天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「イギリス解体、EU崩壊、ロシア台頭 EU離脱の深層を読む」(PHP新書、岡部伸著)のお勧め(先の「国家」の逆襲(著者藤井厳喜)のブログ一部訂正)

2016-09-13 20:53:22 | 読書ノート(天道公平)
先に標記につき、意見を申し述べさせていただきましたが、末尾に述べさせていただいた、「イギリス解体、EU崩壊、ロシア台頭 EU離脱の深層を読む」(PHP新書、岡部伸著)について、前回、私は一面的な見解を記した、と思われましたので、このたびその部分を訂正させていただきます。

岡部さんの立ち位置とすれば、産経新聞のロンドン支局長として、イギリスにあり、このたびのEU離脱(Brexit)を契機に、UK(ユナイテッド・キングダム・オブ・グレートブリテン・アンド・ノースアイルランド)(正式名称、以下「英国」と呼びます。)と、EUとの国際関係、EU各国の思惑、大国、米、ロ、中の思惑、その働きかけについて、英国にいるジャーナリストとして観察と分析を行うところにあったようです。
このたび、読みとおさせていただきましたが、それこそ、先に、英国が、EU加入存続について、「国民直接投票」というあたかも地獄の釜のふたを開けるような賭けに出ました。その結果(EU離脱)を受け、スコットランド、北アイルランド(アイルランドも含めて)などにおいて、あたかもユナイテッドのくびきを外されたように、歴史的にも、経済的にも、連合以前の民族国家としての直接利害を求める連合以前の国民(?) の思惑により、英国傘下の各連合国家で一斉に分離、独立の意欲が再燃焼し始めたこと、ましてはロンドン市の独立 (?) すら論議され始めていることなど、私には大変興味深い話でした。
伝統ある議会制民主主義の「先進地」で、新しい英国首相は、少なくとも日本国の大多数の政治家に比し、明らかに優秀で手堅いように思われますが、EU世界でのグローバリズムの幻想(虚妄)のもとで、国民国家を軽視したことにより一挙に噴出した大問題に際しやはり無力であり、私たちが承知おいているだけでも、英国民が過去に流血と戦いによって選び取った筈の「国民国家」<連合>の歴史が求心力を失ってしまうかもしれないという現実を視て、このたび、改めて、グローバリズムという社会の混乱と伝統の破壊、紛争しかもたらさないようなイデオロギーの大罪を苦く深く感じるところです。
メイ新首相による、親中共の有力閣僚(オズボーン前財務相)の更迭、英国内部の各国の連合の強化努力など、英国の「国民国家」のたがをしめなおす努力も、なかなかうまくいかないようです。
国民への求心力の復活のために、日本国の「天皇制」のように、先頃からの夜郎自大な中共政府高官の国家の品格を汚すような外交行為に、苦言を呈されたという、英女王など毅然たる英国王室が今後登場し、国民統合の象徴として、よりよく機能するわけにはいかないのでしょうかね。
本書でも、アメリカでの、米国民の期待した民主党のオバマ首相の改革の失敗と分析、親中共が予測されるクリントン民主党大統領候補の動向など、きちんと観察してあります。
そのうえで、①英国のように日本国は階級社会ではない、②日本国での資本家、労働者の対立は激しいものではない、②福利厚生も高く、地域コミュニティも残っている、③欧米ほどの賃金格差もない、日本の情況の利点を指摘します(いずれにせよ、安倍政権の経済政策を私たちが常に監視しておかなければ、いずれ全部反目に振られるかもしれない、というわけですが。)。
日本国民は、「「移民問題」やグローバル化に伴う格差問題を真剣に議論する心構えが整っていない」という指摘や、「統合の理想主義よりも現実主義を優先させた英国の決断は少なからぬ教訓になる」という指摘も得心が行きます。また、ほかの方々の指摘もあったように、島国国家で、中国・ロシアなど大陸の少なからぬ大国の影響下にある地勢的な状況下で、親米路線もほころびつつある中で、(伝統ある国民国家として)、日本国の世界外交として新たな日英同盟(同時に英連邦の尊重)の締結も可能ではないか、という著者の問題意識と論理は納得できます。
しかしながら、私には今世紀の最大の迷妄と思われる、グローバリズムにより引き起こされた災厄と、EUの不安定化、各国民国家の大多数の国民たちのグローバリズムへの幻滅と怒り、それにも拘わらず、あくなき利害を求める国境を超えた金融資本などの害悪(不道徳性)への告発や指弾が、前に挙げた藤井厳喜氏の著書(「国家」の逆襲(著者藤井厳喜))に比べて、今一つ不徹底(彼はグローバリズムというイデオロギーは終焉した(歴史的に破たんした)と書いていましたが、私もそのとおりだと思いました。)なのは、不満なところでした。


