熊本県川柳研究協議会(熊本川柳研)

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会員エッセイ

2021-08-28 19:52:10 | 会員エッセイ

   同級生は4月2日生れから 

4月から翌年の3月生れの人が同級生だと単純に思っておりました。

しかし、そんな単純な話ではないらしく、4月2日生れからが同級生だという話です。何で、と不思議がっていたら、ある時ラジオが教えてくれました。

おかげで、また一つ賢くなった気に。ただ、この手の知識は間を置くと忘れてしまうのが常です。素直な疑問とは「4月1日生れはどうなるのよ」でした。4月1日生れは、もう一級上の前年度の子供達と同級生になるそうですね。 

満年齢は誕生日の前日の24時に達するとかで、何時に生れようと関係なく4月1日生れは前日の3月31日24時に6歳となり既に6歳となっている子供達と同級生。4月1日からは新年度という思いと満年齢の組み合わせがちょっとパズルめいて面白いところでしょう。また同級生の中でも遅く生れたのに、早生れという表現はまた別の問題で正月を基準にした同年という昔からの表現法が、ややこしさに拍車をかけています。満年齢に達するの「達する」は知っておいて損はないと思います。長女は3月1日生れですが、満20歳で国民年金を払うとき2月分から入金を求められ、しかも受け取る時も2月からと説明されてキョトンのまま帰ってきました。とりあえず1日生れの人の月計算や、日時を指定した契約などは注意が必要かも知れませんね。

いつまでも同級生は同じ歳  しろ猫

 byしろ猫


戦前、戦後川柳人を育てた田中辰二(鳴風)氏

2021-08-23 09:31:01 | 川柳一般

熊本の川柳界で長年尽力された方(その1)

 

  

 

1892(明治25)年 東京生れ。東京帝国大国文科卒。

1922(大正11)年 五高教授として赴任、近世江戸文学など講義。

1927(昭和2)年 九州日日新聞に川柳壇を開設、選者となる。

1928〈昭和3〉年6月 NHK JOGK開局に合わせ、全国初のラジオ柳壇を開設。

1940(昭和15)年 熊本川柳会設立。

 月刊「火山灰」 発行人 吉岡五竹、顧問 田中辰二。

 五竹、急逝につき刊行途絶える。

 ※噴煙吟社の吉岡龍城・茂緒は、五竹の弟、静生は甥にあたる。

 

 すくすくと竹は伸びたに風吹きて  (弔吟 田中辰二)

 

 戦後、熊大教授。退官後、尚絅女子短大講師。

1949(昭和24)年 県内各川柳吟社で、統合の機関誌を発行しようとする動きあり。

1950(昭和25)年1月 噴煙吟社創立大会(日奈久)を、大嶋濤明とともに開催。

  60余名の参加。機関誌「噴煙」を発行。

  同年5月 田中辰二は噴煙吟社を離れ、熊本川柳研究社を設立。

  熊本市内、近郊の川柳人は、結果として噴煙吟社と二股をかけることとなる。

1966(昭和41)年 74歳で逝去。熊本在住44年、川柳活動40年余り。

 

  今度行く先は零丁零番地 (辞世の句)

 

 夫人 美喜子氏、辰二氏の意を継ぎ 熊本川柳研究会句集「ひと」1集・2集・3集を編集発行。昭和56年まで。(熊本市清水亀井)

 熊本県立図書館3F第2閲覧室郷土新聞コーナーで閲覧可、貸出禁。

 

 「鳴風」は俳号で、12歳の作品と伝えられる 

  稲の波子もになつている 

からと聞く。

 

句碑 

  移り香にひかれ今宵の影をふむ  辰二

    八代市松井神社境内 高さ1・60m自然石  

    昭和28年 八代川柳研究会建碑 筆者 田中鳴風

 

  願い事叶った今日の禮詣り    辰二

    八代市敷川内神社境内 高さ2・32m石灰石 

    昭和31年 金剛川柳句会建碑 筆者 田中鳴風

 

  石段の数だけ濁世遠ざかり    鳴風

    八代市春光寺境内 高さ1・75m自然石   

    昭和36年 八代川柳研究会建碑 筆者 田中鳴風

 

  他に熊本市内に2か所句碑がある 

 

 

 「ひとと花」  辰二の川柳句より 

  鉢だけを我が世と思う花が咲き

  咲きまじる花にも蝶の好き嫌い

  引き算は悲しこれだけ税金か

  つまみ食い「少し砂糖が足りないな」

  コンパクト脚の太さはうつらない 

 

 

 ------ 参考資料 -------

 川柳 火山灰 通巻第二編・九月号  1940(昭和15)年

 熊日「新・肥後人國記」豊福一喜 著 1951(昭和26)年版

 熊本川柳研究会句集「ひと」 昭和34・52・56年

 「拓本紀行・熊本の文学碑」 能 暘石 編 2008(平成20)年 

 「熊本で川柳を学ぶ一つの資料」 嶋本慶之介 編 2019年4月熊本川柳研究協議会発足時 

  資料①  県内川柳吟社・グループの現状

  資料②  熊本川柳会の略史

  資料③  熊本川柳協会の歩み

  資料④  熊本川柳の夜明け 大正期から噴煙吟社を立ち上げた二人の指導者が亡くなるまで 

       1922(大正11)年~1970(昭和45)年 約50年の俯瞰図 2枚組  

 

