天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

わたしが料理を作るとき(グルメ志願)         その1

2017-01-29 13:53:16 | グルメ

過日より、疾病(手根幹の障害)等を理由に、うちの妻が家事放棄をして以来、必要に迫られ、料理デビューを果たしました。
 最初、どのようになるのか見るも無残な料理になるのか、危惧しておりましたが、経済的な負担、自己の生活史と外食体験を総合して考えて、私は常時外食が無理であると痛感し、このような状況に立ち至りました。
 まず、目標としたのは、連続して食べられ(飽きにくい)、日を経ても劣化しない(保存が利く)ものでした。
 食事の持続性がある、ということは、温めなおしが可能で、食べても飽きにくい、調理が簡単というところです。しかしながら、義務のように繰り返されるだけの料理が、われわれが日常的に耐え切れるかどうかは、言うまでもないでしょう。いくら反復に強いといわれる男の食事習慣でも、料理およびその後の食事には、華も、変化も、いくばくかの喜びも必要なのです。また、貧しく、あまり質のよくない食材にしても、わが人性と一緒で工夫や努力の対処は必要なものなのでしょう。

 「芋を食わしてください」、とよく遠縁の親戚宅を訪問し、「いも金」(漱石の本名は金之助)がまた来た、と裏で揶揄(やゆ)されていたという、若く貧しい書生時代の漱石の明るい逸話(「漱石とその時代」、江藤淳)を読みましたが、時には他者に甘え、助けてもらう許容の気持ちを持つことや、家族、他者と大勢で食事することは、おそらく、楽しく、重要なことなのでしょう。また、幸薄いながらも、不幸にめげない、若く明るい漱石の姿がほうふつしはしませんか。

 かつてはそれ(家族などでの共食)が桎梏(しっこく:手かせあしかせ、自由を束縛するもの)であった境遇のひともあったかも知れませんが、現在の、老人所帯や独居所帯などの、社会と隔絶したかのような、日常的な、個食の光景を見れば心が痛みます。

 まず最初に、カレーを作りましたが、うちのこども達(一男一女)は、自己料理といえ
ば、学校教育の恩恵なのか、観察していると、必ずカレーを作りますが、その累積すらな
かった私は、今回生まれて初めてカレーを作りました。ごく普通にH社のカレーのルー(中
辛)を使っただけですが、水分調整を誤り、スープカレーにしてしまいました(ああ)。
従前から、カレーに入ったジャガイモは傷みやすい、と聞いており、このカレーをほぼ、たまねぎとにんじんをベースに作り上げましたが、具沢山の家庭的カレーは実現し、一週間をかけて食べきりました(妻は自負があるのか、私の料理に基本的に手を出しません。)。
 たまねぎを多用し、最初に教わったとおり、時間をかけていためましたので、総体としての味は決して悪くはなかったと思います。カレーライスだけで済ませず、カレーパスタ、カレー添えバケット、カレーうどんとか多用したわけです。しかしながら、成長期のこどものように「カレー大好き」とは思えず、その後好んでカレーは作っていません。素材の味が強すぎるんですかね。

 続いて、和風煮物を試みました。
 私、基本的に、生野菜を好みませんが、葉物類、根菜類を利用するとしても、技術が必要なごぼう、れんこんなどは、経験がない私には当面使えないところです。
 最初に小芋の煮つけを作りましたが、カレーと同様に、水量管理が大切であることに気づき、だし昆布、板こんにゃく、にんじん、鳥肉ミンチを使い、どうやら仕上げたところです。私、西日本人であり、基本的に煮干で、だしをとるべきですが、私はY県地場産業企業、○マヤだしのもとを使います。蛮勇のうちの娘は、あらゆる料理に○マヤそうめんつゆを、じゃぶじゃぶ使います。一つの見解ですね。
「火のとおりが不均一なるので、野菜は同じ大きさで切ってね」とか、ピーマンのきり方とか、いやいや教わったことや、そばで妻の調理をみていたことは、大きな経験値になりました。人間はいろいろな境遇で、形で学ぶことが多いものですね。
 その後、葉物煮つけ、高菜、なすびなどになれ、魚の煮つけや、と拡大していきましたが、当該知識と経験の繰り返しによる料理経験値の取得はなかなか、興味深いものでした。
 いずれにせよ、今日を生き延びていくのが、私の主眼といえば主眼ですが。

