天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

別府旅行記追記「中共語化(朝鮮語化)は更なる愚民化=奴隷化」である(西日本高速道路運営会社にもの申す。)。 (罵倒編12のその2)

2020-10-31 15:20:17 | 罵倒シリーズ
 このたび、再度、別府に行った。
 例の、「GO TO トラベルキャンペーン」を利用しての話である。

 近頃、人性の黄昏時(本当はよくわからないが)に差し掛かったせいか、妻が、生き急いでいる。
 それは、自分がどこまで元気で動けるか、という危機意識である。
 彼女には、もともと、引退したら、外国旅行をする、という宿願がある。
 自身の学友たちは、おしなべて奥様になり、ほしいままに、海外旅行等行っていて、なぜ懸命に働きつづけた私は割を食うのか、というのがその主張である。
 うちのパートの従業員も同様にしている、という。
 「本当にそうなのか」と、こちらが疑義や理屈を説いても無駄である。
 私は、今まで家族の犠牲になった、この際、つけを返してもらう、という。
 いわば、これはルサンチマンのようなものであろうか。

 また、その姿は、名著「オニババ化する女たち」(三砂ちづる著)の現実形態のようなものなのか、うちの妻も、自己利害の全面追及と、他者に対する寛容さとかや思いやりとかを償却しながら、経年劣化していくばかりである。
 彼女も、同様に、私をののしるだろうが、それは彼女の権利である。
 私たちは、対等であり、それぞれの立場で愛憎の歴史をもっている。

 ところで、私のような境遇にいると、官庁主導の陰謀「男女共同参画運動」は、つくづくと、本当に腹が立つ。
 私の見るところ、世の多くの男どもも、同様な見解であろうと思う。
 あの、パヨク・フェミニズム主導の能天気な主調音がどうにも許せない。
 学生時代、周囲にいた新左翼や政党・労組同伴者と、その愚かな承継者たちに感じたものと同様で、虫ずが走る。

 夫婦間のトラブルが「犯罪」まで行きつく深刻な場合は別である(犯罪としてさばけばいい。警察は家族内の犯罪にも介入してくれるようになった。)。

 今、国家・政府が、無理やり男女問題の解決をすると強硬に主張するのは、女性の低賃金労働者就業への勧奨と、LGBT推進政策とタッグを組んだ、自国民の分断と外国人労働者の過剰流入を合理化していくことにある。
 男女共同参画大臣設置など、政府はどこまでおバカなのか。
 おまけに、一事不再議の原則に照らしても違法である、国民間の意見聴取でも決着した、夫婦別姓の問題を、なぜ今更蒸し返す。
 腐った、大阪市維新勢力の推進する「都構想」と同質の政治手法ではないか。
 私も、大多数大阪市民大衆にとっての良い方向で、決着することを望んでいる(すなわち維新勢力と新自由主義による大阪市の食いつぶし謀略が破綻すること)。

 それこそ、パヨクが思うほど、政府はバカでないのなら、それは、明らかに大多数国民の利害に対する敵対行為である。すなわち確信犯である。

 いずれまた蒸し返すが、学会合意決着の10万円ばらまき以外に、政府・財務省は経済対策として、国民に何をしてくれた?
 デフレ・コロナのダブルパンチに、国内景気復興対策に何の手をも出さない。あきれて論じることもできないほどに。
 その合間で、新自由主義、売国奴竹中平蔵が、内閣ブレーンで活躍する。福祉の制限の公言と、日本国の宝、国内中小企業は日本国にいらない、という。さすがに、自己利益の徹底追及と無慈悲な資本主義を体現するだけあって、あの童顔も、近頃、悪相になってはいないか。
 したがって、敵国中共に走る、国内大手売国奴企業が輩出する。
 国民所得が、すでに南鮮にも劣るというのなら、まず、国家間の経済戦争に私たちはすでに負けているではないか、政府、一部特権者たちは、腐ったグローバリズムにどこまで加担・奉仕するのか。

 もともと、「男女共同参画」というのなら、それは「心や意識の問題」などという上等な問題ではない。
 私にも割り当て研修があり、仕方がないので、まず協賛企業に対して、いわれのない男女の賃金格差の解消を働きかけるべきでないのか、それを抜きにして何も語れないと、私は何度も、啓発研修の市の担当者に提言した。ナシのつぶて、である。そうであろう、本気でないから。

 いい年をして、市民に対し「家事の男女間の共同負担」とか提言して、お前たちは恥ずかしくないのか。基本的に、市民をバカにしている。
 「俺は、お前たちが、(裏で)どんなインチキな夫婦喧嘩をしているかよく知っているぞ」と、喝破した小林秀雄のように、バカな公式、愚劣問答を繰り返す彼らをののしってやりたい。
 国家や政府が、夫婦(男女)間で作り上げる個々の生活・観念世界(対幻想)に口を挟むなど、余計なお世話である。
 そんなアホらしいことは、さすがに古代から為政者もやってこなかった。

 一組の男女間での「愛の直接性」とか、片面的なことは言うまい。当然のことだ、子育てやらなんやらの際に、少々壊れかかった夫婦にもそれは確かにある。
 それより何より、制度の不備と貧困によってそれが阻害される、虐待やネグレクトを私は許さない。
 それは、多くの国民大衆たちも、同様な見解であると思う。
 現在、何より問題なのは、「国民の貧困」の問題なのだと。
 先に、小浜逸郎氏に教わった、京大教授、美学学会会長、吉岡洋氏のブログ、「ひるねのたぬき」(chez-nous.typepad.jp)、を引用する。
 「日本国民の貧困化を継続しさらに助長することになるすべての政策に対して、党派やイデオロギーの違いを越えて大同団結することが(今)最も必要であると考えています。(学問の自由について) 
 「国民の貧困」は、学者であろうが、一般大衆であろうが、あらゆる側面で、進められ、私たちは分断されている。
 この認識と、当面、個々の側面での戦いを私たちは、喫緊の問題として共有し、戦って行かなくてはならない、と私も思う。

 ここからは、「男と女に係る」個人的な感興(各論)に戻る。

 しかし、それ(愛の直接性)が長く続いていくとは限らない。
 そもそも、開闢(かいびゃく)以来、一連の男と女は、相互で不断の闘争をしている。
 それは、男女のどちらが、何らかの方法で、相手へのヘゲモニー(支配への同意)を握るかというところに尽きている。
 更年期に差し掛かり、ラカンの指摘を待つまでもなく、折に触れ、妻は狂騒状態になる、何をしても言っても、何も受け付けない、あれは演技をしているのではないかとひそかに私は疑っている。
 一方、同様にご指摘のとおり、「女になった」はずの私は、昔の攻撃性(?) は収まり、昔より温和になった。
 性を媒介にした関係も、お互い衰えてしまえば、融和への道筋はできる、よくしたものである。
 私たちも、通常であれば、決定的な破綻まで行かない。
 仕方がないので、その前で、お互いに損得と今後の様々なリスクを測る。
 そんなものである。あらゆる関係は、闘争の果てに生じたものであると。
 嘘がつけない男女間できれいな口を利くことはない。殊に、根っからのリアリストである女性とすれば、男女共同参画など、屁みたいなものだろう。
 それが理解できずに、否、それを政治的な運動に引っ張り込もうという女は、心底、下衆(げす)だ。言っておかなければならないなら、男も下衆だ。私の敵だ。

