今年の夏は、殊に西日本は7月中旬の梅雨明け以降、連日、波状の熱波で、耐えがたいところであり、極力、日中は戸外に出ないようにしていましたが、おりしも、8月5日より、リオデジャネイロ・オリンピック大会が始まり、自然自然に、自宅で当該競技の様子を見守ることとなりました。
私、中学校時代は運動部におりましたが、当該活動においても華々しい結果は残せず、毎日放課後部活になるのを友人とともに呪詛するような気持ちであり、3年間ほとんど本の一冊も読めず、俺はバカになった、と思っておりました(実際のところあまり差はなかった。)。 高校に入って、一学年上の2年生に、同じ運動部の勧奨をされ、丁重にお断りして、舌打ちをされました。その後、ほとんど運動体験がありません。
今は、「おばあさん」(私は「じいさん」でいいです。)にまじって、プールを歩くくらいです。
高齢女子の話は、それは実のところ、なかなか興味深く、私は、時に「フィールドワーク」と呼んでいます。
さきごろ、家に帰って、何気なくテレビをつけると、野球番組であり、画面下のテロップで、「 中 ― ソ 」という表示が出ており、「なんで、中国 (中共) とソ連(ロシア)が野球の試合をするんだろう」とふと思いましたが、どういう意味か、しばらく気が付きませんでした。
セリーグ、パリーグの恒例のリーグ交流戦の頃です(お粗末さまでした。)。
「スポーツは、模擬の戦闘行為である」ということは、得心が行きます。
すぐれた運動選手は、自己の戦いについて戦略が必要です。相手のコンディションを見通す観察力、相手のチームの状態を見通す洞察力、審判の判定の癖や、競技全体あるいは会場の雰囲気を瞬時に判断し、自己の演技・競技に反映しなければなりません(皆、普通にやっています。)。
また、競技の中で、勝負は不断に反復しつつ行われるわけですから、瞬間瞬間での敗北からの切り替えと、集中が不断に要求され、競技に合わせ自己をコントロールする集中力と精神力も必要なのですね。
また、競技者として常時勝者という人は、きわめて少ないところです(オリンピックに出るような選手はほとんどそれまでに天才と呼ばれた人かもしれませんが)。自己の能力、培ってきた技術で、どのようにしてか折り合いをつけ、相手の弱点を突き、集中して叩く必要があるのです。それは、同
時に消耗戦であり、間断のない精神の集中力と我慢が必要であり、攻撃に耐え、このときにこそと、一瞬で強い競技者を叩かなくてはなりません。すぐれ勝った競技者たちの、その厳しいやり取りと、緊張、そして勝利と敗北というカタルシスに私たちは感動する、ともいえます。やっぱり、国際大会なれば、競技者に対し共感と、強いナショナリズム(同胞意識といいます。)を感じるのですね。小柄で決して体格的に勝っていないわれら日本人が、懸命に闘い、厳しい勝利を勝ち取る姿に、同国民としての感動と喜びを感じるわけです。
殊に、このたび、少人数の団体競技で、すぐれた競技者たちの、素晴らしい競技・演技(パフォーマンスでいいですが)を見た覚えがあります。
みなさん、その体験はそれぞれだったでしょうが、私にとっては卓球競技、殊に女子卓球競技です。
このたび、女子卓球は個人戦で現在の日本のエース石川佳純選手(山口県出身、とてもいい子です。・23歳)が、初戦で敗退し、その際、競技中負傷してもメディカルケアも与えられなかったという私の周囲からの不満の声がありましたが、その逆風の中で、福原愛選手は、個人の競技者として集中力
を閉ざさず、一セットも失わず、きわめて高い集中力でいわば神がかりの状態で、準決勝まで勝ち残りました。
以前、石川選手が、テレビの番組で、述懐していましたが、卓球選手は、サーブの球出しで(張ってあるラバーの面などの観察などで)予測能力だけで動く(それでないと現実に間に合わない)ということを言っており、狭い卓球台で、骨身を削るような競技をしている、彼女たちの現実を知らされました。11ポイント制の3セット先取マッチというのも、他に類がないような過酷な競技でしょう。体力や個人の能力は大きくものをいうだろうし、確かにタモリのいうように、暗い、厳しいスポーツです。