引き続き、なべ料理です。
 野菜がちゃんと摂取でき、安価で効率のよいのはなべ料理で、ぶたにく水炊きは、うどんすき、ぞうすいに変換可能で大変重宝しました。
 買い物に行って、あらためて牛肉の高価さに驚き、ぶたにく、鶏肉の値段に安堵することも多いことでした。しかしながら、牛肉といえば、肉じゃがを作って思いましたが、輸入肉ではあのような料理(素材のよしあしが出てしまう。)になじまない、くさくてまずい、ことも認識しました。

 と、とてもグルメにならないことを書きつらねましたが、昔ほど、料理が苦にならなくなったことは以て慶すべきでしょう。
落ち込んだとき、追い詰められたような気持ちや、つらいときは、必要な雑事をこなすことは気分転換なり、救いになります。最近は、ハンバーグとかてんぷらとか、どうしても食べたいとは思わなくなり、そういうものは、揚げ物などと同様で、外食するか、惣菜で買えばよいわけです。
 億劫になった、高齢者や、独り者向けの小パックの惣菜は、割高ですがいくつも用意されています。

 羊頭狗肉というか、貧しい食生活で、お恥ずかしい限りですが、今後応用編を増やしていくこととして、標記グルメの主題に戻り、以下の現在、冬時期で、私にとって、持続性のある料理を、推奨します。

  ポトフ(というそうです。)(洋風おでん)
(用意するもの ブロックベーコン(1パック)、鶏もも肉(1パック)、たまねぎ大三個、西洋にんじん5本、かぶら小4個、大根1/2本、エリンギ(1パック)、ジャガイモ(小3個(数は好みです。)、ピーマン又はセロリ、固形コンソメ4個、ローリエ葉数枚、シャウエッセン(2パック)、追加して、白菜、キャベツ、牛豚あいびきひき肉(200g程度、お好み)、生しいたけなど )

まず、大手のなべにオリーブオイルかサラダオイルを敷きます。
 続いて、にんにくのおろしたものか、つぶしたものを置き、落ち行かせます。
 続いて、まな板の上で、たまねぎを四分割にしたもの、ブロックベーコンを5mm間隔くらいで横に立て切り(脂肪に垂直にきる。)したものを用意します。
 皮をむいた、鶏もも肉を、ぶつ切りにしておきます(大きさは好み)。
 にんじん(西洋にんじんでいいと思います。皮はむいたほうがよいでしょう。)をぶつ切りにしたもの、あるいは乱切りにしたもの(大き目がよいでしょう。)を準備します。
 ジャガイモをむき、適当に分割します(煮崩れると面白くないので、大き目がよいでしょう。)。
 かぶらや大根(皮をむいたものがよいのでしょう。)を、小かぶらは四つ切、大根はぶつ切りを2分割または4分割、大かぶらは適宜、小さく切って用意します。早く煮えるので、あまり、小口にしないほうがよいでしょう。
 きのこは、エリンギを使います。2分割にして、たて切りです。
 ピーマンか、セロリなどを(好みです。)小口切りにします。