 かの「文化大革命」の際、流行ったという、「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのもみんな私が悪いのよ」と、以前私は、ゆるやかに妻に抗弁したことがありはしないか。

 おそらく、我が家の子や孫を入れてしまえば、彼らは、私より妻の延命を望むであろう。
 それは十分に理解できる。妻の方が、将来、役に立つのだ。
 平均年齢は、一般的に女が長い、自然の摂理はそうできている。
 私は、妻よりは先に、従容(憤然)として、死んでいこう、それはひそかな決意である(本当のところはよくわからないが。)。
 妻は、逆に、私が生き急いでいるという、なかなか鋭い指摘だ、優れた対立者というのは、身内にもいる。


 閑話休題、前振りはここまでにさせてもらう。長くなって申し訳ない。
 逆らったら、はけ口・標的となるので、基本的に逆らわない、どこに行くといわれても、喜んでお供をさせていただく。それが幸せというものだ。
 さすがに南極に行きたい、というのは断ったが。

 ということで、このたびも妻が皆仕切ってくれる。
 ありがたいことである。
 私も好奇心は、まだ尽きないので、旅行に行けば楽しい思いはできる。
 このたびは、大分県日出町の、二階堂美術館の所蔵品で開催されている横山大観展を見に行くこととなった。
 地方で、大家といわれる人の作品を見る機会は少ないので、大変うれしかった。

 東九州自動車道に入って、前回に罵倒した、今川PAに入る。
 徹底した合理化で、コンビニ、インターが併設であるあわただしい場所である。
 まことに息苦しい。
 注意深く聞いていると、中共語、朝鮮語放送がない、先に立ち寄った(9月上旬)時、なぜ、コロナ下で意味もなく、こんな売国放送を繰り返す、と投書したので、私たち利用者の意見も、聴取し、採用するのだとうれしかった。
 したがって、お礼の言葉を投稿しようと、はがきを取り上げた。

 あにはからんや、帰路の、対に設置された今川PAに立ち寄った際である。
 きちんと、中共語、朝鮮語放送が、放送されているではないか。
 要は、下り路線は、音声の故障だったのであろう。
 引き続き、立ち寄り者もいないはずの場所で、売国放送を繰り返す。

 もし、政治的に日本国に住在する中共人があれば、日本国民は、習近平のご威光のもとに、変わらず臣従している、愉快、愉快と思ったであろう(中共で習近平が尊敬されているかどうかは別問題である。)。
 反日国家の南鮮人であれば、あれだけなじっても、バカにしても日本人はバカだ、そんなもんだ、バカはバカだ、バカにしていれば、今までとおりでなんの問題もない、と思うだろう。

 続いて、「めかりPA」に寄っても同様である。閑散とした、パーキングに、放送ばかり響いている。
 このたび、検証しなかったが、関門海峡の対岸にある下りの「下関PA」においても、同様の扱いなのかもしれない。
 下関市は、観光商業地の唐戸魚市場で、中共人を原因とするコロナ被害で大損害を受けたであろうに、と思う。

 民族語、日本語は、日本人の誇りである。
 日本国では日本語を使いこなす(西欧文明を翻訳・理解し自国の安定のもととしたということである。)文化国家であるが、今後とも、殊に、世界平和の脅威である中共、反日国家の南鮮に、侵略され、また侮られて、いずれ植民地国家の座に頽落(たいらく)するのか。
 日本国が経済的に占拠され、今までも、日本国の文化・伝統を軽視、侮蔑する行為は、島しょ部、周辺部など、警備の薄い、日本国の各地で行われてきた。
 それを言えば、私は、東京の名門百貨店でも、同様な光景を見てきた。
 要は、教養のない、覇権国の、元貧民たちは、他国に行っても、素で下品な行為を繰り返すということである。

 いずれにせよ、中共が日本国の敵国として対立すれば、ウイグルと同様に、悪辣な同化政策をとるのは明白である。
 反動革命、文化革命で、伝統・文化を否定し、父祖を否定し、家族すら否定することを強要し、反抗的な指導者・国民を、公開処刑してきた、パヨク国家の人民抑圧は、今も、健在である。
 悲惨な反動革命は、カンボジアでも、南米でもいくらもあった話ではないか。
 それを擁護する、西欧・日本国の病的な狂信パヨク勢力も、益々健在である。

 なぜ、西日本高速道路運営会社は、利敵・反社会的行為を改めないのか、それとも、すでに、その経営は、中共の管理下にあるのか。

 九州には、名著「英語化は愚民化」の著者、施光恒氏もいるはずである。
 九州では、親中共、親南鮮の気風・雰囲気があるといえば、それまでであるが、九州人は、なぜ、こんな仕打ちに怒らない?

 このたび、私が旅先で出会ったのは、皆、至極まともで健全な人ばかりであった。
 彼らは、「GO TO トラベルキャンペーン」をありがたいといい、自社の利潤率の減少を覚悟で、親切な対応をしてくれた。お土産までもらった。

 私が感じたところでは、今回、旅行者は思いのほか多い。どこでも日本語が聞けて良かった、ところである。

 しかし、このたびも、深く、思ったのは、疲弊した観光地・商業地を復活するためには、まず必要なのは、国民経済の健全な復活ということであり、そのため、なぜ、消費税を凍結しないのか、という、率直な疑問である。
 消費行為は雰囲気である、デフレ、コロナとマイナス原因が続くのに、誰が積極的に消費をするというのだ。消費が振るわないのに、誰が、積極的に、商品開発をしたり、製造・販売が活性化するというのか。
 「GO TO トラベルキャンペーン」などでは明らかに不十分である。
 私は、地元の商業者、製造業者のみならず、一般国民大衆を、側面支援したい。
 私たちは、貧困から抜け出す権利がある。「自己努力」とか上等なものではない。
 政府が、怠り続けた、効果ある経済政策を成すべきである。

 「非国民」といわれるがいやで、旅行にもいかない人が、いくらでもいるではないか。
 早急に消費税凍結(廃止)し、どこに居ようと、国民の大多数が、共存共栄し、日本国の安心安全が護持できるようにすべきであろうと思う。

 「西日本高速道路運営会社」よ、そのためにも、意味のない、いや、非常に害のある、売国放送を即座に停止せよ。

別府旅行記追記(罵倒編その12)文化と伝統を破壊するグローバリズムとどう戦うのか(西日本高速道路運営会社にもの申す。)

2020-09-24 16:56:09 | 罵倒シリーズ

 私が利用する、地場のスーパーの店頭に、とうとう、フードポストが登場しました。
 ものごころついて以来、60数年のうちで、こんな光景を初めて見ました。
 小浜逸郎氏のブログ、「ことばの闘い」、「安藤裕衆議院議員を自民党総裁に」中で、いかに日本国が凋落の状態であり、大多数国民・弱者・子供たちがいかに窮乏しているかということで、年代比の資料が引かれてあり、その中で「こども食堂」は2012年ごろ開設、2016年319箇所であったものが、2019年3700箇所とあり、目を疑うような数字です。こどもに満足に食事が与えられない家庭とはなんと悲しいものでしょう。ましては、他人の善意にすがらなければならないということは。
 他にも、当該ブログでは、ため息が出るくらい、ダメになった日本の現実が、何十も列記されます。

