天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

漱石の「暗い立派さ」について言及したい(「私、漱石の味方です。」) その2

2016-12-27 20:49:09 | 時事・風俗・情況
江藤淳は「夏目漱石論」で大学在学時に、文芸評論家としてデビューしたところです。

一般的に、人性において、われわれは、家庭的には、それぞれ様々な場面で厳しい状況で不運や不遇をかこつことは往々あることですが、江藤淳も、幼児期に母親と死別しています。経済的には不自由のない生活であり、その後の継母が良い人で幸せな(?) こども時代を過ごしたと推測されますが、早熟なこどもであったらしく、実母の死による相応の傷を負ったことは理解できます。
その後、秀才を通して、大学時代に知り合った同級生と結婚され、こどもはできなかったにせよ、才色兼備のその方と二人で幸せな家庭生活を送られたようです。彼の自死が、仕事のみならず、夫人を先に見送った衝撃が大きかったことも、大きな要素なのでしょう。

漱石の場合は、その精神の源基に悲惨な幼児体験を経ています。両親が高齢で生まれた子(「耻かきっこ」という俗称があります。)で、彼らは実子に対しても極めて冷淡で、親の思惑や都合、周囲の世間的な事情・経済的な思惑で、あっちにやられ、こっちにやられ、と、心が休まるような幼児期は過ごしていません。
江藤淳の漱石論は、その悲劇性に十分に意識的であり、同情的(?) です。晩年の漱石作の「硝子戸の中」で触れられる、父母のエピソード(実父母がふと漏らした漱石に対する愛着ともいうべき感慨をわざわざ漱石に伝えてくれた人があったこと)は、漱石が述べる、その悲しい境遇を見かねた他人の「親切」が「うれしかった」との気持ちは、心の支えになるような尊い体験でしょう。その際のこども心の動きには得心が行くとしても、実際には「あれはそうだったんだ」という後知恵かもしれず、父母の実子に対する冷淡さと、文字とおりよるべのない彼の境涯の救いのなさとは、漱石の本心では決して納得できなかったという方が正しいようにも思われます。それを改めて、晩年において再度認識しようとする漱石は、とても立派な態度であることは間違いないことですが。
この作の中で、漱石自身によって初めて、冷静にまた淡々と語られる彼の生い立ち(同時代にはもっと悲惨な話もいくらもあったかもしれませんが)は、生活者として、小説家として労苦と修練を経た後の独白で、それまでに、一人の人間として、長年にわたり重荷に耐え懸命にこらえてきた重みがあります。実際のところ「艱難辛苦が人を玉にする」ようなことは極めてまれなことでしょうから、グレて、遊野郎にならなかったのが不思議なような生い立ちです。
この、「硝子戸の中」は、本当に謙虚な内省で始まります。私が、新聞という社会の公器(?) で書くことで、中には政治家、軍人、経済人や好角家の大相撲記事に関する関心を阻害するかもしれない、と始まる漱石の独白は、自分の文学者としての営為を、社会や一般大衆の楽しみや喜びと同一の水準で扱って見せる、思想の「奥深さ」と「含蓄」をさえ感じさせるところです。

私は決して養老氏の良い読者ではありませんが、先日読んだ、養老孟司氏と近藤誠氏の対談集(「ねこバカいぬバカ」)で、彼が学童期に死別した父親が、身まかる際に、病床であいさつを周囲に強要された際、臆してか(?) 言葉がでなかった、その後も、「(みなさんに、長男として)きちんとあいさつしなさい」、と賢婦人で優秀な母親(著名な方ですが)に強いられたとき、どうしても思うようにあいさつができなかった、という苦い体験があり、後年(初老期)になって、「肉親の父親にちゃんとあいさつができなかった自分が、他人にきちんとあいさつができる(あいさつして良い)はずがない」、と自分があいさつを苦手にしている理由(意味)に、初めて思い至ったとき、思わず電車の中で号泣してしまった、という逸話があり、私も、いい年をして、「養老少年のけなげさ」に思わずもらい泣きしてしまったところです。
かくも、幼年期、少年期であろうと、私たちの幼少時の厳しい体験の記憶は尾を引き、その人性を拘束するのです。

