カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

子供になった睦月

2023-11-16 | 睦月ちゃん

 いまだに噛みついてくることには変わりないが、睦月ちゃんはいくぶん落ち着いてきてはいる。少なくとも赤ちゃんとか幼児ではなくて、子供になったという感じだろうか(そういえば1歳になりました)。やんちゃでお転婆で悪い事ばかりしているには違いないのだけれど、なんとなく物事を考えるようにはなっていて、いわゆる僕らが何をしているのか、ということにも興味を持つようなところがある。その上で僕らと遊んでやったり、部屋の中を嗅ぎまわったりする、ということかもしれない。際限なくものを壊して散らかしてはいるが、テーブルの脚などを削るように噛むことは少なくなったし、ケージの中に入れられれば、水を飲んで諦めて寝ている。抗っても仕方ないし、また出されるタイミングというものも、なんとなく理解しだしている感じである。帰宅すると、だから激しく出すように促して暴れているし、ちょっと長時間の外出だと、その激しさは度を越していく。そういうところはなんだか切ない訳で、申し訳ないです。
 人間関係のようなものもなんとなく考えるようになっているようで、僕やつれあいや、母に対する態度もそれぞれに違う。散歩に行くと道行く人に対する反応も違う。おじいさんは無視するし、おばさん方には近づいてもいいようなしぐさをする。実際に近寄るとちょっとまだ怖いようで、すぐに離れてしまうけれど、熱心な人には身を預けるようなしぐささえ見せるようになった。単に吠えて威嚇するときも無いでは無いが、実際には噛みつくことは無いし、心持おとなしくもするようである。子供や猫だけは気に入らないようだけれど。
 しかし車の中では外にいる人に向かって吠える。それも結構激しい。これはおそらく自分の車の中という安全圏にあって、外の世界から攻撃を受けないことをわかっていて、そうして相手に対して威嚇してかっこつけている訳である。実際には何の自信も無く臆病だからこそ、いわゆる強がっているということなのだろうと思う。外の世界のことはいまだによく分かっていないし、車の外の人というのは、未知の人々だ。先に威嚇しておいて自分を守るようなところが、あるのかもしれない。それなら黙って静かにしていればもっと安全である道理があるはずだが、外の人に興味もあるし、怖いからこそ吠えてしまうのだろう。口を押えたり目の前を遮ったりすると、必死で暴れる。要するに甘えである。僕らは安全な存在なので、いくら暴れても大丈夫であることを知っている。そうしておそらく守ってもくれる。それなら外部の人々に対して吠えていい、ということになるのかもしれない。もっとも車の外にいる人が、窓を閉めた車の中で吠えている犬のことなんかに、関心を寄せるわけではない。単に車の中の人(つまり僕ら)が、うるさくて仕方ない思いをするだけのことである。こういうことがいつまでも続くものかどうは予断を許さないところであるが、以後それは報告いたします。
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進化し続けるストリップ

2023-11-15 | 時事

 雑誌で牧瀬茜さんという人がコラムを書いていて、この人は現役のストリッパーで25年も舞台に立っている人だそうで、そうしてこれからも踊り続けていくことに、ワクワクしているのだというのだった。ちょっと僕が意外に感じてしまったのは、これは偏見もあってのことでけしからんことだとは承知しているが、ストリップダンスというものにおいて、そのダンサー側の感情を、まったく考えたことが無かった、ということなのである。その上に、楽しんで仕事をしておられるなんて、ちょっと想像だにしてなかったな、と感じたのだ。はっきり言うと、ある意味ではお金のために仕方なくやっているはず、のような感覚があったかもしれない。多くの客は、いわばスケベ心をもってダンスを見て、いわゆる欲情をかきたてるようにして観ているはずである。そういう視線にあって、楽しんでダンスをしている人がいるというのが、ちょっと想像できなかったのかもしれない。すいません。
 いまだにストリップ小屋があるところというのを、不勉強で知らなかったのだが、全盛期は300はあったと言われていたものが、今や全国で18館しかなくなってしまっているのだという。さらにコロナ禍で、休業も余儀なくされていた。そうではあったが、また復活して踊る日々に戻ったという事であって、もっともっと踊りたいということなのである。
 以前はもっぱらエログロであったり、花電車(女性器を使って矢を飛ばしたりなどの芸。花電車は客を乗せないことから、いわゆる売春でない芸をさしているらしい)、SM、レズ、タッチ(踊りよりも、触らせることを中心にしているということらしい)、本番、天板(客が舞台に上るもののようだ)、白黒ショー(白いカーテンの後ろで影絵のように男女の様々な結合状態を見せることが由来のようだが、そのようにしないで実際にいろいろ致すところを見せるものもあるという)、などなど、とバラエティに富んだものがあったそうだが、今は猥雑なものは減っていて、客も男性客ばかりとは限らず、さまざまな人が来るようになっているという。そうして今は圧倒的に自ら望んでストリッパーになる人ばかりなのだそうだ。そうして、脱ぐという行為だけでなく、さまざまなこうあらねばというような呪縛やプライドなども脱ぎ捨てて、踊りというのはまだまだ進化しているということなのだ。
 確かにショービジネスや芸術のようなものというのは、なにか先を見据えた考え方のようなものが必要なのかもしれない。ストリップというものは、まったくそれと同じような、というか、また表現としてはそれ以上のものがあるものなのかもしれない。田舎には無いものなので見届けることはできないが、これからも頑張って下さい。
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踊りたくなる気持ちまでは分からないが

