4歳の孫が蝉取りにはまり、酷暑の中で、朝晩、蝉取りに行っています。
私のこどもの時に、写真のニイニイゼミはとてもポピュラーであり、小さなこどもでも、てづかみで、容易に捕まえらえました。その後、数が減ったのかほとんど見なくなり、今回、晴れて孫と一緒に、成虫と抜け殻を採取しました。
蝉の羽化を見るのが、昆虫好きの定番と思っていますが、老境にはいり、再体験することは幸せです。
もし、私が施設に入っていれば、こんな感動も味わえなかっただろう、そのような、同胞老人の方はお気の毒です。
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妻の母に会えなくなって久しい。
現在、彼女は滞在型の老人施設に入所している。
要は、自分で、排出、入浴など、日常生活での重要な行為を在宅で、反復継続して行えなくなってしまったわけである。
彼女が私の親族になった時に知ったが、頭脳は明晰であり、考え深く、他人に対する思いやりや配慮ができる人であった。
若くして、その実父を失い、母を助け、兄妹の多い長男に嫁ぎ、苦労しながらも、実家の兄妹たちを助け、昔の習いで、7、8人もあった兄妹たちの中で、皆に頼られ、どうも、出来がもっとも良かったらしいひとであろう、と、私には思われた。
また、自分の夫(義父)も在宅で監護し、見送った人でもあった。
私も、近所に住む、相性の良い二女の家族として、家族ぐるみ、大変、お世話になった。
先に、上記の理由で、在宅で生活することが困難になり、施設に入所することが検討された。
我が家も、自己宅を改造した際に、「うちで引き取ろうか」と、妻に提案したが、妻はどうも、自分の社会生活の継続するためにいろいろ考えらしいが、その結果、断念した経緯がある。
それ以来、折に触れ、我が家に連れ帰っていたが、やはり体力は衰え、宿泊はできなくなったが、食欲は十分にあり、日帰りで、食事に連れて行ったり、孫たちと逢わせたり、したところである。
耳が遠くなったが、頭はしっかりしており、その老人施設での、他の老人たちの過ごし方を見ているにつけ、あの賢い人が、どれだけ、自分で我慢と内省を繰り返しているのだろうかと、お気の毒なことであった。
それにつけ、折々に触れ、施設で禁止されていた好物のコーヒーなどを、妻が買い込み、面会に行っていたが、それこそ、今回のコロナ禍で、はや、半年以上も接面できない、こととなった。
「老人」というものは、どうも身内を心配するのが仕事であり、逢うたびに、孫や家族のことばかり心配しており、殊に耳が遠くなり、電話の受け答えも困難な状況にある。
我が家の娘が、外孫ではあったが、孫のうちで最年少であり、とてもかわいがってもらった。
あの娘(失礼)でさえ、会えば、さすがに、やさしく受け答えする。
そして、できる限り、ひ孫を会わせている。
実のところ、自分の境涯に引き寄せてみると、将来、私はひ孫に会えるのだろうかと、どうも、それは疑わしいところである。
半年前に、コロナ渦で、抵抗力の弱い老人施設で、接面が禁止になったのはよく理解できる。
どのような状態でも、延命したいという老人と、それを望む家族があるのは確かであるから。
おかげで、今年は、インフルエンザなどの、感染性の強いウイルスが引き金になった、老人の被害者が極めて少なかった、ということだ。
しかし、現在のように、コロナを特別視して、激甚性で、伝播力の強い危険なウイルスと、勘違いすると、バカな話である。
入居(所)者が、どのような契約(念書)をあらかじめ誓約し、入居したかはわからないが、施設運営者の注意義務や、管理責任となる。
その中で、監護する職員の努力や、彼女たちの自己の日常生活の節制の厳しさは想像するにあまりある。とにかく、頭が下がる思いである。
しかし、今後、インフルエンザにり患したことを、不法行為として、損害賠償請求すら起き得る。
悪い言い方をすれば、介護放棄された老人でも、いざとなれば、その家族にとって金になるのだ。
現実の局面では、多くの老人世帯はそうでないかもしれない。
しかしながら、身内や、友人に会うことが禁じられた境遇にあることはどうなのだろうか。
ただでさえ、せばめられた共同生活で、衰えていく自己の体調と精神と折り合いながら、ひたすら死を待つ、ということはどうなのか。
いわば、囚人以上に厳しい日常ではないのか。
「死んでもいいから、外部と接触したい」という、こらえかねた老人がありはしないか。
そうであれば、彼らが、発言する機会や、発語することができなければそれでいいのか?
