天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

人間関係の貧困とその対処について(地銀Y銀行の窓口職員にかかる思い出)

2020-01-19 11:35:07 | エッセイ
 自分自身が、年を重ね、それなりに社会生活が狭まるようになると(生活の幅が狭くなる、でもいいです。)、それは年経ても、寂しいものであります。
 そうではならぬ、と自分で思いつつも、人間関係(社会的関係)に前向きになる、ことは、おっくうなものです。
 逆にいうと、閉ざされた環境で、人間関係がせばまれば、私の若いころでいうと、「屋根裏の哲学者」や、今でいうと「社会的引きこもり」などに陥ることもあるかもしれない。
 また、社会生活の貧困や、自ら引き寄せたような閉ざされた関係と心理に安住すると、根拠のない、被害者意識や、選民意識を持つかもしれない、人間とはバカな存在であります。
 
 自分の思考や、意識的に環境を変えるように働くことで、その閉ざされた状況が変わるものであれば、自分で、意識的に外部に働きかければよいものである、どの「生活者」も、躊躇(ちゅうちょ)なく、また躊躇する余裕もなく、日々日常的に働いているわけですが。
 私の主治医に、「(いろいろな窓口で)おやじは、なぜ、あれだけ不愛想なんですかね。あれは病気じゃないんですかね」と尋ねたことがあった。
 スーパーのレジに並んでも、笑顔一つ見せない、ぶすっとして、一言も口を利かない、その様子や振る舞いは、それは女性と好対照(それは良い意味で女子力と考えている。)である。
 実は、近頃、私も、まったく同じ態度をとっている。
 いろいろ理由はあるが、嘘でも、笑顔を作った方がよいのは、あらゆる人間関係で確かである。
 それこそ「朝は機嫌よくしろ」というのは、有益な格言である。

 しかしながら、その孤立の質としては、自ら選んだわけではない貧困や、家庭的な関係の貧困による、孤立は、お気の毒なことである。それは、他者が、容易に同情するような境遇や事情ではないかもしれないが、同感はできる。

 私に則していえば、人や、その日常生活において、家族や、社会との人間関係が減ってくると、そのうち、「天気が悪くて応えて、気が滅入る」ような、困った心象も出てくるわけである(能天気といわれるかもしれないが、この辺りは結構根強い。)。

 幸い、退職後も、再任用職員として、働くことができ、経済的にも、社会的にも、自己のためには、ありがたいことであった。
 私の日常の仕事は、地方公共団体の出先で働いているので、出先から入金するため、地元の金融機関を、毎日のように訪れた。
 私の、行政職としての人性の中で、仕事として銀行を常時訪れることは初めてのことであった。
 観察してみると、なかなか、銀行というのは忙しいところで、金が絡むからか、様々な切実な人間模様がうかがわれる。あっと思うような、奇矯な風体や言動の人もやってくる。
 一般的に、常に、客が極めて多く、税金一つ支払うにせよ、多大な時間がかかる。
 よく見ていけば、現在という時間が、あらゆる側面で、われわれ、一般大衆においても、極めて不本意で、ストレスフルな時間であることを如実に示している、ように思われる。皆、一様に、不快、時に不幸なのだ。

 当該窓口も、IT化が進んでおり、窓口の順番を確保するのも、タブレット端末からの申し込みとなった。
 キャッシュディスペンサーを使うことのできない、老人もやはり、まだおり、印鑑と通帳を握りしめて、ベンチで待っている。
こちらは、仕事で来ているので、まだ、抑えが聞くが、粗暴犯のみならず、待ちかねた老人が、自分を抑えきれずに、大声を出すのも、時にあることである。

客によっては、自分の自己都合ばかりを並べ上げ、脅迫的な言動もあり、これは強要罪ではないのか、と思われることもある。
ただでさえ、適応不全の老人たちは、多大なストレスをかかえ、普段から閾値(いきち)いっぱいであふれんばかりの状況かもしれない。そのうちのいくらかが、たまたま、急に怒り出すのも、珍しいことではないのだろう。
さすがに、地銀の支店であれば、警備担当も存在しない。

