天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

8月は死者について考える(火葬場の少年をめぐって)

2015-07-30 22:26:44 | 時事・風俗・情況
            


( 8月です。お盆の月ですので、皆で死者について考えましょう。 )

ジョー・オドンネル、「火葬場の少年」をめぐって

 この写真を、かつて、お盆の戦争特集ドキュメンタリーなどで見たことがおありでしょうか?
 これを見たのは、NHKの番組で特集した、ジョー・オドンネルさんという太平洋戦争当時の従軍カメラマンが、敗戦後の日本ことに被爆後の長崎で隠し撮りしたいくつかの写真に係る物語でした。私は、統一した経緯をこの番組で、初めて知りました。
 以前どこかで見かけた、この「火葬場の少年」に強い印象を受け、逆引きで、ジョー・オドンネルにたどりついてはいましたが、彼の人となりと、写真にまつわる逸話は、興味深いものでした。しかし、私の印象はNHKの主題と微妙にずれてしまい、彼がやむにやまれず撮影した数多くの被爆者たちや子供たちの悲惨な、直接的な写真に比べて、より、この写真だけにやはり強い印象を受けました。なぜなのか、考えてみました。
 写真のキャプションを述べて見ますと、膨大な原爆の被害者を葬るための、野辺送り(そんな生易しいものではなかったかも知れませんが)野焼きの火葬場の光景です。小学生の男の子が、火葬の順番を待つため、直立して、ワイヤーで引かれた線の前で待っています。彼は、死んだ弟を背負い紐でおぶり、唇を血が出るほどかみ締めているのです。
 彼の目線は、弟を見送る悲しみと、「小国民」として死者を弔う緊張と使命感、そして家族を含め死んでいった数多くの死者に対する敬意と哀しみに見開かれています。(私には、彼があたかも死者たちに、敬礼をしているようにも思えます。)
 まず、家族とは何かについて考えます。
 かつて、ヘーゲルが(精神現象学の中で)述べたのは、家族の本質は、「愛の直接性」などと甘いことだけをいっているのではなく、「家族は、その一員の死体を、自己意識を持たない自然の意志のままに放置せずに正しく葬ることによって、死者に「人間としての尊厳」を付与しなおすという使命と役割を最初からもっている、なぜなら性愛的な結合やそこから生じた親子関係にもとづく情感の交感と共有とは、「やがては、ばらばらに死すべき存在」としての個々の人間身体のあり方をたがいに深く気にかけるということとほとんど同義だからである」(小浜逸郎「エロス身体論」での脚注)と、読んだことがあります。
 もう少し具体的にいえば、「家族が亡くなれば、葬儀を行い、獣や動物に襲われないように埋葬し、その存在(魂?)とその存在にまつわるもの(人間的諸関係でいいと思います。)を祖霊のもとに返していく」ということです。これを家族に課された「神々の掟」といいます。
 しかしながら、本来、年を経た年長者によって行われるべき厳粛な葬儀が、逆に、年端の行かぬ子供の手によって、自分の父母や、兄弟姉妹の幼い幼児の葬儀を、行わざるを得ないことが、いかに理不尽で、没義道なことなのか、考察せざるを得ないところです。
 オドンネルさんは、戦争従軍写真家としてこれらをひそかに撮影し、戦後何十年も後に行った当時のアメリカ国内の巡回写真展で、改めて戦争の悲惨さを訴えたとき、「原爆投下は当然」との世論の雰囲気の中で、在郷軍人会の反発や世論の憤激の中で十字砲火を浴びたのですが、なぜか、この写真のみが、毅然として佇立する誇り高い子供の像のみが、アメリカの、一部の人々には、賞賛され、深い印象を与えたのか、よく納得できます。
 私が想うオドンネルさんもそうではないかと推し量りますが、やはり、写真の、彼(少年)の姿勢は、「人間として、死者に対しこれ以上何をすればよいのか」という、ぎりぎりの、崇高な、尊敬すべき姿なのです。

 今更ながら、私自身、「聖戦であった」とか、「日本軍国主義の敗北」とか、毛筋も信じていませんが、「最初に、弱いもの、年老いたもの、大衆を、敵の前に差し出す」(シモーヌ・ヴェイユ)戦争の不道徳性(?)は大変よくわかります。(現在、私が目にしている世界グローバル化を引き金にして引き起こされる、開発途上国の戦争・内戦においてもしかりなのです。)

 かつてのアメリカ主導のイラク戦争、ロシアとウクライナ問題でも、イスラエルとガザ地区の紛争でも、大国の覇権主義が平然と横行しています。個人的に私は、イラク戦争の不道徳性、ロシアによる民間旅客機の撃墜のみならず、発電所を破壊し、学校まで破壊し、子どもたちまで殺戮するイスラエルの軍国主義ぶりを決して許すことはできません。(ユダヤ人思想家、ハンナ・アーレントは地下で怒っているぞ)

 同様に現在の日本も、強大な(ろくでもない)覇権国家に囲まれ、いつ紛争に巻き込まれるかも知れません。一人の大人の意見として、「積極的平和主義」で結構ですが、独立国家として、日本が戦争にまきこまれないよう条件整備をすることは当然のことだと思います。国際社会の、まぎれもない弱肉強食の国家の紛争に、国民全体を巻き揉まないのは、曲がりなりにも近代を経由した国民国家の政治の当然の役割だと思うからです。

 しかしながら、現在、地勢的、歴史的に、明らかに日本国家に軍事的な脅威と、現実に戦争遂行をやりかねない(現に経済戦争を、人民抑圧軍(天安門事件以降の中共国軍の呼称)の軍事力を背景に実施している)中共に対し、つい先ごろ、かの日本国の政府一部と企業団体が、覇権国家中共の前で、でっちあげ南京事件、ねつ造従軍慰安婦問題を棚上げにして、誇るべき日本の歴史と、戦災の被害者に対し、何の顧慮をもすることなく、目先の私的経済活動のために、膝を屈するのを見ました(私はあの行列の中にいなかったことを誇りに思う。)。

 変節した宮崎駿さんの優れたアニメ、「風立ちぬ」の中で、戦時下で飢えた姉弟に対し、情けをかけようと声をかけた主人公(例の菓子シベリアを渡そうとするエピソードです。)に対し、姉はいわれのない施しは受けないと、きっぱり断ったその誇りの高さと、しつけの確かさ、この写真の中で、野辺送りのためたった一人で死した弟を背負った少年の毅然とした態度、かつての日本人はなんと誇り高い人間であったのか、翻って、あなた方は、卑しい態度とまでは言わないが、経済問題は別問題、と言挙げる前に、いざという時に、銃後の弱者(一般国民)に対する支援の準備と必要な配慮は出来ているのか。
 場合によっては、覇権国家と戦って、非戦闘員も否応なしに巻き込まれる現代戦の中で、最終的には武力行使を含めて、弱者を守るのが、国民国家及びその構成員の当然の責務であると思う(宮崎さんあなたは子供たちですら逃れられない運命の中で誇りをかけて戦った自作での描写を覚えていますか。それが、当時だまされていたとか、悪だったとか今のあなたに決して言わせない。)。
 また、君たちは、300万人と推定される日本人の戦災被害者に対し、その死の意味と問題を自らの問題として総括することなく、自治立法もできず、原爆投下を強行した他国から侮られ、過去の自国民の苦しみを思いやることなく、現在また将来の国民の、安心安全を考慮することもなく、止むを得ず選択した今のところ精一杯の日米安保条約に基づく「米軍基地の移転」に反対するのか。国民国家として、緊急発動権も、自衛の手段もなく、将来、日本国内戦に及ぶかもしれない状況の中で、弱者、国民を敵の前に放りだすのか、これは、国家総動員体制にあった戦争中より、もっと「不道徳な」ことではないのか?

