アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑7  手島堵庵五楽舎址   富小路六角上る

2016年03月17日 06時48分07秒 | 石碑

 

 

手島堵庵五楽舎址

大正六年三月建之   京都市教育会

手島堵庵(1718~86)は,石田梅岩直門の最年少だったが,師や兄弟子の没後,門下の組織的改革や教化法の改善を進め,講舎五楽舎を開設して石門心学の普及に努めた。長男手島和庵(1747~91)が五楽舎を受け継いた

 

手島堵庵五楽舎址

 

この地は、石田梅岩の門弟、手島堵庵が創立した心学講舎「五楽舎」があったところである。堵庵は名は信、喬房ともいう。京都の富商の生まれ、通称近江屋嘉左衛門。18歳のとき石田梅岩の門に入り、家業の傍ら心学を修め、梅岩の没後は同門の中心的人物と目された。

 

先師の17回忌を機に家業を子の和庵にゆずり、洛東華頂山麓に隠居した。五楽舎は明和2年(1765)隠居後の書斎としてこの地に営み、あわせて講学の場としたもので、これが舎号りはじめである。その後、門弟の増加により手狭になったので、下京に修正舎、西陣に時修舎、中京に明倫舎を設立し、諸制度を制定した。

 

堵庵の説教はわかりやすい言葉におきかえ、婦女子のためにも配慮した。天明6年(1786)2月9日、69歳で亡くなった。会葬者によって家から鳥辺山まで人でうめつくされたといわれている。

 

 

 

 関連記事 ➡  明倫舎  右書き看板  明倫舎   説明書きがないのですが

                 京都芸術センター 建物はこの前が明倫小学校 今は登録有形文化財

           石田梅岩  石碑 元日彰小学校  日彰学区の歴史

 

前回の記事 ➡  石碑6 ジャガード渡来100年記念碑  西陣織会館

 次回の石碑記事  ➡  石碑8  退營記念 方位石 (野戰重砲々彈)  


道標右0003     嵯峨・大覚寺あたり 

2016年03月16日 08時07分37秒 | 道標

南   ひたり   あたこ道

  

 

西  すく   きたの  みき   三条   六条   ふしみ

 

東   すく   あたこみち

 

 

前回の記事 ➡ 道標2   梅宮大社  梅津小の南あたり  

次回の道標記事  ➡  道標右0004 「左 嵯峨野 阿弥陀寺」   


道標右0002   梅宮大社  梅津小の南あたり

2016年03月15日 06時57分40秒 | 道標

    ここは、 梅津小の南あたり

 大正 6年 小山友治郎 この方 梅宮大社の鳥居と標柱をも寄進している           右は 「梅津左衛門・・    」 とある

 

関連記事  ➡  梅宮大社   梅が見頃

 前回の記事  ➡  道標1  松尾神社・阿らし山(明治29年)

 次回の道標記事  ➡  道標右0003     嵯峨・大覚寺あたり  


石碑6 ジャガード渡来100年記念碑  西陣織会館

2016年03月14日 07時00分01秒 | 石碑

 

ジャガード渡来100年記念碑

維新の激変と遷都によって京都は失意の底に沈み西陣もまた衰退の一途をたどっていました。初代京都府知事長谷信篤は、京都の発展は西陣の発展にあり、西陣の発展は新技術の導入にまたねばならないと察し、明治5年佐倉常七 井上伊兵衛の両名にフランス国リヨンに留学を命じました。

また、吉田忠七は同行を嘆願し、3名は同年11月15日京都を出発しました。ことばも通じぬ異国で辛苦を重ね、8ケ月の研さんを終えて佐倉、井上両名は明治6年12月、ジャガード機を持ち帰ったのであります。一方吉田忠七は帰朝延期を請願してさらに研究をつづけ、多くの新知識と機械をたずさえて帰国の途につきました。

しかし、不幸にも同7年3月20日の夜乗船の遭難によりその努力もむなしく、伊豆沖で殉職しました。ジャガード機の導入は西陣に産業革命をもたらしました。この3名の努力と功績は、西陣の歴史に永久に銘記されるべきものであるとともに、その不屈の精神力は未来に引き継がれるべきものであります。