 

                           会員K (編集:莱浮)


八月の長雨

2021-08-16 08:48:39 | 川柳一般

日本中こんなに永い八月の雨はめずらしいようです。被害に遭われたかたにはお見舞い申し上げます。手元から雨の句をひろってみました。(Y)

雨の日はせっせせっせと羽根を編む  奥村みつこ

雨天決行 体内時計熱くして     長島 敏子

雨は降る男ひとりを生贄に      小田切 南

ワイパーをメトロノームにして歌う  福田 好文

雨しきり今日は懺悔の日としよう   星野睦悟朗

土砂降りにワイパーの気が荒くなる  岡 さくら

天国の階段見える雨上がり      山田 恒

軒先に美女など来ない雨宿り     渡辺たかき

謝ってようやく晴れた通り雨     伊田 網人

身にあまる水はおとしてきた柳    田村ひろ子

かるく目をとじ長雨のなだらかなり  菅原 和子

秋は愛 雨の中ゆく雨やどり     加藤 知子

 (雨の中の白百合 写真提供は和巳さん)


西郷かの女

2021-08-11 06:31:51 | 川柳一般

「川柳 くすのき」125号 (H30.4.1)に発表されたものを転載します。なお、同掲載は縦書きで、改行も原稿どおりではありません。編集も少し変えてあります。

凛として 女として 火と水を意識した

西郷かの女(さいごうかのじょ) 1928年(昭和3年)~2014年(平成26年)

                                                                                                            黒川 孤遊

新潟県十日町市は豪雪の町である。2㍍を越える雪が降る。この町で86年の生涯を閉じた。「現代川柳『新思潮』」128号の巻頭句が最後の作品。

凛として眉あげていますとも

乱れてはならぬならぬと夏木立

体調がすぐれぬ自分への叱咤とも思える句が目を引く。昭和28年ごろ川柳を知り、後に川上三太郎に師事。いらい60数年を川柳と歩んだ。学業で東京に住んだだけで帰郷、水月寺に嫁いだ。そのころの句だろう。

しきたりの違う鰯を焼いている

花一輪動かしている嫁姑

寺の妻 箒の先の沙羅双樹

最初の句集は「輪廻」(昭和33年)第二句集「凡夫青天」(平成4年)。そして平成26年の「冬の陽炎」(あざみエージェント刊)が最後の句集となった。14、5年前から体調を崩し、入退院を繰り返していたが「冬の陽炎」の最終ページには

ほのぼのと灯る私の現在地

前ページには

いのち燃えつきる日の花筏

一片のはなびらとなりさようなら

と「その日」へ到るのを見据えた句をもってきている。そして

病み臥して合せ鏡を遠ざけり

蝉の一生私の一生風ばかり

墓碑銘はまだ決まらない芒の穂

これらからは、病にありながら川柳を手放さなかった凛とした姿が読み取れる。

かの女には「火」「水」の句が目に付く。

水を汲み火をくべ今日を乱れまじ

廊下隔てて水のいのちと火のいのち

火も水も私の橋を渡れない

こっそりと梯子を降りる炎を抱いて

新思潮の矢本大雪は追悼文で「火は、自らの性ゆえに、絶えず対極にある水を思わずにはいられない。水は火を意識しないが、火は水を強く意識する(中略)内側に燃え盛っていた炎をさらすことなく、句の中で披歴することだけが彼女の矜持だったのだ」と述べている。

一方でこんな句もある

我儘な花をいっぱい飼いながら

驚くな虫百匹を従えて

行きまする足袋の小鉤ももどかしく

生きて物狂いとならむ乱れ髪

かの女が主宰した十日町川柳研究社代表、松田ていこは「川柳も外見も芸術品だった。そして子どものようなかわいらしい一面もあった」と話す。言い換えると「世離れした女」だったのだが、そこからうかがうことのできない「情熱的な女」がいたのだ。

水月寺前、智泉寺の一角に師・三太郎の句碑「しらゆきが くるくる ふるさとの さけぞ」が立つ。かの女が十日町の仲間と建立したものだ。三太郎はかの女を「敏感にして暢然」と評したという。

                                                資料を整理していると、かの女が何かに書いていたのをメモしたものがあった。

「多くの川柳人は始めは時事川柳その他の新聞川柳から入門してきた人が多いが、これらの川柳に満足できなくなる。ここで初めて自分の川柳の進むべき道を考える。難解句も三度読んでみると作者の意図するものが大いに解るし、解らなければ感じればよいと思う。読者と作者の想いが違っていても、それでいいのではないか」

「新思潮」の追悼欄に「愛着の一句」として紹介さている句は

あの星の隣の星になりたくて