天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

斎藤洋(児童作家)の面白さについて論じること

2016-02-22 21:31:09 | 読書ノート(天道公平)
 我が家では、一家全員で、童話作家斎藤洋さんの童話を愛好してきました。うちの長男が、保育園に行くころから(昭和61年ころから)、自営業であった妻に変わり、暇であった私が、毎晩、寝る前に、絵本の読み聞かせをしておりました(当時とても楽しかった覚えがあります。)。当時の保育園では、園児の年齢に応じ、「ひかりのくに」とか「こどものとも」とか費用徴収をして絵本を配布していました。
 単価が高かったので、保育園での配付はなかったのでしょうが、福音館の「こどものとも」、「かがくのとも」、「たくさんのふしぎ」など忘れがたい、子ども向け月刊誌がありました。殊に「たくさんのふしぎ」は今もばっちり保存しておりますが、昆虫や動物、自然現象に関わる最新の情報に更新された自然科学などの新情報やその傑作集は、私が読んでいた社会科学系での著者の作品に至るまでも少なからずありました(「夢ってなんだろう」、「鬼が出た」、「びょうきのほん」など)。
「かがくのとも」などは、文章、写真、イラストも秀逸で、限られた予算で極めて質が高く気鋭の若い著者、作家も多く、こどものとも誌に、現職の動物園(旭山動物園)の飼育係(著者「あべひろし」さんなど、こどものともの付録に、手書きイラスト及び手書き文章で「どうぶつ新聞」が毎回ついてました。)など、様々な方が執筆していました。

「子供が科学に興味をいだけなくなるのは、(国の将来にとって)末期的なこと」と、どなたかの著書で読みましたが、私も、深く共感します。民族語、日本語でこんな素晴らしい子供向けの本が読めるのは極めて幸せなことです、子ども向けの出版がこれほど質が高いのは、日本と日本人にとって誇るべき文化といっていいと思います。それは、貧困、階級(?)や、社会階層を越え、貧民の子供でも読み書きができ、「志」と自己努力そして周囲のいくばくかの幸運な働きかけや支援があれば、多くの子供に、自分で思うより高次の自己実現が出来るという、救いのあり方を担保していると思われるからです。まさに、「自立心」の自己確立を助けるのですね。
 ところで、こどものとき読んだ本というのは、一生を呪縛されるような(「読書せざるを得ないように呪われる」というような)場合があり、その意味、とても切実で、怖い場合もあることを承知おく場合があるかもしれません。それこそ、後知恵になりますが、無媒介でいいですが「明るく楽しく正しいだけで世界は出来ていない」ことを、教えてもらったのは、私にとっては主に読書からであろうかと思います。

 前置きが長くなりましたが、こどもと始めた読書として、その中でたまたま出会ったのが、斎藤洋さんの「ルドルフとイッパイアッテナ」という童話です。事故で、野良ネコとなった、ルドルフという子クロ猫の成長記と冒険物語なのですが、それこそ話体で、子猫がずっと綴る極めて楽しい物語です。教養小説でもあり、彼を取り囲む世界と、庇護者(ひごしゃ)となった、教養(本が読める)もあり、雄猫としての実力もある、「イッパイアッテナ」という野良ネコ(「・・・もいっぱいあってな」という決め台詞が名前の由来)です。その観察と、ネコ社会、人間社会の批評が鋭くまた面白く、大人も思わずニヤッとさせる傑作です。
 Eテレのファンの私としては、この作品が、後日、紙芝居のように動きの少ないアニメになり、毒蝮三太夫のナレートで夕刻に放映されたとき、うちの子供たちが、食い入るように眺めていたのを良く覚えています。このシリーズは、童話連作では今も続いています。

 斎藤洋さんは、極めて、多作で活動範囲が広い作家で、忍者もの「なん者ひなた丸」や、ユーレイ・妖怪もの「ナツカのおばけ事件簿」、「タカオのつくもライフ」、歴史もの「西遊記」、「白狐魔鬼」それぞれシリーズがあり、少年小説「K町の奇妙な大人たち」、「遠く不思議な夏」、ジュブナイル「サマー・オブ・パールズ」「ミスカナのゴーストログ」、不思議話「ドローセルマイアーの人形劇場」、「アルフレートの時計台」、SF「ルーディーボールエピソード1」「イーゲル号航海記」シリーズ、大人向けに思える「コリドラス・テイル」、数多くのすぐれた絵本もあり、あらゆるジャンルにわたり、多産で、柔軟かつ優れた物語作家の面目躍如という感じですね。たぶん、翻訳されても彼の著書は世界的にも通用するのではないかとひそかに思っています。

 彼のエッセイで初めて知りましたが、絵本の印税は、作家と挿絵画家と折半するとのことで、児童作家はその意味で報われないのかもしれませんが、作風ごとに良質な挿絵作家に恵まれ(使って)、良質な絵本を作っています。記憶に残るところでは、高畠純(白狐魔記)、杉浦範茂(ルドルフとイッパイアッテナ)、佐々木マキ(風力鉄道に乗って)、和田誠(空中メリーゴーランド)、物語と同時に、その特徴的な挿絵が楽しめます。
 私の調べでは、出版総数258冊という膨大な数の彼の著書ですが、つまらない前向きな政治的な発言もなく、登場人物ひとりひとりの考えやセリフも良く吟味されています。

 彼の物語は、「こどものためになる・・・」、「 ・・・の役にたつ・・・」などという課題図書などにまつわる過剰な倫理性やその裏かえしの通俗性、とは質の違ったユーモアで、よくある「良識」というバイアスに無縁なのは明らかです。むしろ、「面白ければ(いろいろな面白さがありますが)いいじゃない」という子供の健全性や、読書を通じて「・・・・・他者世界に対する想像力を養う」契機に至るまでの、レベルが保持されています。

 2015年に出版された、「遠く不思議な夏」という物語で、小学生の主人公が、北関東の母の実家に遊びに行く(1950年代の終わりくらいに思われる。)話で、こどもに昔話をするのが大好きな祖父というのが登場し、早熟な孫の鋭い突っ込みにも、話しをねつ造し、うまいこと言い逃れるという話があり、思わず笑ってしまいます。しかし、まだ、忌みごととか、たたりとか、キツネとか妖怪とかが出てきて、知恵づき不思議を半ば信じることのできる年頃のこどもの世界や、経済成長前期である、まだ夢のある周囲の農村の世界が活写されています。むしろ、わたしたちが懐かしく追想するような「遠く不思議な夏」なのです。

 彼は、良質な物語が、本当に、好きなのか、「西遊記」とかギリシャ神話とか海外童話の翻訳が多数あり、私にとって、とても懐かしい自然の王のようなアムールトラを描いた物語「偉大なる王」という翻訳小説もありました(小学校の時に黄色くなった古い版で何べん読み返したことか。)。落語ものとか、企画ものも多く、最近では、江戸時代の御庭番の女の子を描いた、良質の講談本の焼き直しのような物語も登場しています。つまり、彼は、彼の生活史に登場した、あらゆる読み物のジャンルを超え、それを置き換え、再度より面白く作り変えたいのかと、ひそかに思っているのではないかと推察するところです。