2023-11-14 | 

 見つけたら踊りたくなる(程嬉しい)ことからその名がついたともいわれる「マイタケ」であるが、実際天然もののマイタケというのは、見つけるのがかなり難しい希少なものなのだそうだ。九州にもあったのかもしれないが、僕が子供のころには、マイタケが食卓に並ぶようなことは、まったくなかった。小学生のころに何かの本を読んでいて、マイタケの入った味噌汁が何より好物だという文章があって、母にマイタケを食べたいと言ったら「それは何?」と聞き返された記憶がある。それとなく八百屋などで探してみたが見つけることは出来なくて、かなり残念な気持ちになったものである。そうしてしばらくは忘れていたのだが、高校生くらいの時に忽然と奇妙な塊のこのキノコが現れて、「ああっ」と思い出した。栽培技術が向上して人工栽培のものが九州でも出回るようになったためだった。さっそく買ってもらって食べたのだが、期待が大きすぎたのか、そんなにまでうまいものだとは感じなかった。俺はシイタケの方が好きだな、と思ったことだった。
 しかしながらおそらくだが、調理によっても違うのではなかっただろうか。さらに何年も経過して、何かの料理と共に、バターか何かでソテーしたマイタケを食べる機会があって、なかなかの旨さにちょっと興味を抱いたことがある。なるほど、みそ汁などで食べるよりよっぽどうまいじゃないか。いったいあの文章を書いた人は誰だったのだろう? まあ、好みの問題であるから書くのは自由であるが、幻のマイタケを食べたという単なる自慢の文章だったのかもしれない。だいたい小説やエッセイなどで書かれたものの味なんてものはわかり得るはずが無いので、少年の心をつかんでおきながら長い間期待を抱かせた書き方に、問題があるのである。
 しかしながらこのマイタケというのは、実は縄文時代から食べられていたということが、分かっているそうだ。いったい誰が調べたのだろう? わりあい日本独自のものらしく、他の国ではあまり知られていない。そもそも諸外国で食べるキノコというのは、あんがいに限られた品種のみのようで、マッシュルームのようなものは食べるが、多様なキノコをいろいろと食べる国は、そんなに無いのかもしれない。僕が中国に留学していた短い期間のことを思い起こしても、あちらでもキノコのたぐいはそれなりに食べていたけれど、キクラゲのようなものはあちこちで見かけるが、マイタケは確かになかった。今は日本食も食べるようになっているというから、ひょっとすると事情は変わっているかもしれないが。
 そういう訳で外国人が日本に来て、マイタケが料理に出てくると、それなりに驚く人がいるという。なんとなく気持ち悪い形でもあるし、あちらの人はひどく毒キノコを怖がる傾向があって(日本人だって怖いとは思っているが)、なかなか口にしないのだという。しかしながらある程度日本になれてきた人たちがこれを食べて、そのおいしさに、やはり驚くのだという。そうして、なんとなく日本風だとも感じるのだという。そんなところに日本風というものがあるなんて、思ってもみなかった。
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電車を間違いと思ってほしい

2023-11-13 | ことば

 僕の住んでいるまちのローカル線に、電車は走っていない。新幹線は走っているのでまったく電車が無い訳では無いが、新幹線のことをあえて電車という人は少数派であろう。しかしながらテレビか何かの影響なのか、このローカル線に乗ることを「電車にのる」という人が増えている。長崎市などで会合があると、僕の地元の人が「電車できた」などと言っている。長崎市の場合「ちんちん電車」もあるではないか、と心の中で思うが、あれはたぶん「チンチン電車」であって、「電車」とはたぶん乗ってきた汽車のことを指しているのであろう。明らかに考え違いだが、どうして電車と言いたいのだろうか。電車が走ってないまちで電車なんて言うのは、なんだか田舎臭いではないか。
 でもなんと、ちょっと前からこれが、必ずしも間違いとは言い切れない事態になってきた。それというのもハイブリット車両が登場し、ディーゼル車であることには変わりないが、蓄電し、電気と併用して走ることができるらしい。これは厳密に電車であるとはいえないと僕は思うのだけれど、完全なる汽車ともいえないかもしれない。でもなんと言っていいかわからないし、ハイブリット汽車というよりもハイブリット型車両というべきなのかもしれず、そんな長ったらしい呼び方で定着するはずもなく、間違ったまま電車と言ってしまっている人に対して、ちょっとだけ電車と言っても必ずしも間違いとはいえないよ、程度のインパクトをもつものなのかもしれない。なんだか複雑な心境にさせられるのだが、悪意のあるものではあるまい。環境に配慮しているなどと言うが、実際は重量が重くなり、山間部の多い場所ではかえって非効率とも聞くし、ある程度の格好つけというところであろうけれど、やっぱり列車で完全ハイブリット車両を作るというのは、あんがいにむつかしいことなのかもしれない。そういうことを鑑みて考えると、列車を作っている会社に比して自動車会社というのは、それなりにスゴイ技術力があるということなのだろう。
 ところで村上レディオで村上春樹さんが、記者会見のことを「汽車会見」だと長らく思っていたと語っていた。子供のころのことなんだろうけど、なんだか嘘っぽいな、ということはさておいて、汽車で会見を行うと、確かに面白さはあるとは思った。実際にやってしまうと、大して面白くもないのは確かそうではあっても、そんな風に一瞬考えてみると面白いという類になるのだろう。作家のウソ性という語りであるにせよ、そういうものから創作は進んでいくものなのかもしれない。
 ところで電車という呼び名だが、やっぱり今どき汽車は無いだろうという思いと、「列車に乗る」という語感も、ちょっとまどろっこしいものがあるためなのだろう。ましてやディーゼル車、なんて論外になってしまう。田舎は列車どころか単車で走っている場合なんかもあるのだから、なおさらである。島鉄なんかは絶対単車だろう。島鉄に乗っている人が電車と言っているとしたらかなりのお笑いだが、たぶん乗ることも無いので確かめようがない。あれは料金を下げるべきであろう。
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母からの励まし

