遅ればせながら、令和4年正月の、妻の心尽くしです。
昨年は、色々なことがあり、この日がよく迎えられた、と二人で、安堵しました。
*****************************************
以前この件について、コロナを契機にした、かつての仲間との決別のいきさつを書いた。
「若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その5)(あらゆるところで猛威を振るうコロナファシズム迷走とどう戦うのか。)」2021.3.25 付け https://blog.goo.ne.jp/koheitendo550815/e/1e163d1d5db3bebf6282255c7f4a7d95
読み返してみて、当時のブログ原稿と、現在の状況が、ほとんど変わっていない、いや、ますます悪くなっていることに、愕然とした。
それは、職場における、「コロナ」解釈の食い違いによって、「見えない関係が見え始めた」ことに気付き、私の、仲間グループ(英会話同好会)の解散をした話である。
これは、私の仕事に関わる個人的な「倫理性」と、常人の「倫理性」が真向から対立し、それに私がこらえきれなかったという話である。
その後、この経験は、私のような人間にも結構応えた。
彼女との活動は、かれこれ、10年以上は続いたので、悪い思い出だけではない。
しかし、許せないことは、私にもある。
それを検証する。
私は、おおよそ、三年を超える、コロナ下の勤務で、再任用職員として、専ら、窓口業務をこなした。例えば、常時、不特定の市民に接する場面であり、救急消防職員のように、職務中に、コロナに、り患しても仕方がない、と思っていた。
運が悪ければ、り患するかも知れないし、死病になっても、しようがないじゃないの、しかし、自分の仕事に手を抜かない、と、自分に決めていた。それは、おかしいだろうか?
幸い、前述したように、地元の心ある化学会社(㈱トクヤマ)が、カウンターに設置する、プラスチックの衝立を寄贈してくれていたので、客が老人の時は、マスクをずらして、よく聞き取れるように、大声で、話をした。
その件において、苦情を受けたことは、一度もない。
ババアに絡まれたことはあったが。
しかし、決別した彼女といえば、自己の被害を想定してからなのか、コロナ下での、客との接触を、心底嫌悪していた。
それは前に記したした通り、彼女が実父母と同居し、巻き添えをくらわすリスクとの思いやりの考えだったかもしれない、とジジイは想像していた。
彼女と議論をしたときに、じゃあ、なぜ行政職として工夫して、ネット申し込みと、本の個別引き渡しで、開架サービスをしないの、下松市図書館はちゃんとやっているよ、というと、理不尽にも、本気で怒った(彼女は周南市立図書館の会計年度職員である。)。
その怒りは、どこから、来るのか、よくわからない。企画も提案も通りにくい、彼女の、会計年度職員という待遇で出すぎ、といじめられるのが、単に嫌だと思ったのか、これ以上、仕事とリスクを増やすなんて、と思ったのか、わかりにくいところだった。
下松市の図書館は、閉館時間が6時半である。周南市の図書館は、閉館時間が一館を除き、5時半である。これはひどいと、かつて、彼女に言ったことがある。周南市の行政部門として、明らかに、市民サービスの努力を怠っている。
だいたい、夕方5時半までに、職場を離れられる職場がどこにある。パートの母親でも、何をおいても、まず、こどもを迎えに行くだろう。それが、趣味、生きがい以前に、人の道だ、それに意識的でないだけで、失格だ。
開館時間を言うならば、公立図書館は暇なじじいが、早朝から、新聞を読む場所ではない。
聞き及べば、自分より前に他人が新聞を読んでいれば、なぜ、一番に俺は新聞が読めないのか、と怒るそうだ。腐ったジジイは、早く死ねよ、と、ジジイの私ですら思わないでもない。
彼が執着する、その新聞が、ハイブロウな、朝日かどうかは、聞いていない。
