天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

わが闘病記(広大附属病院に入院して)その2

2021-12-12 14:49:50 | 時事・風俗・情況

診療棟の屋上に、日本庭園が設置されていた。植え込みと、ハーブやつつじが植えられ、患者たちの憩いの場であったことは確かである。
雀がやってきたので、よく、えさをやっていた。庭園は、自省を強いる。しかし、決して、今世と隔離した場所でなく、時に、鳥の羽毛が散乱していた。ここは、修羅場でもあったのだ。雀を横目に、カラスも、パンを求め、屋上で待機していた。娑婆も、なかなか厳しいところである。
*********************************************************
どうも、皆、ありがちなことかもしれないが、私も、60歳を超え、生き急いでいるような、気持ちに襲われる。
精神的にも、「わかものたちの未来のために死ぬのは私たち老人たちの使命ではないのか」とか、思うようにもなった。
どうも、一昨年から、コロナ性のうつ病や、ひたすら、縮小、縮減するしかないような、社会の雰囲気にどうしてもなじめない時期だった。
止むを得ず、いろいろ、社会的なことにも、身内に係ることについても、私なりに、手じまいしつつあった。
私には、とても、西欧人の考える「死ぬ瞬間」(ロス)に当たっては、死に立ち向かうような葛藤も、勇気も、恐怖も、決意、ひいては絶対者との約束も、あまり必要も感じなかったわけである。
なぜなのかと考えた。

病院に居る時、いわばそこは常に「××病棟」である。
しかし、後述するが、無益にあがいたり、病に取り乱す人はほとんどいなかった。
みな、穏やかに、自分の、避けがたい運命と、死の理不尽さに対峙し、静かに、こらえているように思えた。
終いには、これは、どうも、自らの死に対する、日本人の向き合い方の特性ではないのか、とも思えたのだ。
それを、翻って私に適用してみれば、最初は、当面、悪いところは治療するしかない、という、とても、消極的な考えだった。
戦うというような立派なことでなく、それは、きついことかも知れないが耐えるしかないと思っていたわけである。

最初に、病院で会ったのは、外来の担当医だった。青年の面影を残すような、まだ、若い先生だが、彼が、主治医であるという。
昔聞いていたように、今の若い医者は、「患者とまともに世間話すらできない」というのはどうも間違いだった。実は、もう少し年長で、そして頑迷そうな先生も同様に見た。

与えられた検査数値をもとに、様々な推理を行い、事実判断に思いを巡らす。今までの彼の経験から得た直観は当然のことだ。
こちらに対し、質問の機会は与えるし、医者の常識として、おかしいということ、素人の覚束なさ、言外の質問には、はきちんと説明する。
今まで、私は、医者の仕事は、開業医は、システム端末と会話するものだと思っていた、こちらを振りむきもせず、端末システムでマニュアルを作リあげるあれである。
 妻子に、言わせれば、医者が主治医になるためには、その前に、相当の努力と選別があるという。
 彼は、うちの息子とほぼ同年に思え、彼の、受け答えや、冗談が、快ろよかった。
 結果として、8月末に、紹介状を持って通院し、そのまま即検査入院となった。
 うちの家族とすれば、妻は自分の事故以来運転できないし、それ以前から、パニック症候群などというものだった、らしい。娘は、孫の世話が忙しくて、おいそれとは動けない、結論はあらかじめ、でている。
 そのまま、丸二週間、検査入院をした。
 そのようにお願いして手配をしてもらったわけである。
 さすがに、自分で覚悟はしていたので、それなりの準備はしていたが、これだけ長期間にわたるとはわからなかった。
 私は、特に個室を希望しなかったし、コロナ下での、拠点病院は、さすがに病床が不足している。どうも、外来医と病棟との様々な駆け引きもあるらしい。
 通院検査すらあるという話であったが、他県であるという理由で、主治医が押し込んでくれた。病院内で、相互の人間関係も良好でないと、こんなこともできない。
 こちらの事情を忖度していただいたのはありがたいことである。

