■行政書士会の会報に載せる原稿が長くなりすぎたのでこれから短くするが、その前にこっちに載せておこう。
「NEWYORK そして 911」
僕がNYに住み始めたのは15年前、45歳の時だ。911事件の後帰国するまでの9年間は僕の人生で特別の意味がある。毎日が波乱に満ちた冒険の日々の連続だったような気がする。
911事件のことを僕たちはナインワンワンと呼ぶ。セプテンバーイレブンとかナインイレブンというように普通に言わないのは911に別な意味があるからだ。911は米国のエマージェンシーコールのことで日本式には119番と110番をあわせたものだ。たとえば、人が倒れていて息がないことがわかると駆けつけた救急救命士は「コール ナインワンワン(誰か911番に電話して緊急出動を要請してくれ!)」と大声で叫び人工呼吸をはじめたりするわけだ。
この電話があるとNY市内(マンハッタン、ブロンクス、クインーズ、ブルックリンとスタテンアイランドの5区をあわせた人口は約750万人)のどこにでも5分以内に消防車が到着することになっている。消防車にはパラメディカルやEMTと呼ばれる救急救命士が同乗している。ほぼ同時に警察も現場に到着する。
車で渋滞したNY市内の大通りをどうして5分で現場に到着できるのか不思議でならないのだが、僕がクラスメートの女性消防司令ブレンダの指揮する21番はしご車隊に同乗させてもらった時はちゃんと5分で到着したのには驚いた。現場では消防士の周りを若い女性の旅行客が取り巻き写真の放列。消防士はヒーローなのだ。
ブレンダはFDNY屈指の有名人。伝説の女性消防士だ。全米女性消防士協会の代表である彼女が日本の消防庁から招待された際、担任のジェニングス教授に紹介されて彼女の訪日準備を手伝った。それから3人で食事をしたりするようになった。
これに反して警察官は結構嫌われている。当時、ラドニーキング事件(黒人を白人警官が暴行しているビデオがマスコミに流れ、その警察官が陪審で無罪となったことをきっかけに大きな黒人の暴動に発展した事件)などの問題があった。NYでも無防備なアフリカンの黒人青年を過剰反応した警察が数十発もの銃弾を浴びせて射殺した事件が起きて暴動寸前にまでいたったことがあった。
クラスで先生がその事件のことについてNYPD(ニューヨーク市警察)の学生に意見を求めたことがあったが、彼らは決してしゃべろうとしなかった。我々のクラスでさえ緘口令がひかれていたのだ。
当時僕はCUNY(ニューヨーク市立大学)のジャンジェイ校大学院でプロテクションマネジメントという消防・防犯・防災に特化した危機管理を専攻する大学院生だった。全米唯一の特殊な専門学科で僕が最初の日本人卒業生だ。周りの院生は現職のNYPD、FDNY(ニューヨーク消防署)、FBI職員や会社のセキュリティーマネジャーなどがほとんどだ。
CUNYは学生教職員総数25万人を擁する巨大公立ユニバシティーで20校ちかくのカレッジで構成されている。さまざまな分野の専門大学の集合体だが、元NYポリスアカデミーのジャンジェイ(米国の初代司法長官名を冠している)はおまわりさん学校として有名で地元のニューヨーカーなら大抵知っている大学である。そのとき僕は渡米して8年目、そこが3番目の大学で、もうすっかりここの生活になじんでいた。
僕は卒業後1年間有効なプラクティカルトレーニングビザで滞在する間、コミュニティスクールの一般社会人が学べるコースでEMT試験のための緊急医療講座を半年受講した。その後、ルーマニア人の友人エイドリアンと彼の長距離トラックでアメリカ大陸横断をしたりルーマニアに旅行していて、マジソンスクエアガーデンで行われる卒業式には出なかった。ゆっくり仕事探しでもしようと思っていた矢先に事件は起こった。
僕のアパートはクイーンズのアストリアというギリシャ人の多い地区にあった。2001年9月11日のその日はお昼近くまで寝ていたのだがバンクーバーに住んでいる妹からの電話で起こされた。NYのワールドトレードセンター(WTC)ビルがアタックされたと言われ、半信半疑でTVのスイッチを入れるが、メジャーなチャンネルは軒並み見えない。インターネットで朝日新聞を見てWTCの崩壊する写真で事の重大性を知った。
WTCには主要なメディアが入っているので多くのTVが見えなくなっていた。マンハッタンに住んでいる友人に電話すると、彼等はNHKを見ているという。日本からの連絡もつきにくくなってるらしいし、NYCやNJ方面も連絡できないところがあるという。
マンハッタンのダウンタウンでも音も聞こえないし、とくに大騒ぎの様子もないが、交通遮断されているので、人が皆歩いているという。こういうときはTVやインターネットにかじりついているのが一番よい方法だと考えてずーっとそうしていた。僕の担任のジェニングス教授がエマージェンシーレスポンス専門家としてテレビでインタヴィユーをうけている。メディアは第二のパールハーバーだとさかんにいっている。