 実際のところ、翻訳は、適当にしていただいて、オリジナルの童話をもっと書いて欲しい、というのが、われわれの切なる願いなのですが。なかなか、シリーズものも続編が出てきません(個人的に、父子家庭の小学生の男の子の、つくもがみ(古くなった物に憑く妖怪)との話を描く「タカオのつくもライフ」の続編を読みたいところです。)。また、スターウォーズに触発されたらしい、「ルーディーボールエピソード1」の続編も早く読みたいところです。長編も十分に読みごたえがあるのですが、短編では、正義感にあふれ、父親にゴーストバスター(幽霊・妖怪退治屋)の定職をあてがい離婚家庭を修復しようとする、金銭的にも性格的にもちゃっかりした明るい女の子による「ナツカのおばけ事件簿」シリーズは、定期的に新作が出ているようですが。怪奇譚「ドローセルマイアーの人形劇場」、「アルフレートの時計台」も、不思議な話を扱いながらも、「こうあったかもしれない」というわれわれの人性を視野に入れた上質な読み物になっており、読後に余韻が残ります。

いずれにせよ、彼の本領発揮であり、特に秀逸と思われるのは、ペシミズムと上質なユーモアに彩られた「風力鉄道に乗って」、「空中メリーゴーランド」、「ぼくのおじさん」、想像力により物語はどのように紡がれていくかという思考実験のような(?)「アブさんとゴンザレス」(これはすごい。
)、こどもや大人の垣根自体をはるか高く越えたような、優れた、面白い物語です。やはり、物語とは想像力の産物なのですね。

うちの子供たちに読み聞かせたときからはるかな時間がたってしまいましたが、今でも彼らは、我が家の共有本棚から、適当に手に取っているようです。
斎藤洋さんとの出会いだけでも、こどもを持って授かった小幸福の一つです。

決め台詞、「いやー、いい童話本って本当に楽しいですね・・・」。

平成天皇陛下について(岡部凛太郎さんの投稿「「欺瞞の時代」と奪れた天皇」に関連して)

2016-02-13 15:15:52 | 時事・風俗・情況
岡部凛太郎さんという方の、美津島明氏編集「直言の宴」に投稿された、「「欺瞞の時代」と奪れた天皇」という論考を読み、若い世代(現役の高校生らしいです。)の真摯な考察に感服しました。しかし、私としては、多くは年齢の違いに帰してしまいそうで卑怯な言動になってしまいますが、氏の思考がとても気になり、また、そのブログにkkさんという方のコメント投稿がありましたが、その方の心情や考えにも歩み寄れるような気がしました。私とすれば、その方の考えに対するコメントを含め何か書きたいと思いました。
 しかしながら、いつものように、たぶんいたずらに長く冗長になってしまうように思われ、コメント投稿にはなじまないとも思いますので、私のブログでその内容について、申しあげたいことを書かせていただきたいと思います。
 今上平成天皇(そういう呼称が正しいかどうかも知りません。)の人となりについては、ほぼ私の父に近い世代であり、また、昭和天皇が長く在位されたことであり、自分の父親が煙たかったように、私は、あまり興味が持てませんでした。平成天皇とすれば、昭和天皇が幸いご壮健であり、日本国の有史以来の大敗北という苛酷な時代を経て、長らく、それこそ激動の時代を経て、経済的も復興を遂げた昭和期を長く生きぬかれたことは、父君としていただくには、大きな重圧(?) であったのではないかと愚考します。
 昭和天皇については、かつて吉本隆明が、対談の中で、「あの人が生きているうちは、私は死ねないと思っている」とか、述懐していたことを思い、戦中派の(天皇に対する)想念がアンビバレントで、複雑であったことを思います。
 長らく一緒に暮らし、戦争期(太平洋戦争)のことは殆ど語らなかった、私の祖父母も、皇室を思いやり、十分に尊王的でした。個人的には、無関心で、「既存秩序とはそんなもんだろ」と思い、大学に入るまでは「天皇及び天皇制」など考えてみたこともありませんでした。私のアドレセンス(青春期、発情期)までの道行きで、幼少期から、民放で「皇室アルバム」とか、明らかにアイドル番組のようにして、皇室の幸福なそして平凡で退屈な様子が放映されていたのも、その当時の自分の率直な気持ちに反映していました。
 三島事件のときは、高一だったと思いますが、知識人が、自己の理念に対し現実的に命を懸けることについては十分衝撃的でしたが、彼の檄文が、当時響いたかどうかといえば、田舎の高校生にはあまり影響はありませんでした。それが、当時の多くの人たちの社会通念というか雰囲気としてあまり間違っていたとは思えません。むしろ、しばらくして、村上一郎が、明らかに三島事件に呼応するかのように、頸動脈切断の自殺をした(1975年)ことに、私は決して熱心な読者ではなかった人でしたが、戦争を戦った軍人として、自己に殉じた行為として、当時の、いわゆる平和ボケ(?) の時代に背を向けたような、何か昏い記憶があります(昏い記憶といえば、吉本隆明に教わった、戦中の法華経系過激派宗教団体「死のう団事件」もその一つと思われます。)。
その後、三島由紀夫の様々な、私的な事情が明らかになるにつれ、澁澤龍一が述べていた、「友人三嶋は、エロスの極北の行為として切腹したのだ」、といったようなことも、分からないことはないと思った覚えがあります。
 大学時代(1974年~1978年)、当時の「反帝、反スタ」の隆盛の政治の時代においても、私自身は、天皇及び天皇家を積極的に敵と思えたかどうかについて特に感想はなく、ただ、大学のキャンパスのそばに京都御所があり(本当はその逆かもしれませんが(笑い))、皇宮警察が常駐し、二回生の中途から、電子警備となり、「(御所の周囲を流れる30cm幅くらい)疎水溝を越え、白塀に近寄ると、センサー反応で、あいつら出てきよるで」という話を聞いて、「つまらんことで税金を使いやがって」反発を覚えた思い出があります。当時、そのように考えたことが特殊であったとは思えません。多くの国民大衆はおおむね無関心であったのではないでしょうか。
昭和天皇の崩御を経て、ご闘病中に、私の義母、妻は、ご回復の記帳に参加させていただきましたが(言葉に、ちょっと「違和」を感じますが)、「まあ、寿命だからしょうがねー」、と私は参加しませんでした。

閑話休題、平成の御世になって、今上の天皇になられた、平成天皇が謙虚に勤勉に国務をお勤めになっていることは知っていました。我々の世代では、皇后美智子様とのご結婚のイベントは存じ上げなかったので、その後も、ひたすら、地味に、堅実であることを意識的に目指されているように思われました。また、二男一女をもうけられ、美智子妃を核としてそれぞれの育児に励まれ、親としても素晴らしい方であると思えます。後年、マスコミ会見などで話される彼らの様子を見ればよく分かります。