そのくせ、図書カードから、性別表記をなくそう、とか、フルタイムの図書館職員は、バカな、LGBTの信奉者だ(田舎ではLGBTとはそんなものです。脅迫に応じ性差を隠すだけ、それが正しい。それがすべてです。理念などない、ご機嫌取りです。都会もそうなのか。)。
そして、浅はかで、短慮な、藤井律子市長に、おもねることは、決して忘れない。
それが、彼等の脳中で、藤井市長の、ジェンダーフリーとか、共同参画とかに直結するんだろう。
バカな政策だ、国レベルでは、それを国民分断政策に使っている、反目でも、立憲など、国内労働運動を奪い取った、在日・反日勢力がいくらもいるからな。国民国家について、きちんと考えたことがないから、まともな理念も、視野も、展望もない、ひたすら、反日、共産覇権勢力に迎合するばかりである。民主、社会党右派、左派の系列は、皆そうなった。
笑い話だ。
また、このたび、政府首班にも、日本国の地方自治にも、多国籍の住民の意見を反映さすべきという狂った政治家、茂木幹事長が出て来た、私は耳を疑った。
さすがに、自分の使いかけの歯ブラシを、初対面の女性に差し出すという、変態の考えることは、常人にはわからない。
痴性派の私にしても、彼の行為は、何の暗喩なのだろうか、わからない。
じじいの想像力を駆使すれば、口唇期に退化したので、おねーさん、一緒に吸ってちょうだい、ということなのか。
しかし、私の逸話であれば、社会関係的に、セクハラ、変態で、社会的に葬られるが、さすがに、政治家は常人とは違う。大したものだ。
そこまでバカではないかと思うが、まさか、藤井律子さん、職員採用に、国籍条項を外したり、狂した武蔵野市長に連帯し、周南市民の利害に直結・相克する、重大な問題に、大きな支障と危険をもたらす、頭の空っぽな、政策を今後も継続するつもりはないでしょうね?
市有地の売買に、なぜ、国籍条項を付け、他国の食い物にならないようにすべきなのかも、すでに私の立場で、何度も進言しました。
だいたい、中共覇権国家の超限戦、山陰、山陽で積極的に進められる「日本買い」の実態をあなたは、知っているのか。周南市の市議会議員さんに進言しましたが、あなたの立場では、それを認識するのは当然のことです。
徳山大学の外国人(中共・韓国しかいないが)の有害な学費免除は、周南市の将来に禍根を残します。
仕方がない。
せめて、藤井律子市長が、徳山大学の公立化のように、まったくの自己都合と、自己の利害のみで、国民分断、国家破壊工作に、手を貸していないことを、私たちは祈ろう。周南市民のために。
閑話休題、私は思うのだが、この、コロナの閉塞状況で、家で読書するのは、人間としての楽しみであり、救いでもある。それのみならず、私のように、SNSにはまるのも、例外ではあるのだが。それは、人それぞれの、人間としての、フリーダム(積極性自己知性の選択活動)の表れでもある。
それを認めず、長期間業務停止して、現実との折り合いを欠落しながら、自己の職責に、努力と改善を怠る行政職は、何度もいう、引退しろ。それこそ真正のバカだ。
もともと、周南市の図書館は、吹き溜まりである。私のような無能な者がいうのも僭越(?)ではあるのだが、一般行政職で通用しなかった職員や、産休職員の配属が極めて多かった。定数減や、自己によって強いられたストレス、無能で悪辣な市長や上司に追い詰められた職員たちは、病気になれば、図書館行きの、モラトリアムルートがあった。甘い話ではあるが。
みんな、喜んで、図書館に配属になった。せめて、楽ができると思ったのだ。
図書館勤務の実務は、結構重労働らしいが、フルタイムの仕事とすれば、最良であるかも知れない。
さすがに、私は申告しなかったが(すればよかった。私なりに戦い方があったかもしれない。)、人事課に対する自己申告に、出世(?)は外れても、「図書館に行きてえ」と書いた、男どもも多かった筈である。
しかし、現在は、図書館の多くの事務は、会計年度職員に担われている。身分の不安定な彼らに、図書館業務の政策決定権には、容喙できないのだろうな、とは思う。
私の居住する、下松市の、図書館長と話をしてみると、彼女たちは、行政職との人事交流はないのだといっていた。
