カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

世界経済危機 日本の罪と罰

2008-12-22 | 読書
世界経済危機 日本の罪と罰/野口悠紀雄著(ダイヤモンド社)

 野口悠紀雄は僕にとっては超整理法の人なのだが、本職は経済学者なのでこのような本も書く、というかこれが本領であるのだろう。超売れっ子で量産作家でもあるから内容的にタイミングが良すぎて、さらに書きとばしているのではないかという先入観も少しあったけれど、まったく杞憂といっていいだろう。いや、むしろ失礼で、書いてあることにはぶれもなく、シンプルかつ力強くものすごく分かりやすい。お勉強の本なのに面白くてすみませんというレベルまでクリアしており、これを読まずして何を読むのかという感じすらする。もの凄く影響力のある人なので、すでに多くの人が手に取ったであろうことを思うと、この本がまともに受け入れられて世論形成までしてくれることを願う気持ちまで湧いてきた。少なくとも、この本の指摘するような現状を把握する程度には、世論についてきて欲しいと真剣に考えてしまったのであった。そうでなければ日本はまともに道を踏み外す。今でもかなりそんな感じが漂ってきておりもして、危険が危険を呼び込む水域に達している感すらあるくらいである。そういう意味では早く手にとってもらわなくてはならない本といえるだろう。
 第一に米国発の金融危機について、ほとんど日本も同罪だというシステムというか、からくりを明らかにしている。この関係は以前からかなりのひずみであることは分かっていながらも、結局日本はしてやられてしまってお終いである。悔しいが、馬鹿だったとしか言いようがない。問題はこれからも同じように馬鹿のままで生きていかなければならない宿命ではないということだ。いじめられっ子だって、自分の力がまったくの無力ではないことを知ることから反撃の方法を考えなければならない。無力のままなら絶望しかないではないか。
 もう一つの柱である円安バブルの崩壊についても、日本の立場としてある意味でまっとうな戦法であったとも思うが、歪んでしまっていたこともまた事実であり、救いようのない過ちであったことも明らかにされてゆく。いびつな歪というものは、やはり自然のうちではいつまでも耐えきれる状態なのではない。そうしていづれははじけてしまう。まさに、今がその状態なのだろう。現状を知らないままに行動することが一番危険で、暗闇の中崖があるかもしれない位置から駆けだす馬鹿はいない。まずは足元を照らすことが必要で、自分の傷口の手当が必要だということだ。腫瘍が悪性なら、除去する必要だってある。今はそういうことだということなのである。
 また経済学的な見方として、日本の国力をどのように伸ばすのかというシンプルな考え方も披露してある。題材としてダメな見本で語られる農業政策の現状をデータを基に明らかにしていく手法も、目新しくはないがその通りで、説得力は高い。いや、これだけでもみのもんたファンには読んで欲しいくらいだ。いや古館伊知郎やNHKも同じことだ。これぐらい当たり前の認識くらいを前提にして報道する学力と、他人におもねることを捨てる気位と勇気を持ってほしい。
 それでもやっぱり道は険しい。そんなことは重々承知しているけれど、やはり認めることはつらいことかもしれない。この本は単に危機感をあおるだけの「大変だ宗教」の本ではない。では何をすべきかという明確な道しるべなのでもない。少なくとも、もっと絞りだすような懸命な労力が必要だということを教えてくれるのみである。もちろん、その力の入れようがあるということは理解する必要があって、「今だって頑張っているのに」という泣きごとをいうつもりの人にはたぶん役に立たないだけの話である。いや、それだけでも十分に戦力になることは日本という巨大な国には言えることなので、要は諦めない処方箋であることは間違いがないのである。
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両方圧巻であったといえるが

