天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

NHKBS「ヨーロッパ鉄道の旅」について(Brexit 以後のイギリスについて、最後に一部罵倒)

2017-03-21 20:48:15 | 映画・テレビドラマなど

先ごろから、NHK番組評論家に堕してしまいましたが、このたびは標記の番組について言及します。
 個人的に、EU離脱後の、あるいはEU離脱時の、英国(と呼びます。)の、普通の国民たちの考えや動向に大変興味を持っていました。これが、世界的に蔓延した悪しきグローバリズムに対する、理性的で、冷静な選択であったと考えていたからです。
このたび、標記の番組の旅行者として、英国にわたったのは、俳優関口知宏、通称「トモ」、という男です。彼は、対英語圏滞在について、1年間、ユタ州にいたと番組中で語っており(あのブリガムヤング大学だったかどうかは知らないが)、そこそこの英語(本当は私なんぞよりずっとうまいかも知れないが)を話し、旅行者英語とすれば十分に思えます。また、彼は多芸であり、器楽演奏も作曲も、スケッチもこなします。
このたびは、行く先々で、市井の方々との会話において、彼の質問は、EU離脱(Brexit )のその後に終始します。
これは、彼の思慮によるのか、NHKの良識(?) なのか、興味深い展開となっています。
さきに、東欧圏や中部ヨーロッパを目指したこの番組での、彼がその際に見聞きした難民問題への言及が極めて不十分であったことに比べると、このたびは時宜にあった興味深い番組になっています。

街角で、彼の質問に答える人たちは、冷静に理性的に彼の質問に、その信じるところを語ります。
たとえば、親子でも、その立場で、意見が違うし、それぞれの見解を冷静に語ります、息子夫婦は自己の置かれている経済的・社会的状況で、「離脱賛成」で、父親は「理念としては「EU残留(僕はさきがないから)」」とかたり、それが信念対立でけんかにならないようにお互いに気をつけている、と話しており、考えれば、家族間できちんと社会的な意見のやり取りができるという、自分のケースを思い浮かべても、日本の家族よりはるかに優秀なのですね。さすがに、先進国とコメントしたい思いです。
そのほかにも、王室ご用達のユニオンジャックの国旗を作成する企業で、国旗の絵解きがされ、国家連合グレートブリテンの絵解き、白地赤十字はイングランド、  青地斜め十字はスコットランド、白地斜め十字は北アイルランドであり、ウェールズは最初からなかった、と、経営者が話してくれます。このたび、トモは、イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズと順繰りに廻っていきますが、連合国家としての、英国の歴史をおさらいしていきます。
彼が電車で歴訪するたび、それぞれのかつての民族国家の歴史、イングランドに征服された歴史が語られます。当時の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:圧政の厳しいさま)を何世紀を経ても現在の人々はきちんと記憶しています。そして、イングランドの圧政に抗したその誇るべき歴史を、穏やかに語ります。このたびの対話を交わした人々で、EU離脱(Brexit )直後、英国から離脱し、EU復帰したいなどの個々の独立の問題が論議されたにもかかわず、今回は厳しい意見の表明はなかったところです。英国では、食事はパブ(大衆酒場)で摂ると聞いたことがありますが、スコットランドにおいて、バグパイプ(スコットランドの伝統楽器)の演奏を当該パブにトモが聴きにいった際に、民族衣装に身を固めたその演奏者は、「歴史や伝統の差異は差異だ、われわれは連合国家の一員だ」といいきっており、その見識に感心したところです。その一方で、スコットランドの高地民で武力制圧の末、最後まで抵抗した人々は、水もトイレも何もない狭い牢獄に閉じ込められ、壁の露をなめ、そのなめとったあとが残っている(?) などの史跡もあり、西欧の血で血を洗う厳しい陰惨な歴史を改めて認識したところなのです。それはまた、かのEU離脱(Brexit )の際に、スコットランドの首相などが言明した、経済的利害による判断のみならず、その背後の意識や気持ちの相互の差異に繫がってくるのですね。
一方で、手工業や家内工業などで、低廉な労働力が必要な事業主は、英国への東欧入国者が必要といい、その見解が異なっており、当面自国の伝統的な産業の担い手が少ない英国の実情も理解できます。
それはそうとして、英国の各地の人々は、伝統を遵守し、文化を尊び、長い歴史の中に、自己を位置づける見方をごく自然に身に着けているようであり、私は、その歴史や伝統に無自覚なわが国の軽佻浮薄(考えや行動が軽はずみでうわついているさま)な風潮と、自国の伝統や文化を軽んじる、悪しきグローバリズムのばかばかしさに、改めて、怒りを覚えます。
現在、日本国民の40%以上が短大以上の高度教育を受けているのは、うそなのか、と思うところです。この番組をみていると、階級国家であり、高度教育を受けているはずのない彼らの言動や見識に感心するところです。また、同じく、それが日本人に対するものなのか、旅行者に対する親切な態度にも同様ですが。

