天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

LGBT問題から国政罵倒に及ぶ(罵倒シリーズその10)

2019-04-27 19:42:48 | 罵倒シリーズ
 わたくし保守的な人間であり、また「世間」を狭く生きており、しかしながら、妻にいわせれば余剰な「言葉」だけについては敏感なので、ことあらば、他人の話していることばなどには、興味があり、関心があります。
 比ゆで言えば、火星人の話すことばも、意味がわかれば興味がわきます(言語の解析などはムリですが)。
 
 ということで、うちの職場の若い衆(女性)が、「「LGBT」問題で、実務上困りますよね。」としゃべっておりますが、私は意味がわからない、殊に、現在英文字の略称は適応不全なので、調べてみました。
 すると、「LGBT」というのは「レズビアン(女同士の同性愛嗜好)、ゲイ(男同士の同性愛嗜好)、バイセクシャル(同性愛異性愛並存嗜好)、トランスジェンダー(自己の諸属性を超える性的嗜好)(カッコ内は私の命名)という意味であり、どうも、少数者の性的嗜好を尊重する、という運動なんですね。
 いわゆるPC(ポリティカルコレクトネス)(以下「PC」と略称する。)の一種であり、それなら、一応の理解に達します。ほとんどのPC運動は、余計なお世話で、つまらない愚かな運動であるという、私の倫理的思考と嗜好を含めてですが。
 ところで、うら若い女性が、自身がいわゆる「腐女子」(男子間性愛を興味深く扱う女性)でもないのに、社会的な場面の会話で、個々の異常(?) 性愛の嗜好を会話に載せるということに、私は非常に違和感を感じるわけです。
 「性欲は多種多様、自らのセクシュアリティを持ち、尊重しあうのは当然」、とか、一時の性教育や、その系譜のPC運動における、各国民国家の異なった人間の歴史や個々の文化を無視、グローバルスタンダードなどという、国籍不明の腐った理念の支持者の、その考えなしと、通俗性に、侮蔑と、嫌悪を感じるわけです。

 性的な嗜好、それを言えば、性欲は、類としての人間の歴史に深く根ざし、性に基づく観念や現象は膨大なものであり、いわゆる異性愛は別にしても、小児性愛とか、サディズム(死語か?)とか、性的な逸脱は多種多様に存在し、いわゆる「自由」の種別においても、「他者を自由に虐げる自由」、反社会的な自由も当然に発生するわけです。
 少なくとも、殊に、性(行為)とか、体験的に、私にとっては、隠微で、昏いイメージがあり、それが、文学や、思想や芸術の主題や根拠にはなりえても、明るく、健康的に、人前で日常的に話す内容とは思えないわけです。いわゆるかつての悪質な性教育などです。
 それはあなたが、「性的な弱者で、劣等者であったのか」と、言われたらそこまでです。実際、今までに、ろくな様しか見せたことがないので。
 しかし、この年になっても、私には、今世に明るく健康的なセックスというものがあるとは、とても思えないわけです。

 それはあなたが、教養があり、品格があるせいだといわれれば、私はまさしくそのとおりですが(昔からそうじゃないかとひそかに思っていた。(笑い))、それ以前に、個人の性的な嗜好を、社会的な、議論の席で、それを言挙げる(口にする)必要があるのか、という、素朴な疑問であります。

 「まるで猥画(わいが)を取り出すときのやうにして ぼくはなぜぼくの思想をひろげてみせなければならないか」という、吉本隆明の名言ではないですが、個々の私たちの思想と同様に、個々の性的な嗜好も、わが胸のうちで、その個別性の認識と覚悟性により、宿命のように個々に担われるしかないようであります。
そして、それは、自分で解決すべき問題であるという厳しく苦い認識として、本来、われわれ個々の重要な内面性を構成するものとして、として、存しているように思われます。
 ひるがえっていうならば、私は、自己の性的嗜好を、国家規範に保証してもらう必要は感じないし、私の思想や心情などを、国家に担保してもらう必要は感じない。それこそ、私自身が担い、解決は難しいかもしれないが、個々に昇華すべき問題であると思います。
 逆にそれを法規範で解決するほうが、病的であり人間の内面性に対する挑戦であると思うわけです。
 あのエルトン・ジョンが、男性のパートナーと結婚したいと表明したとき、私は、「あんたも老いたな」と、表現者としても終わりじゃないかと思ったわけです。私、今でも、エルトン・ジョンの青春時代の歌は今でも時々(周囲がゆるせば)歌いますが。
 かつて、ポストモダンの旗手であった、AAが、自らの性的嗜好をカミングアウトし、「それはマイノリティの問題で・・・」と述べたとき、吉本隆明が、本家(?) のミシェル・フーコーを引き合いに出し、「男同士の愛は友愛に通じ、空間的な拡大に耐える」くらいのことは言っているぞ、お前もしっかりしろ」、と檄を飛ばしたことがありましたが、わたしも確かにそう思います。
 すくなくとも、表現者としては、自己のあらゆる思想的契機において、本来的な責務を果たして欲しい。