厳しい幼少期以後、自己努力の末、夏目家期待の帝大出身の秀才となり、思春期以降、様々な恋愛もしますが、うまくいかず(我々と同じですが)、それはそれで様々な傷を負います。幼児期からの厳しい生い立ちのせいなのか、資質なのか、それらの複合なのか、様々な人性体験により関係妄想なども生じます。我々と同様に、「なぜ、おれはうまくいかないのだろうか」と、世の若者のように「観念も血を流す」体験もしているはずです。自由恋愛もしていなかったので、28歳の時に見合い結婚しますが、(当時は主流でしょうが、実はうちもご同様なのですが)お互いに大変なこととなりました。
お互いの組み合わせの不幸とか色々あるでしょうが、私は漱石の読者ですから、当面、漱石の味方になるしかありません。
実父の裕福な時代に少女期を過ごした、夫人は、経済的な困窮や、漱石の親族との因縁やしがらみ、夫君の性癖(かんしゃく持ちであり、神経衰弱や関係妄想による異常な行動)に悩まされたとはいえ、漱石は基本的に理知的でまじめな人と思われるので、少なくとも(私の見聞した限りでは)、妾を蓄えたり、花柳界で遊んだりというのはあまりなかったのでしょう。また、妻の方にしても、熊本の旧制高校教師時代、ヒステリーで、家出し、身投げをするかもしれない、毎晩漱石が紐で二人を結わえて寝たということもあったということでもあり、慎み深く、良妻賢母、貞女の鑑というわけにもいかないでしょう。
われわれ読者は、「彼岸過迄」の主人公須永のように「内側に向かってとぐろを巻いていくような」当時の時代や相反する内面に向き合う知識人の悩み苦しみを理解できますが、「普通の」男を求める許嫁の千代子にそんなものが理解できるはずはない、「何故、普通の(?) 思いやりのある (?) 夫ではないのか」、悩んだでしょう。このあたりは、常日頃、私も散々に言われたことです。たぶん、漱石夫人も「小説家、それがどんな立派なことなの」と、日常の家庭内での恨みつらみを何度もぶつけたでしょう、それはお互い様で、一方の漱石の方でも同様かもしれない、女の「偉い」という評価は、まさしく他人の評価であり、亭主を偉いと思う女などどこにもいやしない、のは確かですが。定例の脱線をしますが、いしいひさいちの漫画で、選挙の際に候補者夫妻が人前ではにこやかに投票しますが、候補者の夫は当然自分の名前を書きますが、妻の方は、「はげちゃびん」と書いて投票する漫画があったな、まったく、永遠のすれ違いであり、怖いところですね。
また、世の夫婦と同様、年がら年中角突き併せているばかりでは、夫婦ももたない、やはり、時折、こどもを通じてのやり取りや、友人などの来訪など、様々な場合に、気持ちの交流くらいはあるかも知れないところです。彼の著書にも、こどもを観察し、家族の日常生活をユーモアを持って思いやる場面はいくらもあることです。
妻のヒステリーは、自己を強い、自分を厳しいところに追い込むしかないような漱石に一息つかせる良い機会になったとも言われています(吉本隆明「夏目漱石を読む」(2002年筑摩書房)などの一連の著書)。文字どおり、われわれと同様に、大文豪夫妻も「割れ鍋に綴じ蓋」なんですね。このたびのドラマにおいてもそのような事実認識と、全体としての視野と溜めのようなものが必要じゃないのですかね。

 学生時代、サークルで「結局漱石の何が好きなんだ」という問いかけに、即座に「門」という回答をした先輩がいましたが、「世間から脱落し、二人で片隅に身を寄せながら、つましくいたわり合っていく姿が良いよ」、といっていました。彼も、自分の人性でそれを実現していれば幸せですが。
私にとっては、国民的作家、漱石の「吾輩は猫である」という小説を、中学生時代に数えきれないほど読んだ覚えがあります。それこそ、観念の過剰性と余剰の奔出のように、猫の、漱石の怪気炎を、人間社会の理不尽と不合理に対する呪詛とを、あながちウソでも冗談でもないその真情(?)と本音 を、 何度も何度も読み返したところです。わが、「天道公平」君も、本名は、主人公苦沙弥先生と同窓の「立町老梅」君らしいのですが、きわめて強烈な読書体験でした。