それを、一人で受けなければならない、窓口の各女性たちはさぞかし、ストレスが大きいものだと思われる。
上司たちは、裏で、注意深く、客と彼女たちのやり取りを見ているばかりである。
いしいひさいちの漫画での指摘ではないが、奥の方から、銀行員の武器としての、「冷たい視線」で見守りながらである。

ある時、私は、長時間待ち続けて、こらえかね、納入書類を乱雑に、窓口で差し出したことがあり、私は、なぜか、違うものも一緒に差しだしたらしい。
 担当の彼女(以下「彼女」という。)は、入金処理が終わって、「大事なものまで預かりまして・・・・」と、微笑みながら、入金書類と、私が乗ってきた公用車のカギを一緒に返してくれた。
 それから、お互いに、大笑いになり、それ以降、彼女と、折に触れ、いろいろ、話をすることとなった。
 お互いに仕事の途中であり、私もさすがに色香に迷うこともなく、長話をすることはないが、時折り、いろいろと、銀行のサービスで疑問に思ったことや、私事にわたることについても、機嫌よく、聞いたり、答えたりすることが続いたわけです。
 
 「あなたはいい人」、と、仕事を通じて知り合いになったおばちゃんや、おじさんが、常時身内のことについて話しかけてきたり、野菜(?) をあげようとか、いうのが、田舎での親近感や個人的な好意の表示です。
 日々の、相互の疎遠な関係を思いやればそれはよく理解できる。疎遠で、不干渉な人間関係にも人は耐えられないのである。
 私たちは、なかなか、人間関係のバランスが上手に取れないのである。

 私も、加齢に連れて、いずれ、そのようにふるまうこととなるかもしれないが、こちらも、仕事で行くので、ささくれた気持ちでいくこともあり、毎日、「万事機嫌よく」(桂枝雀)というわけにはいかない、のである。

 ある時、当該銀行の周年記念ということで、二個詰めのマカロン(あの糖衣のジャム付きのい丸いクッキーらしきもの)を、彼女からもらった。
孫にでも与えようと、冷蔵庫に入れていたが、会う機会がなく、古くなるな、と思って、取り出し、かじりつくと、歯がたたない、よく見れば、塩ビの表紙のついた、丸いメモパッドだった(よく見れば、悪趣味なものである。地銀は、年金支給日の来訪者に、かっぱえびせんとか、駄菓子を配るサービスがある。それでも欲しい老人はいくらでもいるらしい)。
 自分の失敗談を、後日、彼女に、笑って、話すと、彼女が代わりに、豆菓子をくれた。
 呑み込みの悪い私は、地銀が豆菓子をくれたのだろう、と思っていた。
 が、よくよく考えてみればそんな甘いことはない。
 結局、豆菓子に目がないうちの孫が、もらった豆菓子を、小袋ごと皆平らげてしまった。
 他人の親切というものはありがたいものである。

 そんな、経緯があり、銀行に行くたびに、彼女の振る舞いや言動が私の目に入るようになった。よかれあしかれ、耳目に入るのである。すると、彼女が、極めて優秀な職員であることが、わかってきた。
 まず、ミスはないようであるし、客が何を望んでいるか、判断が早い、いわゆる、想像力が豊かなのだと思われる。銀行の方針と、客の意向を両立するように、心を砕く。
 日々、同じ人間に、同じことでも、それをいとわず、何度も、丁寧に説明を繰り返す。
 多少、絡まれたり、心無い言葉を浴びてもくじけない。
 この職場が、彼女にとって、何度目になるのかわからないが、初心を忘れず、というのが観て取れる。
 自分でよくわかるが、窓口業務は、客に酔うようなところがある。そのつもりがなくとも、いやな体験を繰り返せば、神経がささくれ立ったり、人によってはなめてかかるようなことも出てくる。職員によっては、つっけんどんになったり、粗略な扱いをする人もいる。
 仕事や職場は選べない、ましてや、理想的な環境で仕事をすることはできない、人とすれば、いやな仕事に対し、全人格をかけ、工夫をし、困難な条件に対応し、職責を果たし、願わくば、自分の思いをかなえたいものである。

