カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ほとんど少年

2013-06-15 | 音楽
The Strypes on Totally Irish


 これまでにもビートルズの再来というバンドは数多くいたわけだが、当然のごとく再来ではなかった。期待の大きさと大風呂敷にシラケと悲しさを感じたものだ。
 そういうわけでそういう興味で見たわけじゃないのだけど、こんなに若いんだ。驚いちゃったよ。
 見た目は学芸会だけど、音は割としっかりしてる。勢いも大切だけど、長い目で見ましょうかね。
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自由な女と恋におちたら   ジェラシー

2013-06-14 | 映画

ジェラシー/ニコラス・ローグ監督

 お互いに愛し合っていることは確実そうなのだが、男の考える愛の形と女の考える愛の形が違いすぎるために悲劇となっている。この価値観が逆だったら男は猛烈に非難されるだけの話になりそうなのだが、ちょっとばかり風変わりである。それというのも女の方は結婚している夫があり、しかし特に不倫をしているということではないのである。自由に恋愛をすることを理想としており、夫もそれを認めているということのようだ。というか、そもそもそのような自由さでなければ生きられないということでもあるようで、認めざるを得ないということなんだろう。しかしながらそうでありながら、いわゆる性的に自由でセックスばかりをしているのかというと(そういう側面もありそうだけれど)必ずしもそういうことでは無くて、やはり夫以外のこの男の事を深く愛しているらしいというのが分かる。当然しかし、そういう自由を男は理解出来ない。女を責め、追いつめ、そうしてしかし自分自身も逃れられない。女の方は精神的にも破綻をしてしまうようになり、薬を飲んで…、ということになって、これは実際は殺人なのではないかというような、推理とサスペンスの色合いも出てくる。男と刑事とのやり取りで過去が回想されて、そうして段々と真相めいたものが分かっていくという寸法だ。ひっきりなしに煙草ばっかり吸っていて、それだけでもずいぶん寿命が縮まっていくような感覚さえあるのだが…。
 主人公の男がサイモンとガーファンクルのアート・ガーファンクルである。なかなかの熱演で、まさに体当たりだ。そうして相手役の女優は、後に監督の奥さんになった人らしい。外国人の監督さんには、やたら自分の彼女やら奥さんやらを脱がしてしまう人があるようだが、この監督さんもそういう気があるらしい。そういう愛の形というのがあるのかもしれんね。
 でもまあ実際にこのような女の人に絡んでしまうと、やはりかなり精神的には厄介なことになるだろうな、というのは分からないでは無い。人間というのはそんなに寛容には出来ていないのではないか。相手が神様だとか他の動物だったらまだしも、やはり人間同士というのが厄介なのかもしれない。それはまあ独占欲と言ってしまえばそうかもしれないが、恋愛というのはある意味で猛烈なエゴを伴うものだとも思える。もちろんそれが崇高そうに見える場合もあるというだけのことで、このような設定で考えていくと、やはり正常そうに見える男女関係というのは、かなりのエゴが内包されていることに気づかされるわけだ。女が悪い、男が悪いというような問題を越えて、そういう関係性をお互いにどこか了解し合ってバランスを取っているのだろう。裸はたくさん出てくるのでちょっとエロ目的の人もいるかもしれないけど、なかなか考えさせられるいい映画ではなかろうか。
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重厚さが心地よい   薔薇の名前

2013-06-13 | 読書

薔薇の名前/ウンベルト・エーコ著(東京創元社)

