天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

中也追慕

2018-09-14 20:24:28 | 哲学・文学・歴史
(毎年4月29日に、山口市の中原中也記念館において、「中原中也賞」の授賞式とともに、「中原中也生誕祭」が行われます。その、公式行事として、一般の人を対象にして、申し込み順で、詩の朗読会があります。そのテーマは、中也の実作でも良いし、オマージュでも何でも自由らしいところです。今年、たまたま、その紹介番組をテレビで観ていましたが、どこかのじじい(蔑称)が、つまらない、政治的デマゴーグを読み上げ(あれは、バカサヨクではないのか。)、当方、赤面逆上し、中也になりかわり(?) 、憤りを覚えました。やむなく、山口県在住のじじいの一人として、下記のとおり、つたない詩作をしたわけです。)


私は かの写真を 二葉見たことがある。

一葉は あの お釜帽を被り ランボオを気取ったような写真である
たとえば フランス名家の ディレッタントとは 当時 このような様であったろうか
お坊ちゃん然として 自らの才能と その無垢を 鼓舞するかのように 
大きな瞳で こちらを覗き込んでいる

「早熟の天才」 あなたはどれほどあこがれただろう 
地方で 片田舎で 「世界」の全てを つかみ  
そして 自ら その根拠のない自大感により 
大芸術家になることを 熱望しながら

「ダダイスト」 「和製の 天才詩人 ランボオ」 
若さゆえ 面白いものは いくらも あったろう

傲岸不遜の自我と
そのくせ 妙に甘く 友人たちに
気持ちのままに  なんども 波状訪問を 繰り返す
友人たちに 「いなかもの」と 誹られただろう

また ときに 「主のまねび」などを 口誦さんだ アドレッセンス期


自分で言うほど もてもせず 
はずかしい思いもした 京都時代
酒を覚え 自らの レイゾン・デートル(存在意義) を担保するため
友人たちとの 毎夜の 身命を賭した 観念の闘い

そうして 後に
ゆきどころなく 悩みぬいた 三角関係
  
いなか天才には 試練が いくらも あったに違いない

「俺は詩人として 故郷に 錦を飾る」
いやになるほど 通俗的だが 
あなたは 純金無垢に そう思っていた

片意地で 傲然とした 自恃のこころと
どうしようもなく 生まれてくる 
自らの幼年期と その無垢への とめどのない傾斜

しかしながら 「詩人になるしかなかった」あなたのその資質(さが)
のろわれた資質としか言いようもなく 招きよせる その運命(さだめ)

詩人はろくでなしだ
まさしく それは 必敗者であるやも 知れぬ

「ごくつぶし 二度と生きて帰ってくるな」
誰もが その逡巡と 恐怖を越え 
不確かな 自らの運命をかけて 虚空に 踏み出す
保証もなく 自己に強いられ 魅入られたかのように

いつの時代でも
詩人の行く末は 決まっている


二葉目の写真は ずっと後の写真だ
最初で 最期の 厳しい恋に 敗北し
生活に敗北し 
「世間」に敗北し

しかし 詩人として 
社会・現実と 不可避に 相対した 写真だ
刈り込まれ 整髪された髪と そのそげた頬と そして強い眼が
アドレッセンス期の終わりと 幻滅と
そして その意識的な訣別を 深く つよく 語っている