残念ながら、個人戦準決勝でみた相手方の選手は、私という素人の見た範囲では、福原選手との相性が悪く、実力的にも上のように見えました。このたびのオリンピックで、福原選手は、自己の卓球人性のすべてとチームのリーダーとしての責任を賭けてという、厳しい決意性を持って臨んでいるように見えましたが(わかるときはわかるのです。)、1セットはとり報いましたが、彼女の全能力(全実存)をかけてもとどかなかったのは、同胞として、誠に残念なことでした。たぶん、今回のオリンピックは、体力的には下降しつつ(27歳)も、競技者としての彼女にとって現在が頂点であるという覚悟と、洞察があったんじゃあないかと、思われます。
結果、残念ながら、個人戦ではメダルに届きませんでした。
しかし、団体戦では切替えました。
団体戦では、リーダーは、一人のみならず、三人の競技者全体を見据えた戦略が必要です。 愛ちゃんは(うちの娘より年下なのでそれでよいでしょう。)、戦略家として、十全に働き、個人戦で気落ちしたエースを盛り上げ、立ち直らせ、ほぼ全試合だったと思いますが、ダブルスの試合において、
自負心が強くまだ生意気そうな(私の主観です。)経験不足の15歳の将来の日本のエース(伊藤美誠選手)を補佐し、そのミスと気持ちの乱れをまた試合経験の不足を補い、適切な助言で、彼女の持ち味を出させ、ダブルスに勝利をもたらしました。特筆すべきは、準決勝で、エッジ(敵陣の卓球台の
端)にあたったピン球の判定に際し、(あれは私には入ったと思えました。)覆らない判定に際し、相手方との握手を拒んだことです。「握手をすれば、判定を認めたことになる」、彼女はそう言ったし、そのとおりだと私も思いますが、若くして、中共のプロリーグに参戦し(大学を中退したと思い
ますが)、連日の厳しい勝負の中で、勝負の奈落と天国を見た彼女の勝負師としての賞賛すべき態度であった、と思います(彼女には中国人のファンもたくさんいたように思います。)。
日本人は、同調圧力なのか、国民性なのか、安易に負けを認める、反省すべきですね。勝負なのだから、やるなら石にかじりついても勝たなければならない。同時に、「準決勝の敗退はすべて私の責任です」、と言い切った、愛ちゃんの潔い言葉と、チームの同僚を思いやる気持ちに感動しました。
折しも、8月16日韓国外務省が、「日韓合意」を経て、日本国の10億円の拠出(今のところは賠償金といわない。)を受けるコメントがありましたが、昨年末の外(害)務省が、アメリカの政治的圧力に屈し、日本国民に多大な苦痛を与えた、虚偽の慰安婦問題の政治決着に、岸田外相、あんたはなぜもっと厳しい外務折衝をしなかったのか「愛ちゃんを見習え」と言いたい、このたび改ざんされた歴史(国家による女部屋設置への関与)に対し、この、死者を弔うべき8月において、われわれの父祖と祖霊に成り代わり、強く抗議したいところでした。
ところで、準決勝に登場したドイツのナショナルチームはどうなのか、皆、外国人じゃないのか、世界選手権では21歳を超え帰化した外国人選手は出場できない、しかし、一定の年数を経れば、国代表として、しっかり出場できる、との規定であり、グローバリズムの影響下で、他国から、優秀な労働者を安く買い、これはEUの中で一人勝ちの、ドイツ帝国そのままのモデルではないですか、出場した(帰化した)彼女たちは覚悟のある態度と緊張感のもとで試合をしていましたが、いったい、ドイツ国民は、国際連合軍みたいなあんな試合で、勝ったとしても、見ていてうれしいのかね。私には、体格に恵まれない、二人とも丸顔でよく似た、日本のダブルスチームが実に好ましく思われました。
いずれにせよ、どこの卓球チームをみても、中国系、韓国系(?)の選手やコーチなどがきわめて多かったようですが。
それはそうとして、最後の三位決定戦で、見事銅メダルを獲得した、卓球女子チームであり、全員泣いていましたが、殊に最後のインタビューで、「このたびのオリンピックは、本当に本当に苦しかった」、という、愛ちゃんの本音と、清らかな涙がとても印象的でした。
多分彼女は、自己の年齢(東京大会ではどうなるかわからない。)次の代の石川佳純さんの年齢、そして将来、全日本の中核になるかも知れないまだ幼く未熟な選手の年齢を視野に入れ、厳しい戦いを勝ち抜いたはず、なのです。それはまさしく、スポーツを通じて、人格を陶冶(とうや:陶冶とは、
もとは漢語で陶器や鋳物をつくりあげるという意味である。 転じて、人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。)した彼女の人性であろうし、それは、このたび、次のリーダー、石川選手に競技者としての自覚と決意を促したであろうし、「この三人でオリンピックに出られて本当に良かった」という、15歳の伊藤美誠選手のコメントに十分現れ、先輩たちを見習いたいという素直な気持ちの表明に表れているところです。
