天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

ライトノベル「魔法高校の劣等生」その24、25(エスケープ編)前・後編(佐島勤著、角川電撃文庫)は、面白いです。(補遺分)

2018-04-25 20:15:09 | 読書ノート(天道公平)

このたび、後編が刊行され(2018年4月)、ひとまず、エスケープ編が完了しました。

ラノベ小説のあとがきを見ていると、ライトノベルというものは、出版社・編集者の意向・読者の思惑で、相当部分変わるようであり、著者自身の「自己の書きたいものを不可避的に書く」というか、それはどうもあまり重要ではないようです。どうも、著者として、周囲に干渉され、節を屈するのは、なかなか厳しい(?) ところです。
どうも、私の読んだ限りで、ラノベの出版の内幕を読み解けば、出版社は、最初に著作物を手にすると、まず、編集者による読者の意向調査、読者の嗜好を考慮しつつ、取次ぎ販売店の意向(?) 、自社と販売会社の販売戦略会議、著者との協議を経て、出版決定、販売戦略決定を行う体制のようです。
その中で、事案によっては、それぞれの思惑と力関係により、差し戻し・再検討するなど、当該サイクルを何度も繰り返していく構造のように思われます。それは、ビジネスモデルとすれば当然のことかも知れませんが、まず、人気が出れば段階的にCDドラマ化、大人気となればテレビアニメ化、コミック化とか、そして読者による二次作品化など考えれば、ヒットした作品の市場は、とても大きいものかも知れません。
逆に、それでないと、イラストレーターその他の周辺の多くの職業人や出版社の直接利害の思惑を巻き込んだ事業としてはやっていけないものかもしれません。
私に理解できる業界とすれば、かつての少年漫画雑誌の戦略を踏襲しているように思われます。
あの当時も、読者調査の結果、早期打ち切り(?) という作品がいくつもありました。
かつて山岸涼子さんも「漫画家には老人ホームはない(定年もないのかも知れないが)」といっていましたが、ラノベにせよ早期打ち切りも同様で、いつも間にか、その著者たちは、苦闘しながらも消えていくような(?) 厳しい運命なのでしょう(あの漫画家は今?、ということはいくらもありましが)。
「表現者」はさておいても、それを言えば、われわれ生活者大衆も、先々、自分の人性に何が起こるかわからないのは怖いところですが。
ラノベ市場は書籍と電子書籍を含めれば、市場規模は436億円(2016年)程度といわれているらしく、それに加えて派生する漫画、アニメとかゲームとか含めれば大きな業界になるのでしょう。
デフレで疲弊した現在の日本国であれば、たとえ薄利にしても(とうとう、私、アニメ映画まで見に行ったので、それは実感的にも、とても大きいものかも知れない。)継続可能なありがたい事業かも知れないところです。私なんぞは、経済的に、いまさら、ハードカバーの小説などは買わないのです。
どうも、ラノベとは、その少なからぬ部分が、「著者が何を書きたい」かによって始まるのではなく、どのように書いたら、出版し、その他の事業に拡大販売できるか、というところから始まるようです。したがって、新進の著者にとっては、紆余曲折(?) を経て、まず、出版デビューできるかどうかが、大きな問題となります。
大手の出版社は、高額(300万円とか100万円とか)な懸賞金、および出版の内示を掲げ(これが大きいのかも知れない。)、トロフィーとして付与し、新人作家の発掘を目指しています。その後、デビューまで相当に手直し・書き直しとかあるらしく、手放しで喜ぶには少し早いでしょうが、現実はそんなものでしょう。
当選した「達成」とか、「栄光」とか、瞬時のものなのですね。
実績のある(販売数が期待できる)著者であれば、「ここまでならば妥協できる」と、協議のうえ、折り合いをつけるのでしょうが、新人作家はしょうがないよね、編集者などの協議・指導を経て、何度も書き直しをして、当該方針に適合するよう折り合いをつけているのでしょう。
そうであれば、その協議を通じ、聞けることは聞いて、それを契機に、表現として、深みを増すことを目指すしかない。かつては、ネット小説とかいう、自力で、ネット掲載をはじめ、人気作家となり、出版化した経緯もあるようですが。
読者は、冷酷です、媚びてもだめだし、その反目に出て、本格派としてひたすら高度・難解で面白みがないと、また、それはそれで、電子板で罵倒されます。厳しいですね。いちいち気にする必要はないかもしれませんが、著者の立場で言うと、読者投票とか、ワンクッションがないため、衝撃は大きいでしょう。それは、現在では、あらゆる表現物に付きまとう宿命であるかもしれません。