私は その写真に 惹かれる 
とても 強く惹かれる

そのとき
あなたが かつての 自分の詩を くちずさむ ことがあったのか それはわからない

結婚し 
しかし 愛児を失い
その渦中で あなたが 対峙しようとしたものが 
それは 詩神のみ ならず
生活の冷たい床(ゆか)であったのか

しゅく病(あ)であり  奈落のように とめどのない貧困であったのか
あるいは それは 非力で 無防備な 芸術家への 
厳しい 近代の試練で あったのか

あなたは 自らの人性と 才能の賭けに 
不見転(みずてん)に その身を投じるしかなかった


しかし 今の 私には よくわかる 私は
あなたの知らぬ 昭和 平成を 無自覚につききり 
凡庸に また 大過なく 延命し

生活の局面では もがき 格闘し 
あきらめ 不本意に 空疎な気持ちで 受容しながら
ついには 家族に疎まれ 多くの場合に 憎まれ 

観念の世界では 「反核・脱原発」に加担せず サヨクとたたかい 
陋劣な「グローバリズム」 とも闘い

また それは 多くの訣別を受け入れることとなり 
「変化」を厭い 憎む 友人たちをも失い 
ここまで来た

はるかに ひたすらに 馬齢を重ね 
老かいともいえず いよいよ 醜くなるばかり 
「じじい」 とも呼ばれ
多くもなかった美点を 時間の砥石で そがれながら

ほとんど あなたの 倍以上の時間をも 費やし
語る詩も 言葉もなく

しかし ここまで きた 私には よく分かる
あるいは 分かりたいと思う

そうして 今 わが若き日に
破滅を賭けても
なにがしかの 回帰をしたいと 乞い願う

そうして それには その試みの 発条として
あなたの詩句を 愛唱し そして 思いめぐらす ことができる

そうして ここで あなたの その むくな時代をなつかしみ 

偉大な エディプスの時代は 終わったのだ と 思うのである

私は といえば
反抗すべき 父も 真にいつくしむ母も すでにおらず

「真摯に」思考することが 憎まれ 
時に まんべんなく ふりかかる試練や 厳しさが 忌避、嫌悪され
ひたすら つまらぬ 自己欲望を 無限肯定するばかり

愚かしくも 無媒介に 「やさしく」し また されることを 
常に 強いられ また 求められ 

「抵抗」すら 空疎に思われ 
無思考と 刹那の気晴らしが たたえられる この時代に

私たちは どこへ いくのか

また ついには 
どこで 頓死する というのか 私は
戯れの 唄も 
くちずさむ 一遍の 詩もなくて



「忘れがたない、虹と花
忘れがたない、虹と花、
虹と花、虹と花

どこにまぎれていくのやら
どこにまぎれていくのやら
 (そんなこと、考へるの馬鹿)

その手、その唇(くち)、その唇(くちびる)の、
いつかは、消えて、行くでせう
(霙(みぞれ)とおんなじ ことですよ)

    (中   略)

忘れがたない虹と花
虹と花、虹と花
(霙(みぞれ)とおんなじ ことですよ)」

    (「別離」中原中也・草稿詩篇(1933-1936))

「香月泰男」についての私的な思い出

2018-06-21 20:37:02 | 哲学・文学・歴史
県外の友人から、世間話で、文学とか芸術とかで、山口県出身の天才といったらだれかなあ、と聞かれ、私がちゅうちょなく答えたのは、詩人の中原中也、画家の香月泰男(かづきやすお)(1911~1974)でしょう、と即答しました。どうしても、この点は譲れないところです(しかしながら、後者については、私には絵画に係る素養がないことはここで断言いたします。)。
中原中也は、少なくとも、近代の、全国区の詩人ですが、絵画に趣味も教養もない私にとって、香月泰男を知ることが出来たのは、僥倖(ぎょうこう:偶然に得るしあわせ)であったというべきものかもしれません。
学生時代、名著「生き急ぐーースターリン獄の日本人」(内村剛介著)(絶版)に出会い、その扉の裏面に、「運ぶ」という、香月の油絵の写真が載っていたのです。
私の大学入学時(1974年)、親ソ反動サヨク政党、いわゆる日共が日本国においてまだ少しは支持者がいる時代で、ソルジェーニーツィン事件(ソビエトロシアのノーベル賞受賞文学者が国外退去をさせられ、レーニン・スターリン一派による裏切られた革命 (?) の後、労働者の開放どころか、旧ロシア時代より更に苛酷な収奪と、反対者に対し監視と処罰を繰り返したソビエト政権により、反体制の文学者が政治的亡命を強いられた。)がロシアで起きました。
この本は、当時、世界的にも澎湃(ほうはい:物事が勢いよくおこる様)として起こった、社会(共産)主義の失敗と、実態としての自国民や他国民に対するその残虐な支配、殊に、ロシアスターリニズム政権の支配の実態を、わが国の反動左翼団体がいまだに力があった当時、虜囚になった当時の日本国の知識人が、その暴虐と非人間性を告発し、被抑圧の立場からその実態をきちんと描いたということでは、意味があります。
また、作中で、著者が獄中で考察した、その歴史、言語から、ロシア人、日本人、フランス人など、その個性と、特徴的な性格、それぞれの国民性の実態にも言及しており、その観察も興味深いところです。

現在において、類比すれば、グローバリズムを隠れ蓑に、強くなりすぎた金融資本が、国境を越え、他国家の大衆をあたかも道具のように見なし、巧妙に自身の経済支配の奴隷とすることと、きわめて似通っており、スターリンの目指した、ソ連を中核にした世界プロレタリア独裁ととても相性がいいのですね。


褐色に黒を重ねた画布に、真っ黒で巨大きな丸い岩のようなものと、その中に、足が二本生えている。よく視ていると、褐色の、くぼんだ眼窩と、頬骨と、うっすらと顔や体が、その巨大な荷物に比べて、あまりに細く脆弱な人間の体が、少しづつ、底知れぬ闇の中から、浮かびあがって見えてくる。大きな衝撃を受けました。
それこそ、人間の本質とは何なのか、人は行き続けているかぎり、その人性は強いられた苦役と労働と苦痛で満ちているだけなのか、とこちら側に、その様な絶望的なイメージと思索を強いるような、私たちを深淵に誘うかのような作品でした。