 本自体はずいぶん前に買っていたもの。思うところあって、せっかく出費しても手にも取って無いような本から少し片付けてみようと思って読み始めた。すぐに分かったが、これは後回しにしようと当時の自分が思ったに違いない。なかなか重厚で、慣れないと少し読みにくい。ミステリー小説なんだろうけれど、何やらいろいろ入れ込んでいて、重層的な意味がいくつも仕組まれていることが分かる。面倒なんで気ぜわしい時には読むのが億劫になるかもしれない。
 でもまあ今回は読めたのは、忙しいながら精神的に安定していたせいだろう。それに慣れていくと、なるほど厄介ながらなかなか面白い。矢鱈知識をひけらかす輩が多いのだが、その議論も論理的と言えばそうだし、西洋人特有のレトリックと言えばそうだ。時代背景もあるが、その当時の人々の考え方の一片ものぞかせて、興味が尽きないところもある。ミステリーの方も入り組み方が複雑なので、そう簡単には解けない感じはする。僕自身はある意味では当たり、そうしてある意味では外した。理由はネタばれになるから書かないが、予想外の結末と展開だったことは確かだ。そういう意味でも興味が最後まで持続したことも大きかったようである。
 原書はラテン語で書かれたものをフランス語に翻訳し、それを英語に重訳したという設定になっている。それをさらに日本語に訳されたものを読んでいるわけだ。翻訳者はいろんな言語が出てくるのを苦労しながら訳したのではあるまいか。意味不明な言葉の様で、しかしそのことが事件のカギになっていることも暗喩してある。相当な知識が詰め込まれていることに圧倒されるのだけど、さらに史実と照らして本当だったことも混じっている様子である。基本的にフィクションだが、たまに歴史上知っている名前も出てくる。なるほどそういう時代背景に生きた人々だったのか、などと脱線しながら思索する時間もあったりして、奇妙な読書体験だったとも言えるかもしれない。
 修道士という男性の悩みなどもあり、いろいろと考えさせられることも多かった。性の欲求を封印することで精神的に支障をきたすこともあるんじゃなかろうかと心配にもなったが、そのような世界にあって、やはり抜け道もあったのだろうことがエピソードとしてあって、妙に安心したりもした。結末はかなり残酷なことになってしまうのだけれど…。
 さらにいろいろとエピソードはあって、キリストが笑わなかったかもしれないという証明の話は、なんだか圧巻という感じだった。このお話の重要なキーでもある訳だが、そういうことを文献などを扱って検証するようなまじめな人々がいるということが、さらに宗教的な意味として重要さを増していくということも考えさせられた。人間というのは、その思考の方法に既に罪を背負っているかのようである。
 それにしても衒学趣味的なお話であるが、そのことがかえって心地よいという境地にまで達する重厚さはさすがであった。こんなものはそうそう誰もが書けるわけがない。日本人にそれが無理だとは言わないが、あんまり得意ではないような気がする。西洋人がなんでまたこれほどお喋りなのかということも含めて、考えてもいいテーマかもしれない。
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個人の苦悩の物語でいいんだろうか   人生はビギナーズ

2013-06-12 | 映画

人生はビギナーズ/マイク・ミルズ監督

 母親が亡くなったあと、父親から実はゲイだったと告白される。父親は癌にもおかされており、闘病のさなかゲイとしての人生を再度謳歌するような姿勢を見せる。息子としてはそんな父親に戸惑いながらも、自らの恋愛のいざこざも混ざりながらさまざまな考えを整理していくというような物語。
 当然男である僕も同じような境遇だったらというような事を考えるわけだが、さて、やはり事情が違うのでどうなんだろう、という感じはけっこうあった。第一米国と日本では社会状況がかなり違うようにも思う。息子としては戸惑って当然そうではある半面、社会的には受け入れざるを得ない土壌が既にあるようにも感じた。君の戸惑いは社会的には認められた事実を自分自身がどうするかだけのことなんだよ、というような物語の視点がまずあったように思う。そういうものはたぶんまだ日本には無くて、だからこれはちょっと比較しようがないのではないか。
 しかし、そうではあってもやはり日本にもそういうことは起こりうることではあるだろう。そういう家庭にインタビューしたものがあればいいのかもしれないが、あるかもしれないが、なかなか簡単ではないというだけのことだろう。両親が長年連れ添っていたことが事実だったということは、ある程度は仮面性を通していた訳だ。同性愛は病気だという視点もあったことだろうし、そうするとそのような生活で病気が「治る」と考えていた節もある。しかし、治るようなものでは無いので、母親の死後にカミングアウトするより無かったかもしれない。
 また、すぐに若い彼氏のような存在が生活に登場するが、しかしその彼氏は複数の人とつきあいがあるらしい。父親もそのことに葛藤がありそうではあるが、自分の年齢や残りの人生を勘案してのことだろうか、そういう彼氏自体を受け入れているのである。息子としては戸惑いや不憫さも同時に感じながら、しかし、自分とつきあいの進行している女性の女ごころさえつかむことも出来ないのである。
 むつかしい問題のようでいて、しかしけっこう設定はこの息子に対する問題集だけという気もする。社会的にどうだという啓蒙は既に終わったことで、個人の問題だけのような感じに終始している。息子としては上手く立ち回りさえすれば良かったということになりそうで、そういうところには少し不満も感じた。そんなにいい子ばかりじゃないだろうに…。たぶん今はそういう段階としてのもっと手前にいるせいで、そういう印象を受けるのだろう。「遅れた」日本の住民としては。けれど、そういう葛藤があってこそゲイ問題という感じはやはりするのである。偏見は無くなった方がいいけれど、偏見が残っているので人々は苦悩する訳だ。個人の苦悩は社会的な背景があってこそだ。個人の問題だけの焦点だと、その苦悩がいわば軽い。
 やっぱり進めは進んだだけ別の問題があるということなんだろう。これもたぶん偏見で、異質なものへの視点というのは、だからいつまでも解決が難しいものなのだろう。
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担架も危険