 再度、オドンネルさんの話に戻りますが、オドンネルさんは、この写真を隠し持ち、40年間封印していました。67歳のとき、わが内なる炎(?)にせかされるように、地方の放送局や、巡回写真展を通じ、公開し、「私は、国家のために誇りを持ってたたかった。しかし、やはり、あの戦争は間違いだった。」と、写真の公開活動を始めました。その当時の反発は、前述したとおりですが、妻に去られ、息子にそむかれ、「なぜ、(外国の敗戦国のことで)私たちの家庭を犠牲にするのか」と責められたといいます。しかし、彼の気持ちは、よくわかるような気がします。自分の残年数を数え、自己に強いられ、とうとう、不可避的にしゃべりだしたのでしょう。彼は、再来日の際、モデルの少年を必死で探したらしいのですが、彼には結局会えなかったようです(嗚呼)。

 「原爆は戦争を終わらすために必要だった。」という発想には、日本人として、強い憤りを覚えます(とてもバカな一部の卑劣な日本人にも)。彼らの「想像力の貧困と欠如」、は明らかなものでしょう。

 今は故人となったオドンネルさんの志に深く謝するとともに、皆さんにとって、かつての戦争とその犠牲者の問題が、また、現在の日本を囲む地勢的、歴史的状況をどう視野に挙げているのか、このたびおたずねしたいところです。

 私たちにとって、8月は、やっぱり、戦没者や銃後の無辜の犠牲者そして祖霊たちに対して、わたしたち個々の家族の死者たちを安んじて彼岸に返していくために、「死を想え」(メメント・モリ)の時期なのです。

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 この写真に対する、オドンネルさんの説明

目撃者の眼  報道写真家 ジョー・オダネル

1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。


佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして
立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年
の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]



日本の七大思想家(小浜逸郎)(和辻哲郎)その2

2015-07-25 06:44:51 | 読書ノート(天道公平)
         和辻哲郎(1889~1950)                           
                                 その2
六 倫理と道徳は何が違うか  
〈 団体は静的なる有ではなくして、動的に、行為的関連において存在するものである。前に一定の仕方に
よって行為せられたということは、後にこの仕方を外れることを不可能にするものではない。従って共
同存在はあらゆる瞬間にその破滅の危機を蔵している。しかも人間存在は、人間存在であるがゆえに、
無限に共同存在の実現に向かっている。そこからしてすでに実現せされた行為的関連の仕方が、それに
もかかわらずなお当(まさ)に為さるべき仕方としても働くのである。だから倫理は単なる当為ではな
くしてすでに有るとともに、また単なる当為ではなくしてすでにあるとともに、また単なる当為ではな
くしてすでにあるとともに、また単なる有の法則ではなくして無限に実現せらるべきものなのである。〉

   倫理に対する本質観取(現象学に基づき反証として挙げていけば)、(竹田青嗣が「自由」を規定す
る方法と比べてみてください。)をするならば、
   ・道徳は具体的な禁止と命令によって成り立つが、倫理はア・プリオリ(先験的)にはそのようなも
のを持たない。
   ・道徳は法との対比(前者は内面の規範、後者は外的な規範)で対等に論じられることがおおいが、
倫理はむしろ法の構成を考えるときの思考基盤として、法をも広く包摂する。
   ・道徳は固定的・静的であるが、倫理はむしろ「たえず動く精神」と考えられる。
   ・道徳は文化によって異なる相対性を持つが、倫理はどんな時代どんな社会にあっても必ず人間生
活の根底で作用しているという意味で一種の絶対性、抽象性を保存している。
   ・人に優しく親切で弱い者を救ってくれる人のことを「道徳的な人」とはいうが、「倫理的な人」
とはまずいわない。
   ・たとえば、ニーチエや「罪と罰」のラスコーリニコフを反道徳的思想の持ち主と呼ぶことはでき
るが、彼らは反面、道徳問題で苦悩して頭をおかしくすることからして、極めて倫理的な突き詰
めを行っているとみなして差支えないと考えられる。

    以上を突き詰めていくと、道徳とはある共同性の中で固定された内面的戒律である。倫理とは、
それら諸道徳のあり方の妥当性をたえず問い続ける、人類にとっての普遍的な精神活動である。
    したがって、人間社会ではどこでも「倫理学」(「学」とは問い続ける営みである。)が、
「何が倫理的であるの   か、何がより正しいすじみちであるのか」という問い、が成り立つ場
所がある。

 七 和辻倫理学における善悪の原理

  倫理とは、それら諸道徳のあり方の妥当性をたえず問い続ける、人類にとっての普遍的な精神活動で
ある、ならば「善悪」とは何なのか、という問いが生じる。

  人間の本質を「間柄」的存在として把握する。(私見:確か、精神科医の木村敏が、人間の精神の病
は、「じんかん」(人間、人と人とのあいだ)の病であると言っていたように思います。)

  「間柄」を媒介するのは長い歴史的過程を積み重ねてきた「実践的行為的連関」である。
   抽象的には、全と個の弁証法的運動として捉えられ、
   具体的には、それぞれの人間における社会性と個人性との矛盾の統一、となる。

〈 人は何らかの共同性から背き出ることにおいて己の根源から背き出る。この背き出る運動は行為とし
て共同性の破壊であり自己の根源への背反である。だからそれは共同体にあずかる他の人たちからヨ
シとせられぬのみならず、自己の最奥の本質からもヨシとせられぬ。それが「悪」と呼ばれるのであ
る。(中略)何らかの共同体から背き出ることにおいて己の根源から背き出た人は、さらにその背反
を否定して己の根源に帰ろうとする。この還帰もまた何らかの共同体を実現するという仕方において
行われる。この運動もまた人間の行為として、個別性の止揚、人倫的合一の実現、自己の根源への復
帰を意味する。だからそれは共同性にあずかる人々からヨシとせられるのみならず、自己の最奥の本
質からもヨシとせられる。それが「善」である。してみれば、ここでヨシとする感情に基づいて善の
価値が成り立つのではなく、行為自体がその本源への還帰の方向であるがゆえにヨシとせられるので
ある。)(文中の部位はシューラ―の引用)本論1章第五節)
ここだけを(浅く)読めば、共同性から背反することが「悪」であり、共同性へ復帰することが
「善」である、となるが、反論として、

  ア どんな現実的な共同性も有限相対的なものに過ぎないのであるから、背反自体が「悪」であれば、
同時に「悪」そのものの絶対的な本質を言い当てられなくなる。
  イ(和辻がいうように)全体性からの背反として個別化することは、人間存在の無限の運動の一契機
として積極的な意味が込められており、単純に「悪」とは決めつけられず、「これは悪しき共同体
である」という自覚を持った個人が、その共同性から背反する行為は、むしろ「善」というべきで
はないのか。

〈 絶対的否定性の自己還帰の運動は、自己背反の契機なしにはあり得ない。愛の結合や自己犠牲は善と
されるが、しかしこの「善」があるためにはまず個人の独立化すなわち悪がなくてはならぬのである。
  そうすれば悪は善を可能にする契機であり、したがって悪ではなくなる。(中略)そのごとく個人の
  独立なくして人倫的合一も実現されえない。(中略)その限り個人の独立は善であり、全体性からの
  独立も善である。否定の運動が動的に進展して停滞しない限り、善に転化しない悪はないのである。
 (中略)独立化の運動はその背反的な性格においてはあらゆる悪の根源であり、還帰運動の契機とすれ
  ばあらゆる善の必須条件となるものであるが、背反をさえなし得ずして停滞する人間存在は、また還
  帰へもなし得ぬ。すなわち悪に堪え得ぬものは善をも実現しえない。独立化の運動を停止して共同性
  のなかに眠るのは、畢竟人間存在の自覚的本質の喪失であり、したがっていわゆる「畜群」への頽落
  である。(中略)しかし、また他の場合には、独立性の止揚すなわち否定の否定による還帰運動の停
  滞(中略)が見られる。(中略)それは一時的な否定において否定の働きを停滞せしめることにほか
  ならない。そうしてこの停滞とともに背反の積極的意義は失われてしまうのである。背反が還帰の運
  動の契機として善を成り立たしめるのであるが、その連関から引き離された場合には、もはや善に転
  化しえない悪の根源となる。それは悪の固定であって、古来極悪とせられるものに相応する。 〉
   (本論1章第五節)

   こうして、共同性の内部においても、背反した場合においても、「善」と「悪」の契機は両義性
   として存在する。共同性から個人へ、個人から共同性へと転化していく人間存在の本来的な運動過程
   を「停滞」させることが、絶対的な「悪」なのである。


   (小浜は)このくだりで、「善悪」とは何かという問題を見事に説いて見せた和辻の論理性と洞察
   力の凄さに深い感動を味わった。他にこれほどの優れた善悪規定はない。
  決定版といっても過言ではない。