考えてみると、1993年に渡米してすぐWTC爆破事件があり、その後、セキュリティーを勉強することになったのだが、帰国前についにそのWTCが破壊されてしまうなんて信じられないことが起こった。クラスの講師を勤めたことのあるWTCのセキュリティーディレクターの彼はどうなったんだろうなどと考えた。後日彼は直後死亡したことが報じられた。
事件現場で先頭で指揮をとり続けたのはジュリアーニ市長だ。一連の企業汚職事件摘発で頭角を現した検事出身の市長はまさにこのような緊急事態に備えて連日訓練を欠かさなかったことを後日語っていた。僕は連日市立図書館にこもってニューヨークタイムズの記事の事件発生から72時間以内の全ての記事に目を通した。そして市長の足取り追跡した。
テレビを見ていると、ジュリアーニ市長の隣にはブッシュ大統領が立っていて、民主社会を脅かすテロリストはなにがあろうと必ず処断するぞといきまいていた。敵に宣戦布告することはこのニューヨークを再度敵のターゲットにする危険にさらすことになる。敵も味方も皆一緒に住んでいるのがNYというところだ。
市長は市民に熱くこう語りかけた。そもそもテロリストのアタックを防ぐことなどできないのだ。だからNYはそれ以上に強くなければならない。いつものニューヨークは何が起こっても誰も驚かない所じゃないか。我々は充分強いのだから明日は何事もなかったかのような平常な活動に戻ろう。それをやりとげるのが私の仕事だ。テレビで私の顔を見てばかりいないで明日は会社や学校に行きなさい。
事件が起きてから初めてマンハッタンに出てのサブウエイの地下から上がってタイムズスクエア駅を出たとたん、周りの情景に全身の鳥肌がたった。街中のビルというビルや広告塔がが一つ残さず3色の星条旗のデザインで飾りつけられている。誰が言ったわけでもなく指示があったわけでもない。その中に立っている自分がまさにニューヨーカーであることを実感した瞬間だった。世界中の人間が集まり、いつもは各自別々のコミュニティがばらばらに存在するこのニューヨークが一瞬にして団結し自分たちが同じニューヨーカーであることに目覚めた一瞬だった。
消防士のブレンダと連絡を取ったのは半年も過ぎた後だ。彼女のチームの5名が死亡し司令として死亡した部下の家族との対応やグランドゼロでの捜索で疲れはてている間は連絡することもはばかられる状態だった。彼女の消防分署を尋ねたとき5人のヒーローの名前の入ったバッジと「決して忘れない911」と書いてある野球帽をもらった。帽子はそのうち失くしてしまったが、どこでも野球帽をかぶっている癖はいまも続いている。
その後、事件で脚光をあびたジェニングス教授はホワイトプレーンズにある陸軍士官学校でも危機管理を講義することになった。そして、ブレンダはキャプテンに昇進したが事件後のNYのセキュリティーの低下をしきりに憂えていた。事件の後、多くの熟練したベテランが辞めてしまって新米ばかり増えたのでコミュニケーションもままならない状態が続いたらしいのだ。彼女をモデルにしたTVドキュメンタリーの撮影などで多忙な彼女はその後ホワイトハウスに出向することになった。
そのうち僕は帰国しようと思うようになった。あのウインターガーデンもなくなった。僕の大好きな不思議なスポットだった。夜のフェリーからみたマンハッタンの夜景もなくなってしまった。僕が最高にNYな雰囲気を味わえる景色だった。僕の中のNYイメージがもう何もなくなってしまったように感じのかも知れない。
帰国後、新聞社の女性記者が連絡してきた。僕は丁度10年前の1991年、ピースボートの世界一周クルーズでオマーン沖500キロのアラビア海で湾岸戦争に遭遇し、福井新聞にレポートを送ったことがあった(平成3年2月20、23日付福井新聞)。話題になったその人は10年後どうしているかという記事の取材だったようだ。今度のテロの印象を聞かれた。当時の1代目ブッシュ政権の情報戦争と今回の2代目ブッシュ政権のテロ報復戦争を比較すると僕自身の立場や見方がまるで違うことに気づいた。第三者と当事者のような違いにも感じていて記者が期待する内容とは違ったようで記事にはならなかった。
今年の冬、ジェニングス教授とブレンダからメールが来た。彼はホワイトプレーンズからジャンジェイに戻り再び教壇に立つことになった。退職したブレンダはヒラリークリントンの選挙事務所にいたりもしたらしいが、今回なんと芸術家に転身したことを知った。あのスチューデントリーグで絵を習っているという。そして今年日本を訪ねる予定があるというのでぜひ福井を訪れるようメールした。彼女との再会がたのしみだ。
