こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

お布施(おふせ)

2010年10月14日 | 仏教
読経の始まる寸前に、
「お布施って布を施すって書くじゃないですか。
これって、どういう意味なんですか?」
って、参列の方から問われました。
で、何からお話ししようかと思考しているうちに頭が混雑。
なんで混雑するかというと、頭のスペックの問題が大きな原因、
なんてこといっても始まらないのですが、
要するに、
・布施を「布を施す」と訓読みしたことに対する漢字の問題
・衣の切れ端を修行僧に施したことに由来する説の必要性
・布施の本来の意味。
・せまりつつある予定時刻
以上の事柄がごちゃごちゃにうごめいて。
結局、双方スッキリすることなく時間が来てしまいました。(-_-;)

スッキリしなかったんで、このブログで整理。
・・・ってか、ますます混沌と、かも。

訓読みの問題ですが、
布を施す、ってことだと布施じゃなく「施布」がほんとうですよね。
だから布を施すじゃなく、「布の施し」って名詞にすべきだと。
中国からやってきた漢字は、
日本で多様に変化して日本語化してきたようですが、
あまりにも節操がないように思えて。
たとえば、「酒造」。
これって、「造酒」、って書くのが正しいと思いませんか。
「人選する」も同じ。こりゃ「選人」です。
仕事柄気になってたのが、
「霊安室」。御霊を安置する部屋という意味なら「安霊室」でしょう。
病院ついでに、「内視鏡」。
内蔵の中を視る鏡という意味なら、「視内鏡」。
そういう意味では「望遠鏡」は気持ちよく読めます。
多くの言葉が、もう慣用句になってしまってるのでどうしようもないですけどね。
ま、こんな事柄が気になったわけです。

そいで、修行僧に着物の切れ端を施すことに由来するお話は、
確かにお袈裟の話題にもつながっておもしろいとは思いますが、
「布施」という言葉の持つ精神を考えると、
適当ではないようです。

で、やっとたどり着いた布施のことです。
は「あまねく・広く」という意味で理解した方がいいでしょう。 
は、施し・与えるというよりも、むしろ「お返しする」っていうニュアンスがあります。
「施しは、ほどを越してと書いてあるように、できるだけたくさんって意味だよ。」って、
説明する時もありますが、真に受けないで下さい。(笑

 私たちは、自分の力で生きるのではなく、
様々なことに生かされてこそ生きることができます。
このことへの感謝の気持ちを具体化したものが、
「布施」ということです。

もともとは、梵語のダーナで、音写して「檀那(だんな)」となります。
♪~私の大事な旦那さま~♪っていう時の旦那です。
檀那は「施しをする人」のことで、檀那寺・檀家という言葉が生まれます。

布施は金品だけを言うものではありません。
「無財の七施」といって、・・・
ただ、無財とは、「金品を持ってなくても」ということではなく、
「金品では算定できない尊い価値」のこと。
絶対の価値です。

無財の七施
とは、

捨身施 活動することで人に善を施す。
心慮施 他人の悲喜苦楽を自分のこととして感じる。
和顔施(わげん) おだやかな心、やさしい顔、ほほえみで接する。
慈眼施(じげん) いつくしみの眼であたたかくみつめる。
愛語施 あたたかく、おだやかに話す。
房舎施 居場所や心の住む場を与える。
床座施 座席をゆずる・ゆずりあい。



コメント
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