 とてもびっくりしたのは、私の微細な個人データが、押しなべて、スタッフに病院のワークステーションで共有してもらっていた、ということだ。
 病気で困窮した人間に対し、プライバシー侵害もくそもない、患者にとって何が苦痛かというと、自己の病状を最初から、人を替え、他人に、何度も説明することである。
 最初はやむを得ないと思っても、重なれば腹が立つ、俺のことなどひとごとだろう、と思うようになる。
 しかし、自分の受け答えの記録が残っているので、私たちも次の質問にも進むことができる。なんと、合理的で、優れたシステムか、私は褒めちぎった、ことがある。
 それを聞いた看護師も嫌な気持ちではなかった、と思う。
 朝一番に、ふとスタッフの詰め所を覗いてみると、フロアーの丸いテーブルにスタッフが集まり、患者の対応を協議している。患者ごとに、加療のチームがあるらしい。
 ほぼ、前日に、翌日の加療予定をプリントアウトして持ってくる、至れり尽くせりである。
 病院スタッフは、押しなべてPHS電話(ポケベル電動型なのだと思う。)を持ち、不明点のやり取りをしている。これは電力会社が運営主体だったと思うが、上手な使い方だと思う。
 医者と、看護師の意思疎通が、何と早い、そして、逆に、スタッフがなんとも忙しい。
 手のひらに文字を書いた看護師を何人も見た。
 しかし、スタッフがよいと、患者が甘える。
 結局、皆が皆、看護師とはなじめない、患者のわがままをひとくさり聞くのか、聞けないことは聞けないのか、看護婦(あえて言う。)には、臨機応変の対応と、とっさの判断力が要る。
 それこそ、「治療できない病気はあるかもしれないが、看護できない病人はいない」(「看護のための精神医学」(中井久夫著)のだ。やはり、じじいを転がし、なだめるのは、女性に限る。
 私は、男の看護師が必要ないとなど、不見識なことは言わない。そこは相身互いで、それぞれの性別を超えた、入り混じった中でのチームワークがあると思う。
 しかし、実は、患者に甘いのは、男の看護師だ。彼らは、理不尽なことも、患者のわがままであろうと、ほぼ、断らない。ただ「優しい」だけなら、男の看護師は、はるかに優しい。
 彼らが、秘書のように、個人的な用を承ったり、歩ける患者に歩かせないことを何度も見た、聖人のようなものである。
 しかしながら、例えば私が望むように、言うべきことはいい、そちらのすべきことはしてくれという、看護師だっている。職業人として自立を求める、匙加減なのだ。お互いに自立している、そう望む方が、理想である。
 後から聞いたが、私のいた病棟は、フロアーで40床くらい患者がおり、それを20人の看護師で賄うのだそうだ。
 他の階層との、看護の交流はないという。
 おそらく、彼らの仕事はいっぱいいっぱいで、専門性が外れると、看護の統制がとれなくなるのだ。
 うちの妻に言わせると、職場が変わらないのなら、気楽でいいじゃない、という。
 しかし、人事異動がない職場はない、それこそ、何かの装置がある。そう思える、常に、緊張した職場であるのだから。

 私のフロアーは、東2F(東病棟二階)といい、消化器内科、口腔内科の患者さんばかりだった。
 シフトは、朝勤、夕勤、夜勤と三つのシフトである。
 おおむね、全部、システムで引継ぎを済ませる。間違いが少ない。

 看護師にもいろいろなタイプがある。
 この人は・・・、と思うこともあった。
 しかし、理詰めを理詰めだけを見せないで、人情で言葉を尽くし、かわすような上手な看護師は多かった。それこそ、コミュ力がないとやっていけない。
 資質なのか、職務を通じて得た、スキルなのか、それは見事なものだった。
 患者と、過度に親しくなっても、過度に冷たくなってもいけない。やはり、要は、さじ加減、それは、プロとして、人間として、患者と統一システムに対する、誠実さと信頼にあるのだと思う。
 そのあたりは、職業人としての私の経験と、累積ででも理解はできる。
 私は、私自身の理性と、経験を通じて、市民と対等であることを望み、仕事をやりぬいたのである。
 いずれにせよ、病棟が主に女性によって運営されている、ことは、日本国での、誇るべき達成であると思えた。
 こんな監護は、おそらく、西欧圏では無理である。やはり、思いやりと察しの文化は、そして、それを良かれと、今も、つなげていけるのは、日本国の独自である。

