天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「福原愛選手」礼賛   ( リオ・オリンピック瞥見(べっけん))

2016-08-17 20:00:18 | スポーツその他
今年の夏は、殊に西日本は7月中旬の梅雨明け以降、連日、波状の熱波で、耐えがたいところであり、極力、日中は戸外に出ないようにしていましたが、おりしも、8月5日より、リオデジャネイロ・オリンピック大会が始まり、自然自然に、自宅で当該競技の様子を見守ることとなりました。

 私、中学校時代は運動部におりましたが、当該活動においても華々しい結果は残せず、毎日放課後部活になるのを友人とともに呪詛するような気持ちであり、3年間ほとんど本の一冊も読めず、俺はバカになった、と思っておりました(実際のところあまり差はなかった。)。 高校に入って、一学年上の2年生に、同じ運動部の勧奨をされ、丁重にお断りして、舌打ちをされました。その後、ほとんど運動体験がありません。
今は、「おばあさん」(私は「じいさん」でいいです。)にまじって、プールを歩くくらいです。
高齢女子の話は、それは実のところ、なかなか興味深く、私は、時に「フィールドワーク」と呼んでいます。

 さきごろ、家に帰って、何気なくテレビをつけると、野球番組であり、画面下のテロップで、「 中 ― ソ 」という表示が出ており、「なんで、中国 (中共) とソ連(ロシア)が野球の試合をするんだろう」とふと思いましたが、どういう意味か、しばらく気が付きませんでした。
セリーグ、パリーグの恒例のリーグ交流戦の頃です(お粗末さまでした。)。

 「スポーツは、模擬の戦闘行為である」ということは、得心が行きます。
 すぐれた運動選手は、自己の戦いについて戦略が必要です。相手のコンディションを見通す観察力、相手のチームの状態を見通す洞察力、審判の判定の癖や、競技全体あるいは会場の雰囲気を瞬時に判断し、自己の演技・競技に反映しなければなりません(皆、普通にやっています。)。
 また、競技の中で、勝負は不断に反復しつつ行われるわけですから、瞬間瞬間での敗北からの切り替えと、集中が不断に要求され、競技に合わせ自己をコントロールする集中力と精神力も必要なのですね。
 また、競技者として常時勝者という人は、きわめて少ないところです(オリンピックに出るような選手はほとんどそれまでに天才と呼ばれた人かもしれませんが)。自己の能力、培ってきた技術で、どのようにしてか折り合いをつけ、相手の弱点を突き、集中して叩く必要があるのです。それは、同
時に消耗戦であり、間断のない精神の集中力と我慢が必要であり、攻撃に耐え、このときにこそと、一瞬で強い競技者を叩かなくてはなりません。すぐれ勝った競技者たちの、その厳しいやり取りと、緊張、そして勝利と敗北というカタルシスに私たちは感動する、ともいえます。やっぱり、国際大会なれば、競技者に対し共感と、強いナショナリズム(同胞意識といいます。)を感じるのですね。小柄で決して体格的に勝っていないわれら日本人が、懸命に闘い、厳しい勝利を勝ち取る姿に、同国民としての感動と喜びを感じるわけです。

 殊に、このたび、少人数の団体競技で、すぐれた競技者たちの、素晴らしい競技・演技(パフォーマンスでいいですが)を見た覚えがあります。
 みなさん、その体験はそれぞれだったでしょうが、私にとっては卓球競技、殊に女子卓球競技です。
 このたび、女子卓球は個人戦で現在の日本のエース石川佳純選手(山口県出身、とてもいい子です。・23歳)が、初戦で敗退し、その際、競技中負傷してもメディカルケアも与えられなかったという私の周囲からの不満の声がありましたが、その逆風の中で、福原愛選手は、個人の競技者として集中力
を閉ざさず、一セットも失わず、きわめて高い集中力でいわば神がかりの状態で、準決勝まで勝ち残りました。
以前、石川選手が、テレビの番組で、述懐していましたが、卓球選手は、サーブの球出しで(張ってあるラバーの面などの観察などで)予測能力だけで動く(それでないと現実に間に合わない)ということを言っており、狭い卓球台で、骨身を削るような競技をしている、彼女たちの現実を知らされました。11ポイント制の3セット先取マッチというのも、他に類がないような過酷な競技でしょう。体力や個人の能力は大きくものをいうだろうし、確かにタモリのいうように、暗い、厳しいスポーツです。
 残念ながら、個人戦準決勝でみた相手方の選手は、私という素人の見た範囲では、福原選手との相性が悪く、実力的にも上のように見えました。このたびのオリンピックで、福原選手は、自己の卓球人性のすべてとチームのリーダーとしての責任を賭けてという、厳しい決意性を持って臨んでいるように見えましたが(わかるときはわかるのです。)、1セットはとり報いましたが、彼女の全能力(全実存)をかけてもとどかなかったのは、同胞として、誠に残念なことでした。たぶん、今回のオリンピックは、体力的には下降しつつ(27歳)も、競技者としての彼女にとって現在が頂点であるという覚悟と、洞察があったんじゃあないかと、思われます。
結果、残念ながら、個人戦ではメダルに届きませんでした。

