天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「ウイグル人に何が起きているのか」(PHP出版)(福島香織著)について

2019-11-27 19:54:41 | 読書ノート(天道公平)
私たちの世代(ポスト団塊世代)は、最期に、サヨク幻想の破綻に立ち会った世代ということができるかもしれないところです。
同時にそれは、団塊学生たちによる、サヨク政治運動とその帰結に深く絶望した、ということです。
 レーニン-スターリン主義への幻滅と没落、毛沢東民族主義の実態認識と幻滅、そして現在の覇権軍国主義への転換の現実、その他にも、キューバ革命、ポルポト暴力革命事件、救いのないような政治革命は、あたかも人類を死滅させるような悪質ウイルスのように、急速に、数限りなく後進農業立国に増殖・伝播していき、その結果として悪質な独裁政治国家を生みました。

その中で、ことに性質(たち)が悪いのが、毛沢東民族覇権主義です。
私たちの学生時代、中共は未だに実態がよくわからず、学生たちも文化大革命など、うさんくさい運動と認識しつつも、私たちの隣接のサークルにもまだシンパが残っており、その偏った思考傾向から「けざわひがし」さんと揶揄(某指導者のように見事な若はげだった。)されながらも、まだその命脈を保っていました。
まだ、竹内好などの親中派のお人よし知識人も、日本国に留学体験のある魯迅などの文学者も、それなりの敬意を払われ、それを言えば、私も高校時代、わが実家の自室にも、「中共物品店」で購入した、「魯迅」の肖像(「むしろ、ペンを持つより剣を持て」、というアジ付きのアレです。)を掲げておりました(実家の解体と共に散逸しました。)。

その後の、文化大革命の実態が明らかになるにつれ、その粛清の苛斂誅求と、酸鼻の権力闘争、伝統・文化の全否定、思想統制と、自国民たちの父祖の家族関係の否定に至るまでの、野蛮な文化伝統破壊と、粛清、密告など目を覆うような現実を見るにつけ、バカな「共同幻想」は終焉したのです。
それは、同時に、世界中の弱小後進農業国家に、宿痾というか、大きな禍根を残しながらのことです。
唯一、教訓として、後進国の暴力革命は、独裁者と軍政による、国民抑圧しか招かないことを同時に証明したのです。
 竹内好は、「人民解放軍」のモラル(道徳的、倫理コードの方です。)は、非常に高かったといっていたが、その後の推移をみれば、今では、独裁者の走狗「人民抑圧軍」に成り下がっているだけではないのか、と思われます。
当時、いくら、軍政国家体制による隠ぺい工作で、その状況が見えなかったとしても、それは、政府・マスコミ・学者の怠慢のみならず、国民の怠慢だった、ことも事実です。

しかし、わが国政府は、目先の利害と不見識にとらわれ、敗戦国(侵略国?)は、当面あやまればいいのだ、批判をするなとの、占領軍コードにも助けられ、朝日パヨク新聞などに煽動、使そうされ、国家・国民大衆は、意味もわからず謝罪し、莫大な金を拠出し、また謝罪し、また謝罪し、とバカな連鎖を繰り返し、全体主義国家に、軍費を与え続け、世界一の覇権国家を作り上げることに協力してしまった。愚かしい、帰結ですね。
その意味で、腐った覇権帝国を作り上げるのに協力したわが国は、「バカなことをしました」と、東南アジア諸国など、中共に縁接する一連の国家群に対し、アジアで唯一近代革命を成し遂げた筈のわが国は、先駆者(?) としてふがいないと、謝罪しなければならない、わけです。

 この本は、産経新聞の元記者が、ウイグル自治区が、中共覇権主義の侵略によって、どのように蹂躙されたか、現在も中共自治国家として侵略され国民が抑圧(搾取・収奪ということです。)され、また、宗教的・民族的に重大な迫害を受け、強制収容所に、何百万(著者は明確な資料がないのでその数に言及しない。それが百万単位であることは言及する。)もの社会の指導者、知識人が拘束され、思想再教育の名のもとに、拷問、虐殺の対象になっているかを、抑えた筆致で、克明に描いています。
 著者は、1967年(昭和42年) 生まれであり、学生時代に政治運動などは体験していない世代なのでしょう。
 昔はやった、「農民窮民革命」(実態は違ったらしいが)など、実感として理解できず、すでに、その権力闘争と内部矛盾は別にして、すでに、大国となった中共しか体験的には通過していない世代のでしょう。したがって、パヨクの余計なひもはついていないだろうと思われます。
 この本のサブタイトルの「民族迫害の起源と現在」という中で、著者が主述するのは、中共のグローバリズム運動としての、覇権政策のスローガン、「一帯一路」、「一衣帯水」政策の実態なのです。すなわち、他国侵略の実態の記述ということです。
 ことに、近年の経済的な落ち込みにより、更に、周辺諸国に対し、軍国主義、軍事国家路線を鮮明にしている、周近平覇権独裁国家の現在なのです。

著者は、北京駐在の記者時代からウイグル侵攻前と、侵攻後のウイグルを現地で確認しています。
 アジアの辺境にあり、モスレム国家とはいえ、かつては遊牧民・商業民として、それなりに自由で、他者に寛容でいい加減な気風であり、また活力にあふれていたといいます。
現在の、自治国ウイグルは、今では、侵略統治者、漢民族、中共中央政府によって、完膚なきまでに侵略統治され、かつてのロシアのような収容所群島に成り下がり、街はひたすら清潔で、住民は生気も失われたような国土であるといいます。
 その内部で、中共が何を制圧し、また誰が抑圧されているのかについて、的確に描いています。ほぼ、知識人・文化人は収容所に収監されています。最悪の歴史も、何度も繰り返すのですね。
 反動抑圧勢力も、スターリンやポルポトの支配体制を見習い、高度化、巧妙化します。
また、なぜそれが、非力な国連や、西欧社会の監視(?) や関心すら引かずに平然と行われているかを、両国の歴史と、各国の思惑をたどり、説得力のある筆致で描いています。
ジャーナリストというのは、こんな記者を指すのか、と思われたところです。
この著書で、なぜ、日本国のマスコミは、チベットや、このウイグルの植民地化と、人権抑圧状況を報道しないのか、という考察がありました。
西欧の報道記者は、現地協力者や情報提供者を、真実や報道の自由の下手に置く傾向(すなわち頓着しない)があるそうです。自己の生命や安全より、「事実」の報道が大事という根強い伝統があるのであれば、見上げたものです。しかし、そうであれば、協力者の安全は、二の次ということとなります。かつての「キリングフィールド」などというアメリカ映画は、その主題を扱っていましたね。
敗戦国日本は、軍事力やあるいは国際的な外交力などの権力を持たないわけで、日本政府の対応は、話が違う、といいます。「自己責任」で一蹴されるし、邦人保護で、本気に動いてくれない、したがって、現地協力者に、危険を冒させる取材活動が出来ない。
このあたりは、戦勝国、西欧諸国の無意識な傲慢といえるかもしれないところです。
 相手方の事情や、安全を考慮する、わが国の記者が、また著者にもそのジレンマがあることはよく理解できます。
 しかしながら、安全な国内にいながら、パヨク新聞を含め、日本国の新聞が、ウイグルの少数民族の問題を取り上げないのはどういうことなのかと思われます。
それこそ、商業放送と同等で、自己の経営利害に純化した、報道の怯惰と退廃ということです。
 ましてや、東部の「一衣帯水」政策において、尖閣・沖縄と、中共の標的になっている、わが国においては、ということです。

また、あくどい中共政府は、中共国内で徹底的に弾圧したかつての法輪行の信者たちのように、虜囚や収容所収監者に対して、その臓器売買にも手を出している報告もあります。中共の臓器移植手術のレベルは世界一との笑えない話もあります。
かつて、中国の小説「水滸伝」を読んだときに、相手に勝利し、侮蔑するために、当該敵の虜囚の、人肉を切り取り焼いて食べる、という描写がありましたが、さすがに、中国人は徹底しています。