 LGBTに属する人(そう思うかどうかはそれぞれの勝手である。)と付き合ってみて、少なくとも、他者として、私は、彼の性的なあるいは彼女の性的な嗜好を、ことさらに批評、意識化しながら話しはしない。私は、ひとまず、それは棚上げにする。
 それは、多くの人において、当然のことであると思う。そうでないと、社会的な関係は成り立たないし、会話・交流が成り立つわけがないではないか。ただし、頑迷な理念にとりつかれている人(「脱原発」のパヨクお前だよ。)などとは、中途でおさらばします。
 私たちの社会生活の中で個々の恣意性(恣意であるしかないもの)は尊重されるべきものではあるが、それは「公序良俗」の範囲内であることであり、当然それは、国民国家における大多数の利害と倫理観の中で、調整され、「権利の濫用」(権利の過剰な主張)は排除されるべきと、私は思う。
 「小を以て大を語る」、「少数者を扱い大多数を忘れる」などと、愚かな思考は排除されるべきである。

 
 ところで、そんな、「針小棒大」の話に血道をあげるなら(法制化を行う)、なぜ、推進政治家は、大多数の国民大衆の喫緊の問題に対応しないのか。
 関係者の多寡と影響の重要さを問い、「鼎の軽重を問い」、つまらない微細な問題にかかわらずとも、現在行われている、喫緊で重要な、大多数の人間の直接利害、安心・安全に大きな影響を与える大懸案・大問題が目の前にいくらでもありはしないのか。
法制化を急ぐ国会議員は、自民党政府の暴挙の目くらましのために、教養もなく、品格もない、近視眼のパヨク、腐った平等主義者たちと野合し、無考えな国民や若者(馬鹿者)を煽動しているのではないのか。

 したがって、今からは、アホな運動に組せず、本来の大情況、大問題について言及します。
1 反グローバリズム
 グローリズムの実態が徐々にわかってきた。
 それは、ほんの一握りの強者による、大多数の弱者の支配であり、マルクス主義によれば、搾取と収奪である。行き過ぎた金融資本が、国境を越え、全世界を実質支配しようとしている。それに加担する、利害と目的を一にする、追随権力者(政治家・官僚など)がその支配に加勢し、個々の国民国家の利害に反する、売国行為に励んでいる。実際のところ、私も、先のパソナ竹中平蔵の糾弾集会に参加したかったと思っている。
 それをいえば、政府の愚策で、外国人の無秩序な流入の中で、宗教も歴史も文化も、生活習慣も、また倫理すら違う外国人に直面したとき、あの西欧の衝突の実態を見れば、「話せばわかる」などという安いバカげた理念はとうに崩壊しているではないか。いずれにせよ、暴挙の被害者は大多数一般大衆しかない。

2 反消費税
 デフレ改善なしに(インフレ経済下でなければ)、消費税増税は日本国家の自殺行為である。全労働者の4割にわたるという身分の不安定な身分の派遣労働者、不安定な雇用に苦しむ若者たちよ、この制度は、大多数の貧民を直撃する。大多数国民に疲弊と、絶望をもたらし、それによる社会の不安定化を招くしかない愚策をきちんと批判するべきである。
 うちの近所の単店で味のある(?) スーパーも、とうとう閉店してしまった。交通弱者の老人など大変お気の毒な話である。
 聞き及べば、中小商工業者の日本商工会議所の会頭も、引き上げにもろ手を挙げて賛成という、その不見識はどういうことなのか。疲弊した、商工業者の危機意識も悩みもどうでも良いのであろう。
 法華経系の大教団、SG教団も、政治組織公明党を通じ、消費税の食料品などの例外規定(税制として実に不合理な話である。)を認め、迷惑なバラマキとのセットで、引き上げを容認した。
 たぶん、今後、わが日本政府は、法人税や、所得税率の引き上げを決して行わない。ひたすら消費税を引き上げ、西欧を見習い、経済格差を拡大し、階級社会を作り上げ、相互の憎悪をかきたて、社会の不安定化と、日本国家の終焉を是認するのであろう。
   