 しかし、団体戦では切替えました。
 団体戦では、リーダーは、一人のみならず、三人の競技者全体を見据えた戦略が必要です。 愛ちゃんは(うちの娘より年下なのでそれでよいでしょう。)、戦略家として、十全に働き、個人戦で気落ちしたエースを盛り上げ、立ち直らせ、ほぼ全試合だったと思いますが、ダブルスの試合において、
自負心が強くまだ生意気そうな(私の主観です。)経験不足の15歳の将来の日本のエース(伊藤美誠選手)を補佐し、そのミスと気持ちの乱れをまた試合経験の不足を補い、適切な助言で、彼女の持ち味を出させ、ダブルスに勝利をもたらしました。特筆すべきは、準決勝で、エッジ(敵陣の卓球台の
端)にあたったピン球の判定に際し、(あれは私には入ったと思えました。)覆らない判定に際し、相手方との握手を拒んだことです。「握手をすれば、判定を認めたことになる」、彼女はそう言ったし、そのとおりだと私も思いますが、若くして、中共のプロリーグに参戦し(大学を中退したと思い
ますが)、連日の厳しい勝負の中で、勝負の奈落と天国を見た彼女の勝負師としての賞賛すべき態度であった、と思います(彼女には中国人のファンもたくさんいたように思います。)。
日本人は、同調圧力なのか、国民性なのか、安易に負けを認める、反省すべきですね。勝負なのだから、やるなら石にかじりついても勝たなければならない。同時に、「準決勝の敗退はすべて私の責任です」、と言い切った、愛ちゃんの潔い言葉と、チームの同僚を思いやる気持ちに感動しました。
折しも、8月16日韓国外務省が、「日韓合意」を経て、日本国の10億円の拠出(今のところは賠償金といわない。)を受けるコメントがありましたが、昨年末の外(害)務省が、アメリカの政治的圧力に屈し、日本国民に多大な苦痛を与えた、虚偽の慰安婦問題の政治決着に、岸田外相、あんたはなぜもっと厳しい外務折衝をしなかったのか「愛ちゃんを見習え」と言いたい、このたび改ざんされた歴史(国家による女部屋設置への関与)に対し、この、死者を弔うべき8月において、われわれの父祖と祖霊に成り代わり、強く抗議したいところでした。

 ところで、準決勝に登場したドイツのナショナルチームはどうなのか、皆、外国人じゃないのか、世界選手権では21歳を超え帰化した外国人選手は出場できない、しかし、一定の年数を経れば、国代表として、しっかり出場できる、との規定であり、グローバリズムの影響下で、他国から、優秀な労働者を安く買い、これはEUの中で一人勝ちの、ドイツ帝国そのままのモデルではないですか、出場した(帰化した)彼女たちは覚悟のある態度と緊張感のもとで試合をしていましたが、いったい、ドイツ国民は、国際連合軍みたいなあんな試合で、勝ったとしても、見ていてうれしいのかね。私には、体格に恵まれない、二人とも丸顔でよく似た、日本のダブルスチームが実に好ましく思われました。
いずれにせよ、どこの卓球チームをみても、中国系、韓国系(?)の選手やコーチなどがきわめて多かったようですが。

 それはそうとして、最後の三位決定戦で、見事銅メダルを獲得した、卓球女子チームであり、全員泣いていましたが、殊に最後のインタビューで、「このたびのオリンピックは、本当に本当に苦しかった」、という、愛ちゃんの本音と、清らかな涙がとても印象的でした。
 多分彼女は、自己の年齢(東京大会ではどうなるかわからない。)次の代の石川佳純さんの年齢、そして将来、全日本の中核になるかも知れないまだ幼く未熟な選手の年齢を視野に入れ、厳しい戦いを勝ち抜いたはず、なのです。それはまさしく、スポーツを通じて、人格を陶冶(とうや:陶冶とは、
もとは漢語で陶器や鋳物をつくりあげるという意味である。 転じて、人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。)した彼女の人性であろうし、それは、このたび、次のリーダー、石川選手に競技者としての自覚と決意を促したであろうし、「この三人でオリンピックに出られて本当に良かった」という、15歳の伊藤美誠選手のコメントに十分現れ、先輩たちを見習いたいという素直な気持ちの表明に表れているところです。