 頭の下がるような、彼女のその社会生活である。
 つい、おそらく同世代と思われるうちの娘を思い浮かべ、彼女が、職場でどんな社会生活を送っているのかと、思いうかべたところである。

 ひるがえって、自分の職場を思い浮かべ、どれだけ、彼女に比肩する職員がいるのだろうかと、その尊さに思い至ったところである。

 私生活は別にして、自己の職責において遺漏のない、社会生活を日々送ることはとても困難できついことである。なかなか、その困難に耐え、「変質せず」、日々を送れる人は少ない。

 本日、その彼女に、産休に入るので、しばらく職場に出られない、とあいさつされた。
 とっさのことで、こちらのあいさつも粗略になってしまった、いい年をして恥ずいことである。

 私も、今の職場に長く居続けることはできない、ところである。
 おそらく、どうも、今後、彼女ともう会うことはないだろう、と思われる。
 
 彼女は、職場で、あれだけ見事に、職責を務められるのであれば、家庭や育児で遺漏を生じることは少ないであろう。

 先のない私が、望むらくは、今後、彼女のような生き方がきちんと評価され、彼女の将来のこどもが生きていく社会が、希望のあるより良いものであるように願うばかりである。
 その実現のためにも、私も、残った時間を、全力で尽くそうと思う。

 結局、名前も聞かなかった彼女に対し、私は、そう、誓っている。

わたしたちは、日本企業を支援し、応分の消費を行い、GDP(国内総生産)の増加に組みすることといたしましょう(ニコンの顧客サービスについて)。

2020-01-11 13:36:45 | エッセイ
 このたびブログの更新を怠っていたことを、衷心から、お詫び申し上げます。
 本日は、台湾の総統選挙の当日と聞き及びます。中共政府、その便乗同伴者を含め、覇権国家、中共の野望が、くじかれることを強く望みます。
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 私、つまらないほどに文系であり、理系の妻には、折にふれ、様々な局面で、憫笑(びんしょう)あるいは、嘲笑(ちょうしょう)されています(ああ、なんと悲しいばかりの文系素養であろうか)。

 現在、世には、便利なことばで、「女子力」、「男子力」ということばが広く膾炙されており、それは、私にも納得できる流行語であり、「あなた男子力低いわね」と、言われると、是非もなく、むっとする余力もなく、そのとおりです。肯定します。
 若いころは、「重いものを持つ」ときなど、妻より、力が強ければいい、と冗談交じりに、安易に考えていましたが、決してそういうものではないのですね。
「辛抱強い」、「困難から逃げない」、「粘り強く目標をやりとおす」、「権威に媚びない、迎合しない」、「義を貫こうとする」、「子弟に規範意識(善・悪判断など)を持たせる努力をする」、「家族の融和と温和な人間関係をもたらす。」、などと、男子力について思いをはせ、具体的に例を挙げていけば、それこそ、私には及びがたい、立派な男子力ですね(女性には袋叩きにされそうであるが、これらの多くを、私は、男の良い属性であると考えている。)。

 たとえば、私は、妻と旅行に行っても、写真の撮り方が悪い、なぜ、背景の全体像を入れないのか、余白が甘い、私が撮った写真に比べて、私の撮った写真はなぜここまで配慮と工夫がないのか、と言われまくっております(このあたりのスキルは文系の守備範囲のうちでしょうか。)。

 実のところは「私はとても要領が悪い」のではないか、とも思っております。

 そのあたりになると、指摘があっても、「・・・・今更いわれても」と、すでに、人間としての瑕疵担保責任(かしたんぽせきにん)は終了している(リコール期間、お試し期間は終了している。成田離婚で言明して欲しかった。)、ということとなりますが。
人性にはつきもののことですが、日々の中で、私の欠点を、評価・あげつらわれているようであり、加齢により、心の痛みには強くなった(また、逆に体の痛み・傷には弱くなった。)とはいえ、つらい立場です。