2023-11-12 | 母と暮らせば

 母とは一緒に暮らしながら、生活パターンなども違うし、そもそもそれなりに疎遠になってはいた。そういう中にあって選挙になると、ますますその距離は離れていくような感じになっていった。期間中は朝から街頭で手を振らなければならないので、母が寝ているうちに家を出る。いや、考えてみると平日ご飯を食べて、出勤時に母が起きている方が稀なので、それは習慣的には変わらないことかもしれない。街頭朝立ちをして、そのまま出勤することもあるが、一度自宅に戻り、食事など整えてからという日もあった。そうすると母が食卓で遊んだように食事していることもあって、やあやあ、ということになる。母から「お先に食べて失礼します」と言われる。食べてもらって何の問題も無いし、そうおっしゃいませんようにと言うけれど、我々の挨拶は非常に慇懃に丁寧になされるようになっている。いったい僕のことを誰だと思っているのだろうか?
 やっと日常に戻って食卓を囲んでいると、僕がいることで、なんとなく気まずいような空気が流れる。僕ら親子は二人ともよくしゃべるので(つれあいは、相槌を打ってくれるのであるが)、片方がしゃべらなくなると、その隙をついて一方的な話になる。僕としては、別段気まずい訳では無いが、さすがにいろいろと疲れたし、考えることもある。そういう空気感で黙っていると、なんとなく勝手が違うことになってしまうのか、つれあいから話を促されたりしている。しかしどうにも何にも話したくない。心の傷と言っては何だが、頑張った人間というのは、それなりに思うところがある。もちろんそんなことを言うと、つれあいだっておんなじことなのだが、母との関係を思うと、なにか僕が話すべきなのであろう。それで「こんばんは」とか何とか食事の途中で挨拶をすると、やっと元気になって母が語りだすことになった。きっかけというのはあるのか、それからはなんだかわからないが、話が爆発して止まらなくなっていった。もちろん聞いたことのあるものばかりなのだが、その話のつながりに何の脈略も無いものがこんがらがっていて、なんの知っている話なのか予測がつかない。そうして歌を歌ったりなんかもして、大変な騒動になっていったのだが、やっぱり僕としても、気分が乗らないままだし、見ていて呆れる思いもするが、まあしょうがないので、静かに飲むよりないのである。お通夜よりもましか、ということで、母からの励ましということにしておこう。
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万歩計の調子が悪い

2023-11-11 | 散歩

 今も日中は暑いのだけど、風が幾分涼しくなっているのと、やはり朝夕はずいぶん気温が下がってきている。まさに散歩シーズンの到来である。適当に湿度も低いし、サラッとした感触が、歩いていて本当に心地いい。これまで暑くても歩数を伸ばすためという義務感だけでなんとか歩き続けていたが、今は歩いている時間と体感が、それぞれ心地よい。人間にとって(僕にとってだが)今が一番過ごしやすい季節であることは間違いなくて、そうであれば散歩するのにもいい季節なのである。
 せっかくそんな中なのに、持っている万歩計のボタンの調子が悪いのである。過去の記録などを見る分には問題ないのだが、それらを見た後に、現在の歩数画面に戻すボタンの反応が悪くなっている。何度も押したり、ちょっと角度を変えてみたり、強く押したり、などを繰り返しているうちにやっと戻る勘どころのようなものに当たる。そうでなければ戻らない。戻らないと現在の歩数が分からなくなるので、困るのである。アプリのようなものと連動しているので、パソコンでそちらにつなぐと問題は無いのだが、持っている状態で現在が分からないのは不安になる。もっとも、それでも歩かなければならないので、だいたいの時間をめどに歩数は予測はできるのだが……。
 すでにこの万歩計は製造停止しているらしく、新品は買うことができない。実は今使っているものは二代目であり、十数年は使っているかもしれない。二代続いて20年以上にはなる。一代目はアプリとの接触が悪くなって買い替えたのだが、やはりこれくらい使っていると、不具合が出てくるものなのかもしれない。新品は無いのだが、中古品というのがまだ市場には出回っているようで、新古品というか、売れ残っているようなものを、いまだに扱っている店があるようだ。ネット時代になるとそれらの情報もある訳で、なんとか買い替えも可能であることは知っている。このメーカは、この万歩計の後継機種は作らずに、安価なものにシフトしたようで、要するにこのような万歩計は現代では売れなくなってしまったものだろう。原因はおそらく携帯電話のアプリ(もしくはアップルウォッチなど)で、わざわざ別に万歩計を買うような世代は、僕のような人間か、おそらくだが高齢者であって、そのような人向けの万歩計というのは、シンプルに扱いやすく、だとか、メモリを見やすくだとか、そうして安価路線である、ということになるのだろう。中古市場でも数千円はするし、新品なら1万は当時していたので、普段歩きの万歩計にそこまでは必要なくなったのかもしれない。また当時はネット上とも連動して、健康指導なども受けることができたが、それらのサービスも終了している。会社としては、清算されつつある部門であるのかもしれない。
 ということなのだが、いちおうネットの買い物かごには中古のものを入れてはいるのだが、ボタンの調子が悪いだけで、歩数のカウントができなくなっているわけではない状態をもって、買い替える勇気までは湧いていない。今は快適に歩けているし、もう少し騙しだまし、これと付き合っていこうかな、という感じなのである。
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マリファナと青春   バッド・チューニング

