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柳と柳田の「民」の交差するところ


神奈川近代文学館「「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ」」のつれづれに

民俗学の柳田國男(1875-1962)と民藝の柳宗悦(1989-1961)。

この二人の大思想家、昔、「民」と「柳」が同じと言うだけで、
自分の中では何となく同じジャンルに区分されていたことを白状しておきます(苦笑)。
と言いつつ、どちらも東京帝大出の文学青年だったり、
30代半ばで本格的に「民・・」の活動をスタートさせたり
(「遠野物語」柳田35歳、柳が「民藝」という言葉を創案したのは36歳)
と言った共通点も、ない訳ではない、のです、はい...。<無理矢理

その14歳違いの両者ですが、雑誌「月刊民藝」のための対談を1940年と言う微妙な時期に、
しかも式場隆三郎の司会で行っているそうだ(柳が対談に招いたということですね、式場は編集長)。
ところがこの対談、どうもあんまりいい雰囲気にならなかったらしい。、
そして、それ以降、ほぼ同じころに亡くなるまでの間、両者はついに接点を持たなかったようだ。
おなじ「民」の中にある「もの」や「こと」、「ことば」に着目し、
しかも国粋主義の盛んな戦中に伝統と言う危険なテーマを取り扱っていた両者が、
それぞれの学問が自由に羽ばたいた戦後に交流しなかったのは、何とも惜しい気がしますね。

*対談については、詳しくはリンク先のBLOG「田原書店外伝」の20070902の記事を参照。

ところで柳田が貴族院の書記官を辞めたのは44歳の時だそうだが、
柳も同じく貴族院の書記官だった、という記述をネットで見かけた。
であれば、結構な共通項があることになるが(我田引水?当時の帝大出なら当然の進路かも)、
日本民藝館のHPにある略歴などでは、役所勤めのことは書かれていない。
となると、卒業後、柳は宗教哲学の研究だけで御飯食べれていたのか知らん??
まぁ、柳田と違ってなかなかの資産家だったらしいから、働く必要はなかったのかもしれない。
(京都大学HPの記述によると、1919年に東洋大学教授に就任している。
 ただ、1923年の関東大震災で被災して京都に移転したそうなので(1924)、
 その時点で教授職は辞したのかもしれない)
そして一見なんだか貴族的なイメージの柳田、実は生家は知識階級でありながら貧しく、
苦労して勉学に励んだというのはちょっと意外。
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