アニメ「君の名は。」を見て、愚考することについて

2016-09-09 23:13:17 | 映画・テレビドラマなど
先に、さる方のフェイスブックで、今年の夏は「シン・ゴジラ」と「君の名は」というアニメ映画が大ヒットした、(なかなか興味深いらしく)是非見てみたい、との話でありました。折しも、我が家の近所の映画館で、木曜日、男性入場料金減額デーというのをやっていまして、さっそく、いってみることとしました。
 このアニメの監督は、知る人ぞ知る新海誠監督です。前作「言の葉の庭」も、若い友人に教えられDVDで見て、とても良い出来で感心しましたが、もし、このようなアニメに入れ込む(感情的に移入する)のが、広義に「おたく文化の支持者」というのであれば、「この作品がいい」と思えた私も立派な「おたく」であろうかと思われました。主題歌の、「レイン」(大江千里、作詞・作曲、男の子の立場から書かれたとても良い恋の曲です。)が、あの秦基弘によりカバーされていましたが、それ以来、すっかり私のカラオケナンバーになりました。それを聞く立場からでも、好意的に迎えられたことも付記します。
 このアニメも、全体を通して、好いた、惚れた、の主題(若いうちはそれしかないだろ)でしたが、古来から日本の恋に使われた雨が、このアニメでは、ヒロインの古典の教師による年下の生徒に対する相聞歌の投げかけとして暗示されるように、全体を通して重要な場面に押しなべて使われ、その情
感の盛り上げ方の的確さと、また、とことん微分化されたような雨滴や、反射する光の描写などを加え、ここまで、微細に、美しくアニメで描写できるのだと驚くような出来でした。

 それはそうとして、この作も当たりでした。
 かつて、私が聞いた筈の、「君の名は」(ラジオドラマ、菊田一夫原作)というのは、男と女の永遠のすれ違い、であると、戦争や、偶然、世間の介入など外部の状況でとことん逢えない、話であったと記憶していますが、世間も許さん、時代も許さん、という時代に、それでこそ逆に二人の気持ちは盛り上がる、という話であったように記憶します。その困難な状況に、視聴者は同情し、あるいは悲しみ、憤慨し、自分のことのように入れ込んだ訳でしょうが、この作は、それ以前に、時間を超えているところにその特徴があります。
 もう一作、私の知見の許すところであれば、この映画の主人公の設定は「転校生」(1982年、大林宣彦監督、尾道三部作のうちの一作)の女子生徒と男子生徒の入れかわりの設定を借りており、その衝撃、異和や嫌悪、そのうち相手の境遇や気持ちに関わる理解に至るお互いの気持ちの移り変わりが、とてもよく描かれています。