 コロナ以来、ある彼女は、近いけど、実家にも帰っていない、といっていた。
 さすがに、彼女たちがどんな家庭を営んでいるかは聞きそびれたが、コロナ下の非日常のような日常で、いつぞやのように、学校や保育園で、彼女たちの居場所がないのなら、あんまりな話と思えた。
 私たちも、コロナで、院内散髪などの利用ができなくなった。
 彼女たちにめったにない時間があるとき、看護婦が髪を洗ってくれた。あれは、男では無理だ。
 あれはうれしかった。普段口にしないこともつい、しゃべってしまう。あれは、チップでもあげてもいいのじゃないかとおもった。
 自宅のケアがない私は、郵便のことで個人的に助けてもらうので、菓子を買ったが、婦長さんに断られた。
 人には、仕事がらみであっても、ちゃんとお礼がしたいときもある。汲んでくれてもいいように思った。恩着せがましいことに付け込むなど、患者には毛頭ないのだから。
 それが、私の個人的な意見であることは当然であり、反論があることも当然であるが。

 そういえば、ひとたび退院した時に、近藤誠先生のコロナワクチンを扱った本を読んだが、ワクチン接種の最初の犠牲者は、九州の病院勤務の、彼女たち(女性)であったから、皆、嫌がりながら、関係の絶対性(社会的関係の被拘束性)で強要され、ワクチン接種後、副作用(決して副反応ではない。)によって、自分のアパートでそのまま、孤独死した看護婦もいた。
 わが娘のことなら、私は決して許せない。
 まだ結婚前で、ようやく社会人として、周囲に頼られ始め、責任を果たせる大人になって、あまりにも短く、さみしい死ではないのか。
 それ以降、ワクチン接種による悲しい結果をいくつもみた。
 皆、社会によって強いられた死である。ワクチン接種について、自己判断・選択のチャンスも利用できず、理不尽な死としか、言い様がない。

 ここの病院で、私の見聞した範囲では、内科医たちは、それほど、コロナに執着しなかった。
 看護師たちも同様で、きっちり病棟で、区切っている環境で働いている。
 そんな怪しげなものにかかずらっている暇はないのだ。
 徹底した、分業体制というのは、こういう職場をいうのだろう。
 他人の仕事をまず信頼し、できないなら、フィードバックし、まず仲間うちで協議する。そのうえで、法を超えるものは、医者に速やかに相談する。
 それこそ、リスク排除に努める努力だ。
 また、医者は医者で忙しい、勤務医が、9時、10時になって病棟に顔を出すことも珍しくない、私は、早寝、早起きが骨身に染み付き、9時前に、寝ることもある。彼に会いそびれたことが、幾度もあったかも知れない。
 ただ、彼らと、看護師の連携と良好な協力体制は、患者たちに力を与える。
 患者として、当事者として、病状が悪いなりにも、自分でどうにかしようと思うわけである。

 しかし、病状からいうと、最初の検査入院は最悪だった。
 内視鏡、カメラも何度も飲みこみ、120時間絶食(きちんと数えたぞ。)ということもあった。
 施術の前の、経口の麻酔薬で嘔吐がつき、だんだん、飲めなくなった。
 その後になって、検査の回数が減ったのがとてもうれしかった。皆、合理的に考えられた、織り込み済みのことなのだろう。
 内科医師が立ち会うが、医療過誤の防止のためなのか、室中に、緊張感がただよう。これが、彼らの社会的な使命である。彼らを職業人としてなさしめている、社会に誇る尊い仕事なのだろう。
 それを考えれば、私も、この年まで、自分が果たしてきた仕事に自負心と誇りを持てた。
 苦しいながらも、前途ある若者たちの働き場を観れるのも、非常にうれしかった。

 内臓内に、腸管拡大の人工物も入れた。施術は麻酔なので、痛くはなかったが、それから、調子がよくなり、鼻から、チューブを出すことにも耐えられた。
 その術式が、一回でどうにかなったのは、私にとって僥倖である。何度もは、なかなか耐えきれない。