 ところで、注意してみていると。賞味期限が当日にもかかわらず、3割引きとか、そのスーパーでは店陳されており、貧しい老人がそれを買うこともあります。時に私もその一人です。スーパーも同様に苦しいのでしょう。
 こんな状態に大多数国民を追い込んだ、まず、一義的に政府、政治家たち、財務省は決して許すことはできません。
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最期に、旅行の不愉快な思いを申し上げたい。
このたび、私は、自分で車を運転して目的地別府まで行ったが、まず最初に、中国自動車道、九州に入って、九州自動車道から、東九州自動車道に降りていくことになる。
 最近の、西日本高速道路運営会社(NEXCO西日本)(以下「NEXCO西日本」という。)が管理運営するパーキングエリアは、非常に簡略化され、休憩場所や土産物の販売どころか、トイレとコンビニくらいしか設置されていない。
 それがデフレのせいなのか、コロナ戒厳令のせいなのか、どこのパーキングも、いずれも、客足は落ち込み、すすけている。こちらの、気が滅入る。
 許せないのは、その便益施設での当該パーキングの案内で、いまだに、韓国語と中共語のアナウンスが延々と流されることである。
私は韓国人、中共人でないので意味は分からないので、もしそれが、「南鮮人、中共人は日本に二度と来るな。恥を知れ」と言っているのであれば、次の、ブログで謝罪する。
 まず、両外国及び両外国人を媒介にして、日本国にコロナウイルスがまん延したにもかかわらず、いまだに、延々と歓迎、案内アナウンスを繰り返す、NEXCO西日本の見識を疑う。
 「だから日本人が旅行しねえだろうが、バカが」と思う。

 お前たちは、南鮮、中共の奴隷か、コロナの発生・原因国によって、日本国高速運営会社としても多大の損害を受けたことを、不法行為として認識していないのか。なぜ、失われた損害を、本来の原因者に賠償請求する気概を持たない。
利敵行為もいい加減にせよ。もちろん、覇権国家・反日国家として私たちに厳しく敵対する、国民国家日本国の大多数大衆の利害に直接かかわるからである。

 前回立ち寄ったときは、マナーの悪い(バカな)中共人若しくは南鮮人が、携帯電話でがなりたてていた。非常に不快であった。これは、今でも、見る光景であるが(先日病院の待合室でババアが同じことをしていたので、さすがに注意しようと思った。管理者は、結局野放しである。)。

 いくら、私企業とはいえ、自国の、大多数国民大衆の利害と、安心・安全の確保のために働くのが、あんたら(方言)の本来の仕事であろう。それとも、ここは中共・南鮮の植民地なのか?

 それが、LGBTとか、「おもてなし」として当然のサービスとか、愚かなバイアスのかかったパヨクイデオローギーに基づき、国富・債権を放棄するとはとんでもない了見違いである。
 それこそ、誰かではないが、「自国民ファースト」に、なぜならない。それこそ、組織レベルで、脳が沸いているのか?

 だから、思いあがった、南鮮人、中共人になめられる。
 バカで、お人よしの日本企業、日本国民に対し、やりたい放題である。
 また、こんな売国行為を平然と看過する九州人の見識を疑う。
 サイレント・インベージョンどころか、すでに政府の無策と無警戒のもとで、粛々として行われた、中共・南鮮人による国土の買取や、中共系企業の傘下と思われる、系列資本を通じたペイペイなどの展開に、君たちは、積極的に加担しているではないか。
 お前らがキチンと声をあげれば、こんなつまらないサービスなど、すぐにやめてしまえるのに、と。

 少なくとも、社会的な、公共的な場所で、こんな、覇権国家や、反日国家の言語をたれながすことを許してはならない。
 自国の伝統や文化や慣習に対し、自負と自恃の心を持たない国民国家が誰に尊敬されるのか。

 どうしてもアナウンスがやりたいなら、せめて英語でやれ、日本人と違って有能な彼らは、英語を理解するであろうから。少なくとも、新幹線の定時連絡は英語放送をやっているではないか。

 なおかつ、コロナの結末として、日本国民は移動を差し控えるように、利用料金の低減も、ずっと取りやめられたままである。なぜ、他国の不法行為で、われわれ一般国民大衆が、不自由や、損害を受けなければならないのか。理不尽な話である。

 かねてから疑問に思っていた。
 中国自動車道においても、運転者の視野と視野に入る景観を狭め、安全運転を阻害する、不必要な囲障(高速道路沿いの目隠し)増設が続いている。利用者のドライバーとして、あい路を走るネズミのような気がして、非常に腹立たしい思いがする。
 今更、周辺対策などというな。敷設当初に、そんな話は決着しているはずだ。
 それこそ、それは会社としては理不尽な要求ではないのか。苦情があれば、個々の訴訟で対応すればよい。
 そんなことをするくらいなら、まず、地元に金を払え、税金も払わず、事業展開を行う、これは反復継続される不当利得の合法化ではないのか、直接的に所在する、地元市町に応分の固定資産税を払え。
 当時の政策の当否は別にして、分割民営化されたJRもNTTもその後キチンと、固定資産税相当分を負担しているではないか。

 私たちは、有料道路を走行する利用者として、沿線の景色や景観を楽しむ権利がある。それが、例のカスタマーサティスファクション(顧客満足度の確保)というものではないのか。そして、ゆったりした気持ちで運転できれば、おのずと安全運転の確保できるはずである。
 日本国土を自由往来しているくせに、地方に対して、応分の負担をしない企業とはどういうものか、と思う。
 おまけに、現在、前述したように、政策的に高速の利用を戒めるため、使用料の減額を取りやめている。
 お前らはバカだ。いまだに頭の悪い役人体質で、それ自体、完全に、むこの(罪のない)利用者国民大衆に、理不尽な不利益と、何より不便なサービスを押し付けている。

 最近、殊に、昼間の道路工事が多い、車線を完全にふさぎ、何キロも規制区間が続く。
 トンネルの出入り口とか、おかまいなしである。こんなところで車線変更ができるのか工事に伴う車線変更や、車線の復帰に際して、他の走行車両によって、大変怖い思いをする。
 昼間の工事には理由があるかもしれない。夜間工事は確かに危ないだろうし、費用もかさむだろう。しかし、道路管理者としての安心安全のつけを利用者に回すのはどうなのか。

 再度申し上げる。お前らはバカだ。いまだに頭の悪い役人体質で、むこの(罪のない)利用者国民大衆に、理不尽と、何より不便なサービスを押し付けている。おまけに有料道路ではないか。
 それこそ、一般の地方道の管理者の方が、もっと、地域住民の安心・安全に注意を払ってはいないか、そう思える。

 しかし、高速道路の拡大・拡充を私は支持する。
 日本国には、自然災害が多く、ライフラインが分断されないために、道路の拡大・維持管理は重要な政策と思う。
 ひところ、「道路は文化」という標語が、一時地方道で張り巡らせたが、私もそのとおりだと思った。
 個々の生活拠点を確保できない、日本国の地方住民、国土の安心・安全を守ることは、政府及び地方公共団体の、第一義の仕事である。
 それができないから、困窮した地方の孤立した弱者は、中共や南鮮人に付け込まれ、土地をうばわれる、売国奴政治家(まずは二階幹事長)は恥を知れ、自国民を、自国民の安心と安全と財産を、平然と他国(覇権国家)に売り渡す、政府政治家を決して許さない。