また、それ以上に、国外に留学している知識人・学生たちに対し、親族を人質に取り、帰国の強要や、洗脳、脅迫をどのように行うかについて、取材しています。
さすがに、アジアの国家だけであって、家族や肉親の安全を担保にした思想統制、そのこどもを隔離し漢人教育を施すなどの家族の分断、警察官吏などの個別家族の居宅訪問など、家族関係の破壊と、スターリニズム時代より徹底した思想支配統制をとっています。
 その中で、個人情報の入手管理、体制への協力度のポイント制(小ポイントに対しては罰則があるということです。)の電子管理など、他国に、その高度化した思想管理システムを売り渡す段階にあるといいます。
パノプティコンシステム(被支配への被支配者に対する自動的な訓致導入システム)を作り上げ、反抗する意欲を喪失するように仕向けており、いわば、過去のある意味、粗雑な管理を、更新し、高度化しているわけです。

日本を含む、欧米、アジアの諸国も、経済・政治的な思惑から、露骨に行われている、「一路一帯」の侵略支配体制を、正面きって批判していません。
二階幹事長などと一緒に訪中し、中共と野合(売国奴)する、政治家、経済人の卑劣な振る舞いを私たちは看過してはならない。
中共にそれを問えば、それを内政干渉問題と一蹴するのがいつもの論理ですか、しかし、覇権国家体制が、東に展開し、尖閣列島、沖縄領土化へと展開されているのにかかわらず、破廉恥な売国奴政治家は、中共と野合し、北海道などの国土を進んで売り渡している。

それこそ、著者の指摘するように、大国支配のもとで、少数民族の侵略や蹂躪が、周囲の無関心や協力のもとで、たやすく行われ、文化・伝統・宗教など、いかに容易に奪われてしまうかをきちんと描いています。
文字通り、「明日はわが身」なのです。
中共政府は、沖縄に対しても、すでに、一衣帯水侵略を着手しています。
現在、この、暴挙と、21世紀のヒットラーのように、ファシスト体制を作り上げる、周金平体制に、批判の一太刀を加えておかないと、電子ネットワークの監視システムの中で、既に始まっている中共の軍事・経済制圧の中で、今後、日本国民も同様な運命に陥ることは必然です。
 国土防衛対策はまだしも、デフレ経済政策を怠った、バカな日本政府のもとで、わが国は経済的に疲弊し、パヨク売国奴勢力の、マスコミ、文化人の策動で、わが国の運命は、非常に厳しいところです。
我が国独自の伝統・文化・父祖への敬意、宗教の自由も奪われ、全体主義体制のもとで、後悔しても、それはもうどうにもならない、ところですね。
あとがきの中で、著者は、日本人とウイグル人そして中共国家の運命や将来について、きちんと指摘しています。
中共がなぜあれほど攻撃的であるかは、何千年にもわたり、多民族に侵略され、蹂躙されてきた歴史がある。国家は、まず、強国であり、戦争に勝たなければ何も始まらない。すなわち、手段を選ばず勝ち続けなくてはならない。また、強者は何をやっても勝手である(Might is right)、と考える。
国土防衛軍すら持たない日本国は、戦いには勝たなければならないこと(防衛)に意識が希薄であり、反面、敗者(弱者)への同情・思いやりが文化的に存在する。しかし、他国に侵略され、蹂躙されることへの苦痛、危機意識と、被支配体制へのその恐怖や苦しみの感覚が欠如している。
 したがって、ウイグルの人々が、身内を人質に取られ、それでもなお、自国の独立と未来のために不可避的に戦っていることに対する、その苦闘と痛苦への想像力が欠如している。他人事なのである。
いちいち、ごもっともなことです。
西欧マスコミでは、このたびのウイグルの侵略が、21世紀最大の民族文化クレンジング(浄化・殲滅)という見方が定着しているようです。
 著者は、戦いの方法として、人権活動家ラビア・カンディール(ウイグルの母と尊称される。)氏がノーベル平和賞を受賞し、民族浄化の大事件に世界の批判を向ければいいと、対案します(ダライ・ラマ氏の例による。)が、それも有効な手段でしょう。
かの、スウェーデン人、CO2フリークエンター(略称)、トェンベリちゃんにわたすより、ずっといい。
現在、ウイグル問題に言及するのは、中共交渉の切り札として考えているアメリカのトランプ大統領しかいない、イスラム国家も決して自己利害中心で、ウイグル人の見方ではない。
わが、安倍首相も、中共の覇権主義の当事者として、ウイグル問題に言及するのは大変かも知れないが、しかし、視野と想像力のある私には、何度も、言うが、「明日はわが身」である、と、思っている。

 今後、周近平は、国賓来日するのか?
 先ごろ、ウイグル留学生たちは、当該、周近平の、日本国の協力体制に対し、危機意識を持って、切実な抗議活動を行った。われわれ日本人の住民大衆は、彼らの、祖国・現在とその生存すらかけた抗議活動を、他人事と看過していいものなのか。
 すくなくとも、アジアの独立国家として、覇権国家中共に組しない、と意思表示をすべきではないのか。
 更に、バカで恥を知らない政治家たちに、令和天皇を利用させて、歓迎の手はずをさせるとすれば、今後生じる尊敬すべき皇室の恥に対し、私たち国民は慙愧の念はないのか。
 令和天皇に、今回の民族浄化の首謀者、ヒットラーや、ポルポト、毛沢東と同様に、血に汚れた手をとる、屈辱を与えてよいのか?
 それは、日本人として違うだろう、と思われます。
 日本国の健全なナショナリストの一人として、私はそのように申し上げます。

「福澤諭吉しなやかな日本精神」(小浜逸郎著)(PHP新書)について考える(または最終案内)

2018-09-28 20:15:06 | 読書ノート(天道公平)
 かつて、著者の労作、「日本の七大思想家」において、著者は、日本の近代以降登場した、日本国のみならず、国民国家を超え、世界につながる、思想家、文学者、哲学者などを扱っていた。その中に、福澤諭吉(以下「福沢諭吉」と表記する。)も登場してきた。
無知(恥)な私にとっては、予備知識もないような哲学者なども登場したが、既存の日本の近代以降の、従前の偏った歴史観、思想史研究の流れ、そして、その帰結と不可分である現在の混迷した時代情況に言及し、それを相対化し、総括しようとするかのような試み(私見です。)に、実際のところ、多大な共感をした。それは、あたかも、わがことのように、真剣に読めたところである(かの3.11後に出た本で、小浜氏は今何を考えているのだろうと考えていた、私にとって待望の本であり余計に思いいれがある。)。

 今思えば、私は、昭和の半ばに生まれ、日本国の歴史的な敗戦・大敗北の結果に、かつかつと、行きあわせた(たぶん最期の)世代である。
 そのあたりの、時代認識と父祖とわれわれの歴史の継承の使命感において、同年齢の百田尚樹に強く同感する。
 そして、現在において、第二期に当たる(?) 、グローバリゼーションの大渦巻きの中で、現実化・顕在化しつつある日本国の大敗北と、その凋落(ちょうらく:衰亡すること)の危機に、いやおうなくめぐり合わせた私とすれば、その動きに対して、「ちょっと、それは違うだろう」と、声を大にして、反論し、言明したい。
 なぜなら、明治期・日本国にとっての初代グローバリゼーションの危機の時期に類比して、このたびの、内外のグローバリズム推進者たちによる大災害へ対する、政府を始め、わが国の愚策と不手際は、どうも、人災の要素が大きい、と思われるわけである。
明治維新、そして敗戦の教訓を、現代の多くの日本人が、自己の問題として、そして過渡の歴史の橋渡し的な責任として、どうも、自分に問い、熟慮せずに現在に至っているのではないかと思われるわけである。殊にそれが、政治家や、知識人(?) 、企業のトップ(売国奴は除く。)などのリーダーシップを握る筈の一握りの層に顕著であるのが、心底腹立たしい。
 そうでなければ、西欧に明らかに劣った国力を結集し、必死に近代化を果たした明治期人の奮闘と、大欧亜戦争の大敗北後、徒手空拳で立ち上がり、「現在」の達成を勝ち取った、われわれの父祖たちの努力に対して、「私たちは無能で申し訳ない」、と謝罪する(謝罪で済めば何の問題もないが)ところではないのか、と思う。
 同時に、また将来の、わが孫子(まごこ)の世代に、「なぜ、あのとき、詐術に加担したのか」と、責められ、お詫びしなければならないかもしれないわけであるので。