 私より数代前の患者さんは、もっと、つらい覚悟で、施術に臨んだのだろう。
 粛々と行われる、その辛抱と、自制心に頭が下がる思いである。

 病棟の話に戻ろう。私は、四人部屋に居た。きちんと、レール付きのカーテンに仕切られた、割と広いスペースである。私は、別途の位置は選べないのだと思っていた。
 また、窓際がいいとか言い出したら切りがない。
 まともな患者として、できる限り、病院の看護体制に適合しようと思ったのだ。

 ある時、デイルームという、患者の昼間のユーティリティスペースで異様なものを観た。
 老人が、家族を相手に泣いているのだ。悲しい、悲しい、と何度もいう。もうすぐ、私は死ぬ、そればかりを繰り返す。家族は、どうも、彼の財産の話でもあるのか、機嫌を損なわないように、おとなしく聞いている。
 変わった人もいるものだと思った。
 しかし、見聞きしているこちらもやりきれない。
 あんたは冷たいから、と妻が言う。
 確かに、私は、同情心は薄い。特に、親父に。
 心ある女性を見なわらなくてはならない。
 よくしたもので、私の周囲には、少々は弱みを許してくれる女性も多い。
 それ以外は、事情が許せば、関係を断つが、具体的には、藤井律子氏、立憲民主の女どもなどである。脳のねじが緩んだ立憲民主の男どもも同様である(笑いを取りたい。)。

 しかし、ここにいる人たちは、皆、自分の運命と、いわば不運と、そして避けがたい死と向き合っている。
 私の隣のベットの人は、化学療法と、放射線治療を同時にこなしている。
 まだ、若い人だ。家でも、仕事でも、心配の種はいくらもあるだろう。
 しかし、何を飲んでも、何を食べても塩っ辛いだけという、唯一、インシュアリキッドという、経口の栄養剤だけは飲めるという。しかし、味はしない。
 おまけに放射線治療の副作用からか、口肺炎で皮がむけ、カンジタ菌の感染もあるという、隣のベットで、そんな話が問わず語りで聞こえてくる。
「食えるわけないだろう」、と、彼は、決して暴言も、弱音も吐かなかった。
 同じ病室で、過度に親しくすることも、過度に冷たくすることも私は避ける。
 同情心が薄いから、人の運命に無造作に入りこむことはさけている。

 だから、若いうちからそんな病状に耐えている人に対しても、爺さん、それはないでしょ、と思ったわけである。

 九月の検査入院で、病状報告と、治療方針が決まり、10月から、治療入院となった。
 今回は、さすがに、前の患者と同室ではなかった。
 私は、彼の運命がよい方に転ぶことを望んでいる。

 隣は、因島から来たという、高齢者がいた。
 礼儀正しい人で、場合によっては、向こうから、話しかけてくるようなタイプの人だった。私は、あいさつと、目礼だけでとどめた。
 彼も、化学療法と、放射線治療を同時にやっていた。
 前室の人の体験から考え、彼の苦しい病状は理解できた。
 彼がどのようにこらえているかも理解できる。

 そこへ、今度は、あの不満じじいが入ってきたのである。
 あれから、ここで、化学療法を繰り返していたらしい。
 当然、家族は入りびたる。
 一日、ため息をつきながら、何かぶつぶつ言っている。
 テレビカードを買ってきて欲しい、水を買ってきて欲しい、さすがに看護婦も、二回に一回は断るようになった。しかし、看護師は、聖人である。皆、かなえるし、頼まれずに、秘書のようにふるまうこともある。
 患者でも、男は男、皆、嫉妬深い、私の隣の心がけのいい老人も、同室の他人がかまわれると、嫉妬が我慢できなくなるらしい。
 しきりに、看護婦に話しかけ、彼女の関心を引こうとする。
 どうも、家ではとりあってもらえないのか(うちも同様だが)、病院では、若いおねえちゃんに、かまってもらえるのか、極端に態度が変わる患者もいる。
 男も、死ぬまですけべーである。吉本隆明が、じじいに、二回に一回は触らせてもいいじゃないかと、何かに書いていたように思う。
 私に意見はない。
 世の中はそのようにできている。
 しかし、患者は、さすがに、自分の生命線であるところの、病状自慢はしない。

