常に念頭に置いて生活しなければならない「利他」の精神。意味は簡単でも実行はたやすくない。たやすくないから、世の中に様々なトラブルがやむことがない。
四摂法(ししょうぼう)という仏教の実践法がある。これは、言ってみれば社会を構成する集団が守るべき精神的ルールだ。決して観念論ではない。日常の実践行そのもの。
ひとつには、「布施」。これは、わがままな欲を捨て、物でも心でも、他に与え、他を生かそうと努力する生き方。
そして「愛語」。自然に出てくる言葉がやさしい慈愛の言葉であることを心がけること。
次に「利行」。見返りを考えないで、ひたすらに他を利すること、無条件に相手のために何かをすること。我が子や恋人に対する行為を考えるとわかりやすい。
そして最後に「同事」。他人と同じ心、すなわち心のシェア。あなたのよろこびは私の幸せ、自分も相手も思いやる心で一つになれる様努力することだが、これは前述3つの実践を実働させる根幹ともいえる。
以上の四つが「四摂法」といわれる社会集団運営に欠かすことのできない実践行。頭で考えるんじゃなくて、身をもって行動する事柄だ。集団の枠が大きくなればなるほど、この考え方は大切になってくる。家庭という小さな単位でもすれ違いは起こりうる。地域、国、世界とその枠が拡がれば拡がるほどすれ違いも拡大する。価値観の違うもの同士が一つの方向に向かっていこうとすることには、想像を絶するような努力が必要になろう。しかし、宗教や風土の違う国にあっても、同じ地球上に住む人間として、相互の価値観を認めながらいかに直面の問題を解決していくか。いまこそ、心をシェアしていく努力が必要な時代ではないだろうか。何かしら大きな力に試されているような気さえする。
私たちが、恐怖に苦しんだり、極度のストレスに陥ったりするその原因は、やはり、「利他」の欠如にあると言っても過言ではない。本来、人にはよりよき生き方をしょう、そうすれば幸せになれるのだという潜在的な思いがあるはずだ。これを仏教では、「如来蔵(にょらいぞう)・仏性」とよんだ。しかしながら、利他の欠如は本来備えているはずの仏性を覆い隠し、不安や恐怖の連鎖スイッチを押してしまう。
どう考えても理不尽にしか思えない他からの攻撃や威嚇、恐喝、暴力などにたいして、私たちは自衛のために様々な方策を講じる。場合によっては、「目には目を、歯には歯を!」的な強力な反撃に転じる場合もあろう。しかしながら、それは根本的な解決とはならない。そればかりか、憎しみや恨み辛みの連鎖が永遠に始まるはめとなる。
決して忘れてはならないのが、「同事」という利他の思い。この理不尽に思える攻撃の背景には何があるのか?なぜ不当な恫喝をしてくるのか?相手の立場に立ってその理由を調査思考してみる。さらに、他人をおとしめる罪を犯させないためにはどうしたらよいのか?など、自衛や反撃を工作するよりも大切な同事の心とその実践がある。もちろん、他からの威嚇攻撃に対して、それを暖簾の如く肩すかしして避ける工夫も必要になる。一呼吸をおくことで、冷静な思考が可能となる。この肩すかしも仏の知恵の一つ。
ともあれ、他の思いをおもんばかる同事の利他行は、もっとも強力な自衛力である。