2023-11-10 | 映画

バッド・チューニング/リチャード・リンクレーター監督

 70年代のテキサスの高校生のバカ騒ぎを、そのまま演出した映画。何故かアメリカではヒットしたらしいが、日本では未公開だったのだろう。改めて観てみると、これは日本ではウケないという配給側のあきらめがよく分かる。今となっては凄いキャストなのだが、当時は無名の俳優ばかりが、マリファナ吸って、ビール飲んで、時にはモノを破壊して騒ぎまくっている。多少のエッチもあるのかもしれないが、基本的にはバカ騒ぎばかりの映画である。これにいったい何の意味があるのかさえよく分からないし、実際それらの会話の中に、彼らの当時の今が語られているとはいえ、なにか重大なメッセージが隠されているわけではない。これだけみんなフラフラになりながら馬鹿ばかりやっている高校生というのは、実にアメリカが豊かだということに過ぎない。でもまあ、それでも悩んではいるんだよ、ということかもしれないが。
 やっていることは無茶苦茶だが、しかしアメリカにも先輩後輩の厳しい序列があって、高校生に上がって来る下級生には、意味なくケツバットの洗礼をしたり、王様ゲームのような無茶難題を吹っ掛けて懲らしめて遊んでいる。序列に反抗する向きも無いでは無いが、基本的には逃げ回る以外に手が無い状態だ。今でははっきりといじめや虐待に当たるだろうが、公然と行われていた時代があったのだろう。高校生とはいえ、皆が車を乗り回し、酒を飲んでマリファナを吸う。やっぱりちょっと、日本では考えられないハメの外し方である。よくまあこれで死人が出ないものだと、呆れる。警察も動くが、まあ、注意程度といった感じだ。実に寛大なのである。
 でもまあ大人の階段を上る段階で、親のすねをかじりつつも、これからの進学もあるし就職もある。フットボールで頑張らなければならない現実もあるし、その中での厳しい縛りもある。自分たちは主体的に何を考えて、そうして実行していくか。だらだらとマリファナ吸いながらしゃべりあい、そうしたことと一時逃避しながら、頭から離れないことに向き合わざるを得ない、ということなのだろう。実にくだらないことを考えながら、しかし彼らはある意味で素直である。小さなことにこだわって喧嘩して、しかし周りの目を気にし、慰めてくれる仲間に救われる。そういう意味では、やはりどの国の若者も、そんなに変わらないとはいえるのかもしれない。実は日本人にはそんな体験無いから、よくわかんないんだけど……。
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パスワードを複雑に作る方法

2023-11-09 | つぶやき

 先日ホテルの支払いをカードでやろうと思ったら、暗証番号が違うという。いつも使っているはずなんだけどと思ってちょっと動揺してしまったが、まあ、サインに切り替えて事なきを得た。そのように違った方法での決済はできるものの、やっぱりパスワードって厄介である。
 カードもいつの間にかたくさんたまってしまっていて、ぜんぶパスワードが必要なものばかりではないだろうけれど、必要なものは10枚近くあるのではないか。全部覚えられるはずが無いという気もするが、皆さん覚えておられるのだろうか? 現代人が普通に生きていくためには、ある種の才能や能力が必要とされていることは間違いない。それにカードに限った話では無くて、パソコンの作業にもさまざまなパスワードが絡んでいる。毎日これらに苦しめられていると言っても、過言では無かろう。
 覚えられないのは複数あるだけでなく、複雑化したものを作るように強要されているからでもある。さらに定期的にこれを変えろ、と迫って来る銀行系のセキュリティもある。彼らは本当に無責任である。どれもこれもセキュリティの問題があるからで、安易なパスワードは危険だと脅されている。自分の名前なんてもっての外らしいし、誕生日も危ない。妻など家族の名前もそれなりに危ないというし、そんなものって調べればそんなに簡単にわかるものなのだろうか? 知り合いなら簡単だというのは分かるけど、SNSなどの問題もあるのかもしれない。情報って駄々洩れって感じの世の中になっているからこそ、パスワードが重要なのだろう。
 しかしながら問題は、これを覚えなければならないことである。忘れないために覚えている単語を使い、数字や記号も思い出しやすい、自分と関連のあるものにしたいのである。また1234のようなものは誰もが思いつくものらしく、今はセキュリティに引っかかるものが多いようだ。それだけ安易な考えの人は少なくないようで、実際にこれは使われている数もそれなりに多いのだそうだ。だからセキュリティは容易に突破されている日々があり、被害も甚大になっているということなのだ。
 しかしながら安全なパスワードをつくる、コツのようなものはあるらしい。例えば自分の好きな動物であるとか、好きな食べ物であるとか。犬が好きならdogでもいいしinuでもいいい。それに好きな食べ物を組み合わせて、dog curry なんてことにしてもいい。これに適当に好きな素数とかを組み合わせたら、かなり完璧だろう。まあ、これを複数作ると考えると、やはり頭が痛いのだが……。
 忘れるかもしれないからメモに書いたりするんだけど、これもすぐに失くしてしまう。記憶術の本を引っ張り出して暗記する術を学んだりするけど、これも実際には一定期間過ぎると(使わないと)かなり忘れてしまうようだ。好きなものや嫌いなものなど複数ストックしておいて、それをどうにか組み合わせて忘れない方法を編み出すと、ハウツーものとして役にたつと考える人が、教えを請いに来るかもしれない。まあ、その前に自分で会得する必要があるのだけれど。
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ひっくり返して聴く意味

