こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

さなぶり(さのぼり・早上り)

2010年07月10日 | つれづれ
農家の人と雑談してましたら、
「今日は夕方から さなぶり だから、
ウコンでも飲んでおこう!笑」
って、大笑いしながらおっしゃって、
正直、私は???って思いつつも、
さとられないように
「あはははは、・・・ですねえ。」って微笑みがえし。(苦笑)

帰宅後、早速伴侶に調査を依頼。
「ねえねえ、さなぶり ってなんだろうか?
半世紀も人間やってて、知らない言葉が
まだまだあるよお~。
この地域の方言だろうか?」

ということで、
「なんだあ、和尚のくせにそんなことも知らんのか?」
ってお思いの方もいらっしゃるでしょうが、
「なんだあ?さなぶりって。」
と思ってる方もいらっしゃると推察しますんで、
紹介します。

「さなぶり」とは、「さのぼり(早上り)」のことで、
結論から云えば、
田植えが終わりますと、
それまで見守ってくれていた田の神様をお送りするための行事、
なんですな。
さのぼりの「さ」は、神さまの意味で、
神様が神の国へ上(のぼ)る、ということらしい。
で、具体的には、
田植え作業で疲れた人や馬、牛を癒しねぎらう為の行事が行われるわけです。

だから、「うこん」ドリンクが必要なんですね。(笑

ちなみに、田植えの作業を始める頃を、
「さおり(早降り)」といって、
神様をお迎えして無事に田植えができますことを祈念するんですね。

こんな話を聞き及ぶにつけ、
大自然への畏敬や感謝の心、
そして共同体の大切とか、
農業や漁業を営む人々の中には、
とても自然な形で伝承されているんだなあ、って感じました。





コメント (3)
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八正道

2010年07月06日 | 仏教
いや~、今年の梅雨は、すっかり梅雨らしく・・・。
ここんところ、ほぼ毎日、濃い霧の中にすっぽりと。
青空が恋しいなあ。
毎日ジュタ~っとしてます。
でも、森の樹木や苔たちはきっと喜んでいるに違いない。

さて、

八つの正しい道は、
1.正見・・・正しいものの見方です。智慧ですね。不邪見など。
2.正思・・・正しい考え方、思い方です。善悪の分別や客観的なみつめ。
3.正語・・・正しい言葉。不悪口とか不妄語とかですね。
4.正業・・・正しい行いです。不殺生などですね。
5.正命・・・正しい生活。具体的には戒律を守ることです。
6.正精進・・・正しい努力です。怠ることなく励むことです。
7.正念・・・正しい記憶。仏の教えをしっかりと自分のものにしてしまうことです。
8.正定・・・正しい禅定。瞑想ですね。

この「正しい道」の 正しい っていうことが、
具体的によくわからなかったりするんですよね。
正しいの基準というのか、何をもって正しいとするのか。
でも、お釈迦さまはそのことをきっちり示されています。
正しい道とは、「中道」を生きるということなんです。
そこで中道とは、

「二つの極端に親しみ近づいてはならない。
第一の極端は、欲望と快楽にはまり込むことである。
これは劣っており、卑しく、不利益と結びついている。
第二の極端は、疲弊にはまり込むことであり、
これは苦であり、賢くなく、不利益と結びついている。
・・・この両極端を捨てて、・・・。」

と説かれています。
このような「極端な」あり方を離れる姿勢こそが、
「正しい」生き方であると。
バランス感覚ですね。
一つのことにこだわりすぎて、
別のことをおろそかにしてしまうことがないように、
ってことね。

このバランス感覚の重要性を強調することには、
お釈迦さまが最初に説法された相手が、
これまで一緒に苦しい修行をやってきた修行仲間であったってことも、
大きな関係がありそうですね。