アイルランドに行った際に、地元のジャガイモ農家の経営者と知り合い、19世紀のジャガイモ飢饉の際に主食をなくしたアイルランド人に何百万人も餓死者が出たあの事件ですが、「当時、わが国には小麦はあった、それを征服者イングランドがみんなもって行った」と語っており、改めてその厳しい歴史と国民感情(?)の歴史を思いやるところです。そのうえで、彼は、当時栽培していたジャガイモの品種(突然変異種で全滅した)を栽培しており、その思いと、自己のナショナリティ(出自)に対する彼のこだわりに想像をめぐらすところです。同時に、娘なのか、孫なのか、幼げな小さな女の子が、ジャガイモ畑にも、手料理を振舞う場にもついてきて父親(祖父)と一緒に行動するという、まるで日本国の、来客が珍しい、いなか町ののどかな風景のようにも思われます。

番組を続けているうちに、かの「トモ」君も、次第に成長していくようです(余計なことだが)。
 かつて、彼が、東欧圏を旅行していたとき、確か、オーストリアかどこかだったと思う、電車の中で母子連れに出会い、年端も行かぬその女の子が、電車の座席で遊びながら、自作で、歌を作る、それはお花さんや、はちさんに呼びかけるかわいい歌ですが、それを即興で作っており、同時に異邦人のトモに上手に呼びかけるエピソード(このあたりは国境を超えた愛らしい女の子ですね。)がありました。「この娘は、即興で唄を作るのがとても好きなのよ」、と語る母親にも感動したのでしょう、発奮したトモが、曲をつけ、きちんと演奏する、という話に発展したことがあります。
 経済難民や、政治的(?) (文字どおり、愚かな政治的なという意味ですが) な判断により、他国民・多民族が大量に流入、混乱し、直接的に治安どころか自国民の安全すら、確保が困難な状態であるというヨーロッパですが、私は、その後、彼らが、その被害を受けることなく、穏やかに伸びやかに暮らしていることを願っています。それは、各国民国家(多民族国家もあるかもしれない。)の、自立した国民と、民意を反映した政府が働くことで実現することで、私ごときが口を挟むのは余計なことかも知れませんが。

