-熊本の川柳界で長年尽力された方(その1)-
1892(明治25)年 東京生れ。東京帝国大国文科卒。
1922(大正11)年 五高教授として赴任、近世江戸文学など講義。
1927(昭和2)年 九州日日新聞に川柳壇を開設、選者となる。
1928〈昭和3〉年6月 NHK JOGK開局に合わせ、全国初のラジオ柳壇を開設。
1940(昭和15)年 熊本川柳会設立。
月刊「火山灰」 発行人 吉岡五竹、顧問 田中辰二。
五竹、急逝につき刊行途絶える。
※噴煙吟社の吉岡龍城・茂緒は、五竹の弟、静生は甥にあたる。
すくすくと竹は伸びたに風吹きて (弔吟 田中辰二)
戦後、熊大教授。退官後、尚絅女子短大講師。
1949(昭和24)年 県内各川柳吟社で、統合の機関誌を発行しようとする動きあり。
1950(昭和25)年1月 噴煙吟社創立大会(日奈久)を、大嶋濤明とともに開催。
60余名の参加。機関誌「噴煙」を発行。
同年5月 田中辰二は噴煙吟社を離れ、熊本川柳研究社を設立。
熊本市内、近郊の川柳人は、結果として噴煙吟社と二股をかけることとなる。
1966(昭和41)年 74歳で逝去。熊本在住44年、川柳活動40年余り。
今度行く先は零丁零番地 (辞世の句)
夫人 美喜子氏、辰二氏の意を継ぎ 熊本川柳研究会句集「ひと」1集・2集・3集を編集発行。昭和56年まで。(熊本市清水亀井)
熊本県立図書館3F第2閲覧室郷土新聞コーナーで閲覧可、貸出禁。
「鳴風」は俳号で、12歳の作品と伝えられる
稲の波鳴子も風になつている
からと聞く。
句碑
移り香にひかれ今宵の影をふむ 辰二
八代市松井神社境内 高さ1・60m自然石
昭和28年 八代川柳研究会建碑 筆者 田中鳴風
願い事叶った今日の禮詣り 辰二
八代市敷川内神社境内 高さ2・32m石灰石
昭和31年 金剛川柳句会建碑 筆者 田中鳴風
石段の数だけ濁世遠ざかり 鳴風
八代市春光寺境内 高さ1・75m自然石
昭和36年 八代川柳研究会建碑 筆者 田中鳴風
他に熊本市内に2か所句碑がある
「ひとと花」 辰二の川柳句より
鉢だけを我が世と思う花が咲き
咲きまじる花にも蝶の好き嫌い
引き算は悲しこれだけ税金か
つまみ食い「少し砂糖が足りないな」
コンパクト脚の太さはうつらない
------ 参考資料 -------
川柳 火山灰 通巻第二編・九月号 1940(昭和15)年
熊日「新・肥後人國記」豊福一喜 著 1951(昭和26)年版
熊本川柳研究会句集「ひと」 昭和34・52・56年
「拓本紀行・熊本の文学碑」 能 暘石 編 2008(平成20)年
「熊本で川柳を学ぶ一つの資料」 嶋本慶之介 編 2019年4月熊本川柳研究協議会発足時
資料① 県内川柳吟社・グループの現状
資料② 熊本川柳会の略史
資料③ 熊本川柳協会の歩み
資料④ 熊本川柳の夜明け 大正期から噴煙吟社を立ち上げた二人の指導者が亡くなるまで
1922(大正11)年~1970(昭和45)年 約50年の俯瞰図 2枚組
会員K (編集:莱浮)