くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

お年玉

2019年02月06日 | Weblog

正月2日目も街に出た。ヌゲンシエン通りがハイチャンツウ通りに突き当たる角のマーケットのタクシー乗り場からニャチャンセンターまで100k。すぐにビーチに出て手ごろなベンチを探す。運動器具のある広場の後ろに日陰で風通しのいい石のベンチがあったので午前中はそこでスマホったり、ボケったりすることにした。

いつもはジョギングする欧米人や散歩や体操する年寄りが歩いていたりするビーチで、客待ちのバイクやビーチ管理スタッフが浜辺のビキニ姿の男女をぼーっと見ているのだが、テトとなるとベトナム人が家族でピクニックにやってくるのだ。ぼくの目の前にも15,6人の家族が芝の上にマットを敷いて車座になっておべんとうを広げ始めた。メンバー、特に女性をみると確かに北部のキン族の人たちとは違う。細くて、色黒で背が高くまるでインド人みたいだ。チャンパ系の人たちかなと思う。

ベトナム人は50いくつかの少数民族の集合体なのだが、ほとんどが北部中国系のキン族は大概小柄で成人でも中学生か高校生ぐらい。しかし北の中国系ベトナム人と南のクメール系ベトナム人は中部で熾烈な戦争を繰り返した歴史がある。メコン流域のクメール文化圏の女性は大柄で当時のチャム族はここで勝利してヒンズー教を信奉するチャム王国を作った。ニャチャンの観光名所にもなっているポーナガルチャム塔は昨年訪れた場所だ。ベトナム戦争で政治的に分断されたといわれる17度線というのは実は民族的にも文化的にも変わらない南北別々の国だったのだ。ベトナム戦争はアメリカがそれを利用しベトナム内戦を起こさせて東西対立の代理戦争を企画したが皮肉にもそれがベトナム統一のきっかけになってしまったということになるのだろうか?

そして、朱印船貿易時代に日本がホイアンに輸出した銅銭が銅剣などに鋳なおされてチャム族とキン族の争いに使われたということになる。すると日本の明治維新は薩長イギリス対幕府仏米の武器商人の演出だったという仮説みたい(西鋭夫にはまりすぎかな?)に日本も大東亜共栄圏なんかずっと以前にベトナムで儲けた日本の武器商人がいたということかな?史実はともかく、いろんなきっかけでいろんな空想を巡らすのは楽しい。

午後はビーチを南に歩いた。ニャチャンセンターから3キロぐらいでもう戻ることにした。その間、高級別荘が続いている。こんなところで2,3か月缶詰めになって昼はビーチでごろ寝して夜は執筆活動なんて作家がいてもいいな、、日本人ならこんなところでほかに何をしたらいいかわからないだろう、、、などと考えながら、、。

4時半ごろニャチャンセンターの3階でライムジュースをのみながら一休みしてまた、HOKKAIDO RAMENの店でサケの寿司セットを食べた。日本食としてまあまあかなという印象だった。150K(750円)。隣のロシア人らしきおじさんが寿司を何皿も実においしそうに器用に箸を使って食べるが印象的。ティン君から電話があり、ニャチャン大学の友人フック君宅で夕食を一緒にしようというのでタクシーでその友人宅へ向かった。

彼の2人の娘はよく覚えているが名前を思い出せない。聞いても覚えられない。お年玉を渡す、初め子供たちだけと思っていたが僕もティン君からもらった関係上フック夫妻にも渡したところおばあちゃんも出てきたのでバッグをさがししてやっと見つけ渡す。するとほかの友人家族がきた2人の子供がいる。もう子たちだけにしよう。袋には50K。これで10袋なくなったがあと10袋のこっているのでこれでなんとかなるだろう。

 

 

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