  いかに優れているか列挙すると、
   ア 善悪相対主義を克服している。
     素朴な善悪概念での思考停止    ×
     シニカルな相対主義による善悪否定での思考停止 ×(私見:ポスト・モダン?)
     人間が社会を構成し、その社会を誰にとっても良いものとする努力が厳然としてある以上、絶
    対的な根拠がなければ理に合わない。「善悪」には絶対的な根拠規定が可能(和辻は可能であっ
    た。)
   イ 特定の行為そのもの(例えば殺人)だけをさして、絶対悪とすることはできない、という心理が、
    よくわきまえられている。
    「汝殺すべからず」は、倫理規定ではなく、道徳的規定であり、相対的規定である。(戦争時、
    平和時の違い)(社会の容認する殺人(敵の殲滅、正当防衛、犯罪人の処罰など)
     和辻は、道徳の相対性を知悉しているがゆえに、意図的に異なる方法をとっている。(具体的な
    行為そのもので、善悪判断はできない。)
   ウ これまで、さまざまな倫理思想でこの難問題の、善悪を絶対的に根拠づけようとしてきたが、
   (和辻の善悪規定は)人間存在がどういう本質を持っているかという、人間論哲学から、必然的に
    演繹されているため、もしこの「間柄」と「実践的行為的連関」と「全体と個との弁証法的な運
    動」の哲学が人間を総体として把握する広がりを持つならば、これまでの様々な倫理思想を包括
    しうる力を持つ。
   エ 共同性からの背反・独立そのものを「悪」とはみなさず、むしろ「善=本源への還帰の運動」へ
    と向かう否定的契機とみなし、背反や独立への固着と停滞を「悪」として、返す刀で創造性を扼殺
    する共同体への眠り込みを「畜群」への頽落と規定する和辻の倫理思想は、私たちの生活実感に見
    事に適合している。
      EX)かく乱行為はすべて悪いのか?
          テロ(?) ×、オーム ×
          中世の一向一揆 △
          キリストの行動 ○、大化の改新 ○
          畜群への頽落(発展の停止した共同性への眠り込み)  植民地時代のアジア

   オ そもそも道徳感情や価値感情といった人格の一部が善悪の原理になるといった論理は本末が転
    倒している。高潔な人格の持ち主の道徳感情や価値感情は、善悪の原理の原因ではなくむしろ結
    果として個人のなかに根づいたものである。
    これを普通私たちは「良心」と言っているが、良心は初めから存在していたのではなく、共同態
    としての人間が歴史過程を通して徐々に自ら根づかせたものである。
      EX)戦争は悪であるという思想
         男女平等は公正であるという思想
    このように(道徳)感情は、歴史的社会的に作られていくのであり、道徳感情(良心)は、善悪
   の原理をなすのではなく、なぜ一定の道徳感情や価値感情が存在するのかが説明されなくてはなら
   ない。

  和辻はそれに対し「人間存在の理法」を善悪の原理とする。
  この関係論的・動態論的な理法が根拠になって、その総体としての構造の中から価値感情が生まれて
 くる。
      EX)不平等はなぜ悪いか?

  人間が、生産活動や商取引や政治活動などの「実践的行為的連関」を通して、極端な格差が共同社会
 の存続を危うくしひいてはそこに属する個々人をも危機に陥れるという知恵を学んできたからである。
 (私見:ここあたりは小浜の独壇場でしょう。)

 和辻は、「本源への還帰」へと向かう無限の運動が人間存在の本来的あり方であり、全体からの背反と
全体への復帰とをひとつの連続過程と捉えているから、背反それ自体はつねに善悪どちらの契機にもなり
うる両義的なものであるという論理を徹底して貫いている。
 そのため、背反それ自体ではなく、背反の固定化すなわち「停滞」による、還帰の運動との関連からの
引き離されこそが「悪」であるという規定になっている。

 このように、善悪に関する和辻の考察には人間存在とは何かという確固とした哲学的・形而上学的裏付
けによって基礎づけられている。

八 人間同士の信頼はなぜ成り立つのか

 和辻の「本源への還帰」という場合の「本源」とは一体何を意味しているのであろうか。彼の本質規定
からすれば、それは「間柄」としての人間本質、関係存在としての人間本質を意味している。
 本質への還帰とは、そうした人間体質への「帰来」ということとなる。
 和辻哲学のキーワードとして、「信頼」という言葉がある。
「人間存在は同時に信頼の関係であり、人間関係のあるところに同時に信頼が成り立つのである。」(本
  論2章第六節)

 〈 信頼の現象は単に他を信ずるというだけではない。自他の関係における不定の未来に対してあらか
   じめ決定的態度をとることである。かかることの可能である所以は、人間存在において我々の背負
   っている過去が同時にわれわれの目指していく未来であるからにほかならない。我々の現前の行為
   はこの過去と未来との同一において行われる。すなわち我々は行為において帰来するのである。そ
   の行為の負っている過去はさしずめ昨日の間柄であるにしても、その間柄は何かを為し、何かを為
   さないということにおいて成り立っていた。そうしてその為し、あるいは為さないことには同様に
   帰来の運動にほかならなかった。したがって過去は無限に通ずる帰来の運動である。またその行為
   の目指している未来はさしずめ明日の間柄であるとしても、この間柄がまた何かを為し、あるいは
   為さないことによって成り立つ筈である。だからそれも帰来の運動として無限に動いていく。現前
   の行為はかかる運動を背負いつつかかる運動を目指していくのである。この行為の系列全体を通じ
   て動くものは否定による本来性への回帰にほかならない。現前の行為はこの運動の一環として、帰
   来という動的構造を持つのである。だからそれがいかに有限な人間存在であっても、本来性より出
   でて本来性に還るという根源的方法は失われない。我々の出てきた本が我々の行く先である。すな
   わち本末究境等である。ここに不定の未来に対してあらかじめ決定的態度をとるということの最も
   深い根拠が存するのである。 〉

 人間同士の「信頼」が可能であるのは、未来にむかっての行為と目されるものが、過去の行為的連関の
関係を条件としながら常に人間の本来性から出て、本来性に帰りくるところに成り立つとの根拠にしてい
る。(「信頼」という人間の善性に着目しているが)はたしてそうなのかという問題が生じる。

 私たちは(多くの)行為において、純粋な「信頼」を媒介としてではなく、むしろ、いくらかの不信を
も「信頼」しつつ(計算済みで)何かを為したりなさなかったりしているのではないか。
    EX)買い物をする場合の状況(信頼のなかにある不信:お金と商品の相互引き渡し)
 考え方とすれば、不信があらかじめ「信頼」に盛り込まれているからこそ、人は倫理的な構えを必要と
する。
 「不信」は、(和辻のひそみに倣えば)「信頼」の否定態であるが、この「否定態」こそが逆説的に人
倫を支えていると考えことも不可能ではない。

九 ハイデガーの「本来性」とは逆

人間存在の本来性とは?
 ハイデカーと和辻との真っ向からの対立

 ハイデカー   普通の人間が平均的日常を生きるとき、死すべき存在を直視せず、
        隠ぺい装置を作る。空談と好奇心曖昧性。これらの支配によって、世間の人たちは「共
        同空間」のもとに存する。・・・「頽落」(人間存在の非本来的なあり方)(惰性に流
        され日常生活を送ってしまう)
        (ひるがえって、)現存在の本来的なありかたとは、「死を、その本質である「現存在
        の最も自己的な、没交渉的な、確実ではあるが不定な、追い越しえない可能性」として
        直視し、そこへ立ちかえることである。そしてこの覚悟性(あらかじめ自分の避けられ
        ない運命に対し腹を固めるということである。)によって、はじめて「良心の呼び声」
        が聞こえてくる。
         「良心の呼び声」とは、明らかに人間が(個人で)真の倫理性に目覚めるということ
        で、ハイデカーは、倫理の立ち上がる場所を、日常的な人間交流のさなかに求めず、逆
        にひとり孤独と死に向きあう地点に求めている。
 (小浜は、)違和感を感じ批判してきた。(「癒しとしての死の哲学」「人はなぜ死ななければならな
 いのか」小浜逸郎)
  ハイデカーの方法は、人間を孤立した個人として捉える誤謬に陥っており、かつまた、キリスト教神
 学の現代バージョンにほかならない。