3 反構造改革
 郵政民営化から、TPP問題に至るまで、以降、日本国政府は、景気改革を怠ったうえで、国富を、飢狼のような欧米などに差し出してきた。竹中平蔵に連座する、改革者(?) 小泉純一郎は、その後パヨク運動に身を投じ、脱原発運動の推進者になっている(愚かものが)。
 農協法、種子法の改正、電気通信事業法、水道事業法の改正など、なぜ日本国の政治家は、外国の金融資本や、他国の投資家に平身低頭し、国富を差し出すのか。たいがいにしておけと、大多数国民の悪罵の対象となるばかりの行為である。
 先に(1918年10月)山口県の周防大島町で、外国籍の貨物船の不注意事故で、橋りょう添加の水道管を破損、水道供給が途絶した際に、おりしも国会で水道事業法の審議がされており、全町民のライフラインの途絶中に、この人たちは心底恥知らずであると強く思った。「民営化論者」口角をゆがめた、麻生太郎大臣の顔を私は決して忘れない。
 当該水道事業が、山口県でまかなわれているため、当該復旧は、1月弱で終わったが、もし、不採算水道事業が、民間事業者にその運営を任されていたらと、恐怖を感じる話で、つくづく義憤を感じることであった。

 「構造改革」、一部の特権・利権者がそれを望むにはよく理解できるが、売国奴になるのを恥じない一部政治家、欧米に隷従する無考えの政治家、自己利害に奔走する企業家、無考えの大衆、いくらでも、大多数国民の「敵」は現存する。

 どう考えても、ごまめのはぎしりで、無力の思いで胃が痛んだり、老人性うつ病らしきものになったり、あるいは憤激のあまり、要らざることをくちばしり、家庭内でさらに孤立したりなど、私の精神生活に大きな影響を及ぼしています。

 しかしながら、今後、国政の刷新がないと、この問題は決して解決しないと思われ、私も、このたびの「令和の政策ピポッド」(https://reiwapivot.jp) 政治運動に賛同し、日本国が滅びないように、微力ながら、同士を募り、戦って生きたいと思います。
 どうぞ、ご賛同の方、お互いに頑張りましょう。
 また、様々な示唆をいただく、小浜逸郎・ことばのたたかい(https://blog.goo.ne.jp) も引き続き愛読したいと思います。

「出さずに済ますはずの手紙」の話(「思い出すことなど」番外篇)

2019-04-16 19:12:08 | エッセイ
 長門市の「元乃隅神社」です。日本海に開け、西欧人など、異様に鳥居を好みますが、海とのコントラストといい、とても美しい景色です。私に言わせれば、南鮮も北鮮も見えず(海中には潜んでいるかもしれない。)、心晴れるような、心持になります。
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人性のいかなる時期においても、折に触れ生じる「自己の感情の動き」というものは、他者には説明しがたいものである。
 それは、わたしたちが「関係存在」(人間存在は自分以外の他者、外部世界と関係して生きていく。またそうであるしかない。)であるしかないことにその原因があるのであろうか。長い人性のうちで、時間を経て、各人の相互関係といきさつの中で、よくも悪くも、大きな直接体験を媒介にして、人間の感情はいかようにも醸成されてしまうであろうからである。

今になって、自分自身が老境(?) に入り、幸いにして応分の時間ができ、それにより、わが「死にいたる病い」(おそらく死に至るまでも解決できない病)についていろいろ考えていくいるしかない境遇となりました。
どうも私も典型的な「日本人」であるらしく、「無常観」に責められ、私の存命のうちに、変え得るもの(改善できるもの)について、殊に現在までの人間関係については折り合いを付け、また修正を加えることとして、今になって、いろいろ意識的に勤めてきたところです。
 しかしながら、自分で変え難いもの(重ねて今世で解決できないらしきもの)については、それを運命や諦念として、今、自分で受け入れられるかどうかは、なかなか難しいところです。
 