この絵画は、香月泰男の代表作である、シベリアシリーズの連作(全作57点)の一枚であり、著者の説明によれば、毎日凍りついた悪路をコーリャン(北方種の雑穀)の大袋を背負い往復6キロの道のりで毎日三往復させられた(いわゆるそれがノルマでしょう。)、という体験をモチーフにしています。それこそ、運悪く転倒して、列をはずれれば、ソ連軍兵士に脱走兵として銃殺される運命でもあるわけです。ソビエトロシアでは、牛馬や、トラックを使うよりはるかに安価な捕虜の労働はこのようにまかなわれたわけです。
香月泰男は、徴兵により従軍し、敗戦後、あたかも日本国の戦後賠償のように、運悪く、虜囚となった兵士たちは、拘束され、ソ連軍に差し出されました。理不尽で、非人道的であることは明らかです。その後、前記のような厳しい奴隷労働で、戦友たちがばたばた死んでいったことを考えれば、これは、なかなか、運・不運とかで納得できることではありません。郷土に残した日本国の兵士の家族たちにしても、それは同様なことでしょう。
内村剛介(1920-2009)も、同様に、戦後、ソ連軍に拘束・留置されましたが、詩人の石原吉郎と同様に、ロシア語に堪能であり、スターリン治世下であれば、間違いなくスパイとされたこと(独房体験が多い。)であり、兵士大衆の一人として、ラーゲリ(強制収容所)の雑居房につながれた、香月泰男とは、少し異なった虜囚体験であったかも知れません。
しかしながら、おしなべて、シベリアに抑留された兵士大衆の、その、虜囚体験は、生き延びた後も、個々の人たちには、終生にわたり、耐え難い、衝撃と悪夢(今で言う「PTSD」でしょう。)が付きまとうものでしょう。お気の毒なことです。
ソルジェーニーツィンの、「イワンデビソーニッチの一日」や「収容所群島」など読めば、国民監視、密告体制の中で、自国民でさえ、些細なことで拘留し、ラーゲリ(強制収容所)に放り込み、奴隷労働を課する、ソビエトロシアの非人間的な体制とその抑圧、共産主義の失敗と抑圧機関のその実態を見れば、ソビエトロシアの独裁者が、他国民の、いわゆる敵に対し、しかしながら、その実態は農民・労働者に過ぎなかったわけですが、搾取すべき労働資源として、いかに苛酷な取り扱いをしたかは自明かもしれません。
それを言えば、現代の、北鮮の絶滅収容所の実態などは、推して知るべしでしょう。

それはそうとして、現在の南鮮の指導者が、自国民すら誘拐された、隣国の世襲独裁者と野合できるのは、私の理解の枠を超えるところであります。

香月泰男自体は、入隊時に、すでに画家としての能力を獲得しており、従軍中も、飯ごうに釘でモチーフを刻んだり、身の回りのものにさまざまに工夫して描き、その画業を続けています。時に、上官の命令で、その肖像画を描いたこともあったようです。うちの義父が、入隊したとき、まず「軍隊は要領である」とたたき込まれたといっており、それこそ、軍隊社会で生き伸びるためには、個々の兵隊は、その技能をさまざまな局面で発揮しながら、延命を図っていったことでしょう。敗戦後の、ロシアラーゲリでの俘虜生活でも、その技能は、生き残るために必要であったようです。

 あとになって知ったことですが、香月自身、幼児期に、祖父によって生母と引き離されたとの経験があり、ものごころついたころ、生母に、はなむけに何が欲しいかといわれたときに、絵描きのセットをねだったとの述懐があり、決して平穏な幼児期ではないようです。
 後年、手すさびのためなのか、ブリキのおもちゃなどをこどものために作り上げ、それが手すさびの域を超え、見るものに温かみを与える鑑賞に堪えるおもちゃ・工芸品になっています。
 その後、この自転車やピエロなどのおもちゃを、そのできばえに驚嘆した谷川俊太郎の編集(その画業との落差にも感動したのでしょう。)により、写真集が出ています。自己の幼児期の体験からか、家族を大事にし、子煩悩であるといわれた、香月の別の側面でもあります。

 彼のシベリアシリーズを、目の当たりにするたびに、人は思索を強いられます。
 その直接体験の厳しさは、容易に他者の同情や追従を許しません。
それこそ、フランクルの名言を引けば、個々にとって「最も善き人々(自分自身)は二度と帰ってこなかった」、ということです。
遺族は、このシベリアシリーズを、県立美術館に寄贈していますが、これは、個人の所蔵とか、個人の美術館とかではなく、より、多くの、一般の人々に、より多い機会で鑑賞してもらう芸術であろうと、納得されます。現在、常設展示として、多くの人に公開されています。

 テレビの、いわゆる「老人」たちの戦争体験を聞いていると、「もう戦争はこまる」、「こんな体験は孫子にさせてはならない」、そればかり、繰り返されます。
 戦争従軍者については、心情的には、それは了解できることとしても、われわれ、戦争体験もないものでも、少し想像力を働かせれば、現在の日本国の地勢的、歴史的情況をかんがみれば、近い未来において、中共覇権国家や独裁国家北鮮によって、日本国の無辜の国民が、かつての兵士大衆のように、生存すら脅かされ、奴隷のように扱われ、そんな厳しい運命に、否応なく、巻き込まれない保証はないのです。
歴史に学ばなければ、現在のわれわれ国民の責任と努力なしに、極東の覇権国家、独裁軍事国家の現実の脅威に対抗することは出来ないはずです。まさしく、他国の「現在の」歴史がそれを証明しています。