 このデフレの時期になぜ、新規に覚悟をもって、全力を傾注して新規の道路設置工事を、なぜ実施しないかと思う。そうすれが、おのずと地方の道路整備も続く。
 しかし、その後の運営会社が、そのサービスの実態を見て、この体たらくであれば、誰のための高速道路かと思ってしまう。
 グローバリズムの犯罪は、自由貿易協定に痛めつけられた、欧州、オーストラリア、北米などの弱者の実態を見れば明らかである。
 国境、イデオロギーを超えて、一部少数者によって、大多数貧者が支配下におかれる現在の状況で、無考えで、自己利害のみ追及する政治家たちに実行された、経済難民たちの乱入によって、自国の伝統・文化、財産、秩序維持、身体・生命の安心・安全すら脅かされたのが、現実ではないか。

 こんな状況下では、私たちは、まず、身近なものから戦っていかざるを得ない、「文化の多様性の容認」とか、「他国少数者の権利の擁護」とか、現在唱えられている、パヨクの唱える反動そのもののイデオロギーに使そうされた、具体的な政策と、私たちの局面で、戦っていこう。

「自国民ファースト」は当然のことである。
 現時点で、それが主張できない、政府も、経済人も、当然官僚(本当に腹立たしい。)も、日本国民の敵である。

「おもてなし」から「えせおもてなし」に及ぶ(罵倒シリーズその11) その2

2019-06-12 17:47:06 | 罵倒シリーズ
 
 臼杵市の摩崖仏です。

 引き続き、湯布院町宿泊について言及します。
 このたびは、ひさしぶりに、山歩きをしようと思い、九州で、まだ登っていない由布岳を登山する予定をしていました。
そのつもりで、隣接の湯布院市に、一泊する予定にしていました。そこは、日本旅館でしたが、連休料金になる、と言っており、まあ、繁忙観光地でもあるので、仕方がないか、と思っていました。
 実は、事前に、由布岳の登山について、当該旅館に問い合わせをしていましたが、どうも返事がはかばかしくなく、なぜなのかと、疑問に思っていました。

 別府から、由布院に抜ける県道11号線を走っていたとき、たまたま、由布岳の登山道(中央)を見つけ、妻との協議の結果、そのまま登ることにして、早速登り始めました。
 由布岳の標高は、1583メートルであり、当該登山道の始まりが600メートルくらいの標高で、見る限りでは、そんなに厳しい山とは思えず、早速きれいな草地を歩き出しました。
 美しい新緑の木々の中を、松林から、つつじなどのかん木林に置き換わるまで、若葉の中を、気持ちよく進みましたが、二人とも、昔日の体力、気力はなく、八合目(だと思える。)で、断念してしまいました。
 特に、降り道に、極端に弱い私は、這う這う、下山したようなところです。

 それから、旅館目指して出発しましたが、市内をとおりすぎ、いつの間にか山側の枝道に入り、ナビを見ても隘路のような道が続き、離合も困難な私道のような道が延々と続きます。「おい、おい」と思いつつも、中心部からかなり離れた、山の中腹のようなところで、お目当ての旅館を発見しました。
 当該旅館は、急傾地に建っており、その施設が、棚状に、何段階にも分かれています。
 一番上の段のフロントで受付をしたとき、担当の女性職員が対応し、流暢な日本語でしたが、「えっ」と思いましたが、明らかに日本人ではありません。いわゆる、背の高い中国系の美人です。上下のお仕着せを着て、申し訳のように、粉茶の冷茶(粉が溶けずに残っています。)が出て、館内の説明です。
 私たちは、別棟に宿泊予定であったので、彼女が、手下を連れ、部屋まで案内します。手下が荷物を持つ、というので、「それはいい」というと、「いずれにせよ、(彼女は)付いてくるのに(なぜ持たせないのか?)」、というので、「へー、なるほど、(あなたの祖国は厳しい階級社会だな)」と、当方も納得です。
 妻に言わせれば、手下を、あごで使ってるよ、という感触です。うちの家庭も同様じゃないか、というのは私の感想ですが、それを外部にわかるようにすべきじゃないな、ということも確かです。
 当該離れは広いのですが、それは海の家のようなつくりで、いたずらに広いわけです。どうも7、8人くらいは雑魚寝(ざこね)できるね、という具合です。
 食事は、食堂へというわけで、急峻な石段を登らなくてはいけません。
 のぼり坂に強い私ですが、登山の後でさすがにこたえました。
 テレビっ子の私は、部屋に入るなりに、早速テレビを点けてみます(令和天皇即位の礼の日であった。)が、BS放送は入りません。困ったことです。私は最近地上波をしばらく見ていないのです。
 温泉かけ流しの風呂が、昔の西部劇に出るようなユニットバス(足がついたあれです。)であります。
一応、本館大浴場へ行くといった、妻が、「中浴場でもなかった、家族風呂だ」と、失望して帰ってきました。
 石段をのぼり、食堂に行きましたが、やはりスタッフは、日本語が堪能な中国人です。
 メニューは、当然グローバリゼーションに配慮した、ハングル・中国・日本語です。英語バージョンがないのが嗤えるところです。
 まず、ドリンクの注文があり、目の前に置かれた盛り台に、説明とともに、コース料理が並べられていきます。料理に対する受け答えは、一応はしてくれます。
 日本料理なんでしょう、おそらく、ただ、数種類の調味料入れがおいてあり(ありがたいことです。足りない部分は足せということでしょう。)、「あれ、百均(百円均一の雑貨屋)の容器じゃないの」と、妻が言います。
 いろいろ料理が出て、どのように調理したのか、妻に教えを乞いますが、「これは和風の業務用だし」とか、いろいろ、レスポンスがあります。不満です。
 きわめつけは、えびの刺身に、香辛料の利いたソースが載っているもので、これは、日本料理じゃないだろ、と思えるものです。全体で、6、7品は出ます。
 率直に言って、国籍不明料理であれば、それでいいのかもしれないが、それでも決してうまくはないだろう、という感想です。
 後で、「今回、最初にここに泊まって、最期に、別府に泊まったら、よかったわね」、という、双方の結論でした。

 人里離れた箇所なので、まちに歩いていくこともできず、部屋つき露天風呂をつかうこととしました。
 使用時間は、安全管理上という理由で、朝6時から、夜12時までの使用となっています。それは、営業上の理由ではないのかと、こちらも深読みします。
 風呂のすぐ下は護岸であり、切り立った川岸となり、対岸はうっそうとした樹木が茂っています。露天風呂の流し湯は、そのまま当該河川に直接排出されるように見え、放水して「大丈夫なのか」という疑問が浮かびます。温泉水自体の放水は、支障がないものかもしれませんが。
 白濁した湯の、泉質は確かに良い様でした。妻も同様の感想です。

 しかしながら、先の別府の温泉と比べると、費用ははるかに高く、日本旅館としてのそのサービス、そのおもてなしの質を、費用効果性を考慮すれば、当方とすれば、やはり、腹立たしいわけです。