 数年前、私の実母の晩年に付き合って、併せ、老母のリハビリとして、お互いの記憶の想起とすり合わせを試み、かねてより疑問だった過ぎし日のわが家の因縁 (?) を問いただしてみましたが、それはなかなかに興味深いものでした。
 こどものとき、「なぜ、そうであったのか」と疑問に思い、そのまま済ませてきたさまざまな出来事、事件について、何がしかの理由が明らかになり、あと智恵で、腑に落ちたことも多いところです。


 大変申し訳ないことですが、なぜ、私は実父母に対し、あまり愛着や愛情を抱けないのかということを長いこと考えていました。
 私は、特に、厳しい育児怠業や虐待を受けた覚えがないわけですが、老年期になった父親や、母親に対し、特に愛着を生じなかったところです。
 なぜそうなのか、ずっと考えていましたが、さるとき両親二人と話していた何かの拍子に、私がたずねた昔日にかかわる質問に対し、両親が目配せか何か暗黙のやり取りをした覚えがありました。
 私の育成過程のうちに、長男(兄)との養育体験とは別に、どうも、何らかの負性の事情があったと思われました。猜疑心の強い私とすれば、幼児期に、自分自身によほど許せない仕打ちを受けたのかと邪推するわけです。
 さすがに、晩年の実母に、そのことを問いただすこともできず、結局のところ、決してやさしくない二男として、実父母双方を見送りました。
現実には、そんな話は、どこにでもあるやも知れず、ひとそれぞれ、無名の生活者として、それを抱え込み、今世を生き、ひそやかに死んでいくものかも知れません。

 人並みに結婚し、こどもを持つにつれ、かわいいと感じる折にふれつつも、私自身はどうも無意識のところで内部に禍根を残していたようで、わが子を「愛の直接性」の発露として「無条件に容認する」というわけにはいきませんでした。
 子育ての合間合間で、こどもの言動に強くいらだち、ときどきで、感情的になり強く叱ったことを憶えています。おそらく、育児に係る親として、その欺瞞性を、世の親は、それぞれ認識しているはず、です。
 このあたりは、その当事者(こどもに責任はない。)の人間性というか、それが上等か、そうでもないかに分かれてしまうようで、言い訳もできないところです。今になって、家族内での「公正さ」を確保することと、感情の理不尽さとそれを周囲に悟らせない、自分の「父性の欠如」を、個々に苦くかみしめるしか、ないものかも知れません。
 
 というわけで、わが子たちも、父に似て、身内に対しては、ときに非寛容で、アグレッシブな対応をするように育ったわけですが、しかし、いまでも、長男とは、理屈や条理を説けば、話すすべがあります。
 相性が悪いのは、長女のほうであり、観ていると、どうも、彼女は、私と話すだけで、腹が立ってくるようであり、その場その場の自己欲望で、思うことを、思うままにぶつけてきます。
それは、私が孫(自分のこども)を、抱き上げかわいがろうとしているときでも、同様です。
なぜなのかと、その言外の意味を考えていけば、どうも彼女は「私は、父親に愛されなかった」と言明・宣言し、どうもこちらとしては、常時告発されているような心持ちです。
 最初から、決して、折り合いはよくなかったわけですが、今となれば、ときに、それは常軌を逸しているのではないかと思われる(それはお互い様か?)今日この頃です。
 現在の私とすれば、お互いの愛憎の歴史を考慮し、我慢はしますが、ときに応酬せざるを得ないときもあるところです。
 それは、現在の頑是ない孫たちが、「今の」私にとって、「無条件に」かわいいことと対照的であるともいえます。

 私に比べ、人間関係が得手で、賢いはずのうちの妻でさえ、「娘は男親にとって無条件にかわいいでしょう」と、通俗的な「神話」を信じているようで、妥協しろ、逆らうな、といいます。たとえ信じていなくとも「それが方便でしょ」というわけかも知れません。しかし、彼女にとって、「息子の方がかわいい」、ことは私が指摘するまでもないところ、です。
 「アホな子ほどかわいい」とも言いますが、それは、親ができの悪い子の「アホ」を認識したうえで、相互に心の交流があってのことであり、優秀で手のかからないこどもの方が、私には、かわいい、訳です。

 かつて、私は、妻の実家を訪れるたびに、妻とその両親との様々なやり取りを見ていましたが、親とは争わない、何か親のために、場面場面で働こうとする妻の姿は、老いた義父母にとって、よりかわいく、頼り甲斐のある娘であろうことは、よくみてとれました。傍観者ながら、相互の良い感情のやり取りがよく見えるようでした。
 