2013-06-11 | HORROR

 総会などのシーズンなので宴席がつきものだ。楽しく飲む分には多少の羽目外しにも寛容なのではあるが、やはり飲み過ぎるというのはいろいろと困る。癖の悪いのは論外だけれど、飲み過ぎてつぶれてしまった人を抱えてしまうのも困りものである。夜の街で酔っぱらいを介抱している風景を目にするにつけ、お気の毒だが関わりたくは無いものだ。
 さて、そういう介抱についてはいろいろと覚えもある訳だが、酒を練習していた学生時代には、やはりこのような場面が多かったようだ。調子に乗ってガンガン飲んで、自分自身も怪しくなる頃には、たいてい誰かがつぶれているという感じだったかもしれない。その時もある先輩が飲み過ぎたらしく、とても歩ける状態に無かった。今考えると危険な状態だったかもしれないが、とにかく連れて帰らなければならない。学生なのでしこたま飲んだら、もうすっからかん。とてもタクシー代などは持ち合わせていない。歩いて帰るより無い訳だが、この先輩はいくら揺すろうがなにしようが歩けない。すぐに路上に崩れ落ちてしまうのだ。友人たちが数人いたのは確かだが、何とか両側から抱えて肩車しても、皆酔っているので少し歩けばやはり皆が崩れ落ちるということを繰り返して、どうにも埒が明かない。困ったことだが、まあ、ガハハ、という笑い声は絶えない。ふざけているのと同じである。
 そうこうしているうちに誰かが、ガードレールにくくりつけてある看板に目を付けた。そして、これを担架にしようということになった。何とかはぎ取って先輩を乗せてエッサエッサである。なかなか具合が良くて、そうしてなんだかものすごく軽い。最初に乗せた立て看板は木枠に布を張ったものだったから、破れて先輩を落としてしまったらしい。オイオイ、ということで落とした先輩のところまで戻って、また別の看板を探せということになった。
 今度は学習したのでコンパネを張った少し頑丈そうなのを見つくろってきた。乗せてみると、とにかく破けないということは分かった。その後はやはりエッサッサ。良く覚えてないが、何度も路上に落としはしたが、その都度看板担架に乗せ直して数キロの距離を歩きとおしたのではなかったろうか。
 翌朝は起きたものからバラバラと授業に出るなどしたのだと思う。昼ごろに昨夜の先輩が現れて、その姿にかなり驚くことになった。服はボロボロなのは勿論だが、顔の傷が凄いことになっている。まるで試合後のボクサーみたいだ。目の周りは絵に描いたようなパンダ状の内出血痕。かなり出血もあったのだろう、服にも黒ずんだシミがたくさんついている。それに髪の毛をかき分けてみると、擦り傷だらけでまだ血がにじんでいるところもある。そういえば足を持ってしばらく引きずったこともあったかもしれない。引き回しの刑を受けたならば、このように悲惨な傷を残すということなのだろう。
 結局病院に行ったのかどうかは忘れてしまったが、立て看板担架作戦はあんまりうまく行って無かったようだ。今はタクシー代くらいは持てるようになったので、本当にしあわせなことだと思うのである。
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男の美学とさびしがり屋   ドライブ