 彗星が地球に接近した時期に、彼らのいきさつはひき起こることとなります。東京の中心部と、長野の村部に暮らす彼らは、彼女が巫女を勤めるご神体の計らいなのかある日夢の中で入れ替わります。
お互い、目覚めて、赤面逆上混乱する中で、それぞれの状況が見えてきます。男の子は父子家庭、女の子は母の早世により、婿養子の父が出て行った家庭、それぞれ屈託と不満がありますが、その鬱屈を絵を描くことにより癒す彼の生活と、あこがれの東京に行けた彼女と、息苦しい田舎に、長女として、祖母と妹と二人で暮らす、彼女の状況のやりきれなさに気づいた彼とに、だんだんに相互に理解が生じてきます。お互いにメモにより、入れ替わった時の申し送りをします。とうとう、彼は、思い切って、彼女に携帯電話をしますが、これに意味があるのですが、不在着信が答えるばかりです。
 一方、思いつめた彼女は、ある日、とうとう東京に会いに行きます。そして、偶然という必然ですが、電車の中で、男の子にであい、思わず近寄り、唐突なしぐさに「何、この女」という彼の目つきに耐えきれず、思わず逃げようとします。とっさに何かを感じた男の子は、女の子に手を伸ばし、彼の手に、髪留め、彼女が作った朱色の組紐(自分の時間と気持ちを織り込むという暗喩があります。)が残ります。彼は、何故かそれ以降ずっとそれを手首に巻きつけておくこととなります。
 自分の気持ちがわからず、とうとう彼女に会いに行った彼は、あこがれのバイト先の先輩と友人を巻き添えに、とうとう長野まで自分の描いたカルデラ湖のような大きな湖に沿って村落が広がるイラストを手に必死で探しまわります。あきらめかけた頃、ひょんなんことで、その村が、3年前、彗星の衝突で、全滅した村落であることを知らされます。混乱した彼は、図書館に行き、必死で犠牲者の名簿を探します。そして、その名簿の中に、彼女の家族全員を見つけるのです。「彼女は、過去から来たのか」と、ショックを受けた彼は、一晩悩んだ末、止むにやまれず、皆の雑魚寝で一泊した宿から、書置きをして、隕石孔になったような廃村と山上のご神体を目指します。そこに、かつて、彼女に成り代わった彼が、彼女の妹とともに、三年前彼女が作った口噛み酒を封印した瓶(へい)とよぶ須恵器に、結界を超え、彼岸といわれる穴倉に封印したのです。ただ一つの依り代を求め、穴倉に入りこむ彼、そして、彼女が醸した口噛み酒を、清酒を飲み下すのです(古代の乙女が醸した口噛み酒というのはどぶろくみたいな澱が沈んだような酒ではないのかね?)。それから、時空を超えた、「愛の奇跡」が起きるんですね。彗星の衝突を認識し、彼女として覚醒した彼(ややこしいね。)は、彗星の衝突が起きる日に転送されることとなり、必死でクラスメートを巻き込み、皆を避難させようとします。できるだけの彼女の影響力を駆使し、発電所を爆破することで、落下地点から離れた、高台の高校に、住民を避難誘導しようとします。しかし、ひとたび確定した歴史は簡単に翻るものではないのですね。また、同時に山上のご神体のカルデラ盆地(1000年前も隕石衝突があったそうです。)で、眠っている、彼をめざし、彼女の心は千路に乱れます。そして、自転車を飛ばす中、山道で落下し、また、彼らは入れ替わります。
 ようやく、原型に戻った彼らは、山上のクレータの縁道の上で二人は出会います。ここがクライマックスです。相手を見ることは、会話はできるんですね、三年前彼に預けた、朱の髪留めを返してもらった彼女は、決意を込め、自分の今の髪を結び(二人の結びなんですね。)ます。しかし、寄り添おうとした時点で、時空はやっぱりつながらないんですね。ここは切ないところです。せめて、束の間の逢瀬に、忘れないように、名前を書こうと油性のマジックで書きかけたとき、二人の記憶が消え始め、永続化しない奇跡と、彼の手のひらにマジックの文字の書きかけの横棒が一本だけ残ります。

 もとに戻った彼女は、次に二番目に大事なことをはじめます。
 町長となっていた、自分の父親に掛け合い、皆を避難させて、と掛け合います。
 それから暗転し、8年後に移行します。

愚直に、就活をする男の子(青年か)があらわれ、周囲や友人たちのそれぞれの時間の経過が説明されます。
 ある跨道橋のうえで、男の子は朱の髪紐で髪をアップにしたスーツを着た女性とすれ違います(ラジオドラマ「君の名は」の典型ですね。)。そのとき、何かが動き出すんですね。
 次に、環状線で、上り、下りの電車の窓越しに、お互いに、はっと気づくんですね(見ているほうは、あの古典「君の名は」と同様に、はらはらドキドキしながら、もしかして、と懸命に見守るわけです、上手ですね。)。
 次の駅で下車して、必死でお互いを探します。とうとう巡り合った石段で、登り、降りと左右に分かれて歩きながら、ぶしつけにならないように、目をそらしながら、瞬間的に、相互に振り返るんですね、彼女が朱の髪紐を付けているのはもちろんです。
 そして、「君の名は?」とお互いにたずねるわけです。
 奇跡の再臨です。妹(いも)の力というか、組みひもと、口噛み酒の力というか、女性の直感とそのわざが奇跡を招きよせるわけです。
 前後を忘れてしまいましたが、実の娘の、切なるたっての頼みで、父親の町長が、理不尽と承知しつつも全員避難を敢行して、町民のほとんどが、助かり、皆の運命が変わったことが、新聞記事で表示されます。彼ら二人の「愛の奇跡」が、彼ら皆の運命をも救うんですね。千年前もこんなこと(隕石の落下)があったらしい、と彼女の祖母(祭司)が言ってましたので、本来的に、神社の祭神の手配なのかもしれません。