吉本隆明が、前出の「夏目漱石を読む」で指摘していましたが、魅力的な女性の造形です。「門」の中で、妻のお米は、夫が秘密の懊悩で鎌倉の参禅体験から失意で帰ってきた際に、何も聞かずに「・・・わざと活発に「後生だから、一休みしたら銭湯へ行って髪を刈って髭を剃ってきてちょうだい」」と迂遠なところからいたわり、夫を送り出します。これはやっぱりすごいですね。夫の苦悩と、自分たちの足元の地獄(不貞により駆落ちをした相手の男が現れるかもしれない状況)をうすうす察知しつつ、夫に泣きつくでなく、一人でやり過ごしながら、迂遠なところから夫を気遣う妻の姿は、漱石の実生活ではなかったかもしれません(私の実生活になかったかもしれないので、余計なことですが)。
 これが漱石の虚構であったとしても、漱石ほどの人になれば、日常生活の中でさえ、必ず、どこか偉いところを見せた筈と、私などは確信します。そうでなければ、いくら権威や学識があったとしても、彼に私淑するように学生や弟子があれだけ参集するはずがない。
夫婦の一方は、優秀な学生たちが集まったでしょうから、「彼岸過迄」の千代子のように(あれはまだかわいいところがあるかも知れないが)、我が家の息女について、実用本位(?) で品定めをしたかもしれません。彼が社会的な側面で(家族以外でということですが)個々に他者に向き合った際に、彼の病気の症状を見せたとは思えません、たとえ、彼が頑固な明治人で、時に短気で、かんしゃく持ちであろうとしても。
このたびの漱石特集では、夫人の立場や、当時の時代的・社会的な視点からみた、などというドラマがいくつかありましたが、私には、彼らが扱う「社会的な側面」や「夫婦愛」とか薄っぺらで、面白いものがなかった、と感じます。文学者(芸術家)も、実生活では平凡で矮小な存在かもしれない、しかしながら、文学者(芸術家)がその表現で、実生活を超えていなければ、文学に何の意味があるのか、ということでもあります。
漱石の「暗い立派さ」といったのは「吉本隆明」ですが、このたびその立派さをとは言わないが、漱石に非凡な芸術家としての深みが視えなかったように思われました。
具体的に、NHKのドラマでは、漱石のかかえた、闇が、懊悩が、ドラマの中で出ていなかったのは、大変残念でした。少なくともその奥行きがないドラマなど、私は認めない。
一方、尾野真知子さんがとても良い女優なのは承知おきですが、彼女は、「二百十日」の糸子や、「門」のお登勢のように、友人や、夫の気持ちをおもんばかり、そっとふるまう、察しと、思いやりのある女性を上手に十分に演じたはずです。それが、虚構だとしても、見えなかったのはとても残念です。また、鏡子夫人の役ではそれ無理にしても、その他の女優さんで、その漱石の理想の女性像がでてもよかった、と思われます。
自己の生い立ちと、西洋社会や西洋文学そして日本近代とがっぷりと四つに組み合い、格闘の末、ばたりと倒れたような、漱石の生涯は、私たちが評価せざるを得ないところがあります。ご一新により、いやおうなく押し寄せた、激動期に、自己からも、日本社会からも、異質な西洋と西洋文学からも、決して逃げなかった、漱石の「暗い立派さ」は称揚するしかないではありませんか。
江藤淳ではないですが、「漱石の悪口を言うのならおもてに出ろ!」と啖呵をきるだけの、えらさが確かにあるのです。

漱石の「暗い立派さ」について言及したい(まず、「江藤淳」から) その1

2016-12-16 20:32:06 | 読書

今年は、夏目漱石逝去後100年に当たるという年であるそうで、殊にNHKでは、国民作家夏目漱石に関わるイヴェント(まさに「催し物」です。)を波状的にやっており、その特集は、「テレビっ子」(昔、こどもはそういわれていました。)の私としては、いやおうなく目に入ってまいります。
そういえば、従前、たまたま図書館で請求して、明らかに紙の色と質が変わった、明治期に出版されたのではないかのような「漱石の思い出」(松岡譲・夏目鏡子著)を開架で貸していただきましたが、あの有名な(?) 本は、久しく出版がないのか、とびっくりしたことがありましたが、しかし、その本が、このたび、驚いたことに文庫で出版されていました。
長年の雌伏(?) を経て、今年は、久しぶりに文豪が脚光を浴びる時期なのでしょう。また、このたびは、むしろ、文豪の本業に厭いた方々が「文豪の妻の言い分」に、着目することとなったのでしょうか。

