このたび、第一の人性(普通によく言われます。)を、終わるに当たり一言ご挨拶を申し上げます。
さて、私は、昭和53年(1978年)4月1日現在の職場に奉職し、このたび、平成28年(2016年)3月末日を以て、同じ事業所を退職することとなりました。
その途中で、「辞めてやろう」と思ったことは、何度もありましたが、当時の私から考えると信じられないことですが、そのまま馬齢を重ね、長きにわたり現在の職を続けてきたところです。
普通の生活者として、「善い」ことも「悪い」ことも人並みには経験しましたが、幸運にも、現在、格別の不幸感も、格別の幸福感も感じず、今ここにいられることは大変ありがたいことであろうと認識しています。また、持病もまだ取り立ててなく、当面健康であるのは何よりのことです。
先頃、送別会の席で、送り出してくれる後輩に「Tさんは、仕事の中での「正義の実現」、とよく言っていた」と指摘され、「あー、これが私の宿あ(長い間治らない病気。持病。痼疾 (こしつ) 。宿疾。宿病。)であった」、とこのたび改めて思い至りました。
我々は、基本的に「強いられた社会生活」を送っています。いくら、好きだと思う仕事をしていても、仕事である以上、その局面で、妥協や、現実的な対応は、それこそ無限に生じるはずです。
しかし、たとえば、仕事上生じた選択が、二者択一と思えたとしても、その選択が、自己の倫理基準と社会的な変動の予測と時間の射程を測り、正しく、相手に又は多くの多数者に対し後日益することはありうる、そうは見えてもその選択は決して右か左かだけではなく、何らかの戦う手段はある、と、当時、私は彼らに話したように思います。
それには、自己の倫理基準を絶えず疑い、自分の思考を常に鍛える契機を持たなければ、退廃する(そこまで厳しい言葉は使わなかったが)、とも言ったように思い、その意味で「青い、渋い、固い」と言われてもいいじゃないか、とついでに言ったように思います。
今思えば、そいつ一人でも、その記憶に残っていればいいじゃないかと、思うところです。
また、今にして思えば、その後も進行した私の加齢とともに、彼らを含め、彼らの考えやその試みを待ち、また周囲の動きを待ち、そのうえで判断できるようになったのが幸いといえば幸いの話ですが。
私にとっての正義とは、たとえていえば、いわば少年漫画の「正義」のようなものであり、漫画の作者の背後にそれがなければ、わざわざ漫画を読む「意味」がないようなものであろうかと思えます(人気の少年漫画には、現在でもやはりそれが厳然として残っていると思われます。)。
やはり、「意味」や「義」のない仕事に、人間は耐えきれるものではないのでしょう、今もそう思います。さすがに、今回、彼にはそこまで言えませんでしたが、「自己利害以外の価値のために不可避的に戦うことは、やはり必要だよ」というところですかね。
わが貧しき70年代体験と、その後の凡庸で(?)膨大な時間を経て、そう思っています。
私には、幸い、再任用の道が開けています。
当面、「まだ死ねねー」、しぶとくあがいてまいりたい(「義」のために)というのが、私の、かそけきのぞみです。
幸いなことがもう一つ、我が家の、息子、娘とも、彼らなりの苦闘と努力のすえ、現在フルタイムの仕事に就いています。彼らの、成果(?)を、今、「よくやった」と言祝ぐとともに、社会的な側面で、自立し、戦っていることを、ここに誇りに思います。
今月初旬、実母を亡くし(罰当たりなことに病床のそばでブログを書いていました。)、先の実父の看取りとともに大きな責務が終わり、それこそ、祖霊のもとに送ったわけですが、今、ある大きな開放の気持ちを感じています。
願わくば彼らが、彼らなりに、今後、「人間の掟」と、「神々の掟」を完遂できるよう、私としては、祈っています。
さて、私は、昭和53年(1978年)4月1日現在の職場に奉職し、このたび、平成28年(2016年)3月末日を以て、同じ事業所を退職することとなりました。
その途中で、「辞めてやろう」と思ったことは、何度もありましたが、当時の私から考えると信じられないことですが、そのまま馬齢を重ね、長きにわたり現在の職を続けてきたところです。
普通の生活者として、「善い」ことも「悪い」ことも人並みには経験しましたが、幸運にも、現在、格別の不幸感も、格別の幸福感も感じず、今ここにいられることは大変ありがたいことであろうと認識しています。また、持病もまだ取り立ててなく、当面健康であるのは何よりのことです。
先頃、送別会の席で、送り出してくれる後輩に「Tさんは、仕事の中での「正義の実現」、とよく言っていた」と指摘され、「あー、これが私の宿あ(長い間治らない病気。持病。痼疾 (こしつ) 。宿疾。宿病。)であった」、とこのたび改めて思い至りました。
我々は、基本的に「強いられた社会生活」を送っています。いくら、好きだと思う仕事をしていても、仕事である以上、その局面で、妥協や、現実的な対応は、それこそ無限に生じるはずです。
しかし、たとえば、仕事上生じた選択が、二者択一と思えたとしても、その選択が、自己の倫理基準と社会的な変動の予測と時間の射程を測り、正しく、相手に又は多くの多数者に対し後日益することはありうる、そうは見えてもその選択は決して右か左かだけではなく、何らかの戦う手段はある、と、当時、私は彼らに話したように思います。
それには、自己の倫理基準を絶えず疑い、自分の思考を常に鍛える契機を持たなければ、退廃する(そこまで厳しい言葉は使わなかったが)、とも言ったように思い、その意味で「青い、渋い、固い」と言われてもいいじゃないか、とついでに言ったように思います。
今思えば、そいつ一人でも、その記憶に残っていればいいじゃないかと、思うところです。
また、今にして思えば、その後も進行した私の加齢とともに、彼らを含め、彼らの考えやその試みを待ち、また周囲の動きを待ち、そのうえで判断できるようになったのが幸いといえば幸いの話ですが。
私にとっての正義とは、たとえていえば、いわば少年漫画の「正義」のようなものであり、漫画の作者の背後にそれがなければ、わざわざ漫画を読む「意味」がないようなものであろうかと思えます(人気の少年漫画には、現在でもやはりそれが厳然として残っていると思われます。)。
やはり、「意味」や「義」のない仕事に、人間は耐えきれるものではないのでしょう、今もそう思います。さすがに、今回、彼にはそこまで言えませんでしたが、「自己利害以外の価値のために不可避的に戦うことは、やはり必要だよ」というところですかね。
わが貧しき70年代体験と、その後の凡庸で(?)膨大な時間を経て、そう思っています。
私には、幸い、再任用の道が開けています。
当面、「まだ死ねねー」、しぶとくあがいてまいりたい(「義」のために)というのが、私の、かそけきのぞみです。
幸いなことがもう一つ、我が家の、息子、娘とも、彼らなりの苦闘と努力のすえ、現在フルタイムの仕事に就いています。彼らの、成果(?)を、今、「よくやった」と言祝ぐとともに、社会的な側面で、自立し、戦っていることを、ここに誇りに思います。
今月初旬、実母を亡くし(罰当たりなことに病床のそばでブログを書いていました。)、先の実父の看取りとともに大きな責務が終わり、それこそ、祖霊のもとに送ったわけですが、今、ある大きな開放の気持ちを感じています。
願わくば彼らが、彼らなりに、今後、「人間の掟」と、「神々の掟」を完遂できるよう、私としては、祈っています。