 若者たちは、草食化したとか、性愛にとりたてて興味はない、とか、性愛の規範も何も、特に乗り越える障壁もなく何もかも許されたような状況(もちろん個々の事情があるでしょうが)では互いに恋心は盛り上がらないという、現在の「愛と恋」を囲む、奇妙で厳しく難しい状況は、言われてみれば私たちの想像の範囲ではあります。家電をかけるのにもさえ色々多数の障害があった私たちの時代に比べて、現在の若者はケータイでもメールでもやりたい放題じゃないかと思いますが、やっぱり、「好いた、惚れた、の主題(若いうちはそれしかないだろ)と、それにまつわる悩み、苦しみと齟齬又は喜び」は、時空を超え、降臨する、というのは、いい話じゃないのかね、とこのたび愚考します。

 そういえば、前回、映画を見たのは、アニメ「風立ちぬ」だった、と思います。アニメと相性がいいんでしょうか?
 しかしながら、見方が浅薄なのでしょうが、ゴジラと猿(猿の惑星シリーズ)は、どうしても厭です。

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追記(H28.10.2)
 最初の記憶があいまいだったので、再度、「君の名は。」観てきました。
 まず、訂正をしたいのですが、「彗星の破片の衝突が起きる日に転送された彼ら」が、山上のクレータの沿道の上で時空を超え初めて出会うシーンですが、唯一束の間の、かたわれとき(たそがれどき:この世ならざるものに出会う時間)において、万感の思いでちゃんと手を取り合うことになっていました。「会話のみ」でなかったことを、訂正させていただきます。
 しかしながら、大きな奇跡の成就の前に何度も入れ替わり、初めて生身の男と女として邂逅でき、緊張感と堰を切ったようにお互いの気持ちがあふれ、雄々しく彼女があの髪留めを決意を込め結い上げるシーンは、何度見てもいいものでした。それは、そのあと、万感を込めて、記憶にあらがうようにお互いの名前を書いたことあるいは書こうとしたことが、そのあと、二人の記憶がさらさらと砂の流れのように消えていったことの喪失感とセットになりますが。

 先に物故された、映画監督森田芳光氏の、「(ハル)」(1995年)という映画で、ネット通信を介して、遠く離れていて全く知らなかった、お互いに屈託のある男女が、ネットの中だけで長く会話をする中でお互いの気持ちを通わせ高めていく、そして最期に決意を決めた女が男に会いに行き、東京駅の新幹線ホームで初めて出会う、という、シーンがありましたが、それは、この映画のお互いの「情感」の盛り上げ方とよく似ていると思いました。彼らが、それぞれケータイに残したメモのやり取りが、相互の理解と気持ちの親和に強くつながったということで。「君の名は。」の彼女たちの方が、時間の懸崖というもっと厳しい状況にあるわけですが、案外、時間は変わっても、男女の感情の機微とかは変わっていないのかとも思われ、本当に優れたメロドラマですね(ところで、「(ハル)」はおすすめです。あの大女優、深津絵里さんが若き日主演しています。あの時代の森田芳光は本当によかったですね。)。

 ところで、彼女(三葉)が東京に行ってしまったら、宮水神社とご祭神は誰がおもりをするのだろう、が私の素朴な疑問でした。関連して、繰り返されるはずの次回の1000年後、1200年後に、隕石落下の危機に誰が対応するんだろう、という疑問も生じました。しっかり者の妹の四葉と、おばあさんの一葉は存命であろうし、少なくとも四葉は無事に高校生になったようでしたが。