 なぜ、このような、似て非ざる、えせ日本旅館サービスについて、私たちが、いらだつのか、心外に思うのか、考察してみました。
 かつて(ずいぶん前ですが)、インドネシアの、著名(?) なリゾートホテルに宿泊した際、当該ホテルは、各客室を、かやぶきのコテージと大理石で拭いた床の建物にしています。それはいかにも現地の建物と、文化、伝統、植民地時代の豪奢さを混在し、当該長い歴史をほうふつさせる造りになっており、ホテルの様々な、基礎建築と同様に、独特の雰囲気をかもし出すこととなっていました。
 私たちが、初めて、例の、インフェニティエッジというのか、風景と水面が一体となる、まるでその場所全体が、森林の中に在るかの様な風景を作り出す、備付けプールを体験したのは、そのホテルです(私たちの身分不相応のきわめて高い料金でしたが)。
 料理はもちろんのこと、ホテルのスタッフは、どのようにして、現地の特色、歴史、文化、雰囲気を出すのかに、非常に腐心しているかが、こちらに伺える様です。いわゆる、客が望むような植民地ホテルの雰囲気をどのように顕わすか、ということです。
 彼らは、その国家の独自の歴史や、伝統、風習をよりよく肯定し、外国人にその雰囲気をどのように伝えるかに努力を傾注していました。
 また、同時に、ホテルを少し離れれば、シャモのような鶏が、路地を走っていたり、街を行き合わせれば、まだ風葬があったりする場所であり、人口も多く、ごみごみした街並みが続く、汚く、異文化とすれば、まことに面白く懐かしいようなところ(妻は嫌った。)でした。
 どうも、旅行に行くのは、非日常の生活体験を味わう要素が大きく、それが喜びとなって、私たちの感情を慰撫します。人は、それこそ、「差異」に価値を見出すのですね。
 よその国に居座り、借り物の文化や歴史で、キッチュな景色を作って、何の意味が、発見があるのかと、いいたいわけです。「バカにするなよ」、「わが国の伝統や文化を舐めるなよ」と、きわめてはらだたしい訳です。また、結果的にこんなサービスでは、他国の文化や、歴史をおとしめる結果にしかなっていない、訳です。
 また、彼らは、他国に対する敬意や、文化の尊重が、決定的に欠落している、舐めた、おもてなし(いやがらせかもしれない。)をしている、訳です。
 辛らつに言えば、猿芝居は、お前の国で、自国民だけにやってやれよ、ということです。
 仮に、中共の、独自の文化、現地人のより良き接遇ともてなしを、提供したら、中共旅行も可能かもしれない、しかし、漢詩人たちが描いたような、その気風や、客人に対するもてなしの文化も、あの農本共産主義の嵐(文化大革命)の渦中で、とうに、失われたのではないか、と邪推します。
ダメ押しではないですが、翌日の出立前に、その日旅行する場所の、パンフレットかなんかないの、と聞いて見ましたが、そんなものはありません、という回答です。その替りに、「○○さん」と呼ばれ、初めて日本人スタッフが、現われました。
 彼女は、「そこは、ずいぶん前に一度だけ行ったので、よくわかりません」という回答です。
 さすがに、中共系ホテル、日本国の他の同業者や、観光地の尊重とは無縁で、孤立無援で営業しているようです。バカな話ですね。

 このブログを書いている途中に、聞き及ぶところによれば、南鮮資本により買い占められた、対馬の観光旅館で、恣意的で攻撃的な観光案内で、地区民が崇敬する神域(和多都見神社・ファイスブック・平山氏のページを参照)のみならず貴重な日本国の文化遺産をおとしめる行為が横行している、との話もあります。
 元寇時代の、対馬民衆へのきわめて苛酷な侵略被害(いわゆる鎌倉時代の「他国侵ぴつの国難」)は改めて指摘するべくもなく、当該元の圧政に抗しきれかった、漢民族のだらしなさ(中共民の先祖)を指摘(組織的な攻撃に時には反論しなければ)し、その代替として、覇権国家として、わが国土を買いあさる、経済・軍事的侵略を、露骨にしているではないか、ということです。
 これは、決して些細なことではなく、それこそ、わが国の歴史・文化・伝統に対する侵略を、政治的・経済的侵略と同時に行われている他国の侵略行為を、許して良いのか、と強く思います。

 私、先に、(玄界灘において)対馬に連なる壱岐島に行きましたが、その際、ホテルで、スタッフと、気の置けない本音トークとなり、国境に近い島の苦衷をわかっているでしょうかと、真顔で問い返されました。
 確かにそうでしょう。しかし、同時に、ここが南鮮観光植民地化されたとすれば、いくら歴史と文化があったとしても、壱岐には、日本人は来ないよと、応酬もしました。

 このたび、騙されて宿泊した、同宿の他の方々には、お気の毒なことですが、これだけ、文化・伝統への無理解や、不適切なおもてなしが、私たちの気持ち(日本人としての実存意識)にこたえるとは、私たちは思っていませんでした。
考えれば、連休の忙しい中で、日程を繰り合わせ、家族のために旅行され、いい旅館をと、宿泊した方に対して、私は、「自己責任」とは決していえないわけです。
 むしろ、グローバリズムなどという腐った理念の下に、他国から侵略と文化破壊を許す、日本の腐った政治家たちの、ねじのゆるんだ頭を、関西弁で言えば、「どついてやりたい」、ところですね。
 山口弁で言えば、「しばきあげちゃりたい」(原語は「しばく」という動詞になります。)ということになりますが。


「おもてなし」から「えせおもてなし」に及ぶ(罵倒シリーズその11) その1

2019-05-31 19:34:23 | 罵倒シリーズ

 日本国を衛護する八幡宮のもとじめ、宇佐八幡宮です。
 
 先の大型連休に、九州北東部方面(大分県)に旅行しました。
 「超」大型連休ということで、久しぶりの自分の車での旅行で、少しビビッていましたが、幸い無事に帰ってこられたのは重畳でした。
 そういえば、妻から旅行に誘われるのは、ありがたいことである、と近年、思えるようになり、いろいろ留保はありますが、まあ、幸せなことです。
 このたび、連泊で別府市に二泊し、湯布院に一泊しました。
 昨年末、別府に宿泊し、それは妻の選択した旅館であり、昭和初期建築という、古いながらもとても印象がよかったので、変化を好まない私とすれば、季節を替え、同じ宿をこのたび再度おとずれ利用したかったところです。
前回は、お初の利用だったというのか、庭付きの続き部屋を用意してもらい、このたび、電話予約で、当該部屋をお願いしました。
その際に、宿泊客の部屋の選択は、おかみの裁量であるという回答でありました。このたびも、その部屋が用意されてあり、幸運なことでした。

前回宿泊した際に、外国人(南鮮系)が、部屋指定で宿泊したいと強弁し、この広い部屋に変えろ、とか、風呂場の脱衣場であかすりをやられて困った、という話を聞きましたが、私たちは温和な民族であり、旅館の方針に従いますが、彼らはどこに行っても、あくまで、中華思想であり、アグレッシブであるようです。
かつて、高度成長期(今では夢のようですが)に、「ノウキョー(農協)さんが団体旅行で、暇にまかせて外国旅行(先進国旅行?)へ行っている」と、新聞・雑誌で、揶揄・嫉妬された時代に、彼らは「(良識ある)現地人の顰蹙を買っている」と、嘘偽報道しました。
当時の新聞・雑誌記者とは、すなわち大衆憎悪のサヨクインテリたちであり、大衆(?) 旅行者を成り上がりものとして、その有様を、おもしろおかしく盛んに軽蔑・批判しました。当時の、都市型貧民(都市居住の中間層)のルサンチマンを、くすぐり、煽動したわけです。
その流れは、その後、海外旅行でブランド商品を奪い合う、都市下層女子労働者(OL)を批判し、西欧旅行をし、自分たちの特権に手を伸ばしかけない、彼女たちをあざけったわけです。あくまで、不健康で、嫌な男(?)たちですね。
いずれにせよ、無考えの大衆を煽動した、その不健康な、ルサンチマンが、その後、日本国政府の一部を巻き込んだ、卑怯で、下劣なグローバリズム礼賛勢力に利用され、日本農業の息の根を止めるような、亡国の政策、農協法と、種子法の改正を招いたことだと思えてならない。