 倫理とは、(和辻の指摘を待つまでもなく)、関係存在(間柄存在)としての「人間」のあり方から必
然的に要請される精神の構えだからである。

 和辻の徹底性について以下のように論ずる。

〈 しかるにハイデガーは、自他の間の主体的な張りを全然視界外におき、死の現象を通じて、ただ「自」
  の全有可能性をのみ見るのである。従ってそこから人間存在の本来性と非本来性とについての、全然
  逆倒された見解が生じてくる。(中略)右のごとき本来性の転倒は「死の覚悟」の意義を充分理解せ
  しめなかった。ハイデカーの「死の覚悟」にあらわるる本来の面目は、あくまで「個人」のそれであ
  って「人間」のそれではない。死の覚悟は自他の連関路となって、慈悲の行に究極するがゆえに、は
  じめて「人間」の本来の面目を開示するのである。(中略)また彼は負い目あることを規定するにあ
  たっても通例社会的に現れる負い目の現象から全然社会関係を排除することによって負い目の存在論
  的規定を得ようとする。(中略)
  この規定は他人との連関を抜き去ったものであるから、そこから他人に対する関係が出てくるはずは
  ない。負い目が他人に対する関係であるためには、右のごとき負い目の規定のほかに自他関係そのも
  のが加わってこなくてはならない。(中略)
  そのとき始めて個人存在の有限性が他人に対する負い目の可能根拠であるといわれうる。(中略)し
  かるにハイデガーは、「果たすべきもの」が単に個人の死に過ぎず、良心の声によって負い目の可能
  性に呼びさまされることが単に死の覚悟に過ぎないことを主張しつつ、しかもそれらが道徳性の存在
  論的制約をなすと説くのである。これは、神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場からただ
  神だけを抜き去って説こうとする抽象的な考えであって、道徳性の真相にふれるところがない。 〉
   (本論1章第五節)

 キリスト教文化圏の倫理性 ---「個人と神」との関係にのみ倫理性、道徳性の根拠をおこうとする全
体的な傾向への痛烈な違和感(私見:遠藤周作などの通俗的な小説に同様に感じました。)
 (結果的に、パスカル、カント、キルケゴールも批判の対象になる。)

 (小浜)人間は現世において関係を背負いながら、しかも個人としてはそれぞれバラバラに死んでいく
存在である。たとえば借金を抱えつつ、それを未済のまま死んでしまうことがありうる。つまり「個人存
在の有限性」がのがれられない事実としてあるために、具体的な「関係」の方はどうしても完全に精算す
るわけにはいかないのである。誰もが人間として抱えるそういう根源的な不条理によく目を凝らすならば、
現世における自他関係と個人死(あるいは離別)との処理のつかなさの感覚こそが、倫理道徳の発生場所
なのであって、ハイデガーのように「本来性(自己にかえること)」なる抽象を施したうえで、その中に
道徳の根拠を定位することは、現実の「負い目」の成立条件を隠ぺいすることにほかならない。
 和辻はそのようにいいたかった。
 
 (単純化すれば)
   西洋に負いては、神と個人というタテの関係に善悪の根拠を求めるのに対し、日本ではあくまで
「世間」の具体的な人間関係を捨象せず、いわばヨコの関係に善悪の根拠を求める(私見:よ-く理解
できます。)。

 (差異を興がるのではなく)人間存在の「張り」(空間性)を重視する和辻に組みする。
(タテの西洋的思考にせよ、よく考えれば、自分たちの観念が、実は人間存在の関係論的なあり方を観念
化したものに過ぎないということに納得せざるを得ないのではないか。)

十 和辻・ヘーゲルに見る経済的組織の内在的人倫性

 倫理学第3章は、「人倫的組織」として、哲学的考察を現実に適用した章である。

 二人共同体としての夫婦、親子、兄弟姉妹、家族共同体全体、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共
同体、そして国家と続き、これらの代表的な共同体における、それぞれ人倫の特質が詳しく論じられている。

 (小浜が評価する点)
   ア 企業などで代表される「経済的組織(その総合は市民社会を形作る)」は、他の人倫的組織と同
    様に、本来、内在的な人倫性を備えているのだと主張している点である。
   イ 「欲望充足を目的とする私的経済人」という近代西洋の発想になる経済学的仮定から経済的組織
    を論ずることが、特殊な歴史的、社会的事情から発したものであり、経済組織に本来備わっている
    人倫性の事実を見ない、偏頗なものであることを指摘すること。(現在では常識的な認識となっ
    た。)

 〈 欲望充足を基礎概念とする経済学にあっては、経済活動において結ばれる人間関係は欲望満足のため
   の手段にすぎないのではあるが、原始経済の事実が示すことに拠れば、経済活動において結ばれる人
   間関係は人倫的組織としてそれ自身の意義を保ち、欲望満足はただこの組織実現のための媒介に過ぎ
   ないのである。 〉(本論3章第五節)

 〈 人は己の職分において家族共同体や、隣人共同体を超えた広汎な公共的共同存在を実現するのである。
   この人倫的な意義にとっては、職分の差別は問題ではなく、ただいかにその職分をいかに良くつくし
   ているかのみが問われなくてはならない。おのが利福のみを念として職業に従事するのは職分を尽く
   すことにはならない。公共的な世間のためにこの職業において奉仕する、というのが職分の自覚であ
   る。 〉( 同前 )

 (小浜によれば)労働はそれを行うことによって、当の個人の社会的人格が他から承認される不可欠の媒
介であって、自ら人間としてのアイデンティティを獲得するための最大の条件であるといいたいところであ
る。(小浜逸郎「人はなぜ働かなくてはならないのか」)

和辻とヘーゲルの比較について

(小浜の好きな、ヘーゲルの言葉を引用して)

 〈 金持ちはあれこれ購入して、たくさんのお金を支払うが、世間ではよく、そんなことはしないで、そ
   の金を貧乏人に施せばいいのに、という。実際、金持ちの慈善行為は金を施すのと同じことなのだが、
   金を施すより、労働の対価としてだけお金を支出する方がずっと道徳的です。それによって他人の自
   由を承認することになるのですから。
   だから、市民社会の文明化が進むと、慈善施設はだんだん減少していくので、というのも、自分の必
   要とするものを自分で手に入れるのが人間らしいことだからです。全体の暮らしが慈善を土台とする
   よりは、産業を土台とする方がはるかに人間らしい共同体です。 〉(ヘーゲル「法哲学講座」)

(私見)ユニセフの飢餓キャンペーンを連想しませんか?夕食時にBSで流される放送は不道徳的(?)で
  す。飢餓は第一義的に、その飢餓を所掌する政治権力に責任があり(吉本が言ってます。))、それ以
  外の国の人々で、アジアやアフリカで貧困を解決しようとしている人は、現に、特産物の生産や、特産
  手芸などの育成を実施しているではありませんか。東北大震災でも同じではないでしょうか。寄付では
  なく、経済活動を支援する基盤整備と、購買協力がまず先でしょう。安い正義はやめにして、個々の自
  立した民族国家としての、本来的な支援が欲しい、ものです。(できないのは、政治の貧困です。)無
  条件の寄付は人間の堕落にもつながるのです。一方的な贈与を皆が望むとは思えません。また、贈与に
  依存する国家も集団も不健康で、本来的に貧困な存在です。全世界から寄付で賄われる、国連は別にし
  ても(あまり期待しないことです)。

 和辻の人倫性は、「贈り物」「奉仕」といったような、人間の活動に含まれる個と共同との二重の意義を
繰り込んでいないきらいがあるのに対し、ヘーゲルのそれは、人間がいかなる時代・社会にあっても、奴隷
的拘束からの自由を求める存在である、という本質規定をはずしていない点である。

 和辻の「奉仕」は現代ではそぐわないが、職業人は有能になればなるほど「相互奉仕」の精神の大切さを
実感するし、逆に「相互奉仕」の精神を大切にすることは有能であることの条件である。

十一 人間の暗黒面への視線の欠如

  和辻倫理学の物足りなさ・・・人間の暗黒面に対する戦いが希薄である。
     なぜなら、和辻自身の調和的、円満な資質は美や優しさを愛する心と連動し、宗教に対しても過
    度に寛容となる。
       EX)キリスト教の血で血を洗う陰残な歴史と、植民地支配の道具となった歴史、その暗黒
         面に触れないことは許されない。(ニーチェの苛烈な根源的な思想(思想は血で書け)
         との比較)