私が、今上天皇に、初めて、お会いした、と感じたのは、もちろん3.11の後のことです。
(石原慎太郎のような)周囲の諌言もあったでしょうが、私に最も印象深かったのは、厳しい日程の中で、自らを叱咤するように、個別の避難所を、目立たぬ普段着で懸命に巡回され、「時間がない」との側近からの制止もあったでしょうに、被災者に対し、子を亡くした、母を亡くした悲しみにより添うようにいつまでもひざまずかれたそのお姿でした。自分ながら不思議ですが、「かたじけない」というのが、それをみたときの正直な感想でした。万一、人智の及ばない大きな事件が起こった時に、国民の、その悲しみを受感し、共感していただく、というのが、大きな、陛下の仕事であることが良く分かりました。100年に一遍という大災害と国民の危機に、そのような仕事を直ちにできることが、今上陛下の偉いところです。さすがに、偏向したサヨク商業新聞を含め、批判記事は見当たりませんでしたが(ばかサヨクとして国民にふくろ叩きになったろうからなー)、バカの民主党(なぜバカかは何度も書きましたが)の首班菅直人が、被災した災害時におたおたし、急遽現場へ行くなど、愚かな行為や迷走を繰り返し、何より東北地方の住民大衆に対し、未曽有の災害に対し適切な善後策が取れなかったことに比べ、なんと見事な行動であったか、時間がたつにつれても、諄々と国民の胸に迫るような尊い仕事でした。
私が思う天皇陛下は、やはり日本国の祭司です。お布施を捧げずとも、政治的に力を持たないとしても(あるいはそのように振る舞われることを嫌悪されても)、大惨事に際しては、国民により添い、国民と一緒に悲しみ、ひそかに国民の幸せを望んでおられるそのような賢い方です。その意味で私は「国民統合の象徴」という言葉に対し、何の疑問も、違和もありません。
しかしながら、祭司は、当然その日常生活を問われます。国民はそれを見ていると思います。たとえば、イギリスのチャールズ皇子の、自己欲望の開放の次第を考えれば、わが皇室と明らかに異質であり、他国の王族は、私は好きになれません。少なくとも、私には、天皇陛下はそれと無縁と信じられるからです。新興宗教の俗な教祖は別にして、日本国最大の祭司に、そのような、醜聞があろうはずはないではありませんか。
昔から今に至るまで、天皇家の外戚(?) というか、皇族の方々の素行が同時に、幾たびも女性週刊誌の俎上に上がりましたが、そんなことがあろうと、同根の、皇族提灯持ち記事と同様で、何の興味も、違和もありません。
先ごろ「「シャルリ」とは何か」、というエマニュエル・トッドさんの新書が出ていましたが、信仰なき、祭司なき、ロールモデルも不在のフランスの状況をお気の毒と思いましたが、もし「シャルリ誌」が、他国の聖者モハメッドを侮辱したように、日本の天災による原発事故をおひゃらかしたり、万一、天皇家を侮辱するような風刺(?) があれば、上京して、フランス大使館(どこにあるのか知りませんが)に抗議しに行くことを考えます。日本国民を侮辱したと直感的にそう思います。天皇家及び天皇制は、日本にとって誇るべき歴史であり、危機において発動する誇るべき制度なのです。

私が思うのは、私はバカ左翼でもなく、天皇陛下が政治的に行動することを求めるわけでもない、ただの保守的な人間ですが、福澤諭吉の「帝室論」で、「社会秩序が乱れるのは、情誼にもとづく徒な対立にあるのだから、そうした信念対立が非妥協的になって恐ろしい事態を起こさないためには、人民の激した感情を慰撫する不偏不党の大きな緩和勢力がなければならず、それはあらゆる政治勢力を超越した、すべての日本人にとって精神の源となるような形をとっていなくてはならない。それこそが帝室の役割だというのである。「国の安寧を維持するの方略」ときっぱり言い切っている。」(「日本の七大思想家」中「第7章福澤諭吉」篇p449の、著者小浜逸郎氏の現代語訳篇から孫引き)、と論じられたように、近代以降、天皇制は論じられてきたし、
たとえバイアスのかかったバカでも国民は国民であり、信憑対立を超え、また制度は制度のみでは味気ないものであり、「かたじけない」、あるいは「勿体ない」と多くの国民に感じさせる祭司=人格者の存在は、日本国にとって是非に必要であると思います。

 私は、莫大な皇室財産を解放せよ、とか、まったく考えておりませんが、エコロジスト天皇家のおかげで、皇室財産という誇るべき日本の森や自然が古来のまま守られ、現在までに、無慈悲で没義道なビジネスにおける乱開発で、腐った億ションや、腐ったリゾートに変わらず本当によかったと衷心から思っております。

 しかしながら、君側の奸とまでは言いませんが、宮内庁の管轄での、箸墓などの古墳が、学術的な発掘も許されず、日本国の起源の解明につながっていかないのを大変に残念に思っています。
また、現在の日本国の皇太子も、気さくで、正直に思われる方であり、時々お見受けする、その人となりと、私の代ではまだ大丈夫(?) と、その温和な人間性に安堵しているところです。
岡部さんの論考とは随分違った安易なことを書いたかもしれませんが、こういうことを考える人間もいる、ということで理解していただければありがたいと思います。
 今後も、ラジカルで(昔流行った言葉なのですが)、真摯な、岡部さんの活動を期待します。

なぜ「浅見光彦シリーズ」は面白くなくなったのか(併せ村上春樹もなぜ面白くないかについて語る)?

2016-02-05 21:48:59 | 読書ノート(天道公平)
 この齢になると、少々の人の思惑や、周囲の感情も気にならなくなって(おやじ街道を驀進中)、いわば客気(かっき)にはやる学生時代のような心情と、環境的には家族内放置として、寄る辺のない状況に落ち込んでしまい、家族のうちでの「世間」の代表と、殊に娘と、意見の食い違いで、折に触れ、様々な問題で、厳しい対立を残さないように注意しつつ、適宜(?) にやりあっている今日この頃です。
 ところで、本日は、私の長年の愛読書(気分転換にとても良かったのです。)であり、推理作家「内田康夫」さんの標記のシリーズ作品について、考えてみたいと思います。
 皆さま、ご承知のとおり、浅見光彦シリーズ出版数は、昭和57年以来、115作9300万冊を超えるベストセラーとなっています。
 元々、私、本来推理小説は、創元推理文庫で中学生の時読んだエラリー・クイーン以来、高校で出あった、ハヤカワ推理文庫のレイモンド・チャンドラーから、大学の英語教材で知ったロス・マクドナルドなどの探偵小説くらいしか読みませんでした。1970年代後半の当時、私が読んでいた、村上春樹は、アメリカ現代小説で、ダシール・ハメットから、ロス・マクドナルド(いわゆる「ハードボイルド」というやつです。)に至りまた現代作家に至る系譜を良く問題にしていました。そういえば、彼(村上春樹)の語り(文体)がなぜ新しかったかというと、流麗なレイモンド・チャンドラーの比喩や知性ある(?) 言い回し、皮肉とユーモアをどこかで借りていたように思います。
 彼の著書でいえば彼のデビュー作、個別時代体験とその体験へのこだわり、それにまつわる感情の澱のようなものが詰まった「風の歌を聴け」から、「ねじまき鳥のクロニクル」くらいまでは、ハードカバーで買いつつ、日本の新しい文学の出現なのだとして興味深く、ついて行きました。
 殊に、今思い起こせば、オーム真理教のサリン事件後、彼が、彼自身に急かされるかのように書いた、1997年の「アンダーグラウンド」は、当時、とても感動しました。
 サリン事件の被害者を主に、インタビューの構成で作り上げられたこの本は、彼の本来の小説のモチーフと、浅原彰晃というマイナスエネルギーの極北の存在を対象化し、それと切実に切り結ぶような村上の背景が読み進むにつれ読者にも受感でき、そのカルト宗教のグロテスクな構造と誰もが意識化したこともないような本当に怖いわれわれの時代や社会状況が浮かびあがり、彼の営為は、同時代で、世界標準で考えても十分に批評に耐えきる、本当にいい作家なのだと、思えました。それまでは、「政治的・社会的発言」を慎重に避けていた村上春樹でしたが、この仕事で、作家として、あたかも私たちの「現在性」の問題に肉薄するかのようである、と感心した覚えもあります。
 私は、ここまでの業績で、あのカッコつき「ノーベル賞」を授与してもいいと思っています(私のとても好きな「蛍・納屋を焼くその他の短編」は当然入っていると思いますが)。