「NEWYORK そして 911」
僕がNYに住み始めたのは15年前、45歳の時だ。911事件の後帰国するまでの9年間は僕の人生で特別の意味がある。毎日が波乱に満ちた冒険の日々の連続だったような気がする。
911事件のことを僕たちはナインワンワンと呼ぶ。セプテンバーイレブンとかナインイレブンというように普通に言わないのは911に別な意味があるからだ。911は米国のエマージェンシーコールのことで日本式には119番と110番をあわせたものだ。たとえば、人が倒れていて息がないことがわかると駆けつけた救急救命士は「コール ナインワンワン(誰か911番に電話して緊急出動を要請してくれ!)」と大声で叫び人工呼吸をはじめたりするわけだ。
この電話があるとNY市内(マンハッタン、ブロンクス、クインーズ、ブルックリンとスタテンアイランドの5区をあわせた人口は約750万人)のどこにでも5分以内に消防車が到着することになっている。消防車にはパラメディカルやEMTと呼ばれる救急救命士が同乗している。ほぼ同時に警察も現場に到着する。
車で渋滞したNY市内の大通りをどうして5分で現場に到着できるのか不思議でならないのだが、僕がクラスメートの女性消防司令ブレンダの指揮する21番はしご車隊に同乗させてもらった時はちゃんと5分で到着したのには驚いた。現場では消防士の周りを若い女性の旅行客が取り巻き写真の放列。消防士はヒーローなのだ。
ブレンダはFDNY屈指の有名人。伝説の女性消防士だ。全米女性消防士協会の代表である彼女が日本の消防庁から招待された際、担任のジェニングス教授に紹介されて彼女の訪日準備を手伝った。それから3人で食事をしたりするようになった。
これに反して警察官は結構嫌われている。当時、ラドニーキング事件(黒人を白人警官が暴行しているビデオがマスコミに流れ、その警察官が陪審で無罪となったことをきっかけに大きな黒人の暴動に発展した事件)などの問題があった。NYでも無防備なアフリカンの黒人青年を過剰反応した警察が数十発もの銃弾を浴びせて射殺した事件が起きて暴動寸前にまでいたったことがあった。
クラスで先生がその事件のことについてNYPD(ニューヨーク市警察)の学生に意見を求めたことがあったが、彼らは決してしゃべろうとしなかった。我々のクラスでさえ緘口令がひかれていたのだ。
当時僕はCUNY(ニューヨーク市立大学)のジャンジェイ校大学院でプロテクションマネジメントという消防・防犯・防災に特化した危機管理を専攻する大学院生だった。全米唯一の特殊な専門学科で僕が最初の日本人卒業生だ。周りの院生は現職のNYPD、FDNY(ニューヨーク消防署)、FBI職員や会社のセキュリティーマネジャーなどがほとんどだ。
CUNYは学生教職員総数25万人を擁する巨大公立ユニバシティーで20校ちかくのカレッジで構成されている。さまざまな分野の専門大学の集合体だが、元NYポリスアカデミーのジャンジェイ(米国の初代司法長官名を冠している)はおまわりさん学校として有名で地元のニューヨーカーなら大抵知っている大学である。そのとき僕は渡米して8年目、そこが3番目の大学で、もうすっかりここの生活になじんでいた。
僕は卒業後1年間有効なプラクティカルトレーニングビザで滞在する間、コミュニティスクールの一般社会人が学べるコースでEMT試験のための緊急医療講座を半年受講した。その後、ルーマニア人の友人エイドリアンと彼の長距離トラックでアメリカ大陸横断をしたりルーマニアに旅行していて、マジソンスクエアガーデンで行われる卒業式には出なかった。ゆっくり仕事探しでもしようと思っていた矢先に事件は起こった。
僕のアパートはクイーンズのアストリアというギリシャ人の多い地区にあった。2001年9月11日のその日はお昼近くまで寝ていたのだがバンクーバーに住んでいる妹からの電話で起こされた。NYのワールドトレードセンター(WTC)ビルがアタックされたと言われ、半信半疑でTVのスイッチを入れるが、メジャーなチャンネルは軒並み見えない。インターネットで朝日新聞を見てWTCの崩壊する写真で事の重大性を知った。
WTCには主要なメディアが入っているので多くのTVが見えなくなっていた。マンハッタンに住んでいる友人に電話すると、彼等はNHKを見ているという。日本からの連絡もつきにくくなってるらしいし、NYCやNJ方面も連絡できないところがあるという。
マンハッタンのダウンタウンでも音も聞こえないし、とくに大騒ぎの様子もないが、交通遮断されているので、人が皆歩いているという。こういうときはTVやインターネットにかじりついているのが一番よい方法だと考えてずーっとそうしていた。僕の担任のジェニングス教授がエマージェンシーレスポンス専門家としてテレビでインタヴィユーをうけている。メディアは第二のパールハーバーだとさかんにいっている。