 それであれば、わが国の政府多くの無考えな国民が、安い、軽薄なグローバリズムに迎合し、また、一部利己的で下劣な勢力の使そうにより、無原則な外国人労働者のうけいれ、中共政府の、組織的な、軍事的、経済的な侵略(北海道の国土の買収を含みます。先日、千歳空港で無秩序に騒いだというばか者どもは、きやつらのことではないのか?)になすすべもなく、「偏狭なナショナリズム(?)」とか、「私権の擁護」やら、「人種差別はよくない(あほかお前は)」などむしろそれを称揚するかのような一部のバカマスコミ・知識人、などのバカ勢力に、腹が煮えるばかりです。
 また、この番組で、さきのスコットランドのバグパイプ奏者など、その各連合国家の独自性とその文化・伝統を尊重しながら、私はグレートブリテン(英国)の一国民として振舞うという立派な態度( 「That’s the attitude !! 」、そのものではないのか。)を見せていただきました。その一方で、事あるごとに、私たちに見せ付ける、補助金依存公共団体である沖縄県知事の、夜郎自大で、根拠なく思い上がり、沖縄県民の安心・安全を無視した、愚かで傲慢な発言と態度に、心底腹立たしい思いです。
 あらためて申し上げるが、沖縄県知事よ、あなたが、かつて、アメリカ占領軍の分断政策により、アメリカに留学させていただいたとき、「 Shame on  you !! 」(恥をしれ!!)などという、いいまわしを習わなかったのか?
 それは、私のような、とるにたりないものの半可通の英語の言い回しではあるのかも知れないが、個人的に私は、あなたにそう申し上げたい。

 (私ごときが)グローバリズムについて語るのはワンパターンであり、もうやめろ、という友人もいますが、欧米発、世界規模で蔓延している、「世紀の病い」とも言うべき、グローバリズムの現実と、その罪障を、国内のみならず、国外でも検証し、ほんの一握りの特権者によって、大多数が文字通り塗炭の苦しみを味わう(かつてスコットランドで高地人が水も食料も与えられず幽閉されたという話があったというではないか。)ような、この「現実」に、加担し、協力しないように、私たちは、現在の「状況」に「意識的であろう」ではないですか。
 そういえば、かつてのわが若き日の愛読書「カタロニア賛歌」の著者、イングランド人、ジョージ・オーウェルにも、「右であれ、左であれわが祖国」(平凡社選書、鶴見俊輔訳)という、島国国家の知識人として、含蓄のある優れた著書があったが、(英国民と同様に)同じく島国国家民私たち日本人も、冷静で、見識ある「ものの見方」を、現在の各国民国家に指し示すのは今ではないのでしょうかね。
 まだ、この番組は、NHKBSの朝7時45分から続くようです。お勧めします。

NHK Eテレ 「シャキーン」の面白さについて その2

2017-03-17 21:01:52 | 映画・テレビドラマなど
朝7時から、朝のゴールデンタイム(?)、Eテレの強力ラインナップとして、朝の支度をしながら、横目で見ている興味深い番組として、「シャキーン」をほぼ毎日引き続き見ています。
 「この番組は、「こども向けお目覚め番組」として位置づけられており、しゃべる樹木のジュモクさん、電子映像のネコッパチの不動のキャラクターに加え、その他のMC(番組進行役)は、一昨年4月から、めいちゃん(小学校中・高学年くらいですか)という利発そうな女の子が務めており、同時に、特筆すべきは、モモエ(年齢がつかみにくいが、確かに女の子でしょう。)というトリックスター(かきまわし役)が登場したことです。この試みは、確かに新しいものでした(感心しました。)。」と、前回挙げましたが、2月下旬から、「モモエ」にからむ新企画が始まりました。

 「逆にパワー」という群舞のダンスです(モモエと思い出野郎Aチーム、出演というテロップが入ります。)。
 モモエ自身にコメントしてもらえれば、「物事は逆に考えればいいことじゃない」ということであり、失敗したこと、ふさいだこと、評価されなかったことなどあったとしても、「マイナスの極値までいきゃ、後はプラスになるばっかりよ」(本当のところはよくわからないが、と私は思うが)という彼女の意見表明の歌なのですね。
 したがって、特に悩むことはなく(?) 表裏のない彼女はいつもの衣装です。全身をすっぽり、はすの花びらが飾られたような濃いピンクの着ぐるみで同様な頭巾をかぶり、ピンクのタイツでピンクの靴と、左右の、お供に同じ格好をした女の子を従え(どこから探してくるのだろうか。)、エキセントリックな高い声(私は嫌いではありません。)で、歌いながら、出口の校門から、その日あった学校での一日を巻き返します。他の学校舞台の群舞ダンスと同様に、演奏バンドの大人たちがこどもの仮装をし、朝寝坊、友達と殴り合いのけんかをしたこと、テストの点数が悪かったことなどをも巻き戻します。実際の学校で、自然光のもとで撮影されているようで、地味ですが、学校生活が自然に見えます(このグループは、以前から小学高学年のこどもたちを主人公にした、歌い踊る学園ドラマを何度も演じています。)。

