小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

八十九番…☆☆式子内親王☆☆…

2015-10-26 | 百人一首

式子内親王(1149~1201)
八十九番 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする


後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。
歴史に詳しい人はこれを読んだだけで大変な環境にいるお姫様だとお思いでしょう。あの源平争乱の中を生きてこられたのですから。
一方、和歌に詳しい方はこの百人一首の編者である藤原定家の大切な恋人であったことを想起されるに違いありません。

呼び方は「しょくし」なのか「しきし」なのか現在もまだ確定していない式子内親王ですが『新古今』時代の歌人の中でも出色の歌人と位置づけられています
から現代においてのフアンもさぞ多いことでしょう。
平治元年(1159)十一歳で賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に斎王として奉仕します。斎王というのは天皇の代わりに神宮にお仕えしていた女性のことで、天皇の娘や姉妹、従姉妹など、未婚の親族から選ばれ斎宮で暮らしていました。
式子は二十一歳の嘉応元年(1169)に病気のため斎王を辞して宮中の奥深くで静かに暮らしました。
治承元年(1177)、母が死去し、治承四年(1180)には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死します。
元暦二年(1185)に准三后の宣下を受けますが、建久元年(1190)頃に出家。法名は承如法。
同建久三年(1192)、父の後白河院が崩御し時代は大きく変わります。

藤原定家との出会いは治承五年と文献には出ています。
当時の上流階級では和歌は大切な教養の一つでしたから、幼い頃から学んではいたのでしょうが、体が弱く降嫁のお話も断り、父の後白河法皇の采配による源平の騒ぎを悲しく見つめていられたのでは和歌を作ることだけが唯一の慰めだったのかもしれません。
和歌の師は藤原俊成で、彼の歌論書『古来風躰抄』はこの式子内親王に捧げられたものといわれています。
また、俊成の息子である百人一首の編者である定家との出会いは同じ道を志す者同士としてとても救われたことでありましょう。何度も定家が御所を訪ねています。
そんなところから八歳年下の定家と式子が恋愛関係にあったという説が多かったのですが、この度、新しい資料が発見されて実は十三歳も年下であることが判明して研究家達を戸惑わせています。
また、一説には法然とも親しかったのですが、こちらは二十一歳も年上ということで恋愛関係はないとされていましたが十六歳の差ということで微妙な見解が生まれそうです。
和歌というのは背後関係によって言葉の意味も捉え方が全く違ってくるものですからこうした問題が起きてくるのでしょう。

この八十九番の歌は「私の命よ。絶えるのなら絶ってしまっておくれ。ずっと生き続けていれば秘めた恋を隠す力がよわってしまうでしょう」といった意味ですが、あきらかに誰にも言えない恋をじっと噛みしめて煩悩していている心の叫びを感じますね。では、そのお相手は?となると決め手がありません。
ですが、定家の方は畏れ多くも生涯を通して憧れ恋い慕っていたようで、式子にもそれは十二分に伝わっていたものの立場上それに応えることができなかったということのようです。

はかなしや枕さだめぬうたたねに ほのかにかよふ夢の通ひ路

病弱な体にさらに病いが襲い、建仁元年(1201)の正月二十五日、生涯独身を通した薄幸な生涯の幕を閉じられました。
定家はこの時から歌を作る意欲をなくしていったといわれています。
勅撰入集は百五十七首で、他撰の家集『式子内親王集』があります。

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