 そのうち、甘えた、不満じじいが、カルピスを飲んでもいいか、と、糖尿治療中にもかかわらず、言い出した。わしの冷蔵庫には、ナッツでもなんでもはいっていると。
 思わず笑ってしまった。声を立てずにだが。
 私は、自分に同情する人間は嫌いである、自分の感情を、推し通す人間も同様である。
 若い娘じゃあるまいし、看護婦にしかかまってもらえない、こんな薄いカーテンで、閉ざされた環境で何を言うのか。
 さすがに、嫌われているという意識があるのか、病室ではおとなしくしている。
 携帯を手に、不満の長話をするのは、明らかにルール違反であるが。

 ある時、こらえかねて、私たちは、秩序維持の入院の誓約書を書いているんじゃないのか、と看護婦に聞いてみた。彼女は善処を約束した。
 機会のある時に、部屋を変えるか、あなたが変わるかとまで言ったが、そんなことを私は言うのではないと、丁重にお断りした。
 それより、同室のものに対する説明が先じゃないかといった。
 それがきっかけで、この話は、婦長まで話が行ったらしい。患者の行為、現場のすり合わせは、どうも、フロアーの婦長が統制するらしい。
 私は、婦長に言ってくれなどとは一度も言っていない。
 折を見て、同室者に対する説明と、本人に対し注意してくれとだけ言った。私には遺恨もなくが、配慮をもって看護を受けたいだけだからと。

 そのうちいなくなってしまった。
 彼の家族は来ていたらしいので、どこかにいたのだろう。
 財産の話も多かったので、いろいろあったのだろう。
 さすがに大学病院であり、問題行動を起こす患者は少なかったのだろう。
 世の中には、何より自分が大事という人はいるものだと思った。

 「自分に同情するのは、下劣な人間のすることだ」、これは、自分の言動は自分の責任で請け負うという強い決意性の話だが、自分に同情する人はちゃんといる。
 これは、病院の院内図書館にあった、「ノルウェイの森」(村上春樹著)の、主人公の友人、俗人の◎◎君が、主人公に言うセリフである。
 俺は、現世的には俗人で、人格も行為も低劣かもしれないが、自分の行為と、言動に責任はとるぞ、という、彼なりの、決意性の表明である。
 今回、久しぶりに読もうと思ったが、今となれば、とても読めなかった、その前の短編集「蛍、納屋を焼く、その他の短編」の秀逸さを思い出せば、病人にはとても読めない。

 その当時、私にも、まだ、余力があったので、遺言状らしきものを書きつつ、どうにかして、リハビリの部屋に通わしてもらいたいと思った。
 なかなか、前例がなかったらしいが、結局、寛恕いただき、通えることとなった。
 私の部屋は、日も差さないので、終日、あの親父と過ごすのはストレスフルである。
 止むを得ず、毎日、あちらこちらに行っていた。

 トレーニングジムにおいて、私の活動と、指導は彼の裁量になるらしく、指導員の先生が、デイルームに探しに来てくれた。
 人の親切というものは、ありがたい、ものである。
 どのように病院で過ごせるかは、何より患者にとって大きな問題である。
 例のQOL(生活の質)の問題である。
 どうも、それは、周囲に働きかけ、自分で獲得していくしかない。

 とにかく、考えを前向きにしようと思った。
 私の残年数など、今さら、考えても詮のないものである。
 いざとなれば何もわからないし、約束もない。

 閉ざされた場所に閉じこもれば、人は内省を強いられる。
 そのうえ、ちょうど、その時、自民党の総裁選が行われつつあり、まことに興味深い時期だった。
 当時、厳しい政治的なかけひきの渦中にあった、高市早苗候補の決意性と孤独が、私にも十分理解出来たように思えた。
 何を隠そう、私の、第二の政治の季節である。