2023-11-08 | 音楽

 ツェッペリンのレーベルが75周年ということで、アルバムの四枚目(実際には名前はないアルバムだが、フォースシンボルズ、とか単純に4と言われている)がリイシューされて再販されている。アナログのレコードで透明なやつらしい。日本がどうなっているかはよく知らないが、英国などではアナログのレコードはまた聞かれるようになっていて、若い人でも買うんだそうだ。もちろん僕は、中学生の頃にこのレコードは買っていて、黒い奴だが今も持っている。もっとももうプレイヤーは動かしてない(倉庫にしまい込んでいる)ので聞くことはできないが、CDも持っているし、おそらくだがリイシュー版も探せば持っていると思う。僕はコレクターでは無いのでもう買うつもりは無いが、もちろんファンだから、こういうニュースを聞くと心躍るものがある。ピンクフロイドなんかは、また当時のアルバムが今ヒットチャートに躍り出たりしているわけで、古典ロックであっても、現代で根強く再評価されるだけでなく、若い人でも聞くようになっているのである。もっとも知られているロックの名曲ともいわれている「天国の階段」が収められているツェッペリンのアルバムなので、こういう事になっているのであろう。
 ところで今となってはサブスクで一曲のみをピックアップして聴かれることがほとんどなんだろうけれど、以前のアナログ盤というのは、A面とB面に分かれていた。CDの登場でそれすら忘れられていると思うのだが、ツェッペリンのこの4枚目のアルバムというのは、いわゆる前衛的な曲と構成になっているのが特徴になっていて、A面の展開と、B面の展開ははっきりと分かれている。A面の最後に最高の形で「天国の階段」を聴くことによって、B面の何やら難しい局面へと、レコードをひっくり返して臨むことが大切だったのである。ツェッペリンに限らずだが、ビーチボーイズのペットサウンズだとか、ビートルズのサージェントペパーズなんかも、そういうアルバムの構成を、凝りに凝って作られていて、そういう意図も理解しながら聴くことによって、我々はロックの理解を、哲学的なものに高めていったのである。まあ、当時はよく分からないながらも、勝手にそんなことを考えていた、ということではあるのだけれど。だからCDで古いアルバムを聴くようになって、ずいぶんと印象が変わってしまって、もうあのような意図を読み取れることが少なくなったことに、違和感を覚えたものなのである。いやもう手間はかからないので、それはそれで元に戻るようなことは無かったのだが。
 ということで、単に昔のことを言っているだけのことなのかもしれないが、アルバムというのは曲順も大切だし、構成も大切である。ベスト盤もいいかもしれないが、出来ればその時に、彼らがどうしてそういう事にこだわって作ったのか、ということに注力しながら聴くということも、大切なのでは無いだろうか。
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イノシシとの距離が近づき過ぎている

2023-11-07 | HORROR

 イノシシの被害が深刻化しているらしい。イノシシの数が増えていることによることは間違いなさそうだが、人間とイノシシの暮らしている領域があいまいになっていることに起因するものともいえる。そもそも人間はイノシシの住む領域に既に侵入しているのであり、またイノシシの方も人間の側に入り込んで危険を感じなくなってもいるという。いわゆる成功体験が重なっていき、人間の住む領域で暮らしていける個体が、増えてきているのかもしれない。
 イノシシは雑食性で、人間の住居近くに出てくるだけで、それなりに問題が多い。一般的にはコメなど農作物への被害が話題に上がるのだが、人間の防災上の、いわば命にかかわる問題とも関連してきているのだという。
 それというのも、斜面等あちこちを掘り起こすので、人間が水はけをよくするために作っている側溝などの水路が、埋まってしまっているところが増えているのだという。側溝にもいろいろあって、斜面などの水を逃がすことで、地滑りなどを防ぐ役割もあるのだそうだ。近年は大雨被害などが増えているような印象があると思うが、大量の雨が降ったり、長く雨が続いたりすると、斜面などが地滑りしやすくなる。こういうものは大災害つながることが多く、住宅地に近い場所が滑ると、多くの人命が危険にさらされる。ひとの近くの人為的な防災インフラにイノシシが影響を与えているということは、由々しき事態なのだ。
 また、ひとの近くに出没することで、公園などで過ごしている人に、マダニの感染被害をもたらすことがあるという。マダニの感染症にもいろいろあるらしいのだが、野生動物がもたらす未知のウイルスなどもある可能性もあり、個人差もあるが、感染症により重篤な状態に陥る人もいるのだという。亡くなる人はもちろん、後遺症に苦しめられる人もいる。マダニに噛まれて6日から二週間程度潜伏期間を経て発症する場合もあるらしく、その時は、噛まれてかゆいくらいに思っていても、後で恐ろしいことになったりするのかもしれない。まるでホラー映画だが、野生とのつながりを絶って生活している現代の人間には、なかなかに難しい問題なのである。
 個人的には、イノシシを敵対する考え方には疑問があるが、そのような問題を自ら招いている人間には、呆れるばかりである。ハンターが駆除したらいいという問題ではなく、地域の問題として対処していかなければならない課題だと言えよう。
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タッチパネルで注文する