司書専業としては、いいことだと思うけど、行政職との人事交流がないと、図書館業務は、偏波とか、近視眼にならないのかな、と思ったことを話した。彼女は、いまいち、ピンとこないようだった。だって、ただの、市民が思うことを言うだけだもの。
おそらく、彼女は、現在の図書館サービスの質を考慮すれば、行政職員としても優秀な人なのだと思う。しかし、私は、そんな優秀な人が、図書館長として、何代も続くとは思えないのだ。そんな準備は、あらかじめ、しておくべきであろうにと、ジジイは思うのだが。
下松図書館には、色々、恩義を感じることがあり、実は、応分の喜捨をした。
それを相談した時、妻は、なぜか怒ったが、知ったことじゃない。私は、妻に、夫として、家族として、すべきことはしたのであるから、残年数は、私の理念によって行動したい。
しかし、私は、周南市立図書館にそんな思い入れはできないし、義理もない。本音とすればとても残念である。ウソではない。
再度、閑話休題、その後、私には、女と男の差異とは、コロナの問題一つを取り上げても、まったく考えが違うのではないか、と思われはじめた。
さる集会で、皆が並ぶ会場の前で、マイクを取り上げ話そうとしたら、遣りてババアに、まずマイクを消毒しろといわれた。こちらは、ある決意性をもって話す予定であり、場慣れもしていないので、完全に、逆上してしまった。
その後「コロナ時代にそんな配慮もせずに人前で話すのは不見識だ」とまで、追い打ちをかけられた。
私も、さすがに、衆人の前で、「くそババア、覚えていろよ」と、尻をまくることもできず、竜頭蛇尾の結果になってしまった。
敵を作っていた覚えはなかったが、どうも、裏うちでは皆、私に同情してくれたような塩梅だったらしい。しかし、コロナの威勢のもとに、皆、間違ってもそんなことは言わないが。
彼女は、間違いなく、ここに参集している、大多数おばはんの、共通感情を掬い上げていたのだ。
その後、私は、しばらく、憤懣やるかたない様態であったが、これは、似ている、図書館の彼女の思考及び言動がそっくりだ、と思いいたった。
まさしく、男の倫理性と、女の倫理性の壁と差である。
男は、自己の社会生活で、仕事を通じ、自分の経験と判断をもとに、最善の自己の倫理を通そうとする。それによって、自己が、多少被害を被っても、それはやむを得ないと思う。
理は理で通すべきと考えるからである。
女の本質は、畏友、Hさんに言わせれば、自己に対する生涯を賭けたナルシシズム(自己愛)だという。確かにそれはそうだと思う。
この場合に則していえば、彼女たちは、コロナの影響で、まず自分の容貌、健康が第一で、自己が損壊(?)するのがまったく嫌なのだ。
私は、還暦を過ぎ、年金受給者になれたので、自分が早く死ぬのは、運が悪いなと、思おうとしている。デブは、事情により止まったので幸せ(?)だが、ハゲは相変わらず、進行している。
頬は垂れ下がるし、加齢の衰えで、相変わらず、貧相で、しお垂れた人性ではある。
しかし、じゃあ、君たちはどうなのかと問う。長生きしてどうするの、そんなに自分が大事なのか、それこそ、傍目八目では、嫁かずか、離別か長期別居かは知らないが、君たちに、先行き、そんないい人性が続くとは、思えないがなあ、と茶々を入れたくなる。王子様に、死ぬまでお目に係れまい。
そうだよ、君たちもきっちり衰えているよ、そこは、男であって敏感ではある。
私も、さすがに近代人の自由の運用原理、「自由の相互承認」は、そうだろうと認めるので、君たちの人性の自己決定権の自由は尊重するが。
それは、とても、あさましく、醜いという思いはするが。
実は、うちの妻は女である(笑い)。
男であれば困るが(更年期を迎え女になりつつある過程であるとは言え、私であれば、男同士で、がち、戦うかもしれない。)、前述した彼女たちとは違うとはいいたいが、しかし、違わない部分もある。
周囲に対する「関係意識」が、私とは、ほぼ違う。
私が、「仕事で病気になったらしょうがないじゃないの」といっても、即答はしない。孫や娘に、コロナが移ったらどうするの、といいたいらしい。どうも、無法者に直答しても、仕方がないと思っているらしい。