ここにジャガード渡来百年を記念して、3名の偉業をたたえ、西陣永遠の発展を祈願して、この碑を建立しました。

 この碑はジャガード機の原点とも云うべき紋紙を象徴化することによりジャガードと云うイメージが造形化されて居ります。屈折した3枚の組合わせは三氏の努力や協力を、又、屏風状に拡がる平面の連続の中に更に可能性を含んだジャガードの将来えの発展を意図して居り、その幾何学的な方形の全容は端正さの中に西陣織の気品と落着きを強調して居ます。

昭和47年11月

西陣の日 事業協議会

 

関連記事  ➡ 西陣織会館の着物ショー

           石碑上0152 西陣名技碑  伊達弥助

前回の記事 ➡ 石碑5  車折神社碑

次回の石碑記事  ➡  石碑7  手島堵庵五楽舎址   富小路六角上る  


石碑5  車折神社碑  

2016年03月13日 07時02分23秒 | 石碑

右は 車折神社碑  西園寺公望、富岡百錬 の名前が見られる 明治42年建立

車折神社は平安時代末の儒学者清原頼業(1122~1189)を祭る。境内は頼業の墓所であったと伝え,嵯峨上皇の車が頼業の社前を過ぎた時,車が折れたので「車折(くるまざき)」の社号が生まれたという。あるいは、石のあたりで車を牽く牛が動かなくなったので,この石を車前石と呼んだことによるともいう。この碑は祭神清原頼業の事績を顕彰するものである。

車折神社碑【篆額】

尚矣吾宗之自出天 分派真人錫姓祖禰清原御寓天皇族叨華胄爵寵珪組遠矣家学之

淵源崇道尽敬之撰書紀双岡大臣之解令義逞辞流離奮名翰苑爰逮中世有若大外記公

諱頼業挺生喪乱之際特稟淑霊之性継承先緒弥綸典術明経明法兼綜両道高倉院時侍

読殿陛承安二年宋明州刺史上書曰賜日本国王公援故事両朝往来用敵国礼簡冊具存

往牒可按辺吏慢辞宜郤勿受治承養和諸源兵起海内鼎沸平宗盛惶惑罔措問計于公公

対以革弊政而息獄訟庶幾可救危亡宗盛弗能従闔族淪胥凡朝章典故毎有諮議公徴引

精博多見聴用雖限于資格弗尽其才而立朝大節彪炳一代矣公卒于文治五年閏四月十

四日春秋六十有八相伝公読礼記表出中庸拠本経為解弗取伝注与朱晦庵暗合又講毛

詩伝箋岐互舎鄭従毛公之為学醇茂疏通於焉可窺藤公兼実謂為学該和漢当世無双国

之大器道之棟梁厥後我清原氏世為天朝儒師本支蕃滋明習経業紹往開来寔公之頼公

既重于時世俗遂伝言公死作冥官後嵯峨天皇嘗遊幸西郊従者過公墓下弗謹忽然折轅

或奏触神譴怒因贈正一位賜号車折大明神世人亦謂明神司為民雪冤遠迩崇奉祷賽者

踵相接以迄于今弗独我宗族歳時報祭也粤距公卒七百廿一年車折神社社司高田静衛

思欲樹碑表公盛徳以余為公嫡胤来請作銘其辞曰

緜緜帝胤家伝六芸惟公抜萃玄鑒絶世建議廊廟風発 燭照興亡著于亀筮 遺経

微言妙契後人折衷仰其孤詣生為儒宗死為明神凡民有屈祷莫弗伸蔵公魄兮桂水之浜

神降格兮堆石輪因迺棟迺宇迺進藻蘋流沢無索在茲貞

明遂賢治四十二年四月                  三十三世孫従三位勲四等子爵舟橋撰

                                           従一位勲一等侯爵西園寺公望篆額

                                           前車折神社社司正七位富岡百錬

                                                                    中村寿山鐫

関連記事 ➡     車折神社  表参道 第3鳥居から 本殿まで

           関連0014  富岡鉄斎

前回の記事 ➡ 石碑4  神殿之𦾔地  斎宮神社内  

次回の石碑記事 ➡  石碑6 ジャガード渡来100年記念碑  西陣織会館  

 