 実際のところ、活字、テレビメディアが、これだけ反動的で、大多数国民の利害に背をむけているとは思わなかった。

 その後、治療入院の結果がはかばかしくなく、10月下旬に、再度退院することとなった。
 自己の思うように自分の体の回復が追い付かず、覚束ないところである。

 その後、現在、定期的な通院で、病状回復を図ることとなっている。
 この運命は、仕方のないことである。
 しかしながら、今になって、自分自身の病気に、向かい合うことができたのは望外の幸せであった、と思っている。
 この先、どうなるのか、よくわからない。
 今後、私の、意識的な選択が、どのような形になるのか、今の常態では、不明だからである。
 ただ、現在、無意識に、自分ができる最良の選択をしているのではないかという、気持ちがある。
 自己決定権だけは、放棄したくない。
 まだまだ、これからさきのことである。
 私の、今後の社会との関係一つを考えても、これからのことである。

 最期まで、詮のない話となって、しまった。
 今は、これでいいのだと、思っている。



わが闘病記(広大附属病院に入院して)その1

2021-12-05 14:31:55 | 時事・風俗・情況



 萩市のシャッター商店街で見た、政治報告会のポスターである。
 奇しくも、本日、権力闘争で敗れ、衆議院選候補の立場を失った、二階の番頭といわれた、河村健夫議員の(お礼)演説会があるそうである。
 私が、広大附属病院に入院していたとき、自民党の総裁選挙が行われ、高市早苗候補の、見事な公約とスピーチは、国民にとって、パラダイムシフトといっていいものだと思った。要は、ファンになった。
 その反面、小泉進次郎の浅薄さと脱原発の考えの思慮のなさ、女性問題ばかり連呼する野田聖子のポピュリズム政治家ぶり、河野太郎の一族を挙げての中共癒着ぶり、が顕著だった。
 今回のゲストは、小泉進次郎と、野田聖子である。悪く言えば、負け犬連合の報告会である。
 写メールを取ろうとしたら、親父が嫌な顔をした。本当は、ポスタ掲示などしたくもなかったのかも知れない。
 河村議員は、地勢的に南鮮に近いので、どうも、日本政府に対し、フィクサー(口利きや)みたいなことを、していたらしい。
 後釜を奪い取った、林芳正は、日中友好議員連盟の会長だったので、新たな、フィクサーを中共は手に入れた、という人もいた。
 田舎なれども、政治の早瀬に竿を差す人は多いことである。
************************************************
私は、大げさにいうと、天地開闢以来(?)、人間ドックなど受けたこともなかった。
うちの妻も医療従事者であったが、しかし、特に、私の健康に留意をしなかった。
それは、今思っても、ありがたいことであった、と思っている。
彼女には、どこかで聞いたように、「人間ドックを受けなければ、家庭と、世界の終わりである。」((本音)まず、闘病生活、ひいては遺族の私が困る。)というような、凡庸な発想はなかったのだ。これは、よそ事ながら、嫌な話だが。ナイーブな人は、考えない方がよいが。
 同時に、彼女には、無関心と、亭主など、イザというときに、あてになるものかという覚悟も、あったかもしれないが、妻の考えることもよくはわからない。
 要は、今までは、お互いに、普通に持病もなく、余力があり、若ければ、そんなものを受ける、必要はなかったのである。
 私の友人たちには、「健康を目指す不健康」という、宿あの人も少なかった。
 いわば病が本質の人も少なかったし、同調圧力、家族圧力で、いやいやでも、健康診断を受ける人は少なかった(いたかも知れないが、あまり聞かなかった。)。それなりに、強いられた「愛妻家」(皮肉です。)はいたかもしれない。

 何を思ったか、私は、定年退職年度時に、試しに健康診断を受けることにした。どうも、好奇心からである。
 いつものことながら、とめどもつかぬほどの腹囲と、血糖値がある程度高いのと、血圧がある程度高いのが指摘された(私よりデブはいくらでもいるじやないかという根拠のない自負のもとで検診を受けた。)。
 すなわち、かねてからの常態であり、それぐらいの医者の警告などでは、むろん、耳に入らない。