 しかし、その後、村上春樹の長編小説はつまらなくなってしまい、同時にエッセイもつまらなくなり、小説から離れたジャズ評論とか、音楽評論のようなものしか読まなくなってしまいました。その原因を考えるとすれば、こちらも馬齢を重ね、日常に埋没し、子育てや、家族や仕事との桎梏にかかりきりとなり、その否応なしの生活感性を自分自身の問題として媒介しようとすれば、多くの一般大衆のそんな切実な実生活上の悩みや痛苦の影響を受けないような(はっきり言って浮き上がった)彼の思考(例えば、村上春樹は自分で子供を作らない、と言ったような気がしますが、たとえば埴谷雄高のように観念上の意識的な行為として決めたかどうかは知りません。)は、時代(現在性)とは、かい離するようで、彼の著書が色あせて見えだし、また、何よ
り、大きな原因は、彼が、外国に生活・活動の拠点を移し、日本社会や同時代性や、何より大衆の「現実感覚」が繰り込めなくなったことが大きかったように思われたところです。
 特に、2011年の、3.11後の発言は、凡百の西欧人の視点・発言のみを意識し、日本人の実感と背反した、通俗的でしかないような発言に終始しています。「原発を選択したのは誤った選択だった」、なにそれ、誰が意識的に選択できた、あなたの選ぶ都市的な快適な生活は、安価で地方を犠牲にした安定供給される電気の保証なしにはあり得なかっただろうに。
 それは、フツーのおばちゃんに、「あなたはいいわね、外国に生活の拠点を移せて」と言われても言い返せない体たらくではないですか。あなたは、現代小説が翻訳できるほどの英語力を持ち(レイモンド・カーバーなどの翻訳は好きです。そういえば、名作「心臓を貫かれて」も彼の訳でした。)、外国で自己の翻訳本が売れているというかもしれないが、自分では民族語日本語で書きつつ、日本の市場をあてにしつつ、外国に行ってから、あるいは行く前から、しばらくあなたは、つまらない本しか書いてないのではないのか。

 かたや、日本にとどまった村上龍は、3.11の際に、彼の原則性を示したそれなりの発言と、(外国新聞への寄稿、「桜の木の下には瓦礫が埋まっている」という著書)その後も、それなりに表現行為を続けています。時々、つまらないポカをやるにしても。

 村上春樹様、あなたのファンはまだまだ日本国に多いでしょうが、あの大江健三郎のようにノーベル賞を受賞したとしても、「昔はよかったけどねー」、でも「今があれじゃねー」といわれないように、今後も「ノーベル賞」欲しさに、バカな政治的迎合発言をしないように気を付け、思い直して、また、良い小説を書いてくださいね。

 「浅見光彦」の推理小説から大きく逸脱しました。
 私は、内田康夫という、決してノーベル賞を受賞しないような、日本の推理小説作家の、浅見光彦シリーズに、私の生涯での相対安定期(今振り返って比較的穏やかに過ごせた日々)というべく、30代の半ばで出会いました。
当時、今よりもっとお金がなかったので、古本屋で、100円(まだ内税だった。)で文庫本を大量に買い込み、乱読しながら、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。
 私は、本来ハードボイルド好みですから、基本的にトリックとか推理の組み立てとか、あまり興味がありません。彼は、最初から、構成とか考えずに行き当たりばったりに書き始めるといいます。最初にプロローグを入れるが、どこへどうつながるかわからない、とまで語っており、たぶん、読者としても、その謎解きに過剰な期待はしていません。
 内田康夫のシリーズは「○○伝説殺人事件」とか、過去の敗者の歴史や、日本各地の地勢的な特殊性に根差した小説が極めて多いのです。同時にマスコミを騒がした社会的な事件も多く扱っています。その過程で、過去の因縁が形を変えて、現在の人間や家族を呪縛し、血塗れた歴史を繰り返すというのはパターンですが、彼の小説は文字通り、「北は北海道から南は九州沖縄まで」日本全国(1999年に沖縄で完了)を網羅し、その熱意と、それぞれの地域の歴史などとの綿密な調査と構想力との混合は感服するほどのものです。
 私の住む山口県でも、小説の細部を見ると、原発建設予定地そばの島(祝島)での、対岸の原発建設反対運動とその島の平家の落人伝説をテーマにした「赤い雲殺人事件」や、あの血液製剤汚染事件で厚生省のでたらめな安全対策に加担した帝京大の安部先生をモデルにした「遺骨」では、長門市の戦後の満州・朝鮮からの引揚げ船の悲しい歴史とか、また犯人が大分県姫島から、電車も何もない時間にモーターボートを使って山口県徳山港に逃れるなど、地勢を認識した山口県民には良く分かりますが、その着眼は素晴らしい「姫島殺人事件」、など、また、安倍晋三首相の先祖が、日本海を経由して青森の十三湊の安東氏の系譜に至るもの「十三の冥府」など、様々な場所と様々な歴史に、その舞台を借りています。これは、多くの読者の、それぞれの故郷地方も同様に証明できるのではないかと思います。
 彼の小説は、読み進むにつれ、彼自身の戦争体験(疎開、空襲被災体験、飢餓体験、価値観の変動体験)がとても大きく思われます。彼の、こども時代のル・サンチマン(弱者の怨念)や後ろめたさは、学童として、悲惨な体験を経た、戦争体験により培われた比重がとても大きいように感じられます。彼は、縁故疎開というのか、家族の知人のいる田舎に避難して助かったというか、下記のように、東京大空襲などで被害にあった友人たちにも大きな負い目があるようです。また、登場人物の多くが、自分の幼児・学童体験にとてもこだわり、それがまたプロローグにつながるのですが、それがまた、内田康夫の資質につながっているような気がします(「沃野の伝説」の欠食児童の逸話)。
 そのうえで、「正義」の問題になるわけですが、彼は、一貫して、戦災や、社会的な事件で被害に遭い、死んでいったとき、被害者として一般大衆はどう振る舞い、どう犠牲になったか、その歴史や状況を丁寧に描いています。ひたすら、謎解き、トリックに執着するような、推理小説とは縁遠く、浅見光彦に言わせていますが、どのように、(一般庶民のレベルで)「正義を実現する」かに、大きな注意を払っています。その控えめな正義に、共感します(子ずれ母子(?) クジラというか、日本の捕鯨をめぐる述懐にはどうかなと思ったが。「鯨の哭く海」)。