さて、迂遠なところから始めますが、学生時代、私には江藤淳という評論家が、その保守的(なんと懐かしい。)な言動、いわゆる左翼・進歩派に対する無頓着で冷たい視線など、当時保守反動の権化であるように思った印象があります。
殊に「海は甦る」(1976年1部・2部刊行)など、近代、明治期の彼の親族、海軍高級軍人を起点として同時代に関わる明治期近代の日本国の勃興期を描いた小説など、当時、「あんたは、それだけ(偉い)自分の血脈が大事なのか」と反発すら覚えたところです。江藤淳の「漱石論」で引用された、漱石の学童期の「決して無用の人となることなかれ」(小学読本(漱石の小学期時代の教科書) からの引用と聞いている。今思えば味わい深い言葉です。)は、それより前に、仮に「国家」という限定詞が入らなくても、当時の学生の共感を呼ぶとはとても思えないところです。
当時において、文芸評論家としての「成熟と喪失」(1967年)など興味深いと思ったにせよ、当時大多数の学生たちには受けなかった、乗り越えるべき「批判的題材」としてとらえていたことをよく覚えています。
当時の自分の正直な感想とすれば、「歴史」といえば戦後にしか射程になく、せいぜい戦後に関わる戦争期(太平洋戦争)への関心程度しか、考えたこともなかったところです。
しかしながら、彼の労作「漱石とその時代」(1970年、1部・2部刊行)だけは、その内容に惹かれて、その後刊行の間隔が空き続巻に至っても、ずっとフォローワーを続けておりました。
当時の私にとっては、明治改元の前年に生まれた(1867年)、漱石が、文学の伝統もなかった、いや国家・社会の基盤すらまだなかった明治近代において、先験的・理不尽に与えられた西欧文明に抗し、日本の文学者として、いや日本人として、自分をいかに確立しようとしたのか、対外的には西欧列強と、国内においては、明治の世相と社会の中で、漱石の資質に拠り、人性と、文学者として彼が不可避的に戦わざるを得なかったものとの戦い、同時に彼を巡る同時代の人々の苦闘と併せ、考慮すべき価値とそれに対する興味は十分にあったところです。
江藤淳のこの本には、いやおうなく、大転換期に居合わせた近代人(歴史に名を残す方々ばかりですが)の苦闘や奮闘またその挫折と敗北が活写されていたことでもあります。著者として、資料を集めるだけで大変だったとも思いますが、ところどころ、彼も父祖をも対象となる、この作業が楽しかったのではないか、と伺われるところもあります。
今の年齢になって、初めて、私にとってのごく個人的な日本国の「歴史」とは、「父祖の生きた明治以降」と拡大してしまいましたが(それ以外にはなんとなく親近感も責任をも持てないので)、先に、評判となった、NHKの歴史ドラマ「坂の上の雲」の連作(2009年から2011年にわたり3部作で放映)に真剣に見入ってしまったことをよく覚えています。
いつの間にか、好きか嫌いかで言うと、自己の信念に対する妥協を拒み、敵を作ることを恐れず、結構喧嘩っぱやかった彼の評論活動と人性に対する取り組みを含め、保守的な評論家としての江藤淳もそれほど嫌いな人ではなくなりました。一度、図書館貸出しのカセットテープで、彼の声を聴きましたが、まだ若い時代であったのかもしれませんが、若々しく明瞭な聞き取りやすい声で、同様にカセットで聴いた江戸弁でしゃべったといわれる小林秀雄の、実際は、せかせかと聞き取りにくい声と比べて、はるかに「良い」声でした。
その後の、私自身の「転向」(押しなべて左翼への決定的な幻滅)を経て、歴史認識をも改めた私にとって、文芸評論家江藤淳(1932年生まれ、1999年自死)が、何故、勝海舟を含め、幕末から明治にあれだけ執着したのか、よくわかるような気持ちとなりました。
勝者側に廻った勝海舟が、不平幕臣を抑えつつ敗者側に廻った西郷隆盛の慰霊と追悼に自作の歌碑の追悼碑を建立したというエピソードから始まる、「南洲残影」では、国家存亡の時期に西欧化を強いられ、江戸期を切り捨てざるを得なかった人々の近代の悲しみや当時の日本人の大多数が抱いた敗者への哀惜や同情など、見事にすくいあげられていました。この本は、江藤淳にとっても、彼の父祖を含めた明治期(一般大衆を含みます。)への哀悼や追想など過剰な感情移入というべきものがあり、そののち六十有余歳で自死した、江藤淳への鎮魂歌のようにも思えるところです。

