西武電車を見て育った私にとって、家の都合で沿線を離れ、引越先の京浜東北線は全く別の世界でした。
とは言っても、当時はまだ73系が健在でした。その吊り掛けモーターの音もやがて聞かれなくなり、103系ばかりの京浜東北線に、50両の101系が中央線・総武線からやって来た時は、103系の低い喧しい音に比べ、高く軽い音は心地良いものでした。
線路沿いにあった中学の教室の窓からよく眺めていたものでした。
授業中も、101系の音に、席の離れた101系好きの友人と相槌を打ったものでした。
そんな中、特に好きだったのがクモハ100-18でした。
初期製造車で、京浜東北線に移ってからも暫くはパンタグラフが唯一、PS-13でした。
写真撮影時は残念ながら、PS-16化されていましたが…
1976年1月22日 浦和電車区 クモハ100-18他
わずか50両しか無いにも関わらず、編成には10両貫通あり、横浜側先頭がクハ100のものあり、サハ101-200 の2両続きなど、結構いろいろと楽しませていました。
たまには10両貫通編成と3+7編成を繋ぎ代えた変則編成が走ったり、入場中のサハに変わってMc-M’の入った8M2T変則編成が出たりと、なかなか興味尽きないものでした。
また、一次関西線の101系6両×2編成が借り入れられ、これを6+4の変則でウグイス色の101系が走ったのには驚きました。
ただなぜ関西線の車両がわざわざ上京したのか、今でも謎です。
そんな101系の変化を追いかけ、ウラ電(浦和電車区)にはよく行ったものです。
再三の写真撮影にも快く受けていただき、電車区内を歩き回ったものです。
当時の運転事務所の方には本当に感謝しております。
その101系も、南武線の新性能化などのため、数年で103系に置き換えられてしまいました。ほぼ同時期、私も西武沿線に引越すことになりましたが…
1977年2月20日 浦和電車区 クモハ100-120他
電車区内では実際には使用されなかった、こんな方向幕も見られました。
とは言っても、当時はまだ73系が健在でした。その吊り掛けモーターの音もやがて聞かれなくなり、103系ばかりの京浜東北線に、50両の101系が中央線・総武線からやって来た時は、103系の低い喧しい音に比べ、高く軽い音は心地良いものでした。
線路沿いにあった中学の教室の窓からよく眺めていたものでした。
授業中も、101系の音に、席の離れた101系好きの友人と相槌を打ったものでした。
そんな中、特に好きだったのがクモハ100-18でした。
初期製造車で、京浜東北線に移ってからも暫くはパンタグラフが唯一、PS-13でした。
写真撮影時は残念ながら、PS-16化されていましたが…
1976年1月22日 浦和電車区 クモハ100-18他
わずか50両しか無いにも関わらず、編成には10両貫通あり、横浜側先頭がクハ100のものあり、サハ101-200 の2両続きなど、結構いろいろと楽しませていました。
たまには10両貫通編成と3+7編成を繋ぎ代えた変則編成が走ったり、入場中のサハに変わってMc-M’の入った8M2T変則編成が出たりと、なかなか興味尽きないものでした。
また、一次関西線の101系6両×2編成が借り入れられ、これを6+4の変則でウグイス色の101系が走ったのには驚きました。
ただなぜ関西線の車両がわざわざ上京したのか、今でも謎です。
そんな101系の変化を追いかけ、ウラ電(浦和電車区)にはよく行ったものです。
再三の写真撮影にも快く受けていただき、電車区内を歩き回ったものです。
当時の運転事務所の方には本当に感謝しております。
その101系も、南武線の新性能化などのため、数年で103系に置き換えられてしまいました。ほぼ同時期、私も西武沿線に引越すことになりましたが…
1977年2月20日 浦和電車区 クモハ100-120他
電車区内では実際には使用されなかった、こんな方向幕も見られました。
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