彼女の論理は決まっている、再任用の職員なら、危険を回避すべきということである。
そこは、彼女たちと、似通っている、まず、自分の存在と、自分の家族を、至上のものと、無限肯定する。それが大事なのだ。
私とて、私の通院を契機に、孫どもが、ウイルスなどの空気感染を媒介にする病気になるのは望まない、彼らの親の判断で会えないのは仕方がない、と思っている。
しかし、私は、まず、自己の成すべき仕事と責任を果たし、そのうえで、身内をかわいがりたいと思っている。
その仕事が、身内への情と相克するなら、彼らに会わずとも、黙って、死んでいこうと思う。もし、巻き込むことがあれば申し訳ないが、そこは反社会的人格であるよりましでしょうと、自己弁護する。
自己の成すべき仕事の責務と、家族との情愛が、どっちもできるという選択はある。それも、知恵ある男の仕事である。
一般的に、男の優れた対立者である女性は、家族の将来にとって、それなりに、ありがたいものである、といいたい。
しかし、灰になるまで、女性は、自らの帰属(自己愛の実現)の危機に敏感である。
マイクを拭き、マスクをあて、検温して、それで、カタルシスが免れると思っている。
あの二人の背後には、「イワシの頭も信心から」、という、ババアどもの女性独特の信仰がある。自己利害のためには、命がけなのである。
彼女たちに、過去の、インフルの致死率を説いても理解しない、できない。
せめて、そのためには、加齢を取りやめ、持病を持つなよ、というしかない。
無理なのだ。施設で、囲われない限りは、自分で家のそとへ出るのを控えるしかない。
しかし、皆が外に出ることをやめられるのか。無理である。それは理屈ではないのだ、自己以上に、他人に強要しても、バカな話だ、ということを頑として認めない。
太宰治のいうところの、百姓のクソ意地というやつである。
ここからちょっと違うが、一部の自己愛だけの男どもを除き、多くの男は違う、身を盾に、危険を測りつつ、長年、社会で直接敵と競争、張り合ったのだから、それなりの知恵はある。
皆、「しかたなかろ」と思っている。「私の方が先に死ぬから」と、妻に、とっくに主導権を渡している。
先の例でも、多くの女性は、それを当然と思っているらしい。
いずれにせよ、コロナ以降、個人主義が徹底し、ニヒリズムも横行し、みんな他人の境遇や不幸に冷淡で、思いやりと察しの文化も希薄になった、憂うべき事態である。
ニヒリズムや、自暴自棄が日常となれば、他人を巻き添えに、死んでやる、という人間も出て来る。
もっと、ひどい奴は、自分の感情で、他人に死ねと、言うだけならいいが、実行する。
それらは、反社会的な性情、過度の攻撃性を持つ男がほとんどだろうが、貧すれば鈍すかもしれないが、本当は、それはわからない。
せめて、制度の方から、彼らの数を増やさない、社会的弱者の国民を守る、セフティネットを構築すべきだある。
ほら、男って、こんなもんだよ。
私が、今、何より深刻と思うのは、下層サービス業に従事する、女性労働者が、失職、ただでさえ、安い賃金すらなしに、デフレによって、そして到来する、悪質インフレの中に放り出されていることだ。
コロナ失職の中で、賃金や待遇に劣った、弱いひとり親家庭はさらに重責がます。どう生きていけばわからない、という状況になる。自殺者も出る(注意深く見ていると思うが、被庇護者を含めた巻き添え自殺もあるのだろうか)。
昔読んだ、網野義彦の「中世の星の下に」などを読むと、中世ヨーロッパで、社会の最後の下支えをした人間は誰なのか、という話があり、それが、父親知らずのこどもを持った、最下層の女性だった、という記述があった。
ヨーロッパの父権制(キリスト教)に支配された時代は、本当に、差別と排除がきつかった。日本国など甘いものであったらしい。
しかし、当時、最下層の女性が自殺まですることがあったとは、資料があったとしても、とても信じられない。
おそらく、皆が貧しい社会だったから、まだ我慢できたのだ。
現在では、所得格差の拡大と、下層労働者の困窮は、一義的に、コロナを理由に、経済政策を放棄している、政府にある。