 あるとき、孫まで巻き添えにして、当方を責め始めたので、「そこまで言うのならもうこなくていい」と、娘に言明しました。
 そばで見ていた妻に、後で責められましたが、今になって、娘が「私は愛されなかった」と、いまさら、言外に、あらゆる機会に責められても、こちらも対応に困る。実は、私は、「娘より息子の方がかわいい」と、初めて、私の感情を率直に陳べました。
 
 妻はどうもそれが腑に落ちたようで、それ以降、娘とともに、嵩にかかった口撃(口によるもの)を、多少、緩めたようです。
それはどうも、仕切り屋の娘に、頤使(いし。あごで使われる。)されるような自分自身の境涯に疑問を持ったのかも知れません。

 理性的に判断すれば、人は自分以外の他者(妻の場合は私たちの長い歴史をかんがみ幾分かは留保します。)に、侮辱的な言動や、心無い仕打ちを受けることに慣れることはできないわけです。

 「孫や子は無条件でかわいいかどうか」は、それは神話(うそ)、男親にとって娘が無条件にかわいいかはそれも神話(うそ)ですね。人性において、人間関係というのは、相互の限度をわきまえた範囲で、一方的な、善意の贈与はありえないし、一時期の母子関係など、特殊で、限定的なものです。



 娘に出さなかった手紙として以下のように記します。
 うちの娘は、抽象的な思考に合わないたちなので、たぶん、理解はできないでしょう。
しかし、将来まで、子育ての長い時間を経て、多少とも、人性における、感情のおりのようなものとして理解できればと望みます。

 
 1 今世では、個々の人性の幸・不幸というものは、まことに不平等なものである。また、それぞれの運・不運もあり、あたかも、不条理で理不尽であるかのように、その運命を強く拘束される。
 2 また、愛し愛され、憎み憎まれという人性での強い感情も、疎まれるものにとって、全く理不尽であり、それにより、やりどころのない失望や悲しみを抱くところである。
 3 人間の付き合いという関係も、それぞれの好悪を含めた、相互の一定の限度の中で許されているものである。たとえば、それを無理に超えれば、暗黙の社会的な規範として一定の限度を超えたいわば関係欲望は行き違い、恣意的に処断されることとなっている。
 4 いわば、あらゆる人間の関係は、現実には、相互規定となってしまうものであり、その中で発露される、一方的な愛情にも、一方的な憎しみにも、人は耐え切れるものではない。いわゆる、今世は相対感情でやっていくしかないのであるが、それを制御するには、辛抱も技術や経験も要る。
 5 若いときは、未熟なので、どうしても「絶対」を求めてしまう。求めるばかりに執着して、自らへの、疑義、失望、受容、諦観を意識化しなければ、生涯において不幸である。「幻滅」から始まりまた終わるのが、ほとんどの人性であるので、失望や幻滅とも上手に付きあわなければならない。
 6 母親とすれば、こどもに対しては、公平に取り扱い、理不尽な思いを与えたり、将来において憎まれるような契機を与えてはならない(与えないほうが良い。)。
 7 人性において、「相手に良かれ」と思って行った言動は、あまり相手に伝わらない。
 8 親から子に伝える善き気持ちは、ほとんど一方通行である。後から考えると、自分自身に対する無償の配慮というものは、自分を除けば、この世では、実親から与えられたものより外はない。
 9 親業というものは報われぬつらいものである。それは、先祖伝来の厳しい仕事である、と理解したほうが事実としては正しい。
 10 社会的な視点を入れると、貧困や、不運によって、家族の不幸を味わうケースはいくらもあることである。奈落や、底辺は底がしれない。自らの境遇の幸不幸に、一憂一喜しても詮のない話である。
 かといって、少数者の利益のために、大多数の利害を踏みにじり、その不幸を生み出す、現在の政治的、社会的制度、強制に黙していいものではない。きちんと戦わなくてはならない、それは当然である。

 そうであるなら、人性において幸・不幸とは、強いて言えば、自分で、自分に応じた、つましい、その「意味」と「小満足」を見つけるしかないものである。まことに平凡な結論である。
 しかしながら、それには多大な労力と時間を要する。噫噫(ああ)。