ところで、現在のパヨク(バカサヨク)マスコミたちは、なぜ、南鮮、中共の一部特権階層の、日本国の観光地における傍若無人な態度と振る舞いを、報道しないのか。

少なくとも、当時の旅行に行った農業従事者(ノウキョーさん)たちには、人のよさというものがあった、と思う。それこそ、「粗にして野だが、卑ではなかった」のである。
日本語のことわざで、「旅の恥はかきすて(その意味は、旅先では恥を感じなく好きなことをやってしまえ、という決して積極的なものではない。旅先で、ものを知らないことで恥をかいても仕方がない、という消極的な意味である。)」以前に、日本人には、それこそ「郷に入れば郷に従え」という、温和な調和性があった。その、「国民性」を私は誇りたいと思う。

 そんな温和で協調的な国民性を、パヨクは「LGBT」とか、「(他国民の)少数者(被抑圧者)の権利」とか、欧米発のPC(ポリティカルコレクトネス)(形式的平等性しか担保できない、浅薄な、くさった理念)に基づき、日本国国民大衆を脅迫している。
 それこそ、何の意味もなく、私たちに、失望と、既視感と、ばかばかしい徒労感が残るばかりです。芯まで腐った確信犯であるかどうかは別にして、日本国民は、パヨクですら、バカで、お人よしなんですね。それにきちんと乗っかる、中共・南鮮の指導者たちは、抜け目のない、外交巧者である、下劣な輩である、が。

 特にぜいたくをしない私たちにとって、きちんと、部屋つきの仲居さんにきちんと対応してもらうのは、記憶をめくっても初めてであるような経験です。
 湯茶の接待から始まり、風呂の説明から丁寧に行われ、それ以外は問えば応えるという対応です。これも、おもてなしの妙蹄でしょうか。茶器も、茶自体も、名品でありかつ質の良いもの、という妻の判定です。
 このたびは連泊でもあり、祝儀とかどうなのか、と聞いてみれば、「微妙だね、袋はないよ」、という応えでありました。今になって思えば、「出すべきであったなあ」という感想です。
 この旅館は、いわゆる割烹(かっぽう)旅館であり、検索すれば、「日本料理を調理し提供する旅館」ということになるでしょう。確かに、料理の質は高く(妻に、あんたの舌は当てにならぬ、という指摘ですが)、仲居さんが言うには、京料理修行をした板前さんだそうです。
 純和式の上品な料理ではありますが、大ぐらいの私としても、コースで、7品から8品ある料理は十分満足です。何をどうやって調理しているのか、二人で推理して、仲居さんに正解や来歴を聞くのも楽しみです。これは重要なおもてなしですね。
 このたびは、城下かれい(伏流水が別府湾に湧出している箇所に住むかれい)がシーズンに入っており、心地よい歯ごたえと、魚肉の甘みを堪能しました。他にも、まぐろ(おおとろ)も、豊後牛も、まことに美味でした。
味はもちろんのこと、見た目の美しさは、日本料理は世界最高のものであるという指摘は嘘ではないと実感されます。その器についても、伊万里も、九谷も、有田もあり、肉や野菜のコントラストとともに、一見の価値があります。このようにして、庶民は、旅先で、貴重な旅情を楽しむわけですね。これも重要なおもてなしですね。
 仲居さんはとても年季の入った人で、現在は、温泉つきのマンション(?) に住んでおり、今も、仲居の仕事をこなしているといいます。自分の職分をきちんと見定め、おもねることもなく、客に対して過剰な介入もしない、どうも、こちらの対世間・人間関係能力を試されているような心持ちになります。先代の女将の時代から、ここにいるそうで、それこそ、右肩上がりの時代から、バブル崩壊、デフレ時代をどうにか生き抜いてきた、接客業の大ベテランです。
 ところで、この別府にも、外国資本が入ってきているようで、南鮮系から、この9月には、高台にはイギリスのリゾートホテル(インターコンチネンタルホテル)ができるそうです。私の意見として、「それは、囲い込みのような営業で、地元に益することはないんじゃないんですか」と聞いてみると、おつきの人とか、スタッフが、市内に泊まるかもしれないと、客商売らしく、穏当な発言です。

 前に、別府に来たとき、別府駅からの移動に、路線バスを利用した際、外国人(南鮮人)の観光客らしきものが異様に多く、なぜなら立命館太平洋グローバル大学が存置(英語で授業をするというのか。どうもそうらしい。)しており、学生のみならず、その学生の家族が来日・観光しているかも知れないところです。
 国策を反映した、国際人(?) を養成する大学であり、様々な、留学あっせんや、韓国・中国語を学べる環境にもあり、「英語くらい話せるように」、「留学くらいさせてやりたい」、日本人の子弟を教育させたい、今では、父兄の残り少ない共同幻想をくすぐる大学(偏差値は知らないが)です。
 わが日本国は、南鮮や中共と違い、英語ができないと生きていけない国家ではないので、英語に弱い日本人学生は苦労をするでしょう。
 こどもに教育費を懸ける、親たちのその切ない思いは今も私たちの学生時代と変わっていませんが、彼らの資料を見れば、その授業は、教員の板書授業ではなく、学生によるグループセッションや、自主授業を主とすると書いてあるので、「グローバリズムを至上の価値とする」教育がおこなわれ、すなわち「みんな違ってみんないい」という建前の先験的西欧言語・文化至上の国籍不明の授業と、国民国家日本の文化・価値・歴史を放棄した実態であり、欧米国家に、植民地大学として「はなまる」をもらえる、英語主導の植民地教育がされるのでしょう。
 かつて、友人の子弟に聞いたところでは、語学留学先(オーストラリア)でのグループセッションで、彼女は国籍だけで「日本軍国主義者の子弟であると使そう」されたということですから、虚偽の南京事件をもとに吊るしあげを食らうかも知れません。ここに、どんな学生が来ているかはわかりませんが。
 ご都合主義というか、通俗的というか、立命館大学とは、つくづく、曲学阿世の徒、ですね。大学教育事業というのは、その昔からビジネスの一環かもしれないが、いささか、たちが悪いようです。

 仄聞するところによると、別府市の丘陵部に位置する、鳴り物入りで宣伝されているS大規模ホテルは、今では、南鮮資本の傘下に移行し、サービスと、客の顔ぶれが全く変わった(朝鮮・中共系がほとんど)、と言っておりました。わが山口県からでも、貧乏人でも交通弱者でも、団体バスで乗り込める安直ないい宿であったらしく、とても残念なことです。