家族を思いやりたい・会いたいという究極の人間的な希望と、あらゆる人間的なささやかな欲望を求める希望を失い、生きていれば、それでいいのか?
彼ら(いや私たちの肉親たち)は、本当に、前近代の、遠野のデンデラ野に放置されるより幸福なのか?
娑婆(しゃば)以上に、隔絶された環境にある老人たちが、過剰に同調圧力に迎合し、私だけが一分一秒でも長生きできてありがたい、と感謝する老人が大勢とは、私には思えない。それは特権、特殊な老人である。
現在では、どうも日本人にとってコロナの害毒性がそれほどの害毒にならないことが大衆レベルでも明らかになっている。
健康な強者が、「弱者が特定の病にかからないことを求める自由」というのは暴論ではないのか。
いかにも、「一人でも犠牲者が出てはいけない」という安い空疎な民主主義の支持者(まだ増加した今でも2万人毎年自殺者が出ているではない。恥を知れ、そっちを支援しろ。)と、パヨクの好む大衆監視と抑圧の推進者・マスコミ、知識人がコンビを組み、コロナファシズムの推進力になっている。
施設に常駐する老人が、逢いたい人に逢いたい、美味しいものを食べたい、老人施設の景色以外のものを見たい、というのは、自己の残年数と家族の今後に思いを馳せるという、人間として当然の欲求であると思う。誰やらのように、キャバクラに行きたい、という元気な人がいたら、ご同慶の至りである(皮肉である。)。
そんな中で、好きなものを食べ、好きなものを見て、可能なら、キャバクラでも、風俗でも行ける人間が、他人の行動や、そして制度にまで、規制をかけるのは理不尽な話である。
当該施設も、段階的に、開放しよう。
標記のように、私は、死が一般的に、悪であるとは思わない。
自殺のような悲しい死は、自己にも他者にも望まない。
年齢の順番で、かなえる欲望はかなえ、子孫の幸せを求める、「幸せな」死を私は迎えたい。
できれば、今世で、相応の善根を積むこととして。
もう一度おさらいをする。
娑婆(今世)で、他人をおもんばかり、自己の行動規制をするのは勝手である。
ただし、あなたは、その気になれば、好きなものを食べ、好きな人に会い、好きな景色を見ることができるではないか。あなたには、自己選択の自由がある。それこそいつでも、好きな、キャバクラでも風俗でも行けばいい。
しかし、あなたたちと同様に、老人たちにも、自己の人性の決定権があるのだ。
それを妨げるのは、ファシストの所業だ。
目の前に、自己の政治的目的を果たすため、コロナを利用する、マッチポンプ都知事、小池百合子の醜い姿もある。私は田舎者だが、都民よ、老人たちよ、もっと怒れ、と思う。
この混乱期に、政府・政治家・財務官僚、企業家たちが、四半期のGDPのでたらめな落ち込み(▲27.8%)に危機意識すら持たず、国民国家日本国の行く末に、何の頓着なしに、景気対策もせず(結局景気対策とは公明党に押し切られた10万円のばらまきだけなのか。)、挙句のはてには、覇権国家中共に擦り寄り、国家利害に明らかに反し、手を貸す、下劣な売国行為をみていると、言葉を失う。
彼らには、大多数、国民大衆のことなど、どうでもいいのだ。
大東亜戦争の敗戦後に、なにくそと、戦後の復興に頑張ってきた、われわれの父祖、多くの日本人たちになんと説明すればいいのだろう。
あなたたちの後継者たちは、「ろくでなし」の「卑怯者」ばっかりであった、と口にするのも恥ずかしい。
祖霊たちのかえって来るこの時期に、酷暑とはいえ、心寒いばかりである。