 著者は、その後、「デタラメが世界を動かしている」(PHP研究所)(2016年)において、日本国の政治的、経済的、あるいは政治家、官僚、知識人(?) たちの危機意識の欠如、無思考の愚かしさと、自己利害に終始する退廃を、抉り、指摘して見せた、これは今も、そのまま通用する、明快な批評である(是非一読をお勧めする。)。
「快哉なり」、と叫びたくなるような出来であり、そして、なぜ、日本の知識人はおしなべて「バカサヨク」の呪縛をのがれず、また現在の動的な世界状況を分析できず、他国(敵国)に媚び、戦勝国に随順し、自国民の利害や利益に対し、反動でありつづけるしかないのかと、植民地文化人のありように暗澹たる思いをする。
 このたび、著者がこの本の刊行を急いだのは、「日本国の滅亡に間にあわなくなるかも知れないと」、という、明確な危機意識である。その危機意識も共有する。

 もともと著者の本領は、倫理学というか、思想・哲学というか、文学評論を含めた浩瀚な領域で活動する評論家であり(かつて小説も書いているが)、経済や、リアルポリテイックス、国際政治などを取り扱うところには、ない、それは70年代から、著者の著書を追っかけている私には明快なところである。
 しかしながら、現在の日本国の政治・経済、国土防衛に係る未曾有の危機(そうでないとは誰にも言わせない。)に対する、政府から一般国民に至るまでの、有象無象の対応が余りにナイーブ(つまりバカ)なので、このままでは、日本国は滅ぶ(世界中にいくらも国家の衰亡の歴史はある)、やむを得ず(あまりに現在の政治・経済・国際状況に対する政府、マスコミ、利口な筈の専門家(?) が愚かしいので)、貴重な時間を、現在のある意味猥雑で、労力に比べ望む成果が出にくい、政治・経済評論に費やしているように思える。
 たとえば、著者との間で行われた、先の「竹田青嗣」氏との対談を経た後、私の印象でも、竹田氏は飽くまで哲学者であり、抽象度の高い思考を扱うのがその本来ということであるのだが、どうも現在の現実政治や経済の情況や危機に対する認識が欠如しているのではないかと思えてきて、長年の読者として、少し残念であった。当面、竹田氏は、塔の高みで(西欧的な思惟の背景のもとで)思考し続けるであろうかと。
かつて、私もヘーゲルの再評価というつもりで、西研氏と共同で行われた、ヘーゲル講座合宿(箱根泊まりこみ)に参加させていただき、参加者たちの顔ぶれを含め、大変興味深い体験をさせてもらった。
 その行事には、数多くの若者(学生)たちが参加していた。オフ会の和やかな懇親会の中で、私が思ったのは、もし、彼らが、西欧的思考や思想が「世界」の主流で、全てであると考えていれば、それもまた、近視眼であり、わが国の思想・歴史を媒介(ナショナルな視野がなければ)しなければそれはそれで間違う、という感想を持った。
 ご同様に、私の学生時代を振り返ればそれは明らかである。
 もし、私が読み違えているのであれば、ご指摘願いたい。、

 時に、塔の高みから降りて、リアルポリティックス(現実の政治)を扱う評論で活動するためには、自国・世界認識はもちろんのこと、曲学阿世の徒や、自己利害追従のみのろくでなしや、無考えの愚か者、などと、ののしりあい、たちのわるいヤツとは(場合によっては)つかみ合いの闘いまでやろうする覚悟は必要であると思われる。
 そのろくでなしをいなすべく、うっちゃるべく、戦い方はいろいろあるものかもしれないが。
それは、高踏を気取る教養人や知識人に比べれば、現象的には、醜く、浅ましい姿に見えるかも知れないが、仕方のないことである。戦う人間は決して美しくはない、現実は見栄えの良いものではないのである。「それじゃ、具体的に何をするの」、と問われれば、「ぐっ」と詰まってしまうのは、(私の)昔と同様なことになってしまうが、いまさら、政治の時代に戻ることはできない。
 たとえば、私のようなものですら、家庭において、「政治的な」発言は許されていないし、職場でも、それ以外の友人たちの間でも、至極まっとうな発言ですら、いい年をしてと、顰蹙(ひんしゅく)をかうのは必然である。殊に、妻子から、厳しい反発を受ける。それこそ、太宰治ではないが、酒飲み以上に、理屈を説く人は孤独であり、身内に尊敬される人(?)は存しにくい、と思う。
気心が知れたはずの、昔の友人たちですら、今になれば同様な話である。
 時間の経過とともに、わがつたない「思想」も、応分に、きちんと鍛え続けていかなければ、昔事実に近かった筈の思想や認識は、そして状況に対する読みは滅んでいくばかりである。それは正しい。そこに、私たちが孤独と孤立を支払うゆえんがある。
 年老いながら、学生時代よりも、一層の焦燥といらだちを感じる、現在の私である(愚痴ばかりになってしまった。)。

 著者は、前著の「日本の七大思想家」で福沢諭吉を扱ったが、このたび、それに肉付けして、幕末維新期から朝鮮の甲申事変(光緒十年=明治10年、1884年)までの、福沢諭吉のエッセンスというべき文筆活動を中心に扱っている、また、同時に、婦人論、男女交際論、婚姻論など、男女のエロスにかかわる論考もしている、ということで、福沢諭吉は視野が広く、幅広い背景を持つ思想家であることが理解できる。
 最初に「福沢諭吉は武士でした。そして真性のナショナリストでした。」という著者のキャッチコピーが挙げられる。
また今回は、幕藩時代末期と明治の初期における、旧藩時代の福沢をめぐる、時代の動きや、幕末期のさまざまな英傑(?) との交流や、立場による相克、幕府・朝廷、明治政府の動乱の中での、福沢諭吉の、それこそ、「福沢諭吉とその時代」というように、その思想と周囲の動きを動的に描いていく。
当初の「日本の七大思想家」刊行後も、著者は近代の思想家・官僚、幕末の敬すべき思想家、横井小南、西郷隆盛などについても、論評してきた。殊に、幕臣でありながら「新政府の貴顕」となった、勝海舟と福沢とのいきさつは、それぞれの個性と立場(周囲から負わされた社会的使命の相克)が出て、興味深い。
 いずれの思想家も、その年齢、社会的身分、洋行体験のないこと、洋書の入手不可能などの限定された枠の中で、幕藩体制下の常識によらず、独自に日本(まだ日本国という名称もなかったであろう。)の将来とその精神を考え抜いた人であり、それは、時代的制約は当然のことながら、現在のわれわれの状況に比して、その困難は想像を絶するものであったと思われる(近代の黎明期の人は偉かったのである。)。
福沢諭吉が、それらの思想家(実践家)と一線を画すのは、彼が幕藩体制、明治期と二生を経たことはさることながら、著者の前書きを借りれば、福沢は、論客として、「非常に幅広い視野と柔軟な思考力を持ち、・・・・・・、自説だけを押し通すだけでなく、常に反論者を意識した開かれた対話の場面を想定していた。(中略)反論者が誰であるかはほとんど特定していないので、多くの場合、自分で想像したのではないかと想像される。これは読者に対する親切とも評すべきもので、だからこそ説得力がある。福沢の論理展開は、言論というものの優れた見本というものを提供していると言ってよい」(同書)(P5)、と、物書きとしての、その周到ぶりが描かれる。
 彼は、「合理的な思考により論理的な説明と記述に長けた人であり、それを公共的な言論に供することに多大な努力を払った」(したがって偏頗な○○主義者にはならない。)訳で、まさしく、現在の(日本国の第二次(?))グローバリズムの嵐の中で、日本国民が混乱し、過度に自信を失うような危機に、形を変えて、出てきて欲しい、思想家、そして現実的な実践家なのである。
「「敵」をよく知ること、「敵」の優れた点を換骨奪胎しわがものにすることこそ大切だととき続けたのです。今の言葉でいえば、グローバリズムの浸透に対して、ただ精神的に強がって見せるのではなく、国を守るために、現実的に有効な施策を真剣に模索したわけです。」(同書)(P20)
著者が、どうしても視野狭窄が起こりがちな、殊に若者たちに、この本を読んで欲しい、と叙しているように、できるだけ平易に、わかりやすく、しかしポイントをはずさないように、「危機」に際しての書として、この本は書かれている。
「グローバリズムが国民にもたらす弊害とは何か。
それは貧富の格差の拡大であり、ごく一部の超富裕層への富の集中と中間層の脱落であり、それぞれの地域の伝統の崩壊であり、異文化の衝突による文化摩擦の深刻化であり、「自由」という美名のもとにおける、大国による小国への経済的植民地化であり、国家主権と民主政体の破壊であり、ヒトの大移動による現地国民の生活破壊であり、国内治安の悪化であり、最終的には暴力革命や大戦争の危機です。」(同書)(P323)