 一般的に、こども心に、あるいはおとな心に、今日あったことを全部巻き戻したいという願望はいくらもあるのですね。それぞれの人性でめぐりあうことで、よく、理解できます。
 群舞で、楽しく踊っている姿を見ていると、私たちの日常で、つまらないこと、忘れたいこと、やり直したいこと、面白くなかったことなど、ふさいでことが一時的にはどちらでもよくなってくるのです。これはモモエ流の、日常での「負性を優性に変える」契機を獲得し、もう一度がんばりましょうという、アジテーションなのでしょう。
 クラスや学年を超え大人数で、モモエの主導で行われる、モモエたちの奇矯な踊りが、最後には、こちらでも楽しく意義深く思えてくるので不思議です。学校の怪談ならぬ、青銅の銅像も一緒に踊っているのが笑えます。

 昨年から、始まった「鬼Tube(チューブ)」というのも、なかなか面白いものです。
 赤鬼、青鬼、黄色鬼と三者が、テーブルについて、その日のお題、「人間とは何か?」にあわせ、思うことを、コメントします。論点を、鬼の立場で微妙に外すのが、売りとなっています。黄色鬼が逸脱者、青鬼が常識家、真ん中の赤鬼が、親方として、周囲(両方の鬼)から持ち上げられます。全員、顔と手をきちんと塗りたくり、鬼らしく応分の扮装をしています。
 最初は、ぶすっとして、おやじくさい保守的な答えを繰り返していた親方(赤鬼)が、最近悪乗りしだました。その淡色のあいまいさからなのか、トリックスター(いたずらもの)なのか、親方を煽動していた、まだら黄色鬼によって操作され(二人とも二本角で相互に親近感を覚えるのだろうか。)、鬼としての範を超える言動をし始めました。その逸脱を、調整者で常識家の青鬼が必死で止めますが、その勢いがなかなかとまりません。ただし、それらの一連のやり取りが割り当て時間内できちんと了わるのが笑えます。

 前から疑問だったのですが、結局、この番組の力強い推力はなんのだろうか、という点なのですが、このたび判じてみれば、それはやっぱり、「おやじ」のユーモアなんですね。
 それは、普段、こどもたちと過ごせないおやじたちが、こどもたちに指し示す、懸命な努力なんですね。当然に、こどもたちの意向や反応は彼らによって番組にキチンとフィードバックされています。また、ITなどのシステム技術、コンピューターグラフィックを駆使したクイズなど、フツーのおやじにはついていけないところがあって、その努力と労力に感嘆しています。
 そのあたりを、MC見習いの、かわいげのあるメイちゃんと、破壊者のモモエが(当然おやじどもの厳しい突っ込みがあり、一定の範囲ではあるのですが)活躍するスペースをもらっているというのがこの番組の強みです。さながら、総員の格闘による、擬制の家族ドラマなのです。当然、小学生であろうメイちゃんも、モモエも週のうちの出演回数は限られているところですが。
 また、最初に戻ってしまいますが、「実際のところ、Eテレで、素のあるいは装ったさまざまなこどもたちがみられることは、興味深いところです。色々と、こどもたちからのこどもらしい投稿もあるし、結構人気のある番組ではないかと思いますが、それぞれの大人感覚・こども感覚の組み合わせの妙もあり、こどもたちのみならず、多くの大人にもおすすめです。」、当面、それが結論ですね。

「聖徳太子」という尊称について(歴史教科書から「聖徳太子」を消させないためのパブコメ試案(皆さん急いでください))