「にほんごであそぼ」について(「ちーむ・をとめ座」の新たな取り組みはとても良い)その2

2016-12-09 21:16:58 | 映画・テレビドラマなど
「若い」娘の年齢や、顔つきの違いすら判別できなくなったのはいつからであろうか、と自分に問うてみます。それは、究極的に男としての「若さ」を失ったのかと、自分を懐疑するところではありますが、いい年をした某政治評論家も、「AKB48」の支援者であるとも聞き及びます。私にはあの男が、群舞する彼女たちを、個々に認識できるかは、怪しいものだとは思いますが、まあ、確かに、見る立場の年齢性別を超え、大舞台で若い娘の群舞を見る快感というのはありますね、あたかも観るわれわれが、擬制の「大将軍様」になったように思われ、実際のところ、彼女たちは「お客様は大将軍様」という感覚で、演じるのでしょう。しかし、NHKのBS放送で見ていると、最近は、どうも、チームごとにダンスが特にうまい子とか、楽器の演奏ができる子、とか、群舞のみならず、個々のメンバーの差異化も目指しており、なかなか、工夫の種は尽きないところです。
しかし、今更ながら、あの秋元康のプロモートはすごいですね、彼自身でそれぞれの地区やグループに応じ地域差異化したような持ち歌を大量に準備しており、年齢制限による選別と、「総選挙」という理不尽な評価による人事考課と人員管理で、質より量、量より質と、営業戦略とメンバーの切替えと展開を早くし、世論(?) の指弾を受けないように (?) 巧妙に延命しています。先の某政治評論家が、そのビジネスモデルを何故評価しているのか、私は興味がありません。しかしながら、こと秋元康に関しては、あの「夕焼けにゃんにゃん」(1985年から1987年まで放送)あたりが懐かしいところではあります。アイドルを、質より数、「個々の魅力から団体の魅力」に変えた、当時のあの取り組み (「おにゃんこクラブ」の 結成・運営) はとても新しかったところです。
実際のところ、私には、彼(秋元康)が、先のNHK朝ドラ「あまちゃん」の秋元康のパロディである「太巻」役の古田新太のイメージと、重なってしょうがないのですが。

 ところで、このたび、「ちーむ・をとめ座」の新たな取り組みが始まりました。
 古歌、「仮名序」(かなじょ)に載せて、このたびはセーラー服で群舞する彼女たちです。先に、私、個人的に、「をとめ座」のメンバーが将来どうなるのだろうかと思案しておりましたが、このたび見事に、その「進化形態」を見ることができました。
 
 「かなじょ」(古今和歌集 仮名序より)、という新シリーズです。古今和歌集の編者であったといわれている、「和歌とは何か?」に対し、答えた古今和歌集の4人の編者の内の紀貫之の作といわれている、コメントだそうです。