2023-11-06 | 

 最近のチェーン店というのは、基本的にタッチパネルで注文するところばかりになっている。個人の店でもそういうところは増えているし、事情があってこれを取り入れているところがほとんどといっていいかもしれない。QRコードはあるものの、そもそもアプリをダウンロードしないことには注文さえできない店も増えている。客にリテラシーが無ければ、どうにもなりませんよ、というサインでもあるのだろう。
 先日もそういう店に入ってしまって、まあ仕方ないな、という感じで注文したのだが、一緒に居るご年配の方が、しばらくして店を変わろう、と言い出した。口に合いませんか? と聞くと、こういう感じで食事をするだけで、なんだか損したような気分になる、というのである。言わんとするところはなんとなくわからないでは無いが、損をするという感覚というのは初めて聞いた。それで店を変えて飲み直したのだが、まあそれで事なきを得て良かったと言えばよかった。
 しかしながら若い人がいると、これはこれで注文がすぐ済んで、おかわりもすぐである。タッチパネルの良いようなところは、一方通行だから、まず店員さんを呼んで、という手間が無く次に料理が来る。皿が溜まる傾向にはあるものの、料理を持ってきたついでに何か持っていく場合もあるので、そこまで気にする必要は無いかもしれない。
 ファミレスなどは、料理もロボットが持ってきてくれるようになった。目新しさもあるし、とりあえずこれでいいのだな、というのはだいたいデザインの感じで分かる。しかしながらこれも、ある種の角度のようなものがあるようで、ボックスではなく椅子席が続くテーブルの中間で、いつまでも客が自分の食べ物が運ばれてきたことが分からずに、数分停まっている場面も見たことがある。僕らはそれを見ていたので、つれの人が知らせに行ってやっと気づいてくれた。ロボット君は律義ではあるが、その辺のサインのようなものが、今一つ分かりにくい場合があるのかもしれない。
 人件費等の問題もあるし、サービス業は人余りでもあるらしいし、さらに他の業種は人不足である。限られた人的資源は、うまくマッチングしない限りいきわたらない時代に入ったと言われている。省力化できるところは頑張ってもらって、さらに価格もお手頃のまま維持できるように、ということのようだ。それは消費者の利便性を兼ねている、と考える必要があるのだろう。人がサービスすることの贅沢さという、飲食業の差別化が進んでいくのかもしれない。
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警告音で慌てさせられるらしい

2023-11-05 | HORROR

 先日あるご年配の方から、パソコンで困ったという体験談を聞かされた。某会の事務局のパソコンでちょっとした操作をしようとしていたのだが、何もしていないのに(たぶんそんなことは無いだろうけど)サイレンのような警告音と共に、ウイルスに感染したので、セキュリティのアプリを緊急にダウンロードせよ(たぶんそんな感じのことらしい)と表示が出て、たいへんに慌ててしまったという。その画面を消そうにもなかなか消えないし、何しろ警告音が鳴りやまない。いろいろ考えたが、事務所の電話でこの会の事務局の人に電話したら、とにかく電源を消せということになって、再起動してもその画面が出るので、コンセントから電源を抜いてしばらくしたら治まったという。まあ、実際にソフトをダウンロードしたりしなければ感染しているとは考えにくいが、そもそも備わっているセキュリティソフトで感染の有無がわかるかどうかまでは、よく分からない。
 しかしまあ、対応としては間違ってなかったのではないでしょうか、などとある程度無責任に応じながらも、ほんとにこんな困った輩は、後を絶えないものなのだな、と思った。慌てさせて、平常心を失わせたうえで、誤った判断に導こうとする手口なのだろう。いわゆる「オレオレ詐欺」と似たようなものだ。
 他にもこんなメールが来るんですが、大丈夫でしょうか? という内容が「当選おめでとうございます。○○円当たりました。つきましては口座番号云々」とか「お荷物受取に関する通知」であるとか、まあ、わんさか来ておられる。危険だという噂を聞いていたので何もしてない、とは言っておられたが、迷惑メールに振り分けるべきであろう。
 でもまあ、確かにこんな危険がいっぱいの地雷原があちこちにあるような時代に、いつの間にかなってしまっている。僕らの若い頃には、統一教会とかオウム真理教とか、アムウェイとかのネットワークビジネスを騙るねずみ講くらいしかなかった。それらは確かに知り合いだけどたいした友達でもなかったひとからいきなり連絡が来て会おう、とか言われてのこのこ出ていくと勧誘されるという基本の落とし穴があったものだが、ネット時代になると、実に無差別に節操なく厚かましい。もう面倒で仕方ないが、根絶やしにするのも難しそうである。あくまで自分の身は自分で守らなければならない。妙な時代の中でサバイブしながら生きていくより仕方ないようである。皆さん、どうぞお達者で。
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ご近所の文通事情