2013-06-10 | 映画

ドライブ/ニコラス・ウィンディング・レフン監督

 名作「ドライバー」のリメイクだとばかり思っていた。確かに影響を受けていることは間違いなさそうだけれど、ちょっとばかりお話は違っていた。もう少しウェットなところがあってなお且つバイオレンスが過激になっているというか。良いお話が続いてほのぼのしていると、強烈に身を引きたくなるというか。この極端さが良い訳だが、やり過ぎっちゃやり過ぎだろう。人間は激しく損なわれはするだろうが、もう少し原型をとどめる場合だってありそうである。まあ、ホントのところは知らないんだけどさ。
 好きになった女のために何かをしてやりたいという気持ちは理解できるのだけれど、その夫が出所して来て、彼にまつわるヤバい仕事を手伝おうという気分は今一つ分からないところではあった。もちろん協力できるのが自分の得意分野であるというのはあるのだろうけど、出来ればそういういざこざの当事者にはならないで仕事をするスタイルなんじゃなかったろうか。組織に属さない強さも、その恐ろしさも同時に理解できているように見えて、やはりこれは最初から踏み外した行為だ。もっともそういう人間臭さが先の「ドライバー」との大きな違いといえて、これを踏み外す動機としての疑似親子体験などは割合丁寧に描かれており、やっぱり人間として仕方なかったのかな、とはあとでは思った訳だが…。
 最終的にはどうにもタダでは済まない、実にヤバい状況に陥ってしまうのだけれど、やはり愛する家族がいるので自分だけ逃亡する訳にはいかなくなってしまう。そこのあたりのジレンマと、解決に向かうバイオレンスも見物である。もうちょっと戦略的な仕掛けがたくさんあるとさらにいいようにも思うが、結末としての美しさはさすがという感じもする。そうしてこの男の背負ってしまった悲しいしあわせの形ということでも、最高の出来栄えではなかったろうか。
 久しぶりに面白いものを観てしまったという感動に包まれた訳だが、こういう感じは、むしろ日本映画なんかにもあるようにも感じる。もう少し恥ずかしさを入れるのであれば、まるで無法松の一生だとか、男はつらいよ、である。こういう馬鹿な男というのが好かれるのは、やはりこの悲しさに共感できる人が多いからだろう。僕個人としてはまっぴらだけど、憧れというのはそういうもんである。そうしてやっぱり、いつまでも忘れて欲しくないのだろう。つまるところ、強がってるけどさびしがり屋なんだろうね。
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説教とカラオケの共通点

2013-06-09 | 雑記

 息子が友人とカラオケに行ったという。
「二人でもカラオケに行くんだね」というと、「普通じゃ」という。そうか、普通なんだ。
 二人だと歌いたい曲を交互に連続して歌えて満足度も高いという。一人カラオケもある時代だから、どんどん歌を歌う目的にはかなっているということなんだろう。
 友達の歌を聴くことも、ほとんど意識的には無いのだという。それじゃ、なんだか気合が入らないじゃなかろうか、というと。
「カラオケと説教は自己満足だから、他人の歌を聴く必要なんかないよ」ということだった。
 なるほど、つまり説教も聞いてないという意味なんだろうね。
 生意気な年頃になって言うようになったなあ、とも思うが、やはり若いってめんどくさいですね。
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深刻な状況とブラックな笑い ファミリー・ツリー