私は、ラノベの存在と、その隆盛ぶりを、歳若い友人に教えてもらうまで、全く知りませんでした。
最近の若者たちは、思春期の慰藉(いしゃ:なぐさめ、きばらし)として、漱石とか鴎外とか、文学書を読まない、読んでも、太宰治(過度に自意識に執着する主題が多いからな、思春期の若者には理解できるだろうなと、なんとなく納得できます。)という話を聞きましたが、しかし、それを聞いたのも、ずいぶん前の話です。
「じゃあ、読むとすれば、何を読むんだ」という話になりますが、さる方の見解では、「その替わりに、ラノベとかを読んでいる」、という話になります。
それもあって、私は、公立図書館で、ヤング・アダルト(私の印象では翻訳ものが多い。)の著書を含め、膨大な量の、ラノべと逢着しました。
やはり、ラノベも、ヤング・アダルトの著書と一緒で、いいものも、そうでもないものもあります。一般書と全く同じですね。
中には30数巻にわたるような大作ものもあり、その人気のほどと、ラノベの著者の数の多さに驚かされます。
最近では、利潤率をあげるためなのか、文庫本とハードカバーの間の少し大きい版(A5版くらい)のシリーズも出ています。書店で見ると「ライト文芸」(なんのこっちゃ?) (1200円くらいが目安です。)というのか、さすがに、わが公立図書館はなかなかそこまで手を出さないようです。
 私は、貧しい青少年が、文庫以上になかなか手を出せないのはお気の毒なので、文庫(大小さまざまなあらゆる出版社があります。)肯定主義(?) であり、同様に、文庫版を越えて手を出すことはしない予定ではあります。
 私が見た図書館の本の中で、寄贈者が裏表紙に標記されたものがたくさんありました。図書館で聞くと、図書を指定して、金銭寄付などがあればそれに応じるといっていました。マニア(「おたく」でもいいですが)たちのうちには、自分の好きなラノベを、世間一般に膾炙(かいしゃ:はやらせること)するために、他者と共感したいと、少なからず身銭を切る人がいるようです。

 ようやく、主題に戻りますが、前編で、主人公たちを守るため危機に瀕した、味方のメイド(名前を「水波(みなみ)」といいいます。)は、生命と体力の回復は出来たにせよ、「魔法士」としての能力が枯渇するような危機に瀕します。
 そこは、ラノベのお約束で、救い主(ライバル)が登場して、日本国での主人公の優れた対立者の魔法士(「光宣(みのる)」といいます。)が、当該みなみちゃんに思いを寄せ、強引に彼女の治療を試みようとします。
その手段とは、かつて異世界から事故で誤って呼び寄せた(USNAの戦略的軍事実験の失敗)寄生的精神生命体(人間世界以外のもの(人外のもの)、魔法士の想子(思念のようなものか)をエネルギー源とするため、その精神をのっとり、吸収、繁殖する。)を、自らに摂り込み、その新たな能力(過剰な想子の操作が可能になるのでしょう。)により、無理やりにでも、みなみちゃんの、魔法士としての能力を回復させようとします。
 自ら考える「あるべき愛の実現のためには」人外のものすらも利用するという方針であり、彼が、主人公の国内での最強の魔法士の対立者(ゲームでいうラスボス)となります。
 当該魔法士(みのる)も、「人外のもの」を摂りこんだ時点で、御するつもりが、逆に憑かれて別の存在となり、精神生命体の本能(群的自己勢力の現実世界での繁栄)に純化するようになり、主人公の魔法士と彼らの出身部族(先の有力十大ファミリーのひとつ)を含めた、日本国の魔法士集団と厳しく対立します。
 いわゆる、「魔王」となったのですね。
 USNA本国でも、利害の相違や、一部の浅薄な思惑から、再度、「戦略的軍事実験」が行われ、少なからぬ寄宿生精神生命体が、今世に流入し、再度、USNAの魔法士群に寄生することになりました。「利害の同一と目的の合一」のもとに、彼らは寄生者を増やし、アメリカ国軍の中で、大きな脅威になります。また、当該闘争で追い詰められた、かつて、主人公司馬達也と、アメリカ国の戦略的魔法士(世界中に20数人しかいない。)として闘い、和解した、年若い女性魔法士が、かねてより友誼のある、日本国の主人公の魔法部族、四葉家に亡命することとなりました。
 この「人外のもの」の一連の動きは、現在猖けつを極める(しょうけつをきわめる:病気などが猛威を振るう)「グローバリズム」の暗喩というべきではないのでしょうか。その影響の多大さと、少数者の際限のない欲望・利害のために、国家の枠を越え、世界規模で、巧妙で、苛酷な搾取を試みるという図式としてです。
 現在の米欧主導の高度資本主義の少数の富者に自国・他国大衆の侵奪は言うまでもなく、かつての帝国主義、植民地主義、ファシズム、中・露などの愚劣な反動・左翼革命などいくらも例があるでしょう。
 したがって、それと相性のよい、新ソ連合(ロシア共和国)の支配層も、大東亜国家(中共)の支配層も、USNA(USA)の一部支配層と、手を結び、当該支配の情況を覆そう(抵抗しよう)している、日本国の魔法士、司波達也に刺客を送り込んでくるわけです。なかなか、敵にもさまざまな差異と思惑があり、重層的で流動的な面白いすじがきです。