 (このたび浅見光彦シリーズが完了(最終話)してからインタビューに答えた著者の言葉)
「僕は反戦を声高に言う作家ではないが、戦争の記憶がある最後の世代として戦争のことを書いておいた方がいいと思った。終戦の年、僕は小学5年。当時の中学生は工場で働くなど多少なりとも(国の)お役に立ったが、僕は学童疎開をしていた。負い目があるんですね。だから僕自身の節目にもなる作品を書くに当たって、自然と戦争をモチーフにすることになりました。小説ですが、歴史的な事実も読者に伝えたかった。」

 そして、浅見光彦に語らせていますが、「私の行動原理は「好奇心」である」、と。殺人事件に出くわし、そんなセリフで、被害者の家族などのひんしゅくを買います。浅見光彦は、33歳で、育ちの良い、ハンサムで温厚な男ですが、作者と同じで、酒が飲めず、美味しい食べ物に、とても執着します。これも、内田康夫の戦中の飢餓体験が大きいようです。また、狂言回しとしての、浅見探偵の本職が、「旅と歴史」社の契約社員というのが、象徴的です。

 ちなみに、私の選ぶ、浅見光彦シリーズランキングを挙げていきますと、
ア 箸墓伝説、イ 化生の海、ウ 十三の冥府、エ 江田島殺人事件、オ 沃野の伝説、
カ 鳥取雛送り殺人事件、キ 平城山(ならやま)を越えた女、ク 天河伝説殺人事件、
ケ 氷雪の殺人、コ ユタが愛した探偵、サ 鐘、シ 透明な遺書、即座に、様々な作品を思い浮かべます。殊に、「箸墓伝説」は、作者の国文学に関する資質・教養なのか、折口信夫の死者の書のプロローグから始まり、卑弥呼の墓ともいわれる発掘不能の古墳の盗掘に絡み、戦争中の学徒動員兵(あの
「無言館」も出てきます。)たちの戦争と当時のアイドルをめぐる青春の葛藤、そして後年のその碩学の考古学者の殺人事件から、過去に種をまかれた連綿と続くおぞましい、愛憎や、悲しい情念が浮き彫りとなります(映画のまずいキャッチコピーみたいですね。)。
 また、最期は、なぜなのか発掘と干渉を望まない、宮内庁の箸墓隠ぺいで幕が下ろされるのです。また、彼の執筆中に、例の「神の手」と言われた、考古学者の歴史捏造事件が摘発され、作者の言い分ではないけれど、天啓のような事件もありました。浅見光彦の、いや内田康夫のそのごく普通で良質な正義感に、読者は動かされます。
 私のランクした本のどれをとっても、それを契機に「浅見光彦ファンクラブ」に入りたいようなできばえです。私の記憶が確かであれば、亡吉本隆明の奥さん、亡吉本和子さんも、愛読者の一人ではなかったか、と思います。

 ところで、浅見光彦シリーズも変質していきます。
 内田康夫氏は、日本全国の旅達者でしたが、1999年ですか、豪華客船飛鳥に乗って、外国旅行に行きました。
 それ以降、元を取る(旅行費用を補てん)するためと称し、外国を舞台にしたシリーズを書いていますが、それ(「上海迷宮」、「イタリア幻想」その他)が面白くありません。
 やはり、国情というか、生活感性というか、庶民=読者と、歴史や生活体験の同一を前提を同じにしないと、その評価は困難であるかもしれません。その後の、山口県を舞台にした、「汚れっちまった道」、「萩殺人事件」などにも精彩がなくなったように思われます。
 なぜなのか、と考えてみましたが、内田康夫は読者を大切にする人ですが、彼が外国シリーズを書き出したのは、読者が日本国の旅情ミステリー(そのように区分けされています。)に飽きたのか、日本国に対する関心が薄くなったのか、良く分からないところです。ただ、どこの地方も疲弊し、独自の歴史と文化を失うような、日本国中の、良いも悪いもなく習俗や伝統の喪失が、経済の疲弊とともに間接的に影響しているのでは、と思うところでもあります。

 浅見光彦最後の事件「遺譜」というのも、米欧発のグローバリズム(新帝国主義、無慈悲な資本主義)に、安易に迎合しているようで好きになれません。ナチスの文化破壊によるヨーロッパの非アーリア人の芸術絵画を当時の良心的なドイツ人と日本人が協力して、日本に隠匿したストーリーなど、現在のEUの圧倒的な覇者であり、また十分に反日的な国ドイツは、「本当はヤな国だよな」、と誰かが思えば、この本も嘘っぽくて、皆、読まなくなるでしょう。何も、小説の中にまで、架空の嘘っぽい国際親善を持ち込むことはないのです。

 しかしながら、まだまだ、日本国に、地方と興味深い独自の文化・歴史は残っているのじゃないですかね。
 浅見光彦さん、あなたまで下劣なグローバリズム(世界均質主義)に秋波を送る必要はない、あなたは「思いやり」と「察し」の文化のある日本国で、育ちのよい、他人に親切な、お坊ちゃんでいい、と私も思います。
 たとえ、グロテスクであろうが、悲劇であろうが、体を張って、神の代行者のように、何より自分自身に強いられて「真実」に全力で迫る、リュー・アーチャー(ロス・マクドナルドの探偵小説の主人公の探偵、最近忘れ去られたかもしませんが、村上春樹と同様に私もとても好きです。)を、私は決して嫌いではないが、あなたには、それは向かない、あなたの読者もそれを望まない、と私は思います。

 探偵小説の探偵は、それぞれの国情(?) に応じ、独自路線を往くべきで、いわば国の数だけでも必要ではないでしょうか?私、例えば、現在の国家としての振る舞いをみて、フランスは嫌な国だと思いますが、メグレ警視シリーズはとても好きです。

 浅見探偵がまた、別の、日本を舞台にした優れたシリーズで復活するのを望みます。多くの読者も、また日本人としての「正義」が実現されるのを望んでいるのではないでしょうか。