2013-06-08 | 映画

ファミリー・ツリー/アレキサンダー・ペイン監督

 モーターボートの事故で昏睡状態になってしまった妻の浮気が発覚する。それも教えてくれたのが年頃の娘である。この娘にも問題がありそうで、父親として手を焼いてどう接していいのかよく分からない。さらに下の娘にも悪影響がありそうな気配なのである。ハワイの先祖代々から受け継いだ広大な土地をリゾート開発へ売却する予定にある中、そうした妻との関係を清算することと、娘たちとの家族との絆を取り戻す物語である。
 まじめに説明するとまじめそうな映画みたいだけれど、基本的には淡々としたコメディである。時々こういう作風のものを目にすることがあるけれど、映画の世界ではこのような深刻な状況を笑ってやろうとする精神のようなものがあるようだ。ゲラゲラ笑う気分にはなれないが、思わず失笑してしまうというような種類の笑いを求めているのかもしれない。
 このような映画を見ていると、彼らの西洋社会にも、はっきりとした本音と建前の区別があることが分かる。世間とは建前を前面に出して、決して本音を漏らさないようにしている。ところが深刻な状況の中にあって、そういう隠された本音の部分が、どうしても漏れ出てしまう。もしくは本音を言う訳には行かなくて、ひたすら困惑してしまう。結果的に表の行動にも公然と自分の明確な意思を表さざるを得なくなり、決定的に関係は損なわれてしまう。もしくはそのおかげで、家族とはちゃんと向き合うことができるようにもなる訳だ。
 妻の問題は、ひるがえって自分の問題ということでもある。もともと何の問題も無いように見えていただけのことで、大きくひずみが生じていたのかもしれない。そこに妻は事故にあい、完全に修復が不可能になった。そのまま脳死ということになってしまい、お互いには心をわってなすべき話し合いの機会さえ失われてしまった。もちろん妻の浮気相手にも家族はあり、さらに土地の契約先の不動産業者でもあった。そういう周辺とのやり取りをやる中で、自分なりに折り合いをつけていく。深く傷ついたものは、損なわれたものは二度と元には戻らないのだが、どのように自分自身が受け止めるのかということが大切なようだ。問題ばかりに見えていた娘たちとの歩みも、今後の困難さも含めて前向きにやってゆけるだろうという予感のようなものは感じさせられる。そういう意味では温かい物語である。
 残酷な事実の積み重ねの中にも、人々は再生の糸口を見つけることができる。それはつまるところ本音の部分を大切にするか、建前を大切にするかの分かれ道なのかもしれない。そこにブラックな笑いを含めて物語っていく。変な趣味だとは思うが、そういう受け入れの方法もなかなか洒脱なものなのかもしれない。
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弁当の数

2013-06-07 | 

 ある街で弁当屋に入った。こちらの注文を終えて待っていると、予約をしていたらしい客が後から入ってきた。
 最初はよく聞いていなかったので分からなかったのだが、注文した弁当の数が倍以上違うらしい。どうも20欲しいらしいが、現物は40あるらしい。もめているというか、一時問答をやっている。
 客の方は理由をよく分かっており、二重に注文していたことは知っているらしい。しかしそのことを後でキャンセルしたという主張だ。店側は、キャンセルは弁当を作ったあとのことで、どうにもならないということらしい。「こちらのミスじゃないんですからね」とはっきり口に出して言っていたようだ。
 どちらの味方をするわけでもないが、どっちもどっちという印象を受けた。
 もちろん一番悪いのは注文をした客の方だろう。誰が注文をすべきか明確でないから、二名の人が同じ注文を個別にしたらしい。気づいたのは今朝だったのだろう。その後キャンセルの電話をしたが、時間的な問題で間に合わなかったのかもしれない。
 店側には落ち度はないようにも思うが、客として待っていて、そうしてそのやり取りを聞いていただけの立場から感じたことは、電話を受けたときのあいまいな態度にも客側の誤解が残っているようにも思った。真相は単純なことだろうけど、電話応答があいまいだったような印象を受けた。
 客の方はひっきりなしに外に出てしきりに携帯電話で現場の人たちと連絡を取っていたようだ。この場合誰が責任を取るのか。いや、それは明確だが、しかしそれだけでいいのかという戸惑いがあるのだろう。
 まあ、話としてはこれでお終い。その後のことは知らない。どうすべきかという、説教がましいことを言うつもりもない。繰り返すが、注文した方が悪いのは明らかだろうが、その後の対応に何かお互いの勘違いを生む何かがありそうな気がしただけだ。
 おそらくそういうことってそれなりにあるんじゃないかな、とは思った。キャンセルがいつまで可能なのか、そういう区切りというのは弁当屋さんにも必要かもしれませんね。
 それにしても20個も多い弁当をもちかえった後、あの人たちはどのような話し合いをしたんでしょうね。そちらの方が上手くまとまってくれたことを祈るばかりである。
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ギャンブルと有名人   華麗なる罠・刑事コロンボ