しかし、本当のところは、日本国政府は、日本国を、中共、アメリカなどのグローバリズム強者に売り渡すために、外人経済難民を導入し、中小企業をつぶし、大企業の力を弱めているようにおもわれる。
セフティネットすら制約し、奈落を、そこを見続ける多くの国民の困窮を決して見ない。国内での、棄民政策なのだ。
国内では、新自由主義の竹中平蔵に主導された効率主義が、社会的弱者を、さらに弱め、中間層を弱者に追い落とす。その中に苦闘するものは、疑心暗鬼になった、誰も、信用できないというのが、大多数国民大衆の本音だろう。
妻にそんなことを説いても、政治的意見の表明は、うちではできない。
彼女が許さないからだ。
しかし、目の前に生じた不幸や、理不尽な扱いに、直接心を動かされるのは彼女の方ではある。
私は、決して理念の奴隷ではない。
不幸な人が決して立派でないことも知っている(学生時代の友人が「貧乏人は汚い」ことを忘れてはいけない、といっていたがそのとおりだと思う。)。
しかし、想像力と、倫理性を失ったら、あるいは、他者の不幸を思いやる契機を失ったら、私たちには未来はない。
それは、男として、言わせてもらう。
しかし、倫理を直接に、語らない彼女が、当然、一定の限度のうちだが、彼女が親切で、他人に慕われるのはよくわかる。
私に対し、「最初のあなたは、ほう、この人は」、と、皆に思われるのに、次からは、それっきりじゃないの、ということも、私は笑って、「そうだな」、と、答えられる。
それはありがたいことだ。
身内の批判者は、ありがたい慶すべき存在だ。
しかしながら、男には(それは女にはでもいい。)すべき仕事がある、理不尽を憎み、不合理を指摘しそれを下支えする、批評と知恵と判断力を持ち、それを鍛えることを忘れないことだ。
何度も言いたいが、私たちは、自己利害をひとまずおいてでも、不正を憎み、自己の社会的役割を果たす、倫理性を持つことだ、とおもう。
具体的な話をしよう。
私が、泊りがけの通院から帰ってきても、彼女は私に近寄らない、風呂に入れ、洗濯をしろ、と距離を取った、指示をする。
一時、コロナ下のもとで、医療従事者の家族が、食事は別、なべ料理も禁止という、家族対応を聞いて、私は、当時憤激した。ほかに、家族として、違ったソフトランディングはなかったのかと思えたのだ。
しかし、どうもこれが現在の社会が強いる、最良の規定路線なのだと、妻は思っている。
自己利害しか思わない女性たちと、まったく同一ではないが、私たち以外の家族の利害には、常に、細心の反応するのが、彼女の冷静な正義なのだ。
男も、女も、お互いの、いい部分も、悪い部分もある。
我慢できることは我慢するし、我慢できないことは我慢しないこともある。
それが、「更年期になると女は気が狂い、男は(少し賢くなって)女になる」というのが、今のところは、私の考えである。
やんぬるかな、そう呟いて、また考える。
例えば、ホモサピエンスに最も近いと言われているチンパンジーの生態は、他の動物と人類の違いについて教えてくれます。それは人類の未来も示唆してくれると思うんですよ。
チンパンジーは集団を形成します。その集団では、オスは協力して狩りをします。そこには序列もあると言われています。
一方でメスは子育てをするわけですが、集団で子育てをします。子育てをするメスのグループには、いわゆるメスと、まだ性徴の薄い子供が所属します。出産経験のないメスも、そこで子育てについて学習します。
オスとメスの関係は、多夫多妻制だそうです。一夫一妻制ではないわけです。乱交もあるようですね。また、メスはオスに餌をもらって性交をさせることもあるようです。子作りではない性交を行うのもチンパンジーの特徴です。
そして、時にオスのグループ同士は衝突するそうです。その際には、どちらかのオスのグループが全滅するまで殺し合いをします。そして勝ったオスのグループが、負けたオスが所属していたグループのメスをそのまま取り込むそうですね。
そんな感じでチンパンジーの生態を見ると、動物としての人間の本性(ほんせい)が見えてきます。オスの集団が狩りをして肉の餌を獲得する姿は、男女雇用機会均等法が施行される前のサラリーマン社会を彷彿とさせます。