拝啓 (株)ジェイシービー様(その「不道徳性」の認識から、「さだまさし」に及ぶ考察)その2

2016-02-01 22:36:54 | 時事・風俗・情況
 かつて、私の趣味でやっている、職場クラブ活動、英会話クラスに、ケニア人の女性を講師としてお願いしていたことがあります。
 彼女は、当時、公立中学校、小学校で英語(英会話)を教える(ALT)という仕事をやっていました。昔は(数十年前ですが)、文部省の嘱託のように、英語を母国語にする国の若者を英会話指導助手(「AET」と略称していた。)として、国の調整した枠内で各市町で雇用していましたが、それはそれで彼らに関する良い思い出もたくさんありますが、今では、いくつかの語学教育会社が、毎年、市町の入札により、落札業者が一括して請け負うようです。
 彼女は、いわば、その民間の語学教育会社に雇用されていましたが、彼女の同僚たちも、欧米系は極めて少なく、フィリピン人、ケニア人、ネパール人もいました。給与が低いので、語学教師として欧米系は敬遠しているようです。彼女は、キクユ族というケニアの少数民族に属し、ナイロビ大学出身(日本の東大みたいなところだそうです。)で、宗教はカソリック、酒も飲まず、今でも、経営学、教育学とか、たゆまず勉強しており、父親は、私立学校を経営しているといっていました。
 私の理解できる範囲では、彼女はきれいなイギリス英語を話し、フランス語とかも大丈夫なようで、日本の文化にも興味があり、とても前向きな人でした。当然、アフリカ系ですが、若くて美人(容貌もスタイルも典型的なアフリカ系のですが)で、髪をドレッドというのか飾りをつけて細かく編みこんでおり、一度スカーフと貫頭衣のような民族衣装を着けてもらいましたが、原色が見事にはまり、とても美しい立ち姿でした。伝統ある日本の着物姿と比較してどうなんだろう、と思ったところです。
 私も、暇な時期だったので、彼女と様々なことを議論しましたが、色々考えさせられることが多かったところです。彼女は、アメリカ(ステイツというあそこです。)や、他の欧米圏の国々にも行っており、その批評も興味深いものでした。日本の制度に対する、評価も批判もありましたが、比較的に好意的であり、彼女が過ごした外国で、良い体験を得た国と言っていました。
 彼女は、車の運転もする人で、日本の車検制度を素晴らしい、と賛美しており、しかし、いつも別途にお金がかかると私が言うと、アメリカにはそんな制度はないけれども、たとえお金がかかろうと、きちんと整備してもらえれば安心ではないか、と言っていましたが、なるほど、と思えたところです。また、温泉を特に好み、案内すると、一回当たり、少なくとも最低二時間は入っていたね、たぶん、詮索好きで興味深々の同浴のおばさん、おばあさんたちとも折り合いよくやっていたみたいです。実際、とてもいいやつでしたが、しまいには、こじれた私と我が家の娘との関係にまで相談に乗ってくれました。
 彼女は、転職して、千葉県の、私立の英語教育を行う、中高一貫校へ行ってしまいましたが、当初イギリスの植民地国家であった、彼女に聞いたケニアの国情は、自由圏の資本主義国家で、一部アフリカのように社会主義独裁国にもならず、アフリカでは相対的に安定した国家であるように思われました。 ただ、本来の部族語・国語(スワヒリ語)と英語の相拮抗する関係や、社会が家父長的な要素があり、子だくさんで多くの兄弟があり、女性にとってやりにくい面があること、高学歴でないと(高卒)くらいでは彼女の家のメイドくらいにしかなれない、そんなことを言ってました。
 どこでも厳しい状況ですね。
 彼女が、去って、しばらくして、ケニアでの、モズレム系の若者によるケニアのガリッサという都市でのテロの報道を見ました。(以下「Gooニュース」によります。)
「ガリッサ大学襲撃事件とは、2015年4月2日、銃で武装したグループがケニア・ガリッサのガリッサ大学に押し入り、147人を殺害、79人以上を負傷させた事件です。襲撃は、犯人らの主張によればアルカーイダ分派の武装グループアルシャバブによって行われた。襲撃犯は700人以上の学生を人質に取り、イスラム教徒を解放する一方キリスト教徒とみなした者を殺害した。襲撃は、4人の襲撃犯が殺害されたことでその日のうちに終結した。かの犯人たちは、どうも、隣国ソマリアのイスラム教勢力の影響下にある武装組織であり、ケニア政府は、もともとソマリアと折り合いが悪く、生還した学生は犯人らがスワヒリ語で話していたと述べ、彼らがアルシャバブに関わっていると確言した。
後にアルシャバブは事件への関与を主張した。アルシャバブのスポークスマン、シェイク・アリ・モハムド・ラゲは事件の状況について、「我々の兵士が到着したとき、彼らはイスラム教徒を解放した」がキリスト教徒は人質としたと述べた。またラゲは兵士らの「使命はシャバブに反するものを抹殺すること」であり、ケニアの部隊がアフリカ連合ソマリア派遣団に配置されていることに関連して「ケニアはソマリアとの戦争状態にある」とのべた。別のスポークスマンはアルシャバブは「非イスラム教徒によって植民地化されたイスラム教徒の土地に位置する」ため施設を攻撃したと主張した。」

 私が知っている彼女は、西欧系の教育を受け、他国の文化や、芸術にも興味を持てる聡明な女性でした。そして、敬虔なカソリックで、日曜日には、イタリア人神父の常在する、近所の教会に通っていました。さすがに私も、植民地主義の時代に、アフリカのほとんどの国家の制圧と人民教化のために、武力と宗教が有効に使われた、とは言えませんでした(否定はしなかったでしょうが)。
 現代においては、私を含め、個々の信教は、やはり、恣意性でしかないからです。
折り合いが良かったからなのか、彼女は日本人と結婚するかもしれないとか、あるいは、ケニヤで、父親の学校経営を手伝うかもしれない、とも言っていました。キリスト教徒として、西欧的に教育された、彼女の後継者のような多くの若者が、このたび、それが部族なのか、社会階層なのか、貧困なのか、イスラム教の影響下で生育し、自己形成した若者によってテロの標的になったようですが、彼らは、若き日の私たちと同様に、観念の騎士として、正義感と信念に基づきテロ行為に走ったのか、果たして彼らは、将来、対立する相互の妥協と協力で、本当に国民国家を形成できるのかかつてスターリニズムや、米帝とたたかった私たちの時代に比べても、信念対立による異部族・同国民間の闘いは場合によっては血で血を洗うような厳しいものでしょう。近代を経た、我が国日本では、どのように処したのか(まずお互いの差異を超え妥協による国民国家を育成するしかないでしょう。)、その厳しい道筋を想像すれば、彼らの状況は、私の貧しい70年代体験のフィルターを通してみても、語りかける言葉が見つからず、胸が痛みます。現代の「国境なき医師団」の活動を含め、西欧諸国の歴史的な犯罪と、モズレムのテロに対する恣意的な人権侵害の適用といい、西欧人の性懲りのなさとその傲慢に怒りを感じます。また、外国の侵略によって作られた厳しい歴史や現実、今後ともグローバリゼーションに翻弄されながら(どこの国も一緒ですが)国民国家を充実
しなければならない状況で、貧困層の憎悪や、国内テロで多くの若い有能な人材を失った、ケニアの苦い未来にわたる運命について思いを馳せます。