「国家」の逆襲――グローバリズム終焉に向かう世界(著者藤井厳喜)(祥伝社新書)について

2016-09-05 20:25:16 | 読書ノート(天道公平)
先の堤美果さんを含めて、数多くの日本人が外国に行っているのに、外国の、政治・経済・社会状況について扱われ、私たちにとって、「納得できる」著書が、殊に、現在の世界状況に係る報告、分析、考察が、何故に少ないのかと、私には奇妙に思われるところです。そんなものは、各著者のホームページや、雑誌の寄稿で読めよ、と言われても、そんな余暇も、普通の生活者であれば作り出すのがなかなか困難なところです。したがって、自分で、目当てをつけた著者のフォローワーを試みるわけですが、時に、書店で、今まで知らなかった味深い新たな著書を発見することは、小幸福と言えるところです。
 この本は、平積みで、書店で発見したものです。
まず、最初に、この本はタイトルを変えるべきだと思いました。「「国家」の逆襲」ではなく、「「国家」の復権」が、彼の記載の事実に即していると思われました。
また、この本は、「グローバリズムの終焉」、とサブタイトルで書かれていますが、おしなべてこの認識から出発しており、出発した論旨が明快で、興味をひかれる論議となっています。以下のとおり記してみます。
ア イギリスのEU離脱(Brexit)を引き金に、今後の歴史の潮目が、グローバリズムから、新・ナショナリズムに回帰したと考えられること。それは、 同時に、各国の従前のエリート主導主義から、大衆主義(ポピュリズム:大衆主義そのものは本来中立のニュアンスがある。)に移項したことを意味したこと(イギリスの国民投票もその象徴かもしれません。)。
イ アメリカにおいて、大統領候補者選挙において噴出した、一般大衆(大多数国民)のトランプ候補とサンダ ース上院議員に対する大きな支持はアンチエスタブリッシュメント(反・支配階層)として、一握りの一部富 裕者、それに加担し協力する権力者の一連の策動に反発する大衆的な運動であったこと。
ウ EU加入国内でドイツの一人勝ちにより、加入国間の甚大な格差と不公平、その経済的内部矛盾が露呈し、しかしドイツは各国の財政政策発動を頑として許さず、割を食ったドイツ国内を含め各国の下層階層(大多数の大衆)が各国々において階層間の混乱や、イギリスに続くEU脱退の動きの支持と、各民族国家内でも過去の国内での独立運動が顕在化してきたこと(イギリス国内など)。また、一人勝ちのはずのドイツも、メガバンクドイツ銀行の、不良債権問題など経営は決して盤石でなく、その欠陥のために今後の世界経済における不安定要素が非常に大きいこと。
エ ドイツの行き過ぎた移民受け入れ政策の強制のもとで、当該難民の無秩序な流入が、治安のみならず、経済・政治、社会的混乱を引き起こし、各国の国民国家の存立を揺るがすほどの大問題となり、各国の国境強化と、ドイツ自体、経済難民の流入受入れ政策を見直さざるを得なくなったこと。
オ ア、ウ及びエの経緯で、EU参加各国とその国民の幻滅が明らかになり、EU共同体幻想が崩壊し、それに伴い、その反動として、世界的規模で、経済 的、政治的、軍事的不安定と緊張が今後ますます加速する思われること。
カ 中共の経済的破綻が、世界秩序を不安定化している。中共政府は、内部矛盾の転嫁のため覇権・軍国主義に走り、南シナ海と東シナ海の秩序を不安定化 し、中共が勢力拡大を目指す周辺の関係各国間の軍事的衝突の危機と、経済破たんにより、もし中共に内部崩壊が生じれば、軍事的衝突と同時に膨大な経済難民が発生し、今後周辺諸国に押し寄せることも予測されること(日本に限定すれば中共に遺棄された反日教育を受けた中国人が日本に押し寄せるのです。)。

 以上、私の論点の取り上げ方が甘いかもしれませんが、著者の危機意識は、グローバリズムというイデオロギーが、いかに世界規模で先進国も後進国をも巻き込み、大きな災厄を引き起こしているかを、例を挙げ具体的に証明しています。このたび、よく、腑に落ちました。
これらの動きは、私たちの、学生時代に流行った、「世界プロ独」(各国で政治革命を成就したプロレタリアートたちが過渡的に世界規模で独裁体制を作る)の理念によく似通っています。「民族国家を揚棄する」というその理念が、現実的であったとすれば、私たちにどれだけ混乱と災厄をもたらしたであろうかをこのたびよく認識をすべきであろうし、それが、また、現在、高度に発達した資本主義が、国境を超え、拡大増殖した苛烈な金融資本に担われて、全世界規模で国家を超え実現されつつある、というのが歴史の皮肉ですが。まさしく、マルクスが予言した、高度に発達した資本主義国家で、階級間の矛盾、富者と貧者との対立の先鋭化に耐えかねて引き起こされるという、「革命」の時代となっているのですね。
それに「希望」を持てない私は、すでに<転向>していました。よくわかりました。
少なくとも、私には、現在の不安定化した世界状況の動きの中では、拠り立つものとして、まず確固とした「国民国家」が必要であることは確かなことです。