卓球女子団体のみなさんこのたびはおめでとうございます。
私、中学校時代は運動部におりましたが、当該活動においても華々しい結果は残せず、毎日放課後部活になるのを友人とともに呪詛するような気持ちであり、3年間ほとんど本の一冊も読めず、俺はバカになった、と思っておりました(実際のところあまり差はなかった。)。 高校に入って、一学年上の2年生に、同じ運動部の勧奨をされ、丁重にお断りして、舌打ちをされました。その後、ほとんど運動体験がありません。
今は、「おばあさん」(私は「じいさん」でいいです。)にまじって、プールを歩くくらいです。
高齢女子の話は、それは実のところ、なかなか興味深く、私は、時に「フィールドワーク」と呼んでいます。
さきごろ、家に帰って、何気なくテレビをつけると、野球番組であり、画面下のテロップで、「 中 ― ソ 」という表示が出ており、「なんで、中国 (中共) とソ連(ロシア)が野球の試合をするんだろう」とふと思いましたが、どういう意味か、しばらく気が付きませんでした。
セリーグ、パリーグの恒例のリーグ交流戦の頃です(お粗末さまでした。)。
「スポーツは、模擬の戦闘行為である」ということは、得心が行きます。
すぐれた運動選手は、自己の戦いについて戦略が必要です。相手のコンディションを見通す観察力、相手のチームの状態を見通す洞察力、審判の判定の癖や、競技全体あるいは会場の雰囲気を瞬時に判断し、自己の演技・競技に反映しなければなりません(皆、普通にやっています。)。
また、競技の中で、勝負は不断に反復しつつ行われるわけですから、瞬間瞬間での敗北からの切り替えと、集中が不断に要求され、競技に合わせ自己をコントロールする集中力と精神力も必要なのですね。
また、競技者として常時勝者という人は、きわめて少ないところです(オリンピックに出るような選手はほとんどそれまでに天才と呼ばれた人かもしれませんが)。自己の能力、培ってきた技術で、どのようにしてか折り合いをつけ、相手の弱点を突き、集中して叩く必要があるのです。それは、同
時に消耗戦であり、間断のない精神の集中力と我慢が必要であり、攻撃に耐え、このときにこそと、一瞬で強い競技者を叩かなくてはなりません。すぐれ勝った競技者たちの、その厳しいやり取りと、緊張、そして勝利と敗北というカタルシスに私たちは感動する、ともいえます。やっぱり、国際大会なれば、競技者に対し共感と、強いナショナリズム(同胞意識といいます。)を感じるのですね。小柄で決して体格的に勝っていないわれら日本人が、懸命に闘い、厳しい勝利を勝ち取る姿に、同国民としての感動と喜びを感じるわけです。
殊に、このたび、少人数の団体競技で、すぐれた競技者たちの、素晴らしい競技・演技(パフォーマンスでいいですが)を見た覚えがあります。
みなさん、その体験はそれぞれだったでしょうが、私にとっては卓球競技、殊に女子卓球競技です。
このたび、女子卓球は個人戦で現在の日本のエース石川佳純選手(山口県出身、とてもいい子です。・23歳)が、初戦で敗退し、その際、競技中負傷してもメディカルケアも与えられなかったという私の周囲からの不満の声がありましたが、その逆風の中で、福原愛選手は、個人の競技者として集中力
を閉ざさず、一セットも失わず、きわめて高い集中力でいわば神がかりの状態で、準決勝まで勝ち残りました。
以前、石川選手が、テレビの番組で、述懐していましたが、卓球選手は、サーブの球出しで(張ってあるラバーの面などの観察などで)予測能力だけで動く(それでないと現実に間に合わない)ということを言っており、狭い卓球台で、骨身を削るような競技をしている、彼女たちの現実を知らされました。11ポイント制の3セット先取マッチというのも、他に類がないような過酷な競技でしょう。体力や個人の能力は大きくものをいうだろうし、確かにタモリのいうように、暗い、厳しいスポーツです。
残念ながら、個人戦準決勝でみた相手方の選手は、私という素人の見た範囲では、福原選手との相性が悪く、実力的にも上のように見えました。このたびのオリンピックで、福原選手は、自己の卓球人性のすべてとチームのリーダーとしての責任を賭けてという、厳しい決意性を持って臨んでいるように見えましたが(わかるときはわかるのです。)、1セットはとり報いましたが、彼女の全能力(全実存)をかけてもとどかなかったのは、同胞として、誠に残念なことでした。たぶん、今回のオリンピックは、体力的には下降しつつ(27歳)も、競技者としての彼女にとって現在が頂点であるという覚悟と、洞察があったんじゃあないかと、思われます。