 ためしに、今後の情況を予測すれば、小情況とすれば、日本国内での魔王と対立、国内で、みなみちゃんの去就をめぐり、闘争を繰り返すでしょう。同時に、一般大衆の反魔法士団体の反発、利害を異にする他の魔法士部族、国軍の魔法士部隊の魔法士たちとの連衡と闘争、バカなマスコミの反動キャンペーンなど、いくらでも火種があるようです。
 中情況とすれば、極東の、大東亜連合(中共)、新ソ連邦(ロシア共和国)の、軍事的侵略と、引き続き、戦略魔法士同士の軍事的局地戦を戦うこととなります。
 大情況とすれば、米欧など主導のテラフォーミング計画(魔法士による、他惑星の資源開発計画)は、まだ失速したとは言えず、あらゆる政治的、軍事的圧力をかけて、また、有力な魔法士を排除するため、今後もそれぞれの思惑をこめて、合法でも、非合法ででも動くでしょう。主人公の自立を図る大きなイノベーションとしての、魔法による重力式常温核融合装置システムの構築・運転も、今後の日本国の大きなビジネスであるなら、他国から妨害や、攻撃を受けるのは、想像してみれば当然のことです(今の日本国でも同様です。)。
 その中で、本来、日本国政府が、国益に合致する、優れた団体や個人を、後方からでも支援するのは当然のことでしょう。
 しかしながら、国民国家として、自国防衛や、自国の国民の経済的利害の防衛や、最低限の安心安全の確保にすら、国民のために、努力することを怠り、ためらうわが国を見ていると、私と同様に、ラノベ読者の若者たちの不満や憤まんが見えてくるようです。

 いずれにせよ、主人公、司波達也君は、今後も、全世界及びグローバリズムという誤ったイデオロギ-を相手に、さまざまな「孤立無援」の戦いを継続していくのでしょう。
 引き続き、一人のラノベ読者として、今後の趨勢を見守ってまいりたい、と思っております。
 あとがきに、高三になった彼らの将来について、「魔法「大学」の劣等生」という、続編についての著者の冗句(ジョーク)がありましたが、さすがにそれは悪手でしょう。

ライトノベル「魔法高校の劣等生」24(エスケープ編)前編(佐島勤、角川電撃文庫)は、とても面白いです。

2018-04-11 20:42:44 | 読書ノート(天道公平)
かつての、3.11後、脱原発(あれは反原発、反科学技術ですね。)・反核運動に、愚かしく名を連ねた、ベビーブーマー世代の村上春樹(1949生まれ)、若いはずの平野啓一郎(1975年生まれ)その他の数多くの文学者たちの、サヨク史観、つまらない政治的・社会的発言を見ていると、私は、かつての80年代の反核運動を支持し、また湾岸戦争反対運動に署名連座した、文学者、評論家の発言を連想してしまいます。
「よい小説家が、決してよい表現者ではない」という苦い認識は、「またかよ」と、そのどうしようもない既視感と、つくづく、いい時代の村上春樹、いい時代の平野啓一郎の著書を思い出し、失望と、幻滅によって、わが老人性うつ病が、悪化してしまいます。