2013-06-06 | コロンボ
華麗なる罠・刑事コロンボ/アラン・J・レヴィ監督

 トリックが気に入らないというか、それなりに無理があるような気がする。というか偶然そうなってしまったというか、ここまで犯人が先を読めて犯行を行うことができるということがなんだか嘘っぽい。人はそんなにシナリオ通り行動するものなんだろうか。というか、こんなことをしているとちゃんと読まれている妻と愛人の行動ってどうなのよ? ということかもしれない。
 さらに気に入らないのは、やはり家族関係といったところか。これだけ嫌われているということが分かっていて、それでもこの家庭にしがみつくのは、やはり金銭だけの執着なんだろうか。これからもギャンブルをしたいということがあるにしても、この家族から離れていても出来そうなものである。今までの金を全部返せと言われても、返さない手だってあったんじゃなかろうか。妻が浮気しているのだって重大な背信なのだから、そこをついて金をせびる方法だってありそうである。つまり殺人の動機として、何となくしっくりこない。
 ということなんだけど、コロンボの行動は面白くない訳ではない。何があっても殺人事件。犯人は追いつめなければならない。そういう展開自体は楽しめるので、良しとしておこう。
 さて、有名人と歯医者さんというのは、お隣のまちにはそれなりに有名な例がある。だいぶ前のことだが、芸能人が頻繁に治療に訪れるということは聞いたことがあるようだ。「芸能人は歯が命」なのかどうかは知らないのだが、確かに普通の人より白く整った人が多いようだ。それが歯医者さんの力によるものなのかも知らない訳だが、ありうる話ではありそうだ。だから、この回の歯科医院にも有名人がたくさん治療に来るということのようだった。それなら、やはりその腕の評判の高い人だということも言えるかもしれないし、ギャンブルにしたって、そういう人々との営業活動だということも考えられるのである。実は大変に仕事熱心な人なのかもしれない、と思う訳だ。
 まあ、だから殺人をしないということではないのだけれど、なかなか二枚目の人だったし、やはりその悪癖を咎めるという気分にはなれない感じはした。金持ちかもしれないが、妙な結束の家庭の娘を嫁にもらって、苦労していたのではあるまいか。ぜんぜん同情する気持ちにもなれないながら、刑務所にもたぶんギャンブラーはたくさんいるだろうことを思うと、この犯人さんには、これからもご健勝にしてもらいたいものである。
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柵の中の王子様

2013-06-05 | 散歩
 散歩中あるお宅の前を通る時、決まって杏月ちゃんがキューキュー悲しげに啼く。柵から少し先に犬小屋が見えるのだが、その中からサッと白い犬が姿を表す訳だ。鎖でつながれてはおらず、庭では離し飼いの様子である。そして、もちろん雄である。
 そこのお宅の飼い主の方もこの様子はよくご存じで(いつも庭の手入れなどをされていることが多い)、杏月ちゃんのキューキュー啼きを聞くと、挨拶をしてお互いの犬の様子を眩しそうに眺めておられる。柵越しの恋のような図式である。
 柵の手前は花壇になっているから、あまり犬が近づくのもよろしくなかろうと思って、僕自身は短時間で退散することにしている。別に恋の邪魔をしているつもりは無くて、近づけないのなら仕方がない。
 そうしてしばらくそんなことが続いたある日。自宅へ帰る坂道を登りながら前方を見てみると、珍しくその白い犬がやはり散歩をしているのが目にとまった。さっそく杏月ちゃんはキューキュー啼きだした。白犬くんも少しばかり興奮気味なのが見て取れる。生の対面は初めてのことだ。
 しかし、やっと近づいて杏月ちゃんが勢いよく飛びついた相手は、他ならぬ飼い主の女性の方だった。
 杏月ちゃんは撫でてくれる女の人が好きなのは分かっていた。特に若くは無く、いわゆるおばちゃんの方が好きなようだ。子供は動きが予測できないのでかえって好きではない。「あらー」とか「まあ」とか言うような声を聞くと、狂わんばかりに尻尾を振って愛想を振りまく。柵の中の恋する相手とは、ほかならぬ人間の女性の方だったようだ。
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ウチのカミサン   かみさんよ、安らかに・刑事コロンボ