 対抗上、私は、個人的に、これらの現象の、反目を生きること、日常生活、貧しいブログ投稿生活で、こなしていくようにしている。国民国家日本人の大多数にとって良いことは何もないのですね。
 わが国にも、米欧の一部支配層と利害の合一と、目的の同一の趣旨で(敵の敵は味方という論理で)反動的な一部特権者が政府の一部を牛耳り(外国人労働者の無原則な受け入れ、デフレの黙認)、それは、きわめて遺憾であるが、そのうえ、かつて膾炙した、当時のグローバリズムの反動で起こった、後進国暴力革命の信者やシンパくずれがいまだに、わが国で命脈を保っているのは、日本国の歴史において、愧ずべきことでもある。
 それこそ、今年は、明治150年期にあたり、わが県においても、さまざまな記念行事を行っているが、いまいち、盛り上がりを欠いている。しかしながら、優れた思想や言葉が、時代を動かす原動力なったのは良い時代でもあった。それこそ、ないものねだりというものであるが。
 私は関西の私大、「D大学」の出身であり、ことあるごとに、「新島精神が・・・」と開設者の、新島譲氏の、建学の精神を聞かされたが、どうもよく その実態は分からず(無教会派とか)、彼の遍歴を見れば明治期のモダニストであろうと思っていた。同時に、北関東出身で、いわゆる「負け組」に属していた彼は、漠然とキリスト教徒としても変わった人であったろうと、考えていた。そういえば、卒業者は、佐藤優は論外としても、古くは筒井康隆とか、中村うさぎ、とか変わった人が多いところである。
 先に、典型的な負け組、会津藩出身で、女だてらに篭城までして戦いながら、その後明治期に活躍した新島襄婦人、新島八重さんを扱った、NHKドラマ「八重の桜」を見ていて、それこそ、教育者として生きた、まさしく一身で二生を生きた、新島襄夫妻の苦闘の歴史に触発されるにつけ(時代劇ドラマ「仁」で、可憐でひたむきな演技で魅せた、主演の綾瀬はるかさんとても好きです。)、どれほどの有為転変を経ても、くじけない、明治人の、豪快で、闊達な生き方には感嘆するところとなった。市井の教育者を貫いた彼らは、周囲、後世が何を言おうと、それこそ、「毀誉褒貶は人の常」いうことである。
 ひるがえって、慶應義塾大学(以下「慶大」という。)の創設者である「福沢諭吉」氏は、OBの友人に聞くと、同大学で、唯一の「先生」と呼ばれるべき人であり、後については教職員たちはそれぞれ「君」付けで呼ぶと聞いた。私学の伝統が継承されているのである。
 慶大出身者に、グローバリズム礼賛者はいないのか、新自由主義経済学者も多いのかどうか、寡聞にして私は知らないが、このたび、再度、創設者の著書を、拳拳服膺(けんけんふくよう:人の教えやことばなどを、こころにしっかりと留めて決して忘れないこと。)して、すぐ目の前にある、われわれの危機に際し、師の薫育に応えるべきではないのか、と、檄を飛ばしたい。
 そして、今後とも、大多数国民の利害に明確に敵対する、曲学阿世の徒、官立大学の、御用学者に決して負けてはいけない、と。

「世界は正にあたかも封建割拠にして、武を研ぎ勇を争うの最中なれば、一国の重大宝剣たる海陸の軍備をば常に研ぎ立てゝ、常に良工の作物を選び、常に新規の工夫を運(めぐ)らし、要用なるときは、一擲(いってき)(思い切って一度に投げ捨てること)幾客千万金をも愛しむべからず。もしも然らずしてこれを怠る者は、封建の武士が木剣を帯するがごとく、また丸腰なるがごとし。国を丸腰にして他国の軽侮を防がんとするは、また難きに非ずや。三歳の童子もその非を知らんのみ」(福沢の著書より著者が引用)
 まことに返す言葉もありません。」
「外国人が暗々裡に自国の権力を恃(たの)みて、動(やや)もすれば法外の事と企て、日本にいて別に一種の特典ある者のごとくに自得するのみならず、かえってわが国の習慣法律を軽視して誹譏(ひき)するがごとくは、誠に憎むべき心事なれども、虚心平気これを考うれば、その罪必ずしも彼に在らず。畢竟(ひっきょう)(つまるところ)、われに乗ずべき隙(てぬかり)あればこそ、彼より来て(きたりて)これを犯すこともあれ」(福沢の著書より著者が引用)
 国の内外の違いはあるとしても、現在の某国(複数)のさまざまな形での対日攻勢を見れば、まさにこのとおりというほかはありません。福沢は、客観的に見れば外国人が日本の事情に便乗するのは当然で、悪いのは日本の側に隙があるからだと、正論中の正論を吐いているのです。(P226~P227)

「然(しか)るに、ここに怪しむべきは、わが日本普通の学者論客が、西洋を盲信するの一事なり。十年以来、世論の赴(おもむく)くところを察するに、ひたすら彼の事物を賞賛し、これを欽慕(きんぼ)し、これに心酔し、甚だしきはこれに恐怖して、毫(ごう)も疑いの念を起こさず、一も西洋、二も西洋とて、ただ西洋の筆法を将(もつ)て模本(もほん)に供し、小なるは衣食住居の事より、大なるは政令法制の事にいたるまでも、その疑わしきものは、西欧を標準に立てゝ得失を評論するものゝごとし。奇もまた甚だしというべし。今日の西欧諸国は、正に狼狽(ろうばい)して、方向に迷うものなり。他の狼狽する者を将て(とって)以て、わが方向の標準に供するは、狼狽の甚だしき者にあらずや」(福沢諭吉「民情一新」)文中(P324)

 重複するが、この本で、著者は、いかに平易に分かりやすく、より若い読者に、現在の、わが国が直面している喫緊の課題に対し、どう考え、ふるまうべきか、どうやって過渡期において若者たちは身を処するべきなのかを、どのように直裁に語るか、を目指しているように思える。
 それは、今現在において、優れた、政治家、実務者、思想家が出てこない現在への憤懣にある、と言っても良い。それこそ、欠損から出発したような幕末期に比べ、現在は、国民全体の知的水準も上昇し、経済的な基盤も恵まれ、整備されているはずであるというのに、なぜなのかと私も思う。
しかし、武士であり、かつ真性のナショナリストであった福沢諭吉がいうように、国民が独立・矜持の気概を持ち、国力(国軍=軍事(自衛)力)なしに、現在のわが国が飢狼のような列強(中共、ロシア、韓国、米国)に翻弄されるのは必然としか言いようがない。「ぼけ」は、サヨクばか老人だけでたくさんである。
 いずれにせよ、この「世界」を巻き添えに逆巻く大渦巻きのようなグローバリズムの嵐の中で、もし、私が、それに抗すべく、時代が強いる思想的立場といえば、当面「真性のナショナリスト」の一人であるしかないように思える。口幅ったいことを言えば、それが、「現在の」過渡期の、重要な(世界レベルでの)危機に抗し、意識的に闘うことではないのだろうか。
 せめて橋頭堡(いかがわしい言葉ですが)として、時代が強いる現在の課題、国民国家日本国の護持に、わが同胞国民の安心・安全のために、柔軟にしなやかに、そして老かいに、しぶとく、残った人性をかけて行きたいものである。