ということで、最近、殊に、小説を読む気がうせてしまい、年下の友人に勧められた、ラノベ(ライトノベルの略称、和製英語で、若者向けの娯楽小説という意味づけが適当らしい。)を、読むこととなりました。
標記の小説は、当初の一巻が、2011年(平成23年)に出版され、このたび、2018年3月に、24巻が刊行されるまで続いてきたわけです。その中で、数度、劇場アニメ化された作品で、若者たちにとても人気があるようです(累計790万部出版)。この本は、気分転換に読めばいいのかも知れない、と思われます。
その想定については、それは、ラノベではお定まりらしいところですが、科学技術と「魔法」が並存する世界であり、その魔法が、軍事・政治・社会・経済に大きな影響を与える(逆に魔法抜きでは現実社会が成り立たない)社会となっています。
この小説が新しいのは、その魔法を発動する手順が、「魔法式」というものを唱える(のだろう)ことにより、また、それは機械装置により当該手順がルーティンワークとして代行することが一般的になっています。したがって、高度・広範囲の魔法を引き起こすのは、魔法士において、複雑な魔法式の組上げと、それを組み合わせ発動するセンス(知能・資質)が必要となります。その種類や、程度の差において数多くの魔法があるようです。
しかし、その魔法は、強大なものであり、攻撃的な能力であれば、特定の空間を指定し、遠隔地から、当該軍事拠点を完全に破壊することができるほどのきわめて強烈なものです。そのため、当該優秀な魔法士(?) は、全世界で20名足らずしかいないので、各国が戦略的に、秘匿し、軍事的に高度利用することとなっています。
いわば、優秀な破壊能力を持つ魔法士は、軍事制圧の道具となり、当該魔法士を生み出す家系は、その血統が国家の庇護を受け、また道具とみなされ、また同時に、生まれながら優れた種族(多く遺伝子操作で生まれてくる。)として、魔法士以外の大衆から羨望と憎悪を向けられることとなります。
主人公は、その魔法士の日本国10大ファミリーの筆頭の家に生まれ、そのあまりにも強大な魔法力(?) と、優れた知能、体力により、実母から疎まれ、その能力を制限されることとなり、幼少時から召使のように育てられ、唯一、同居する妹のみに愛情を感じる設定となっています(妹と相互に、強度のシスコン、ブラコン(お互いに男女間の情愛を感じる。殊に妹の方から執着が強い。)であるので、兄の方はさまざまに振り回される。)という設定です。)。
それこそ、ラノベの「妹萌え」(明確な意味が分からないが、アドレッセンス(発情期)の少年が、付き合うのが易しいと思われる、未成熟、幼女、近親者を好む傾向でしょうか。)のパターンであり、出版社の、こうすれば売れるという、戦略なのかもしれません。