 わたしが、最初に、香月泰男の絵画に出会った頃、まだ、氏は存命中でした。
 その後、地元の画廊(画材屋を兼ねている。)で、氏の作品を見せてもらったとき、黒をベージュ色にぬり重ねたキャンバスに、花器に挿されたかわらなでしこが描かれたもので、黒い色調と同様に、ひときわ濃い桃色の赤黒いなでしこに、異様な迫力を感じる、静物画でした。
当時の私は、バイアスのかかった視点で観た覚えはありませんが、是非欲しいと思いました。当時の初任給が9万1千円であり、5倍以上の金額になる油絵に二の足を踏んでしまいました。結局、死後、その作品の値段は、とても上昇してしまい、到底手が出ない、金額になってしまいましたが、それはそうとして、別の話になってしまいます。

 長門市(旧三隅町)にある、香月泰男美術館の、外装は、シベリアシリーズのモチーフでつくられ、黒色の建物に無数の褐色の顔が浮かび上がるという、農村地帯の周囲に対し、違和と、くらさと、とてつもない不調和を演出しています。
私見で言えば、それは、香月氏の、その思念と、「私は終生癒されることはない」というようなその心象風景が、すさまじく屹立しているかのように見えてくるところです。アトリエ展示を含め、遺族により大切に所蔵された作品を主にした展示がされ、きわめて興味深い美術館です。
 彼の晩年作、「<私の>地球」では、シベリア、インパール、ガダルカナル、サンフランシスコ、そして三隅町と、その交点に私は居る、という晩年の彼の認識を考えてみれば、終生、その直接体験からのがれることのなかった、この画家の決意と、重い記憶がよみがえるのです。
 また、県立美術館に、山口に来てくれた、大変お世話になった大学時代の先輩(友人)と一緒に行ったことがあります。彼は、絵心のある人で、「シベリアシリーズは無論すごい、でもね、明るい色調で書かれた、「二人座像」なんかも、作者の技量とすれば、すごいものだよ。」と言っていました。
 今は、行き来のなくなった方ですが、大学時代を思い出すたびに、懐かしい思い出です。
 旧友に会うたびに、「彼はどうしてる」と皆に安否を尋ねられる方でもあります。

私的な「吉本隆明家」のことども・・・・

2015-07-02 22:50:41 | 哲学・文学・歴史
日記で一度とりあげましたが、今回、日本の七大思想家読書ノートの番外篇として、私にとっての吉本隆明について書きたいと思います。(大変恐縮ですが、構成上、日記と一部重複します。)

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         私的な「吉本隆明家」のことども・・・・
                                H27.7.2

 昔(最近いつも同じ出だしになってしまい我ながら恥ずかしいことです。)、学生時代(1974年から1978年まで)のころ、私は京都の私学の文学・社会科学系のサークルに入っていました。
 70年代全共闘の余波で、怒れる若者たちの「政治の時代」のくすぶりくらいは残っており、サークルの先輩にも、高共闘で退学処分、大検、受験入学のような人もおり、普段は温厚でおとなしいが、酒を飲むと暴れるとか、殴られるとか、畏怖と、敬遠のような存在となっていました。そんな人たち、オールド・ボルシェヴィキは、すでにサークルに来ることはなく、語り草のようになっていました。
 当時、わがサークルの例年行事で、定期的な講演会をやろうとしていましたが、私の世代ではわが大学の出身で、現代詩人の清水昶さん(山口県出身でもあります。)を呼びました。本当は、残り少ない学生時代に、一度、あの、吉本隆明を呼びたかったのですが、もし呼べば学内の徒党政治党派(?)(今思えば「笑っちゃお」ですが)と明らかな対立関係となり、それ以上に、お前ら程度で、あの吉本が呼べるのかよ、という身内(?)からの圧力がきつかったように思われます。(私の在学中に、一度、京大の西部講堂で講演会があり、当日、多数参加により到底会場にたどりつけず、参加を断念しました。あとで聞いた話では、吉本隆明に敵対する政治党派がいろいろ集まり、腰の据わらぬ主催者はバタバタだったらしいです。)
 また、吉本隆明の長女の多子(ハルノ宵子)さんが、京都青華女短に在学していたこともあり、父、吉本隆明は講演を快諾されたそうです。当該講演のことをあとで聞いて、残念な思いをしました。
 ところで、清水昶さんも、僕も「「言語美」(「言語にとって美とは何か」)は、読み込んだ覚えがある」、と、文学者「吉本隆明」を評価している人でした。彼の評論、詩論に吉本について触れた部分は多いものです。
石原吉郎、黒田喜夫などに係る評論もあります。その清水昶氏も、2011年に物故されました。