来る9月30日(日)14:00から18:00まで、四谷、喫茶室ルノアール四谷店3階会議室において、「しょーと・ぴーすの会」の主催で、著者の臨席のもとで、当該著書の勉強会(?)が行われます(参加は自由)。諸般の事情で、私は参加できませんが、皆様に参加を強くお勧めします。

「看護のための精神医学」(中井久夫著)について考える

2018-08-06 21:29:36 | 読書ノート(天道公平)
かつて読んだ本の中で、「私は大家(たいか)のように語ることは出来ない、普遍的に語るしかない」、というエピグラフがあり、当時、なるほど、と思ったことがありました(当該大家とは、文脈では、「小林秀雄」であったと思います。))。

 しかしながら、このたび、滝川先生の著作で紹介されて読んだ、かの「中井久夫」氏とは、本当の「大家」ではないかと思い至りました(私が「大家」と言うのもおこがましい話です。)。

 まず、巻頭に「(この世に治療できない病気はあるかも知れないが、)看護できない患者はいない。」、これこそ、まさに、大家の発言ではないかと思い至りました。すばらしい、箴言(しんげん:教訓、戒めとなる言葉)ですね。
また、文中で、監護の業を、古代のシャーマンとの類比がされ、実際のところ、当時の部族祈祷師(?) も、命がけで(即座に鼎の軽重が問われただろう。)、仲間の病気を治したり、痛みや、精神の苦しみを緩和してきたわけであり、監護一般として考えれば、普遍的に、原理的に語るしかない、ということではないのかと、思われたしだいです。
それは、それだけ、精神に係る病は根強く強固であり、歴史もあり、古代からの人間の経てきた歴史という、長い時間の射程と、それぞれの時代に応じた、当時の人々の精神の中から連綿とその格闘の歴史とその累積が残っている、ということでもあります。

最初に、前書きとして、著者のもうひとつの天職である、翻訳詩人としての領域から、フランス近代詩人ランボーの詩句(「季節よ、城よ、無傷なこころがどこにあろう」)が引かれ、春秋に富む、看護学生たちに対し、その意を明かします。とても魅力的で、格調高い講義ですね。
実際のところ、共著者のあとがきを読めば、この本は、看護学生に対する、講義録として書かれ、その何代にもわたり看護師、看護学生たちの熱烈な支持のもとに、ついに、書籍化されたようです。ためしに、私の主治医に聞いてみると、彼女もよく読んでいるといっていました。
したがって、手に取れば、B5版の、理系の教科書のようであり、懐かしい思いがします。学生時代を追想してしまいそうです。

いつもの与太話ですが、もし、私が、高校時代にこの本を読んでいたら、わが、文系の進路にいささかなりとも影響があったのではないか、とさえ思われるほどです。

先に滝川先生が、師「中井久夫」氏は、今では看護師にしか期待していないのかも知れない(看護師に教えることを特に好む。)とも、言っており、著者の語り口も、反応の良い、熱意ある学生を相手に話すことは、教師として幸せであったかもしれません(私もその講義に出てみたかったですね。)。そして、前向きで、想像力(?) 、判断力に富む看護師は医療現場で、もっとも必要とされる専門職なのでしょう。
それは、他の医者の著書でも、「医学生に講義するよりよっぽど楽しい」と、述懐していたことを覚えています。いずれにせよ、あらゆる教育場面で、反応・理解の良い、熱意ある学生たちは、教師からは引っ張りだこであることは確かかも知れませんが。

 本文は、著者の学者としての叡智(これで良いと思う。それだけの重みがあります)と、長年の臨床精神科医としての厳しい経験と智恵を経ての講義です。
ひたすら馬齢を重ねただけの当方ですが、「なるほど」と、思わず、ひざをたたいてしまうような記述が続きます。
診察と同時に、その患者が抱える家族や、生活体験、精神体験、社会的な関係の考察について、その重層的な、は握と、それを通じた判断を学生たちに諭します。その想像力というか洞察力に、まことに深い含蓄が感じられます。ここまできたら、著者に、人間としての高い精神性が感じられるというべきものかも知れない。

 印象深かったことを挙げていけば、患者さんを挟んで、医者と看護師の立ち位置というのがあって、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と図式化していきます。実に周到です。
そして、看護師は、その職分の多くを患者の立場に立つようしなければならない、とか、看護師の重要な仕事は、担当医師を鍛え、能力向上をさせることだ、とか、凄い認識が出てきます。いわば、治療行為の分業制・専門性の確認と、医師は治療行為の舞台でのディレクターであるという問わず語りなのですね。
同時に、君たちは専門職であり、心療・看護業務は、役割分業であるしかない仕事であり、自負心を持ち、チームを組み、患者さんのために、対応して、その職分を果たそうじゃないか、とのアジテートです。
また、「眠り」についての指摘、病者については、まず、最初に適正睡眠が必要であること、適当な時間に休息する必要があること、それぞれ病者に眠りの特性と個性があるので押しつけてはいけない、たそがれ時に睡眠をとることは、きわめて危ない、など示唆にとんだ指摘があります(自分の体験でよく分かります。)。
「睡眠は有能で老練な助手である」、という警句もありました。

「看護にかかる転移」という章で、患者側が、治療者に対し、「身内の父や母、かつての教師と同様に連想し振舞おうとする」こころの動きがある、という話があり、治療者から患者に対する「逆転移」という現象も同様で、双方に人間(長所も弱点もある。)であるので、齟齬もあれば、共感も、思い入れもある、お互いに息の詰まるような「陰性の」転移ではなく、治療者とすれば(治療行為につながるような)「陽性の」転移を目指せ、というなかなか人性の機微に通じた指導もあります。患者たちが、いかに医者の回診や、診察を待ちわびているかという、老練な治療者としての述懐もあります。

いずれにせよ、治療者から、患者を観察し、歩み寄り、時に距離を置き、どのように、次を目指すのかという、治療者の取り組みが、治療する立場によって、平易に、分かりやすく書いてあります。
私たち患者とすれば、このような治療者の立場からの洞察に満ちた話を読めば、「話を聞いてくれない」、「病状・状態改善について十分な説明がない」とか、常日頃、医者に不信感を抱きがちな、私たち患者としての考えが、いろいろ揺さぶられるのを感じるわけです。一般的に、患者としての対場は弱いものです。患者と対等な立場から治療を始めようとする著者の原理・原則は貴重なものです。

 今回の著書では、あまり触れないという前置きの、子どもについての言及もあります。

「子どもの中心の家庭はよいとされる。間違いだ。一家の中心のまとまりの中心的位置に据えられた子どもこそ迷惑である。本来、子どもは、辺境にいるからこそ、くつろぎ、したいことができ、大人をモデルとして自分をつくれる。さらに、しょっちゅう話し合いをしている家庭がよいというのも迷信である。「さあ、話し合いをしよう」と一室に集まるときの家族は、緊張と相互の疑心暗鬼が相当な水準になっている。自然に一日に一度は集まるというのがよい。」

現在の、子どもたちを囲む、息が詰まるような過監視であるところの厳しい状況と、「話し合いでこそ全てを解決する」という、思い込みの愚かさと、智恵のない、腐ったいわば「民主主義」の病理をいい当てていると思いませんか。
こういう発言をさらっとするのが、大家なのじゃないでしょうか。

 その中で、とても高度で、味わい深い、後輩たちへの助言もあります。

 「(人格障害に係る言及の中で)・・治療者に求められるのはまず「やさしさ」である、と患者も治療者も考え、攻撃はその不足に対してだ、という考えが通用している。(中略)「やさしさ」は、押しつけがましさなく相手を包むものであり、求め求められる関係を超えたものであって、求めて得られるものではなく、求められてさずけるものではない。・・・」
 
 無媒介に「やさしさ」ばかり求められるようになった現在(その現象への言及もあります。)、治療者のみならず、私たちにとっても、人性への洞察に満ちた言葉だと思いませんか。「汲めど尽きせぬ」という比喩はこのような著作のためにあるものだと、おもわれました。 