2017-03-11 20:57:06 | 時事・風俗・情況
 いつもながら、私ごとき者の意見で強縮です。
 このたびの、文科省の暴挙に対し、友人たちと語らい、意見を表明します(小浜逸郎氏のブログ、「小浜逸郎・ことばの闘い」、「「聖徳太子」を「厩戸王」に!?」をまず読んでいただきたい。)。


 私は、歴史家ではありません。また、歴史研究を取り立てて趣味にするものでもありません。
 しかしながら、私の眼前で行われる、「歴史の改ざん」ついて、声も挙げず、座視することは、わが父祖にすまないという強い思いがあります。
 近くで申し上げれば、先の中共政府及びそれに組する韓国政府などの反日勢力、また、恥ずべくはわが国のバイアスのかかった左翼勢力の支援のもとに行われた、ユネスコ世界記憶遺産としてねつ造された「南京事件」の誤った採択、あるいは、バカ左翼新聞のミスリーディングに基づき反日韓国政府によって行われた歴史の改ざん、「従軍慰安婦」(どこに政府が女部屋経営に関与する国がある。)の問題など、まことに腹立たしい限りです。
 それは、われわれの「目の前で起こっている歴史」でさえ、現実的な政治権力や、権力者の意向、あるいは無責任で思いあがった大衆の不健康なルサンチマンによって、数を頼みに、作為的に「事実」はどうにでも変わるという、苦い認識なのです。

 私たちは、貴種としての、聖徳太子が、古代、その不遇にもめげず、皇位を望まず、天皇家の摂政として、仏法に基づき、日本国に、法秩序を打ち立て、「和をもって尊しとなす」こととして、部族間の政治闘争を排除し、国家の安定と、古代人民(?)大衆の民政の安定(現代で言えば、貧困の解消、生活の安心・安全)に努力を傾注したことは、「事実」として考えます。それは、まさしく「聖徳太子」として、大多数からの崇敬の対象となることは、当時の日本国(?)の政治レベルを考えれば、明らかなことであり、それ以降、近世、近代にいたるまで、長きにわたり、現在の言葉で言えば、住民大衆に強く支持された偉人であります。
 「事実・文献主義」の歴史家の方々が、「南京事件」の欺瞞性、でっち上げ「従軍慰安婦」問題を、今後、「事実」として、どのように記されるかは、私は知りませんが、日本国民の長所として挙げられる、「共存共栄」の思想、「察しと思いやり」の文化、他者を受け入れ、相互の寛容を貴ぶ日本国の文化の収斂するところは、「聖徳太子」に尽きるのではないでしょうか。その尊称には、ちゃんと、今でも国民に支持される根拠があるのです。
 かの賢く徳の高い古代の英雄「聖徳太子」が、古代帝国主義国家「隋」に対して送った国書、「日出国の天子が・・・・」、なんと胸がすく思いではないですか、例えば、現在の覇権国家、「中共」の軍国主義と膨張主義に対して、古代の「聖徳太子」はどのように叙するでしょうか。
 やはり、「厩戸王」では明らかに不足です。少なくとも、今後も、「聖徳太子」と必ず併記していただきたい。
 それが、わが日本国の長い歴史を通底する、「私たちの」誇るべき歴史です。

「「公」のためには」、「点の記」を見つつ考える。

2017-03-03 20:54:53 | 映画・テレビドラマなど
昨年、BS放送で、映画劇場として、国是としての国土測量のため、初めて劔岳に三角点を設置した当時の技術職の役人の実録のような映画(2009年封切り)(原題は「劔岳点の記」(点の記とは、測量の際の各測量点に関する測量者の観測日誌の意であるらしい。)を観ました。
配役は、スター級で、主人公の測量技士に浅野忠信、その妻に宮﨑あおい、現地案内人に香川照之が配されています。技術もなく、高所登山経験の累積もないような時代に、未踏峰の峻険な山を測量するという困難な仕事に挑む人々を描いた重厚で骨太な興味深いドラマでした。