彼は、早くから、身内一族を含めた闘争と血族の情愛のなさで過ごしてきたため、早熟であり、「俺にかかる、俺の愛の重さだけが、俺の世界をきつく支配する(「暴徒感受Ⅱ」、著者名不明)」、といった、きびしい態度と処世で、周囲に接しています。それも、若者たちのヒーローとして受け入れられることが、なんとなく、理解できるところです。
しかしながら、彼も、妹をくびきとして、自己の魔法一族の業務(仕事、氏族を代表しての役割り・仕事)に厳しく組み込まれており、家長(おば)に絶対服従で、また、その命により、国家より要請があれば、世界に20数人くらいしかいない戦略魔法士(二つ名が   という。)として、外国の魔法士の攻撃に対し、日本国の防衛のため、日本国軍の魔法軍団の特任士官として、その強大な魔法力によって、対抗することとなっています。
このラノベのいいところは、個人と国家、氏族(一族なのか。)などの、現実世界(社会)の認識と、それぞれの思惑、世界規模での利害の衝突、紛争など、冷静に、きちんと描けているところです。その認識は、現在の、日本国の政権与党の国務大臣たちより、その国際・現実認識がよっぽどまし、ということです。
これは、著者が、現代の安易なグローバリズムを明らかにバカにしており、時事問題を上手に利用した、彼の、現実媒介能力を賞賛できるような、質の高い作品です(彼はラノベの作家には珍しい50歳代という実年齢とのことです。)。
作中の極東の勢力地図は、大亜細亜連合(現実は中共覇権国家)、新ソビエト連邦(現実はロシア国家)、USNA(現実ではUSA)らしき国家が、さまざまな局面で、角突き合わせ、それぞれの利害や、限定された極地戦ながらその水面下の戦いを、冷静に、なるほどというレベルで描いており、各国の支配層の思惑と、魔法士の暗闘を面白く描きます。
また、異種の人間として、日本国での、大衆との距離、優れたものにかかわる社会的な孤立、また、魔法士、異なった氏族にかかわる暗闘など、その度ごとに入れ替わる、味方・敵とわかれた戦いは、面白いものです。
何より、それほどの力のある魔法士が、魔法高校(明治期の旧制高校のように、ほぼ同位置に、全国で8校ある。)中で、実年齢(16歳)で普通に高校生活を送る恋愛遊戯や、魔法競技大会で活躍する学園ドラマが描かれます。
それこそ、魔王というべき優れ勝ったその力と、それが現実に似た高校生活を送るというミスマッチが、受けるところなのでしょう。これも、ラノベのパターンです。
しかしながら、彼の在学中にも、大亜細亜連合(中共覇権国家)や、USNA(USA)から、国家戦略から、間接的に、刺客や、工作員が送り込まれ、暗闘・戦争(大亜細亜連合の横浜上陸という戦争があった。)を繰り返すのですが、兄一筋の、優れた魔法士である妹(美少女の生徒会長)が、嫉妬したり、同僚の女の子と恋のさやあてを演じたりと、孤独な主人公も、次第に特定の友人たちと友情を深めることとなるという、学園ドラマの定番です。
彼の能力(魔法)は、遠隔地からの操作でも、世界規模で、座標を決めた限定的な地点で、あらゆる物質を溶解消去する限定的に行使する核融合のような能力であり、他国に多大な脅威(魔法なので放射能汚染もない。)があり、抑止力として日本国防衛に多大な恩恵をおよぼしています(かつて、日本国に侵攻してきた大亜連合の戦艦全体を相手国の軍港で殲滅したことがあります。)。
しかし、現実は、パワーバランスで成り立っている、厳しい世界情勢であり、世界の列強、仮想敵国新ソビエト連邦(実際はロシア)はもちろん、同盟国のUSNAも、あるいは大亜連合など、すきあらば、あらゆる国家が、自国に多大な脅威があるということで、彼の排除を狙います。防衛力を担う危険分子を、合法的に排除するための、からめ手からの戦略です。
USNA(USA)の高官が、ロシア共和国との密談を経て、「テラフォーミング計画(多国籍で優秀な魔法士のチームを作り上げ、地球近くの太陽系惑星に働きかけることにより、当該惑星の資源を活用する計画)」を打ち出し、それへの、優秀な魔法士の協力を勧奨し、「人類の繁栄への協力と国境を越えた資源の平和利用」(明らかにグローバリズムの論理ですね。)を計るものです。そのため、公式に日本政府に協力要請を行います。いわゆる、「毒まんじゅう」(将棋のはめて )の手法ですね。
このあたりは、米欧の数パーセント特権層が、国境を越え、他国の社会制度、科学技術、利権、経済力を取り込み、実効支配しようとする、TPP条約の戦略とよく似ています(このあたりは著者がまさにそれを視野に入れ意識的に書いているのだと思われます。)。
そして、お約束の、無考えで、自国の自力防衛に無自覚な、日本政府及び政府首脳(先に大亜連合が仕掛けた侵略戦争で痛い目にあったはずなのに)は、浅はかにも、自国の防衛を担う重要な魔法士を、よく考えもせず宇宙開発というでっち上げられた共同幻想(宇宙開発)に、人身御供として、差し出そうとします。
「安い正義」(世界理念をまとった共同幻想)に目がくらみ、国民の将来にどのような影響を与えるかを考えもせず、大多数の国民の利害を軽視し、自国に有益な人材を疎んじ、また、魔法士も一人の人間(国民)であり、職業選択の自由をはじめ、自己の人性を選ぶことができる意思とその選択を尊重することも、配慮もなしにです。
ということで、無考え(バカ)で、弱腰の日本政府は、(重複しますが)日本国民の安心安全と、日本国の防衛に、彼がいかに必要かを全く考慮せずに、対外圧力及びUSNAに無原則に協力するという恥知らずな見解で、政府として、非公式に主人公に協力への「要請」を、します。同時に、魔法協会(国内の魔法士の利害と社会利害関係を調整する機関)に圧力をかけ、世紀の愚策を推進(TPP問題とか、現実的にいくらもありそうでしょう。)します。
それでは足りない、と思ったのか、USNAの工作員は、自国の民間機関を利用して、彼の実名を公表するという、露骨で卑怯な手段をとります。
「国境を越えた、人類の進歩と共存」、「経済的な平等、そして世界平和」(どこかで聞いたな。まさしくグローバリズムの世界理念)という美名の下に、予定通りに、宇宙に、特定国の有力魔法士を長期間追放し、日本国などの防衛力と抵抗力をそぐという思惑です。