「子どものための精神医学」(滝川一廣著)(「ショートピースの会」の活動に触発されて)について

2018-07-27 21:01:48 | 読書ノート(天道公平)
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上記が、「発達の分布図」となります。

 このたび、勧められて、また、必要があり(「ショートピースの会」の定例会に参加させていただきました。その際、晴れて滝川先生が出席をされたわけです。)、上記の本を読みました。
 医学書院という専門的な出版社の本であり、典型的な文系である私とすれば、少しちゅうちょしたわけですが、決して「専門白痴(これは差別語か?)」ではない、滝川先生の他の著書も知っていたので、このたび、読ませていただきました。
 昨年(2月)出版以来、すでに、専門書として異例の8刷まで推移しているとのことであり、また、出席した方に、優れた著作物に与えられる高名な賞を受賞されているとも聞きました。

 この本について、詳しそうな友人にもいろいろ聞いてみましたが、結果から言えば、大当たりであり、久しぶりに興味深い本を読ませていただいたという気持ちです。

 お定まりに、世代論から始めてしまいますが、滝川先生は、団塊世代の方で、われわれポスト団塊世代からすれば、いささかけむったい世代でもあり、友人と語り合っても、結構、それに対する批判は厳しいところがあります。
しかし、私たちが、親・教師以外に、教示、訓致を受けたのは、この世代の方々であり、人にもよりますが、敬愛の情がないわけではないのです。

 私が想定する「どうしようもない」団塊世代といえば、どうしても70年安保(政治の時代)の影響下にあるわけであり、その混乱期を巧妙にすり抜け、いつの間にか「一流企業」の朝日、毎日、東京新聞、TBSなどの新聞・放送局の幹部職員にまでのし上がり、他国に対する追従のため、右肩上がりの時代に散々、駄文、駄報道を繰り返しました。無思考のためか、ファッションとしての反権力ポーズで、世情の動き(現実)から浮き上がり、その後も、一貫して、大多数国民の利害に対する反動行為に終始し、日本国政府が果たすべき国民の為になすべき仕事をおとしめ、妨害してきた、一連の恥知らずたちを指します。
 例の「従軍慰安婦虚偽報道」で、朝日新聞社長がお詫び会見をした際、私が見ていた限り、彼が謝罪した内容は、私が予測した「明らかな虚偽報道で歴史的にも現在をもその名誉と信用を傷つけたわが日本国の全国民大衆にお詫びした」のではなく、彼の言い回しを聞いていると、駄新聞、朝日新聞の読者のみに、「表向きに恥をかいたことを」と謝罪したのですね。
 それが証拠に、性懲りもなく、英訳で、虚偽の「性奴隷」報道を外国に垂れ流し(売国・利敵行為)、二重の意味で日本国民大衆を侮辱し、植民地サヨクの本領を発揮してくれます。
 つくづく、人間存在というのは、教育(どうもそれは全く役に立たない。)や教養を越えても、どこまでも卑しく、下衆になれるものですね。これは、私たちが注意を払うべき、人間存在についての、重要な認識です。

 例外として、誰にでもある「若気の至り」(「青春の蹉跌」でもいいです。)による、個人的に訪れた手痛い社会的な体験(?) によって、挫折感や、敗北感、無力感、他者及び自己に係る疑義と失望の思い、その「直接体験」や「思想的契機」を、その後の自分の人性の教訓として、就業後の職責に繰り込み、研究職になったり、不可避に展開して行った人たちは、当然存在するにせよ、私に言わせれば、希なところです(そして、残念ながら私たちの世代(1955年生まれ前後)には特筆するような人物はほとんどいない。)。

 先の、悪い代表は、私が想像するだけでも、前述した朝日新聞記者とか、厳しく指弾された先の安保法制反対デモ参加の似非知識人(敵ながらはかないものだった。彼らは晩節になって、バカさ加減をまたさらした。)とか、たくさんおり、他にも「全共闘」礼賛派(さすがに今は居ないか?)とか、数多く、「早く死ねばいいのに」と友人とはなすと、「俺もそう思う」、と同意します。

 閑話休題、このたびは、敬愛できる全共闘世代の一人について言及します。
 この本は、著者のあとがきで触れられているとおり、その執筆の動機付けとして、まず「看護のための精神医学」(中井久夫著)の著者の恩師の中井先生に、子どものための精神医学の原理論がない、君に書いて欲しいという意向があった、という話から始まっています。
もうひとつは、私の憶測ですが、著者のひそかな(?) 決意として、この本は精神疾患その周囲にかかるラジカル(根本的な)な理論書でありながら、平易に、しかし、周到な原理論を築きあげたい、それが同時に、専門家のみならず、普通一般の人々にも読め理解できる契機を与えたい、という、これは優れた、また、開かれた著作に必ず付帯する著者の覚悟です。
 その成果として、この本は、著者の、現在までの専門家としての経験や研鑽の累積とそれ以外の思想的な遍歴・営為を傾注した誇るべき達成であります。私は、つい、「普遍的に語れ」という、吉本隆明のあの言葉を思い出してしまいました。

 まず、扉に、著者オリジナルの、例の座標軸図表、X軸、Y軸にわたる交点Z軸の線グラフ(発達のベクトル)が描かれ、たてX軸が「認識の発達水準」、よこY軸が「関係の発達水準」と決められています。その中央に、0から始まるZ軸の点が著わすのが、個々の人間の現在、出生時から始まり、外部とせめぎあい、考え認識していく作業と、周囲に働きかけ関係を構築するその交点Zに、それぞれの現在(個々の実存・達成)があるという構図になっています。
 これは実に興味深い図式であり、うちの零歳児(3月の孫)から、現在の私まで、あらゆる人の内部時間と発達のその移り変わりが、明確に図式化されています。それこそ、今回の紹介者がいうところの、目うろこ体験との指摘が、よく理解できます。
したがって、Z点という集合点は、ゼロから始まり、その後われわれが周囲(外部)に働きかけ、自分の意識に繰り込みながら、「自己」というものを作り上げ、著者に言わせれば、その「(自己を含めた外部に係る)自己認識の発達水準」(以下「自己認識」という。)と「自己以外の外部との関係づけの意識の発達水準」(以下「関係意識」という。)は、相互を支えあうことなります(よく理解できます。)。
 いわば、その私たち個々の人間の思考の運動は、普遍的に言うならば、(個人の思惟を越えて)同時に人間存在の思惟の運動という誇るべき歴史と達成であると、考えられ、そして私たちが、唐突に、死んだ時点でそれが中断する、と、一枚の図表で、個々の全生涯が俯瞰できる仕組みになっています。「自己認識」と「関係存在」の交点として、われわれ個々の人間は存在しているという、実にまっとうな認識です。

 その、座標軸といえば、われわれの世代でいえば、「言語にとって美とは何か」(吉本隆明著)の、X軸、Y軸の図表を連想します。X軸は指示表出性(一般的な規範(意味)を指し示すもの)、Y軸は自己表出性(自己の情感・気持ちの強弱などを表すもの)を指し示すこととなり、その交点に、言語の表現というものがある、ということになります。たとえば、意味としての「海」と、個々の言語体験と情感をこめた「海」というものの統合として、ひとつの「ウ・ミ」という言葉が発語されるというように。

 誘惑に勝てず、私は、著者に、「言語美(略称)」との、その類比について質問してしまいましたが、「触発されています」という、回答を得ました。むしろ、あの本には、その展開上、さまざまな、上質な文学表現の例示が示され、大変興味深かった思い出があると述懐されます(私もご同様です。)。

 著者の凄いのは、その図表の交点が、ひたすら成熟し伸びていく右肩上がりの線グラフ(発達のベクトル)を標準(正統・自然)発達的なモデルとして考えて、それから多かれ少なかれ外れていくものとして障害を考える、また、ひとたび取り込まれた「自己認識」と「関係意識」の交点の位置は、個々の観念に折り込まれてその自然性に転化し、その後の自己の思惟の運動に取り込まれていく、という、人間の思惟(?) の運動というか、個々が不可避に負う観念世界のとめどもない進展・深化が想定されています(よく納得できます。)。
 また、具体的に言えば、そのバランスの良いモデルとして、中央に標準(正常発達のベクトル)が想定され、それからはずれる「関係意識」の発達が緩やか(遅滞する)なもの、あるいは「自己認識」の発達が緩やかなもの、あるいは双方が緩やかなもの、など、さまざまなケースがあり、その無数の点が面的存在として、アスペルガー症候群、自閉症などの症状が想定されているところです。その相互関連性と、発達全般にわたる著者の認識と、判断は、とても興味深いものです。
 これは、いわば、発見・発明に属するようなものではないのでしょうか。