 しかし、近年、どうも、気になりだした。それは、気の病でもある。
 その後、二年続けた、人間ドックで、とある総合病院で、とうとう、私の疑わしい病気を見つけていただいた。
 急に電話がかかってきて、これは、常人から見て、明らかに異常数値であるという。
 おそらく、老練な内科の担当医には、病状からくる病名はわかっていたと思われたが、一時検査を経て、さらに高位(スタッフ・施設が充実している)の総合病院を紹介していただいたわけである。
 妻に言わせれば、あの程度の、診察で、そんな病気を見つけてもらえるのは、とても優秀な先生であるという。
 私に対する説明も丁寧であり、その事実らしきものは、私にもよく理解できた。

 ということで、結果として、隣県の広島大学付属病院に検査入院することになった。
 詮のない話になるので、病名は書かない。

 何度も繰り返すが、私は、定年後、契約社員になった4年目くらいから、血糖値が上がりはじめ、数値から言えば、立派な糖尿病ということとなったが、まったく元気であり、病気一つしたことがなかった。
 しかし、よくしたもので、年金受給年齢に達すれば、こちらもがたが来てしまうのだろう。世の中は、そのようにできているであろうと、漠然と思っていた。
 いつまで掛けるのだろうとうんざりしつつ、長年掛けた年金のもとを受け取ろうとする(笑い)ことは、なかなか、困難なことなのだ。
 私たちの人性とはよくできている、と思わず笑ってしまう。
 誰もが、自分に対し、いずれ、つけを払わなくてはならないのだ。

 そういえば、私と同年のうちの妻は、今年2月、買い物に行った際、駐車場から縁設した深い雨水側溝への転落事故となり、大変なことになった(決して私が手を下していない。近年、お互いに、いくら加齢により気持ちがささくれだしたとしても。)。
 救急車を要請し、同時に消防車も早くは来たが、コロナ騒動のもとで受け入れ病院が決まるまで、大変だった。30分くらい待った。彼らの対応が親切なので我慢できる。しかし、重篤な患者なら死んでしまうかもしれない。
 なぜ、あの時、せめて、妻に手を伸ばしてやれなかったかと、こちらの思いは千々に乱れる。
 私は、動転しつつも妙に冷静で、こんな折、事件性があれば、警察通報もあるのではないかと思ったが、それは免れた。
 事故の現場で、そんなことを考える私も、随分な人間である。

 ようやく、搬入された、受け入れ先の小郡JA病院(その後、私は農協をメインバンクにする。)で、外科の看護婦さんの、果断な判断と、迅速な処置・手配が行われた。
 内線携帯をヒップポケットにはさみ活動しやすくし、彼女の群青の病衣とズボン姿にあいまって、とても頼もしく、印象的で、職業人として以上に、美しかった。
 この時、施術してもらった、外科の体育会系のごつい担当医師を含め、専門家の、頼もしさのほどを、私は忘れない。
 頭と脊椎・腰に損傷を負った、彼女の様子は、大変だったが、その後の入院以来接面もできないこちらとしても、どうしようもない、ひとまず、頭部などの当面の治療が終わった。
 次に、腰は、分厚い保護ベルト作成・設置である。

 今思っても、本当に、こちとらも、寝耳にミミズ(「水」とどっちがいいですか?)のような、状態で、あった。
 そういえば、雨水側溝の中に水が流れていて、頭を持ち上げなければ、ガブガブ水を飲んでしまう。意識があるのを確認する。雨水専用で、きれいなだけでまだよかった。
 私も、細部まで、あまり、よく覚えておらず、あとで薄情といわれても、動転の後である。
 しかし、彼女が、落下した、深い雨水側溝に落ちたのは、彼女がハッチバックの裏ドアをあけて、荷物を入れようとして、ドアにあおられたからである。
 狼狽・混乱した私は、転落した際に、妻が、溝に落としたいちごパックを拾ったのを覚えている、バカな話である。