2013-06-04 | コロンボ

かみさんよ、安らかに・刑事コロンボ/ヴェンセント・マケヴィティ監督

 刑事というのは人に恨まれる職業なのだろうか。答えはイエスとも考えやすいが、しかし捕まった本人がつかまえた人をそんなに直接に恨むものなのだろうか?もともと警察に追われることはある程度分かっていて罪を犯す場合が多いだろうから、運が尽きるというような自分を恨むような気がしないではない。
 ところが、コロンボの様に名推理の人はどうだろう。さらにじわじわ追い詰められて嫌になる人だっているだろう。考えようによっては、コロンボというドラマ自体が、犯人いじめを楽しむ工程そのものだとは言える。やはりコロンボの奴め、と考えるような人がいてもおかしくない。彼さえいなかったら、悠々とシャバで暮らして行けたかもしれないのだ。もちろんそれは逆恨みには違いないが、正当な逆恨みということでもあるかもしれない。
 ということでコロンボは復讐の対象になっているのだが、途中でそのことにコロンボ自身は気付いてしまう。そうして騙されたふりをして、さらに犯人をある方法でひっかけて自白に導くというお話である。このような捜査が可能なのかに目をつぶると、上手いことしてやったりだけど、しかし騙された腹いせでビンタを食らってしまう。やっぱり悪いのはコロンボだったんだ!という印象さえ残るのであった。
 実際のピーター・フォークのかみさんはともかく、コロンボのかみさんというのは本体のコロンボ・シリーズでは出てこない。コロンボ本人が語るところを見る限り、それなりに夫婦仲は良さそうな印象も受ける。コロンボの細部にこだわる性格や、しつこく仕事ばかりしている事を考えると、それなりのご苦労があるらしいことは見て取れる。聞くところによると何か資格を取ろうと勉強していたりすることもあったようで、しかし専業の主婦なのかどうかは不明だ。
 僕自身は結婚後いつかはカミサンという言葉を使いたいという欲求があったが、これが若い頃にはなかなか様にならないことに気付いた。ぼちぼち使いだしたりしたが、いまだにしっくりこない。もちろん僕はコロンボのようなキャラクターじゃないので、何の努力なのかは不明なのだが、いつかはもっとしっくりくる場面で「ウチのかみさん」とやってみたい。まったくの一人芝居だから、上手く出来た報告をするかどうかは未定である。
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体調の悪い原因

2013-06-03 | 散歩

 愛犬の杏月ちゃんが数日前に調子が悪くなった。気づいたのは寝る前で、二階の寝室に上がってこない。呼んでみると息子と一階に残っているらしい。何か含みがあるのかな、と思ってしばらくすると、階下から息子の声がして、やはりオカシイという。つれあいと二人急いで階段を下りていくと、確かに登れないというしぐさをしている。何がおかしいのかにわかにはわかりようが無いのだが、こんなことは初めてである。
 実は結婚後に一匹の愛犬を亡くしている。血管か何かの病気ということだった。検査したりということで、遠出もしたりした。結果的に他県の病院で手術をすることを勧められたのだけれど、おかしいという症状はすでに消えており、というか、そうかもしれないというのは分からないではないけれど、深刻な感じではなかった。結果的に一年もしないうちに死んでしまったのだけれど、そうだったんだな、という感じかもしれない。
 今回もそういうたぐいの難病というか、ちょっと深刻な病気である可能性はある。どうしたものかということは考えるが、具体的にいつもと違うとはいえ、本当にどの程度悪いのかということは、正直言ってよく分かるものではない。元気がない。一言でいうとそういうことで、だから、かなりおかしいといえば、おかしい。
 どのみち急患で病院の窓をたたくほどではないような感じではあるし、つまるところ様子を見るしかない。そういうことで、いつもと変わらず一緒に寝るというだけのことになった。
 翌朝になってみると勢いは感じられないものの、生きている。まずはホッとするが、どの程度元気なのかはやはりちょっと判断しづらい。外に出てみると、はしゃいでいるが、勢いというスピード感が今一つである。何か変なものでも食った可能性があるので、糞の方も気をつけるが、量的には少ない感じもするが、割と普通である。いつもより疲れやすいようにも感じるし、しかし朝とはいえ気温が上がるのも早い。そういうことも勘案しないとならない気もする。
 仕事から帰ると、かなり元気そうに見える、もう少し様子を見ようと思って、もう一度散歩に連れていく。何か空気の抜けるような音がしているのに気づいて、ああ、これはおならだな、とやっと気づいた。そういう音が二回続けてあったので、腸にガスがたまっていたのだろう。やっぱり食ったものに何かあったのだろうか。その後は尻尾の振り方も堅調だし、だいぶ元に戻ったとはっきり認識できるようになった。便は出ていたのだからちょっとばかり不思議だが、消化の時間差などもあるだろうから、調子が悪いということはある程度あったのかもしれない。
 ところで、僕の方がどうもひどい下痢に襲われていて、日に何度もトイレにお世話になった。いつものことといえばそうなので気にしないけれど、やはり程度としての度合いは少しばかり重度であることは間違いなさそうだ。うっかりそういうことを家人に話すと、僕が食べ物をやることが禁止ということになってしまった。程度もあるだろうけれど、これはちょっとつらい。このままノイローゼになって、僕の方がまいってしまうのではないかと心配しているところである。
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実は怪しいとは思っているのだが…