    穏健で調和的で肯定的な姿勢であり、彼の「文化史」的記述を予定調和的な枠組みに閉じ込める結
   果となってしまっている。

〈 土着的農村生活はしばしばかかる隣人的存在共同を実現している。(中略)そこでも人はある「家」に
  うまれるが、しかしその家は本来すでに「隣り」と並んだものであり、したがって初めより隣り合う家
  にあっては、親たちはすでに久しく隣人的存在共同を、すなわち遠くの親戚よりも親しい間柄を形成し
  ている。そこに生まれた子らにとっては、隣の親たちは記憶以前よりさまざまの配慮や慈しみを加えた
  親しい人たちであり、隣の子らは記憶以前よりさまざまの遊びをともにした仲間である。そこに緊密な
  存在の共同、深い相互の信頼、家族に似た愛情などの成立するのは当然であろう。かくて育った子らが
  ようやく労働に参加しうるに至れば、そこには労働の共同や利害の共同が待っている。一本の溝は彼ら
  にとっては共同の灌漑を意味する。そこに豊かに水が流れ始めれば彼らの心は共に稲の苗に集中してく
  る。麦を刈り田を植えるころの村人の存在は、いわば交響楽のようにともに鼓動しともに鳴っているの
  である。 〉

   これは、ほとんど桃源郷である。
   現実には、しょっちゅう水利の争いを起こしたり、畔を密かに動かす陰湿ないたちごっこに明け暮れ
  たり、・・・固定的な人間関係のため、少々の違和を奏でるものを村八分にしたり、・・・・
   和辻は祝祭を無条件に共同の喜びの爆発のように描いているが、祭りという「ハレ」が、「ケ」とい
  うつらさや葛藤の息抜きであったこと、「ケンカみこし」と言って、普段から気に食わない家を祭りの
  際にこれ幸いと破壊してしまう風習は(筆者の小さいとき存在した)あった。

   現在都会に住む大多数にとっては、隣人共同体といっても全くピンとこない。
   昔も今も和辻が描くような牧歌的な隣人共同体は幻想としてしか存在しない。

  和辻の功績として、その基礎をなす「間柄存在における実践的行為的関連」という人間感を徹底的かつ
 体系的に展開してみせたという意味で、普遍的水準に到達している、と考える。そして、あの緊張した戦
 争期において、西洋の並み居る巨大な思想家と対等な立場で格闘を演じ大いに善戦したことを、世界に対
 し何度でも発信したい。


日本の七大思想家(小浜逸郎)(和辻哲郎)その1

2015-07-22 05:55:36 | 読書ノート(天道公平)
 京都、一乗寺詩仙堂の前に住みながら、結局、一度も、観光さえしなかった友人を知っています。
 古寺は嫌い(当時)、教養もなかったので、「古寺巡礼」もついに読まず、暇ばかりもてあまし、なんと
偏った私の学生時代でしょう。
 今思えば、著者の「日本の七大思想家」とか、京大の教養課程で講義されたという佐伯啓思さんの「幻想
のグローバル資本主義」上・下(アダムスミスの誤算、ケインズの予言)(PHP新書)などが、当時読めたと
すれば、当時での私の世界認識というか、私の学生時代も、私の教養も、もう少しどうかなったのではない
かと、栓のない空想をしてしまいます。

 このたび、先駆者として、和辻の、独自で、世界に誇るべき業績に触れられることは、私たちにとっても
大きな喜びです。

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         和辻哲郎(1889~1950)          その1

一 衝撃の和辻体験を乗り越えて

 通常、和辻の主著と言えば、「風土」、「古寺巡礼」、「日本精神史研究」があげられる。
 主著は、「倫理学」(ことに、戦前、戦中に書かれた上巻(1937年刊)、中巻(1942年刊)は、西洋の個人
主義的哲学とひとり格闘しながら、関係論的な人間認識を徹底的に貫き、おそらく日本、それも西洋と対峙す
る運命にさらされた近代日本でないと生まれようのない独創的な哲学と倫理学がうちたてられている。
 欧米との戦いの中で、思想という観念の領域で西洋との戦いを演じ、その戦いの中で近世以来の西洋的思考
の型を乗り超えるだけの実績を示したという運命的なものを感じる。

  大著  「倫理学」戦前に
            上巻、中巻が書かれ、 ・・・圧巻というべき労作
           戦後に
            下巻がかかれた。

 上巻、中巻・・・圧巻というべき労作に大きな衝撃
 人間を独立した個人、自我などと捉えるのではなく、原理的に関係存在として捉える論理(小浜が、差別や
殺人、孤独や自殺、日常生活と死、労働や恋愛結婚、不倫や売春など扱った中で新たな倫理学を試みたこと)
 しかし、
 60年前に、和辻によって、
  哲学的、体系的、徹底的、組織的に、透徹した人間洞察力、わかりやすく力強い文体のもとで、すでに達
 成されていた。(茫然自失の状態)
   (デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、シューラ―、タルドなどの同時代、ジンメ
    ル、デュルケームなどの社会学者まで、鋭い批判力などを駆使し扱い、ある意味で勝利を勝ち取って
    いる。)
     (そして、結果として小浜の問題意識として)
      ア 和辻のやり残したテーマを延長してみること
      イ(和辻のやりたかった)日本語で哲学する問題を発展させてみること


二 孤立的個人を出発点とする西洋哲学との格闘

 「倫理学」における人間把握・・・「個人意識」ではなく「人間(じんかん)」・・「ひと」同士の「間
柄」を出発点とし、相互の「実践的行為的連関」を原理とする。
     西欧的思考  デカルト ⇒ カント 図式への対抗と格闘

 〈「我れのみが確実である」と書くのはそれ自身矛盾である。書くのは言葉の文学的表現であり、言葉は
ただ  ともに生き、ともに語る相手を持ってのみ発達してきたものだからである。たとい言葉が独語
として語られ、何人にも読ませない文章として書かれるとしても、それはただ語る相手の欠如態に過ぎ
ないのであって、言葉が本来語る相手なしに成立したことを示すのではない。そうしてみれば書物を読
み文書を書くということは他人と合い語っていることなのである。いかに我の意識のみを問題にしても、
問題にすること自体がすでに我の意識を超えて他人と連関していることを意味する。いかなる哲学者も
かかる連関なしに、問題を提出し得たものはなかった。〉(「倫理学」本論第一章第一節)

     デカルトの哲学原理の根本的な批判

  大森の論理、「独我論 = 鉄壁の孤独」の完膚なきまでの批判

 〈しかし肉体に関してはしばしば肉体的感覚の非共同性が説かれている。他人が痛みを感じているとき、そ
の心的な苦しみはともにすることはできても、痛みそのものまでともにすることはできぬというのである。
(中  略)しかしそれだからと言って肉体的感覚をともにすることが全然ないというのはうそである。
たとえば我々がともに炎天の下に立っているときにはわれわれはともに熱さを感じる。(中略)だから労
働をともにする生活においては、肉体的感覚をも常にともにしているのである。かかるとき我々は相手の
表情を介してその肉体的な感覚を類推する、(すなわち己の同様な表情と感覚との連関と比較して比論的
に同一であると類推する)というごときまわりくどいことをやっているのではない。(中略)だから熱さ
をともに感じている人々は、同時に、熱いと言い出すこともできる。(中略)熱さ寒さのあいさつという
ごときこともこの感覚の共同がなければ起こりうるものではない。肉体的感覚の相違は、かくのごとき共
同性の基盤において、その限定としてのみ見出されうるのである。そうではなくして肉体的感覚が全然非
共同的なものであるならば、いかにしてそれを言い表す共通の言葉が発生するであろうか。(中略)この
共同性を欠けば表情は表情としての意味を失ってしまう。表情さえも通用しないところで言葉が発生する
わけはない。だから肉体的感覚を言い表す共通の言葉があるということはすでにこの共同体の顕著な証跡
なのである。〉(本論第一章第二節)

   大森も、西欧の思想家も「和辻哲学」を知らなかった。
   なぜなら、近代以来の西洋哲学が最も基礎的な認識論のレベルから、共同性とは無縁の個人意識あるい
は孤立した個人を出発点として自らの方法を展開してきたという宿痾(しゅくあ)のような枠組みに対す
る疑いが見られないからである。
   和辻の時代までの哲学者でこの宿痾から免れていたのは、おそらくわずかに、ヘーゲル、マルクス、ハ
イデカーくらいのものであり、和辻にとってこの三人でさえ、それぞれ異なる意味で批判の対象であった。

三 人間とは社会的関係の総体である(註:マルクスの言葉です。)
   