 また、試みに、著者に教えていただいた、チャートで、ADHD(多動性障害)の判定テスト(WHOのICDテスト)を、チェックしてみると、私もかつて多動性障害ということになり、納得しました。そういえば、小学校の、一学年、二学年当たりは、先生の要監視のためか、最前列の学友より前の、突出した席に座っていた。学級経営に明らかに支障になる子どもであったろうと思われます。
 当時、手を打っていれば、もう少しまともになっていたかもしれないが(笑い)、時代の差異というか、予測できない恩恵というか、当時から、私たちもそれぞれそれなりの問題を抱えて、そして、私たちの現在があるのですね(いろいろ思いあたることがあります。)。

 会場から、自分の扱う全てのケースが、全部が全部、(時間の推移に連動していくかのように)深化・発達してはいかない、遅滞・退歩が、出はしないか、という質問がありましたが、個々の局面ではそう見えるかもしれないが、そうではない、と回答がありました(よく理解できます。)。

 ちょうど、うちの孫が、現在三月過ぎであり、ぼちぼち首がすわり、いわゆる、喃語(なんご:「あー」とか「うー」とかいう反応)が始まっています。
 実は三月以前も、話しかけると、にやっと笑い、意味のないような言葉(?) をしゃべることがあり、こちらを認識しているかと、思ったこともあり、つい、何度も構い、話しかけました。それこそ、発達段階での親の思い込み理解による一方的な優しい働きかけを、お定まりに、繰り返してきたわけです。
 現在では、妻がいう、いわゆる「立て抱っこ」(首が強くなったことを前提にした抱き方)でないと承知しなくなり、あちこちを歩かされます。止まると、彼は明らかに不満をあらわします。
 また、傍らのソファの上に放置しても、少し離れたこちらから話したり、身振りを交え交信すれば、先の三月以降始まるという哺語による受け答えや、手足をばたばた動かしつつ、機嫌よく反応します(こちらにそれがよく受感できます。)。
 上の、二歳半歳児についてもその、Z軸(現存在)地点がよく理解できるように思われます(そうすれば戦略が立てられますね。)。
 それは、器質的(肉体発達的)な発達と、精神的な発達、いわゆるX軸とY軸双方にわたる発達というのか、それが実感され、著者の指摘を傍証するようで、大変興味深いものです(こういうのをやはり目うろこ体験というのか。)。

 引き続き読み進むにつれ、この著者の理論も、ピアジュや、フロイトなど、西欧の理論や研究・達成を踏まえ、和洋のさまざまな理論を猟集し研究してきた結果であることが明らかにされていきます。同時に、その方法的な限界も、盛り込まれ、「米欧世界」を相手に、日本語の思考で、孤軍奮闘してきた成果がよく理解できます。

 当日は、参加者が大変多く、50人超であり、小児(?) 精神科医の方や、殊に、発達障害や、思春期のトラブルを抱えたケースワーキングや、カウンセリングをしている方が多く、当該、質疑応答も、具体的で、切実なやり取りが多かったところです。
 さすがに、滝川先生は、心療内科医をされているだけあって、その受け答えが優しく、直截な回答というよりは、迂遠なところから回答されることが多いように思われました。言葉のやり取りを大事にして、結論を急がないのですね。
 従前からも、著者の洋泉社の新書などで、すでに、例の図表などは、公開されていましたが、このたび、この本を通して読んで、改めて腑に落ちたところは多いところです。
 
 著者は、他にも、裁判などで争われた、知的障害者の引き起こした刑事事件や、精神遅滞・異常と思われる犯罪の加害者などにかかずらった中で、多くの事件に対し、精神科医として、精神鑑定なども行われ、また個々のケースについてその医学的・理論的(?) な検討など、その本分で活躍されています。
 それは別の著書の主題として扱うこととして、まずは、現在も、なお、思想・理論的にも変節のない、研鑽を怠らない、私たちの先輩・先駆者として、その営為にお礼を申し上げたいと思います。

ライトノベル「魔法高校の劣等生」その24、25(エスケープ編)前・後編(佐島勤著、角川電撃文庫)は、面白いです。(補遺分)

2018-04-25 20:15:09 | 読書ノート(天道公平)

このたび、後編が刊行され(2018年4月)、ひとまず、エスケープ編が完了しました。

ラノベ小説のあとがきを見ていると、ライトノベルというものは、出版社・編集者の意向・読者の思惑で、相当部分変わるようであり、著者自身の「自己の書きたいものを不可避的に書く」というか、それはどうもあまり重要ではないようです。どうも、著者として、周囲に干渉され、節を屈するのは、なかなか厳しい(?) ところです。
どうも、私の読んだ限りで、ラノベの出版の内幕を読み解けば、出版社は、最初に著作物を手にすると、まず、編集者による読者の意向調査、読者の嗜好を考慮しつつ、取次ぎ販売店の意向(?) 、自社と販売会社の販売戦略会議、著者との協議を経て、出版決定、販売戦略決定を行う体制のようです。
その中で、事案によっては、それぞれの思惑と力関係により、差し戻し・再検討するなど、当該サイクルを何度も繰り返していく構造のように思われます。それは、ビジネスモデルとすれば当然のことかも知れませんが、まず、人気が出れば段階的にCDドラマ化、大人気となればテレビアニメ化、コミック化とか、そして読者による二次作品化など考えれば、ヒットした作品の市場は、とても大きいものかも知れません。
逆に、それでないと、イラストレーターその他の周辺の多くの職業人や出版社の直接利害の思惑を巻き込んだ事業としてはやっていけないものかもしれません。
私に理解できる業界とすれば、かつての少年漫画雑誌の戦略を踏襲しているように思われます。
あの当時も、読者調査の結果、早期打ち切り(?) という作品がいくつもありました。
かつて山岸涼子さんも「漫画家には老人ホームはない(定年もないのかも知れないが)」といっていましたが、ラノベにせよ早期打ち切りも同様で、いつも間にか、その著者たちは、苦闘しながらも消えていくような(?) 厳しい運命なのでしょう(あの漫画家は今?、ということはいくらもありましが)。
「表現者」はさておいても、それを言えば、われわれ生活者大衆も、先々、自分の人性に何が起こるかわからないのは怖いところですが。
ラノベ市場は書籍と電子書籍を含めれば、市場規模は436億円(2016年)程度といわれているらしく、それに加えて派生する漫画、アニメとかゲームとか含めれば大きな業界になるのでしょう。
デフレで疲弊した現在の日本国であれば、たとえ薄利にしても(とうとう、私、アニメ映画まで見に行ったので、それは実感的にも、とても大きいものかも知れない。)継続可能なありがたい事業かも知れないところです。私なんぞは、経済的に、いまさら、ハードカバーの小説などは買わないのです。
どうも、ラノベとは、その少なからぬ部分が、「著者が何を書きたい」かによって始まるのではなく、どのように書いたら、出版し、その他の事業に拡大販売できるか、というところから始まるようです。したがって、新進の著者にとっては、紆余曲折(?) を経て、まず、出版デビューできるかどうかが、大きな問題となります。
大手の出版社は、高額(300万円とか100万円とか)な懸賞金、および出版の内示を掲げ(これが大きいのかも知れない。)、トロフィーとして付与し、新人作家の発掘を目指しています。その後、デビューまで相当に手直し・書き直しとかあるらしく、手放しで喜ぶには少し早いでしょうが、現実はそんなものでしょう。
当選した「達成」とか、「栄光」とか、瞬時のものなのですね。
実績のある(販売数が期待できる)著者であれば、「ここまでならば妥協できる」と、協議のうえ、折り合いをつけるのでしょうが、新人作家はしょうがないよね、編集者などの協議・指導を経て、何度も書き直しをして、当該方針に適合するよう折り合いをつけているのでしょう。
そうであれば、その協議を通じ、聞けることは聞いて、それを契機に、表現として、深みを増すことを目指すしかない。かつては、ネット小説とかいう、自力で、ネット掲載をはじめ、人気作家となり、出版化した経緯もあるようですが。
読者は、冷酷です、媚びてもだめだし、その反目に出て、本格派としてひたすら高度・難解で面白みがないと、また、それはそれで、電子板で罵倒されます。厳しいですね。いちいち気にする必要はないかもしれませんが、著者の立場で言うと、読者投票とか、ワンクッションがないため、衝撃は大きいでしょう。それは、現在では、あらゆる表現物に付きまとう宿命であるかもしれません。