 なべに点火し、たまねぎをある程度いためます(カレー、シチューの手順と一緒です。)。
 にんじんと、ベーコンをいれさらにいためます。そのうち、鶏肉もいれさらにいためます。軽く塩コショウと、私は、安い白ワインを適宜添加します。
 たまねぎ等のうまみが出たと思えれば、ジャガイモを除き、後の野菜をみんな入れてしまいます。水を、ひたひたになるくらいに加え、ふたをして煮込みます。ローリエの葉も加えます。
 様子を見て、ジャガイモを加え、固形コンソメを4個程度加えます。あくをとるなど、高度なことはしません。水も適度に加えます。
 ほぼ、煮あがったと思えれば、ソーセージ(シャウエッセン)を入れ、煮込みます。
 最後に黒こしょうを加え、仕上げます。別煮にした、ブロッコリーなどを仕上げに加えてもよいでしょう。これだけ作れば、匂いにうんざりするので、その日は食べません。
 翌日、温めなおし、2、3日でひたすら食べます。おでんのように、ご飯のおかずですね。
 そして、食べきったころ、新たなものを添加します。
 白菜の葉、キャベツの葉を、硬い部分はそぎ切りにして薄くし、なべでうでます。
 合い挽きのパックで、塩コショウをかけ、ポリエチレンの袋を手にはめ捏ね小口に成型します(本当はハンバーグのようにいため玉ねぎやにんじんを加え調理したほう方がのぞましいでしょうが)。それを、キャベツまたは白菜で巻き、爪楊枝かなんかを打ちます。其れから、そのなべに投入し、煮ます。私は、愛好する魚肉ソーセージをまいて投入したこともあります。炊き上がった際はおいしいものです。
私は、削ぎ切りにしたしいたけを加えることもあります。余った野菜が何でも使えるので、本当に重宝します。殊に、生のキャベツとか好まない私にとっては、ありがたい調理手法です。
 次の段階で、野菜スープとして、バゲットを添え、一回分食べます。オーブンで、チーズを載せあぶってもいいでしょう。
 最後は、少しどろどろ(たまねぎが溶ける。)になったスープを種に、パスタをうで、フライパンで、唐辛子とか少し薬味が利いたほうがよいですが、スープで絡め、パスタの出来上がりです。

 油断すると多めに作ってしまい、多食したり、ほぼ一週間食べ続けることとなり、大変です。

 私の友人で、退職後引きこもった男が、だしをとるのに、すね肉から時間をかけてうでる、といっていましたので、時間があり、味を追求(それが「グルメ」か。)し、手間を惜しまない人はそれでいいでしょう。

 持続性があるか、が大きなポイントになると思いますが、カレーを作る程度の教養(?)があれば、容易に作れる料理です。
 どうも、「グルメ」ではないかのような話になってしまいました。

 かつて読んだ、上野千鶴子の、「おひとりさまの老後」という著書で、実父(開業医だったらしい。)が、妻(母)と死別し、引きこもり状態となり、毎回卵をパックで買ってきて、それを「うでたまご」にして食して生きていた、という、その冷静(冷徹)な文章を読み、あらためて、「学ぶことは多いな」と思ったところです。
 