 卓球女子団体のみなさんこのたびはおめでとうございます。
 

「男」としての戦いについて・・・・(ボクシングを見ながら考える)

2015-06-14 20:40:32 | スポーツその他
 本日は、本来の「硬派」らしく、「男」としての戦いについて触れてみたい、と思います。
 ご承知のように、WOWWOWという有料サテライト放送のチャンネルがあり、実は創設時から、当該チャンネルに加入しました。私は地方に居住しており、ケーブルテレビに加入もしておらず、家人に言わせれば、贅沢と言われつつ、唯一、有料サテライトを契約しています。最初の売りは、映画見放題というものでしたが、そのうち飽きて、主目的が変わってしまいました。
 ボクシングの観戦です。
 私の10代、20代は、日本人の世界チャンピオンが多くおりました。当時の世相というか、「あしたのジョー」に影響されてか、当時のテレビも熱心に扱い、経済も相対安定期という時代だったのか、「ハングリーボクサー」というイメージがもてはやされ、具志堅用高とか、浜田剛史とか、多回数防衛チャンピオンとか、数階級制覇チャンピオンも片手で足りないほどでした(奇しくも、二人とも沖縄(古モンゴル系)出身者ですよね。)。しかし、日本が豊かになったのかどうなのか、だんだん、チャンピオンの数や、ボクシングの人気自体が凋落していきました。

 40歳代で再会した、ボクシングは実に魅力的でした。
 日常生活では、実際のストリートファイトは違法ですが、大きな本場のショービジネスでは、鍛えた男同士が、リングの中で打ち合う姿は、直接体を張った真剣な戦いと、それに伴い、ほぼ必ず訪れる最期のカタルシスへの期待とその実相を観客に与えてくれます。少なくとも、リングに上がった同重量の彼らは、国籍、貧富、社会的地位を超え、同一の条件で戦うこととなります。現実の社会で仮構され、いかにも真実であるかのような、自由競争や機会均等などの形式的平等性を、裸になって、直接体を張って倒しあうという、見るものにとっても、溜飲が下がる戦いです。良い試合も、悪い試合もありますが、身銭を切った観客は、その覚悟や、真剣味の無い試合には容赦なくブーイングを浴びせます。生意気だろうと、ヤなやつだろうと、勝つ者には、勝つだけの理由があるのです。
 競技者の背後には、歴然たる社会的な不平等があるのが前提の話ですが、現在のように、敗者、勝者を見えにくくするシステムの中で、必死で修練した者同士の、真摯で、本気の戦いは、立ち会った者に、最後は感動すら覚えさせます。
 ボクシングは、グローブ装着とか厳しいルールのもとではありますが、相互で立ち上がり、上半身で戦うスポーツは、正直なところどうしても人種的優劣を考えてしまいます。狩猟民族が少ない(?)黄色人種は、上半身の筋肉の付き方自体が不利に思えるところです。外国人の平均的なミドル級(72.575kgまで)をウエルター級(66.678kgまで)までに絞った、パウンド・フォー・パウンドとしての試合では、俊敏で威力ある相互の戦いはほれぼれとするようにみえるところです。
 この番組は、格闘技担当アナウンサー高柳謙一さんと、かの名チャンピオン浜田剛史さんと、プロモーター兼ボクシング評論家のジョー小泉さんとの掛け合いで行われます。ジョー小泉さんは、若いころボクシングに夢中となり、父親に勘当されそうになったというほどのボクシングフリーク(いわゆる拳キチ)で、英語は堪能、メキシカンたちのスペイン語(メキシコ圏)も十分に理解できます。
 彼は、若いころトレーナーやカットマン(止血専門の技術者)をやっていたという筋金いりです。謙虚な人柄ながら、アメリカのショービジネスやボクシング理論に通しょうし、浜田元チャンピオンと、小泉さんが、ラウンドごとに採点しますが、浜田さんを覆す説明をして、時々、普段は温厚な浜田さんが「むっ」とするのがご愛嬌でした。しかし、ほぼ日本だけを主戦場とした浜田さんと、外国(ことに本場アメリカ(ビジネスになる、という意味です。))を主戦場に戦ってきた(プロモーター、マッチメイカーなど)小泉さんの組み合わせは絶妙で、その差異を、名アナウンサー高柳さんがうまいこと、あおったり、なだめたりで仕切ります(ついでながら、小泉さんはダジャレの大家です)。
 実際のところ、ボクシングのためだけに、WOWOWを続けたようなものです。
 その間に、多くの名チャンピオンを見てきました。印象的なところを上げると、いくらもあるのですが、多階級制覇チャンピオン、メキシコの善玉ゴールデンボーイ、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、アメリカの悪玉エクスキューター(処刑人)バーナード・ホプキンス(註)、変則のアラブ系イギリス人ナジーム・ハメドなど、様々な毛色の変わったチャンピオンが登場しました。それぞれ楽しませてくれました。しかし、いずれにせよ勝たなければ意味がない、わけです。敗者には、何も与えられない、という勝負の鉄則です。
 小泉さんに言わせれば、昔は、ファイター(攻撃中心、防御抜きで相手を打ち倒すボクシング=あしたのジョータイプのボクシング)、ボクサー(防御中心でカウンターなど有効打を狙うスマートボクシング)タイプと分けられたが、進化したボクシングでは、そのような欠点のあるボクサーは生きていけなくなった、といいます。
 「角を矯めて牛を殺す」、といいますが、今の、多階級、多回数防衛チャンピオンは、攻撃だけでも駄目だし、ボクサータイプだけでも駄目なのです、いいところだけ伸ばすのではなく、両方を兼ね備えないと、いずれ数回で敗けてしまう、どこかしら、欠点のある選手は、必ずつまずく、それを、目の前で、何度となく、見せつけられました。天分に恵まれたチャンピオンも、ひとたび負ければそのまま駄目になるケースも、その反対に、修練と、執念で上り詰めたようなチャンピオンは、しぶとく生き延びる場合もありました。
 豊かな日本の、世界チャンピオンは、日本国でのタイトル取得以来は、外国ではタイトルマッチはしない、などが、かつては定説でした。最近、アメリカでの防衛に成功したチャンピオン、西岡、山中などが出てきたのは喜ばしいことです。
 アメリカのラスベガスなどを主戦場で戦うのは、本国で食えない、貧困国(たとえばフィリピン、ウクライナ、アフリカ諸国、中南米諸国など)の挑戦者と、少数のチャンピオンたちでした。そういう意味では、プロスポーツは、世界市場を求め、早くからグローバル化しているのかもしれません。せめて、スポーツだけはと、選手と同国の多国籍のファンたちが、それぞれ自国系のボクサーを応援するのは面白いものです。
 しかし、アメリカのみならず、他国からアメリカに渡る一芸に秀でた有望選手も、よっぽど秀でた、トレーナーに拾われ、周到に鍛えられないと、長く生きてはいけないところです。
 やっぱり、国民性というか、恵まれない素質の日本人ボクサーも、ひたすらまじめに練習し、勝負に臨む努力は欠かさないようです。
 いずれにせよ、プロスポーツにナショナリティ優先(自国民応援)の経路が無いと、とてもつまらない、ものですが、場合によっては、興奮した対戦相手の応援者(客)同士の殴り合いまでありました。