 人間は肉体的感覚のみにおいて生きているのではない。人間は、感情や意志や知的営みや行為の交流などの
総合された存在であって、こうした総合的な視野の下に人間を収めてよく観察する限り、「心」という、一見
個別的な身体にそれぞれ異なった形で宿っているかに見える概念にすら、「鉄壁の孤独」ではない、共同存在、
関係存在としての人間本質がにじみ出ているのである。個人の「心」とふつう私たちが読んでいる概念も、初
めから共同関係的な構造をもっているのだ。
 自己意識とは、それが過去の自分に対して後悔、羞恥、反省、改心、自恃、満足の念を抱いたりする限りで、
時間に沿った一つの対象化行為(分裂による自己否定と、さらにそのまとめ直しという運動)である。そうい
う対象化が自己自身に対し可能であるということは、自己意識そのものが、すでに「内なる他者」を構造とし
て抱え込んだところに成り立つ事実を証明している。
 この「内なる他者」は自己意識なるものが確立されるまでの間に、それこそ乳児期からの他者(親、兄弟姉
妹、友人、教師など)との「実践的行為的連関」によって形成される。したがって、「人」と「人」との関係
交流は、「私」「自我」「自己意識」などの確立に先立ち、かつ、それらを形成、維持させる根源的な地盤の
意味を持つのである。

 〈我れの意識の作用は決して我のみから規定せられずして、他人から規定せられる。それは一方的な意識作
用が交互に行われるという意味での「交互作用」なのではなくして、いずれの一つの作用もが自他の双方
から規定せられているのである。従って間柄的存在においては互いの意識は浸透しあっていると いうこ
とができる。(中 略)以上のごとき自他の意識の浸透は特に感情的側面において著しい。(中略)子を失
った悲しみは両親にとって共同の悲しみである。彼らは同一の悲しみをともに感ずる。父と母は互いの体
験に注意を向けることなくしてすでにはじめより同一の悲しみをかなしんでいると知っているのである。
〉(本論第一章第二節)

 私たちは、いかに一人で何かを意識したり知覚したりしていても、必ず共同的な意味の承認を通して、それ
を「何々である」と把握するのであって、共同存在としての人間的意味の手あかがついていない裸の自然対象
をそのまま捉えることなどはあり得ないのである。(小林秀雄の言葉「自然は、ただ与えられてはいない、私
たちが重ねてきた見方のうちで現れるのである。」と同じ、人間観、自然観)
 また、この観点は、ハイデガーが、「現存在=人間」のあり方を解くのに用いた画期的な認識、身のまわり
にある様々な「道具」や自然対象が互いに「・・・・ にとってあるもの」という付託と指示の連関関係に立
ち、その関係が最終的に必ず現存在自身を指し示すところに還ってくるという認識の直接的な影響にある、と
考えられる。
 道具や自然現象は、簡単に言えば、全て私たち人間「・・・にとってあるもの」なのである。

 要するに共同体を形作っている人間存在こそが、周囲の「もの」や「こと」をまさに自分たち自身にとって
の「かくかくのもの」「しかじかのこと」たらしめるのである。それは必ずしもそのように意識されるとは限
らず、誰もが日常生活を通して、そういうような仕方で自分や世界を了解しつついきているのであって、その
「意識されているとは限らない」という性格を表現するためにも、和辻はわざわざ「実践的行為的関連」とい
う独特な用語を使ったのである。
 この人間同士の関係性が反省的な意識によって深く意識されたとき、そこに彼の言う「倫理学」、すなわち
人間学が成立する条件が整うと考えられたのだろう。(マルクスの影響下のもとに)

 マルクスは、素朴な実在論、唯物論を説いたように誤解されやすい(「存在が意識を規定する。」ような俗
流の唯物論)が、 人間は、まずその「物質」的生活(衣食住の確保、道具の作成など)がまずあり、その基
本的生活において、「ひと」と「ひと」同士が共同関係を結びかつ自然対象に実践的にかかわることによって、
自分たちの生のあり方を長い時間をかけて「社会」という形に次第に組みたてていった歴史的存在こそ人間で
ある、というのがマルクスの考え方である。

 「人間とは・・・・・・社会的諸関係の総体である。」(1845年、フォイエルバッハテーゼ)という名句


 四 倫理とは人間存在の理法である

 「倫理」が成り立つための前提  
「人間」あるいは「人」というものの認識(概念規定)をまず試みた(上記の記述)。

 「倫」・・・仲間、きまり、かた、秩序
 「理」・・・ことわり

 「倫理とは人間存在の理法である。」(和辻)
 「倫理」とは、必然的に、我々の多数が集団を形成し生活するときのそれぞれのあるべき姿を意味し、倫理
学とはそれをいかにわれわれの自覚的な意識にもたらすかを追及する学問ということになる。

「人間」、「存在」、「理法」それぞれの用語に無限に深い意味を込めている。

「人間」 一個又は複数個体としての「ひと」を表すだけでなく、むしろ「ひと道」、「ひと界」なのである。
人間の「間」は、餓鬼道などの「道」に相当する。(この原義に沿って)「人間」という言葉に「ひととひとと
が織りなす世界」というニュアンスを強くこめようとしている。

      「じんかん」と読むことも意義深く受容される。
      「存在」 「存」とは主体の自己把持(自己を堅くしっかり保つこと)であり(一章)、
            人間が自己自身を時間的に維持すること、自己同一性を(二章以降)

           「在」とは人間関係においてあることを意味する(一章)。
            人間同士の空間的拡がり(彼は「張り」という。)の可能性を意味する(二章)。

       両者相まって、「人間存在」の概念が基本的に満たされる。
       「存在」は九鬼周造の「実存」という意味に近い。

      「理法」  単に固定的な法則ではなく、「人間存在」がどんな様相や形態の下に、どんな動的な
構造の下に現れるのか、また、現れるべきなのかを解き明かしたものという意を含んで
いる。
           主体的、共同的な自己認識に基づくものとの前提となる。

 〈 我々日常生活とよんでいるもの、それがことごとく「表現」として人間存在の通路を提供するのである。
だから我々は最も素朴な、もっとも常識的な意味における「事実」から出発することができる。(中略)
倫理学の課題に入り込んでいく通路は最も日常茶飯的な事実なのである。かかる意味において我々の倫
理学は、密接に事実に即する。 〉(序論第二節)

 五 無限の弁証法的運動過程としての「全体と個」

 和辻がとらない発想法
  「全体と個」、「社会と個人」といった二原論的な構図など、わかりやすいが単純な思考を常に避けてい
る。

 人間世界は、社会と個人との二重性において成り立ち、個は、全体からの逸脱、すなわち全体の否定であり、
人間存在の本質的契機の一つとして必ずその立脚点を認められなければならないものであるが、さらに進んで、
再び自らを否定し、その本来的ありどころとしての、共同存在に自己還帰する。こうした無限に続く否定の否
定としての弁証法的運動の全体が人間のあり方である。

 〈 人間が人である限りそれは個別人としてあくまで社会と異なる。(中略)しかも人間は世の中である限
り、あくまでも人と人との共同態であって孤立的な人ではない。(中略)したがって相互に絶対に他者
であるところの自他がそれにもかかわらず共同的存在において一つとなる。社会と根本的に異なる個別
人が、しかも社会の中に消える。人間はかくのごとき対立的なものの統一である。 〉(序論第一節)

 ヘーゲル哲学の影響
  「倫理」とは、どの時代、どの社会にあっても、必ずその特殊性を通して実現される主体的・共同的な人
間精神の「はたらき」と考えなくてはならないから、当然それは空間的な広がりと時間的な延長とを、も
ともとその概念の成立条件として含んでいる。

 〈 そこで中心問題となるのは、多数個別人格がいかにしてひとう全体を構成しているかとの点である。そ
うしてそれは(中 略)個別人格の独立性の否定においてのみ可能であったのである。(中略)かかる
個別人格の独立性の否定とは、個別人格が単に消滅することではない。独立的なるものが同時に独立し
ないこと、したがって、差別的(異)なるものがそれにもかかわらず、無差別的(同)になることである。
(中 略)全体性が以上のごとく差別の否定にほかならないとするならば、有限相対の全体性を超えた
「絶対的全体性」は絶対的なる差別の否定である。それは絶対的であるがゆえに、差別と無差別との差別
をも否定する無差別でなくてはならぬ。したがって絶対的全体性は絶対的否定性であり、絶対空である。
すべての有限なる全体性の根底に存する無限なるものは係る絶対空でなくてはならぬ。
   そこでまた逆に、かかる絶対空を根底とするがゆえに、全ての有限なる全体性における異にして同の統一
が可能になるのである。したがってあらゆる人間の共同態、人間における全体的なるものは、個々の人間
の間に空を実現している限りにおいて形成せられるということができる。
   以上の(結果は、人間におけるすべての全体的なるものの究極の真相が「空」であること、したがって全
体なるものはそれ自体として存在しないこと、ただ個別的なものの制限、否定としてのみ己を表すこと、
などを示している。個人に先立ち、個人を個人として規定する全体者、「大きい全体」というごときもの
は、真実には存しない。社会的団体の独立の存在を主張することは正しいこととは言えぬ。 〉(本論1
章第三節)