 アの中の、新ナショナリズムは、著者の指摘によれば、英語のナショナリズムの意味とはバイアスのかかったもの(極右的?)になるというので、もし、政治的・社会的に急激な変化をこのまず、大多数の大衆の困窮を認めない立場ということであれば、愛国者、保守主義者、伝統主義者というのが適当というので、私は、今後「「国民国家」日本及び当面日本国民の大多数の利害を第一義とする「保守主義者」」と名乗ることとします。同時に、それを自らの切実な問題として媒介しない、日本国の多くの様々なエリートたちに強い不信感を持っています。
 イについては、小浜逸郎氏のブログ「トランプとサンダース問題の背後にあるもの」にきわめて興味深く、適切な言説が存しています。(「小浜逸郎・言葉の闘い」blog.goo.ne.jp / kohamaitsuo )

 ウについては、メルケル首相は、旧東ドイツ出身ということですが、私の印象では、極度に官僚的な人ですが、EU圏で、負け組に属するギリシャ、イタリア、スペインなどに対し原理主義者のように、頑として、各国独自の国内金融・産業などへの支援とテコ入れを許さず、批判者にはまるで「第四帝国」化していると評されているようです。また、ドイツ国内においても、2015年までは、最低賃金法はドイツにはなかったと記されており、さすがにびっくりしましたが、「最低限度の生活」(?) も保証されない苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:税金や年貢を容赦なく、厳しく取り立てること。「苛斂」と「誅求」はどちらも厳しく責めて取り立てるという意味で、同じ意味の言葉を重ねて強調した言葉)の国だったのですかね。
 エについては、ドイツの国是であり、EUの理念「国境なき欧州」として、経済難民、政治難民の、欧州間の自由往来を認めたこととしますが、当該難民は貧困であることは前提で、当該難民の流入は各国家の福祉を食いつぶすし、また求職するとすれば、いままでそれに就業していた自国の階層では甚大な被害と不満が生じるであろうし、きれいごとでは済まないわけです。殊に、人種等が違う難民(?) たちの一部が持たざる者として、強盗、性的な犯罪(ドイツケルン市で1,000人規模の暴動があったといいます。(権力に迎合した)ドイツのマスコミは意図的に報道しなかったそうですが)が生じるのであれば、各国民たちの難民に対する憎悪がかきたてられるのは確かなことです。また、その経緯と紛争が生じるのが想像されるのであれば、安易に軽々しく受け入れを表明すべきではないですね。
 オについては、まったくごもっともなことです。
 カについては、直接日本国と日本国民の安全と経済的、社会的利害の侵犯に関連する重大な問題です。年間三万件以上といわれる中共国内の暴動の件数を考え、この著書が指摘するように先の南京の花火事故が、中共政府に対する暴動であったとすれば、人民解放軍(人民抑圧軍)は、中共政府に帰属するのであって、国軍ではないということですから、経済的に追い詰められ国内の秩序維持が保てなくなるなら、今後「反革命(反中共)分子」として、中国人民を、海上に放逐するでしょう。それが、誤った、中共イデオギーに汚染された人々であれば、日本国の無責任なインテリが好きな「人道」支援、救助、受け入れなど、大きな災禍のもとです。これについても、三橋貴明氏の貴重な論考があります(三橋経済新聞、mag20001007984mailmag@mag2.com)。
お勧めします。

昔流行った、「絶望の虚妄なりたるは希望の虚妄なりたると相同じ」(魯迅)を引くとすれば、このような暗く解決困難な問題を扱うのであれば、私たちとすれば、「絶望」を意識化し、個々人として、その絶望の質を上げていくしかないですね。それは、同時に、お目出たい方々と、それに付け込む下劣な、うからやからと、戦っていくしかないかもしれませんが。

 同時期に出版された、「イギリス解体、EU崩壊、ロシア台頭 EU離脱の深層を読む」(PHP新書、岡部伸著)が、このたびの同時期の同様な問題を扱っていました。著書は、産経新聞のロンドン支局長を務めている人ですが、このたびのイギリスのEU離脱(Brexit)について、当該支持層をアメリカ大統領予備選の「トランプ=サンダース現象」と併せ、無定見な大衆の一時的な情緒的反応であった、という書き方であり、日本国内の凡百なマスメディアの主流と同様ではないのか(親グローバリズム)という印象を受けました。保守的な新聞の特派員であるのに、その程度の認識でいいのかな、と思った次第ですが、先の藤井厳喜氏は国際政治学者であり、立場として、ジャーナリストは、それとは違うのかもしれません。今一つ、違和を感じました。