元三大師良源( 慈恵)
良源延喜12年(912)9月3日、近江国(滋賀県)浅井郡虎姫で生まれる。父は饗場重頼、母は物部憲興の娘月子といい、幼名を日吉丸あるいは観音丸という。延長元年(923)12歳の時仏門に入り理仙大徳に師事する。
良源は得度し、正式の僧となる時期目前に来て、師理仙の突然の死に遭遇し、後に伊勢国朝明ぐんの郡領船木良見の尽力により得度を許されたため良見の一字を得て僧名を良源し名乗り、修行を重ねる。
良源55歳で第18世天台座主となり叡山の諸堂を復興し、山侶2700人に及び中興の祖と号せられる。その間累進して僧正に任ぜられ、つづいて行基以来の大僧正に任ぜられる。名声は高く当時並ぶ者がなかったといわれる。
慈恵大師(912~985)は第18世天台座主良源の号で、正月3日に死んだことから元三大師ともいわれる。尊意や相応など当時の天台の高僧の指導を受け、学業の誉高く、承平年間(931~938)の興福寺維摩会で南都の義昭を論破し、応和3年(963)の清涼殿法華会で法相宗の法蔵を説伏するなど、弁才人にすぐれていた。
また、承平5年(935)、および康保3年(966)の火災で荒廃した叡山を復興した功績も大きく、天台宗中興の祖とあおがれている。それとともに、鎌倉時代には慈恵大師に対する特殊な信仰がおこっていきた。
それは33体、66体、99体という多数の慈恵大師像をつくることで、曼殊院の像の銘文によると、33という数は三十三観音をあらわすらしく、この像をつくった目的は、現在もおこなわれている大師の像を印刷した護符を家々の門にはるのと同様、これによって怨霊鬼霊のなす災いからまぬがれようとしたのであった。
この民間信仰的な大師像制作の動機は、鎌倉時代において、大師信仰がひろく民間に普及していたことを物語っている。
後世元三大師という俗称が一般的であるが、摩滅大師(豆大師)、角大師、鬼大師で知られ、また「おみくじ」の創始者として広く知り渡、信仰され親しまれている。
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左0155 横川 元三大師 近道