メスの子育ては前近代の人間社会にもその名残があるように見えますし、餌をもらって子作りではない性交をさせるのは、最も古い職業といわれる売春を思わせます。
多夫多妻制は、現在でもよく起きる不倫問題や、江戸時代の夜這い文化、祭りの夜の乱交文化に通じるものがあります。それらのメリット、デメリットについてはおいておきますが。
オス同士の殺し合いは、まさに戦争ですしね。まあチンパンジーの生態からは、人類の本性がよく見えてきます。近年の遺伝子研究では、戦争の結果でジェノサイドが行われた際に、男性由来のY遺伝子の上書きが行われている痕跡が多く残されています。今は戦争以外でも、チベットや東トルキスタンで現在進行形で進んでいますね。一方で女性に由来するミトコンドリアDNAには、そういう痕跡はなく、緩やかな人の移動の痕跡が残されています。
人間について考えるとき、そういった本性の部分と、変わってきた部分を並べると、理解しやすいのではないかとも思うんですね。
例えば、元々多夫多妻制だった夫婦関係は、ルールとしての一夫一妻制に変わっています。本性から外れることが厳しく処せられますね。まあ、誰の子供かわからない子供は少なくなりはしました。遺伝子だけでなく、相続する財産を人間が持つからでしょうかね。
仕事にしても、行き過ぎた男女平等の思想が産んだ男女雇用機会均等法により、次世代育成の基盤としての女性グループの弱体化を招き、少子化が加速する遠因にもなっているように感じられます。出産適齢期を仕事に費やすことで、一昔前のように5人6人と子供を産み育てる女性はいなくなりました。
女性が独りで、子育ての下手くそなオスと共同で、一夫一妻制の元で子供を設けるために、子育てに苦しむお母さんも増えました。晩婚化により親世代と子供世代の年齢差が広がることもあり、協力して行う子育ても容易ではなくなっていますね。
また、軍隊にも女性は進出しています。女性も殺し合いに巻き込まれるのはチンパンジーと異なる部分でしょうか。
オスメスのある生物が子孫を残すという機能を考えると、退化しているとしか思えません。
そして最も大きな人間の特徴は、生殖能力を失ってなお生き続けるようになった問題でしょうか。これはチンパンジーにはあまりないでしょう。多くの動物の寿命は生殖能力限界年齢とほぼ同じくらいです。
更年期以降の問題はまさにこれですね。
更年期以降の身体的問題も多くありますが、複雑な人間社会においては、その社会的問題が大きく影響しているようにも思えます。
例えば、身体的に成人する年齢と、社会的に成人する年齢が、どんどん乖離しているのはそういうことですね。長寿命化で高齢者の権利を保護するための子供世代の過保護が進行しています。
戦国時代には16歳は立派な成人で、身体的にも社会的にも成人していました。今は40歳で結婚せず社会的に成人できず、子供部屋で生活している「子供部屋おじさん」や「子供部屋おばさん」が結構な割合で存在します。
社会的な権力というか、権限も、高齢化により若年層に移管されませんしね。よくいわれる「立場は人を成長させる」ということが進みません。マネジメントの世界でいわれる責任と権限と報酬は連動するという考え方こそがこの立場であると思う訳ですが、これに生殖能力限界年齢を超えた個体がしがみついていたりするわけですね。
思うに、人類はその繁栄により、生殖能力限界年齢以上の寿命を獲得することができ、それは知識の継承を産むことで更なる繁栄に寄与した一方で、生殖能力に関係しない価値観を高め、その衰退を加速しているとも思える訳です。
寿命が延びることで滅びを招くというのは、何とも皮肉なものです。
個人的な考えですが、今の民主主義社会でこの滅びへの流れに抗うには、例えば「成人年齢を16歳まで引き下げる」とか「未成年者の親権者に未成年者の数の投票権を与える」なんてなルールを抵抗なく受け入れられる社会形態が必要だと思う訳ですが、まあ無理でしょうね。
これに対抗する心理こそが老害だと思う訳です。
ということで、雑多な話になってしまいましたが、そういう切り口から物事を見てみると、意外に新しいものも見えてくるのではないかと思う訳です。