そのとき、彼は、鬼手というべきか、対抗上、有力な手段を発表します。
魔法力と科学力を統合した、「魔法による重力式常温核融合炉(?) 」の発明であり、当該装置を孤島に設置し、海水資源を無限活用できる、海水資源回収・活用事業を提案します。
これは、以前から、魔法士に対し、魔法士を兵器として利用することや、宇宙への強制移住などを妨げるために、彼が編みだした、生き延びる手段であり、他人に人性を左右されない画期的な試みであり、それを、「惑星開発計画」と同様に、世界を視野におき、大規模に、効果的に発表します。
それは宇宙資源の利用などと比べて、はるかに現実的であり、自国の支援や、経済産業界の投資・支援を呼び込むための、有力なカウンターというべきものです。彼の魔法高校の同級生の実父など、優れた企業家たちも上手に利用します。その上で、マスコミを上手に使うなど、冷静に、日本国政府及びUSNA政府の思惑をかわしつつ上手に利用します。
同時に彼は、「魔法士として、社会に敵対しない」、「社会の恩恵のもとにその存在はある」、ときわめて理性的で、強調的なせりふを言明します。また、「世界を無理やりひとつにしても、(国家間の)戦争が内乱に変わるだけだ」という、名言も吐きます。
このあたりは、著者の考えが明快で、いかに優れた出来物でも、社会、国家に敵対しても勝ち目はない、その中で居場所を探す、というよく考えられた戦略であり、よりしたたかに、彼と妹と親しい友人という味方を守っていく、こととし、彼ら以外の「全世界」に対抗します。このあたりは、ライトノベルの若者たちに受けるのがとてもよく分かるときです。同時に、優れた魔法士として、年上にも同級生にも、数多くの女魔法士にモテモテなのはお約束ですが。
このあたりのながれは、当初から、想定・視野に入っていた、というのは、著者の後書きですが、前巻の、「孤立編」あたりから、「常人より優れ勝った人間がどのように生きるべきなのか」、という問題提起と、彼を取り囲む、家族、一族、学校、社会、国家に至るまで冷静に丁寧に描かれ、その思惑と、彼の考えや現実の戦いでの相克と、その結果に思わずにやりとしてしまいます。
その中で、主人公は、自分の能力だけを頼りに、その最小限の友人たちの少ない味方たちと一緒に、ときによっては国家・政府・学校長などの世俗的な権威に決して怖じず、戦い、大きな成果を挙げていきます。
 また、おそらくそれは、現在の覇権国家中共の横暴、北鮮の独裁国家、夜郎自大の南鮮の愚かな与太話におたおたし、それ以上の愚かな政策を行うわが国の政府・国務大臣、あるいはサヨクバカの野党の政治家とマスコミ、あるいは腐った財務省の役人どものありさまを、若者たちが日常的に見て、不信感と無力感また怒りを強く感じているのが前提であり、それにひきかえこの本はと、ラノベを読む若者たちの溜飲が下がることは確かでしょう。
 ラノベの読者たちを想定すれば、今の、若者たちを含め、皆、学校(殊に高校)でいかにヒーローとして(後ろ向きのヒーローを含め)、周囲に認められ、評価されるか(他者承認)が命のようなところがあり(大学生が主人公のラノベは極めて少ないし、出来が悪い。)、その気持ちや感情は、いい年をした私にもよくわかります。かつて、「学校の怪談」が、こどもたちや大人を巻き込んで、あれほど皆に受けたように、学校には、夢や挫折などプラス・マイナスさまざまな感情が澱のように累積しています。
 このたび、新ソビエト連邦の戦略級魔法士が、USNAの高官に使そうされ、彼に個人的に攻撃を加え、手ひどく反撃されました。その戦いで、彼の仲間の一族で兄弟のボディーガード役を与えられたのメイド役の女の子が、手ひどい怪我を負いました。
 下巻(4月中旬発売)では、他の魔法士の動向を含め、今後、どのような展開になるのか楽しみなところです。