それはそれで見ごたえがあったのですが、このたび、NHKBS放送のプレミアムカフェシリーズで、再放送の、当時(2009年)の国土地理院の測量士たちの、剣岳の三角点再度測量のドキュメンタリーがあり、あわせて興味深く見させていただきました。

 確か、この映画の原作は新田次郎ですが、彼は好んで、個が社会生活を送るうえで(殊にその仕事で)困難な状況に偶然に直面した人の運命やその苦闘、その職務の遂行にかかる人間やその組織のドラマを好んで扱います。
私が若いころ見た(大学時代)「八甲田山死の彷徨」(原作は未読です。)など、制作費や、配役を見ても大作であったにもかかわらず、「「十分に準備もせずに冬山に入ったら、そりゃ死ぬだろ、(勝手に)天は見放した」などというのはむしろごう慢だろう」、というように思えたドラマであり、映画表現とすればいまいちで、あれは、原作者には、お気の毒ではありました。実際のところ、一部権力者の不見識や心情倫理で、暴走のあげく割りを食うのは国民大衆である、という意味では笑えない映画ではありましたが。

 このたびの映画は、主役の浅野忠信の役作りでは、いかにも明治人らしく、実務者として控えめで押えた振る舞いと、その淡々とした演技がとてもよいものでした。また、案内人役の、香川照之が、霊山(神の山)だからなのか、国是のため、禁足地に、タブーを押して測量に入ろうとする測量隊と、信仰の山に対する思い入れが大きい地元の住民たち、またまったく経験のない山にどのようにとりかかっていくのか、板ばさみになり苦悩する姿も、同様に感動的でした。

 このたびの、テレビのドキュメンタリー(当初2009年放映)も、この原作や映画を意識しつつ(どちらが先なのかよくわかりません。)、国土地理院を退職した測量士が、現在の自分たちの測量技術者の現状と水準を踏まえつつ、現在の老練な登山ガイドに依頼し、再度登攀のルートを再検討し、再度明治期の達成を検証してみる試みであり、当時の達成を、忠実に再現し、再評価するものでした。

 まず、未踏の山では、安全な登攀ルートを探すだけでも大仕事なんですね。当時(明治40年)、霊山であり、立ち入るものさえいない時期に、何の情報もなしに、みのや、ロープなどの簡易な装備で、経験と洞察を頼りに、3000メートル級の山々を目指すのは実際のところ命をかけるような大事業だったのでしょう。
 全責任を負う技師と、現場責任を負う測夫という担当と共同・連帯でこの事業は進むらしく、何より案内人という現場を知るそれら現場の全員との連携と、地元の精通者抜きには何も進まないところです(このあたりは現在の仕事とよく似ています)。当時の技師が、測量の完遂を「身命をとして」と公文書に書き上げていますが、明治の時代にこの言葉は重いものです。
また、測量点の設置時の公文書、設置日時、位置、標識の性質、特異事項など、いわゆる「点の記」という事務文書が、今も国土地理院に永年保存されているということで、そのそっけなさがまことに味わい深い文書となっています。測量の結果として、当時のどれほどの努力も苦闘も簡単な文書にしか残らないのか、という驚きが、それを淡々として成し遂げた、当時の日本人たちへの敬意と、賞賛に置き換わります。

映画では、当時日本に入ってきたスポーツ登山の登攀隊と、頂上登攀を競う設定もされています。いわゆる、登山先進地の優れた装備で、芸術のように無償性で支えられたスポーツ登山、そして不十分な装備で、実現して当然という目立たぬ日常の仕事として行われる、危険かつなんら名誉もないような測量登山との類比が、周到に扱われています。