 閑話休題、男子力が極めて低い私としても、それでも、若いころは、一眼レフのカメラを持っていました。まだ、光学式のカメラしかない時代でしたが、幸せなことに、日本国及び日本国民の多くはまだ小金持ち(?) の時代であり、国内市場で、レンズ交換が出来るようなよい、まだ高価なカメラでも、貧乏人にも手が出せる時代でした。
 私は、知り合いから、ニコンの中古を譲ってもらい、フィルム原像とか、いろいろ教えていただきました。当時、あの方には、不出来な後輩に大変親切にしていただきました。
 その頃の、ニコンというカメラの会社は、世界に冠たる優良、高技術の光学機器メーカーで、別称ナイコンと呼ばれたり、当時、その製品は、F2とかF3とか、プロ・アマ垂涎のすばらしいカメラでした。
 私も、ニコン独特の、黒と黄色のストラップを吊り下げ、カメラバッグを持ちつつ、「芸術作品」を撮りまくっておりました。汗顔のいたりです。

 当時、お金がなかったので、うちの子の、七五三写真は、自宅で私が撮影しました。
 しかしながら、こどもが成長し、自宅を離れるにつれて、カメラとは、自然に疎遠な関係になってしまいました。

 その後、家族旅行の時に淋しいからと、最初に妻がデジカメを手にし、そのおまけで、私もデジカメ利用を始めました。
 しかしながら、前述のように、「無能の人」として、いつも指揮・指導を受けるので、自分でデジカメを入手することといたしました。そこで、地元の電気屋テェーンで相性のいい、電気量販店エディオンに出かけ、デジカメを入手したところです。
 文系のおやじではありますが、ブログを始めたことも、その理由のひとつではあります。
 そのときに、デジカメをいろいろ見てみましたが、キャノンとかソニーとかどうも相性が合わず、あの懐かしい、ニコンを選んだわけです。

 それが、かれこれ、5年も前のことです。
 それ以降、旅行、ブログのお供として、私なりに活用させていただきましたが、先日の旅行の最終日に、稼動、停止を頻繁に繰り返したせいか、とうとうシャッターが誤作動し、シャッター動作がとまらなくなりました。
 それまでに、何の支障もなかったので、どうしたことかと思いましたが、帰宅後、早速、販売店に持ち込んだわけです。故障したときの状況を聞かれましたが、故障の原因によっては、別途の費用がかかるかもしれないことの確認は、その際になされたところです。

 後日、エディオンの広島総括の担当者から連絡があり、当該故障はクレーム処理で済むと連絡があり、また、再度、連絡があって、故障部品の在庫がないので、同程度(販売時期が違うので当該性能は向上している。)の機種を提供する、長らく、お待たせして申し訳ない、とお断りの電話がありました。
 私が聴いたかぎりでは、とても誠実な対応で、きちんと順序を追った説明であった、と思われました。このような場合のマニュアルがあるのでしょう、それに沿った説明らしく思われます。
 当該量販店は、販売製品の保障期間が、通常5年であり、場合に拠っては修繕費を覚悟していましたが、製造者、販売者と、製品の瑕疵の確認とその後の顧客への対応を協議し、連帯して、対応するという、まさに、日本式と思われる、顧客対応に、とても満足しました。
 これは、比類のない、世界に自慢できる、顧客満足度(例の「カスタマーサティスファクション」というヤツです。)を実現していると思われました。

 私たちは、家電を買う際、冷蔵庫や、洗濯機ならどこ、とか、パソコンはどこ、とか、そのメーカーを家庭の意向で決めています。
また、販売店は、場合によっては、地元の個人経営の電気屋さん、とか量販店とか、決めますが、基本的に、便利で、長く付き合える販売店を選びます。その選択は、一長一短で、現在・将来といろいろ考え選択します。それが、消費者(生活者)の智恵なのです。
 今回限り、とか、安いだけの量販店はあまり選ばないのです。若者たちのように、性能を熟知し、やすいものでいい、バッタものでも、掘り出しものがある、当面使用価値があればいい、というのなら話は別でしょう。
そこは、大多数の消費者には無理なところです。値段の折り合いはまた、別の問題となりますが。
 