 余談はさておき、当時の吉本は、「詩的乾坤」で、「不倫」から駆け落ち同然に始めた結婚生活の、食卓も無い中で始めた生活(「ネギ弁当」など)について触れていましたが、その後、組合運動で勤務先を追われ、病弱な妻とまだ幼い子供を抱え、生活と家事のため奮闘しながら、その中で、思想・文学のために原理的な仕事をしている、とは、吉本の読者であれば十分に承知おきのことでした。私生活においても、原理的な思考を崩さず、逃げず、ひたすら思考し、その意味では、極北の、透徹性のある思想家でした(ああ、皆に周知のように、毎夏の行事と公言していた、西伊豆の海水浴場で吉本は溺れたのだった。)。
 吉本多子(ハルノ宵子)さんは、吉本家の父母を看取った人ですが、彼女の書いた父との共著、「開店休業」と、エッセイ集「それでも、猫は出かけていく」はそれぞれとても興味深い本でした。少女マンガはあまり読まない私ですが、彼女自身のイラストは、線がはっきりして、明快でとても見やすく、同時に家について猫について、切れ味のよい批評が続きます。読み進むにつれ、一家で猫を熱愛する、吉本家と個性あふれる猫とのかかわりあいを語りながら、問わず語りに、吉本隆明と家族との関わり合いが、だんだんに外部に視えてくるようになっています。結論からいうと、あれほど、その深い根源性ゆえに周囲と隔絶し、孤独と孤立を抱え込んだ吉本が、不倫を契機に始まった、家族(「対幻想」)の在り方を思想的に突き詰めた筈が、その後の愛妻との関係は必ずしもいいことばかりではなかった、ことがわかります。
 誤解を招くような言い方をしますが、病弱な奥さんは、家事や、子供のケアが十分にできなかった、自身が淡白なせいか、殊に、食事を呪詛するほど嫌い、甘いものも、彼女たちが望むように、子供たちにも与えなかった、いみじくも(自分の好みを周囲に押し付けているのに無自覚な)山の手のお嬢さんのような人だった。
翻って吉本は、下町の大家族出身で、彼女の思うような世間体や体面もなく、妻が出来なければ家事(煮炊きすべて)は俺がやる、妻にとっては耐え難いことかもしれないが、思想的にそれをやる、また、深化した方法ではありますが、それを自己著作に取り上げる、妻とすればつらかったかもしれない、しかし、大変失礼ながら、何らかの原因で、吉本家に「母存在」が希薄であれば、それは、子供たちにとって良い環境と思えず、多忙の中で、当然と思いつつ、吉本が、懸命に食事を作り母親業をやっていたらしい、ところです。
ひらたくいえば、我が家の状況の方がまだましだなー(それ以外の感想も当然ありますが)、と要らざる感興がわきます。やっぱり、ヤな女だったのかもしれない。
 また、長じて、吉本家の実態がわかるようになった、ハルノさん姉妹は、母親の欠点も父親の欠点も見えるようになり、お互いの組み合わせの不幸と、それを、「思想」で乗り越えようとする、父の偉さと孤独な姿が目に入り、最終的にハルノさんが一手に、家事と老親の介護を引き受けることとなったようです。
 「女性が、自分の創造した料理の味に家族を訓致されることができれば、家族をリードできる、そこだけ抑えれば、少々男・女出入りがあろうと、破たんは生じない」(詩的乾坤)、との吉本のエッセイがありました。
それは、病弱な妻を抱え、厳しい多忙な生活の中で、吉本が、懸命に食事を作っていたらしい、主夫として食事の用意という、ハルノさんが指摘するうんざりするような、日常の繰り返しに耐えるというまるで反目の現実です。それは、娘たちが、後から思えば、当時父からあてがわれたのはとんでもない食事ということになりますが、彼は、決して、その努力・苦闘を放棄しなかった、家族からの観察ですから確かでしょう。
 その、おかげで、二女吉本ばななさんは、「キッチン」(台所で醸成される家族としての親和力の再生の話ではなかったかと思います。)を書いたのかもしれず、少なくとも、吉本夫妻の代では、キッチンは幸せな場所ではなかった、らしいです。ハルノ宵子さんは、文面から見ると、料理は大得意、いかなる状況でも、姉妹の家族・友人から、吉本の来客から、数多くの来客・知人、その兵站を一気にまかなっているようです。同時に、家飼い、野良飼いの猫の世話をしつつ、父母を看取っていくわけですが、その奮闘ぶりは、極北の孤独者吉本の、晩年期での大いなる救いであった、と思われます。
 若年にして、糖尿病を発症した吉本は、食欲は旺盛で、心配した妻の厳しい食事療法に耐えきれず、あちこちで、買い食い、隠れ食事を繰り返したそうです。それがまた、妻の逆鱗にふれ、「もう私は知らない」、という、料理(家事)放棄にもつながったようです。
 ただ、買い食い、隠れ食事が、唯一(?)の楽しみだった、という、吉本隆明とは、どこか、「かわいい」とは思いませんか?

 実は、同じく学生時代、「吉本はなー、ひょっとしたら、間違えへん人かと思うんや」と言っていた、サークルの先輩と、かつて、千駄木時代の、吉本の家周辺に行ったことがあります。その家の路地の前で、ぶすっとしたおっさんが、ごみの、ぽりバケツの始末をしているのが見えました。我々は、あわてて、そそくさと立ち去りましたが、「やっぱ、吉本やで」、「本物やったんですねー」と、興奮して話したのを覚えています。