「やまとうたは 人の心を 種(たね)として よろずの言の葉(ことのは)とぞ なれりける 」、とてもいい出だしです。

 そして、「天津風(あまつかぜ) 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」、と和歌が入ります。

 彼女たちの歌踏は、あれは大正時代なのか昭和初期のコスチュームなのか、紺のネクタイと紺のスカート、白いセーラー服の女学生のスタイルで、前髪を切りそろえたおかっぱ頭で、黒い長ソックスを履いた彼女たちが、踊るわけですが、少し、衣装が彼女たちには大きく見えるのがご愛嬌です。たぶん、この衣装は、明治期までは遡及しないのでしょう、大正期以降、近代の「夢見る乙女」の立ち姿です。今回もとても上手な振り付けです。ほれぼれしますね。この前まで、小学生の筈(?) だった彼女たちが、あの髪型で踊るのは、まさしく、進化形態ですね。「天つ風 雲の通い路 吹きとじよ をとめの姿 しばしとどめむ 」(僧正遍照)というあまりに有名な和歌に乗せ、軽やかに彼女たちが舞うようです。
 あれは、「女」でも、「女児」でもダメなんですね、まさしく、境界を生きる、あえかな「をとめ」の舞いです。彼女たちは、ちょうど、彼岸と此岸の境界上に立つ非性の存在かもしれない、(私にとって)実に好ましい姿です。
 振り付けは、ラッキイ池田さんという方で、才能ある人と思われますが、彼女たちは、舞いの途中でふっと消失したり、またあらわれたりと、雲の通い路に浮かぶ、まさしく人外の舞いなのです。ところで、最初に彼女たちの衣装にセーラー服の採用をした人は、つくづく慧眼の士であると思われます。衣装は「ひびのこづえ」という人だそうです。彼女たちの外見の印象を挙げれば、総じて、「スウイングガールズ」に出ていた、ドラムスの女子(豊島由香梨)によく似ています。     

 引き続き、
 「うぐいす かわづ(かじか蛙) 生けとし 生けるもの いづれか うたをよまざりける 力をも 入れずして 天地(あめつち)を 動かし 目にみえぬ 鬼神(おにがみ)を あわれと思わせ 男女(おとこおんな)の 中をもやはらげ(やわらげ) 猛きもののふの心をも なぐさむるは歌なり  やまとうたは 人のこころを 種として よろずの言の葉とぞ なれりける」

 実に良いですね。また、その背景は、「月は東に日は西に」の情況なのか、向かって右手に、月のかぶりものと衣装を着た、おおたか静流がたたずみ、左に男女(おとこおんな) を超越する(?) 太陽役の美輪明宏が控えます。中央では、尺八(篠笛)の万能演奏家藤原道山が例のシュールな被り物付きで演奏しています。

 ツボにはまった時のこの番組の催しは本当にすごい、と再度認識しました。
 「かなじょ」、伝統ある日本国固有の文化の中で、をとめたちの、天女のごとき歌踏とその立ち姿はとてもよい、と、今回は、何度もべたほめです。