「京都ぎらい」及び「京都ぎらい官能篇」(井上章一著・朝日新書)について その2

2018-04-06 21:08:38 | 読書ノート(天道公平)
京都市、錦小路商店街です。
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 このたび(2018年)、好評であった「京都ぎらい」に続いて、「京都ぎらい官能篇」(井上章一著・朝日新書)が刊行されました。
 当初の「京都ぎらい」刊行以来、著者はテレビなどで売れっ子になり、私も、ついあの顔と声を思い浮かべて、この本を読んでしまいました。
その中で、まずベストセラーになった自作を扱う書店のポップ広告で、「本当は好きなくせに・・・・」というキャッチコピーが心外だ、という言明があり、前作の著作で、それなりの覚悟(社会的孤立と仕事がなくなる恐怖など)と、決意性で臨んだ著者としては、周囲の反応の鈍さと心無さに憮然とするようで、私も、その気持ちはよく理解できます。
 しかし、「京都・それにまつわる全て」それが嫌いかといわれると、それは、私も同様で、京都の自然、夏のむし暑い酷暑、冬の陰鬱な寒くて暗い自然はとても嫌いですが、その他の京都の自然・文物、すべておしなべて嫌いというわけではないのです。
 また、大阪の知人の感想ということで、「京都も宇治市もおんなじやろ」という感想があった、という感想もあり、これには、ある程度同意します。私には、京都での、長年にわたる幼少児からの屈辱的な(?) ・成育・生活体験がないからでしょうか、読めばそうかよ、と思うのですが、京都市中心(洛中)と京都周辺の差異が不明確なのです。そんなものが、よそ者に分かるわけがない、なかなか、知識として同調することが難しいのです。
 しかし、私、大阪も決して好きでないのですが、私の「大阪ぎらい」は次の機会にまわします。
 このたびは、著者の思春期の体験(浪人時代)から始まり、1970年代初頭にかけ、まだまだ京都観光がブームになっていなかった頃、著者が歩きながら暗記勉強をやっていた際、(教養ある)一人旅のおねえさん(当時は女性のモラトリアム(猶予)時間は短いからお気の毒です。)から、地元の、古寺、名刹の案内を頼まれたというチャンスの話があり、「私もあやかりたかった」と、心底思いました。
 そして、その後、晴れて京都大学に入学して、合ハイ(合同ハイキング)やダンスサークル(社交ダンスでしょう。)に明け暮れたという記述がありました。
 わが体験と比して、私はそんな体験は全くなく、女っけはほとんどなく、周囲を見ても、ときにヘルメットをかぶるジーパン姿のむさいような女ばかりで、ひたすら、暗い青い春を過ごしていたわけです、そんな優雅な体験は皆無に近く(イケ面の友人たちを見ても、そんな男たちはほとんどいなかったし、決して特に私個人が劣っていたとは思えない。顔の造作は別にしても、当時はまだ髪もあり、痩せていた。)、それも「愉しいキャンパス生活でしたね、うらやましい」、と思うばかりです。
 著者は、学生運動に触れた記載もないので、そんなくらい話は無縁のこととして、こちらとすれば、「洛中人(強い)>宇治市民(弱い)」と同様に、「京大生>私大生」という、京都の(?)鉄の規範の図式を連想するばかりです。合ハイなら、京大生なら、数多い京都中の女子大・女子短期大の女の子はついてきただろうし、地方から来た娘なら、「京都に住んではるんですか?すてきやわー!」と、京都弁で迫ってくれることがあるとすれば、京都ネイティブの男としては、対人(女性)関係の初期値も高かったろうに、と思われます。その意味で、あなたも、「結構めぐまれていたんじゃないの」と茶々を入れたくなるかも知れない。
 どうも、ここは、演繹して、「洛中人(強い)>宇治市民(弱い)>地方人(もっと弱い)」という図式を想起すべきかも知れない。
 まあ、「地方の人」なら、努力して京大へはいればいいじゃないの、という自己努力の欠如といえばそれまでですが、このような、社会的存在での個々の差異(そうとしか言い様がない。)は、あるいは差異に伴う各人の不公正、取り扱いの利益・不利益はいくらもあるところです。
 それを言い出せば、運・不運から始まり、たとえお金、時間に余裕があるにしても、努力してもだめな人もいくらもあることなので、かといって、想定されたコースを外れた人が社会生活を送れないというわけでもないので、それこそ、それぞれの「知恵」の違いとして理解すべきものでしょう。
 どうも、近代(東京遷都以降)以降、「東京」標準となったので、「京都一番」の勝手は変わったかも知れないところです。だから、何世紀をも越えた、出自に基づく洛中の方々の排他性と特権意識(洛中の家もちと借家人との社会的関係はまた全く違うということですが)は、これらは、新秩序に対する、おん念に根ざした感情(ル・サンチマン)なのかもしれません。
 しかし、皆、選んで、東京都・京都府に生まれるわけには行かないので、われわれ「地方人」としては、著者の自宅から、学校通学、それもうらやましい限りです、というならば間違いない、ところです。みんな、それぞれ、おしなべて、それぞれ異なった人性をおくっているというところですが。