記憶の切実さとそのあいまいさ(NHK「こころ旅」)について    その2

2017-01-24 15:03:54 | 映画・テレビドラマなど
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先に、NHK、BS放送で放映している火野正平の「日本こころ旅」(2016年秋口編)について言及します。
この番組も、年に何度か、シーズンで放映している、「日本こころ旅」もこの度で600回を数えるようで、長寿番組の範疇になるようです。季刊のように、年に数度区切って、本土においては表日本、裏日本のそれぞれを、文字どおり縦断します。一話完結で、どこからでも見始められるので、NHKの朝の番組として定着してように、今度はどこに行くのかと、見るものに期待をいだかすようになっています(私自身そのようになってしまった。)。
このたびシリーズで、記憶に残った「こころに残った風景」について言及します。
この秋口は、三重県、大阪、山陰、九州と入り、鹿児島の島しょ部に入るようです。
大阪南部の路面電車(阪堺路面鉄道)にかかる熟年期(?) の女性の投稿です。
彼女は、還暦を過ぎたばかりの夫、「やっさん」を急病で亡くしたという大きな喪失感があります。文中で「大好きだった、やっさん」と愛称を、平然と(?) 呼ぶので、そのような対幻想(?) というか、より深い気持ちの交流と相互のいきさつの思い出の積み重なりが両者の間にあったのでしょう。深読みすれば、還暦を過ぎ、これから「二人で」、という時期に、夫を亡くした衝撃と、痛手が、テレビ番組にでも「あかの他人にでも伝えたい」という気持ちを彼女に起こさせたのでしょう。
彼女は、路面電車が新規製造されるについて、地元に寄付の勧奨(路面電車はかくも地元に根ざしたものなんですね。)があり、どうもそれは地元で「青嵐(せいらん)」と呼ばれる、丈高で、車体が深い青色のガラスが多用されたスマートな車両ですが、その中のプレートに「やっさん」の名前が載せてもらえるということで、寄付(三万円;寺社の寄付とまったく同じ「のり」なのですが)をしたのだが、(それを電車に現認にいった後)、街角で、路線を走る青嵐を見るたび、苦しいとき、悲しいとき、見るたびに気持ちが慰められる、実際のところ、孫どもに「じいちゃんの電車や」と、呼ばせており、「独りでいること」に、時々慰めがある、という話です。
私は、大阪の下町を知りませんが、このたびは、火野正平が、路線の沿線沿いを、線路に沿って走り、うらぶれた路地や、さびれた商店街を輪行します。本来の路面電車らしく、遮断機も何もない無人踏切はいたるところにあり、衝突事故が起こらないんだろうかと、こちらが心配するようなところです。行き交う路面電車の横はら帯の宣伝は、「質屋ばっかりや」と火野正平が笑わせます。常時、新車両の青嵐は、路面を常時走っている訳でなく、通りがかりの小学生が、「おっ、青嵐や」といって通りすぎます。
とうとう、青嵐に、ターミナルで出会います。火野正平が早速確認に行きますが、荷物棚のうえ、車両の湾曲した部分に寄付者の真ちゅうのプレートがビス止めで設置してあり、ちゃんと「○○康行」と、願主(?) の望みのとおり、記載してあります。そこからもう一度、投稿の原稿を、駅のベンチでとつとつと、読み上げていきます。聞いているうちに、ざっかけない、うらぶれた下町ですが、そこに暮らす人たちの哀感やよろこびのようなものが、見るものに素直に伝わってきます。場所柄、破滅型の漫才師、亡「横山やすし」を連想してしまいますが、「やっさん、どないな人やったんやろ」という具合です。テレビで見ていると、死後も慕われる、あるいは慕うカップルは、「ええもんやな」という具合です。個人的に思えば、存命中はどうだったかは知れないが、死後でも、そこまで妻から執着してもらえるのは幸せなことなのかも知れません。

次は、594回目、鳥取県の智頭町というところです。
今回の投稿者は、22歳の地元の学生さんです。見るほうは、高齢者が多い投稿において奇異な感じを受けます。
彼の執着する(?) 景色は、小学校(旧山形小学校)の、日本一長いといわれる、木造校舎の廊下です。
毎日(当番もあったかも知れない。)、ぬか雑巾で雑巾がけ競争です。今は、児童の激減で、学校の統合がされ、用途廃止となり今は廃校舎となっています。光沢のあるまっすぐたぶん全クラスの横を通る内廊下なのでしょう、無節で割れ目もないような美しい廊下がはるかかなたまで続いています。ドアや建具(廊下の窓)などとても立派で、天井も高く、特別手間のかかった建築に思われ、きちんと評価できないのは(素人の)悲しさですが)、古い時代の品位を感じさせてくれます。投稿の彼が回想し、執着するのは、友人たちとみんなで、その長い廊下を、雑巾がけ競争したことであり、そのぬかがねずみにかじられ大変だったなどと、こども心に、古かったけど伝統に根ざした美しい校舎で、小学校時代を過ごせたということなのでしょう。しかしながら、この校舎は、おそらく、地元の篤志家のみならず、地区住民が、総力を挙げてこの校舎を作ったであろう、その歴史のたまものなのです。日本の小学校舎などは、西欧と類比すれば教会に当たるもの、と何かで読んだことがありますが、なるほどと納得できます。また、この校舎で、地区との間で、どのように使われてきたかと、その記憶の集積の重みと、地区住民たちの誇りを思うところです。
ためしにわが市の周辺部では、地元小学校で、地区対抗の運動会や、文化祭といくらも行事が挙げられます。また、そこは同時に災害時の避難場所ともなり、営繕の経費は苦情の元ではあることですが。
 先ごろより、「あればうるさい」などとの「保育園設置反対運動」とかがあり、それを「世論」として、意を得たりと設置を怠る行政はさておき、数を頼りに、自分を世界の主人と思い込み、自己欲望を理不尽に貫徹しようとする、醜い地区住民もあり、どれだけ「個人」が「社会」と切れてしまったことかについて暗澹たる思いがします。その一方で、この地域が、こどもの教育にどれほど熱心だったか、賞賛され、この教室に、懐かしい思いを抱くところです。彼は地元(?) で暮らしているようですが、そこを離れるにせよ、よい、懐かしい、地域の社会での思い出が、彼を、生涯拘束するように思われます。
 そのとき、その見事な廊下には、雑巾が一枚置かれます。「待て、待て」と火野正平が呼び止めます。「「ここに、皆と、やった」と書いてあるやないか」と。
 スタッフを含め、3人の「ヨーイ、ドン」です。解説を聞き逃しましたが、総二階の立派な校舎で5クラス以上はあったのでその距離は100メートル弱くらいはありそうです。本気でやれば、途中で、すっころんでしまいそうに見えています。
 見ていて、とても笑えます。