 吉本に過剰に期待して(?)吉本家にねじ込んだり、講演の依頼には行けなかったが、ささやかな思い出、です。

日本の七大思想家(小浜逸郎)を読む前に

2015-06-09 21:47:06 | 哲学・文学・歴史
敗戦経験という基軸
(斜体部分は私の引用・加筆です。)
                        H25.2.20
Ⅰ 敗戦体験は日本史上最大の事件である
① 推定300万人という死者の数、投入された兵員、軍事物資、戦費の膨大さ、
 という量的な側面
② 国際舞台での西洋列強(外部の強敵)との総力戦、という質的な側面 
③ その局面における大日本帝国全体の完膚なきまでの敗北
④ 中国本土への泥沼的侵攻とその失敗
⑤ 沖縄戦、本土空襲、原爆投下などによる国土のいまだかってない荒廃
⑥ 7年近くによる他国の占領統治と、「勝者の裁き」としての東京裁判
⑦ 軍事大国の道から経済大国の道への転換
⑧ アジアで唯一近代化の道を進みつつあった途上での屈折と挫折
⑨ 西洋から近代化、帝国主義、植民地主義を学んだ一民族国家の敗北の必然性
⑩ 戦前、戦中の国民のエートスのあり方と、敗戦後のそれとの大きな変化
⑪ 敗戦前と敗戦後におけるイデオロギー的な価値観の極端な転換。民主化の徹底
⑫ 67年後の今日にいたるまでも、日本の政治構造、外交姿勢、思想の型などに直接の後遺症と思われる現象が強く残り、今後もその後遺症が衰えそうな 気配を見せないこと

   明治維新・・・藩政の解体、中央集権的国家建設及び近代的国民意識(ナショナリズム)の形成に至る大変動 → その後の大挫折(敗戦)
      
    アジアからも西洋からも孤立した国家としての、哀しい近代化の内包
     (国民のエートス:「私は鳥でもありませぬ、獣でもありませぬ」太宰治)
         Ex) 戦友(日露戦争)
           海ゆかば(日中戦争)
Ⅱ 近代日本の建設と屈折と思想家との関連
 第二次世界大戦敗北(最大事件)と思想家との格闘
  日本の近代とよく格闘した者
   ◎西洋近代の思考そのものを相対化しえたもの  (私見:和辻、小林、大森)
   ◎西洋思考を取り込んだうえで日本「近代」の問題の剔抉(てっけつ)を行いえ
    たもの (私見:福沢、時枝、丸山、吉本)
Ⅲ 「七大思想家」とはだれなのか
  生年順とすれば、福沢諭吉(1835~1901)(社会思想)、和辻哲郎(1889~1960)(倫
 理思想)、時枝誠記(1900~19 67)(言語思想)、小林秀雄(1902~1983)(実存思想)
 丸山眞男(1914~1996)(政治思想)、大森荘蔵(1921~1997)(哲学思想)、吉本隆明
 (1914~2012)(文学思想)(2012年3月16日死亡)と表現される。

モチベーションとして
① 第二次大戦の敗北という日本史上最大の衝撃から、日本思想は何を語り始めたかを確認すること
② それぞれの思想家と思想家の連鎖の中で、関連性、共通性(背反しているような場合を含め)を見出すこと
③ 日本近代とはそもそも何であったのか、その中途における挫折の意味を確認し、本来の姿を現代に活かすには、近代思想のエッセンスの何を取り出すべきなのかを定位すること
 日本近代思想を検討することにより西洋思想を超えていることも発見できるかも知れない!!

(私見)
 個人的に、なぜ私は、社会科学系(文学の本を含みます。)の本を読むのか、問い返してみました。
 学生時代は、「なぜ私はここにいるのか」から始まって、「世界とは、そもそも日本、日本人とは何なのか」という話に派生して行きました。この本で挙げられる思想家は、(一部を除いて)当時の学生たちに強く支持された人たちです。
 著者は、近代の問題は、これらを批判的に扱うことで、解明できるのではないか、非欧、非亜の独自の日本及び日本人論を試みており、現在の私にとって大変興味深い、切実な本です。また、かつて吉本が言ったように「普遍的に語れ」という態度を自己に期しているように思います。
 実は、個人的に、千年に一度の大災害の3.11後の発言を、同時にこの著者に求めていました。その期間の沈黙が、このように結実したのは、とてもうれしいことです。
 今は年のせいか、悪たれていた昔は別にして(「政治の季節」も、「全共闘」も今思えば何のこともなかったのです。)、「美しい自然と優れた文化的価値の収斂していく日本(実体としての日本国家)はやっぱり私の祖国だ」に変わっていき、つまらないグローバリゼーションで根こそぎにされ(経済社会的にも、芸術文化的にも、勤勉でお人よしの国民性にしても)、二流の西洋系国家(?)に頽落するのは、断じて嫌だと思っています。
 残り少ない(?)人性ですが、先に亡くなった内村剛介がいった、「視るべきほどのものは見つ」という姿勢で(彼の場合はどうかな?と思いますが)、自らの信じる<価値>と、<私の好きな><日本>のために戦っていきたい、と考えています。