 その日、救急病院から帰ったあと、それ以降、一人で居るので、ひとまず、一人で生きることを考えた。仕事は続けていたが、時間はいくらでもある。
 今までの、経緯と理由があって、男料理くらいは、私にもできる。
 しかし、助力が欲しい親族からは、頼りがいのない、男存在の私のことを、役に立たないと、嫌がられるだろうなと思ったわけである。
 祖母に死に別れた、祖父の厳しい日常を思い出した。
 そのうち、病状が落ち着くと、「俺でなくてよかった」と思った。若い時なら、無条件で「俺が替わってやりたい」と思っただろうが。それも、後知恵で運がよかったからである。
 これは、男友達には受けたが、女性からは、ひんしゅくを買った。
 性差というものである。それには、いいことも、悪いこともある。しかし、彼女たちに、継続して、無垢の同情性、無償のやさしさがあるとも思わない。これ以上いうと、また、嫌われるので、言わないが。
 しかし、私のような偏屈な男にでも、同情してくれることはうれしいのも確かである、それが女性という存在の本質性と良さでもある。
 それが欠落した、そんなかわいそうな人を私は女性と呼ばない。
 いかな腐った男でも、面倒を見てくれる女性はいるものである。その逆は知らない。
 こんなブログは、妻にはみせられない、たぶん見ないだろうが。

 それはそうとして、人性一寸先は闇である、と、同時によくわかった。
 後で、入院した病院で、彼女が仲良くなった看護婦さんたちが、現場(郊外スーパーの駐車場)を見に行って、「3メーター以上の高さじゃないの、よく助かったわねえ」と口をそろえて、感心したという。
 しかし、当該現場は、いまだに防護柵さえ設置されていない。人の命は、それほど高くないのである。構造的に安全策もないが、その場所に駐車したのが妻でもあり、戦う老年の私としても、そのうちに、抗議をする気持ちも失せてしまった。
 買い物難民で、買い物した他市の消防所であり、あれこれするうちに、しおを逃してしまい、お礼に行くのをがいけなくなった。

 彼女は、結局、三月間くらい入院し、終いのころにはもう出てくれといわれた。
 しかし、退院後から半年経った今でも、まだ、体調も万全でないといい、いまだに、それなりに、屈託のある、日常を過ごしている。
 「私は無理なことはしない」、といい、そのとおり、認め合わないと、お互いに不幸になる。
 妻を見るのは自分の鏡になる。
 お互いに、老いた。しかし、いまだに、腹の立つことはお互いにある。その問題点が、先鋭化したとでもいうべきかも知れない。
 やはり、理解はそれなりに深まる。

 好事魔あり、というのはよく言ったもので、実は、それ以前に、すでに、私が、病気になっていたのだ。
 「おごれる亭主は久しからず」、というやつである。
 よくしたもので、それがこのたび発覚したら、今度は、逆に、妻が妙に元気になる。
 そんなものである。

 引き続き、自分自身のことを思い起こせば、昨年の11月ころから、体重が減少し始め、ついには、20キロ近くやせた、私は、長年の節制のおかげで、20代の体重に戻った、青春の再来と喜んだが、そんな甘いことはなかった。
 ちょうど、悪化した時期が、コロナ非常事態宣言と重なっている。コロナ性うつ病と疑ったが、遠因はそんなものかもしれない。

 ということで、今年の8月、二度めの人間ドックを受けてから、私の身辺はバタバタし始めた。
同じく医療従事者の娘との、ワクチン接種に係る、お互いの信念対立の葛藤を経て、その葛藤が、娘の幼胎児期の思いまで出てくるので、何が虐待かバカなことと思うが、立場として、親としては非常にこたえるものである。
 おまけに、彼女の息子、孫の小学校の入学時まではせめて生きて欲しいという。
 親族間の「関係の絶対性」(彼女は私の社会的な認識とそれに基づく理性と判断を決して認めない。妻も同時に無言で後押しする。)との闘争ののち、私は、ついに節を屈し、事前のワクチン接種を経て、広大附属病院に入院した。

 私ごときが引き合いに出して恐縮だが、あの吉本隆明氏のように、娘に、してやられたわけである。長女の多子さんは、手のかかる両親を最後まで監護した、しっかりした、できた娘であるが、その後、お気の毒に、彼女にも難病を引き寄せたらしい。
 私の生涯で、一番良かったことは「子供を持てたこと」と吉本に言明させた人でもあったが、妹とは別の意味で、優れた賢い人であった(私より一歳年下のはずである。)。

しかしながら、今考えても、どう考えても、最初の病院の主治医の判断が、契機になり、私のその後の道筋を決めたとしか、言い様がない。
要は「あるものをないとは言えない」わけである。