 このたびの測量で、試みに、石造りの基準点を担ぎ上げる試行が行われていましたが、当時は、基準点が60kg、直い3mくらいの丸太などの測量器具がぜひとも必要で、総重量は100kgくらいあるそうです。アイゼン(鉄のスパイク)も、ピッケルもないような装備では、登山ルートの選択自体を狭めるようであり、今以上に、当時の苦心と苦衷が思い浮かばれます。
老練な、登山ガイドが、基準点重量を担ぎ挙げ、ようよう立ち上がった時点で、「無理だ」といい、あらためて、このたびの測量隊一同は、先人たちの、達成に、絶句してしまいました。

いずれにせよ、映画のイメージを付加しても、当時の彼らが、厳しい条件の中で、黙って、最大限の努力をする姿は見上げたものです。彼らは、仕事と、自分の私的な考えをきちんと分けています。それが、明治人の典型なのかどうかわかりませんが、与えられた仕事をまず果たし、それから私がある、という潔さがまずあります。それを平然とこなした、案内人の長次郎(日に焼けた、まさしく当時の田舎の日本人らしい味のある顔をしています。)さんなど、自分の信仰と折り合いがつけられず、大功労者でありながら頂上登頂はついに果たさなかったということです。思えば、「尊い」ジレンマですね。
その彼の、謙虚さと栄誉に応えるためなのか、登山道には「長次郎谷(たん)」という、夏も雪渓のある谷が残っているそうですが。

このたび、測量班が、再度、登頂に立ち、一時間足らずで、再度衛星を使った測量を行い、当時との誤差は0.5メートルであったというのは、時代的に類比して、驚くべき正確さであったということですが・・・・。

私たちは、社会生活を送るうえで、一方的に与えられた仕事をこなさなければなりません。それが、理不尽で、困難な仕事が偶然に振られることはいくらもあることです。また、」同時に、やりがいや、結果も出ない仕事もいくらもあることです。失敗も数知れず、例のNHKプロジェクトXに取り上げられるようなことが、ある筈はないのです。例えば私ごときが果たした仕事など、特筆すべきものなどないのは自明なことです。しかし、腐らず、目立たず、自分と、周囲と折り合いをつけ、その仕事(社会生活)を、まじめに取り組むのは、個人(社会的存在としての)にとってきわめて重要なことです。

私は、大阪市長にも、東京都知事にもならなかった(なれなかった)が、私にとっての「公」とは、それを果たすことによって私と家族の生活を支えた、仕事を通じた人性に思えてなりません。私の「腐らず、目立たず、自分と、周囲と折り合いをつけ、その仕事(社会生活)を、まじめに取り組んだ」ことは、今でも、かそけき自負くらいはありはしないか、と自分に問うてみるところです。

また、公選職であるかたがたは、本来、一般<「生活者」大衆>の現実に意識的であり、その願うところも、生活者全体の国防的・経済的利害、そしてわれわれ大衆が見えない危機においても、われわれの安心・安全のために働くことが、まず、公選職になる余裕のある、優れ勝った人の責務(ノブレス・オブリージュ)というものではないでしょうか(そのために叙勲制度があります。)。
理念なく、識見も、ましては人間性すら疑わしいような言動を繰り返し、その所管する執行機関の職員を道具のようにみなし(Hさん、Kさんよくあることですね。)、自己利害と愚かな野望に終始する姿をみていると、暗澹(あんたん:見通しがたたず、希望がないさま)たる思いに襲われるところです。
最近は、「選んだのは(愚かな)お前たちだろう」と居直るやつまでいることですから。

「昔の日本人」(それが概念としてなりたつのであれば)、まず自分の仕事(社会的使命)はこなし、その後に「自分」を考えたはずであり、当面自己の生業を考えず、高い(自己利害を超えた)立場で、将来のために、地域のために自腹で活動する人は、自分たち一般人にできないこととして、衆目に尊敬されたところです。それが、われわれの人性の「恥と誉れ」の意識のように私には思われます。

それに比して、現在の「政治家たち」が、畜群に見える、というのは、あながちうそではないのです。(ああ)