2008-12-22 | 雑記

 朝から寺子屋だったので小学校にずっといた。行事としてはY光ちゃんがいなければこれからも困るなあという内容ではあるにせよ、それなりに消化できてよかった。竹切りで汗びっしょりになっていい鋸が欲しいと思ったが、今後もそんな必要が度々であってもあるとも思えないので、思うだけにとどめよう。むしろ学校の鋸の刃がひどいことになっている現状を思うと、子供が使うのだから仕方がないにせよ、本当にものを大切にするなんて教育は死んだのだろうなあと思ったのだった。教えようにも不可能な領域である。
 しかしながら少し準備段階を親子に負担させる試みとしてはかえって良かったと思った。今までが準備のしすぎで、至れり尽くせり過ぎたのだと思う。それなりに苦労している人も多かったようだけれど、実際がそうなんだからそのように労力がかかる方が自然なのであろう。
 進行上もそれなりに上手く行ったようだった。餅つきも若手の先生と、飛び入りのお父さんの活躍もあって、まずまずというところ。低学年の参加が多かったので、実際に餅つきをするというのには無理があるようだったが、親の視点的にはこの方がいいのかもしれない。本当の餅つきのハードさを体験することを放棄した親たちのさらに親の世代がいたことで、餅つきは単なるノスタルジー行事以上ではありえなくなったのだ。もちろん僕はそういう現状を嘆いているものでも何でもない。いまさら元には絶対に戻らないということを理解しているだけのことである。

 今はワンセグ放送があるので先生方が行事の間中携帯で見ていて、ほとんど経過や結果は分かっていたのにせよ、帰ってからも駅伝三昧観賞する。
 すでに男子は第三区の途中で、西脇工業以外はほとんど予想通りの展開という感じになっていた。その後は下馬評の予想通りというか、出来すぎともいえる佐久長聖の横綱相撲で圧巻のレース展開となった。本来なら兵庫県勢や大牟田などがやりたかった駅伝のスタイルが現実化した訳で、一時は崩壊したとも思われていた時代が復活したようにも見えた。
 それにしても凄い。他の優勝候補といわれる高校も、決して思惑が外れたり弱すぎたりしたわけではなかったにもかかわらず、本当に軽々と力でねじ伏せてしまった。昨年の負けが本当に次のレベルの高みへとつながったのだとしたら、佐久長聖時代はそう易々と崩れはしないのではないかと思うのだった。
 女子の方もビデオをまきもどして再び鑑賞。こちらも結果的には圧巻レースと評していいのだが、想像以上にスリリングだったことが改めて分かった。考えようによっては冷や汗レースだったかもしれない。
 筑紫女学園や千原台は予選敗退したにもかかわらず記念大会ということで復活した上に大活躍といってよく、さらに筑女は襷リレーのミスなども重ねながらもものすごい力強さを見せたと思う。強いというのはこういうことではないかと改めて舌を巻いた。意地が強いというのか、結局人の気持ちというのはこういう具合に現れるものなのだろう。豊川の新たな時代の幕開けも感じないではないにせよ、岡譲館にせよ立命館宇治のような伝統校の粘りもあって、まだまだ女子は伝統の力が生きているという印象も残したのだった。
 もう一度男子の観ていない前半部も見直してみると、留学生のいない一区が想像以上に牽制しあうレースだったことが分かった。勝負を楽しんで見るという点では面白くなったことは間違いないが、本当に力のある選手の伸びしろという点では、やはり難しいものが残っているようにも思える。他の区間のさらなる高速化が進んでいることからも、結局は一区の重みが増している(失敗が怖くて勝負が遅れる)ことには間違いがない。全体が強い上にエースが居るという完ぺきさがそなわなければ全国制覇が難しいという当たり前のことが言えるわけで、ますます高校駅伝も難しい時代になったのだと思うのだった。しかしやはり佐久長聖の存在は、仙台育英の黄金時代に、神の領域まで登ったといわれる領域さえもそうではないかもしれないと思わせる力があって、あえて報道が「日本最高」などと囃し立てる喜びようなどもあり(情けない。結局日本は保護されなければ力がないと白状しているようなものだ)、象徴的な年であったということは後になっても言えるようなレースであったと総括していいのだと思うのだった。
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