ともあれ、この中道の精神は、
仏教に一貫した重要な部分であります。
様々な場面で、このバランス感覚の大切さが示されます。

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2010年07月03日 | 仏教

漫画を読んでましたら、
こんなくだりがありました。

k:「もし世界を巧みに支配している奴らがいて、
  僕たちは気付かないうちに搾取されている奴隷だとしたらどうします?」
b:「時という字を考えてみろ。時は、日に日に寺へ近づくと書くんだ。どんな金持ちでも
  いつかは寺の世話になる。  そう思えば気が楽だろう。」
k:「なるほどね~」

なんだか一人で吹き出して笑っちゃいましたけど、
まさかこれが本当の「時」の意味じゃないよなあ、
って思いながら手元の学研「漢字源」をパラパラと。
するとね、思わぬ収穫です。(笑
「寺」と言う漢字。この字は、「寸(て)+之(あし)」で、
手足を働かせて仕事をする、っていう意味とか。
時という字は、日+寺で日が進行するっていう意味になるらしいです。
之は(いく)と同系で、足が直進することをいい、日が流れていくことを時というと。
お~、なるほどお。

んで、やっぱり気になった「寺」という字。
もちょっと詳しく知りたいなっ、ってことで「寺」のところを覗いてみると、
②庶務・雑用を取り扱う役所。ってあります。
で、字の解釈には、手足を動かして働くこと。
侍る(はべる)や接待の待つという字の原型であると。
もともと雑用をつかさどる役所のことだったけれど、
漢代に西域から来たお坊さんを鴻臚寺という接待所に泊めたため、
あとに寺のことが仏寺の意味に用いられるようになったとか。

そっか~、寺って町役場だったんだあ。そういえば、
私が住職勤めるこの寺も、戦前までは、町議会の議場だったこともあるし、
当時の住民票もあったりするしね。
ああ、江戸時代にはお寺で絵踏みもやってた史実も残ってるしで、
そういう意味では、本来の役所の意味合いも含んでますねえ。

にしても、「寺」という字が手足を動かして仕事をする意味、ってのは面白い。
たとえば、言べんに寺というつくりで、
「詩」、ポエムですね。これは、言葉でもって思いの世界を多様に表現した(言葉を働かせた)文章、
って意味でしょうかしらね? う~ん、漢字って深いですねえ。
とすれば、ひどく気になりますのが、やまいだれへんに「寺」。
そう、「痔」という字。これはよく言われてますのが、
座っているのが仕事のお坊さんに最も多い病気だから、
という話も聞いたことがありますが、本当に僧なんでしょうか?(笑
でも、元来は役所の意味だったらしいので、事務仕事の多い役人さんならでは、
の病気だからか?
ただ、今回の字義に従いますと、「痔」とは、
「いつまでもしつこく悩ませてくれる働き者の病気」という意味かも知れませんねえ。
ほんとかなあ???
誰か知ってる人!教えて下さい。

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四諦八正道と医科学

2010年07月02日 | 仏教
お釈迦さまの思考スタイルは、
お医者さんのお仕事にもよく似ているように思います。

ダンマパダ(法句経)191
「仏と法とサンガに帰依する人は、正しい智慧をもって四つの尊い真理を見る。
すなわち、1.苦しみと、2.苦しみの成り立ちと、3.苦しみの超克と、4.苦しみの終滅、
におもむく八つの正しい道を見る。」

四つの真理とは、苦しみを産出してしまう心のメカニズム、と言ったところでしょうか。
1.人生は自分の思うようにいかない苦しみである、という真理。
  思い通りにならないという結果ですね。             ・・・・・・<苦諦>
2.きちんとものごとの本質がわからずに、こだわってばかりいるから、
  その事が集積されて苦しみの原因になります。        ・・・・・<集諦>
3.苦しみがなくなった身心はとても安らかです。
  苦を取り除き滅し尽くした結果です。               ・・・・・<滅諦>
4.正しい生活をして、身心を整えることで滅することができます。
  苦しみを取り除くための原因です。
  それが、八正道といわれる実践プログラムです。       ・・・・・<道諦>
*「諦」は、真理です。明らかな事実です。