私は、ラノベの存在と、その隆盛ぶりを、歳若い友人に教えてもらうまで、全く知りませんでした。
最近の若者たちは、思春期の慰藉(いしゃ:なぐさめ、きばらし)として、漱石とか鴎外とか、文学書を読まない、読んでも、太宰治(過度に自意識に執着する主題が多いからな、思春期の若者には理解できるだろうなと、なんとなく納得できます。)という話を聞きましたが、しかし、それを聞いたのも、ずいぶん前の話です。
「じゃあ、読むとすれば、何を読むんだ」という話になりますが、さる方の見解では、「その替わりに、ラノベとかを読んでいる」、という話になります。
それもあって、私は、公立図書館で、ヤング・アダルト(私の印象では翻訳ものが多い。)の著書を含め、膨大な量の、ラノべと逢着しました。
やはり、ラノベも、ヤング・アダルトの著書と一緒で、いいものも、そうでもないものもあります。一般書と全く同じですね。
中には30数巻にわたるような大作ものもあり、その人気のほどと、ラノベの著者の数の多さに驚かされます。
最近では、利潤率をあげるためなのか、文庫本とハードカバーの間の少し大きい版(A5版くらい)のシリーズも出ています。書店で見ると「ライト文芸」(なんのこっちゃ?) (1200円くらいが目安です。)というのか、さすがに、わが公立図書館はなかなかそこまで手を出さないようです。
 私は、貧しい青少年が、文庫以上になかなか手を出せないのはお気の毒なので、文庫(大小さまざまなあらゆる出版社があります。)肯定主義(?) であり、同様に、文庫版を越えて手を出すことはしない予定ではあります。
 私が見た図書館の本の中で、寄贈者が裏表紙に標記されたものがたくさんありました。図書館で聞くと、図書を指定して、金銭寄付などがあればそれに応じるといっていました。マニア(「おたく」でもいいですが)たちのうちには、自分の好きなラノベを、世間一般に膾炙(かいしゃ:はやらせること)するために、他者と共感したいと、少なからず身銭を切る人がいるようです。

 ようやく、主題に戻りますが、前編で、主人公たちを守るため危機に瀕した、味方のメイド(名前を「水波(みなみ)」といいいます。)は、生命と体力の回復は出来たにせよ、「魔法士」としての能力が枯渇するような危機に瀕します。
 そこは、ラノベのお約束で、救い主(ライバル)が登場して、日本国での主人公の優れた対立者の魔法士(「光宣(みのる)」といいます。)が、当該みなみちゃんに思いを寄せ、強引に彼女の治療を試みようとします。
その手段とは、かつて異世界から事故で誤って呼び寄せた(USNAの戦略的軍事実験の失敗)寄生的精神生命体(人間世界以外のもの(人外のもの)、魔法士の想子(思念のようなものか)をエネルギー源とするため、その精神をのっとり、吸収、繁殖する。)を、自らに摂り込み、その新たな能力(過剰な想子の操作が可能になるのでしょう。)により、無理やりにでも、みなみちゃんの、魔法士としての能力を回復させようとします。
 自ら考える「あるべき愛の実現のためには」人外のものすらも利用するという方針であり、彼が、主人公の国内での最強の魔法士の対立者(ゲームでいうラスボス)となります。
 当該魔法士(みのる)も、「人外のもの」を摂りこんだ時点で、御するつもりが、逆に憑かれて別の存在となり、精神生命体の本能(群的自己勢力の現実世界での繁栄)に純化するようになり、主人公の魔法士と彼らの出身部族(先の有力十大ファミリーのひとつ)を含めた、日本国の魔法士集団と厳しく対立します。
 いわゆる、「魔王」となったのですね。
 USNA本国でも、利害の相違や、一部の浅薄な思惑から、再度、「戦略的軍事実験」が行われ、少なからぬ寄宿生精神生命体が、今世に流入し、再度、USNAの魔法士群に寄生することになりました。「利害の同一と目的の合一」のもとに、彼らは寄生者を増やし、アメリカ国軍の中で、大きな脅威になります。また、当該闘争で追い詰められた、かつて、主人公司馬達也と、アメリカ国の戦略的魔法士(世界中に20数人しかいない。)として闘い、和解した、年若い女性魔法士が、かねてより友誼のある、日本国の主人公の魔法部族、四葉家に亡命することとなりました。
 この「人外のもの」の一連の動きは、現在猖けつを極める(しょうけつをきわめる:病気などが猛威を振るう)「グローバリズム」の暗喩というべきではないのでしょうか。その影響の多大さと、少数者の際限のない欲望・利害のために、国家の枠を越え、世界規模で、巧妙で、苛酷な搾取を試みるという図式としてです。
 現在の米欧主導の高度資本主義の少数の富者に自国・他国大衆の侵奪は言うまでもなく、かつての帝国主義、植民地主義、ファシズム、中・露などの愚劣な反動・左翼革命などいくらも例があるでしょう。
 したがって、それと相性のよい、新ソ連合(ロシア共和国)の支配層も、大東亜国家(中共)の支配層も、USNA(USA)の一部支配層と、手を結び、当該支配の情況を覆そう(抵抗しよう)している、日本国の魔法士、司波達也に刺客を送り込んでくるわけです。なかなか、敵にもさまざまな差異と思惑があり、重層的で流動的な面白いすじがきです。

 ためしに、今後の情況を予測すれば、小情況とすれば、日本国内での魔王と対立、国内で、みなみちゃんの去就をめぐり、闘争を繰り返すでしょう。同時に、一般大衆の反魔法士団体の反発、利害を異にする他の魔法士部族、国軍の魔法士部隊の魔法士たちとの連衡と闘争、バカなマスコミの反動キャンペーンなど、いくらでも火種があるようです。
 中情況とすれば、極東の、大東亜連合(中共)、新ソ連邦(ロシア共和国)の、軍事的侵略と、引き続き、戦略魔法士同士の軍事的局地戦を戦うこととなります。
 大情況とすれば、米欧など主導のテラフォーミング計画(魔法士による、他惑星の資源開発計画)は、まだ失速したとは言えず、あらゆる政治的、軍事的圧力をかけて、また、有力な魔法士を排除するため、今後もそれぞれの思惑をこめて、合法でも、非合法ででも動くでしょう。主人公の自立を図る大きなイノベーションとしての、魔法による重力式常温核融合装置システムの構築・運転も、今後の日本国の大きなビジネスであるなら、他国から妨害や、攻撃を受けるのは、想像してみれば当然のことです(今の日本国でも同様です。)。
 その中で、本来、日本国政府が、国益に合致する、優れた団体や個人を、後方からでも支援するのは当然のことでしょう。
 しかしながら、国民国家として、自国防衛や、自国の国民の経済的利害の防衛や、最低限の安心安全の確保にすら、国民のために、努力することを怠り、ためらうわが国を見ていると、私と同様に、ラノベ読者の若者たちの不満や憤まんが見えてくるようです。

 いずれにせよ、主人公、司波達也君は、今後も、全世界及びグローバリズムという誤ったイデオロギ-を相手に、さまざまな「孤立無援」の戦いを継続していくのでしょう。
 引き続き、一人のラノベ読者として、今後の趨勢を見守ってまいりたい、と思っております。
 あとがきに、高三になった彼らの将来について、「魔法「大学」の劣等生」という、続編についての著者の冗句(ジョーク)がありましたが、さすがにそれは悪手でしょう。