異化効果」として、私が「ドロップスの歌」(まどみちお作詞)とか、「アイスクリームの歌」(佐藤義美作詞)などを交え、場合によって、デュエットを強要します(一回目は「まあ」という感じで赦してもらえます。)。
最後は大合唱となり、大団円を迎えるわけですが、中途で私とすれば、時により、聞きたくない歌が排除できるように、工夫します(嫌な性格ですね。)。
しかしながら、歌を歌うことは、他の付き合いも含めて、望み・望まず社会的な数多くの局面においてあり、家族のみならずわれわれの人性のさまざまな場合に、場合場合において参集したメンバーによって、異なった付き合いと関係とがあることは確かであり、そのたびごとに、違った自己表現もあるものでしょう。また、その、多面的で相互複層的な人間関係がないことも、本当はさみしいところでしょう。
うちの妻がよく、「「ひとりカラオケ」に行け」、とアドバイスしてくれますが、私は、共生としての人間存在を何よりも肯定しますので、はっきり言って嫌です。
それならそれで、孤立老人の支援のために組織された、お金を払って、同行サービスを利用しても、カラオケに行きたい、ところです。