胃痛をうったえてお医者様のもとへ。
・まず、問診や検査をへて、潰瘍などの病状を明らかに見極めます。(苦諦)
・その結果、仕事のストレスや日々の暴飲暴食が続いたことが
 原因であることが分かりました。(集諦)
・胃酸の分泌抑制や潰瘍部の組織再生により、
 胃痛はすっかり取れて健康になることがわかりました。(滅諦)
・この病気は、少しの投薬と生活習慣の工夫により改善することがわかりました。(道諦)

どうでしょう。お医者様の手順に似てますよね。
どちらも因果律の構造です。
病理学と予防医学がうまいこと融合していますよね。

そんなこんなで、さてさて、どんなお薬を服用したら、
病気の苦しみから脱出できるのか?
次は、実践の道であります「八正道(はっしょうどう)」について確認してみたいと思います。
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ナマステ

2010年07月01日 | 仏教
Buddham Sharanam SOBE

 ブッダーン サラナーン ガッチャーミ

 ダンマーン サラナーン ガッチャーミ

 サンガーン サラナーン ガッチャーミ


おさない頃、わけも分からずに唄ってました(笑

ダンマパダ(法句経)の中<296,297,298>に、
・・・昼も夜も常に仏を念じている。
・・・昼も夜も常に法を念じている。
・・・昼も夜も常にサンガを念じている。
とあって、
同じく、<190,191>には、
仏と法とサンガに帰依する人は、正しい智慧をもって四つの尊い真理を見る。
すなわち、1.苦しみと、2.苦しみの成り立ちと、3.苦しみの超克と、4.苦しみの終滅、
におもむく八つの正しい道を見る。

とあります。

これが日本にやってくると、「三宝帰依=三帰」。すなわち、
「帰依仏・帰依法・帰依僧」となります。
「帰依」は、おまかせします、とか、ゆだねます、したがいます、深く敬います、とか、感謝します、とか、そんな意味を持って使われます。
でも、実際手を合わせて静かな気持ちでお唱えする時の心は、
より純粋無垢な、とても素直な感覚ですよね。
で、何に帰依するのかというと、
「仏」・・・悟りを開かれた尊い覚者と、
「法」・・・そのみ教えと、
「僧」・・・仏道を歩む人々の集いに、
帰依します。

よく、「南無阿弥陀仏」とか「南無釈迦牟尼仏」「南無大師遍照金剛」など、
「南無」を付けて拝みますが、この南無も帰依と同じ意味合いです。
お芝居などで、「なむさんっ!!」って叫ぶのありますよね。
今ある危機的状態から逃れようと必死になったときに発する言葉。
これ、正式には「南無三宝」ですわね。
あ、それと、インドの人々のご挨拶、「ナマステ」ですね。
この「ナマス」(酢和えではありません)が、中国で南無と表記されました。
インドの人々の挨拶は、お互いに敬い合う挨拶なんですね。
「ナマステ」=「南無あなた」です。

聖徳太子の十七条の憲法の冒頭は有名です。
「一に曰く、和をもって尊しとなし、さからう事なきを宗とせよ。」(さからう=抗争)
「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧となり。」
・・・
いいですねえ、将来憲法改正のおりには、
必ず十七条憲法の精神を注入するべきです。
日本最初の憲法ですしね、
世界ひろしといえども、これほどすぐれた憲法はないでしょう。
と、思いますが・・・。

読経の冒頭に必ずこの「三宝帰依」の文があります。
これは言ってみれば、仏教徒の信仰告白です。
三宝に帰依することを心から誓い、声に出してお唱えする。
その事が実は、生きるための正しい智慧を授かる、ことにつながるわけです。

さて、その正しい智慧とは具体的に何なのか?
近い日に確認してみることにしましょう。



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