理系(?)の方からコメントいただくのは大変うれしことなので、是非、拡散したいと思います。
私が学生時代を贈ったのは、皆さん、辟易してらっしっやると思いますが、1970年代後半で、左翼の最後くらいで、吉本隆明がチャンピオンでした。もちろん、大まかに文系のチャンピオンですが。
今思えば、彼の重要なテーゼ、「共同幻想」、「対幻想」、「個人幻想」という三つの観念の区分けがあり、あまりにも有名になった共同幻想は、なるほどと認めるにせよ、「対幻想=一組の男女(男男でも構いませんが)が自然な性行為を媒介にして他から独立した観念の世界を作り上げる」というのは、経験的にも納得できる。愛憎の歴史は確かに存在する。
人性で最も感動したことは、こどもを持ったことだということだ。多くのカップルが言明する。
人性ですべき苦労はすべきであるが、最も厳しい、戦いであり、きつい経験であるものです。
最期の「個人幻想」は怪しいところがあり、人間の観念は、他者や、そうであるはずの他者の存在を、他者に志向するし、屋根裏の思考が豊かになることもないかもしれない。
ここは、戦争体験で、もともと資質はあったかもしれないが、敗戦という孤独と挫折を極致を味わった、吉本の思考の特異点かもしれない。
だから、私たち学生にあれほど受け入れられた、筈ではないかと思えることがある。
この辺りは、団塊世代の優れた批評家の、小浜逸郎氏の、示唆を、自己流に解釈したものです。誤読や誤解はしないでください。恥ずかしいので。
ということで、私は、大した個人的な自己追求はできなかったが、誤った共同幻想への戦いは、懸命に挑んできました。同年の、安倍晋三氏の死にもショックを受けました。今後も、自分なりに落とし前をつけていくつもりです。
しかし、「対幻想」は、戦うにのにとても厄介です。
太宰治ではないですが、今まで信用したはず(甘いといわれるかもしれないが)の妻に、眉間を割られるようなこともある。自分を信用している程度に他人を信用する」という世間知が信用できないこともある。
しかし、初見でメディアに出る女性を見て、人間として評価できることはいくらもある。それも、事実です。
また、書きます。
学生になって、「対幻想」という言葉は、非常に衝撃的でした。
それこs、田舎のポットでの学生が、異性との関係を十分に考えてことは明らかでした。
小林秀雄の「女は俺の成熟する唯一の場所だった」という独白も偉そうで嫌だった。
畏友中原中也との三角関係で、極致まで追い詰められた、小林秀雄の感覚は今ならよくわかる。相手の愛人Hさんは典型的な「女」だ。かえって、中也が食い殺された。
乗り越えたのは小林秀雄だ、思う。しかし、彼は韜晦して語らない。大事なおっかさんというだけだ。
形を教えてくれたのは、吉本だ。彼も、三角関係に悩みつつも、性愛を媒介にして、一つの家族を作り上げた。
生涯で最もよかったことは、家族を持ったこと(こどもをもったこと。)、そこははっきりしている。
私も同様である。
私ご時でさえ、自己の、思いやりとか、他者をいつくしむことを、妻子との関係で、無償で、差し出したことをよく覚えている。
それは妻も同様であると、信じている。おそらく、日本中の様々なカップルたちも。
よく、似たことがある。
ヘーゲルの「愛の直接性」ということである。
私たち、日本人の家族も、自然性のもとで、この行為を繰り返した。そこに、この、性をが媒介にした、歴史の反復さと、すごさがあるのだろうと、思う。それは確かに、DNAの働きかもしれない。
しかし、家族の役割は、そんな甘いだけではないと、小浜逸郎氏も言っている。
父祖を敬い、死した折には、自らの手で尊厳を保ち、葬ることだ。ヘーゲルもちゃんと言っている。
西研、竹田青嗣もちゃんと言っている。
歳をとるまでうかつだった。
そんなときにこそ、宗教があるのだ。多くの宗教者に、倫理と道徳をわかりやすく説くことの教えが。
私は、広い意味で、宗教者ではないかもしれない。
しかし、まともな考えや、人性は嫌いではない。
そのことはまた書きます。