2023-11-04 | 感涙記

 以前は手書きで結構いろんな文章作ってたもんだとは思うものの、今となっては今昔の感がある。ほんとに遠い昔のような……。
 しかしながら手書きで書類を作っていた時代に働きだしたので、当時はほんとになんでも手書きで行っていた。仕事の企画書はもちろん手書きだったので、先輩の書いたものをほとんど盗んで書いた(今だって基本はそんなもんだろうけど)。伝票も手書きだったから、紙がどんどんかさばっていく感じだった。ほどなく、というかワープロがありはしたが、ワープロを打てるだけで、なんとなく周りの空気が「おおッ」という感じになった。打てるんだったら、ということで、これをワープロにしてくれとか頼まれたりして仕事が増えた。文書作成のような仕事は、仕事の本分ということにされておらず、一通りに仕事が済んでから打つことになる。なかには表を埋め込んだものなんかもあり、苦労して打っていると、いつの間にか夜の10時という感じになったりした。なんだか不条理感があって、イライラしたものである。そんな風に苦労して仕上げて翌日上司に見せると、「いや、もっとこうなんたらかんたら……」言われて、ほんとに気分が悪くなったものである。でもまあそのうちだれでもワープロくらいは……、という時代に変わっていき、作成した文章はフロッピーディスクに記録しておけるので便利になった。ひな形がたくさんできると、実に仕事が捗る気がして気分が良くなった。
 実は最初のころはひらがな入力というのをやっていた。その方が早いというふれこみがあって、実際日本語の文章であれば、確かに速い(ように感じた)。しかしながら数字もあるし、ブラインドタッチで入力する必要性が感じられて、段々とローマ字入力へ変更していった。最初はちょっと苦労した記憶があるが、これもブラインドタッチのかっこよさもあって、いつの間にか覚えた。まだ僕も若かったのである(たぶん)。
 ほどなくして、馬鹿デカく高価であったパソコンが主流になっていき、ウィンドウズが出ると、マックより数段値段も安くなって爆発的に売れた。一気に職場のワープロは、パソコンに取って代わった。まだ一人一台というよりも、皆で使いまわすのではあったものの、パソコンの前に座っているだけで、仕事をしている気分にはなった。まだ何でもかんでもパソコンという時代では無かったにせよ、これで将来は何でも仕事ができるという気分は味わえた。実際今になってみると、パソコンなしでは基本的な作業は何もできないことになっているが、事務仕事ばかりやっているわけでもないし、結局書類はあるものの、パソコンで何かやった結果であるという感じではある。いまだに手書きで報告書などが上がってくることがあるのだが、かなりギョッとしてしまう。いったいこれは何だろう?って感じではあるが、ある会の報告書等のやり取りは、いまだに手書き複写方式だったりする。これはある種の役場なのだが、いまだに利用している人が高齢者中心だからであるらしい。一時期パソコンでやり取りしたいと申し出て、数回メールでやり取りしたが、僕と数名だけしかやってなくてかえって面倒なので手書きでお願いします、と言われる始末である。めんどくさいので、出来ればこの会は辞めたいが、それは困るのだそうだ。困るのはこっちなんだけど……。いまだにファックスのところもあるが、これも高齢の問題のようである。別段そういう批判を言いたかったわけでは無いが、変えるものは変えて欲しい。
 僕の住んでいる町内会の班では、新しく越してきた人が、そのまま班長になった。ここではいまだに手渡しの回覧板が回って来る。20世帯弱の集団の上に町内会の班だから、皆ご近所である。そうしてこの新しい班長さんは、僕らより若い世代の人だが、なんと回覧板に手書きの文章(いわゆるメッセージ風である)が添えてあるのである。いろいろあるんだけど、ご自身の仕事のこととか近況などが書かれていて、まあ、よろしくという感じである。読んだ手前なんか書き込みたくなるのだが、僕の家は実はお隣で、最初から何か書くと、後の人にも影響があるのではないか、などと邪推して、なんとなく書けない。そうであったのだが、つれあいに聞くところによると、後でこのお手紙のようなものに返信の文章を入れる人もいるのだという。町内会文通である。実のところその内容までは知らないのだが、手書きの文章には、そんな力があるのかもしれないな、とは思うのであった。
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ここには無く、ここにしか無いもの