 和辻は、全体と個、社会と個人との一方に偏らせて人間をとらえることの限界を指摘している。
 人間存在の根底に「絶対空」なる概念を措定している点に、明らかに仏教的観念の応用が見られるが、「現
世はむなしい」とか「煩悩から解脱せよ」などの仏教思想をいささかも漂わせてはおらず、「絶対空」を根底
としてこそ、「全体の否定運動としての個」「個の否定運動としての全体への還帰」といった人間の動的・創
造的あり方が根拠を有するという強い認識を示すこととなっている。
 「個人を個人として規定する全体者」「大きい全体」なるものは真実には存在しないと説いているのも重要
である。(戦争期に書かれた著書で、個人に対し国家のような実体的な「全体」を優位に立てる迎合思想では全
くない。)あらゆる集団、団体は個人を強制する要素をその条件として持つが、それは同時に個々人の内的結合、
融合関係を含んでい
る、と和辻は考える。

  〈 社会は本来この両面を持つものとして理解せられなくてはならない。すなわち個人の間の共同化的融合
的な結実の事実が、同時に個人に対して強制を意味するのである。 〉(本論1章第三節)

 この指摘は私たちの生活実感に極めてよく適合している。それだけ、深く厳しい現実認識である、と言える。
趣味の読書会などの個々の自由意志によって形成された集団であっても、集合場所、時間、何をテキストにする
かにしても約束があり、議論がいくら白熱しても暴力に訴えてはならない、という黙契が存在する。
 和辻倫理学では、人間における全体と個の問題を(具体的には「国家か個人か」)を、選択の問題として考え
ず、一方から他方への否定を重ねていく無限の弁証法的運動過程であると捉える。

 〈 この間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉されている。
    一つは間柄が個々の人間の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄
から先だってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄からその成
員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先だってそれを規定する間
柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。しかもその矛盾する関係が常識の事実として
認められているのである。 〉(本論1章第一節)
 
 全体から切り離された「個」なる概念は、それ自体として空虚であり、同じように「個」をその契機として持た
ない「全体」もまた空虚以外の何物でもないと説かれている。まさに関係あっての「個」であり、「全体」である。
 この捉え方は、特に個人としての「自分」「私」などがどんな存在であるか考える場合に、非常によく実感でき
る捉え方である。小林の「Xへの手紙」にあったように、人はだれかとの具体的な関係に置かれていないときに自
分はどんな存在かと考えるのは、大変むなしいことなのである。

           錯視の図式(残念ながら省略します。)

    
 視覚における錯覚の現象を、単なる捨てるべき錯誤と考えずに、生命体としてわれわれが生きていくために、何
らかの有効性や意味を持った現象であると再評価している。錯覚としての「立ち現われ」が全体の体制なのである。
 論理的矛盾を矛盾ぐるみ常識的に受け入れている私たちの「実践的行為的連関」こそが、論理的二元対立の地盤
をなしているという考え方(和辻)の方が妥当である。(「否定の否定という無限の運動過程」、「弁証法的統一
」など)


宮崎駿の「知的退廃」について

2015-07-15 05:17:43 | 時事・風俗・情況
 優れたアニメ作家だった「宮崎駿」氏が、このたびの沖縄普天間の基地移転への「政治的介入」を経て、
現実はそうでもない二流の「市民主義者」であったことがよくわかりました。
 我が家では、名作「となりのトトロ」を一家で愛好し、個人的に引退作「風たちぬ」にも深く感動しまし
た。
 このような、世界に誇るべき芸術家が、「軍事力で中国の膨張を止めることは不可能で、もっと別の方法
を考えるために、日本は平和憲法を持ったのだと思う」という理念で、現在の、世界平和にも影響を及ぼす、
中共の覇権主義に対し、手をこまねき、将来のいや現在の日本国民の命運に対し無責任で無自覚なことは、
また、私たちの国を囲む地勢的・歴史的な危機的状況に無自覚なことは、一人の表現者としてあまりにナイ
ーブ(バカ)な発言ではないでしょうか。 
 
 私は、日本の歴史を紐解いても、時代的な制約はあるにせよ、明治維新を経由した、日本人の近代化への
苦闘と叡智(エートス)のたまものである、明治憲法はそれなり意義あるものであると考えます。太平洋戦
争の敗戦時、戦勝国から、否応なしに敗戦国に押し付けられた憲法は、敗戦を経て、世界史の中で、連綿と
続く日本の歴史の中で、近代化によって成熟してきた現在において、今後どのような「自主憲法が必要なの
か、「万機公論を経て」見直すべきと考えています。私は、保守的な人間ですが、沖縄県某知事のように、
反動ではありません。推定300万人といわれる、太平洋戦争で我々の父祖の世代とその家族が支払った、
苦しみと悲しみに対し(誤解されないように言いますが、当時のアジア侵略を是としているわけでは決し
てありません。反動のあなたたちは、他国民の苦しみの方が大きかったというでしょうが)、真摯に応える
ため、時宜にあった、「平和を希求する」自主立法が必要と考えるからです。
 少なくとも、名作「風たちぬ」には、当時の国家の命運に巻き込まれつつ、西欧の植民地支配にあらがう、
当時の日本人の不可避な戦いが、銃後の人々の悲しみが、共感を持って描かれていました。これは、この優
れたアニメに感動した、同世代の百田尚樹と同様に、「現在の」あなたとは違う意見です。

 しかし、「軍事力で中国の膨張を止めることは不可能で、もっと別の方法を考えるために、・・・」、あ
なたは、沖縄普天間の基地移転に反対する住民運動の副代表になるのですか、あなたは、あまりに問題を矮
小化してはいませんか、「日本軍国主義」という与太はべつにして、中共「人民抑圧軍」(天安門以降公式
にこう呼びます。)の露骨で具体的な他国侵略(ポスト植民地主義)を軽視するのですか。現在では、政治
家ですら、具体的な代替案なしに、感情論で反対を唱えるのは、国民の憫笑を買うだけの存在になっていま
す。
 あなたの荷担する問題は、70年代の住民運動(地域エゴの全面肯定だけの問題だったなー)に政治的なバ
イアスがかけられているだけだと考えます。それは、迷惑施設(迷惑だけど必要な施設)をどこに作るのか
が、争われているだけであり、その施設を設置し、どのようなろくでなしの国民をも含めて、国民の福祉の
向上を図るのは、国民に対して、安心安全の責任のある安倍内閣の当然の職務です。
 少なくとも安倍政権は、バカで無責任だった、今もバカで無責任の民主党と当時の鳩山某とは一線を画し
ています。
 
 幸か不幸か、私は山口県に居住しています。迷惑施設、岩国基地は沖縄問題(?)の影響からか、強化が
進み、県民にも騒音など被害のしわよせがきています。しかし、私は、狂った独裁国家北朝鮮から、迷走ミ
サイルが、あるいは確信犯の中共から戦闘機が飛んできはしないかと怯えつつ、しかし、岩国基地移転、撤
去とは決していいません。今のところ、安保条約と、それに基づく、国内米軍基地が必要なことは自明だか
らです。また、日本国民のため必要と考えるからです。
 宮崎さん、あなたが居住している東京近郊(?)は、迷惑基地がなくてよかったですね。
 しかしながら、あなたの言説は、原発はいらないが、私の日常を担保する電力は確保してよね、という、
天災後、一部の(?)東京都民の、醜い言動(今も福島県民のために強い憤りを感じます。その後の脱原発
運動にも。)と酷似してはしないでしょうか?
 宮崎さん、優れた表現者であり続けることは大変厳しいことですね、残念です。

今日は、「瞬きもせず」(中島みゆき作詞・作曲)について考える

2015-07-14 06:18:50 | 歌謡曲・歌手・音楽
瞬きもせず          
              中島みゆき作詞・作曲
( あー 君はどこで 何をしているの
  あー 君はいつ ぼくの心から消えるの )(*最初、みゆきさんの独白のように入ります。)