石碑4  神殿之𦾔地  斎宮神社内

2016年03月12日 09時05分12秒 | 石碑

石碑 明治26年 建立   

関連記事  ➡  齋宮神社

前回の記事 ➡ 石碑3  ドイツ人 ワグネル  

次回石碑記事   石碑5  車折神社碑    

 

 

 


石碑3  ドイツ人 ワグネル

2016年03月10日 06時26分26秒 | 石碑

ドイツ人  ゴットフリート・ワグネル の 記念碑  明治11年 京都市に招かれ 染色・織物・製陶を指導した

 ワグネル(Gottfried Wagener,1831~92)はドイツの化学者で,明治初期のお雇い外国人。明治元年に来日し大学南校で教授し,明治11年京都府に招かれ舎密局に着任し,同局に新設された化学校で教授した。陶磁器,七宝,石鹸,ガラス等の製造を指導し,京都の産業近代化に貢献した。この碑はワグネルの業績を顕彰するもので,大正13年3月20日から同5月20日まで岡崎公園で開催された東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会に際し建立された。 

関連記事 ➡ 学校 舎密局

ドクトル、ゴット  フリード、ワグネル 君ハ独逸国ハノーヴェル州ノ人ナリ維新ノ初我邦ニ来リ科学ヲ啓導シ工芸ヲ掖進スルコト廿餘年主ニ本市ニ於テ尤モ恩徳アリ明治十一年君本府ノ聘ニ応シ来テ理化学ヲ医学校ニ化学工芸ヲ舎密局ニ教授シ旁ラ陶磁七宝ノ著彩琺瑯玻璃石鹸薬物飲料ノ製造色染ノ改善ニ及ヒ講演実習並ヒ施シ人才ノ造成産業ノ指導功効彰著官民永ク頼ル大正十三年本市東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会【「東宮殿下御成婚奉祝」小字双行】参加五十年記念博覧会ヲ岡崎公園ニ開ク初メ本邦斯会ニ参加スルヤ君顧問ノ任ヲ帯ヒテ本市ニ来リ頗ル斡旋スル所アリ是ニ至テ市民益々君ノ功徳ヲ思ヒ遂ニ遺容ヲ鋳テ貞石ニ嵌シ之ヲ会場ノ一隅ニ建ツ庶幾ハクハ後昆瞻仰シテ長ニ旧徳ヲ記念セムコトヲ京都市長従三位勲二等馬淵鋭太郎誌ス

 

請負人 石工   吉村小右衛門      京都千丸角

 

参考  ドイツ人 ワグネル

関連記事  ➡  島津製作所 創業記念資料館   舎密局・ オランダ語の 『化学』   跡  

         人物045  新島 八重

           「府立図書館」 日本で初めての公衆図書館  

前回記事 ➡  石碑2  八ツ橋 発祥之地  熊野神社内

次回石碑記事  ➡  石碑4  神殿之𦾔地  斎宮神社内 

  

 


石碑2  八ツ橋 発祥之地  熊野神社内

2016年03月09日 06時48分34秒 | 石碑

「八ッ橋発祥の地」 石碑 (題字は 梅原 猛) と 銅像

神社北隣に 八ッ橋の店(創業300年)がある  

 説明板には次のように書かれていました

石碑  八ツ橋 発祥之地

西尾為治は、明治12年(1879)山城国愛宕郡 聖護院村の八ツ橋屋に生まれ、以来昭和37年(1962)1月に永眠するまで、84年の生涯を八ツ橋の発展のために心血をそそぎました。後年中興の祖と言われ、元禄からの古法を基調に改良に改良を重ね゛京に八ツ橋あり゛とその名声を拡げました。平安建都1200年を記念し、八ツ橋発祥の地「聖護院の森」に石碑並びに銅像を建立しました。

熊野神社

 

 関連記事 ➡ カラスがシンボルマークの「熊野神社」 

前回の石碑記事  ➡  石碑1  蚕の社 本殿前 西陣縮緬仲間

次回の石碑記事  ➡   石碑3  ドイツ人 ワグネル