永遠の0(ぜろ)について その2

2015-06-01 23:58:20 | 哲学・文学・歴史
この文章は、とてもラッキーなことに百田尚樹氏の講演会に参加できたときの印象記をアップしたいと思います。
ところどころ、昔習ったおかしな関西弁で決めてみました。
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「永遠の“0(ぜろ)”」について    その2
                                25.12.02
 百田尚樹さんの、講演会(11/29、於、周南市文化会館)に行ってみました。
会場は大盛況で、現在のベストセラー「海賊と呼ばれた男」(出光佐三翁の出光創成期の事件を扱ったものと思われます。未読)のせいで、出光興産の関係者がいっぱいなのか、会場に一時間前に到着しましたが、すでに熱気がむんむんといったところでした。
定刻になり、ハットをかぶった、百田さんが、登場し、「ベストドレッサーの百田です」、と軽くいなします。禿頭の、精力的な風貌に見えましたが、私と同年輩のおやじです。さすがに大阪人で、「えらい立派な文化会館で、出光はんも相当協力されたでしょう」と、突っ込みとサービスも忘れません。
枕は、演者が放送作家を務める「探偵ナイトスクープ」の話です。この番組を、私はケーブルテレビを契約してないので、こちらで視ることができません。が、東京へ行っていたとき、たまたまホテルでみて、大変感動した覚えがあります。それは、昔、道に迷った時に、家に連れて帰ってもらった恩人を探す、という番組でしたが、相手方と小学生のやり取りが絶妙で、「大阪のテレビはやっぱすごいなー」、「誰が作っとんのやろ」と感心した覚えがあります。
最初は「23年間妻と話さなかった男」という番組の話になり、これは大ヒットで、「ユーチューブ」でみられるそうです。
「うちのお父さんは、うちの母と話したのを見たことがありません。何でそうなんか、調べてください」という、19歳の男の子からの通報で、番組は動きだします。芋づる式に、上のおねーさん、その上のおねーさんとたどっても、「本当にそうや、何でかわからん」というばかりです。「よそのうちで「夫婦がよう話す」やなんて、嘘や思てた」とまで言います。
実際、父親は、家に帰っても何もしゃべらない、妻が「お父さん、冷蔵庫に○○入ってるから食べてや」と言っても何も言わん。黙って取り出し、黙々と食べる。しかし、息子が帰ってくると、豹変します。「○○、早かったな、冷蔵庫に○○あるで、美味しいで、はよ食べり」と、愛想よくしゃべりだします。しかし、妻には何も言わない。この状態が、23年間(長女が生まれた時から)ずっと続いている。会社でも、妻以外の家族にも普通にしゃべる、何でやろか、と番組スタッフは着眼します。23年前に、何かあったんやないやろか、と。
 優秀な大阪のテレビは工夫します。
 お母さんのビデオレターです。(協力するお母さんの本質は、本当に大阪のおばちゃんです。)
 「お父さん、私の名前は何ですか」、次々続く、妻のシンプルな波状質問に対して、お父さんは、スタジオで、じっと、脂汗を流しながら、画面を見据えます。
 そんな妻の、優しい、語りと問いかけが何度も続きます。
さすが、大阪のテレビです。重いお父さんの口を、とうとうこじ開けます。(番組の要請に応じる、お父さんもすごいけどね。やっぱり大阪人です。)
どーも、去る、23年前、長女が生まれたとき、かいがいしく子の世話をする、妻にほっておかれて、拗ねたのです。
それ以降、年月がたってどうしてもしゃべることが出来なくなった。いわば、病です。
スタッフから、その話しを聞いた、お母さんはいうのです。「そんなことやろと思てました。」。
(ここで私の突っ込みです。「ほなら、どないしてこども作ったんやろ」)

 色々やって、色々言っても、どうしても、しゃべれないお父さんに、最後の試練です。公園に二人を呼び出して、隠しマイクを装備し、スタッフと、子ども三人は遠くで見守ります。時間が経ってもお父さんは、何も言えません。その姿がおかしくて、遠くで、こどもたちは腹を抱えて笑います。しかし、そのうち、全員が泣きだしました。
 お父さんが、とうとう話し出したのです。「長いこと、話さなんですまんかった。こどもたちをよう育ててくれて本当にありがとう」と。
 スタッフも、スタジオ全体も全員大泣きで、番組秘書が、化粧を直すのに10分くらい中座し、大変だったということです。
 (できるだけ、私が、当日の話を忠実に再現したつもりですが、You Tube で見てみてください。うちは、パソコンがめげて見れません。)

絶妙な語り口で百田さんが放送作家としても、また語り手としても大変優秀な人であるのがよーくわかりました。 
いい年をした私も思わず泣いてしまい、会場のあちこちで、涙を拭いたり、鼻をすする音が聞こえました。