 瞬きひとつの あいだの一生
 僕たちはみんな 一瞬の星
 瞬きもせずに
 息をすることさえ 惜しむかのように 求めあう

 ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
 裸すぎる獣たちだ

 君を映す鏡の中 君を誉める歌はなくても
 ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも

 あの ささやかな人生を よくは言わぬ人もあるだろう
 あの ささやかな人生を 無駄となじる人もあるだろう
 でも ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも

ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
 裸すぎる獣たちだ

 触れようとされるだけで 痛む人は やけどしてるから
 通り過ぎる街の中で そんなひとを見かけないか

瞬きひとつの あいだの一生
 僕たちはみんな 一瞬の星
 瞬きもせずに
 息をすることさえ 惜しむかのように 求めあう

ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
 裸すぎる獣たち だから
 ぼくは誉める 君の知らぬきみについていくつでも

瞬きひとつの あいだの一生
 僕たちはみんな 一瞬の星
 瞬きもせずに
 息をすることさえ 惜しむかのように 求めあう

 中島みゆきさんは、谷川俊太郎のファンだそうです。私も好きですから、ご同輩ですが、中島みゆきさんは、歌手とは別に何冊もソングブックを出していて、歌とは別に、これもとても良いのです。
 しかし、上記の歌は、是非ユーチューブででも聴いてみてください。彼女の歌を聞いていると、ときどき、「天才じゃないだろうか!!」と心底思うときがあって、この感覚と思いは、是非、誰かと共有したいと思うことが多いところです。
 最近、小浜さんに触発され、かんがみるに、確かに現代の歌謡曲(?) で、愛とか恋とかの主題を扱わない歌が多くなり、最近は自意識過剰で「愛] とか「恋」もできないのか、また貧困と多忙が原因なのか、生気が失われるかのように、「日本国民」の恋や性愛が衰退しているような気がするのは確かですね。つまらない政治的なバイアスのかかった歌は論外としても、皆さん、いつも歌謡曲が、絆とか、思いやり、とか、そればっかりだったらいやになりません?
 いつもじゃ困るけど、若いときとか、暇なときとか、おれ(私)の愛が終われば、世界は破滅する、とまで思い込む時期が人性には必要じゃありはしませんか?
「恋の歌」は、人間にとって本質的です。なんせ、人生は、「人性」ですから。男、女の各自と、それにまつわる人倫や観念は、自己愛も含め、各人を強く拘束します。どうも、幼児から、死ぬまで、死にいたる病というべきかも知れません。その意味で、歌謡曲が、三十一文字(みそひともじ)の時代から現在に至るまで連綿と続いており、愛唱されるのは根拠のあることです。
 どんなつよい人間でも、愛のためにどこかで齟齬(そご)を味わい、躓き(つまずき)、膝を折る、それは普遍的な人の業のようなものではないのでしょうか。
 その代表格としての中島みゆきの歌は、デビュー(1975年)当初から、男女の愛憎のみの歌でしたが(「雨が空を見限って 私の心にふりそそぐ」などと自然を愛憎に読み替える歌すらあったぞ。)、その凄さと徹底性は、誰ともなく(?)「暗い中島みゆき」とか、言われましたが、その徹底性は極北にまでに至っており、当時、時には涙と共に愛唱するとともに、相応のつまらない恋をしている自分が恥ずかしいような思いでした。
それはたかが歌謡曲では決してなく、周囲から見る美醜をこえ、たとえ現実ではぶざまであろうと、その「真情」は「美」であるしかないような、人間本質まで到達するような情感の本質性を謳うようでした。聴き込むにつれ感じられるのは、人は愛の喜び(?) はむしろ少なく、いわゆる「愛の苦さ、苦しさ」を味わうことであり、そんな時、本来傲慢な人間は、挫折をきっかけに誰かのいうように「神」に近くなるのです(相互の気持ち(?)の 齟齬による悲しい歌が多いのは、本質的で本来的とは思いませんか。)。

 蛇足ながら、若いとき、吉本隆明ではないですが、「他人を愛すると思うのはひっきょう自己を愛する思いと同一のものではないのか」、と考えていましたが、あにはからんや、その後人並みに苦労をし、対幻想の渦中 (?) で、他者に向かう本来の異性愛や、性愛の功罪とその苦みも、少しは思い知ったところです。

 そんな、中島みゆきさんですが、最近は「糸」とか「二隻の舟」など、男女の相愛と相克の結果、相互の親和に基づくような曲も見受けられるようになりました。新たな側面です。殊に、皆が愛唱する、「糸」はとてもいい歌です。(そんな傾向が通俗的とか妥協的とは思いませんが。)

 ところで、標記の歌は、男女の愛を歌った歌なのか、友人への愛を歌ったものなのか、どっちだと思いますか?
 彼女の歌は、加齢とともに、ますます深みを増していったのかも知れませんが、ドロドロ男女関係から、人間同士の葛藤、愛憎関係にまで広がっていて、言葉にすると誠に味気ないのですが、ついには社会的な(共生)存在としての人間存在にまつわる孤独や悲しみに至るまで拡大していきます。それを、別の視点から、認め、励ます演歌のような要素が出て来ます。それは決して通俗的ではなく、大事なのは、男女の関係も、女同士の関係も、男同士の関係をも、媒介するに足る、上質な応援歌であることです。個人的に、彼女の歌は、多くの人に支持される「詩」のレベルに達していると思います。入りやすいところは、谷川俊太郎に似ていると思う。
この歌も、谷川俊太郎のデビュー作の「二十億光年の孤独」という詩を連想してしまう(「二十億光年」というのは宇宙の暗喩(あんゆ:たとえ)なのですが)。(興味のある人は、読んでみてください。)
 
 自分の車のハードディスクに、図書館で借りた中島みゆきのCD(おやじが好むのか図書館にはたくさんあります。)を落として、毎回聞き流していますが、何曲か聞き流せない曲があり、上記もそのうちの一つです。
 
 殊に、「 ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
      ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
  裸すぎる獣たちだ 」 

 このリフレインは、少年少女合唱団が歌っており、最初に聞いたときは、ぶっ飛んだ(?) 思いがしました。
 こんな衝撃的なフレーズを、わらべ歌のようにこどもたちが合唱する効果に、驚愕しました。「まさしく、天才」と思った次第です。
 私にとって、泣かせどころは、

「 君を映す鏡の中 君を誉める歌はなくても
   ぼくは誉める 君の知らぬ きみについて いくつでも 」

であります。妻もいらない、神様もいらないが、中島みゆき大先生が、私を、こうであるしかなかったような私の人性を、私の苦闘を、自分自身にも意識できなかった自分だけのつらい意義ある試み(人性)を認め、ほめてくれたらそれだけでも本当にうれしい、「生きていてよかった!」、ということとなります。
 やっぱりこれは応援歌ですよね、いまさら、自分の「人性」を嫌悪したり恐れるわけではないけれども、様々な状況で醸成されたような、説明しがたい私(たち)のそれぞれの孤独感と孤立感そして疎隔感を少しは癒せるかも知れない、今世のどこかで誰か一人でもその認識と受容と承認があれば、というお話です。

 長い髪と、色白の彼女の顔は、イメージ的に、カンナギ(巫女)という感じですよね。
 幸か不幸か、カンナギは、生涯非婚です。
 昨年も、「麦の歌」ですか、ヒットしましたが、年末紅白で視ていると、やっぱり、彼女の歌う姿には「聖性」のようなものがあります。

 さだまさしが、テレビで言っていましたが、以前松山千春と三人で焼き肉を食べに行ったそうです。仕切り屋のみゆきさんは、二人の(髪の)ためにわかめスープばっかり食べさせ、肉を食べさせてくれなかったそうです(笑えます)。
 このあたりの落差が、中島みゆきの持ち味です。DJをやらせても、歌手としての中島みゆきとは全く違います。ケラケラ、よく笑い、よく笑わせ、まったく不真面目です。

 それはそれでほっとする光景ですが、選ばれた「カンナギ」中島みゆきさんが、今後も、美神(ミューズ)からもらった才能で、もっともっといい歌を作ってくれることを望んでいます。

 昨年の紅白の出演時に、演出は別にしても、人でも、けものでもないような彼女に、文字どおり強いオーラを感じたのは私だけでしょうか。