 話を戻すと、著者の怒りの矛先は、「生まれた場所による理不尽な差別」ということであり、つまらない差別(区別)は、国境も時代も越え無限の公平・不公平の連鎖を生むので、仕様がない、最後はたまたま「生まれ」、だけで、過度に「思い上がるなよ」、とののしるぐらいですかね。
 著者に拠れば、江戸っ子の夏目漱石(彼は伝統ある江戸の名主の出身らしい。)も、京都来訪時に、京都人をバカにしていた、という記載もあるので(著者も地元びいきでどうもなんとなく腹立たしいらしい。)、京都人のこの感覚(著者を含む。)も、先のルサンチマン、東京に首都をうばわれた、京都人の、目下(と思われるもの)への、優越感で保証するという、不健康な心の動きなのでしょうか。
私の例を引けば、京都に住んでいたときは、「東京のやつらに負けてたまるか」、と思っていましたので、今思えば、「おらが正義」は、バカらしく、愚かしいものであり、また、その反面、自分の居住地や、その環境を賛美し、また過剰に執着(?)するのも、実は、根強い、健全な心の動きかもしれません。
 ということで、「官能篇」には全く触れておりません。

 先に述べた、桂離宮の建築様式を真似た(?) 町家(まちや)が、現在は「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」という、町の美術館となっており、多くの人が訪れているそうです。
かつて、京都で、数奇屋つくりという建築様式は、近世ではお金持ちの妾宅であった、という指摘をした著者の原稿が、雑誌に掲載する際に、宮内省の検閲(?) で掲載許可(したがって写真が使えなくなる。)が降りず、差し止めになった、という意味の発言がありました。
 京都在住の「表現者」としても、京都の洛中の有力者や、社寺、官庁など、その意向を過剰に意識せざるを得ず、なかなか、やりにくいらしい。
 いわば現在の官庁の、禁忌の自主規制というか、伝統文化の貧困というか、古代からのおおらかな時代の、政権、為政者、それにまつわる女性たちの心の動きや秘密から、また近代以降の遊郭、女性との交誼(?) を含め、それを、きわめて強く禁忌の対象にしている、らしく、誰がそれを決めるか知らないが、硬直化した、つまらない、「想像力と識見の欠如」である、という認識を新たにしました。
 歴史の改ざんなのか、隠蔽なのか、愚かしい話ですね。これも、宮内省官僚の自己満足なのか、つまらない話です。
 いずれにせよ、著者は、この「官能篇」においても、一貫して、「京都ぎらい、しかし、(私の生まれて育った)嵯峨野と宇治は好き」というパターンで、自分の議論を進めています。
 これはわれわれも、われわれの郷里は、仮にそこが鄙(ひな)であるにせよ、それぞれの実態を知ったら、「京都きらい、○○は好き」と思いながら、われわれの祖父・父のように、「ここが、日本国で、いや、世界中で、一番いい」と、それぞれ、さほどの根拠なく自慢した、郷土の、社稷、歴史、風土、気風を、称揚したほうが健全でありましょう。
 どうも、つまらなくなったので、このあたりで、失礼させていただきます。

 しかしながら、われわれ地方民は、先の東北大震災で、東京都住民のあまりに多くが、首都圏第一主義(先の東北大震災で、常日頃、電力・食料・労働力などあれほどお世話になっていながら、災害に際し、首都圏住民の多く(多寡は問わない。)は、被災地にろくに共感も支援もしなかった、その利己主義、自己中心主義)のあまりにも心無さと無慈悲な振舞いを見せ付けられました。心ある都民はなぜ、当時、その卑劣な自分中心主義をたしなめなかったのか。
 わたしたち、地方に在住の日本国民としては、時に、東京都及び東京都居住住民の傲慢さに対し、その傲慢さを指摘・指弾する必要があるわけです。
 それが、歴史的にも、現実的にも、代表的な地方都市としての京都府及び京都府民の役割りではないかと、思われるところです。