2013-06-02 | 音楽
Colbie Caillat - Bubbly


 多少古い話になってしまったが、ネット上で自作のこの歌を流していて話題になり、そのままデビューして大ヒットしてしまったという。その後そんな話はいくつも聞くようになったけれど、比較的元祖的な存在であろう。
 そういう話は必ずしも嘘ではないのかもしれないが、巧妙なプロモーションである場合が多いのは確かだろう。彼女がそうなのかは知らないのだけれど、父親もミュージシャンだし、最初から完成度が高いというのはあるかもしれない。女性のジャック・ジョンソンとも言われるが、力の抜き方が最初からこなれすぎているかもしれない。
 揶揄しようと思ってあげているわけではないのだが、そういうなんとなく怪しいものがありながら、やっぱりなんとなく聞いていて心地いいのだから仕方がない。息抜きにどうぞ、といったところなんである。
 雨の心配の多い日曜日。何とか、もつといいですね。
 
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ハーレムと幸福感   殺意のキャンパス・刑事コロンボ

2013-06-01 | コロンボ

殺意のキャンパス・刑事コロンボ/ジム・フローリー監督

 設定の中にも謎解きの種が入っているのでどうかとも思うが、やはり画家の公然とした女性関係ハーレム状態という成り立ちが目を引く作品。倫理的にどうかというより、やはりバランスはあるが成り立っているということに、不思議さと疑問を同時に感じる人が多いのではなかろうか。一昔前の権力構造化においては可能である関係性が、自由な世の中であるアメリカ社会でも成立しうるのかというのは興味ある問題かもしれない。
 断わっておくが僕自身が複数の女性と暮らすことを理想としているからではない。特に性的関係が無いのならそれでもかまわないが、そういうことを伴うまま複数というのは正直言って嫌である。体の方はともかく(と見栄を張っておくが)精神の方がとても持ちそうにない。そんなことは自明過ぎて憧れる以前の問題である。
 しかし謎解きの大きなカギを握るのは、実は精神分析である。原作者が精神分析を勉強したことは間違いなさそうで、夢診断を映像化して謎解きに展開させる。結果的になるほど、と思うか、こじつけだと思うかは意見の分かれそうなところだが、犯人を追いつめる手法として効果的であろうことは理解できる。結果的に何故前妻の自由を束縛したがるかも理解が及ぶということになる。
 現在は大変に成功して金持ちになっているが、過去が暴露されるとそれが破滅するということなのではあろう。しかしそれでも後妻をもち、愛人を同時に抱えて暮らしもして行きたい。なるほどエゴだが、人間の素直な欲求に忠実に生きるモデルでもあるということだろう。そしてそれを支えているのは画家としての成功した自分であるということなのだろう。
 堅苦しいこと無しに面白い作品ではあるが、同時にしかし、この生活の中にあって、それぞれがそれぞれにつらいという感じもする。コロンボも買い犬に咬まれる訳だが、総体的な関係を無視して、自分自身の安定した幸福など無いという教訓でもあるのだろう。自由さの代償というのはそういうことなんではあるまいか。

 ところで犯人の後妻役のシーラ・ダネーズは、ピーター・フォークの奥さんなんだそうだ。他の作品でも出ているという。けっこうコロンボって家族ぐるみの作品だったんだね。
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