 さだまさしの「風に立つライオン」という歌をご存じですか。
 このたびのお正月に、ドラマ化されたのか、衛星放送で見たような覚えがあります。
 私は、歌でしか知りませんが、ケニアのナイロビで、原住民(?) に医療行為を施そうという日本人の青年医師の話です。彼が、私が寄付を勧奨(心情的には脅迫)された「国境なき医師団」に属しているかどうか不分明です。彼には、アフリカに行くと決めたときに、別れた恋人がおり、その後長い
空白を経て彼女が結婚するという往信があり、その返信という形で、歌詞の物語を紡ぎます。彼は、今になって思えば、故郷ではなく、千鳥ヶ淵の桜の夜景が頭に浮かぶという述懐で、彼女とそこで出会ったのでしょう、東京医科歯科大学かどこかの出身ですかね、優秀な医師なのかもしれません。
 なぜ、アフリカに行ったのかというのは、「僕の患者たちのきれいな瞳を見ていると」、「やっぱり僕らの国は残念だけどどこか大切なところで道を間違えたのかと思う」とか、「僕は「現在」を生きていることに思い上がりたくないのです」、などという歌詞から推測するしかありませんが、厳しい徒弟時代を過ぎれば、将来は安定した中産階級(?)へ道が開ける、安定した日本と見えすぎるその生活、彼は、なぜアフリカで医師の道を選んだのか、という、青春の悩みに突き動かされ、(さすがアフリカにはついてこれない)恋人と別れ、恵まれない、新しい土地で、活動することとし、「ビクトリア湖の朝焼け」、「空を暗くして一斉に飛び立つ100万羽のフラミンゴ」、「キリマンジャロさん白い雪とそれを支える紺碧の空」という、アフリカの、雄大で原初的な自然に惹かれたようです。
安定した生活と決別し、恋人と別れても、男として、新たな環境と試練に立ち向かう「風に立つライオン」でありたい、と彼は考えている、いうのが私の(卑小な)解釈になりますが、はっきり言って、私は、直截に、昔、カラー放送で見た手塚治虫のオペラのようなテレビアニメ交響詩「ジャングル大帝」(1965年)白い獅子、レオを連想してしまいます(かの大歌手弘田三枝子の歌った「レオの歌」は私のカラオケナンバーでございます。)。あのアニメドラマも、「動物同士で殺しあうのはよくない、人造肉を発明しよう」とする主人公レオという「過剰な倫理性」に彩られた、ヒューマニスト手塚治虫の作品でしたが、この「風に立つライオン」にも、同様に何かに「強いられたような」倫理性を感じるのは私だけでしょうか。
 若者が、カンボジアでボランティアの選挙協力をしようと、あるいは儲かる美容整形医になろうと、国境なき医師団に入り、ケニアで医療行為に従事しようと、それはそれぞれ恣意でしかない、筈です。
しかし、それならば、なぜ多くの若者が外国に行きたがるのかというのは、何かの理由はあるはず、と考えられるわけです。
 私には、それが、戦後のアメリカの理不尽な植民地教育を施された、戦後の英語教育の呪縛に思われて仕方がない。適当に、英語ができる、優秀な青年は、皆、英語圏を目指しているのではないでしょうか。「英語化は愚民化」を引き合いに出すこともないでしょうが、教育とは、本当に怖いものですね。
 それはそうとして、優秀でも、お人よしでもない私がなぜ、英会話を始めたかという理由は、まず①アジアやその他の国の若者と様々なことで議論したかったこと、②捕鯨問題を皮切りに新興米欧系諸国の、アジア、アフリカなどの異質な他国の文化や、経済的な実情を無視する、レイシズム(人種差別主義)にまで根差した倨傲の共通な通念に、鉄槌を下したかったこと、に尽きます。時に、①も②も重複しますが、実際のところ、うちのクラスの講師が異動で変わる度につたない英語で議論してきました。ほとんどの講師は、無意識にでも傲慢な欧米人は自分の価値観を決して譲らない、厭いて負けるのは議論を好まない日本人であることは良く分かりました(私は負けないぞ。)。また、私、一般的に、アメリカ人(ステーツの彼らです。)は、今までの経験で基本的に嫌いです。個々の、西欧人には、アメリカ人とは違い、それぞれの見方の差異や、違った見解もある、ということの理解は出来ましたが。

 いずれにしても、喫緊の問題としては、ケニアの国内事情では、自国で医療教育を受けた自前の若い医師が絶対必要であるし、カンボディアでは、自前で自国の官僚や地方公務員が必要なのです。損得計算で、止むを得ず受けいれているでしょうが、基本的に、お雇い外国人は、長期的に見て有害なのです。それは外国人としては、おさえておかないと間違う。彼らの国では、今後、福澤諭吉や偉大な明治人のような人が出てくる筈であり、それは、私たちが、明治以降の、我が国の歴史と、日本の近代の苦闘の道行きを考えてみれば、日本人とすれば理解しやすいと思うところですが。

 なぜ、「風に立つライオン」は、理不尽で下劣に見える東京都民の脱原発騒ぎで痛めつけられた福島県の無医村にいかないのか、あるいは他の過疎や今後の政府TPP政策、農協解体に深く傷つけられるであろう東北の無医村に行かないのか(もし、日本国内であればあなたの彼女もついてきたかもしれないぞ)、それで気が済むなら磐梯山や蔵王山に向かってそれぞれ何とかおろしに向かって、白い獅子レオのように屹立し吠えればいいのではないのか、それこそ、地方に住むしかない、多くの、貧しくて教育もなく他国に逃げられない日本人にとって、土着で、解決困難な見えない問題や、語りつくせない苦悩がいくつも存在しているでしょう。その解決はやりがいがあり、大変興味深い(私は)のではないのか、また、その苦悩は切実で、彼らと接するにつけ、魂がふるえるような経験もあるのではないかとも私は思うのです。

 「青年よ、(つまらない)通俗性を、安い正義を目指すな」、と私は言いたい。
「国境なき医師団」に参加して、このたびのダイレクトメールに手記をつづった、日本人のエリート青年医師よ、君の活動は限定的で、将来に向けてあまり意味はない、アフリカ諸国の自前の努力に期待しなさい、その実現がどうすれば可能なのか、他人の考えではなく、自分の支援役割の質を、引き際を含め、今後よく考えておきなさい。
 風に立つライオンの医師よ、あなた一人を専門職として養成するのに、日本国政府と日本国民はどれだけの時間とお金を使ったのか、想像したことがあるだろうか、あなたは当面「幸せ」かもしれないが、政府の無策を含め、貧しい家族の多くなった現在の日本で、工面して、工面して、必死で教育を受けても、フルタイムの仕事すら見つかりにくい現在の日本の多くの若者の現実のことも考えなさい、あなたの専門の、祖国日本の末端医療の現実も意識化しなさい、と言いたい。

 質を問われない「正義」などどこにもない、民族語を共有する同じ「日本人」として、お互いに深く考えようじゃないですか。

大塚まさじについて  その2

2016-02-01 00:13:01 | 歌謡曲・歌手・音楽
大塚まさじの唄った歌で、忘れがたい歌があります。

カラス(ガラス)の まどから 覗いてる
まてつ(満鉄) の きんぽたん(金ボタン)の ぱかやろう(馬鹿野郎)