 最後は、鹿児島県の離島、喜界が島の話(597回)です。この番組においては、交通の便などなのか、今まで、訪れるチャンスがなかったせいなのからか、このたびは種子島や何やら離島が続きます。自然的な、あるいは地勢的な不便が加担するのか、離島においては厳しい重い出が多いようです。
 投稿者は、「こころ旅」の愛視聴者で、夫とともに見ていたが、夫に先に逝去された女性が、呆然と毎日を暮らしているうちに、たまたま、テレビで(南海の(?))孤島「喜界が島」を扱った番組を見て、思い立って、十数時間のフェリーや、地域空港(プロペラ機)に乗って、喜界島にたどり着いた。
 彼女は、たった一人で島内を観光するうち、目前に広がる一面のサトウキビ畑に逢着したところです。その中を歩いてみたいと思い立ったのか、中に何の目印もないような一面のサトウキビ畑の中の道路を歩き始めます。ご存知のとおり、サトウキビ畑は、竹木のようで丈があり頑丈で、また密に繁茂しています。高低差のない平地で、その迷路のような似通った畑の中で、そのうちとうとう完全に方向を失ったといいます。今まで、登山体験では一度も迷ったことがないとのコメントであり、本来アウトドア活動には達者な方なのでしょう。散々迷った末、とうとう畑で作業をしている農民にであい、天の助けと喜んだところ、すぐ先に、県道につながる道があった、との落ち話となります。
 その瞬間、悟りというか、コペルニクス的転回(天啓)が訪れたといいます。「私は自分で決めて自分で生きていく」(生きていかなくてはならない)という「事実」であり、それに対する彼女の前向きの覚悟性なのでしょう。これは、自分自身の何かにせかされて無理やりたどりついた南のさいはての地でみた、まことに忘れがたい風景なのでしょう。投稿して、ぜひ他人にも追体験してほしい、という、彼女の気持ちが十分に伝わってきます。
確かに、その道は、なめてかかった火野正平の一行も、迷いそうになり、起伏のない道路で、背の高いサトウキビ畑を走るのは、視界が利かず怖いものです。
 「女性は怖かったやろなー」と、火野正平が述懐します。

 この番組では、他にも、投稿者の学童時に、激しいしけの海で一家総出の漁の事故により、友人家族などを失った思い出と、ご遺体(そう書いてありました。)もあがらなかった遭難場所(すぐ縁接の海岸)、そこに友人の収骨にいった話の場所への再訪(556回)など、厳しい「こころ旅」もありました。
 やっぱり、私たちには、幸・不幸にかかわらず、他人の体験をわがことのように追体験したい、それこそ、同じように「他者の感情の朱に染まりたい」という、強い欲求があるのですね。
 なぜそうなのか、考えたい方には、「日本の七大思想家」(小浜逸郎著、幻冬舎文庫)中「和辻哲郎」の章をお勧めします。