 本来、小売業は、非常に人間的な側面があり、売り手の対応の快・不快、クレームへの対応、いろいろ購入者は考え、販売者も同様に相手のその真意を考えるわけです。それこそ、多少の商品の瑕疵は、価格や、交渉で変わるし、場合によっては、良好な、あるいは、険悪な人間関係も招来するわけです。
 実のところ、私にしても、いきつけのスーパーにおいて、「あの、おばはんの、レジにはならばない」、ということすらあるのです。

 テレビ番組で、他国の街角で、売主と買主の商売上のやりとりを、よく、放送していましたが、双方で冗談や皮肉を交えた活発なやり取りが行われ、外国でも、売り買いにかかわる人間的な要素は大きいものなのですね。得心できます。
ネット通販や、BS放送などで見る、テレビ通販も、どうもあれは、相互コミュニティ不足による、架空であろうと、仮想であろうと、孤独な人間たちの、商行為を通じた、新たな人間関係の構築に思えてならない、わけです。

 我が家は、基本的に、日本国のメーカーの商品を買います。
 一過性の食料品などは時に例外ですが、一般的に、どれだけその商品を使用するのか、自分の残余命(?) も含めて、検討し、故障の少なさ、保障期間の長さ、国内市場にずっと残るのか、企業文化や理念はどうなのか、瞬時にあらゆる要素を考えるわけです。

 しかし、現在、その、「常識」がゆらぎだしたのは困ったことです。
 1990年代の政府の愚かしい規制緩和政策以来、大打撃を受けた小売店は、おしなべてシャッター商店街になりさがり、デフレで疲弊した地方の街中の中小のスーパーマーケットすら、閉店していく現在のことです。
 私は、自社ブランドだけの販売と、他国産の食料品を主に置いている、イオンとか、その囲い込み型方式や、営業方針も、商品の質も、値段も気に入らないので、決して買い物に行きません。
 それは、消費者として、当該スーパーマーケットの売り場を見ていれば一目でわかりますが、顧客に商品の選択の余地がある、また、レジも電子清算でなく、人間的なやり取りがあり、レジの対応が親切な、地元に拠点をおいた場所に行くわけです。ましては、高齢者においては、と思うわけです。

 殊に、耐久消費財は、お互いに、逃げ場のない、国内市場において、きちんと、製品保証、招来の保障があるメーカー、販売店において、選択し、購入します。
 カメラについては、数万円のしゅつ損でしたが、このたびの、ニコンのデジカメと、当該販売店の選択は僥倖でした。
一時は、厳しい状況にあると聞いたニコンですが、今後も、企業努力に拠って、業績を伸ばし、グローバリズムに踊らされず、海外に拠点を移すことなく、世界に冠たる企業として君臨し、わが国にも、われわれにも恩恵を与えて欲しい、ところです。企業としての活動が健全なうちは、私も、その他の顧客も、永い付き合いを約束できるところです。
 聞き及べば、先に、台湾企業に買収された、シャープですが、社員の奮起によって、テレビ事業で、卓抜な技術で大ヒットを出し業績回復を果たしつつあるとのことで、すばらしいことです。
 また、自国内での産業育成支援を怠り、他国(「潜在的敵国」、ということです。)の無秩序な資本流入を奨励し、潜在価値のある優良企業を、自国で支援しない、政府、経済権力の不明を恥じなければならない。
 このうえは、ニコン、シャープとも、日本人の雇用はもちろんのこと、支払うべき、法人税、所得税・地方税を、わが国庫などにきちんと支払い、社会的責任を果たして欲しい、ですね。

 バカな、日本政府と財務省が景気対策を行わず、消費税まで引き上げ、景気後退に拍車をかけていますが(バカらしい)、庶民としては、国内で国内商品を購入し、わが同胞大衆のために、貢献したい(微々たるもので恥かしいですが)と思います。
 時代が強いているのは、いまこそ、日本国の大多数の貧困生活者大衆のために、たとえ私たちのように、非力で社会権力に遠い卑小な市民であろうと、一部の腐った指導者とその同伴者たちと対置し、私たちのそれぞれの局面で戦わなければならない、ということです。