結果、残念ながら、個人戦ではメダルに届きませんでした。
しかし、団体戦では切替えました。
団体戦では、リーダーは、一人のみならず、三人の競技者全体を見据えた戦略が必要です。 愛ちゃんは(うちの娘より年下なのでそれでよいでしょう。)、戦略家として、十全に働き、個人戦で気落ちしたエースを盛り上げ、立ち直らせ、ほぼ全試合だったと思いますが、ダブルスの試合において、
自負心が強くまだ生意気そうな(私の主観です。)経験不足の15歳の将来の日本のエース(伊藤美誠選手)を補佐し、そのミスと気持ちの乱れをまた試合経験の不足を補い、適切な助言で、彼女の持ち味を出させ、ダブルスに勝利をもたらしました。特筆すべきは、準決勝で、エッジ(敵陣の卓球台の
端)にあたったピン球の判定に際し、(あれは私には入ったと思えました。)覆らない判定に際し、相手方との握手を拒んだことです。「握手をすれば、判定を認めたことになる」、彼女はそう言ったし、そのとおりだと私も思いますが、若くして、中共のプロリーグに参戦し(大学を中退したと思い
ますが)、連日の厳しい勝負の中で、勝負の奈落と天国を見た彼女の勝負師としての賞賛すべき態度であった、と思います(彼女には中国人のファンもたくさんいたように思います。)。
日本人は、同調圧力なのか、国民性なのか、安易に負けを認める、反省すべきですね。勝負なのだから、やるなら石にかじりついても勝たなければならない。同時に、「準決勝の敗退はすべて私の責任です」、と言い切った、愛ちゃんの潔い言葉と、チームの同僚を思いやる気持ちに感動しました。
折しも、8月16日韓国外務省が、「日韓合意」を経て、日本国の10億円の拠出(今のところは賠償金といわない。)を受けるコメントがありましたが、昨年末の外(害)務省が、アメリカの政治的圧力に屈し、日本国民に多大な苦痛を与えた、虚偽の慰安婦問題の政治決着に、岸田外相、あんたはなぜもっと厳しい外務折衝をしなかったのか「愛ちゃんを見習え」と言いたい、このたび改ざんされた歴史(国家による女部屋設置への関与)に対し、この、死者を弔うべき8月において、われわれの父祖と祖霊に成り代わり、強く抗議したいところでした。
ところで、準決勝に登場したドイツのナショナルチームはどうなのか、皆、外国人じゃないのか、世界選手権では21歳を超え帰化した外国人選手は出場できない、しかし、一定の年数を経れば、国代表として、しっかり出場できる、との規定であり、グローバリズムの影響下で、他国から、優秀な労働者を安く買い、これはEUの中で一人勝ちの、ドイツ帝国そのままのモデルではないですか、出場した(帰化した)彼女たちは覚悟のある態度と緊張感のもとで試合をしていましたが、いったい、ドイツ国民は、国際連合軍みたいなあんな試合で、勝ったとしても、見ていてうれしいのかね。私には、体格に恵まれない、二人とも丸顔でよく似た、日本のダブルスチームが実に好ましく思われました。
いずれにせよ、どこの卓球チームをみても、中国系、韓国系(?)の選手やコーチなどがきわめて多かったようですが。
それはそうとして、最後の三位決定戦で、見事銅メダルを獲得した、卓球女子チームであり、全員泣いていましたが、殊に最後のインタビューで、「このたびのオリンピックは、本当に本当に苦しかった」、という、愛ちゃんの本音と、清らかな涙がとても印象的でした。
多分彼女は、自己の年齢(東京大会ではどうなるかわからない。)次の代の石川佳純さんの年齢、そして将来、全日本の中核になるかも知れないまだ幼く未熟な選手の年齢を視野に入れ、厳しい戦いを勝ち抜いたはず、なのです。それはまさしく、スポーツを通じて、人格を陶冶(とうや:陶冶とは、
もとは漢語で陶器や鋳物をつくりあげるという意味である。 転じて、人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。)した彼女の人性であろうし、それは、このたび、次のリーダー、石川選手に競技者としての自覚と決意を促したであろうし、「この三人でオリンピックに出られて本当に良かった」という、15歳の伊藤美誠選手のコメントに十分現れ、先輩たちを見習いたいという素直な気持ちの表明に表れているところです。
卓球女子団体のみなさんこのたびはおめでとうございます。