新日本風土記「渡し舟」(NHK)を見終わって、併せ「川」及び「橋」について考えます。

2017-01-20 12:38:25 | 映画・テレビドラマなど

 正月にとりだめした録画を見ようと思っていましたが、前に一度見て再度見返した番組に、たまたま、表記の番組がありました。
 日本各地の大きな河に、何らかの理由で架橋されていない場所におかれた、舟守りというか、渡し守りというか、その歴史(?) と現在を扱ったいくつかの渡船場所にまつわる住民たちの「記憶」と、それぞれに連綿と続くその営みを扱ったものです。いくつかのエピソードに分けられますが、それぞれ重みのある、興味深い物語でした。
 さて、「橋」といえば、何の「象徴」にあるいは「暗喩」になるのか、他界あるいは異界へ、またはそれにまつわる観念への文字どおり階梯(かいてい:入り口)になるのか、それこそ「共同幻想」として国家・民族を超えて一般的であるようです(「共同幻想論」(吉本隆明著)やその他にもたくさんでてきましたね。)。「現実」の橋も、「非現実」(観念的な)の橋も同様に存在するようです。しかし、交通量が多く、経済・現実的にも要請があるのになぜか架橋できない橋もあります。そういえば、三途の川も、ギリシャ神話のカローンの河(ステュクス河)も、河を渡船でわたらなくてはならないのでした。
 私も、大きくはないながらも川のそばで生まれ、また育ちましたので、私の年代の一人として欄干もないような簡易な木橋も、子ども心に新技術の到達と見えたコンクリート橋の双方とも、その移り変わりと再建築に至るまで記憶にあります。毎日のように(道路の一部として)通行しており、河の記憶とそれにまつわる幼児期に根ざした思い出はいくらもあるところです。しかしながら、橋のない河、渡船にかかわる記憶はとりたててなく、このたびその分だけ興味深いものでした。
 実際のところ、日本各地でも、経済的・技術的にも架橋できない渡し場もいくらもあったようで、河守り、舟守りといえば、もっぱら彼岸と此岸(ひがんとしがん:向こう岸とこちら側の岸)に立ち、時刻表がなければ、対岸からお呼びがかかれば、舟をこぎだし、迎えに行かなくてはなりません。したがって、もっぱら田畑の耕作の専従とはいかず、賃労働になるのか、河漁師のようになるのか、農村集落とは一線を画したような存在になるようです。渡し守については、もっぱらその従事する人の一生の職業(?) とすれば、本来は聖性も俗生もその背後にあるものとして、長く、また、他の生業と同様に、酸いも辛いもある人性であったのでしょう。
この番組に扱われている方々は、賃仕事で請負になったような方々か、当時アルバイトで仮の船頭を務めた人(こども)ですが、親から伝えられた使命というか、技能を備え地域社会的に(大きな)役割を果たすことに、一族としての誇りがあり、見ていると、身につまされるような、あるいは自分は、自己の社会的な役割を果たしてきたのかという、内省と、自負心と、彼らのその生活及び家族史(?) に共感を感じるようになっていきます。
また、同様に、離農や離村により、あるいは橋りょう(道路)の設置により廃れていく職業であり、それこそ、敗者の歴史のようなものがあります。
 さまざまな「自己・家族史」があるわけですが、兄弟で、廃村になった対岸の生家に帰っていく挿話など印象的です。彼らは、ずっと下手の渡し場を渡船で渡り、NHKの取材に渡り合ったようですが、丈の高い草に囲まれ入り口も出入りがままならないような無住の家にたどりつきます。あまり似ていない兄弟ですが、それぞれ身なりも様子も違い、弟のほうは独り者のようにも見受けられます。昔は小集落のため、対岸の渡し場まで彼ら自身が手漕ぎで駄賃をもらいながら渡船を動かしていた経緯があるようです。今は、田畑も、集落も押しなべて、離農で荒れ果て、廃村のようになり見る影もないのですが、当時の兄弟の部屋には、昭和30年(?) くらいなのか当時の最新スーパーカーのポスターや、家財道具か、まだ朽ちずに残っています。彼らもおそらく早い時代に小集落を出て行ったのでしょう。親がそのままにしたのか、その後、どのような時間が経過したのか、膨大な時間が、そのままの居宅の中で凍りついているようです。彼らは、やむにやまれず、年に一度、示し合わせて、この家にたどり着き、営繕なり補修なりするわけでしょうが、まるで失われた時間を、当時の集落の生活とそれにまつわる思い出を取り戻そうとするような彼らの気持ちが、見るものの心を打ちます。
 険しい山と河にはさまれたような場所は、離島か隠れ里のようなものなのですね。
次の逸話は、河船でしか行き着けないような農地に一軒だけ入植して営農していた農家の跡取りの話です。
そこは、昔は対岸に尼寺が一軒だけあったような、寂れた場所ですが、入植した一軒だけの農家で、農業ではやっぱり生計を営めず、息子は町に出て大工になり、最後まで一人で農地を離れなかった、なき父親のすんでいた居宅に集う家族の話です。たぶん、「農家をついでくれ」という父親の希望に添えなかったのでしょう、一人で生活できなくなった父親を背負い、渡し船ならぬ船外機つきの河船で父を渡した記憶など、問わず語りのうちに、押さえ切れなくなって思わず目頭を押さえます。