当面・東京オリンピックまでは生きていたい(希望の表明)併せ「山口茜選手」礼賛

2016-12-05 20:47:55 | スポーツその他
先に「今年の夏は、殊に西日本は7月中旬の梅雨明け以降、連日、波状の熱波で、耐えがたいところであり、極力、日中は戸外に出ないようにしていました。おりしも、8月5日より、リオデジャネイロ・オリンピック大会が始まり、自然自然に、自宅で当該競技の様子を見守ることとなりました(8月リオ・オリンピック)。」、と書きましたが、現在、日本国はなんと寒くなったことか、先日の関東地区の記録的な早期の初雪(11月24日)であり、本州最西端のわがY県の一日の最高気温も10℃の前半を超えることもなく、何と気候とそれに付随する人間の感覚とは、当てにならないことよ、と私のみならず、われわれの多くが感じるところであり、このような些末な自然の天候にさえ私たちは有形無形の様々な影響を受けるような気がして、興味深いものです。
ところで、先のオリンピックでは、卓球女子を礼賛し、女子バトミントンダブルスチームをほめそやしましたが、このたびそれに盲点があったことを気づきました。
リオ・オリンピック、バトミントンシングルス、ベストエイト敗退の、標記の山口茜選手(19歳)です。同国対決で、銅メダル取得の奥原選手に敗退したので、彼女のその特徴的な(?) 体型は印象に残っていましたが、ほかにはあまり印象に残りませんでした。当時、ダブルスの、「高・松コンビ」(高橋選手(25歳)と、松友選手(23歳)のペアです。)の印象が強かったことも、確かなことではありましたが、うっかり看過してしまいました。
このたび、2016年のバトミントン全日本選手権が、昨日(12月5日)、一昨日と行われ、「高・松」コンビの、調子が悪いなりに勝つ、ねばり強い優勝はもちろん見ていましたが、今回においては準決勝、決勝と、山口茜選手(19歳)の活躍を、このたび見させていただきました。
彼女の第一印象は「金太郎」みたい、というところでしょうか。競技の性格のせいか、比較的手足の長いほっそりとした女子選手(美人も多い。)の多い、バトミントン選手の中で、彼女の、一見幼児体型のような外見と、実はその筋肉質の体格はきわめて目立っています。また、彼女の白面の表情はのっぺりと無表情で、ピンチでも、勝利しても決してその表情を決して崩さず、まるで、かつての大相撲競技者時代の「北の湖」のようです。ふてぶてしいまでに強く、がちんこ横綱と呼ばれていた彼は、勝っても負けても表情を崩さず、平然と勝ち続けていました。ただ、燃えたのは、マスコミ人気の高く名門部屋出身で美男力士であった先代大関貴ノ花(若乃花・貴乃花の父親)との対戦の時でしたが、寡黙で、実力派の横綱らしく、この時とばかりその真価を発揮し、いつも最期に打ち倒し、判官びいきや、軽薄な婦女子の怨嗟のもととなりました(貴ノ花関は、貧しい家庭に生まれた彼(北の湖)の対極の存在だったのか)。あれは、当時の軽薄な社会通念への挑戦のようにも思われたところです。今の大相撲を観れば、隔世の感がありますが、「強いものが勝つ」という勝負の現実を彼はきちんと証明してくれました。その仮借のない実力で、当時の、好角家の厚い信頼と支持もあったことも申し添えます。
解説者が言っていましたが、バトミントンの競技者として、表情が変わらない(動揺を表さない)というのは、狭いエリアで競技をする選手にとって極めて大事な資質なんですね(松友選手のクールビューティも根拠があるのですね。)。また、彼女の筋肉の質は、男子選手に匹敵するし、そのショットは、目を見張るものである(天才的な)し、彼女はむしろ、個々の局面での勝負よりもその瞬間の演技の良し悪しに関心がある、と、べたほめの解説(陣内元選手)でした。また、解説者からそのような言葉が出るのであれば、競技者としてまじめで謙虚な選手なのでしょう。
あの狭いエリアの中で、瞬間的な動きをするのは、テニス以上に反応速度と瞬発力が要求されるところですが、その難しいショットを素晴らしい演技で実行します。やっぱり彼女は天才なんですね。あの短く太い手足と、ずんぐりした上半身で、どうしてそんなに早く動けるのだろうという意外感の中で、彼女は、縦横無尽、前後左右に、コートの中を駆け巡ります。よくいえば、俊敏な小熊のようにかわいい姿です。バトミントンは、当然卓球と同様に予測能力が大きく必要である競技であろうし、各選手の瞬間瞬間のその緊張は測りしれないと思いますが、彼女は平気(平気そうな)な顏をして、身構え、反応し、彼女の同僚の選手と比べても異質であり、その特異さが際立っています。しかし、インタビューに際しても雄弁ではなく、私の印象では、とつとつとしており、やはり北の湖を連想させます。すでに高校生の時に全日本選手権を取ったということであり、もともとその実力は際立っていたのでしょう。
このたび、決勝で対戦した佐藤選手は、ロンドンオリンピック代表でありながら、けがで、リオ・オリンピック出場を逃したということで、最初から、まなじりを決して戦っており、今回は、戦略的にも、気迫も、山口選手より、一枚上手でした、「私は挑戦者である」というところで、おびえず、おごらず、2セットを強い気持ちで戦い抜きました。かたや、山口選手は、やはり天才肌なんですかね、意外にもろく、2セットのストレートで負けてしまいました。彼女は、先のオリンピックで、同国対決で負けてしまい、初めてくやしなきに泣いた、ということであり、それ以降、競技者としての取り組み方が変わったということでもあるので、今後は、勝負にもっとこだわってほしいですね。過去においても、素晴らしいプレーをしながら、グランドチャンピオンについにはなれなかった、天才的なアスリートも数多いことです。
彼女は、その素のキャラクターによって、今もそれなりの人気を得ているでしょうが、競技者時代の「北の湖」が、当時その愛想のなさと、その背後のまじめさと努力が最後には認められたように、時折見せるかすかな笑顔と、右目じりのなきぼくろが意外にかわいい、山口選手ですが、抱き上げてやりたい金太郎というイメージですかね、今後私は競技者としての彼女の鍛練と成長を期待し、4年後を楽しみにしています。