 さわるは ごじせん(50銭) 見るはただ
 さんえん ごじせん(3円50銭)くれたなら
カシワ(鶏)のなくまで
 ぼぼ しゅるわ(するわ)

上がるの 帰るの どうしゅる(どうする)の
 はやく せいしん(精神) ちめなさい(決めなさい)
 ちめたら 下駄もって 上がんなさい

お客さん このごろ 紙高い
 ちょうぱの(帳場の) 手前も あるてしょう(あるでしょう)
 おしうき(お祝儀)  ごじせん(50銭) お出しなさい 

 そしたら あたいも せいだして(精出して)
 ふたちも みっちも(二つも三つも) おまけして
 カシワ(鶏)のなくまで ぼぼしゅるわ

 雨が しょぽ しょぽ(しょぼ しょぼ) 降るぱん(晩)に 
 カラス(ガラス)の まどから 覗いてる
 まてつ(満鉄) の きんぽたん(金ボタン)の ぱかやろう(馬鹿野郎)
    
  
 (私の聞き取りでは、彼の唄では、言葉のそれぞれで、濁音が半濁音に変わったり、(わかりにくい部分は別にして)濁音がつかなかったように思います。それは、歌い手の恣意的なものかもしれません。)
 
この歌は、彼のアルバム(「昨日の悲しみに別れを告げるんだもの」)の中で初めて聞いた曲で、全くライナーノーツもなく、私の耳で、採歌したものです。ラジオ放送を連想させる雑音を効果音にした中で、彼はつぶやくように気怠く、弱く歌っていたこの歌は、私の過ごした学生時代(70年代後半)と、当時の私自身の貧しい思想・生活感性に強烈な「異和」を伝えていました。1974年、初めて聞きましたが、「旧満州の女部屋の歌だな」と思いながら、なぜかとても印象に残り、また惹かれてしまい、まだカラオケもない時代でしたが、学生時代の飲み会などで口ずさんでいました。
哀調のあるメロディーで、また、なりきり韓国語なまり(?) なのか、意味も分かりにくいところですが、デカダンス(おお太宰治)で、かわいたユーモアもあり、「田舎者(九州地方出身者)が、どこへでも、お仕着せの金ボタンの制服を着て、風を切るかのように、(下品な)下駄をはいて偉そうにあるき、精神を決めなければ女部屋にも上がれない、金にきたないバカやろう」を揶揄し、バカにし、「でも、チップさえもらえれば、サービスしますよ」、という歌です。この歌詞は、昔、あの亡藤圭子さんが「はしご酒」(1975年)で歌った、「顔や姿にゃ惚れないが、男らしさにしびれちゃう」、「・・・・・(お金が少ししかなくても)させてあげますいい思い・・・・」、「よってらっしゃい、よってらっしゃい、お兄さん」、と歌った、ことと近い意味で、言外に「お金をいっぱい使えば男らしいよ、サービスしちゃうわよ」、という意味であろうかと思います。言ってしまえば、幸福感も、不幸感も感じる余裕もなく、生きるための駆け引きの話でしょうが、しかし、単に管理売春(多くの日本人と少数の朝鮮人の娼婦を抱えた、当然民間企業です。)の娼婦が、生活や収奪の苦しさを隠れて歌っていた、悲しみや自嘲の歌というところでは、ちっとも面白くないところであり、またそれが、大衆の支持を受けてその後はやり歌になるとも思えない、わけです。
この歌が生き延びたとすれば、やはり、生活者がそれぞれの限られた現実の中で受感する、生活の、酸いも苦いもある大衆の歌として多くの人の記憶に刻まれたとしか言いようもない歌でしょう。
現在では、つらい歌、哀調のあるくらい歌は膾炙しないかも知れませんが、それを必要とする層も情況も現在にもあるわけです(私、批判を恐れず申し上げますが、「赤色エレジー」も好きです。)。
当時、私は、異和は異和として、「お前たち、こんな歌知ってる」と、披露するために歌っていたと思うのが、やっぱり当時の素直な気持ちであり、実際のところ、今に至るまで、私たちの好奇心や想像力は、どこに行きつくかわからないところですね。
 先の「大塚まさじ」ライブハウスコンサートで、終了後、本人と話したところ、この歌は、「満鉄小唄」という当時の歌で、どこかで(舞台女優の)吉田日出子が歌っていた、と聞きました。私が、「とても、印象深い曲だった」というと、それは「よく理解できる」というような彼の答えでした。「放送禁止歌」になったのかと聞くと、「そうではない」といい、彼のこの歌が入ったアルバムは「CD化したけど、ばっちり入っている」、とのことだったので、「コンサートなどで歌わないのか」と聞くと、「今の時代では逆風だから・・・」との答えであり、それ以上は聞きませんでした。
しかし、(1974年)以来持ち続けた好奇心は別にして、一夜を明ければ(その瞬間を過ぎれば)わざわざ、アンコールでお願いするほどの曲でもないのが、今の、私の気持ちです。
私は、「好奇心で生きている」というテーゼは、あながち嘘でもありません。
 ネットで、この曲を検索しましたが、この歌は、軍歌「討匪行」(とうひこう)の替え歌であるとの話でした。早速、ユーチューブで聞いてみましたが、藤原義江作曲という歌を、藤原義江の歌で聞いてみましたが、勇壮な行進曲と聞こえますが、「どこまで続くぬかるみぞ 三日二夜も食はなく 雨ふりしぶく鉄兜・・・・」と歌詞は決して勇ましいものでもないようです。小浜氏の指摘する「なぜ軍歌は悲しいのか」に属する歌のようです。
同時に、軍歌には替え歌がいくらでもある歌です。この歌が、どうも、少数朝鮮人慰安婦によって歌われたとは思えず、いい加減、厭戦気分になっていた、当時の多数の日本人慰安婦や、女部屋に出入りする男どもに支持されたものかもしれません。当然流行歌にも検閲があったでしょうから、検閲を経由しても、朝鮮人慰安婦(?)の独白のように作られた、その歌詞は、軍隊や日本の満州進出に対する厳しい批評と、場合によっては自嘲なのか、満州くんだりまでやって来た、日本人に対するあざけりが感じられます(局面を変えた「はしご酒」のようですね)。なかなか、興味深い歌で、私の好奇心を刺激します。

 また、この歌を聞けば、併せ、年末の「日韓合意」を思い、昨年、「謝罪を継承しない」といった筈であった安倍内閣が、アメリカ政府に屈し、「当時の政府による女部屋設置の公式認定」(バカらしい)を見て、一昨年の朝日新聞の虚偽報道を経ながら、結局、何の活用も、解決もせず、占領軍コードの呪縛に屈した、その屈辱、ばからしさ、欺瞞性を憤り、大衆の一人として、行き所のない無力感にさいなまれるばかりです。
とにかく腹が煮えた。「いいかげんにしてくれよ。」と。
また、うちのゼロ歳の孫も、将来、韓国人と再度論争しなければならないじゃないか、と(負けるなよ。)。