 その父も、生計を営むだけでなく、その土地にまつわる無住の尼寺を修繕したりと、現世とはかけ離れたような世界でただ生き延びて自給自足を重ねるだけではないような人性らしいですが、それを現実とつなぐ、無残に朽ちた自家用渡船の重さが、やはり、見るものに実感されます。
もうひとつ、あげると、男手が足りず、女によって動かされていた、渡船の話があり、たぶん構造的に場所を選ぶのでしょう、現在は、船着場の跡地に作られた立派な橋りょうの下で、当時の女船頭さんが、当時を振り返ります。婿も川向こうから、渡船でやってきた、とのことで、当時は男手がなく、生活と社会的な役割のため、なれない操船で必死の思いだったのでしょうが、痛ましいような、頼もしいような話です。
離島や、河の洲や飛び地のような場所をつないだ橋りょうがどれほど貴重でありがたいものであったか、論を待ちませんが、あらゆる人には、振り返って、決して楽な体験ではないですが、切実な記憶があるのです。
 怨嗟(えんさ:恨み嘆くこと)の対象となった渡し船もあります。川の対岸に畑地を持ち、厳しい舅に指導を受けながら、出づくりに、渡船で毎日通った女性の話です。それはなかなか忘れられないでしょう。工夫して、リヤカーまで、渡船で運んだんですね、渡し賃一回5円といっていましたが、思えば10円であんぱんが買えた、昭和30年代のことなんですかね。彼女は、渡船などなくなればいい、と思ったこともあるやもしれません。その渡船も今でも残り、今では、舅とも夫とも死別し、その後再会した昔の旧友とその渡船を使って、近隣の縁日に通うのが楽しみということであり、見る景色も変わってくるかも知れません。渡船をめぐり、悲喜こもごもで、結果、渡船だけは残ったということなのでしょうか。
 いずれにせよ、当時は血が流れるようにつらい体験だったかも知れませんが、今、思い返せば、時間が加担したある余裕を持って振り返れる時代であり、時間の流れと、それこそ忘却が救いになっているかもしれず、それこそ、人性の味わいを受感する一つのできごとかも知れません。
河舟というのは、平底船というか、瀬に乗り上げるため、底が浅く対岸につけやすいものらしいのですが、櫂を扱うのはなかなか難しく(私は結局できなかった。)、あれをいともたやすく扱う腕が、男らしい、とか頼りになるわ、とかいったものかも知れません。それについては同意します。
最後の逸話は、「鶴江の渡し」という、Y県の萩市の三角州にかかる、漁師町の、渡船の話でした。その河、松本川は、川幅は、100メートル程度はあり、水量も豊かで、海からの入り江のようになっており、春先には、四つ手網による、しろうお漁が盛んです。漁のためでしょうか、河口の川岸近くに規則的に打たれた棒くいの上で、かもめなどが休んでいます。
 昔、漁師さんたちは、市場までには自前の漁船で海上移動をしていたのでしょう。
 今では、三角州にある自宅から、勤務先の商業港がある対岸の水産加工工場まで、決まって通う人がいます。上流にその三角州に架かる橋を設置した経緯があるのか、無料の渡船です。今は、さる船を定年退職した元機関長が、櫓櫂を操ります。萩の地元の出身ではないようですが、「わしの仕事は、近所のおばあさんの愚痴を聞くのが大仕事じゃ」、と山口弁で話す、気さくでひょうきんな人です。本人は船のエンジンばかり見てきたせいか(?) 人とのやり取りが、本人もとても楽しいようです。巧みに櫓を扱い、対岸に上手に着け、さお竹で、パートの女性をおろします。この路線は、夫が漁に出ているときの、おかみさんたちの水産物会社に通う生活道路だったんですね。さびれていながらも、今も続いており、毎日乗る人が、1名います。昼休みに渡船で、食事に帰るという利用もでき、実際便利なものです(観光客も無料だそうです。)。
 私、実はこの渡しに行ってみましたが、そこへつながる道路は、ほぼ車両離合ができないような細い生活道路に、民家が密集してへばりつき、家の裏の堤塘から川や港の漁船の系留池につながっており、それこそ昔ながらの漁師町のようで、対岸の商業地(旧武家町)とは明らかにたたずまいが違います。おそらく、漁師たちは対岸には住めなかったし、住まなかったのでしょう。
 この松本川は、阿武川というY県の二級河川の河口の支流にあたり、当該三角州は、橋本川というもうひとつの大きな河で分断されています(山陰部は、本当に水豊かな地形ですね。)。かつて訪れた上流の阿武川歴史民族資料館で、遡上した大きな鮭の標本を見たことがあります。
お約束の脱線ですが、当該資料館には、民具の陳列と並び養家に養子縁組した男が、実家からどてら(綿入れの夜着)を持参する習わしというのがあり、「どてら披露」というのもあり、そのどてらが貧しいものであれば、肩身の狭い思いをした、というエピソードが表示されてあり、山中の農村も決して甘くはない、貧困と、弱者差別も当然あった、という、現代の養子、あるいは二男、三男にはほっと胸をなでおろす歴史です。
 そういえば、作家の井伏鱒二も、生家は地主さんですが、父は養子であり、孫の井伏は祖父に盲愛されながら、実父は使用人のように扱われた、と書かれたエッセイがあり、そのときの子どもの心を思いやれば心痛む記憶ですね(「米ぬか三升あれば養子に行くな」という俚諺(りげん:ことわざも中国地方にはあります。かくゆう私の母方の祖父も養子でしたが)。