 閑話休題、かの仲居さんは、言葉の端々から、どうも、今の女将に対しても、自分の立場と、応分の分を主張しており、また、職分は女将にきちんと決められているようで、なかなか職場としては、対等で厳しいところです。職人さんのような風情ですね。
 日本国の旅館業は、分業が徹底しているようで、仲居のあいさつから、女将のあいさつ、入れ替わりやってきて、客の要望に応えます。これだけ人手と手間がかかるなら、個人宿泊は難しいような気もします。しかし、一人での宿泊客とも少し話をしましたので、おなじみの単身客も泊まれるようです。うちの妻が、どんなところか厨房を見てみたい、と言っていましたが、それは次回のお楽しみということでしょう。
 別府の観光地を尋ねたところ、「それは女将に聞かれたほうがいいですよ」と、女将を呼んでくれます。
 女将は、「大分民芸資料館」のパンフを添え、紹介してくれました。「解説も無料でしてもらえるんですよ」、という話です。
 ということで、竹細工、民具の奥深さを十分に堪能させていただきました(写真参照)。
 連休中でありながら、とても空いており、まさしく、穴場です。言われたとおり、そこの職員の説明も親切で、丁寧です。
 女将の話では、竹細工は、当然宴席にも使うことがある。それをみた、客の竹細工師のお歴々が、これはいいものだ、○○さんの作だ、大事にしたほうが良い、といわれたと言っていました。
 
 竹細工は最近高価になって、ということで、その理由が、職人さんが若くて、その細工物を作るのに時間がかかり、価格(対象化された時間総額でしょうか。)が跳ね上がる、昔の職人さんの作と質が違う、とのことです。なかなか、興味深い話です。技能の伝承や、正当な評価は当然の話ですが、後継者の不足や、職人の苦衷と、一人前になるまで、何の保証もなかった、昔の職人の苦労が思いやられます。
 私も、記念に竹細工をいろいろ買いましたが、すす竹製というのか、斑入り模様の竹製の箸が大変具合よく、毎日愛用しています。味わい深い良いものです。
 日本の旅館であるからかも知れないが、お願いしたことは、理不尽なこと以外は、だいたいかなえてくれます。本当に「おもてなし」ですね。良質のものは、受け入れる側の、気持ちを融和し、温和で感謝の気持ちを誘発します。それは思いやりと察しの文化であり、つかの間でも良質な人間関係がつくりあげられるのですね。
 連休中の、特別料金などは関係なしで、前回のとおり、リーズナブルな料金で、気持ちよく出発しました。
 このたびも感じましたが、なかなか、別府で、昔ながらの旅館が繁盛しているとは思えませんでした。
 この、デフレの時代に、いまこそわれわれ日本人が、別府という良質の、古い観光地の歴史と文化を味わい、滞在し、支援をすべきではないか、と思われます。この、良質の温泉と、歴史ある旅館街が、死に絶えることは、日本人としてあまりにさみしい、ところです。
 さすがに、元歓楽地であり、町のあちこちに、なかなか興味深い施設、も存在しています。なかなか懐の深い観光地です。
 なぜ、さびれたか(主にデフレと景気低迷による旅行意欲の減退でしょう。)と、その打開策は提言できませんが、わびさびのわが世代とすれば、興味深い観光地として、別府、古びた旅館ツアーを、」是非に推奨します。
良質の湯の町、別府と、良質の別府の旅館に宿泊しましょうよ。いささか、くたびれた私たちに、ぴったしの観光地です。

LGBT問題から国政罵倒に及ぶ(罵倒シリーズその10)

2019-04-27 19:42:48 | 罵倒シリーズ
 わたくし保守的な人間であり、また「世間」を狭く生きており、しかしながら、妻にいわせれば余剰な「言葉」だけについては敏感なので、ことあらば、他人の話していることばなどには、興味があり、関心があります。
 比ゆで言えば、火星人の話すことばも、意味がわかれば興味がわきます(言語の解析などはムリですが)。
 
 ということで、うちの職場の若い衆(女性)が、「「LGBT」問題で、実務上困りますよね。」としゃべっておりますが、私は意味がわからない、殊に、現在英文字の略称は適応不全なので、調べてみました。
 すると、「LGBT」というのは「レズビアン(女同士の同性愛嗜好)、ゲイ(男同士の同性愛嗜好)、バイセクシャル(同性愛異性愛並存嗜好)、トランスジェンダー(自己の諸属性を超える性的嗜好)(カッコ内は私の命名)という意味であり、どうも、少数者の性的嗜好を尊重する、という運動なんですね。
 いわゆるPC(ポリティカルコレクトネス)(以下「PC」と略称する。)の一種であり、それなら、一応の理解に達します。ほとんどのPC運動は、余計なお世話で、つまらない愚かな運動であるという、私の倫理的思考と嗜好を含めてですが。
 ところで、うら若い女性が、自身がいわゆる「腐女子」(男子間性愛を興味深く扱う女性)でもないのに、社会的な場面の会話で、個々の異常(?) 性愛の嗜好を会話に載せるということに、私は非常に違和感を感じるわけです。
 「性欲は多種多様、自らのセクシュアリティを持ち、尊重しあうのは当然」、とか、一時の性教育や、その系譜のPC運動における、各国民国家の異なった人間の歴史や個々の文化を無視、グローバルスタンダードなどという、国籍不明の腐った理念の支持者の、その考えなしと、通俗性に、侮蔑と、嫌悪を感じるわけです。

 性的な嗜好、それを言えば、性欲は、類としての人間の歴史に深く根ざし、性に基づく観念や現象は膨大なものであり、いわゆる異性愛は別にしても、小児性愛とか、サディズム(死語か?)とか、性的な逸脱は多種多様に存在し、いわゆる「自由」の種別においても、「他者を自由に虐げる自由」、反社会的な自由も当然に発生するわけです。
 少なくとも、殊に、性(行為)とか、体験的に、私にとっては、隠微で、昏いイメージがあり、それが、文学や、思想や芸術の主題や根拠にはなりえても、明るく、健康的に、人前で日常的に話す内容とは思えないわけです。いわゆるかつての悪質な性教育などです。
 それはあなたが、「性的な弱者で、劣等者であったのか」と、言われたらそこまでです。実際、今までに、ろくな様しか見せたことがないので。
 しかし、この年になっても、私には、今世に明るく健康的なセックスというものがあるとは、とても思えないわけです。

 それはあなたが、教養があり、品格があるせいだといわれれば、私はまさしくそのとおりですが(昔からそうじゃないかとひそかに思っていた。(笑い))、それ以前に、個人の性的な嗜好を、社会的な、議論の席で、それを言挙げる(口にする)必要があるのか、という、素朴な疑問であります。