 今も忘れられませんが、放映が始まった最初の頃ですが、小泉さんが、国境に近いさる町(メキシコ)でタイトルマッチに臨むあるアメリカ人(黒人)挑戦者が、地元の文化や食事をぼろぼろにけなしたという逸話を披露しました。
「なぜだかわかりますか?」と高柳アナウンサーに尋ね、「どういうことなんですか?」と高柳アナウンサーが話を返すと、「彼はね、敵地で不利に戦うときに、観客をあえて挑発して、敵に廻して、孤立無縁で自分自身を高めるんですよ」、「そんな戦い方もあります。」との回答でした。

 これは、私が、今まで、プロスポーツを見た中で聞いた最高の言葉でした。
 私にそんな戦い方ができただろうか、と、孤独と孤立をあえて招きよせ、実力以上を発揮しようとする、「男」として、なんとすさまじい、いさぎよい戦い方ではないでしょうか?
 現代では、こんな戦い方は困難で有害かもしれません、しかし、結果は別にして、ホームタウンデシジョン(地元有利の判定)など虚仮にするだけの迫力があります。

いずれにしても、ボクシングの要諦は、相手に打たれずに、相手を効果的に打つのがセオリーです。これはボクシングのみならず、あらゆる「戦い」に共通する常道ですが。

(註)バーナード・ホプキンス
 善玉オスカー・デ・ラ・ホーヤを手ひどく叩きのめした悪役は、現在49歳で今もライトヘビー級のチャンピオンです。俺は、悪役であろうとなんであろうと、強い、悔しかったら叩きのめしてみろ、と傲慢な態度を崩さず、世俗の権威や良識を認めない、そのスタイルはむしろ小気味よく、今も、黒人として、悪役として、アメリカ社会での彼の戦いを貫き生き残っている、私のとても好きな選手です。節制により、今も見事なファイターの体型です。今後も、彼の試合では、時々見せる真剣なファイトと、レフリーのすきをついて高等な反則をしまくりでしょうが。)