 また、この松本川は、私、実は、夏の間にでも、もぐってみたいと思った川でもあります。
 いまさら人目はどうでもいいのですが、水面下に伏流の水流がありはしないかというか、満々とたたえられた流水の量とその川幅の広さを見れば少し怖いので、躊躇しておりましたが・・・。
世間を騒がすのも、私の本意ではありませんので。
冷静なうちの妻は、「私のいないときにしてよ」というだけですが。

 河が大きくても、小さくても、川、河にまつわり、上流域、下流域でもいずれも、われわれの先祖が、貴重な直接的な自然として、灌漑施設、運搬施設、動力施設として、河とそれにまつわる施設や自然、治水が第一義かも知れませんが、いやおうなくかかわってきて、同時にそれにまつわる「観念の」歴史があるのですね。「わが生はナイルの水の一滴」といった高名な作家がいましたが、彼はまあそんなものでしょう。

 私の生家は、川水を引き水車で製粉し、うどん・そば類を作って販売していたそうです。
子どものころは、大雨になった日に、簗に入った秋の落ち鮎に喜んだり、うなぎを捕らえた祖父が、うなぎをさばく様をじっと見守っておりました。不器用な人でしたが、さすがに子どものころからなじんだ、うなぎは上手にさばき、孫たちを喜ばせました。我が家に沿接していた河は、そばの小規模水路と含め、渡船があるような大きな川ではなかったけれども、やはり父祖と、いつから住み着いたのか、その営みと先祖に思いをはせるための大きな記憶につながっていきます。
 我が家の子どもたちに、私の直接体験の多くを継承することはできなかったところですが、Y県内の、清流や海岸には(散々不平を言われながら)極端なときには毎週くらい、子どもをつれていったことであり、今後彼らが、いつ、どのように、自分自身の人性との係わり合いを思い浮かべるかどうかですが。

 自分の生まれ育ったその場所場所への思い入れと愛着は、郷土愛というのかも知れませんが、これらの同胞たちの父祖を含めた個々の苦闘の生活史とやるせない思い出とを絡めて、「健全なナショナリズム」(=国民国家における大多数国民利害・価値尊重主義:私の造語)の推力につながるような気がしませんか。

もう一度、「橋」について言及したいと思っています。