 「まるで猥画(わいが)を取り出すときのやうにして ぼくはなぜぼくの思想をひろげてみせなければならないか」という、吉本隆明の名言ではないですが、個々の私たちの思想と同様に、個々の性的な嗜好も、わが胸のうちで、その個別性の認識と覚悟性により、宿命のように個々に担われるしかないようであります。
そして、それは、自分で解決すべき問題であるという厳しく苦い認識として、本来、われわれ個々の重要な内面性を構成するものとして、として、存しているように思われます。
 ひるがえっていうならば、私は、自己の性的嗜好を、国家規範に保証してもらう必要は感じないし、私の思想や心情などを、国家に担保してもらう必要は感じない。それこそ、私自身が担い、解決は難しいかもしれないが、個々に昇華すべき問題であると思います。
 逆にそれを法規範で解決するほうが、病的であり人間の内面性に対する挑戦であると思うわけです。
 あのエルトン・ジョンが、男性のパートナーと結婚したいと表明したとき、私は、「あんたも老いたな」と、表現者としても終わりじゃないかと思ったわけです。私、今でも、エルトン・ジョンの青春時代の歌は今でも時々(周囲がゆるせば)歌いますが。
 かつて、ポストモダンの旗手であった、AAが、自らの性的嗜好をカミングアウトし、「それはマイノリティの問題で・・・」と述べたとき、吉本隆明が、本家(?) のミシェル・フーコーを引き合いに出し、「男同士の愛は友愛に通じ、空間的な拡大に耐える」くらいのことは言っているぞ、お前もしっかりしろ」、と檄を飛ばしたことがありましたが、わたしも確かにそう思います。
 すくなくとも、表現者としては、自己のあらゆる思想的契機において、本来的な責務を果たして欲しい。

 LGBTに属する人(そう思うかどうかはそれぞれの勝手である。)と付き合ってみて、少なくとも、他者として、私は、彼の性的なあるいは彼女の性的な嗜好を、ことさらに批評、意識化しながら話しはしない。私は、ひとまず、それは棚上げにする。
 それは、多くの人において、当然のことであると思う。そうでないと、社会的な関係は成り立たないし、会話・交流が成り立つわけがないではないか。ただし、頑迷な理念にとりつかれている人(「脱原発」のパヨクお前だよ。)などとは、中途でおさらばします。
 私たちの社会生活の中で個々の恣意性(恣意であるしかないもの)は尊重されるべきものではあるが、それは「公序良俗」の範囲内であることであり、当然それは、国民国家における大多数の利害と倫理観の中で、調整され、「権利の濫用」(権利の過剰な主張)は排除されるべきと、私は思う。
 「小を以て大を語る」、「少数者を扱い大多数を忘れる」などと、愚かな思考は排除されるべきである。

 
 ところで、そんな、「針小棒大」の話に血道をあげるなら(法制化を行う)、なぜ、推進政治家は、大多数の国民大衆の喫緊の問題に対応しないのか。
 関係者の多寡と影響の重要さを問い、「鼎の軽重を問い」、つまらない微細な問題にかかわらずとも、現在行われている、喫緊で重要な、大多数の人間の直接利害、安心・安全に大きな影響を与える大懸案・大問題が目の前にいくらでもありはしないのか。
法制化を急ぐ国会議員は、自民党政府の暴挙の目くらましのために、教養もなく、品格もない、近視眼のパヨク、腐った平等主義者たちと野合し、無考えな国民や若者(馬鹿者)を煽動しているのではないのか。

 したがって、今からは、アホな運動に組せず、本来の大情況、大問題について言及します。
1 反グローバリズム
 グローリズムの実態が徐々にわかってきた。
 それは、ほんの一握りの強者による、大多数の弱者の支配であり、マルクス主義によれば、搾取と収奪である。行き過ぎた金融資本が、国境を越え、全世界を実質支配しようとしている。それに加担する、利害と目的を一にする、追随権力者(政治家・官僚など)がその支配に加勢し、個々の国民国家の利害に反する、売国行為に励んでいる。実際のところ、私も、先のパソナ竹中平蔵の糾弾集会に参加したかったと思っている。
 それをいえば、政府の愚策で、外国人の無秩序な流入の中で、宗教も歴史も文化も、生活習慣も、また倫理すら違う外国人に直面したとき、あの西欧の衝突の実態を見れば、「話せばわかる」などという安いバカげた理念はとうに崩壊しているではないか。いずれにせよ、暴挙の被害者は大多数一般大衆しかない。

2 反消費税
 デフレ改善なしに(インフレ経済下でなければ)、消費税増税は日本国家の自殺行為である。全労働者の4割にわたるという身分の不安定な身分の派遣労働者、不安定な雇用に苦しむ若者たちよ、この制度は、大多数の貧民を直撃する。大多数国民に疲弊と、絶望をもたらし、それによる社会の不安定化を招くしかない愚策をきちんと批判するべきである。
 うちの近所の単店で味のある(?) スーパーも、とうとう閉店してしまった。交通弱者の老人など大変お気の毒な話である。
 聞き及べば、中小商工業者の日本商工会議所の会頭も、引き上げにもろ手を挙げて賛成という、その不見識はどういうことなのか。疲弊した、商工業者の危機意識も悩みもどうでも良いのであろう。
 法華経系の大教団、SG教団も、政治組織公明党を通じ、消費税の食料品などの例外規定(税制として実に不合理な話である。)を認め、迷惑なバラマキとのセットで、引き上げを容認した。
 たぶん、今後、わが日本政府は、法人税や、所得税率の引き上げを決して行わない。ひたすら消費税を引き上げ、西欧を見習い、経済格差を拡大し、階級社会を作り上げ、相互の憎悪をかきたて、社会の不安定化と、日本国家の終焉を是認するのであろう。
   
3 反構造改革
 郵政民営化から、TPP問題に至るまで、以降、日本国政府は、景気改革を怠ったうえで、国富を、飢狼のような欧米などに差し出してきた。竹中平蔵に連座する、改革者(?) 小泉純一郎は、その後パヨク運動に身を投じ、脱原発運動の推進者になっている(愚かものが)。
 農協法、種子法の改正、電気通信事業法、水道事業法の改正など、なぜ日本国の政治家は、外国の金融資本や、他国の投資家に平身低頭し、国富を差し出すのか。たいがいにしておけと、大多数国民の悪罵の対象となるばかりの行為である。
 先に(1918年10月)山口県の周防大島町で、外国籍の貨物船の不注意事故で、橋りょう添加の水道管を破損、水道供給が途絶した際に、おりしも国会で水道事業法の審議がされており、全町民のライフラインの途絶中に、この人たちは心底恥知らずであると強く思った。「民営化論者」口角をゆがめた、麻生太郎大臣の顔を私は決して忘れない。
 当該水道事業が、山口県でまかなわれているため、当該復旧は、1月弱で終わったが、もし、不採算水道事業が、民間事業者にその運営を任されていたらと、恐怖を感じる話で、つくづく義憤を感じることであった。

 「構造改革」、一部の特権・利権者がそれを望むにはよく理解できるが、売国奴になるのを恥じない一部政治家、欧米に隷従する無考えの政治家、自己利害に奔走する企業家、無考えの大衆、いくらでも、大多数国民の「敵」は現存する。

 どう考えても、ごまめのはぎしりで、無力の思いで胃が痛んだり、老人性うつ病らしきものになったり、あるいは憤激のあまり、要らざることをくちばしり、家庭内でさらに孤立したりなど、私の精神生活に大きな影響を及ぼしています。

 しかしながら、今後、国政の刷新がないと、この問題は決して解決しないと思われ、私も、このたびの「令和の政策ピポッド」(https://reiwapivot.jp) 政治運動に賛同し、日本国が滅びないように、微力ながら、同士を募り、戦って生きたいと思います。
 どうぞ、ご賛同の方、お互いに頑張りましょう。
 また、様々な示唆をいただく、小浜逸郎・ことばのたたかい(https://blog.goo.ne.jp) も引き続き愛読したいと思います。