考えてみると、1993年に渡米してすぐWTC爆破事件があり、その後、セキュリティーを勉強することになったのだが、帰国前についにそのWTCが破壊されてしまうなんて信じられないことが起こった。クラスの講師を勤めたことのあるWTCのセキュリティーディレクターの彼はどうなったんだろうなどと考えた。後日彼は直後死亡したことが報じられた。
事件現場で先頭で指揮をとり続けたのはジュリアーニ市長だ。一連の企業汚職事件摘発で頭角を現した検事出身の市長はまさにこのような緊急事態に備えて連日訓練を欠かさなかったことを後日語っていた。僕は連日市立図書館にこもってニューヨークタイムズの記事の事件発生から72時間以内の全ての記事に目を通した。そして市長の足取り追跡した。
テレビを見ていると、ジュリアーニ市長の隣にはブッシュ大統領が立っていて、民主社会を脅かすテロリストはなにがあろうと必ず処断するぞといきまいていた。敵に宣戦布告することはこのニューヨークを再度敵のターゲットにする危険にさらすことになる。敵も味方も皆一緒に住んでいるのがNYというところだ。
市長は市民に熱くこう語りかけた。そもそもテロリストのアタックを防ぐことなどできないのだ。だからNYはそれ以上に強くなければならない。いつものニューヨークは何が起こっても誰も驚かない所じゃないか。我々は充分強いのだから明日は何事もなかったかのような平常な活動に戻ろう。それをやりとげるのが私の仕事だ。テレビで私の顔を見てばかりいないで明日は会社や学校に行きなさい。
事件が起きてから初めてマンハッタンに出てのサブウエイの地下から上がってタイムズスクエア駅を出たとたん、周りの情景に全身の鳥肌がたった。街中のビルというビルや広告塔がが一つ残さず3色の星条旗のデザインで飾りつけられている。誰が言ったわけでもなく指示があったわけでもない。その中に立っている自分がまさにニューヨーカーであることを実感した瞬間だった。世界中の人間が集まり、いつもは各自別々のコミュニティがばらばらに存在するこのニューヨークが一瞬にして団結し自分たちが同じニューヨーカーであることに目覚めた一瞬だった。
消防士のブレンダと連絡を取ったのは半年も過ぎた後だ。彼女のチームの5名が死亡し司令として死亡した部下の家族との対応やグランドゼロでの捜索で疲れはてている間は連絡することもはばかられる状態だった。彼女の消防分署を尋ねたとき5人のヒーローの名前の入ったバッジと「決して忘れない911」と書いてある野球帽をもらった。帽子はそのうち失くしてしまったが、どこでも野球帽をかぶっている癖はいまも続いている。
その後、事件で脚光をあびたジェニングス教授はホワイトプレーンズにある陸軍士官学校でも危機管理を講義することになった。そして、ブレンダはキャプテンに昇進したが事件後のNYのセキュリティーの低下をしきりに憂えていた。事件の後、多くの熟練したベテランが辞めてしまって新米ばかり増えたのでコミュニケーションもままならない状態が続いたらしいのだ。彼女をモデルにしたTVドキュメンタリーの撮影などで多忙な彼女はその後ホワイトハウスに出向することになった。
そのうち僕は帰国しようと思うようになった。あのウインターガーデンもなくなった。僕の大好きな不思議なスポットだった。夜のフェリーからみたマンハッタンの夜景もなくなってしまった。僕が最高にNYな雰囲気を味わえる景色だった。僕の中のNYイメージがもう何もなくなってしまったように感じのかも知れない。
帰国後、新聞社の女性記者が連絡してきた。僕は丁度10年前の1991年、ピースボートの世界一周クルーズでオマーン沖500キロのアラビア海で湾岸戦争に遭遇し、福井新聞にレポートを送ったことがあった(平成3年2月20、23日付福井新聞)。話題になったその人は10年後どうしているかという記事の取材だったようだ。今度のテロの印象を聞かれた。当時の1代目ブッシュ政権の情報戦争と今回の2代目ブッシュ政権のテロ報復戦争を比較すると僕自身の立場や見方がまるで違うことに気づいた。第三者と当事者のような違いにも感じていて記者が期待する内容とは違ったようで記事にはならなかった。
今年の冬、ジェニングス教授とブレンダからメールが来た。彼はホワイトプレーンズからジャンジェイに戻り再び教壇に立つことになった。退職したブレンダはヒラリークリントンの選挙事務所にいたりもしたらしいが、今回なんと芸術家に転身したことを知った。あのスチューデントリーグで絵を習っているという。そして今年日本を訪ねる予定があるというのでぜひ福井を訪れるようメールした。彼女との再会がたのしみだ。