敢えて、私の感想を述べさせていただければ、「夫婦というのは奇妙で偉大なものですねー」ということです。殊に、ちょっと拗ねた子供のような馬鹿な幼いお父さんを、無言で23年間支えて、ふつーに耐えてきた大阪のお母さんの姿です。不平も愚痴も言わず、黙ってふつーに明るく笑って生きてきたその凄さです。「そんなことやろと思てましたわ」、男として、負けた!、太宰治の良質な短編小説(ネットで「黄金風景」を読んでみてください。)を読んだような、思いです。
 続いて、94歳のマジシャンの話です。
 なぜ、50歳になって小説を書き始めたかとの、百田さんのモチベーションに関連しての話です。
 マジシャンは、舞台で、震える手でマジックを始めます。シルクハットにたまごを割り入れ、そのままかぶってしまう話や(かねて持参のハットで百田さんがマネします。)、箱串刺しの刀のマジックで会場と観客をマジにビビらせ怖がらせた話(後で見ると、箱に入ったおばちゃんの「首筋に赤い筋ついてましたわ」)で、聴衆を沸かせます。最後に、マジシャンに本業は何ですか、と聞いたら、整体師です、との回答で、よく聞くと、88歳で、資格を取って、今も営業していると、そして、趣味で老人(?)施設の慰問などをやっているのです。
 そこで、百田さんは思ったそうです。
 「わしは、まだ50やないかい」と。「やるべきことは、やる時間は、ナンボでもある」、それから、ほぼ年2作のペースで小説を書いていると。なかなか、今の、同年齢の私を奮い立たせる言葉です。

 最後に、「永遠の0」の話です。
 書き上げた「永遠の0(ぜろ)」は、出版先がなく、ようやくお願いして、太田出版というところから、出たそうです。「全く売れなかった」、ところが、一般的に、売れ行きには必ず波があり、大きい波、小さい波、しかし永遠の0(ぜろ)には波がなかった、最初は極めて低く上がっていって、いまだに落ちていない。現在、講談社で文庫になって、すでに350万部を超えています。12月下旬の映画封切りで、優に400万部は超えるでしょう、と、さすがに大阪人やから、自分で言うてはりました。
その過程で、講談社の名物出版局長加藤さんの紹介があります。(出てきましたねー、舞台に。終了後に、外で、スタッフと一緒に、百田さんの講談社版の本を売ってはりました。)例の、週刊現代、袋とじグラビアの発明者だそうです。(この辺、ほとんど、吉本です。)

 「永遠の0」の感想は、前回書いたから書きません。(よかったら、是非、もう一度、読んでくださいね。)

 「ちょっとぐらいのびてもええやないか」、主催者に一喝して、佳境に入ります。何で、「永遠の0」、「海賊と呼ばれた男」を書いたのか、の話です。
 戦争で、一番被害を受け、犠牲を払った世代はどの世代でしょうか?
我々(昭和30年生まれ前後世代)は、爺さんから、おやじから、親戚から戦争の話を聞いた(私も少しは聞いた)。ただし、昭和40年生まれ以降からは、全くそんな話を聞いていない。ひたすら、敗北史観、日本人悪人史観を、学校でたたきこまれ、うちの娘が、子どものときに言ってましたが、日本の歴史の話といえば、「また、日本人が悪いことをした話じゃろう」としか反応しない。
 百田がいうように、太平洋戦争は、いわゆる2000年を超える日本の歴史の中で、日本と日本人が、直面した初めての大敗北なのですが、当時の人たちが、どのように苦しみ、戦い、そして困難で悲惨な状況の中で敗北し死んで行ったか、その正しい部分も、間違ってた点も、誰も教えてくれないのです。
 私の親の世代、大正9年ごろから大正14年生まれ頃(1920年から1925年ごろまで)の男の、四人に一人くらいは戦争で死んでいる。本当に気の毒な世代です(日本人の、太平洋戦争での死亡者は全体で400万人弱です。)。また、同時に、もう少し広い範囲で女性は寡婦になっている。

 百田さんは言います。
 今、私たちが、子どもたちに、聞いた、あるいは自分で学んだ、歴史を語っておかなければ、あの世で、貧困で、低学歴で、それでも、必死で奮闘し、子どもを大学にまで入れてくれた、父親たちに、顔向けができない、と。
 そして、生きのこった親の世代が、戦後、戦犯などと蔑まれながら(「永遠の0」にもその話があります。)、戦後の厳しい時代を一身に背負い、敢然として闘ってきた出光佐三であり、市井の百田さんの父であり、私自身の父であり、その必死の努力のおかげで、今の繁栄があるのだと。
 きっちりと、強引に、10分伸ばして、講演会は終わりました。万雷の拍手の中で。
 笑って、泣いて、また強く共感して。
百田さんは熱い男でした。私は、私自身の、今後やるべきことも大いに啓発されました。
 ただ一つ残念なことは、若者の聴衆、参加者がまだ少ないように思えたことです。
  
 私たちは、自国の歴史に誇りが持てない、そのような教育を、私も受けました。逆に、日本の植民地文化人(大手マスコミが)が、グローバリゼーションなどの名のもとに、誇るべきナショナリティ(国民性)を否定し、日本人の誇りや過去の犠牲を価値のないかのように論断し、あたかもそれが正義であるかのように煽っている。
 しかしながら、実際のところ、自国の正しいまた誇るべき歴史を学ばず、また自分たちに自恃の気持ちを持たない国民は軽蔑される。
中国が愚劣な覇権国家に成り下がり、日本海・東シナ海の制空権を主張している今、日本はアメリカのお情けとその下卒として、安保条約にすがるのか、と私には思えます。
 対等な関係で、中国、ソ連、アメリカなどと渡り合う、平和を愛する、文化の高い伝統ある独立国家、国民国家日本を私は支援したいと思います。また、子どもたちに継承したいと思います。