2023-11-03 | つぶやき

 マイタウンの課題として、特に若い方の不満として多く聞かれることに、「休日などに過ごす遊び場がない」というものがある。買い物する場所がない、というのもあるし、映画館がない、というのもある。具体的に商業施設が少なく、たとえば「ラウンドワン」が無いという。そういうものを誘致すべきではないか、という。
 確かにそうかもな、とは思う。僕も若い頃にはそう思っていたかもしれない。ライブハウスなんかも無いという意見もあったし、そもそも有名どころがライブにやってくる機会などほとんどない。まったく無い訳ではないだろうが、極端に少ない。
 おそらくだが、この程度の人口規模で、多くの人が集まるような興行を組むというのが、まずは困難なのではなかろうか。地元の人が主体となって、一所懸命資金をかき集めて興行を打つという必要がありそうで、そうして大相撲やサーカスが来るというのはあるかもしれない。比較的経費の掛からない可能性のある寄席であるとか、生演奏を伴わない歌謡ショーというのは可能かもしれない。
 僕も若い頃にそのような不満を持っていたようで、長崎市や、遠くは福岡まで、目当てのライブを見に行った記憶はある。その経験は楽しい思い出だったかもしれないが、はしゃいで汗だくになり風邪をひいたりしたと思う。着替えが必要だし、そのような荷物を伴っての準備も必要だ。さらに遠方に行く経費も掛かる。田舎の若者には、そのような負担が大きいともいえる。結局一緒に行くような仲間も減り、自分一人で行くかというと、そういう選択をしなくなってしまったということか。
 また、途中でそのような仕組みにも気づいた、ということもある。そのようなカルチャーというのは、そもそも都会のものなのである。洋楽雑誌などで外国人のライブ情報などを見たりもしていたが、当然ながら東京中心で、ちょっと大規模でないと、大阪や名古屋でさえあまりない。日本においての文化の多くは、実は日本ではなく東京である必要がある。そうして東京に集約したのちに、地方に情報だけ届けられる。あとはメディアの配信やら配給があり、そういうものに乗っかる以外に地方でのエンタメの楽しみはない。そういう事に気づくと、もう特に欲しがる気持ちは無くなった。無いものをねだっても無駄なことである。ラジオを聞いてCDなどを買う。今はそれさえあまりしないが、要するに住むところを変える以外に解決できる問題では無いのである。ここに居ながらという課題とは無縁ということになろう。
 でもまあ歌舞伎の趣味がある訳でもないし、オペラなどを見たいわけでもない。恒常的な小屋ものの演芸も、出張の折などに見る程度でも不満はない。東京には確かに場所ごとに小さな小屋でも、情報次第では人だかりができるようなイベントが組めるが、基礎となる人口規模が違いすぎる。インフラどころか交通手段も違う。これは根本的な課題解決には至りそうにない。
 しかしながらそうであっても、そのような娯楽以外ならどうなのだろうか。いわゆる自然を楽しむエンタメというのは、田舎でなければ上手く行かないものも多いのではないか。サーフィンには向かない場所だが、釣りやキャンプは可能だ。サイクリングもできなくなさそうだし、走るにも問題はない。登山もできるし、ハイキングも可能だ。ボウリング場だって無い訳ではないし、いわゆるコストコは無いのかもしれないが、いつも行かなくてもいい場所ではないか(よく知らんが)。多少しけているかもしれないが、イベントはそれなりあるし、子供連れでもそこそこ楽しめるものはあるだろう。そういうものじゃない、という声も聞こえそうだけれど、そういうものこそ好きな人もいないではないのではないか。それは必ずしも多数派ではないのかもしれないが、得難い楽しみがここには含まれている、ということなのである。主体的に楽しみを考えるとすると、ここにはいったい何があるのか? ということになろう。そうしてそれは、作り出せるものなのではなかろうか。
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日本的エンタメ性「鉄板焼き」

2023-11-02 | 時事

 特に米国人なんだろうけど、「鉄板焼き」と言えば、日本的なニュアンスがかなりあるらしい。それは何と言っても、鉄板焼きを派手なパフォーマンスで演出するレストランが全米に亘ってチェーン展開しているのが、日本人の創業の店だからだ。僕は子供のころに映画で観て知っていたが「ベニハナ」と言って親しまれている。なんとなく日本人にはピンとこないところだが、沖縄なんかにもそんなスタイルの店は結構あって、米軍や日本人観光客も楽しめるレストランになっている。日本人から見ると、たとえ創業者が日本人だからとはいえ、実にアメリカ的な店のように見える。基本的には肉を焼いたりシーフードのバーベキューだったりもするし、炎も派手に上がる。日本の店でも外国人にウケる演出であることは間違いない。最近は京都なんかに炎が上がるラーメン店なんかもあるというから、こういうのは外国人観光客ウケを狙った演出であることは間違いない。
 そうとはいえ、このような客と対面式の接客スタイル自体は、寿司店を参考にして編み出したともいわれている。確かに日本の寿司店の多くは(回転寿司ではない場合)、カウンターを隔てたオープンキッチンの料理人と対面式が多い。客はマスター(大将でも何でもいいが、一般的には何というのだろうか?)と対話しながら、寿司を握る技を含めて、食事を楽しんでいるともいえるかもしれない。一概には言えないまでも、一般的な割烹店より寿司屋の方が割高なのは、そのようなパフォーマンス料も含めてということなのだろうか。よく分からんが……。
 鉄板焼きにも実際には様々なスタイルと料理があるが、やはり縁日なんかで見かける「焼きそば」というのも、なじみ深いものだろう。外国人はこれをアニメなどで見て、あこがれるのだという。確かに日本のアニメはそのまま海外でも人気だというし、日本に来る観光客の中に少なからぬアニメファンがいるのだという。鯛焼きも人気ではあるが(あれはいったいなんだ? という意味で)、日本の祭りで焼きそばを見かけると感動するものらしい。そうして食べてみて、それなりに美味しいので二度感動する。まあ、確かにああいうのを買って食べるのは楽しい訳で、それをなんで祭りでやっているのかはともかく、僕らも外国人も共通して楽しめる食べ物なのかもしれない。
 後はやはり「お好み焼き」があるのだが、僕の子供のころには基本的に大阪風というのが定番だったように思うのだが、今は広島の勢力も拡大している模様だ。ちょっとというかかなり違うスタイルで、広島風は作るのが難しいというか技術が必要なので、基本的に店の人が作ってくれた完成系が目の前に出されるが、大阪風だと、自分で具材を混ぜ、自分で焼いたりする。これを「なんで客が作らなければならんの?」と思うところが面白いらしい。そんな料理、他の国ではまず考えられない発想らしい。まあ、そうかもしれませんね。
 大阪風のお好み焼きは、そういう意味では違った意味でのエンタメ性があるのかもしれない。日本の鉄板焼きの多くは、そのようなエンタメを楽しむ要素がウケている要因だというのが、実は日本的という不思議なものになっているようだ。シャイだと言われ、自己表現が下手だと言われる日本にあって、なんだか不思議な日本的なのではないだろうか。
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